池の平の楽しみ方を紹介します。
先ずその1 花を愉しもう。
(1)7月20日ころまででしたら、仙人峠から池の平小屋までは一名『かたくり街道』といわれるくらいのカタクリの花が、みなさんの足とでほほ笑んでくれることでしょう。また7月下旬になりますと、小屋から展望台(小窓雪渓に通じる鉱山道)への道沿いの茂みのなかにも清楚な姿をたたずませています。万葉集のなかに、カタクリを詠ったものがありました(大伴家持)。
もののふの 八十娘子らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子(かたかご)の花
歌の意味は、大勢の娘たちがきて、水を汲んでいる 井戸の傍らに咲くかたかごの美しいことよと、ありますが、当時は今のカタクリのことを堅香子(かたかご)と呼びならし(異説もあるようです)、愛でていたようです。ユル科のこの植物、なかなかしたたかで、蟻に種子を巣穴に運んでもらい、生存分布を広げているようです。岩手の西和賀町には、白いカタクリが頻度よく咲く場所があるそうです。
(2)カタクリと入れ代わり、つぎにシラネアオイが咲き出しますと、『かたくり街道』もいよいよ忙しくなります。仙人峠近くにはツツジの仲間が、樹林帯に入るとキヌガサソウ、サンカヨウ、ショウジョバカマ、シラタマノキ、ゴゼンタチバナ、マイズルソウなどが登山者の目を愉しませてくれます。
小屋横の雪が融け、チングルマが咲き出すと、池の平小屋周辺は一気に、夏山の世界です。
日当たりの良い、水源地近くの道の脇ではニッコウキスゲが1番に黄灯をともします。また、展望台へ向う南向きの大斜面は、「キスゲが原」と呼べるほどにニッコウキスゲの大群落が素晴らしい。
先ずその2 池の平山 の展望と花を愉しもう(登り90分、下り60分) 草原の山では、あなたも、気分は ハイジー ♪♪ランラ ランラ
(1)長年登山者の眼をはばかってきた池の平山(南峰2555m、なお北峰2561mへはザイルが必要です)は昨今まで、池の平小屋関係者の保護もあり、高山植物の宝庫です。
たいていの高山植物は、この山で観察できることでしょう。ドッシリと池の平の地に腰を下ろし、素敵なお花たちと展望、そして雷鳥との出会いを愉しんで頂ければと思っています♪。
(2)池の平で珍しい、貴重種といえば、3種類上げられます。ハクサンコザクラ(オオサクラソウかもしれない)、これは昔は沢山観察されたようですが、今では、池の平小屋の水源の辺でしか観察されません。また貴重種としては、食虫植物のムシトリスミレが2ヶ所で観察されます(ほんの僅かです)。さらに1ヶ所でモウセンゴケも観察地があります。大切に守りたいものです。
先ずその3 池の平の、トンボ、チョウを愉しもう。
江戸時代の絵地図には、現在の平の池のことを、「剱池」と書いていると、池の平小屋の、長年のお客様の上田穎人さんからご指摘がありました。富山県立図書館の館長を長く勤められた広瀬誠さんのご研究の成果ですが、この剱池には高山性のとんぼ『ルリボシヤンマ』が沢山棲息しています。その飛んでいる姿は優雅で、しかも躍動感にあふれ魅了されます。
その他に、オオアオイトトンボはじめトンボが3種確認されています。また蝶の仲間も8種ほど確認されています。南方からはるばる移動する『アサギマダラ』 も8月はじめから9月末まで、小黒部谷の斜面で生活しているようです。
先ずその3 撮影場所のポイント ギョウサンアリマッセ!
池の平小屋周辺の紅葉は圧巻です。例年9月末から10月7日前後が見ごろでしたが、ここ数年1週間ほど遅れてきているように感じられます。2006年は10日過ぎ、2007年は14日過ぎが盛りでした。小屋近くの撮影場所としては、@小屋裏の広場でも充分。A展望台(鉱山道を20〜30分あるいたところ)。B池の平山(テント場横から直登、20分も登れば樹林帯が切れ展望が良くなります。そこから30分登ると、仙人ヒュッテが見え、背後に五竜岳がそびえてきます。日の出はその横からですので、朝焼けの写真を狙うのであれば、頂上まで登らなくても好いでしょう)。C池の平小屋から5〜10分仙人山に登る稜線。D池の平小屋から登山道を少し仙人峠に戻ったところ、登山道脇にナナカマドがあるのでそれを前景に。E平の池(剱池)周辺、平の池(剱池)周辺には涸沢に負けないほどのナナカマド(タカネナナカマド・ウラジロナナカマド)やカエデ(ミネカエデ・コミネカエデ)、ブナ、ダケカンバ、ハンノキなど紅葉する木々が沢山繁茂しているのでその彩は見事です。その他としてF三の窓及び小窓(一般道では有りません)G仙人峠(私達はここを見返り峠と称しています、八峰が大きく見えます)H仙人山(仙人峠から池の平に向い右手の小道に入ります)。I仙人新道の途中(ベンチがあり、三の窓雪渓がみえるところ)。以上、10ヶ所がお薦めポイントです。
先ずその4 池の平といえば飛行機の「つるぎ号」です
池の平小屋はもともと、輝水鉛鉱(モリブデン・元素記号Mo)を採掘する鉱山小屋でした(詳しくは、小屋の歴史、年表を参照してください)。大正の初めのことです。
この輝水鉛鉱なにに使ったかといいますと、飛行機のエンジン用シリンダーの素材のひとつ、熱脆性(ねつぜいせい)改善の添加剤として使われたのでした。
「つるぎ号」の1号機は大正5年に完成。帝都の空をかけぬけました。
その後、順じ改良を続け6号機まで制作され、陸軍にも納入されました。
経営者は岸一太(医学博士)。鉱山会社は富山鉱業(小黒部鉱山)と呼ばれ、飛行機製作会社は赤羽飛行機制作所といいました。
これは飛行機製作を企業としてはじめた、民間人の会社としては第一号でした。後塵を拝したのは、海軍機関将校であった中島知久平が操業した中島飛行機制作所であった(富士重工業の前身になります)。
この件に関し、ご関心のもたれた方は、東京都北区の北区飛鳥山博物館発行の『ひかうき・ぶんぶん赤羽飛行機制作所とその時代』という、平成11年同名の企画展の図録を参照してください(同館では品切れのようですが)。
先ずその5 池の平おちこち話
山人や山の本よりの情報など
@ 田中ルートについて
池の平から、三の窓に抜ける(北方稜線)には、小窓雪渓を詰め、ほぼ稜線添いに南西斜面を登る。これを短縮する間道が田中ルートである。田中ルートの田中とは前々任の池の平小屋の管理人だった、田中正雄さんを指す。鉱山道から小窓雪渓に降り立ち、15分近く登り、左手のガレ場を攀じ、草付きの斜面で這いつくばり、ハイマツにすがる難儀なルートであるが、1時間近く短縮できるメリットがある。田中さんは‘92年に小屋の倒壊と運命を重ねるように病気で亡くなった。その折、『剱・池の平賛』という追悼集が有志により発刊された。そのなかで、S編集者より田中ルートが紹介され、田中さんの長年の山に対する想いを汲み、田中さんの名を冠にした。
しかし、ここで興味をそそられるのは、誰がはじめにこのルートを歩いたかである。
池の平小屋の年表には、大正の末に芦峅寺案内人組合が、鉱山小屋の廃材で山小屋建設、営業とある。私は『立山の平蔵三代』(寺村峻著・東京新聞刊)を読んだ、直感も含めて、初めて田中ルートを歩いたのは芦峅の山人衆ではなかろうかと推定する。
クマ、カモシカを追っての狩猟の時か、はたまた芦峅へ急ぐ時の抜け道(現在の北方稜線の)として、剱岳、立山の精通者たちは、我々とは違った目と感覚で、山を見、歩いたのではなかろうか。
A 山を喰らう
山を喰うとは、山のものを食べることを指す。池の平小屋のオーナーは米澤さんと言い、祖父の好作氏が初代の宇奈月町長のとき、諸事情で面倒をみることになった。その好作氏の一代記を読むと、昭和30年代の夏、願いが叶い池の平小屋に老躯を叱咤し池の平小屋に登った。その時の帰りのお土産は捕れたばかりのノウサギだった。
明治のころの山行報告や紀行文を読むと、カモシカ、クマ、ノウサギ、ライチョウを追いかけ廻している。貴重なタンパク源だった。また、銃を携帯して登山したくだりや、日本刀を背にし歩いた勇ましい登山者も居たとの記述もあった。ライチョウなどは現在では考えられないが、小石を投げつけて狙ったようだ。
仙人湯小屋主の高橋さんは、マムシ好きで捕捉し、ペットごとく飼い、求める登山者には食べさしているが、私が昭和40年代初め白馬で小屋番をしていたとき、山小屋に住み着いている巨大なネズミ(本当に大きいのがいます)を捕まえ食べ、その毛皮で手袋を作った猛者がいた
また昭和50年代はじめ、私が友人と、立山から槍ヶ岳までのスキー縦走のため、秋に下見と荷揚げ目的で2個の一斗缶を担ぎ、2日目に、スゴ乗越小屋に泊まった。
名古屋出身の若い方が一人で小屋番をしておられた。夜半、持参した数種類の果実酒を酌み交わすうちに、西川さんとかいう、無口な小屋番氏と気があった
突然、彼は重苦しい顔をして、悲しそうに語りだた。顛末はこうだった。
山小屋では、残った残飯などを小屋近くに穴を掘り埋めているが、ある日、残飯捨て場を窓越しにみていると、熊が残飯を漁っていた。普通の人なら脅えるのだが、西川さんは、その熊を可愛いとおもった。そして飼育しているような心持で、食べ物を残飯捨て場に置き、食べるしぐさを観察しては、その熊に親しみをだんだん募らせていた。
だがである、西川さんの恋慕?に呼応してか、秋口のある日、熊が台所の扉を突然にノックしてきた。そして、擁護者の西川さんを無視し、、我が家に入るように台所をうろつきはじめた。
ここで、はじめて西川さんは、親しき友人に畏怖を覚え、隠れた二階から、下界に連絡した。
熊はあっけなく、銃の前に倒れた。肉は応分に(3等分とか)分割され、猟師達は帰った。
友人を死なしてしまった、西川さんは落ち込み、懺悔しているところに私が泊った。
酒が回り、3人ともロレッが廻らなくなった頃、なんの前触れも無く「菊池さん、熊の肉貰ってくれませんか、私は食べる気になれないし、小屋に置きたくない」。「あっ、いいですよ、本当に貴重なもの頂いていいんですか」。一斗缶をボッカ中で、荷物は大変重かったが、味噌漬けされた熊の肉を頂き、私は心うきうき薬師岳に向った。
その後、三俣蓮華の小屋に着き、北アルプスの山賊と異名を取る、熊猟の名人、鬼久保善一郎さんに会った。「鬼さん、スゴで熊の肉頂いてきたのだけれど・・・」と、述べると「おう、スゴの熊な、あれ年寄りで、しなくて、まずいーて話しずら」。私は、有害駆除されて、一週間ほどしか経っていないのに、もう、山小屋関係者に知れ渡っていることに、北アルプスに生きる、山人たちの特異な連絡網に驚いてしまった。
北アルプスは国立公園という網で覆われ、一木一草採取禁止であるが、熊は気の毒に、登山者の目に触れると、最悪は有害駆除という名目で射殺、処分される。
この項は、昔『熊考』なる得体の知れない文章を書いた、熊好きの管理人が、作家熊谷達也氏の熊猟を営むマタギに題材をとった、『相克の森』を読みながら、複雑な気持ちで書いた。