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                             2008年、6月30日〜下山中の現在まで
                          

     朝焼けのチンネ

                     2012年5月9日  明日から2週間留守
 明日から2週間ほど家を空けるので、夏野菜の植え込みや、部屋の片付けや出発準備と予定していたら、労山の機関紙担当の知人から、4月中旬に送った写真容量が小さいので、急遽、池の平小屋関係の写真を再度送って欲しいとの依頼だった。バタバタ動き回っていたら、今度は、仲のよい飲み山仲間が来て世間談義。さらにまた、機関紙担当から、写真の追加がありオロオロしていたら、今晩は自治会の会議。いやはや、てんてこ舞の日となった。いまから、出発準備である。

 明日から、東京で少し用事を片付け岩手県釜石に。17日が中学の同窓会。19日は釜石の”アトラス山岳会”の創立60周年記念集会参加。空いた日はボランテァをと、予定をしている。
 その後は父の実家、岩手県奥州市で田植の手伝いで、5月26日まではこの欄は休眠となります。用事のある方は私の携帯に掛けて下さい。

                   2012年5月8日  従妹からの電話
 宅急便の梱包をしていたら携帯が鳴った。釜石に住む従妹からであった。連休後半、北アルプスでの悲惨な遭難事故のニュースをみて心配して掛けて来たものだった。お礼と、まだ入山していないからと伝え電話を切った。

 しかし、今回の白馬岳の遭難は残念でならない。だが、それ以上に、真摯に山に向き合い、命を粗末にしないでと諌めたい。白馬岳で3年小屋番として暮らし、その後20年ほど通いつめた山である。7月初めでも、吹雪で小屋の責任者の命を奪った山である。ましてや5月といえども、荒れ狂ったらたら厳冬期と変わらぬ牙を向けてくる。
 30数年前の連休、トッゼンに天候が崩れ、大雪渓を下山中猛吹雪となったことがあった。大雪渓には、吹雪きに翻弄され、命を奪われた野鳥が、おびただしく転がっていた。この時の、連休中の遭難者は10数人以上と記憶している。山には慎重に、慎重に対峙してほしい。山小屋を預かるものとして、心よりお願いします。

                     2012年5月7日  原稿とたつまき
 今日はあせって、朝から”山渓”さんからの依頼の原稿書きである。明日まで送らないと、その後私は留守になるので必死である。タイトルは「山小屋の管理人から見た一押しの山」。池の平小屋の管理人としては”池の平山”しかあるまいと、あれこれ目線を変え池の平山をアッピールする原稿と池の平山の写真も合わせ送った。原稿はOKだったが、私のプロフィールと私の写真も欲しいという要望には困った。容貌に自信がないので要望に応えれないのだが、是非ということで、4年前ほどの帽子を被った写真を送ったら「いい写真ですネ」と解釈できそうなお言葉胸をなでおろした。

 午後は疲れのでた足を引きずる畑仕事、つくづく「大地の生命力」には敬服される。

 昨日御在所岳から帰ったら、北関東で発生した”たつまき”の映像が目に呼び込んできた。なんとも残酷でやりばのない映像であった。北関東にはお客様や知人友人が多い。ひとり、池の平小屋でのボランティアを15年程してくれている、トミオカさんにお見舞いの電話をかけた。彼の家はコースから離れていたため被害が無かったが、実家の辺りは影響があったということだった。一棟土台から掬い上げられ、横転していたがその力、破壊力には恐怖感を覚えるばかりである。被災者の皆様には心よりお見舞いを申し上げます。

                   2012年5月6日 御在所岳登山と藤内小屋
 風邪薬を止めたせいか頭が軽い。朝6時40分家を出発。まだゴールデンウィーク中ということで渋滞が心配されたが、1時間丁度で、登山口の鈴鹿スカイラインの駐車場に着いた。車の込み具合は中程度であった。1時間で藤内小屋着。佐々木さん夫妻は下の小屋にさがり、今は娘さんと、そのご主人が小屋の切り盛りをしているが、居た々。馴染みのボランテァのみなさんも数名、大工や土方仕事に汗を流していた。去年手伝った新館への階段等は綺麗に出来上がり、また、懸案だったトイレも見事に完成していた。癌を患っていた老犬は亡くなり(昨年お盆頃)、代わりに成犬1頭に、小犬が2頭ジャレツイテいた。美味しいコーヒーを頂き、工事現場を覗いていたら10時近くなっていた。

 戻るのを約し、重い腰をあげ国見峠をめざし御輿をあげた。けっこう登山者が多い。”兎の耳”を過ぎると藤内壁がよく見える。一壁には4人取り付いているのが見えた。先行したガイド山行のパーティのようだ。40年も前の若き日のことが脳裏に去来した。鈴鹿に通いだして45年になる。その話を娘にし、「葉ちゃんは、ゼロ歳の赤ちゃんから来ているから、山歴30ウンヌン年だね」と大笑いとなった。確かに、娘は3歳8ヶ月で、夏の白馬岳を、猿倉から白馬頂上まで自分の足で完歩した経験があった(栂池への下りはさすがにダッコが多かった)。

 今年は鈴鹿も雪が多かったらしく、枝の折れている木も多かった。例年なら咲いている「アカヤシオ」は咲き出したばかり。ツツジが僅かに咲いているくらいで花には縁遠い山行となった。山頂に近くなり、氷雨が降り、強風となり雷まで威嚇はじめた。暖をもとめ山頂のロープウェーイ駅に逃げ込んだ。沢山の人がみえた。娘と「カレーうどん」をほうばり、売店のおばさんと歓談。「強風でロープウェーイが止まったら、駅に宿泊するのですか?」。彼女はキッパリ言い放った「歩いて帰ります」。

 一時間ほど休憩し、来た道”裏道”を下山する。今日も山岳ランナー2名と会った。馴染みの一人に声を掛けた「今日も2往復ですか」。素敵な笑顔で「先週膝を痛めたので今日は此れで終りです」。「じゃ〜」。この会話、もう数年続いている。1時間ほどで、藤内小屋に。またまた、みなさんと歓談。工事の様子を写真におさめ、今月末から6月にかけ2〜3度来ることを約し、満ち足りた気持ちで下山する。今度は大工仕事で入山だ。無事駐車場へ。心配したが、まあまあ歩けた。此れなら、あと1ヶ月トレーニングすれば何とか小屋明けに間に合いそうだ。心配していた娘も快調だった。聞くと、トレーニングジムに密かに通っているとのこと、親爺も負けていられぬと感じた。その後は、定例の温泉宿で汗をながし無事帰還した。葉ちゃんアッシー君ありがとう。


                     2012年5月5日 こどもの日
 ”今日で原発はゼロ”とマスコミは騒ぎたてるが、世論を焚き付けるのがマスコミの姿のように思えてならない。さて今日は子供の日だが近所から子供が少なくなりめっきり鯉幟の数が減ってしまった。その代わりといったら喩えが変だが、御近所の愛犬が増えたようである。しかも舌が廻りずらい名前の小形の洋犬ばかりである。

 本屋に行きなにか面白い読み物がないかと書架を巡っていたら、作家夢枕獏さんの山岳短編集『呼ぶ山』という本があった(発行・メディアファクトリー、2012年4月30日刊)。発行されたばかりである。これで、5月は楽しめそうである。

 4日の、夕方娘が帰ってきたら「お父さん体調ど〜お」と聞かれた。「まだ薬飲んでいるけれど、夜も寝れるようになり、体調もよくなったヨ」と返事をすると、「6日の日休みだから、山に行ってもいいよ」とのこと。さっそく、即答で「じゃ御在所岳にいこうか、藤内小屋もみたいし・・・」と、アッシー君を頼んだ。いよいよ明日は、6ヶ月ぶりの登山である。トレーニング不足のところに、風邪で3週間余のダウンは大きかった。畑で草取りをしても、立ち上がったときに、目眩や息切れがする始末で少々心配だが、行動を起さないことには何事も進まないので、歩けるところまで行くという覚悟である。今晩は初めて風邪薬を飲むのをやめた。薬に催眠材が入っており、目覚めが悪いためであった。

                   2012年5月4日 さわやかな風
 ここの所、昼は体調がいいので散歩、畑や庭の草取りを愉しんでいる。散歩ではわずかだが、ワラビ、ゼンマイ、ウドを採取できた。夕食の添え物にはうってつけの季節の味覚だ。そうしたら妻の友人からも、香り高い、タケノコと芹が届いた、いよいよ春万歳である。畑では、アスパラが威勢がよい。また、小屋での味噌漬け用のノビルも、グングンスクスク背を伸ばしている。

 今年は4月10日にツバメが来た。だが1羽だけだった。20日過ぎたら、2羽になり巣に出入りしていたら、そのうち他所のツバメが1羽覗きこみ、ちょっかいを出していたが、その内1羽も居なくなってしまつた。静かで寂しいことである。と思ったら、玄関が異様にバタついている、そーと覗いたらムクドリ3羽がツバメの巣に入ろうとしていた。ツバメの巣を襲ったのか(1昨年はカラスがツバメのヒナを咥えて逃げ去った)、それとも住宅難で巣作り場所を探していたのか、鳥の世界も喧騒が果てないようだ。

 庭に水鉢が3個ある。ひとつは菖蒲を植えている。5月の植物である。ふたつ目には水石を入れている。模様にきれいな石を河原や海で拾い、広口の鉢にいれ愉しんでいる。もうひとつには睡蓮を植えている。これから、早朝、白い花をひっそりと開く。心洗われるような気持ちにしてくれる花である。だいぶ汚れが溜まったので、ネットで掬っていたら元気にうごめくものがいた。手にしてみたら、トンボの幼虫のヤゴだった。大きさからしてアキアカネの仲間のようだった。「元気でネ」と、そーっと鉢の中に戻した。水鉢は楽しみも多いが、蚊がわくのが難点だが、ヤゴはボウフラを食べてくれるのが嬉しい。ヤゴの羽化が楽しみである。

                     2012年5月3日 憲法記念日
 昨日大きな荷物が届いた。香川県の名産物が4箱セットされていた。送り主はお客さんの山地さんだった。昨日の所に、4月の23日に嬉しい電話が2通あったと書いたが、もう一人が山地さんだった。私のブログを読んで頂いているようで、3月下旬から中断していたので、気にかけて頂きお電話を頂いた。心より嬉しいことであった。その時に「今度いつ釜石に行くの」と聞かれた。

 時間があったらまた、少しばかりボランテァをしたいと考えていたので「5月の17日に中学の同窓会があるので、10日くらいから帰ります」と答えた。実は、昨年ボランテァで釜石に行くとき、ブログを見ていた山地さんから、「被災者に届けて」と香川県の名産を依託され、担いで届けたことがあった。その時被災者の皆さんには大変喜ばれた。今回も「荷物重くて大変だろうけれど、菊池さん、被災者や知り合いなどに届けてナ〜」と嬉しいお電話があった。今回は重いので予め、釜石の従弟宅に郵送しておこうと考えている。

 昨日、同級会の幹事をしている佐藤君から便りがあった。「愛染山の山なみに残雪を見せ、甲子川(かっし)沿いの桜並木がようやく開花して遅い春を告げています」の書き出しではじまり、同級生80名中21名の参加申し込みがあったと書かれていた。この企画も、昨年5月ボランテァで帰釜したときに、4名の同級生が集った時に芽生えた。その日が愉しみである。今日で、池の平小屋のホームページも9割くらい更新できた。あとは、荷揚げリスト及び小屋明け計画表の作成。そして、完全にダウンした体の修復、アッそれに”山渓”から依頼された原稿も今週中に書かなければ。

                     2012年5月2日 あめの日の電話
 早起きの苦手な私であるが、風邪を引いてからはよりひどくなった。「お父さん電話」といって、足の調子の悪い妻が電話をかかえ2階にやってきた。「オハヨウございます。お休みのところすいません、山と渓谷社の○○です」。といった、元気のよい若者の目覚まし電話だった。「山渓」の7月号(今年)に、剣岳を特集するので協力をお願いします、と言う主旨のお電話だった。取材協力と言うと、、岩手で、葬儀でテンテコ舞いの時も携帯が鳴った。

 労山(勤労者山岳連盟)の機関紙担当の方からで、やはり協力を依頼された。また、先週の25日には、山岳ガイドとしても、山岳写真家としても著名な志水哲也さんからやはりお電話があった。今シーズン、ジックリ剱岳周辺に腰を卸し撮影するので宜しくとのことであった。欅平に新設されたビジターセンターのお手伝いも兼ねているようだった。

 また、4月23日は嬉しい電話が2通あった。一人は、宮城県在住の小野君だった。彼とは小学から二十歳ころまで縁浅からぬ仲だった。「オーイ、俺だ、小野だ。ようやく俺も仕事をやめた」と、のっけから、明るく吐露した。小野君は同級生で、よく彼の家で勉強をした。高校の時、五葉山に誘ったのは彼だった。東京オリンピックの頃は、彼の叔父さんが経営していた、東京蒲田の木造のアパートに同級生3名、各々に部屋を借り勉強をしていた。彼は大学受験、私ともう一人の古川君は大検を目指し、働きながら通信教育を受けていた。

 しかし、木造アパートは、東急電鉄勤務の若者のミスで火事となってしまった。それを期に、東京生活に幻滅を感じていた私は、焼け爛れた参考書を捨て釜石に帰った。釜石に帰った私は、板前をしながら山にのめり込み、その後、長野県白馬村に飛びこみ小屋番生活に入った。
 これは、母がよく話していたのだが、こんな時期に小野君は、夜中に、私の家の下に来て(私宅は団地の2階だった)、「あさと〜、あさと〜、早く帰ってこ〜い」と、可愛そうなくらい、私の名前を呼んでいたと言う。

 飲めない酒を飲み、私を想いだしたのであろうか。私にとっても、小野君にとっても人生が順調に進まなかった頃の、酸っぱい、いわば青春の蹉跌のひとコマであった。
 小野君は大学に入ったが、友人の車に同乗中、交通事故に遭い足に致命的な傷を負った。その後、宮城県の中堅の会社に勤め管理職をしていた。「俺も山に登りたいけど、足がな・・・」。もう前回会ってから20年以上過ぎてしまった。5月17日は、釜石で中学の同級会である。小野君は再会を待てずに、声を聞きたくて電話してきた様子だった。幼き日をまどろむのもいいものである。

                     2012年5月1日 メーデー
 今日は連休の中日「昔なら、ソワソワ家にいなかったね」と、妻に語り笑った。風邪薬が切れたので今日も通院である。風邪との御縁も、もう一息である。ながかった。

 話し替わるが、東京から帰ると、高知の「土佐アルパイン」の入交さんからお便りが来ていた。この便りは、本当は昨年10月はじめに、池の平小屋の私に届く予定のものだった。それは、入交さんの友人で、私の知人が、私宛に入交さんに依拠したものだった。「魔女の宅急便」を仰せつかった、土佐アルパイン一行のルートは早月尾根を越え、北方稜線コースで池の平小屋に辿るものだった。ところが、10月2日から山は雪。まれに見る荒天だった。厳しい岩稜地帯は通行止めとなり、やむなく下山となってしまった。早月小屋電話からは、残念の溜息が聞えてくるようだった。その便りが年を越え、届いたものだった。この日、お礼の電話をを入れると、北海道帰りの、お元気そうなお声であった。また、”土佐のいごっそう”のみなさん、池の平小屋でいっぱいやりましょう。

 また、先週、長野県須坂市在住のお客様の?本(まつもと)さんから、自著『山稜稜明』(発行者、栗田貞多男、2005年刊、定価2.800円)という写真集が寄せられた。見事な写真とともに写真解説も丁寧で魅了された。焼き物の古備前に造詣が深く、管理人と同い歳の?本さんは私を「同級生」と呼ぶ。そんな?本さんの写真集には、剣岳の写真も何点か挿入されており、ヘリで上山後はみなさんに喜んで手にとって頂きたいと念願している。

 さらに先日、福井県小浜市のお客様、村上さんから日本酒が2本送られてきた。病中見舞いのようなタイミングだった。「熱燗で、玉子酒にしてでも・・・かな」と左党の私は勘ぐったが、村上さんは、私の病を知るわけでもないので、ご好意としてありがたく受け取った。村上さんは古刹のご住職で、檀家の皆様から、法事の折などにお酒が献じられるとかで、自分は飲まないからと、もう6本目のご好意であった。村上さんは昨年は3度もお出で願った。今は、低い山でトレーニングされているようである。日本酒の好きな方、菊池宅に呑みにお出で下さい。

                     2012年4月11〜30日 悲惨な3週間
 年を取るとともに、免疫力が落ち、そして、私の場合皮膚の温度センサーが鈍くなってきていると感じる。例年小屋明け入山では、ビッシリ汗をかき上る。そうすると、数日身体が暑く半袖で過してしまう。仲間達は「菊池さん寒くない、1枚着たほうがいいんじゃない」。いわれて、寒さを感じ羽織る次第。岩手では零下の日が続き、沢山着て養生していたが、東京に着いたら、めっぽう暑く薄着で夜桜見物を3日してしまった。下半身に、寒さを感じつつである。

 家に着きホッとしたら咳が憑いてまわった。そのうち夜になると、間段なく、数分おきに咳が襲い寝れなくなった。2度病院にいって診断、薬をもらったが回復しなかった。3度目に薬を変え、吸引をし、さらに特定疾患の検査などをした。3度目の薬でいくらか寝れるようになり、楽になったが、まだ夜になると咳が止まらないしまつ。入山前のトレーニングの時期だけに焦ってしまう。明日も通院である。

                     2012年4月11日 我が家へ
 東京では、土曜日の夕に息子夫妻と目黒川沿いの桜並木を愛でた。見事な桜だった。その晩は息子宅にお世話になり、翌日はまた3人で靖国神社沿いの桜を堪能した。しかし、両日とも、夥しい花見客の多さに翻弄され少々疲れてしまった(ほんとうに花見の時期はどの公園も混んでいますね)。仕上げは、銀座の桜を瞰下に美味しいコーヒを愉しんだ。その後、2日間、防衛研究所図書館に通ったが、研究所入り口の桜も見事で、桜吹雪を浴び、快くその下を歩いた。JRの切符の都合で11日に家に戻った。
                        


                     2012年4月6日 東京へ
 5年前の叔父の葬儀の時は、池の平小屋に上がっていたため出席できなかった。そのため江刺での葬儀は初めてだった。10数軒の集落は、”結い”と呼ばれる、親戚以上の絆で結ばれていた。初七日の4月1日まで色々としきたりがあり大変であった。近所の奥様達数名は、朝6時頃から顔をみせ、来客や我々の三度の食事の用意もしてくれた。また、この1週間は吹雪きあり、氷雨ありという凍て日続きだった。最近は、この地にもハクチョウが沢山訪れるらしく、朝はハクチョウのけたたましい鳴き声で起された。葬儀の日、バスで30分ぐらいの式場まで向かうのに、周りの田圃にいるハクチョウを数えたら、50数羽観察できた。

 また、式場近くからは、美しい焼石連峰の山なみが、まだまだ雪をたくさんまとい、白く輝いていた。4月5日、兄は送別会といって、私も知っている近隣の仲間2名を招き小宴を開いてくれた。たまたまこの日は、私の67歳の誕生日だった。この地区の農家はいずれも牛の繁殖生産を生業として居る。此の日は牛の飼育談で盛り上がった。翌日6日、兄に見送られ東京に向かった。

 岩手では連日の降雪に震えていたが、上野駅に着いたら桜が満開であった。早速南千住の定宿に向かい、その後、気になっていた散髪を済ませた。あわてて、家をでたため頭はボサボサであった。床屋をでると、目の前に「東京スカイツリー」が目の前にドーンとあった。「なんだ、近くなんだ、チョット行ってみよう」ということで、ズンズン歩き出したが、なかなか大きさは変わらず、距離は縮まらなかった。30分も歩くと、大きな川に出た。両岸とも桜並木で、花見客も大勢いた。川には屋形船がみえ、江戸時代にタイムスリップしたみたいであった。カメラを抱えた方も多く見え、一人に声をかけた。

 「この川はなんという名前ですか」。その刹那、その紳士然は憮然としたというか、あきれた顔をして、見下すように「あんた、どこの人、どこから来たの」と切り替えしてきた。この田舎者という顔であった。昭和3〜40年代はこのように元気な江戸っ子が沢山いたが、久し振りの江戸気質に出会ったような気がした。予感していたように、風流な川は隅田川であった。桜並木、その向こうに船が行き交い、そのまた、反対岸も桜並木。それらを前景に東京スカイツリーがスッキリと背筋を伸ばしていた。ボンボリがゆれ東京は春爛漫であった。

                     2012年3月28〜4月6日 1年ぶりに岩手へ
 先月27日、散歩中に携帯が鳴った。岩手・奥州市江刺に住む兄(実際は従兄)からであった。伯母さんが亡くなったという知らせであった。享年96歳、死因は大腸がんであった。翌日28日は、私も期する所があり、胃カメラや内臓エコーの検査日であった。3日ほど前には、肺や心臓の検査も済ましていた。検査は午前中だったので、終ると同時に喪服を抱え新幹線に飛び乗った。奥州市江刺は父の実家、いわば本家である。

 新幹線「水沢江刺」駅に着くと甥ッコがまっていた。昨年5月にも、農作業の手伝いに来ていたので1年振りの再会であった。話し好きで、明るい甥ッコの連射を15〜20分も聞いていると、不在中の出来事が把握できるから不思議だ。伯母は初めての入院生活であったが、50日丁度闘病され亡くなったという。一昨年までは新聞も読み、元気に冗談も語っていたが、昨年は少し足腰も弱り、記憶も衰えてきていたので心配していたところだった。

 私の生まれ住んだ釜石の山側は、急峻な山々に囲繞(いにょう)され谷底に僅かに開けた里だった。オーバーに言えば、黒部峡谷中の切り明け地で昼の短い生活をしていたことになる。反面、父の実家江刺は、周りは自然豊かで田畑に囲まれ、開けた少し高台からは、四囲の展望は素敵だった。附近には藤原時代の史跡も沢山あり、宮沢賢治もよく歩いていたようである。小学低学年の夏に訪問してからは虜になり、夏休みなどは高校時代まで我が家のように通った。

 大柄で、賢く気転のきく伯母には大変可愛がって頂いた。2006年秋から、池の平小屋に入ると、「アサト、山は涼しいだろう、どぶろく造ってみたら」とニコット笑った。5年ほど前に亡くなった叔父(父の兄)は、たいそうお酒が好きだった。でも4〜50年前の実家は豊でなかった。そこで伯母は隠れてどぶろくを造り、叔父を喜ばせた。どぶろくは叔父の活力源だった。話を聞くと毎週のように仕込んだらしい。「なぁ〜に、あんなものは簡単なもんだ。作り方教えるからそこの紙に書け」。よこで聞いていた兄まで、「材料そろえるから持って行くか」と言う始末。私も真剣に考え「検討してみます」と返事したら、少し残念そうに「そうか」といった顔を想い出す。

                     2012年3月27日 
       岩手のほうに急用ができましたのでしばらくお休みします。


                     2012年3月26日 再びワンちゃん
 今日も散歩の話し。毎日3時まで資料の整理、まとめのため3時までパソコンに向かい、それから6時半から7時まで散歩をしている。今日もいつものコースを歩いた。一昨日(24日)、ワンちゃんが飛び出した場所に来ると、急なのり面に今日はヤギが3頭、草を食んでいた。2頭は子ヤギであった。この辺には時々ヤギがつないでいる。耕作放棄地などの草刈をヤギに依存しているのである。農家の方のアイデァだった。しかし今日はこのヤギの間から、一昨日のワンちやんが顔を現わした。「なんだ、あのワンちゃんはヤギ番だったのか」と思ったとき、あのワンちゃんが、のり面を飛び降り私の横にならんだ。

 声をかけると喜んで尻尾をふり駆け出した。そうして、一昨日のように先導しだした。奥池公園近くで、また心配になり道横のミカン畑に隠れた。しめしめ、どうやら今日も、煙りにまいたようだった。と、ミカン畑内を覗くと異質な小屋らしいものがあった。金網に覆われなかでバタバタ音がした。覗くとカラスが2羽はいっていた。有害鳥類駆除施設としての許可証がはられていた。カラスの駆除施設を見るのははじめてだった。12m平方程度の敷地に二つの屋根があり、屋根と屋根の間にカラスの侵入口が設けられていた。上から下に入ると、多数吊り下げられた針金がジャマになり逃げられないようになっていた。なかなかアイデァに富んだ労作である。感心してしまった。

その後は何時ものように、筋肉痛の足を引きずり、ハァハァ喘ぎ7時まで歩いた。健康の森はジッキング者や散歩の方が多い。子供も多く、羨ましくなるほど軽やかに走ぬいていく。今日は、岐阜や名古屋でもでも雪が降ったようで、日が陰ると冷え込み、家に着くと手がかじかみ動かなくなり困ってしまつた。年寄りはほどほどにしろということだろうか。

                     2012年3月25日 こぶしの花
 早いもので下山後、5ヶ月になる。下山後、低山を2度歩いたが、その後運動もしないで怠惰な生活をしていたら、5Kgも肥えてしまった。此の年齢になっても悟りは苦手で、たし算はとくいだが、引き算は苦手。脂肪の蓄積が増すばかりである。少し歩くと息がきれ、目眩がする。例年、今時分は後悔の海を航海する毎日となる。さて、今年の小屋明け時には、なんとか登れるだろうかという不安は尽きない。と、云うことで今日も3時間、2万歩、歩いた。昨日から、何時ものコース、プラス1時間としている。最終点は、愛知健康の森公園。運動器具やウォーキングロードが整備されている。

 散歩の途中、ヌートリアの子供を2頭目撃し、公園に着いた。その後、器具を使用して柔軟運動をし、腹筋運動をしていると、横にある鉄棒に一家族がいた。ご両親を前に、小学3年くらいの女の子が逆上がりの練習をしていた。女の児は泣き出しそうな顔で鉄棒に取り組んでいたが出来なかった。そのとき突然に、お父さんは逆上し、娘さんの足をけっていた。「なんで出来ないんだ、出来るまでやってみろ」、もうあたりは暗くなり始め、気温もさがっていた。お母さんは見てみぬ振りをしていた。

女の児は涙を流し鉄棒に向かった。私は、早々に次の器具のところに移動した。あの児はお父さんとの散歩や、運動嫌いになるのではと考えると落ちつかなくなった。次の場所には明るい家族が子供さんを中心に遊んでいた。
 その後、仕上げに大池を周回し、家路に向かうべく植栽の道を歩いているとコブシの木がみえた。よくみると、赤ちゃんのふくやかな手に平、拳ぐらいの大きさの蕾がいくつも灯っていた。あと10日もすると、知多のコブシも満開になるのではと思うと嬉しくなう。

                     2012年3月24日 ”相棒”のワンちゃん
 散歩しはじめて30分たったころ、薮のなかから中型の犬が飛び出してきた。オットと、身構えたが、吠えもせず、私の後方に付くと、5分くらい私のズボンの裾を嗅ぎまわっていた。その後、私の前に飛び出すと、案内犬のように振り帰り、振り帰り先導しだした。枝道が多いコースなので私が横に逸れると、畑中や、薮を脱兎のように韋駄天ぶりを発揮した。大変な跳躍力で、喜ぶように飛び回っていた。しかし、1時間ほど歩くと、大きな車道を3度横断し、公園も、2ヵ所通り抜けるので不安になってきた。

 公園への細い抜け道に来た時に、運良く犬を連れた方がきた。しめた、”相棒”はよそみ中。私はさっと藪に入り公園に飛び降りた。しめしめ、ワンちゃんは道連れを変えたらしい。
 昔話になるが、小学の時に授業が終り、通学路をはずれ、危険と云われていた土手道をひとり歩いていたら、1頭のヤギさんがあらわれた。逃げ出してきたらしく首に紐がぶら下がっていた。大人のヤギだったので怖かったが、ヤギさんは私を友人と見立てたらしく家まで着いて来た。しょうがないので庭の木に縛りつけ遊びにいった。遊び疲れて家に戻ると、お袋がカンカンだった。

 無理もなかった。お袋が大事にしている草花を、ヤギは美味しそうに食べてしまったからだった。「母ちゃんどうしたらいい」と聞いたら、「自分で考えろ」ということだった。私の結論は拾い物だったから、当然、警察に届けなければいけないと思い、交番までヤギを引っ張っていった。交番の小父さんは、少し考えた末、迷惑そうな顔をして、「ヤギを置くところがないから、今日は、お前のところで預かってくれ」。だった。しょうがないので、また嫌がるヤギを引っ張り家に連れ帰った。お袋が睨むので、こっそり玄関横の植栽のないところに繋ぎ、翌日登校のときヤギを引き連れ、人目のつかない耕作地から離れた荒地に離し走って登校した。帰りに、ドキドキして覗いたらいなかったので、子供ながら安堵の溜息をついたのも懐かしい思い出だ。

                     2012年3月23日 雨中の散歩
 隣市の本屋さんに頼んでいた本が入荷したとの電話があった。本屋さんまで歩いて30分弱。外は大雨である。鈍った身体を回復するには休みはないと考え散歩がてら歩いていくことにした。妻は「明日晴れるから、明日にしたら」と在り難いご託宣。「大丈夫雨具着てゆっくり愉しんでくるから」。
傘をさして歩き始めると、5.6歳の女の子が5人やってきた。私を見るなる大きな声で「こんにちは」とあっけらかんに叫んだ。「今日は」と返し、見ると、傘は4本である。「寒いから、風邪引かないでネ」というと「だいじようぶで〜す」といって駆けだした。爽やかな子供達だった。

 書名は「日米衝突の根源・1858〜1908」(渡辺惣樹著・草思社刊)、何故、太平洋戦争で日本とアメリカが戦ったのかが長年疑問だったが、昨年12月上旬の朝日新聞の書評欄に、私の疑問の答えのように取り上げられていたのが、渡辺氏の著作だった。でも其の頃は格別に忙しい時だったので放念していた。

 しかし、心の澱のように気になっていた。そこで図書館で書名を確かめ注文した次第だった。平和と平安、安寧というスタンスでじっくり読もうと思っている。
衣服は結構濡れていたが、気をよくして帰途についた。道は太田川という一級河川沿いの静かな道である。川の中を覗きながら歩くと、数羽のカルガモが悠然と流れを楽しんでいた。視力の衰えた私であるが、1羽、カルガモよりも悠然と、静かに流れをとらえ泳いでいる物がいた。あれはと思い、岸辺によって凝視するとヌートリアだった。潜航艇のように、低く静かに泳ぐ様は魅力的である。

まだ、知多半島でヌートリアが騒がれない25年ほど前、富木島大池でトンボを観察していたら、水面下で私を見つめるものがいた。鈍い底力からを秘めた眼光であった。其の正体を知りたく、仕事以外は富木島大池に張り付いた。3ヶ月目かで、写真が撮れた。イタチ、カワウソに似た体型であった。やがて、巣穴や子連れなどを観察しおおよその生態がわかった。いわば懐かしい生きものである。雨の日は雨日なりの楽しみ、発見があるものであることを再認識した。

                     2012年3月22日 散歩日和
 選抜も2日目、今日も東北勢の試合が予定されていた。翻訳の真似事をしながら、ラジオを聞き、応援していたが、残念ながら、期待の石巻工は惜敗してしまった。でも東北人の心根が感じられた、心に残る好試合だった。
 その後、2時間余り散歩にでかけた。6つの池を巡る畑中のコースである。一つ目の富木島大池は30年もの間、トンボを観察してきた池である。渡り鳥も大分姿を消し、コガモが数羽岸辺で羽を休めていた。
二つ目の真池は車道の傍の小さな池であるが、葦が繁茂し水鳥が好む環境である。よくみると、カワセミが葦につかまり水面を凝視していた。なにを狙っているのだろう。カワセミは小魚だけなくザリガニも好物で名ハンターぶりを披露してくれる。3つ目の山の脇池には水鳥も見えず静かだった。もう少しすると湖岸は桜に彩られ癒してくれる。

 1持間ほど歩いた先に佇む、4つ目の奥池は広く、県と市で整備した整然とした公園となっている。散歩する方も多い。しかし、私が訪れた頃は、夕刻で暗くなり始め、又冷え込みはじめたせいか誰もいなかった。池のほとりを観察していたら、動くものがいた。バンとヌートリアだった。バンは3羽確認した。ヌートリアは1歳にもみたない小柄な大きさで、芽生えたばかりの青草を、近くで見ている私をも気にせず食むでいた。
 ヌートリアは戦時中、その毛皮を兵隊さん用の防寒具に使用するために、輸入飼育された。終戦とともに放棄されたため、野生化し農作物に被害を与えるということで、今では有害駆除されている。愛知県での駆除が多いようであるが、戦時中の富山の新聞にもヌートリア飼育奨励の記事がでていた。動物は人間の勝手で移動され苦労している。

 帰り道、吉川稲荷という静かな社叢の横を通るが、そこに植栽された、桜が見事に花をつけだしていた。あと2週間もすれば知多半島も桜でまたされることと感じた。
 2時間歩き、家に帰ると、東京在の息子から京菓子が届いていた。なぜと訝かったが、私もあとわずかで67歳の誕生日。それの前祝かと納得し、妻と賞味した。

                      2012年3月20日 お彼岸
 「お父さん墓参りに行かない」という事で、菩提寺にでかけた。弟も来たらしく、花がそなえてあった。墓の周りを掃除していると、「オ−」と手を挙げてきた男がいた。「オー、久し振り」。「なんだお前のところここか、近くだな」。彼は健ちぁんいって、幼馴染の同級生だった。子供の頃から体がガッチリした健ちゃんだった。小学1年の2学期に、町のほうから、山手のほうに引っ越したため、私は転校した。しかし、高校に入ったらまた一緒となった。彼は中学時代の野球の芽を伸ばし、高校では岩手でもトップ級のピッチャーとなっていた。卒業後、当時、盛況だった或る大手炭鉱の野球部に勧誘され活躍した。

しかし、昭和40年代には、エネルーギ政策の転換の影響をもろに受け、炭鉱は斜陽産業に転落してしまった。彼は、その後運良く、新日鉄の野球部に入り活躍の場を得た。
 急に身体も、声も大きい健ちゃんは「アサト、墓も近いし、あの世にいってもよろしくな」とのたまった。
私の妻も、健ちゃんの奥さんも無言でキョトンとしていた。私も、不意の託言に言葉も出なかったが、笑顔で手をあげた。
                      2012年3月12日 映画「戦火の馬」
 妻からの「お父さん映画観にいこうか」ということで、スピルバーグ監督の新作「戦火の馬」を見ることになった。予告編を2度見ていたので、なんとなく、心をくすぐられていた。舞台は第1次大戦時のイギリス、それに戦場であった。

 話しが変わるが、ここ、15年ほど、池の平での、小黒部鉱山にて採掘されたモリブデンを使用した、飛行機「つるぎ号」の製作会社、「赤羽飛行機製作所」のことを調べている。
厳密に言えば、其の会社の工場長のことを調べている。彼は、第一次大戦終了間際の大正7から8年にかけ、当時、工業最先端だったヨーロッパの、電気炉など冶金関係の調査や買い付けなどに渡航した。スウェーデンを皮切りにイギリス、そしてパリでの講和会議中のフランスを訪れ、その後アメリカで2ヶ月程度調査をし、エジソンなどにも面会して、1年余の旅を終えた。

 彼は、男爵であるが、旅行中1冊のメモランダムを綴っていた。
ただ、旧字体の小さな字で書かれた草書体、また漢文あり、、スウェーデン語、英語、フランス語などが混ざり、半分以上は横文字と言った按配で、文字の確定や翻訳は進まず、辞典かかえての毎日であるが、この日記の背景が「戦火の馬」そのものであった。
 其の上で、日記と重ね”戦火の馬”を鑑賞したが、しっかり、堪能し満足した。なんらの理由を付けることなく、スピルバーク監督の映画は面白いのだが、時代背景を学んできただけに、より満足、納得してしまった。戦争と動物との関係については、長年資料を収集しているがいずれ纏めたいものとおもっている。

                      2012年3月11日 震災から1年
 この日は、静かに静かに一日を過した。

                      2012年3月10日 笹本稜平著小説「春を背負って」
 NHKのラジオ番組に「ラジオ深夜便」という番組がある。寝つきが悪く、不眠症気味の私はこの番組を、”ゆりかご”にしている。3月はじめに朗読の時間があった。
 笹本稜平作、「春を背負って」という小説を脚色した番組であった。山小屋とそこで働く、訳ありの小屋番達。そこに絡んでくる、訳ありの登山者達。を、爽やかに描いた番組であった。
思わず、起き上がり聞き惚れてしまった。早速書店にいって注文したら、10日に届いた。

 人情味溢れるストーリと、テンポのよさに引き込まれ、2日で読了してしまった。最近はドキュメント風のものしか読んでいなかったため、久し振りの小説であったが、「アッ、やっぱり小説はいいな」と思いを深くした。考えてみると、私が山に取り付かれたのは、小説からであった。高校時分に、執りつかれるように松本清張、井上靖の世界にのめりこんだ。

 松本清張の「遭難」、井上靖の「氷壁」、そして心打たれたのは、大仏次郎の「旅路」だった。大仏しはこの小説を書くために、針の木峠までいったという。その後、北杜夫の「白きたおやかな峰」の世界にも魅了された。以降、新田次郎、瓜生卓造氏らの文筆家が続いたが、両氏も黄泉の世界に旅立たれた。その意味で、笹本稜平氏の次作に期待したい。
”いでよ、山岳小説家!。”
                      2012年3月9日 確定・・・・
 天気もいいし、やる事もないから市役所に妻と遊びに行く。云ってみれば今年度の締めの行事だ。
年金暮らしの2人の〆は、アッサリ、スムーズに済んでしまったので、帰りは、本屋に行き、本コーナやDVDコーナーで品定めをしたあげく、なにも買わずにとスムーズな1日だった。

                      2012年3月7日 久ぶり
 昨日の演劇鑑賞会は、隣市の知多市勤労文化会館で開催されたのだが、そこで懐かしい人と会った。会場に早く着きすぎたので、フロアをウロウロしたあげく、受付横に張り出された知多半島の地図にみとれ、なにげなく事務室を覗いたら、見たことのある顔があった。マスクをし眼鏡をかけていたが間違いないと感じ「礼ちゃんじゃない」と呼びかけたら、向こうは訝しげな顔で私をみっめるだけだった。「俺だよ、アサトだよ」と言って帽子を取ったら、「なんだ、アサトか」。釜石時代(昭和40年ころ)、アトラス山岳会で一緒の先輩だった礼三さんだった。

 礼三さんとは不思議な縁で、彼はその後、私が山に導いた従妹宅に婿に入り親戚となった。
その後、釜石の富士製鉄の社業の関係で、民族の大移動と形容された、超大規模な配転で釜石の人々が名古屋製鐵所に大移動した。私の父も、従妹などの親戚も沢山、根こそぎ名古屋にやって来た。
 でも、私の両親の死去や、身内などの病気があり、ここ、10年程は年賀状だけの付き合いとなっていた。

 お互いに懐かしくなり立ち話に弾んでしまった。話したりなくなり、幕間の休憩時間もしっかり話し込んでしまった。スキー名人の彼を案内して、1度5月に、白馬岳に案内し、裏旭など、白馬山頂界隈を滑りまくったことがあったが、その後、彼は、山を止め、家族を守り、仕事に専念する生活にはいってしまった。いつか、一緒にハイキングでもできればいいのだが、体調が今一だという。

                    2012年3月6日 ゴーリキの”どん底”
 「ちた半島演劇鑑賞会」の例会で、劇団東演公演による”どん底”を観た。生の芝居は、少しニァンスが異なるが、昨年2月の宝塚以来である。指定席でないため、思い切り前で見た。
1番前の席での観劇と言うと、俳優の佐野浅夫さんを思い出す。
 昭和44,5年ころ、名演(名古屋演劇鑑賞会)の鑑賞会で劇団民芸公演があった。
私の指定席は1番前の真ん中だった。三交替の、夜勤帰りの疲れのなかでウトウトしていたら、佐野浅夫さんの声が大きく弾んだ瞬間、私の顔に、唾がビッシ、ビシット突き刺さってきた。私は「おー」という声を飲み込み、演劇とは、こんなに真剣に気合をいれて演じているんだと感動してしまった。

 今日のお芝居は、かの有名な、ロシアの文豪マキシムゴーリキ原作の「どん底」。この芝居を始めてみたのは、昭和35年の9月ころだった。我が家に初めてテレビが入った日だった。当時、我が家は遅くとも、9時になると、家族そろって就眠生活であった。中学3年の私は、家族が休んだ後も、テレビ付けていたが、9時半頃から始まったのが「どん底で」あった。目をこすり、こすり最後まで観たのが懐かしい。その後、他の劇団による公演鑑賞と原作を読んだことがあり、私にとっては社会勉強の魁となったゴーリキの”どん底”は、現実直視の思考法を示唆してくれたと思っている。

 今回の”どん底”は、演出が気鋭のロシア人ということもあってか、簡略化した舞台装置とテンポの速い、賑やかな構成演出で、グイグイ観客を引っ張った好舞台だった。
ただ、最近、耳が遠くなり、ある種の音質が聞えにくくなっている私には、聞えにくい声の俳優さんもいて、この年齢では、残念ながら、音響設備の良い映画のほうに魅かれるようになってきつつある。

                      2012年3月4日 梅の花
 雨降りである。何気なく庭をみていたら。霞んだ目の前の木が白い。よくみたら、雨の中、梅が花を咲かせていた。花びらに水滴がつき見事なアートだった。この梅の木、紅白の花をつける。これからが楽しみだ。昨年は10数個実もつけた。
 今日、NHK勤務の”友さん”からメールが届いた。昨年末に、ドラマ「坂の上の雲」のエンディングに出てくる、山の映像が気になり、分かったら教えて欲しいと、頼んでいた事の返事だった。
 見たことのある山容で、ズーット気になっていた。白馬周辺、いや後立山連峰のどこか、などと想像をふくらませていたが、ヤット解消した。
 返事には、「白馬近くの小蓮華周辺」とあった。「そうか、白馬大池方面からみた、小蓮華岳だったのか」。納得した。あの辺は、白馬で小屋番をしていた時や、その後よく登ったところだった。故郷とも、庭ともいえる場所だった。再放送があったら、心して懐かしく見たいとおもった。

 カメラマンでもある”友さん”のメールに続きがあった。今年は伯耆大山を取材をする予定です。また、来週は取材で石巻です。と結ばれていた。3月11日は近い。朝日新聞の”平さん”も、やはり震災がらみで、岩手の大船渡市で取材とメールがあった。市井の、小さな自分も、私なりにも、3月11日は、静かに足もとをみつめて見たいと考えている。

                    2012年2月23日 花と酒
 今日は暖かい一日だった。久ぶりに畑で草を抜いていたら、フキノトウが”いっこ”小さな芽をだしていた。食べれるのは、もう少し後のようである。威勢のよいノビル(野蒜)は青々と沢山背伸びをしていた。庭では福寿草が、今日は大きな金杯を9輪、太陽に向けていた。なんという鮮やかさだろう。見惚れてしまう。
 福寿草をはじめて見たのは、鈴鹿の藤原岳だった。昭和45年と古い話だ。3月の藤原岳には残雪が残り、そのなかから福寿草が美しく芽吹いていた。この山行の時に妻と知り合ったのだが、それ以来、3月の藤原岳登山は、我が家の行事となってしまった。子供が大きくなり、藤原岳も久しくなってしまったが、一昨年、「富山のモンロー会」の仲間が、泊りがけで来た時、藤原岳に案内した。前夜雪が降ったためか、雪をまとった福寿草は、わた雪を透かして黄を灯し、幻想の世界だった。このような世界に浸ると、生きていてよかった感じる。

 昨日、想いがけくも、清酒2本が届いた。富山の銘酒だった。送りては福井のお客さんの”村さん”だった。「わたしは飲まないし、もらい物ですからどうぞ」とのことだった。”村さん”は達筆で、筆まめな方で、書状は巻紙に、墨痕鮮やかな筆で書かれ、興がのったのか絵も付与されていた。今年は、福井のほうも、雪が多く大変な様子や、強い山への思いを電話ごしに感じさせていただいた。今年の山も、平安に満ちたものであることを、清酒を浴び祈願した。                     

                      2012年2月22日 映画「はやぶさ」
                     
 ジャジャ〜ン!、2日続けて、暇な老人夫妻は今日も映画鑑賞デ〜ィであります。
今日は、昨年天文ファンのみならず、巷間の人々を歓喜させた、あの”はやぶさ”の帰還の物語をしっかりと堪能しました。実は、年初め、映画「剱岳・点の記」のプロデュースをされた、東映の菊池敦夫氏から賀状を頂いていた。賀状欄の上部には、地球をバックにはやぶさを配置した写真が描かれ、

 その下には、「2012、HAYABUSA!」と書かれ、つぎの文言が書かれていた。「今年2月11日、東映東京撮影所とスタジオ88が製作した映画、”はやぶさ・遥かなる帰還”がいよいよ公開されます。ぜひ映画館でごらんください、ご無沙汰しております」と、書かれていた。菊池氏とは、2007年9月、池の平で「剱岳・点の記」撮影以来、賀状だけのお付き合いであるが、その後、「剱岳・撮影の記」上映の初日、偶然にも、新宿の映画館でお会いした。この日は大変な混雑で、東映のスタッフの方も入場出来ないほどの超満員であった。池の平小屋応援団の、”高橋(八)嬢”もキップが手に入らず、入口でウロウロされていた。このとき少し会話を交わしたが、「暇な時は、山に登っていますよ」と話されていた。撮影のスタッフの方も、山に魅せられ登山を愉しんでいるようだ。

 とても素晴らしい映画で、感動とエネルギーを頂いた。今年の夏の、星の観察の折には、「はやぶさ」の映画と重ねあわせて、星空を仰でみたいとおもっている。本当に映画はいいですね〜。この日、三輪の福寿草が満面の笑みをみせてくれた。下山後ノー・トレイニングの日々ですが、そろそろ歩かねばと、ビール片手におもっている。

                     2012年2月21日 「日本列島いきものたちの・・・」
 暇人夫婦は、今日も映画鑑賞とシャレタ。題名は「日本列島いきものたちの物語」。今はレンズを昆虫だけに向けている私ですが、20代後半から野生の生き物を求め、300mmと800mmの望遠レンズを背負い、野山を巡り歩いて時期があった。本命はツキノワクマであった。2度遭遇したが、シャッターは押せなかった。其のぐらい、生き物に魅了されているが、不思議に家族全員おなじ趣味である。ということで、この映画をみることになった。

 どうしても、写す側の立場で観る癖があるので、苦労を感じながらの鑑賞となったが、さすが岩合さんはじめ、日本のトップクラスのみなさんの映像は迫力があり、ただただ魅了されてしまった。私も山での生き物達のふれ合いを愉しみにしている。余韻を愉しんでの食事後、書店により、「山と渓谷」と「岳人」の3月号を求めた。岳人の写真投稿欄(三宅修選)には、お客様の”三間千恵さん”の「水辺の夏」とういう写真が入選されていた。山岳写真愛好者のみなさん頑張って。

                     2012年2月20日 福寿草とご好意
 今日はお客様から1通のメールと、お電話があった。メールは松本在住のカメラマン、”百さん”からのもので、2月16日のブログを読んでのご感想なのか「福寿草」と題されていた。「あまりの寒さで、我が家の庭も雪がまだら模様、福寿草はもうしばらくお預けです」とあり、インフルエンザが猛威を振るっていることや、ボランテァでシイタケの原木伐採で汗を流しておられことで結ばれていた。”百さん”手作りのマツタケ酒は珍品、今年こそ期待したいものである。腰を直してお出で下さい。

 お電話は香川県丸亀市の”山さん”からだった。「菊池さん、ボランテァで釜石に行かれるのは3月だったかな」。昨年5月、ボランテァで釜石に向かうとき、「被災者のみなさんに食べさして」と、名物の”讃岐うどん”を箱で送ってくださった方だった。学生時代は、探検部かでボートで黒部川を下った経験もある猛者の”山さん”であるが、今年も、”讃岐うどん”を届けてとの、ありがたい申し出であった。5月の帰省の折には、今年も被災者のみなさんに届けたいと願い、感謝している。ありがとうございます。
                       2012年2月19日 福寿草
 この日、まちに待った、フクジュソウが2本、花をつけた。まだ寒いためか、たけも短く、花の開き具合もオチョボ開きといった、可愛いさも妙である。まわりには白と黄色の水仙がスクット立ちならび、庭も楽しくなってきた。

 この日、昨年末入会した「日本黒部学会」から会報が届いた。ネット社会を反映し会報はメールで送られてくる。他の会からの会報や、連絡もメールが増えてきた。年賀状も数人の方からメールでおくられてくる時代、どこまでIT化が普及するのだろうか?

                       2012年2月18日 お便り
 此の日は、富山の”ネギiちゃん”からお便りを頂いた。彼女は山の雑誌「岳人」の写真投稿欄の常連であり、池の平小屋の応援団でもある。真っ青の空が広がる下に雪をまとった立山連峰が写った、絵葉書に「こんな青空、長いこと見ていないですネ」と書いてあり、また、「・・・ちょっと山の方に行くとすごい雪ですヨ。・・・この雪ではものすごいラッセルをするか、遠征して八ヶ岳あたりに行くしかありません。冬山は一人は辛いので、一緒に行ってくれる方を探すのに一苦労です。・・・」と、富山の様子を知らせてくれた。3月また、資料探しに富山にでかけるので、また、富山の面々と再会できればと思っている。

 此の日、池の平小屋の応援団でありA新聞の”平さん”からメールがあった。岩手県の大船渡市から発信されたものだった。彼は関東勤務だが、震災特集のため応援取材で大船渡に派遣されたようだ。3県の仮設住宅を分担して訪れ、1000人の被災者のみなさんの生の声を、紙上で紹介する企画で、私に心当たりの方がいたら紹介して欲しいというものだった。また末尾に、山屋らしく、三陸の名峰”五葉山”登頂の可否を訊ねてきた。このような問い合わせは楽しいものである。

また、この日、「日本百名山」を描くことに挑戦している、プロの画家”山口剛生”さん主催の”海月会(くらげ)”の第36回の展覧会(3月6〜11日)の案内状が舞い込んできた。これがくると春近しである。
                     012年2月17日 日本行脚
 今日、仙人温泉小屋のボランテァ”小さん”からお便りを頂いた。同封されていたのは、「日本縦断行脚計画」と題された計画表だった。彼は、2007年の夏、御前中にヒョッコリ現われたお客さんだった。お酒の強いかたで、日本酒一升を軽く空け北方稜線にむかった。午後から天候が悪化したので心配し、17時頃、剱山莊の電話をいれたら、無事到着したばかりだった。その後、彼は還暦を迎えると、仙人温泉で草刈などのボランテァにいそしむ様になった。今年は、長年温めていた計画を実行すべく決心したようである。計画表によると、4月に佐多岬を出発し10月に宗谷岬着の予定(約3000Km)である。1日20〜30Km(約25000歩/Day)のノルマとなかなかハードである。行脚の様子はブログ(chokomaka日本縦断行脚)にアップとのこと、無事に成功をされることを祈り注視したい。
行脚といえば、池の平小屋の応援団(モンロー会)のボッカ隊長の”浜ちゃん”は、8月から晩秋までかけ、自転車で日本一周をされた。聞いたところでは、なかなか厳しい旅だったようだ。安価に安全に宿泊場所の確保がキーポイントと推察される。

                       2012年2月16日 福寿草
 昨年12月末に庭をみたら、フクジュ草が数本、1〜2mmだが枯れ葉を押しのけて芽を出しはじめていた。昨日みたら、18本が親指ほどに成長していた。じつは毎日楽しみにして観察をしているのだが、ここのところ氷点下の日もかなりあったが、やはり生き物達は確実に春に向かっていた。あと数日であの美しい花が見れると思うと嬉しくなってくる。は〜るよこい♪♪

                       2012年2月4日 映画
 
下山後、2度目の妻との映画鑑賞である。1月にテレビで「ALWAYS・三丁目の夕日」1作と2作を見た。なかなか自分の気持ちにピッタリの映画で、ハンカチを持ちながら観た。映画の原作となった漫画本は、よく行く診療所の本棚に並べてあるので、好んでよく見ていたが、映画もなかなかのものだった。台本も素晴らしく、俳優さんも、もち味を発揮し好演だった。ビデオにも取り何度も観ていたが、そんな時に3作目が我が街にも来た。3作目にも、おおいに感動、涙をためてしまった。

 時代設定から、考えてみると、鈴木オート店で働く星野六子さん(掘北真希演技)は私と同じくらいの年齢と想定される。私達の中学校の同級生も東京の町工場に沢山就職した。二十歳にもならぬのに、2名の女子の同級生が、不条理にも下町の工場で病気で亡くなった。私も東京オリンピックのときは、上野の聚楽(大規模の食堂)から、蒲田の店(食堂兼居酒屋)に移っり板前をしていた。 

 当時は生きることにに精一杯で感じなかったが、今、懐かしく振り返ると、東京の下町には味わい、人情があった。「三丁目の夕日」をみていると、当時の自分とかさなり、切なくなってくる。これも、先が見えてきた、中高年男性の、年齢相応の感懐なのだろうか。
映画を観終わった後、妻と食事をしながら久し振りに昔話に話がはずんだ。

                       2012年1月26日 同級会
 富山で”岩さん”の車で図書館に向かっているとき、携帯電話がなった。「アサトか、俺だ」。小、中学校で仲良しだった勝生君からだった。「こんど、同級会をやるから参加しろよ」、「おー、分かったいっだ」。昨年5月に釜石にボランチァに行った時、勝生君がミニ同級会を開いてくれた。男ばかり4名で色気がなかったが、震災直後だっただけに、しみじみと人生のことや震災のことなどを話し合った。その時話題となったのが、同級会を釜石で開催しようとのアイデアだった。開催日は5月17日、鵜住居という海辺の、宝莱館である。伝え聞くところでは、震災後、此の旅館は避難所として、被災者のみなさんの拠りどころとなったようである。5月が楽しみである。

                       2012年1月16〜24日 富山行
 
2月はじめまでは、頼まれていた原稿や、集めた山の資料のまとめに追われていた。毎日パソコンとにらめっこの日々である。気分転換に富山図書館に行くことにした。昨年10月下山後、2日ほど県立富山図書館に通ったら、貴重な戦時中の池の平関係の記録が3点ほど見つかった。それに味をしめ、柳の下のドジヨウ狙っての富山行であった。愛知からは、高速バス(4500円)が走っており便利である。池の平小屋の応援団宅に1週間ほど居候したが、独身の”岩さん”は、なかなか豆で、朝食と晩食を作ってくれ、申し訳ないものの、お殿様気分であった(ありがとうございました)。

 雪が大分有るのかと用心して行ったが、富山市内は皆無であった。意外にと思ったが、朝方、遠くに見える立山、剱岳の山なみは真っ白で、崇高に美しかった。富山の人たちは此の景色を見慣れているようだが、旅人からみたら、眼福三昧の富山県人はうらやましい限りだ。20日は、富山の池の平小屋応援団(モンロー会)仲間が新年会を企画してくれた。駅前の居酒屋風に、8名もそろい盛り上がってしまった。気の合った仲間と呑む酒は言わずもがな”旨い”
 
 図書館では毎日8時間近く頑張ったせいか、面白い山の記録、資料がまずまず見付かった。また、お客さんや、山の歴史に興味を持っている方も何人か図書館にやってきて、コーヒーを飲みながらの山の話も楽しかった。23日は、池の平小屋のオーナー宅を宇奈月に訪ねた。此の頃から雪が降り出し、1週間の大雪予報が出された。宇奈月スキー場のリフトも稼動し、家族連れの姿も見えたが、温泉客は少ない感じだった。閉鎖模様の峡谷鉄道の駅を覗くと、売店勤務の数人の女性達が一生懸命に見事な置物を作っていた。ひとりは池の平小屋の「アート・ストーン」を書いている方で、あまりに見事な鳥の置物を妻へのお土産に求めた。

 24日、朝起きると数10cm雪が降り積もっていた。雪景色を写していると、峡谷鉄道で働いている、池の平小屋のボランテァ長の”橋やん”が長靴を履いてやってきた。同じくボランテァの”稲さん”が今、逓送とパトロールで峡谷鉄道沿いの隧道を登っていった処だと言う。相変わらず雪は静かに静かに降っていた。若い頃住んでいた、長野県の白馬村では「降れば7日」という諺があったが、まさにそのような降りであった。此の後、金沢、福井に寄りたいと考えていたが、豪雪による乗り物のトラブルを予知し、ストレートに鱒寿司を買って愛知に帰ることにした。
         


                        2012年1月4日
 賀状
 ことしも沢山の方から年賀状を頂いた。今日気になっていた方から賀状が届いた。前の職場の先輩で、子供さんがいなかったためか、定年後愛知の家を売り払い、故郷の釜石を帰られ、海辺近くに新居を建てられた。昨年3月11日は、奥様と盛岡の方面にドライブしていたため無事だったが、釜石に戻ると家は跡形もなかった。昨年5月にボランテァで釜石に出かけた際、従弟と捜したら、非難場にみえた。久闊を複雑な気持ちで喜んだのだが、その後、管理人は池の平小屋に入ったため音信不良となってしまっていた。それが、仮設住宅があたり入居したとの賀状であった。小さくても持ち家が欲しいと結んであった。
 今年は500枚強賀状を書いたが、お客様はじめ、山の仲間などから管理人にも美しい賀状がたくさん届いた。有難うございます。山の関係者の皆様からの賀状は楽しみである。それは個性溢れる、思い出の山々が、写真やスケッチなどで飾られているからである。今年も、また「すこし遅めの賀状展」を池の平小屋で開催します。

                     2012年1月1日 曇り
 夕方まで大掃除に追われた数日だったが、昨晩は久しぶりに息子夫婦も帰省し、家族6人でNHKの紅白歌合戦をみつつ団欒を愉しんだ。好物のビールもよく飲んだ。
 今年も、山の愛好者の皆様の御多幸と、安全で楽しい山行が沢訪れるように、心から祈念いたします。皆様の山行お天気に恵めれると本当にいいですね。
 また、今年も池の平小屋を、心より宜しくお願いいたします。

                    2011年12月29日
  今日は、ここ5年ほど続いている、関東地区の忘年会である。ボーマンさんが所属していた、東京交響楽団の「第九」の演奏を鑑賞した後、大田区雑色の「焼肉・ポランの広場」でボーマンさんを中心に、関東地区の小屋締めメンバーやお客さまと懇親会を開催していた。店主は会田さんといい、昨年の小屋締めメンバーであった。
 今年の企画は、小屋締め中に私がボーマンさんに炊きつけ、ボーマンさんの尽力で開催となった。ところが、今年は私の方の用事が山積し、今日は不参加となり残念である。みなさん今頃は大ジョッキで乾杯、会田さんの調理の珍味に舌をならしている頃だろうか。みなさん今年も有難うございました。
                    2011年12月29日 映画
 山を降りてはじめて映画をみにゆく。当初RAILWAYS(レールウェイ)を観る予定だったが、近くの映画館では企画されていなかった。そこで、妻の要望もあり「源氏物語・千年の謎」を観る事にした。源氏物語創作秘話といったふれこみだったが、女優陣の好演がめだった映画だった。
話変わるが、源氏物語というと、東京オリンピックのころ、板前修業で上京したが、蒲田の古本店ではじめて買った本が「定本・与謝野晶子現代語訳の源氏物語」だった。箱入りの、上下2巻の大型本だった。値段は忘れたが、かなり高価で悩み、逡巡して購入した思い出がる(新刊で3200円)。
時間ができたら再読したい。
                    2011年12月11日 晴れ 望年会続きで焼き物談義
 今日は、宿泊した富山の仲間4名と池の平小屋の陶製の表札作りである。愛知の仲間も2名参加予定であったが、逃げられてしまった。
 工房は愛知県常滑市の「誠山窯」で、窯主は伝統工芸士片岡勝資さん。茜山岳会の仲間で沢屋さんである。池の平小屋のお土産の「グイ呑み」、「陶板」を奥様と製作されている。
 11月下旬に、画家(モンロー会員)で、日本百名山に挑戦されている山口剛生さんと、陶芸家の娘さん、木工士のそのお婿さんの3人展があった。

 見学後、誠山窯の片岡さん宅に寄った。来年のお土産品の打ち合わせのためであった。その時、工房の玄関に陶製の表札がかけてあった。見事な色彩で、味のある表札であった。訊ねると、「簡単だよ、作ってみる」の好意ある返事だった。「しかし、字は自分で、味のある字で書いた方がいいんじゃない」、「じゃ〜、山口さんに頼んでみる」。早速、個展会場に電話を入れると、「書いてあげるから、来て」との返事。即座に墨痕鮮やかな池の平小屋なる字が書かれた。

「菊池さん、字のサイズ小さくない」、「分かった」。そこで、近くのスパーに走り拡大コピー。「菊池さんこれならOKだね、でも粘土に掘るの何時にします」。「うん〜、じゃ12月11日、望年会の翌日にしょう。望年会の参加者に呼びかけるから。5〜6名は大丈夫だよ」。「分かった、じゃそれまで準備しておきます」。「迷惑掛けますけど、お願いします」。ということでこの日となった。

まな板状の、分厚い粘土の上に、山口さんの書いた紙を乗せ上からなでて輪郭を刻み、それをナイフで切り取る作業だった。岩城さん以外は二日酔い状態。緊張の上に緊張を重ねて2時間、2枚の「池の平小屋」と書かれた表札を作った。その後は、3人がロクロ操作を片岡さんから教わり、各々、グイ呑みや茶碗などを、嬉々として作った。みなさん筋がよく中々の出来栄えであった。なにしろ橋本さんは、2回目で要領も確かであった。その後は、ラーメンを食べて散会となったが、富山の4名は、物凄いラーメン通で、辛口、甘口の講釈で大いに盛り上がってしまった。

                    2011年12月10日 晴れ モンロー会望年会
 今日は、恒例の望年会である。私宅ではじめて今回で23回となる。発端は1970年(昭和45)に職場の仲間達と立ち上げた茜山岳会にある。その茜の山仲間も、1980年代後半にはいると、結婚仕事などの事情で山から、会から遠ざかった。その解消法として、1988年(昭和62)から”茜山岳会OB会・望年会”と銘うってはじまった。その後、管理人と池の平小屋との付き合いが1990年(平成3)からはじまった。

 このころ、倒壊した旧池の平小屋を一人で片付け、石垣のもたれ休憩していた。ボーット八ッ峰を見ていたら、チンネの下の残雪(三ノ窓雪渓)が唇のようにみえた。これは、二十歳のころ白馬岳で小屋番をしていたため、雪形に強い関心をもち調べていた下地があったためとおもう。そこで、ネイミングを考えていたいたとき、閃いたのはマリリンモンローであった。そこで、チンネの下の雪形を「モンローの唇」と名付けた。

 1992年(平成4)から、茜の仲間も池の平小屋の再建、小屋明け、小屋締めに強力な助っ人となった。そこで、いつしか池の平小屋の支援組織を「モンロー会」と命名し、望年会も茜山岳会OB会と合同ということになった。宇奈月在のオーナーも5年連続参加し、また、富山支部の若手陣も昨年から参加となった。富山から、昨年は3名、今年は4名参加であった。迎え撃つ愛知陣は12名であった。賑々しい会は夜半まで続き、地元勢は恒例のシュラフ持参で、宴会場(狭い我家に)にごろ寝となった。因みに最高齢は画家のY氏。若年は高校ワンゲル部1年のD君であった。
                    2011年12月2日
 明日から2泊で、大阪の老舗の山岳会の忘年会に招待され、忘年会にいってきます。帰ったらまた継続を・・・・。決局、数日前からの風邪がクライマックスとなり、断念してしまった。大阪のみなさんごめんなさい。

                  2011年12月1日 曇り 
 10月10日にお泊りいただいた、愛知県豊川市にお住まいの井上さんがヒョッコリ訪れました。彼は花卉園芸を生業にしているということで、美しい、そして珍しい菊の花をおとどけにきました。
新種でまだ市場にでていない菊の花もありました。井上さんのお話では、10月10日にお逢いした方数人に、栽培育成しています、お花をお届けしたようです。「花を届けるには、どうしても、ダンボールの箱が必要で送る量が沢山に成りまた」。「木下さんから、花の数が多いので困っているような、お礼の電話がありました」。この日の、午前中は、娘の友人で私のホームページのアドバイザーの幸ちゃんが、急がしいのに手伝だってくれた。年末の繁忙が終ったら、ホームページを大幅に更新したいと計画をしている。幸ちゃんありがとう。
                    2011年11月3日(水) 晴れ いざ博多から愛知へ
                    2011年11月2日(水) 晴れ いざ別府へ
                    2011年11月1日(水) 晴れ いざ菊池市へ

                    2011年10月31日(火) 晴れ いざ軍艦島へ
 長崎にきたらここに行かなきゃ、ということで朝食後ホテル横の階段を登った。少し登ったところに大浦の天主堂があった。幼稚園時代を教会で過したためか、教会に入ると心が落ち着く。時代を宿した木作りの椅子に腰を下ろしまどろんでいると、外人さんが入ってきてマリヤ像にカメラを向けだした。目の前には、撮影禁止と書かれていた。思わず「ノン・シャッター」と声をだしてまった。「アイムソーリー」と言いながら、外人さんは「ホント、サツエイキンシとカイテアリマスネー」と言いながら出て行ってしまった。

 「なんだよ、読めるのじゃないか!」。しかし、この教会はこじんまりとしたうえに、味わいのあるステンドグラスにつつまれ、さらに静かだった。そこから、グラバー邸や異人館を数棟見学した。驚いたことに、急坂の多いコースなのでエスカレーターや動く歩道が所々に設置されていた。車椅子の方も多く、みなさん重宝されていた。建物や、展示物、庭園も魅力的だったが、一番気に入ったのは、長崎港を見下ろす眺望であった。驚くほど多いカステ〜ラのお店の試食コナーに満足し、13時から海上ツアーが組まれていたので昼に長崎港に着いた。

 ツアー名は、「軍艦島(正式名は端島)ツアー」であった。鉱山好きには垂涎な企画であった。以前は船上から島を眺めるだけだったらしいが、島内の安全度を高めるため、道の整備などを施し、島内散策時間も僅かだったがあった。思い切り、2台のカメラでシャッター押し捲ってしまった。再び船に乗り込むと、船は島を一周してくれた。之で軍艦島と称される理由がわかった。その後は長崎の原爆資料館を訪ねた。広島とは違った展示コンセプトを感じた。3月11日以後の、福島原発事故の状況が頭にあるだけに、放射線の詳細なデーターの解析と被害の説明には、ただただ見入ってしまった。この日も長崎の夕食を楽しんだ。

                    2011年10月30日(月) 曇り いざ九州へ
 九州へいったことがないと、娘に話したら、素敵な旅行プランを、池の平小屋で働いているうちに企画してくれた。この日は、博多まで新幹線で行き、その後はレンターカーでの移動となった。新幹線のなかでは、写真家でもあり、ガイドでも知名な志水哲也氏の伝記録『生きるために登ってきた』(みすず書房・2011年5月24日刊)をむしゃぶり読んだ。野性味に溢れた半生は、つくずく哲ちゃんらしいと親しみを感じた。
 古色好きで、テレビの「なんでも鑑定団」に毒されている私を見ている娘は、一番先に、佐賀県の伊万里の里に案内してくれた。何軒か焼物屋廻るうち小さな靴を形取り、焼いたものをみっけた。私の大好きな画家に熊谷榧さんという絵描きがいる。明治の大御所の熊谷守一の娘さんである。熊谷榧さんの作品に「登山靴」を描いたものがある。私も所持しているのだが、なかなか味がある。それが昂じて、登山靴の絵や、登山靴描いた焼き物に興味をもっようになった。

 ところが、ここ伊万里にも靴をモデルにした小品があり、つい嬉しくなって買った。可愛いくて品のある作品だった。その後は、娘の運転で高速を飛ばし長崎にむかった。暮れだした17時ころ、グラバー邸近くのホテルに着いた。この夜は、中華街にいこうとのことで、タクシーに乗った。タクシーの運転手お薦めのお店は「江山楼」という中国料理のお店だった。人気のあるお店のようで大変混んでいた。「糖醋丸子」、「牛絲」、「特上ちゃんぽん」を食した。味はなかなかだった。食事後中華街を散策した。30分も歩いていると粋な暖簾のお店があった。酒菜処「のさ庵」(鍛冶屋町)という小料理屋風のお店だった。刺身を注文すると、冊の飲めない娘が、その土地のお酒、地酒を呑んでみたらといった。なるほど、旅の行く先々で地酒を頂くのも粋だと感じ、お店の方に尋ねたら、島原の吉田屋製の「はねぎしぼり」(純米酒)を勧められた。ビール党の私だが、その味には魅了された。

                  2011年10月25〜29日 
 帰ると収束がつかないほどの、メール、お手紙、小包がとどいていた。畑や庭は雑草に占拠されていた。毎年の事ながら植物の強さには脱帽である。
 まずは、落とし主の分かる忘れ物の郵送である。今年は、はじめてのケースで携帯電話が2台あった(1台は拾い物)。また、依頼物の郵送も急がなければ・・・と、5日が過ぎた。

                  2011年10月24日(月)   110日ぶりに帰着
 毎朝、岩城さん手作りの朝食を頂いている。なかなか美味しい。ダンボール2箱の郵送を頼み、高山線で富山駅に向かい、特急シラサギで名古屋にむかう。一仕事を無事に終えたことで、安堵感に満ち車中グッスリしてしまった。
 名古屋駅に着き、東海道線で共和駅に。時間が有るので、バス停近くの書店で本を一冊もとめた。お金を払う時「お客さんは、共和が金メダルの町だということを知っていますか」と聞かれた。「・・・」。

 「共和は日本一金メダルが多いのですよ」といって、お釣りとともに”必勝共和の金ちゃん”と書かれた熨斗袋をくれた。なかには日本一御縁と書かれた紙片とともに金ぴかの5円硬貨が入っていた。紙片の下部には金メダルの町共和と書かれ、吉田秀彦さん、吉田沙保里さん、谷本歩実さん、移調馨さんの活躍により共和には、オリンピック金メダルが7つありますと結ばれていた。縁起の良い帰還日だった。

                   2011年10月23日  雨 松尾平へ
 大正期の小黒部鉱山(池の平小屋の前身)最盛期の頃、馬場島から少し下流の杉の平を基点に、大窓まで索道があった。そして、松尾平には変電所があったと文献にかかれている。
 そこで、雨であったが、岩城さんの「いいよ」の二つ返事で馬場島に行くことにした。松尾平に変電所の痕跡が残っていれば、との淡い期待を抱いてのものだった。まず、岩城さんの実家がある滑川に寄り、雨具を借りた。馬場島も篠つく雨であった。雨宿りに馬場島莊に入り、厨房を覗くと、透さんご夫妻と、写真家の佐伯郁夫さんがいた。相変わらずシャイな透さんのハニカミ笑顔がいい。松尾平の変電所のことを話すと郁夫さんは「長年、あそこには行っているけれど、なにもないぞ」とのことだった。

 小降りになったので登ることにした。雨具の上だけを着込み、傘を手にのハイキングであった。雨に濡れた広葉樹は目を愉しませてくれた。登山口に来ると、寂しげな一人の、中年の女性が上の方をみっめて○○さんと叫んでいた。「声が届くと、元気が出ますよね」と、岩城さんが優しく声をかけて抜いていった。追いついて、岩城さんに、私はこういった「さっきの人、亡くなった家族か知人の名前を呼んでいたのではないかな。こんな雨の日に、早月登る人いるかな」。「いあや、結構いますよ」。
 そこから10分程登ったら、7〜8名の登山者が降りてきた。ほとんどが女性で、しかもかなり高齢の方が多かった。なるほど、剱岳は、早月尾根は地元の方のハイキングコースのメッカであることを確認した。

 20分余で松尾平についた。この地は30数年ぶりである。さっそく、雨の中、附近を探索したが手がかりになるものはみっからなかった。雨も繁く、展望もきかない。索道のやぐらの位置の確認のため、大窓への方向を見通したかったがむりであった。雨の中、ベンチで岩城さんが美味しいコーヒーを淹れてくれた。なによりのご馳走であった。

 紅葉を愛でつつ、馬場島莊に戻ると、隣の席に写真屋さんで常連の荒木女史がいた。「あれ〜なに〜、菊池さんでな〜い」。実は、荒木さんは魚津にて印鑑店を営んでいる。そのため、20日に、池の平小屋のスタンプを彫っていただくためと見本を持っていったばかりだった。その日は残念ながら留守のため、お嫁さんに用件を話して帰った。その後、荒木さんとその件で電話でお話した経緯があった。さらに、荒木さんの横を見たら黒田さんがいた。お二人とも8月13,14日と連泊していただいた。

 夏以降、体調を崩した荒木さんはリハビリ・トレーニングで赤谷山に来たらしい。「リハビリで、赤谷山来んだから、富山の人は凄いッチャ」と岩城さんは笑っていた。隣のテーブルには、佐伯郁夫さん、克美さん夫妻もニコニコと食事を愉しんでおられた。我々も、昨年に続き「山菜天ぷらそば」に舌をならし、秋に包まれた馬場島を愉しんだ。今日が富山での最後の日であった。

                   2011年10月22日 モンロー会打ち揚げ会
 この日のために、下山後、長期に富山に滞在していたきらいもある。池の平小屋を一シーズン持ち上げてくれたのは、全国のお客様はじめ、全国の応援団、そして地元富山の若手、モンロー会の仲間達である。近年は富山の仲間におんぶにだっこである。篤く、力強く、優しい、仲間達と、この夕は来年を見据えて乾杯をなんども交わした。「乾杯〜い」。でてくるのは、みんな、「来期はこんな事をしたほうがいいよ」との、前向きなアイデァばかりであった。”過ぎた日”のことを語る仲間がいないのがモンロー会の魅力なのかもしれない。来年もお願いしまっせ。

 その後、胃袋に余力りある仲間達、菊池はじめ数人は、八尾の池原さん宅をめざした。誠に池の平小屋の応援団は、剱岳のように魅力果てしなしの宵であった。

                   2011年10月21日 いざ富山図書館へ
 この日は県立富山図書館で昭和19年代の地方紙に格闘する。この図書館は昭和40年代後半より北アルプスの登山史、鉱山開発史の資料を求めて通っている。落ち着くところだ。若手の館員さんより館内のことを知っているかもしれない。私の心が落ち着くのは図書館と古書店かもしれない。なぜかリラックスする。またこの日は戦時中の、内山鉱山(僧ケ岳蛾)、小黒部鉱山(池の平小屋の前身)、大東鉱山(高天が原)の記録も入手でき成果も大きかった。

 資料収集が終わり、半日就業の岩城さんに電話すると、文山さんが歓迎の食事の用意をしているという。資料の整理をそこそこに文山さん宅に向かう。玄関を入ると、ウサギさん(家で放し飼い)と、凄いご馳走がまっていた。ご迷惑をかけていると感じながらも富山の仲間達の厚誼を篤く感じた。奥様ご迷惑をおかけしました。

                   2011年10月20日 いざ幻の隧道へ
 8時に「うなづき友学館」にゆくと岩城さんが待っていた。今日の目的地は、昨年からの懸案事項の”滑川から馬場島間の鉱山道の同定”だった。とくに、途中にあるという天狗菱の隧道探しだった。昨秋は車でそれらしき林道を走り、探りを入れたが確定はできなかった。しかし、今春、岩城さんと文山さんがそれらしき道を見つけ、さらに危険なガレバを進むと隧道があったという。滑川に向かうと、矢張り池の平小屋の応援団の池原さんが待っていた。急峻なガレバのトラバースが続くので、ザイルが3本など確保用具が沢山用意されていた。どうやらネックは私のようで、温かい心に嬉やら情けないやら、でもやはりモンロー会のみなさんは頼もしい。

 林道を詰め、用水路を記念した小公園につくと、奥へとむかう林道には鍵が掛けられていた。私は岩城さんの長靴を穿き、空身となった。紅葉をまとった林道をすすむと獣道のような捷径があった。先は薮であった。とくに急峻な崖の濃密な薮はトゲの多い植物が繁茂していた。1時間余のアルバイトで隧道口に着いた。10年近く前に、滑川市在住の郷土史家の金子先生(故人)に、鉱山道を探した時の苦労話や、隧道の写真をみせて頂いていただけに、ついニヤリとしてしまった。幅3m余、高さ2m弱の楕円の隧道であった。往時は馬車が行き来した隧道であった。なかは大変な泥のであった。途中で大きくカーブするので出口は見えなかったが、中頃までくると天上に明り取りがあった。文献どおりであった。文献には「天穴」(そらあな)とあった。また1箇所壁が崩れ落ち、外の景色が美しくみえる場所もあった。

 スケールを持っていなかったが、全長は40m前後と感じた。中にはコウモリが2〜3頭壁にぶら下がっていた。反対側に出ると意外と拾い空間があり、ムラサキシキブの巨木が紫の実生を沢山つけていた。来年は小黒部鉱山のビデオ化を計画しているので、今回も持参し岩城さんが撮影した。出来上がりが楽しみである。帰り道、「馬車道にしては、高さが低くない。馬の頭ブッカラなかったのかな」。と呟くと、「ウンニャ〜、内のお袋が言っていたけれど、昔の馬は小柄で背丈が低かったらしいよ」と岩城さん。今の、知見、常識で過去をみてはいけないと悟ったしだい。

 酒好きの懲りない面々は、ヒトツの目標をクリアすると呑みたくなるものらしい。池さんが今晩は俺のところに来ないか(富山市八尾)、ということでこの夜は、菊池、岩城(飲めないアッシー君)、のほか文山さん、長勢さんのも声をかけ、モンロー会の主力が風の盆の地に集ってしまった。奥様美味しい料理ありがとう。

                 2011年10月19日 いざ朝日町へ
 今日は夕方からモンロー会の稲荷さん宅に泊めていただくことになっていた。それまで時間が有ったので宇奈月町の図書館と博物館が合体した「うなづき友学館」で資料を漁っていると、宇奈月町で本屋さんを営んでいる河田さんがみえた。彼とは前日に知り合ったばかりである。お茶でもということで、隣接する地ビール館で小一時間ほど話した。河田さんはもと北日本新聞に勤め、「日本黒部学会」の会員でもあった。新聞記者と黒部といったテーマーで資料を求めているようで、私のライフワークの「大黒鉱山(唐松岳と祖母谷温泉間にあった)」にもご関心が強かった。

 7時前、稲荷さんに拾われて朝日町の稲荷さん宅へ。本来は、若き頃、小黒部鉱山で働いた経験がおありのお父様から経験談を伺うのが目的だったが、2〜3前に体調を崩し入院をされてしまった。稲荷さんのお誘いで、小川温泉で汗を流して帰ると、橋ヤンが待っていた。飯田さんは用事が出来欠礼とのことだった。稲荷さんの奥様は、漬物、煮物料理が得意で、家庭の味を堪能しつつ、ついついビールを飲みすぎてしまった。

                  2011年10月18日 いざ上市へ
 今日は午後、池の平小屋の営業許可衛生講習会開催日ということで、できれば経営者よりも、実質の運営責任者に出席してほしいと案内状に記載されていた。オーナーと一緒に会場にいったがオーナーは外で読書を愉しむという。講習内容はありきたりというか、直近の事故を紹介し、教訓を得、対策を講ずるという内容に始終した。徹底すべきは、厨房および食材の管理で、食中毒を発生させないように最大限の気配り、対応をしなければならないということだった。来年はより科学的に厨房、食材を吟味しなければならないと肝に銘じた。その後は、美しい日本海の海辺ロードを走り宇奈月に戻った。

 午前中時間があったので、黒部市の吉田科学館を訪ねた。「日本黒部学会」の事務局が科学館に併設されていると、学会員であり常連の能登さんから昨晩聞いていたから、入会希望で出かけたものだった。生憎、事務局の方は留守であり名刺を置いてきた。24日に110日ぶりに帰宅すると、会報と入会申込書ならびに会長から歓迎の旨のお便りがそえられてあった。

                  2011年10月17日 いざ祖母谷温泉へ
 朝、のんびりしていると、通称、池の平小屋専務理事の橋ヤンが(はっぱさん)「おはよう」といってやってきた。急遽この日が休みになったから付き合うよということで、祖母谷温泉に行くことにした。昨日は疲れていたので峡谷鉄道のなかでは居眠りしていたが、今日も昨晩呑みすぎたせいか眠い。しかし、橋ヤンもやるもの、座席に着くなり「菊池さん咽喉が渇いたでしょう」といってザックからロング缶をだした。車窓を覗くと黒薙温泉手前でアオサギが佇んでいた。子猿2匹も戯れ長閑な光景だった。

 欅平駅に着き、売店を覗くと懇意な草野さんがみえた。笑みをたたえ、大きな声でお客さんと会話をしていた。草野さんは、池の平小屋のお土産である「アートストーン」を描いている方である。人気の商品で例年8月中には売れ切れとなっている。「こんにちは、草野さん、池の平小屋の菊池です。草野さんの作品人気上々です。もう少し多くして頂いて、単価も上げていいですよ」。「・・・そんな〜」。

 祖母谷温泉にむかう道に入ると、橋ヤンはグングン飛ばす。御歳66歳の老人は昨日の雲切新道の疲れで足が思い。なんとか頑張って40分ほどで懐かしの温泉宿に着いた(30歳後半から、50歳代前半は、大黒鉱山の調査で定宿にしていた)。外のテーブルに弁当を広げビールを買いに行くと、ご主人の峰岸さんが私を覚えてくださり、ビールを差し出してくれた。「サー、温泉に入られッちゃー」。千葉に住むご主人、富山弁に魅せられたようで嬉しい。
橋ヤンの作った焼きソバを愉しみ、温泉にはいる。祖母谷温泉の露天風呂はプールのように広く、開放感に充ち、体も心も、風景と渾然一体となる。

 茫然と二人で湯を愉しんでいると、上から峰岸さんが、「菊池さん、岩魚の骨酒のむ・・・」と声を掛けてきた。「お願いします」。このような返事を即答というのだろう。昨年、下山後も頂いたのだが、よっぽど美味しそうに、意地汚く啜っていたのを覚えていたのでしょう。そのくらい私は、岩魚の骨酒には魅了されている。宇奈月の隣町の朝日町に小川温泉という名湯がある。30〜40歳代は宇奈月、朝日町、黒部市などに取材したり、登山の帰途小川温泉をよく利用していた。食事の時は必ず岩魚の骨酒を頼んだ。骨酒を啜っていると、きまって板長さん顔をだし「やはり、菊池さんだ。骨酒頼むの菊池さんぐらいだからね」といって笑顔をみせた。

 長湯を愉しみ座敷に上がると、岩魚の塩焼き2匹と、大きな器になみなみに注がれた日本酒の中にいい色をした岩魚がはいっていた。「さすが、焼き方がじょうずだな〜」と料理好きの橋ヤンが感動の声をあげた。時間をかけ、じっくり焼いた色合いは日本酒とマッチし甘い香りを漂わせていた。味は絶妙で五臓六腑にしみた。甘露!

 3時過ぎに祖母谷温泉にお暇をつげ、4時過ぎの峡谷鉄道に乗った。橋ヤンの仕事関係の川重の方、3名も休日で祖母谷温泉の湯を楽しみに来ておられた。
 19時過ぎには橋ヤン宅に、朝日小屋の応援団の飯田さんと、池の平小屋の常連で「日本黒部学会」員でもある、能登さんが参集した。山を肴にこの夜も会話は尽きることがなかった。

                  2011年10月16日 曇りのち晴れ いざ宇奈月へ
 昨日でおおよその小屋締め作業をおえ、一日早く、昨日は蛍雪山岳同志会の亀谷さん、畑木さん、冨岡さん(会友)の3名が下山された。今朝は5時前に起床し寝具の梱包など済ませてから朝食を摂る。水槽の水もなくなり(小屋明け分は、タップリストックしてある)、ガス関係も外したので、昨晩から紙の食器や割り箸で、豊富な食材を使い、豪華な食事を摂る。
 
 調理の経験が少なく、料理が苦手だという高橋(八)さんも、一月余のボランテァ生活ですっかり腕を挙げてなかなかの味である。人間、経験とやる気があれば伸びる好例と感じた。食事前後から岩城さんはエンジンのメンテに熱中。オイル交換、フィルタ交換等。さらに、文山さんとテレビの配線の撤去など専門分野で頑張っていただく。

 カメラマンのB・ボーマンさんと、林さんの2名は朝焼けを狙い、朝食抜きで仙人峠にむかった。最後のゴミ燃やし、戸締りなどを済ませて8時10分、木下さん、高橋さん、衣川さん(愛知のお客様で、急遽参加)、それに心強いモンロー会の岩城さん、文山さんとの6名で下山した。9時ちょうど仙人ヒュッテ着。仙人ヒュッテのメンバーは前日下山したので、過ぎた紅葉をバックに建物は侘しく佇んでいた。10時45分ころ仙人温泉着。この時間帯になると日も射し、紅葉も例年通り見事だった。

 仙人温泉も小屋締め盛りで景気の良い大工音が、リズムよく木魂していた。小屋に着くと高橋さんが「警備隊が電話してくれって」といって受話器を渡した。ボーマンさんの知人で先行して下山した写真家の林さんのことだった。彼は10月6日ころから16日迄の予定で、雷鳥沢にテントを張り(届けは済ませていた)、池の平小屋に来たのだが、その間にテントが強風で飛ばされ(池の平小屋のお風呂の扉も千切れとんだ)、それを山岳救助隊の隊員が見つけ大騒ぎになっていた。警備隊は事故かと思い各小屋へ問い合わせていたが、池の平小屋は15日に警備隊に一報をいれ電話を外していたため、オーナー宅に問い合わせの電話を入れたらしい。そこで、前日先行して下山した亀谷さんから林さんが池の平小屋に滞在していることを知り、確認を求める電話だった。「ご家族も心配されています!」などと言われたが、宇奈月に下山したら連絡を入れますと言って電話をおいた。

 前日の降雨が凄かったのか、雲切新道には溜池が沢山出来ていた。「こんな所に池が有るなんてイケないな〜」などと呟きながらも、はじめてみる光景だった。光を沢山浴びた仙人谷は、まさしく錦秋のさかりであった。14時少し前仙人ダム着。先行したボーマンさんと林さんは、矢張り先行した仙人温泉のボランテァさんと知り合い、黒四ダムに向かうことになり(扇沢に駐車してあった)ここで分かれた。
 夕刻宇奈月駅に着くと、オーナーの米澤さんがニコニコと迎えてくださった。早速、「フィール宇奈月」で汗を流し、20年近く通っている、美人姉妹が営んでいる「ささや」で乾杯、ひとシーズンを心地よく俯瞰した。
                  2011年7月1日 いざ宇奈月へ
 いよいよ小屋明けで池の平小屋に出張の日となりました。月日の経つのは早いものであっという間に8ヶ月が過ぎました。2006年秋からはじめた池の平小屋のお守り、毎年今年で最後、今年で辞めようと思いつつ6年目となりました。昨日も、香川のお客様から「また、遊びに行くから健康に気をつけて頑張ってね」と電話がありました。明日一緒に登る若手2名からも、応援の電話もありました。メールの数は数え切れないほど頂いています。皆さんの山行が天気に恵まれ、愉しく安全でありますことを祈り入山前のご挨拶とさせて頂きます。山にはパソコンがないので、この欄への書き込みは下山後となります。
                  2011年6月24〜25日 藤内小屋
 5日藤内小屋に寄った時、今度は土日で来て手伝うからと口約束をした。ところが2週続けて土日は雨となった(大雨注意報が発令された)。少しばかりイライラした。やっと天気が持ちそうなので、バス(名鉄)、電車(近鉄)、バスと乗り継いで湯の山温泉にやってきた。近年は乗用車で来ることが多く、湯の山温泉も遠のいていた。登山口の茶店の「しまやさん」を覗くと、おばさんは入院中のお父さんの看病でいないという。昼食をあてにしてきたのだが、お店も13年前から閉めているという。お店のなかも改造されていた。見かねた娘さんがカップラーメンをご馳走してくれた。ころあいを見て、息子さんが氷の入った麦茶を持ってきた。なんと美味しいこと、暑さが飛ぶ思いだった。向かいのおじさんもやってきて昔話となった。

 20年振りかに、苔むした石段の道をあがった。上にあった茶店は開いていなかった。久しぶりにと「蒼滝」に降りてみた。流れは相変わらず見事だった。2008年の洪水の名残で、巨石や、流されてきた巨木が足元にあった。滝つぼも埋め尽くされていた。登り返し、遊歩道のような道をつたい藤内小屋に着いた。小屋にはお客さんや、ボランテァの皆さんが沢山いた。皮膚がんというイヌの太郎は相変わらず、食をもとめ腫上った体で足元にやってきた。ボランテァのみなさんは7,8名いたが、各々得意分野の仕事をされていた。内装をする人。階段の脇壁を張る人。階段を組む人。もくもくゴミを拾う人。石を組む人。セメントを煉る人とさまざまである。休憩や食事タイムとなると玄関の鐘がなった。

 登ってくる時小屋横から煙が揚っていた。露天風呂だという。薪用の風呂釜であった。これで湯を沸かし、僅かに下がったところに浴槽釜があった。風呂釜にお湯を溜め、溜まったらサイホンの原理でパイプを使い浴槽に湯を移動させていた。水もホースから流れぱなしで、なかなか広川原にある露天風呂は野性味に富んでいた。下には四日市の明りが見え、空には星が瞬いていた。

 母屋は完成し、私も泊ったが、向かいに新築の建物があった。モンベルと書いた看板がみえた。この建物の材料は、モンベルが寄贈されたもので、材料の運搬、建築はすべてボランテァで成し遂げたもので、この小屋の歴史、つながりなどがじわじわと感じられた。運搬だけでも200〜300名の登山者が参加されたのではないかといっていた。

 この夜、鈴鹿アルパインの方6名(男女3名づつ)が宿泊された。明日は岩登りの講習会をされるとのことだった。藤内小屋は岩登りの方たちとの結びつきが深い。ついつい話しが、お酒がすすみ歓談してしまった。そして今夏、鈴鹿アルパインの皆さんに、裏剣の魅力を堪能してもらうこととなった。

 翌25日は、柴田さんと組んで階段の横壁打ちつけ作業となった。柴田さんも岩屋さんである。私が材料の調整、柴田さんが打ちつけ専門である。まずまずに意気も合い、帰りは四日市駅まで車で送っていただいた。これで、トレーニング山行も終了である。藤内小屋の皆さん、藤内小屋で知り合った岳人のみなさん有難う。

                  2011年6月23日 御在所岳
 今日は私から娘にアッシー君を頼んだ。天候が安定しないが朝起きて晴れていたら出発とした。微妙な空模様だったが行くことにした。平日だけあって駐車場もガラガラで登山口脇の特等席に車をとめる。藤内小屋に着くと男性3名が休憩していたが、小屋も閉まっていて静かである。天候は持ちこたえそうだ。6合目附近で、駐車場であったご夫婦と挨拶を交わした。奥様は昨年池の平小屋に立ち寄った女性に似ていたので「昨年、池の平小屋に来ましたか」と聞いたところ、違うとのことだったが、ご主人がすさかず「池の平小屋て剣岳のですか、石田さん知っていませんか」。「女性の石田さんですか、その方なら昨年小屋明けを応援して頂きました」。「では、仙人温泉の高橋さん知っていますか、高橋さんとは新座山の会で一緒でした」。

 何のことはない。世の中狭いということだった。辻さんご夫妻は先行した。娘と私はのんびり登った。先に行った単独の男性が早くも戻ってきた。「天気も良くないし、ロープウェーイも止まり、トイレもないので9合目で降りてきました」。性急な方だなと思いながらゆくと確かにロープウェーイは休止し静かだった。広場に行くと登山者が数名おり、そのご10数名が登ってきた。若い方も結構に多い。「どのコース登ってきたの」。「一の谷新道です」。「ルート荒れていない」。「大丈夫でした。1時間30分で登ってきました」。はきはきした好感の持てる若いカップルだった。

 帰りも裏道を予定していたが、藤内小屋も閉まっているので、一の谷新道を下ることにした。2〜30年まえは良く歩いたが、久しぶりの道だった。はじめから、最後まで急坂続きでトラロープが道連れだった。途中にあった「まつたけ岩」は食欲をそそるほど良く似ていた。鈴鹿スカイラインの駐車場にくると、先ほどの奈良の辻さんが車で帰るところだった。その後、私たちも身支度をし、恒例の日帰り温泉にゆくと、また辻さんご夫妻にあった。呆れるほど、なんと縁が深いのだろうが、今日の山行の感想だった。娘も私も、足の方は大分山慣れたような気がしてきた。

                  2011年6月13日 演奏会
 この日(13日)、利尻島からチェロリストで山岳写真家のB・ボーマンさんからお電話があった。小屋締めに参加したいというものだった。勿論OKと返事をした。そこでヒトツのひらめきがおきた。5月17日、ボランテァで釜石東中学校に行き、お茶タイムの時、副校長の村上洋子先生から「子供達にいい音楽をきかせたいのよね〜」といわれた。そこで、すさかず「東京交響楽団でチェロを弾いている方、ボーマンというスエーデンの方ですが、知っていますから話してみますか」といったことがあった。

 そこで、その話をボーマンさんに持ちかけたら、「OKです、私も奥さんといろいろ、ボランテァでアッチコッチに演奏会で行っています。7月3日は福島で行うので4日はどううですか」との、即答だった。早速、電話番号を調べて(朝日新聞釜石支局に)、釜石東中学にお電話をさしあげた。その日、村上先生はお休みで、お電話に出た男性教員と校長先生が検討された結果、折り返しのお電話で「その日は学校行事と重なり、時間が取れません。申し訳ありません」と断りのお電話があった。ボーマンさんの奥様(ピアニスト)からも快諾を得たばかりだったので残念でならなかった。

 やはりこのようなことは、ジックリ時間をかけて、刷り合わせをしないと成就しないものかもしれないと反省をした。
                  2011年6月5日 御在所岳
 前日の夕食時、突然に娘が「明日御在所岳に行こうか」と話しかけてきた。父親のトレーニング不足を案じて娘が気をきかしてきたものと感じ、笑顔で「いいよ」と返事した。昨年10月に下山後、僧ケ岳しか上っていないから、8ケ月間も山とはご無沙汰だった。当日は労山の清掃山行日であることをラジオで知っていたので、駐車場の関係もあり6時に出発した。駐車場につくと見たことがある男性がいた。もしやと思い「千春か」と声を掛けると、「そうです」との返事、矢張り畠山千春さんだった。彼とは新日鉄の山岳部で一緒だった。所内報に部員募集のコーナーがあった。呼びかけ人には二人の名前があった。山田明美と畠山千春であった。この二人の名前に心ゆすられ入部した部員が何名いたのだろうか。いずれもごっい男性だったのに。彼は職場の友人と来ていた。

 裏道をゆっくり小一時間も歩くと藤内小屋に着く。小屋主の神谷さんご夫妻はじめ、2008年秋、水害で被災して以来の、ボランテァの皆さんの元気なお顔があった。本棟は完全に復旧していた。2008年の秋には娘も重い石を運んでボランテァした。私は5泊ほど泊り込んで土砂の片づけをした。その後はウィークデーしか来てなかったので神谷さんに会うのも久ぶりだ。美味しいコーヒーを頂き、ボチボチと登った。藤内壁に取り付いている人が多い。前尾根などは渋滞だ。頂上に着いたら、違うルートから登ってきた千春さん達とまた会った。62歳になる彼は、還暦を機会に山を再開したという。もともと馬力があるから、すぐに復活するだろう。職場の友人は、池の平小屋に関心をいだいていたので、いっか来るかも知れないと感じた。

 分かれて、私達親子はまた裏道をおりた。藤内小屋ですこしばかり材木の片付けをし、山の花を愉しみながらくだった。帰りはいつも湯の山にある、グリーンホテルの大浴場で汗を流すのが常で、この日も湯を愉しみ帰途に着いた。娘と出かけると楽でいい。
          
                  2011年5月10〜17日 被災地へ
  311日の東日本大震災から生活のリズムが変わってしまった。震災直後から釜石行きを考えていたが、4月に家の外壁工事などを昨年末に契約したことや、車に乗らないエコ人間なので躊躇していた。4月末に工事が終わり、しかも東北新幹線が全線復旧した。混雑するゴールデンウィークを避け、510日に出発した。

 東京までの新幹線はいっものように喧騒であったが、案の定、東北新幹線はガラ隙であった。宇都宮まではそうでもなかったが、郡山近くなると屋根にブルーシートをかけた家が目に付くようになった。ほとんど棟の合わせ目の跳梁部にある棟瓦が崩れたようで、丁寧に棟瓦部だけをシートで包んでいるところも多い。仙台に近くなるとその光景も連続して目に飛び込んでくる。東北新幹線新花巻駅を降りると、花巻、釜石を結ぶ釜石線に乗り換える。ボランテァらしき人が数人ホームにみえた。長靴をかかえた青年もいる。その数人も途中の遠野駅で降りてしまった。遠野には被災地支援のネットワークというよりも基地があり、ボランテァの皆さんの宿泊地や被災地への往復の交通手段などが備えてあるらしい。

 釜石駅の一つ手前の小佐野駅で降りる。ここは津波の到達地点より3キロ近く海岸より奥なので平常とかわらない町並みだが、他県ナンバーのパトカーや自衛隊の大型車両の多さに非日常を感じた。桜は終っていたが、山にはヤマザクラや遅咲きの八重桜が満開のなか兄弟二人で暮らす従弟の家に着いた。弟の勝君がいた。勝君は震災の時、海岸近くの大平(おおだいら)という高台にあるプールでひと泳ぎし、シャーワーを浴びていた時に地震にあったという。急いで海沿いの国道を下り、市街地を抜け家に帰った。私は大平という場所が分からず尋ねたら「今から案内するよ」ということになり夕方だったが車で出発した。

 JR釜石駅を過ぎる頃から、信号が機能せず警察官が交通整理をしていた。道路の左右にはガレキの小山が続いた。テレビでみる映像そのものだった。急坂を登ると平地があり、ここが大平のプールですと教えてくれた。仔細に観察すると駐車場や建物にも亀裂が確認できた。プールは鍵がかかり当分休業の様子だった。戻るべく、急坂をくだり海抜ゼロメター近くなると渋滞しはじめた。震災直後も、このルートは渋滞した。逃げ場のない地形のため沢山の車両が被災したとのことだった。道の両脇の側溝には石灰のようなものが撒かれ白い線となっていた(のちほど消毒用の消石灰と知った)。その横には倒壊した家や車が重なりつづいた。


 11日午後は、勝君、時間があるから釜石より北部の被災地を案内してくれるというのでお願いをする。出発前、近くの防災用のスピーカーから、震災発生からちょうど2カ月ということで「黙祷をおねがいします」と放送があった。釜石の悲惨な惨状の市街地を抜け三陸海岸沿いの道を北上した。鳥谷坂トンネルを抜けると、土ぼこりの中、両石(りょういし)という漁港の惨状が飛び込んできた。ガレキを取り除いただけの簡易道は大型車両で混んでいた。交差点は信号がないので慎重な運転となる。窓を開けると悪臭が漂
いた。その後、鵜住居(うのすまい)、大槌町の吉里吉里(きりきり)の浜を抜けて山田町にはいり浪板海岸沿いを走り宮古市の近くまで行き戻った。大槌では、おじいさんが涙を流しなら杖にすがり坂道を歩いていた姿が目に焼きついた。鵜住居の被災地では早くも一軒コンビニが営業をはじめドライバー達で混んでいた。被災地のなかで営業をしていた店は山手にある道の駅とここだけだった。

 帰途、勝君に上栗林は近い、と聞いたら、「行ったことがないけれど近いんじゃない」との返事。行ってもらうことにした。実は新日鉄名古屋製鉄所時代の先輩が、定年後、東海市の家を売り払い、故郷釜石市片岸町に家を建て住んでいた。震災当日は、奥さんと盛岡の辺をドライブしていた。すぐ片岸の自宅に戻ったら家はなかったという。そして、上栗林集会所で避難所暮らしをしているとの情報が、元同僚から出発前によせられていた。鵜住居から国道を
20分ばかり鵜住居川に溯っていくと集会所があった。片岸町の方ばかり560人収容のこじんまりした避難所であった。訊ねると佐々木さんは病院に行き5時ころにならないと戻らないという。5人ほどの方とお話ししたが、皆さん明るい方ばかりで、「せっかく愛知から来たのだから泊まってゆけ」と誘われるほどだった。仕方がないのでメモを置き、集会所をあとにした。

 その後、釜石港の岸壁を見に行った。魚市場も大変な状況だった。隣に海員会館が建っているが、二十歳ころ、この会館の
2階で板前をしていた。津波により1階は壊滅的であった(会館自体はなんらかの事情で閉鎖されていたようである)。船舶の荷揚げ用のクレーンが傾き、巨大な鋼鉄製の外国船が堤防の上に乗り上げていた。あまりの重量に堤防を割り喰いこんでいた。岸壁も沈下し亀裂も入っていた。魚市場の裏手には、魚の加工や漁具、船舶の修理場などの施設がならんでいたがいずれも壊滅状況だった。その裏手は急峻な崖となっているので、働いていた方の安否が気遣われた。海岸周辺を仔細に見て家に戻ると、勝君「今朝和さん、5時にまた栗林集会所に行ってもいいよ」とのことだった。

 話し変わるが、今回被災地に出かけると、私が運営している池の平小屋のホームページに書いたら、沢山のお客様や山仲間からエールのメールを頂いた、そのなかに四国香川県のお客さんから、被災地の皆さんへと名産“讃岐うどん”が送られてきた。また近所の畑で収穫された“新玉葱”を被災地の皆さんへと20kgばかり抱えて釜石にやってきた。早速、讃岐うどんと、新玉葱を車に積み込み再度集会所にむかった。佐々木さんは戻っていた。集会所ではリーダー的な存在で気苦労も多いようで、ふっくらした体型はほっそりしてしまった。奥様は実家に近い、違う避難所にいるとのことだった。一気に思い出の品、人生の生き様を記録したパソコンなどを失ったことを悔やんでいた。今度は高台に小さな家を建てたいとのことだが「いいところの、地代はあがってね」との声も低かった。ここの避難所は同じ集落の方ばかり集っているので、気心も知れているので住みやすいといっていた(6月中旬に確認したら仮設住宅に入ったとのことだった)。

 12日は、中学の後輩にアッシー君を頼んでいた。2級後輩の藤井君である。釜石には花の百名山にも選ばれている五葉山という名山が聳えている。高校1年の5月、中学生だった藤井君と、彼の同級の佐々木君を連れて五葉山に登った。8合より上は残雪が広がって厳しかった。それから3年後の昭和52年、高校卒業後、東京で電気の専門学校生だった藤井君に暑中見舞いをだした。長野県白馬村からである。当時私は白馬岳で小屋番をしていたのだが、そこからの投函だった。驚いたことに7月末に「今朝和さん、夏休みの間働かせて」といって藤井君は突然にやってきた。そんな、かんだでお付き合いは続いていた。彼は、電気製品の修理などの会社をたちあげていた。

 現在は釜石より以南の大船渡市、陸前高田市が作業エリアだという。私は、三陸海岸は大船渡市の半分しか行ったことがなく、是非行って見たいと思っていたので、仕事中の彼に無理を行って頼んだ。
釜石港から大平の高台を過ぎ平田港を左にみて行くとひとつの集落があった。釜石市本郷である。昭和の大震災で壊滅したところであった。そのご道路を築くため掘り起こしていたら、2体の白骨死体が抱き合うように発掘されたと資料にでていた。集落を車で一周していたら、不思議なことに気がついた。山手を囲むように築かれた道路より上はまったく損壊はなく、道下に区画された新しい道路、住宅は一件残らず津波に襲われ更地のようになっていた。

 道路より上は旧家やお寺があり、下は新築したばかりの家並みであった。
被災者の姿をみると直視できなかった。その後、三陸町越喜来(おきらい)湾にでた。ここは、311日午前中、電気製品の修理を頼まれた藤井さんがいたところだった。昼前に修理が終り、山手を走っていたところ地震に遭い、急遽家に帰ったとのことだった。震災から数日たち行ってみたら、越喜来の町も津波の被災を受け、修理した家も流され消息不明という。車で走っていると入江という入江はすべて破壊されていた。ただ一ヶ所、吉浜という浜は被害がなかった。ここより下に家を建てるなという先人の教訓が守られた集落で、人家には被害がなかったという。浜をみると津波に襲われたのは、浜近くに耕作された田畑だけだった。その後、大船渡市のメーインの町、盛町に向かった。藤井君はここで仕事があるとのことだった。盛町には、小学6年の時の恩師が住んでいた。

 震災後、先生になかなか連絡が取れなかったが、
4月中旬にやっと電話が通じた。藤井さんの作業中に先生宅を26年ぶりに訪ねた(前回は昭和60年)。先生宅の下まで津波が押し寄せていたが、十数メートル下で止まった。先生はお元気そうであった。以前はメガネをかけていなかったのに「老眼がすすんだら、近眼のメガネ入らなくなったのよ」とにっこりされた。先生は77歳になったという。先生宅の横は大船渡市の文化会館のようであったが、避難場となっていた。しばらく歓談し、お店で先生に昼食をごちそうになった。食堂は復興関係者の行列で混んでいた。藤井君の仕事もひとつおわり、陸前高田市に向かった。ガレキの平野を進んでいると、カーナビから「踏切があります、注意してください」と声がした。線路も何もないガレキの中につくられた道だった。「目印となる建物がなくなったから、今、自分がどこに居るのか分かりづらい」とハンドルを切った。走っているのはガレキ運搬の大型車両と、懸命に撤去作業に邁進する自衛隊の車両であった。松並木が素晴らしかったという浜辺も、松もなぎ倒され見る影もなかった。

ここからまた大船渡市に戻った。途中、碁石海岸という風光明媚な景勝地で降りた。「2時間ほど仕事があるから、ここで待っていて」とのことだった。この浜も、海岸沿いの建物は津波に押し潰されていた。お年寄りがいたので話しかけると、家をやられ避難所暮らしをしているという。わかめの養殖をしていたが、「収穫直前に全部、津波にもっていかれた」と、諦めたように語っていた。再興のため、イカダなどを準備すると一千万円かかるらしく、慰めの言葉もでなかった。近くに被災を免れた温泉宿があった。お年寄りが出入りしているので伺うと、被災者に無料で開放しているので、避難所から通っているようで、入浴後の顔は疲れが取れたのか安堵の笑顔があった。

 近くに「けっぱれ大船渡」と書かれたレストハウスがあった。再開したばかりらしい。小雨のなか入ると、嬉しいことに昆布茶がだされた。売品をみると加工された海産物が置かれていた。昨年収穫したものだという。そのカウンターのなかに
3冊の本が置かれていた。そのなかから『さんりくのむかしばなし』(平成123月発行・三陸町老人クラブ連合会編集発行)、『三陸のむかしがたり・津波の思い出』(平成4年7月4日発行・三陸町老人クラブ連合会編集)を求めた。『津波の思い出』は三陸海の博覧会開催にあわせた、明治、昭和の津波の被災者の皆さんの体験集であった。私はタイトルを見て、大震災後にまとめたものかと錯覚したほどの、時宜を得た本であった。

 早速読んでみると、今回の被災者の皆さんが、この本を読んでいれば助かった人が多かっただろうにと感じた。藤井君の車に乗っていると、
230分おきに仕事の電話がかかってきた。そのたびに彼は路肩に車を寄せて留めた。感心してみていたら、2度捕まったことがあるという。岩手県警は、愛知県警よりもこの事に関しては仕事熱心のように印象付けられた。夕方、もう一件仕事が入った。洗濯機が動かないという。新興宗教法人のビルであった。このビルの外階段に、近くのパルプ置き場から流れきた、直径1mほどで、長さ数mの巨木が突き刺さっていた。異様な光景であった。藤井君が修理中に、教主がきて私に問答をしてきた。この被災からも「悟りの縁を求めよ」のように語っていたが、凡人の私には、ガレキと異臭につつまれた町からは、創造主の姿などは思い描けなかった。

13日は、夕方中学の仲間がミニ同窓会を開いてくれるというので、休養日とし、先輩の営んでいる喫茶店、さらに小5年の時の担任の佐藤先生宅を日中に訪ねた。先生は88歳独身である。心も身体もお元気で、芸術活動やボランテァもされている。時々、長時間お電話でお話をしたりしているが、このときも2時間余先生の思い出話をうかがってきた。その後母の実家を久しぶりに訪ねた。従弟とその奥様との歓談はゆったりした時間だった。還暦を迎えた従弟の体調が今一なので早く回復を願うばかりである。

 5時から同級生が集った。このようなときに飲んでいいのかと危惧したが、町にお金を落すという観点で「いいんだ」となり集った。鉄と魚の町釜石には呑み屋さんが飛びぬけて多い。作家の井上ひさしさんの『花釜物語』で有名になった“のんべい横丁”はじめ何ケ所か居酒屋の集落地があったが、いずれもこの津波で灰燼に帰した。幹事は佐藤君で、そのような訳で中妻(なかづま)町の“樽”というすし屋さんとなったらしい。
中学の同級生もみな仕事を離れたが、幹事の佐藤君はギターを佐々木君は
高校で絵を教えているという。なかなか趣味も大事なものである。

 14,15日は従妹のご主人の実家が平田という浜で、津波の被害を受け解体処分となったため、手伝いを出発前から依頼されていた。一族が小さな集落を築いていたが津波でどの家も損壊を受けていた。ご主人の実家は三陸鉄道の橋脚の近くのためか倒壊まではいかなかったが2階近くまで塩水が入り込んでいた。木造で流された家具がそのまま残った家。1階だけが波が通り抜け、神棚や鴨居にかけられた家族写真がむなしく揺れている家。庭には小船や漁具が散乱し、隣家の白樺の根元に植えられていたすずらんが白い花をつけていたのも印象的だった。その家は、鉄筋の2階建ての家だったが、波の力は1階の基礎の部分を、数10cmも掘り起こしていることには驚いた。

 また、少し小高いところに漁具倉庫があり、そこも
1mほどの高さで津波に襲われ、扉7枚中3枚が損傷しただけだったので、その倉庫内の清掃、扉の補修後、本宅の使える家具、寝具などを倉庫に移動することだった。8名参加したが、私の仕事は、ガラス扉の補修で鍵を掛けられる状態にする、という大工仕事とだったが、道具などが少なく知恵の輪をひねっている感じだった。結構、被災宅からの盗難、空巣もあるらしく、皆さん神経質になっていた。被災後、玄関は鍵をかけているものの、壊れた、窓、壁から忍び込む不審者もいるらしく、ご主人宅も2階に置いていた貴重品が無くなったといっていた。14日は、本宅から倉庫に目一杯使えるものを運んだ。実家にはお父さん、お母さんが住んでいたが、たまたまお父さんが、安全圏にある病院に入院し、お母さんは付き添いをしていたため無事だった。ご主人は岩手県の漁業取り締まり船(アワビなどの密漁を取り締まる)の船長で、311日は、非番で船の中で少ない乗組員と留守番をしていたという。その後、二手に別れ逃げたが、違う方に逃げた乗組員は命を落とされたという哀しいお話しをされた。

  15日は、ご両親が架設住宅に当たったということで、引越しの手伝いや、昨日倉庫に移動した寝具などを仮設住宅に運搬した。出来たばかりの仮設住宅は、狭いながらも快適そうにみえた。でも、プレハブなので隣室の音も聞こえるし、玄関は外で、雨の日は切ないだろうと感じた。ご両親の入った仮設住宅は、公園の近くの空き地で、近くにスーパーも何軒かあり最高の環境と感じた。住宅には、テレビ、洗濯機、電子レンジ、冷蔵庫、電気炊飯釜、電気ポット、風呂、トイレ、食器、調理器具、物干し竿、寝具、小さなテーブル(2脚)などが用意されていた。

 16日は、持参の長靴を履き、釜石市のボランテァ・センターに出かけた。まず、ボランテァ保険に入り、さらに申し込み用紙に、氏名や車の有無などを記載すると、マッチングという調整コーナーに行き、行き場所を決められる。車が無いということで、少し待たされたが、直ぐ車の方がみえてペアーとされて、廃車関係のコーナーにまわされた。市内だけでも車両は1000台以上も被災されたようだが、その半分程度が浜から近い釜石警察署(4階建て)と隣接する沿岸運転免許センター(2階建て)の広大な駐車場に運ばれていた。駐車場にはいたるところガレキに満ちていた。そのなかで自衛隊の方々が重機やスコップで片付けていた。そのなかで、私と花巻から来たという青年とふたりで、車の持ち主に対応するというのが仕事であった。

 この日は風が強く、臭いのする埃が舞うのでマスク・眼鏡は離せなかった。自分の車を探す人。廃車届けをするため確認に来た人。亡くなった子供さんの車を尋ねるご夫妻車の中の貴重品を探す人。駐車場の真ん中にある警察署、運転免許センターは甚大な被害を受け機能がマヒしていた。免許センターは運転の講義が行なわれていたらしく、1階にも、2階にも教材が散乱し、汚泥がフロアーに充満していた。警察署の2階の屋上には乗用車が1台乗っかっていた。釜石には各地から応援の警察車両が派遣されていたが、廃墟となった建物を視察したり、写真に納める他県の警察官もいた。「釜石の警察官はいないのか」といって詰問する方もいて複雑な気持ちになった。機能のマヒに気づかず、免許証の書き換えに来た方や、車庫証明を欲しいといってくる方もいて、まだまだ混乱して居る様子が如実にみてとれた。強風と大型車両が陸属する中、昼食する場所がないのには一番困ってしまった。

17日、この日も朝8時からボランテァ・センターに向かった。昨日と同じでいいかと聞かれたので、違う仕事を希望した。3人でひとパーティの仕事であった。センターから近くの釜石中学校に向かった。体育館や小講堂も被災者の避難所になっていた。依頼主は釜石東中学校であった。鵜住居の海辺にあった、釜石東中学校は被災し廃墟となり、釜石中学校に間借りするような形となっていた。釜石東中学校の生徒達は津波教育を学んでおり、逃げる時も、附近の小学生、保育園児たちを連れ立って逃げ、一名の被災者もださなかった。その行為は賞賛された。

その釜石東中学校からの依頼であった。ここの教師からの発信で沢山の慰問品が届けられていた。仕事の内容はこの慰問品の整理区分けであった。行くと直ぐに、子供達へのファイルの仕分けであった。色彩別に同学年に公平に配らなくてはならなかった。その後は、学生服を2階の小講堂に運び上げ、サイズごとに分類する仕事だった。これがなかなかの仕事だった。新品のもの。継ぎはぎのあるもの。名前が書かれたもの。上下揃っているもの。私立の学校で校章が刺繍されたものなどなどである。これを、とにかく、服とズボンのサイズごとに仕分けた。女子用のセラー服は数が足りないようだった。

 ワイシャツもあったが数が足りないとのことだった。先生のお話しでは、公平感が大事で
1着でも足りないと没になることだった。いろいろなものが送られて来ていたが、200人分ないと配れないというジレンマがあった。とりあえず、生徒達は同じジャージを男女とも着ていた。先生の考えでは、女子用のセラー服は予算で買おうかと悩んでおられるようだった。学生服の仕分け中、授業が始まっているのに小講堂で泣いている女子生徒がいた。先生が親身に話しかけても泣いたままだった。休み時間にお友達と見られる生徒が親身に語りかけていた。先生のお話ではご両親を亡くされた子供さんのようだった。子供達は一人ひとり重荷を背負っていた。

この日の夕、釜石の山の先輩達(アトラス山岳会)が宴を企画してくれた。幹事は池の平小屋にも小屋明けなどに4回登っている、棟梁こと、菊池(英)先輩だった。山仲間の行きつけの食堂にはコゴミ、アイコ、シドケ、タラッポなど山菜づくしであった。昔話に興じても、アトラス山岳会の仲間達が6名ほど今回の津波の犠牲者となっているので、行き着く話題は追悼会のことであった。この席に、渡邊先輩が津波の惨状などを撮影した写真を複写したものを呉れた。迫力ある写真であった。

 18日、この日もボランテァ・センターにむかう。前日気の合った3人は今日も一緒に釜石東中学校でボランテァとなった。
ひとりは釜石生まれで、東京在住の50代らしき女性。もうひとりは地元釜石在住の30代の青年。彼の職場は津波で壊滅し、解雇され失業中との事だった。本社は大阪にあるとのことだった。「大阪に行かないか、といわれたらどうするの」と訊ねたら、仕事が欲しいから行きますと彼は真っ直ぐこたえた。今日も荷物の仕分けで、全国から寄せられた辞典類の整理で、廊下に長テーブルをならべ、その上に各種の事典類や読み物を、手に取りやすいようにならべた。

そのご、昨日仕分けした学生服を生徒が選びやすいようにとの先生のアイデァで、11枚学生服にサイズを書いた付箋を取り付けた。昨日もだったが、担当の村上副校長(女性)は気配りのかたで、10時と3時にはコーヒをいれてくださり、床に座り込んで津波のこと、子供のこと、自分の生活のことなど忌憚なく話してくださった。最後に清掃をおえて帰ろうとすると、記念写真となり、その後、校長先生から感謝の挨拶があり解散となった。釜石の青年に明日はどうすると聞くと、「仕事探しに職安にいきます」とこたえた。東京の女性は明日は決めていないという。私は釜石は今日で終了ですと告げた。

 19日から23日まで、父の実家の奥州市江刺区で田植の手伝いと決めていた。水沢駅に着くと、甥っ子が仕事帰りに迎えに来てくれた。内陸部もかなりの揺れで被害があったらしく、
所々、道路に亀裂が入り通行止めとなっているとこがあった。実家も外壁などが、かなり損傷を受けていた。3月11日より、4月7日の揺れで室内、風呂場の壁などが崩れたとのことだった。裏山にある神社の石の大きな鳥居も落ち二つに割れていた。お寺の墓石も倒れているところが多くあった。連日8〜10時間、畔の草刈りに汗を流し、24日仙台にむかった。

 24日は、仙台市泉区の同級生宅に泊った。同じ泉区でも被災している所とそうでないところがあった。同級生の話では、埋め立てて、造成したところは地盤が軟らかく、損傷を受けている家屋が多いといっていた。夕食の時、同級生の山好きの知人、2名もお呼ばれで参加た。地震の体験談から始まり最後は山談義となった。

 25日は郡山に移動した。小野さんという池の平小屋に縁のある方宅に一泊した。郡山は原発地より5〜60キロメートル離れているが、地形の関係で放射線の価も高く、小さな子供さんを抱えている方に動揺があり、疎開をさせている方もいるとのことだった。行った時、話題になっていたのは、家庭菜園のことだった。畑の土の放射線の濃度が気になるところで、植えるかやめるか逡巡していた。また、たまたまなのか、洗濯物は室内に干していた。原発の影響は計り知れなく、目途が見えず皆さん不安を抱えていた。

 26日は、いわき市の同級生宅に、高速バスで移動した。常磐高速道もかなりの被害を受けたようだ。道路はゆがみ、波打っていて乗っていて船酔いのように気持ち悪くなった。
 迎えに来た同級生は、直接浜通りの被災地を案内してくれた。被災したガレキの光景は見ていて気が重くなるものだった。道ばたに座り込み、茫然としているお年寄りの多さも気になった。

 同級生は会うなり、1月に食道癌が複数みっかり、2月に1回目の手術をし、震災の前日、10日に2回目の手術を受けたと話した。本来の病室は空いていなく、4階の長期入院患者の病室で点滴を受けているときに地震に遭ったという。地震が治まったら、患者は全員外に出るように病院から指示が出たという。同室の患者で歩けれない人がいて、気丈な彼は、片手に点滴装置を抱え、片手でその患者を担ぎ、階段を一歩一歩歩き、外まで逃げたという。落ち着いて病室に戻ったら、病室が足りないから、3日後には強制退院となった。その後、秋田で農業を営んでいる長男さん宅に身を寄せ、回復をまって、4月上旬に、いわき市に帰ってきたとのことだった。運良く同級生宅は被害には遭っていなかった。
 
 話をしているうちに、奥さんが、私の弟も山が好きで海外の山なども沢山登っています。といって弟さんが、遠征中に必ず送ってくるという絵葉書、それに1985年のK2登攀の遠征記録を読まさせていただいた。弟さんの飛田和夫さんはクライマーでK2登攀では隊長をされていた。池の平小屋の管理人としては不思議な縁を感じた。また、千葉に住む次女の方も、私と同じように災害地ボランテァとして実家をベースに活動をされていた。ちかじか、釜石にもボランテァに行きたいと元気に話していた。

 翌27日は、同級生夫妻と昨日とは違う、小名浜市の被災地を車で訪れた。地震から2ヶ月余たってもなかなか復興の兆しは感じられなかったが、高台にある展望台からは海が美しくうねり、空の青さも、何かを予兆させてくれた。その高台から一日も早い復興を心より祈った。


                  2011年5日9日
 
昼前に妻に電話がきた。妻は長年スーパーで働いているが、棚卸の日程が変わったとかで今日は休んでくださいとのことだった。「おとうさん映画みにいこうか!」、「いいね」。実は、映画「岳」(ガク)を封切り日に見に行こうと計画していた。でも薮用がはいり繰り延べとなっていた。
 早速、映画館にむかった。感想はひとこと素晴らしいだった。構成も、俳優も映像もいやみがなく、抑えた表現がよかった。生と死、山での安全、山岳救助隊、事故、など小屋番生活の日常と重ねて没入した。作者の人生観に魅入られた作品だった。
1年に一作ぐらいは山の映画あってもいいよねと、感じた。
 あすから岩手県の釜石に10日ほど行ってきます。釜石は故郷です。親戚、身内は沢山在住していますが、津波による被災は1軒だけでした。でも、山の先輩や、他のもろもろの知人が10名ちかく亡くなりました。回向と、ボランチァをかねて三陸の海岸を見たいと思っています。その後は、父の実家の奥州市で田植えを手伝い、そのご仙台、福島の幼馴染と歓談し25日前後に愛知に帰る予定です。しばらくは、ブログもお休みです。ちなみに、今年の入山は7月2日です。

                  2011年5日8日

 40年来の山仲間、池の平小屋の小屋明けメンバーの中心の吉沢さんが「タケさんのところに行こう」と数日前にやってきた。吉澤さん、タケさん、それに、私の3人は昔、茜山岳会の花の昭和20年生まれの3羽カラスであった。夏、冬、春などの合宿では、3人で共同装備をからなにからなにまで担ぎ上げた。いわば、ボッカ3人組みであった。そのタケさんが事故で頚椎を損傷してしまった。7年前のことであった。それ以後、気にかかっていたが、タケさんの自宅は遠地のため賀状だけのお付き合いとなっていた。少し痩せたが、柔和で無口は変わらなかった。酒も飲んでいるといってビールの栓をあけた。私は、入山をひかえていたので、4月からほぼ禁酒(妻と娘が嘘だろうとうしろで呟いています)
状態でしたがついつい楽しくの飲み続けてしまった。茜山岳会は家族ぐるみ、ファミリー山岳会といった山の会だったため、タケさんの二人のお嬢さん、奥さん、お母さんなどと時間を忘れるほど歓談してしまった。青春をともにした仲間は、珠玉のように大事におもう。3歳のころのタケさんの娘さんを担いで鈴鹿に登ったことがあったが、その娘さんが「夏休み、おじさんの山小屋でアルバイトしょうかな」のことば、隔世などという陳腐な表現以上にただただ嬉しかった。

                2011年5日4日
 ツバメの巣作りは観察していて楽しい。夫婦で協力して作るのだが、見ていての感じだが分業しているようにみえる。オスは泥を運び壁に塗りつける。その間メスは近くの物干し竿で枯れ草を咥え待っている。でも待てずに何度も巣作り最中のところに行くが、オスが巣全体を羽を伸ばして覆っている。乾燥を促しているようだ。乾かない内にメスが枯れ草を泥のなかに埋めようとすると泥が下に落ちる。その判断をオスがしているようだ。オスは棟梁でメスは手元、助手のようにみえた。オスの頭の中には設計図があるのかもしれない。

                  2011年5日3日
 若いツバメさん夫妻、巣作りの経験がないので作れるか心配だったがヤット作るようである。数年前に巣は作られたのだが、その後、スズメやカラスに襲われ、巣に穴が空いたりして、ボロボロになっていたが、いっこうに補修もされずだったので、子供の代には巣作り、補修は伝達されないのかと観察していたが、今年の訪問者はみこしをあげたようで、壁のあっちこっちに泥を塗りはじめた。
 なかなか、泥が着かないようでどこに着きやすいかの実験中のようである。
 この日、四国の常連の山地さんから、釜石の被災地の皆様へと、2度目の名産が送られてきた。本当に心に沁みる御厚情である。ありがとうございます。しっかりとお届けします。

                  2011年5日2日
 若いと思われるツバメ夫妻巣作りを決心したようで、元有った場所などを入念に探っているいるみたい。さて。

                 2011年5日1日
 大工たけなわです、釜石に出かける、10日までにと頑張って出部屋(登山具置き場)と倉庫造りに大変です。昨日、我が家にもツバメがやってきました。でも巣のあった壁の工事をしたため、ツバメの巣はなし。ツバメは何度も行ったりきたりして可哀想です。それのため大工仕事も落ちつきません。
 昨日の新聞に、白馬岳の大雪渓で雪崩事故を報じていました。ゴールデンウィークの時期の、大雪渓は、若い頃白馬の山小屋で3シーズン働いていたこともあり、10数回以上歩いています。春先の降雪状況によりかなり毎年状況は異なります。私の大雑把な経験では、この時期に、10〜15年に1回は雪崩が発生しています。ゴールデンウィークに白馬岳を目指す方は、入山1月前からの降雪状況、温度などをチェックし、白馬村からなどから情報を得、さらに確認され登山して欲しいと、白馬村を第2の故郷と思う管理人は願っています。

                   2011年4日30日
 今日は散歩の途中にわらびなど収穫し、畑で草取り、そのご出部屋と倉庫の作り直しをしていると、富山のモンロー会の岩城さんから電話があった。大正初期から戦中まで池の平にあった小黒部鉱山の解明、調査は私の20年来のライフワークですが、特に大正初期の、滑川市から馬場島にいたる鉱山道の同定、確定はネックとなっていた。昨年10月、小屋締め後、岩城さん(滑川市出身)の手を借りて滑川を基点に調査を開始したが、途中でルートが不明となり断念した経緯があった。
 そこで、私が5月に富山にでかけて続きをやろうとのことだったが、ゆけなくなった。ところが、岩城さ

ん地の利を生かして、3月末から独自に調査を再開し、今日解明したとの電話であった。一ケ所天狗菱という岩盤の斜面があり、そこに隧道が掘られていると、古い記録に書かれていたが、その天狗菱
がみっからなかった。今日、矢張り富山のモンロー会の文山さんと、あっけなく見っけたとのことだった。夕方、嬉しいことに鉱山道探訪の写真が沢山届いた。懐中電灯も長靴もなかったが、文山さんは真っ暗な隧道に恐れず入っていったという。さすが、さすがの歓声を、しばらく富山にむけて発信続けなければと感謝しっつ思っている。おふたりさんご苦労様、岩城さん、文山さん。ありがとう。
参考 山沿いは一時晴れ
                 2011年4日29日
 今日は昼からS先輩と会食した。S先輩は2歳年上だがバイタリティーに溢れ、20代から演劇活動にのめり込み、その後、戯曲さらに昨年からは小説にいどんでいる。40年ちかく三交替勤務をしながら、仕事を終えた後に名古屋の劇団(劇団演集)で稽古をこなし、そして待望の発表会というハードな生活を続けてこられた。書くことに意欲のある私も、大いに刺激をうけた。S先輩のペンネームは「島田たろう」ですが、帰りに2冊の本を頂いた。1冊は『ある青春の足跡』、これは自伝を小説風にアレンジしたもののようである。もう1冊はやはりS先輩の戯曲集で『沈まなかった村』というタイトルであった。このように人生の生きざまの集成を、かたちでみせられると、自分の期し方に反省が生ずる。

 夕方、釜石の同級生の佐藤さんから一昨日に続き電話があった。どうやら、私の来釜に合わせて、同級生たちに声をかけているらしく、日時、会場、会費などのおしらせであった。どうやら、13日に、6〜7人集るみたい。このようなときに飲み会をしていいのかためらうが、私をダシにみんなが明るくなるのも満更ではない。佐藤さんありがとう。
 この電話のことを、仙台にいる同級会の幹事長の鈴木さんに報告したら、帰りに仙台に寄れとなった。もとより来釜の帰りは彼の自宅にお世話になるのが常だが、今回は、福島県のいわき市でも土田さんが待っているので管総理の視察よりハードかもしれない。

 さらに、夜、釜石の後輩に電話をいれた。彼は藤井君というが、彼が中学2年生のときの春に、五葉山に私が案内した。5〜6月のころで、頂上付近は残雪が多くなかなかルート選択が難しかった。その後暫くして、昭和41年の7月、彼に暑中見舞いをだした。そのころ私は白馬岳で小屋番生活を謳歌していた。藤井君は東京の蒲田か、あの近辺の電気学校に通っていた。7月末かにビックリすることに、彼は白馬村に私を訪ねてきた。そして、一夏、白馬岳の山小屋で私と同様に山小屋のアルバイトを楽しみ帰った。彼は、専門学校を卒業後釜石で電気関係の仕事をしている。エリアは広く、海岸ベリの市町を担当し車で走り回っている。電話をすると現在は気仙沼に通っているとのことだった。色々見たいし、ボランテァもしたいと考えているので、同乗を求めたら快い返事、長靴、マスク、手袋、めがねなど、藤井君から注意を受けたのでしっかり用意して5月9日に出発することにした。

                   2011年4日28日
 明日からゴールデン・ウィーク、サラリーマンのころはとても楽しみな期間だった。でも、息子の誕生日が5月1日だったので、その日を春山合宿から外すのに苦労したこともあった。池の平小屋の番頭の木下さん、それに小屋締めの棟梁の亀谷さんなど蛍雪山岳同志会のみなさんの春山合宿は穂高岳とのことで、天候に恵まれることを祈りたい。ちなみに、今冬は奥穂高を制覇したとのことさすがである。
 また、筑波大の友人の池田さんは、相棒の竹村さん(山でも東京でも常連)と日程が合わず一人でテント担いで谷川岳とのこと。また、モンロー会の登坂さんは「ふわく山の会」の山行で尾瀬近くの山々を楽しむようである。
 このような春の季節に「夏山」という詩を掲げるのは不似合いとおもいますが、掲載します。この詩は管理人が、20歳代(昭和40年代です)のころに創った懐かしい作品です。

              ”詩”  夏山
                (一)
        湧きあがる 雲のいただきが
          チカッと 光ったら
        三角と 半円の 小旗をひきつれた
          梅雨前線の 昇天だ

        梅雨明け宣言が 押入れを
          こうるさく ノックした
        ザックが うかれ調子で
         期待を飲み込んでゆく
        しめった 小屋よりも
         星空の大地でと 寝袋の抗議
        古株の テントは
          当然顔で ザックへ片足をいれ
           胸をたたいた
        片目で ウィンクしたのは
          ミスター・ホェーブス(*ホェーブス・ガソリンバーナー)
           本当に頼りに なる奴だ
        どうしょうもない 丸顔のコッヘルは(*コッヘル・キャンプ用の丸い鍋)
          炊飯音を 模している
        出番は ないよと
          雨具は 肩をすぼめた
        ローソクも 入った
         地図 食器 食糧も入った
        セーター ヤッケもよし
        ひさしぶりに 清水を 腹いっぱいと
         ポリタンは 目を細めた(*ポリタンポリタン製の水入れ容器)
        ロマンチストの ラテは(*ラテ・懐中電灯)
         雲上での 明滅に
          胸をときめかしている
        チリ紙 下着 財布 手ぬぐい  
         みんな入った
        ドン尻は カメラ
        スタンバイ オッケイと
          ザックが
           大きな口を キューと閉めた
               (二)
       残雪は 目を射
        空は 力強く あおい
       陽気な 雷鳥の親子は
        歓迎の ひくい声をあげた
       香りをもたぬ
        高嶺の花が
         そっと 夏を香っている
       肩はきしみ
        腰は おもい
       頬をつたう 汗は
        夏と 結合し 山に染みる

       ホラ あの岩陰から
        賑やかな 笑い声が たかい
       あちらからは
        陽気な 歌声が きこえる
       ひきずる 足音も
        喘ぐ 吐息もきこえる

       雲上に 浮かぶ
        縦走路には
       いのちの 歩みが 絶えない
       その点景は
        夏を かなで
       太陽の 分子のごとく
        ひかり 輝いている

                 2011年4日27日  小沢昭一さん
 今日で我が家の補修工事は終了である。外では足場外しの音が元気が良い。

 4月24日の朝日新聞(朝刊)に、俳優でありエッセイストの小沢昭一さんが「シブトク立ち直って・絆を強調 ちょっとだけ心配」、というタイトルで語っていた。とても含蓄があり考えさせられた記事だったので転載します。
 「・・前半略・・・。私のような大年寄りには、今回の被災地の光景はどうしても広島の焦土や戦後の焼け跡の風景とダブりますが、あの悲惨な状況から立ち上がって復興を遂げた日本なんですから、今回も必ず立ち直れると信じます。ただ、ちょっと違うところもあります。

 敗戦後は日本中が「茫然自失」の状態でした。昨日までの価値観が根底からひっくり返って、ただ「茫然」とするだけじゃなく、自分の存在の根拠さえ失った「自失」だったわけです。昨日まで「鬼畜米英」なんて言っていたのが、ガラリと変わってアメリカ礼賛の「民主主義」「自由」なんです。世の中、信じられなくなっちゃった。
 当時は「みんなで頑張ろう」なんてかけ声もなかった。みんな焼け跡で、今日を生きることで精いっぱい。てんでんバラバラに頑張るしかなかった。
 それまでの「一億一心」から、正反対の「てんでんバラバラ」。この「てんでん」というのは、個人一人ひとりの「自立」なんです。そのてんでんを深めよう、バラバラを深めようと、急に切り替わった。でも、バラバラの価値をどう深めていくか。それは大変でも、そのために戦争という大きな犠牲を払ったわけですからね。
 戦後はみんなが何もかも失って貧しかった。でもその代わり「自由」なるものを味わって、これにすがりつこうと思い、みんなが希望を持った。
 「今日一日の喰うもののない貧乏暮らしだけれど、今度こそ貧乏をバネに俺の好きな生き方をしょう」「大変だろうけど、やってみょうじゃないか」と、一人ひとりが独立心を持った。後に私の唱えた「貧主主義」が芽生えるのです。
 だから今回、「一致協力」とか「絆」なんてことが強調されるのが実はちょっと心配なんであります。いつかまた、あの忌まわしい「一億一心」への逆戻りの道になりゃしないかと、そんな気がするんですね。だから私たちの世代には「絆」ってにはちょっと怖い言葉なんです。耳にタコで、こりごりしている。でも若い人たちには初めての新鮮な言葉なんでしょう。いつの間にか意味がすり替わらないように、気をつけなくちゃいけませんよ。
 東北の皆さんはみな我慢強く、ねばり強い。それだけじゃなくて、実は底抜けに明るいユーモアの心もお持ちなんです。大変でしょうが、持ち前のたくましさでシブトク立ち直っていただきたいと祈っております。(ききて・篠崎弘)

                 2011年4日26日  四十九日
 松本市の常連でアマチュア・カメラマンの百瀬さんから以下のようなメールがありました。
 「出すぎたやつとおしかりを覚悟での協力お願い致します。24日大般若会に菩提寺(松本市中山 妙心寺派保福寺)に法要に行ってきました。
 28日は東北大地震の四十九日に当たり仏教界(表現が適切ではないかもしれませんが)、全国の寺で東日本大震災によってお亡くなりになられた方々に深く哀悼の意を表し、表記の法要を執り行うことになりましたので菩提寺に、または黙とうをお願い致します。
 住職は平服でいいから是非寺に出向いて欲しいと言っておりました。
出すぎた元檀家総代からのお願いです」。百瀬

 帰依する宗教、宗派はみなさんそれぞれですが、亡くなった犠牲者のみなさまを追悼、回向するお気持ちはみなさま普遍でしょう。それぞれの想いと所作で死者の御霊をなぐさめたいものです。

                 2011年4日25日  病魔と闘う人そして電力関係者から
 庭の片隅で藤の花が清楚だ。モッコウバラも黄のぼんぼりを灯しだした。しかし、ここのところスカットした青空がみえないので気分もいまいち晴れない。

 昨日、お客さまでアマチァ・カメラマンの磯さんから絵葉書が届いた。余白に「入院していました。今は元気です」とあった。昨シーズンお顔をみせなかったし、賀状も来ていなかったので、気になりお電話をさしあげた。お電話によると、肺ガンになり半年ほど闘病生活をされていたとのことだった。でも「今年は、行きます。そのつもりで、体鍛えています」と、私の心配心を受け付けなかった。さいごに「電話ありがとう、うれしいです」のひとことに、山を通じてしての交友はほんとにいいものだとつくづく感じた。待っています。

 また、富山のお客様で、年に2度は厳しいルートで池の平に登ってくるエキスパートの中村さんから、現実を直視するメールがあった。中村さんは北陸電力に長年勤め、現在は関連会社に勤めている。今回の大震災後、原発にたいする評価、東電に対する批判が厳しく一人歩きしている。そんななか、中村さんは電力会社の現場で働く人達にもっと温かく接して欲しいとの願いをこめてメールをくれた。以下長いが転載する。

 「私は、北陸の電力供給業の端くれでしたので福島第一原発の事故を非常に憂慮しております。福島県とりわけ発電所廻りの住民の方々に多大なるご迷惑を、心配をかけたことを私は元より電力事業に関係する者がみんな思っていることと思います。何とか事故が収束してほしいと願ってやみません。東電関係の方々は、「後ろ指さされる」「後ろから石を投げられる」やら「罵声を浴びせれる」やら大変な苦労があるのではないかと思います。そんな中被災者・被爆者でありながら必死に収束に向けて取組んでいることを理解してほしいと思います」。
さらに、以下の文は、マスコミで紹介されていましたのでご存知かと思いますがあえて紹介します。

   過酷労働もう限界、両親は不明…原発の東電社員がメール”2011年3月26日20時0分)
 「東京電力の福島第二原子力発電所で働く女性社員が、東電本社の幹部に、現場の状況を電子メールで伝えてきた。事故を起こした企業の社員であり、被災者でもある立場の苦しさもつづっている。両親の行方はわからないという。 メールを受けた幹部はかつて女性の上司として第二原発で働いていた。幹部からメール転送された東電関係者が、社員の名と所属を伏せて記者に見せた。関係者はいまの状況で見せることが適切なのか迷ったが、社員の希望でもあり、現場の様子を知る参考にしてほしいと話す。 メールの送信日時は23日正午過ぎ。送り主は46歳の事務職の女性社員だ。次のような内容でつづられている。

 1F(福島第一原発)、2F(第二原発)に働く所員の大半は地元の住民で、みんな被災者です。家を流された社員も大勢います。私自身、地震発生以来、緊急時対策本部に缶詰めになっています。個人的には、実家が(福島県)浪江町の海沿いにあるため、津波で町全体が流されました実家の両親は津波に流され未(いま)だに行方がわかりません。本当なら、すぐにでも飛んでいきたい。でも、退避指示が出ている区域で立ち入ることすらできません。自衛隊も捜索活動に行ってくれません。こんな精神状態の中での過酷な労働。もう限界です。

 福島第一、第二原発では、2010年7月時点で東電の社員約1850人、関連会社や原発メーカーなど協力企業の社員約9500人が働いている。東電によると、9割が福島県内在住で、そのうちの7〜8割は原発周辺の双葉地域の住民。事故後は東電、協力企業の地元社員だけでなく、全国から集められた社員らが交代で作業している。 被災者である前に、東電社員としてみんな職務を全うしようと頑張ってます。特に2Fは、自分たちのプラントの安全性の確保の他に、1F復旧のサポートも同時にやっていた状況で、現場はまるで戦場のようでした。社員みんな心身共に極限まできています。どうかご理解下さい。

 今回の地震は天災です。でも、原発による放射性物質の汚染は東電がこの地にあるせいです。みんな故郷を離れ、いつ戻れるかどうかもわからない状況で、不安を抱え怒りを誰にぶつけてよいのか分からない! それが今の現実です」社員はこの現実を社内外に届けてくださいと伝え、本社の支援を求めている」。終わり。

 どこでも、大変なのは現場で働く人々です。下請け、孫受け、ひ孫受けと、大企業になると作業形態も序列化され、下にゆけばゆくほど3K労働が厳しくなる。被爆されないように、怪我をされないように、身体を壊わさないようにと、元、製鐵現場で働き、その現場で、3人の山仲間を労災の名の下に失った経験をもつ私は、ただただ、お元気で家族のもとに帰られることを祈るものです。

                  2011年4日24日  虎舞の記事(クリック)
 昨日、釜石市の名物でもあり、郷土芸能でもある虎舞が、被災者を元気づけようと避難所で披露された映像をみた。懐かしかった。こどものころ、年に1度の秋祭り(山神さんの祭りといっていた)には、僅かな小遣いを握りしめ、心はずませて見にいったものだった。見世物小屋や駄菓子屋が沢山ならんだが、圧巻は虎舞だった。かね、太鼓、笛のリズムのなかで自然とからだが高揚してくるのだが、それにあわせて「釜石の虎舞 跳ね虎舞 一杯呑まねば 気がすまね〜」と囃子方から、威勢の良いかけ声がかけられ、それにあわせて虎が舞う。身体も心もうきうきする舞いである。中学生ころまでしか見てないが、体の中に刷り込まれているのだろうか、かけ声も、リズムもはっきりとおもいだせる「釜石の虎舞 跳ね虎舞 一杯呑まねば 気がすまね〜」。この勇壮な舞は、地元の方をしんから勇気づけるものとおもう。虎の舞(クリック)  虎が舞う ざわめく浜に 春の潮  白朝

                 2011年4日23日 仲間と先輩
 昨日、福島県いわき市に住む同級生に電話が通じた。何度も電話しても通じないのでどうしたのかと案じていた。話によると3月15日から4月2日まで避難所暮らしをしていたとのことだった。原発の放射能は安全圏だというので安心した。「余震が多く大変だね、寝れる」と聞くと、「な〜に、ゆりかごみたいなものさ」と、豪語し笑い飛ばした。さすが、子供の頃から物怖じしない大物、言うことが違う。18年前に、趣味の福島の鉱山めぐりで彼の家に2泊させていただいた。その時は、彼の元職塲、八茎(やぐき)鉱山を案内していただいた。彼は釜石の日鉄鉱山で働いていたが転勤で福島に移住し

た。そこでまた転勤話がでたので、日鉄をやめ八茎鉱山に移ったのだった。その後、鉱山の斜陽にともない鉱山を離れ、原発で働いていた。「まだ原発で働いているの」、「いや、12年前にやめた」。私はそれを聞いて胸をなでおろした。しかし、彼は自分のことより、11年前に、私が軽い脳梗塞をして入院したこと覚えてくれて、有り難い事にしきりに私の健康を気遣ってくれた。電話の最後に「釜石の帰りに、福島に寄れ、俺んとこ泊ってゆけ。いっぱいやろう」となった。いわき市は「がんばっぺ!いわき」で風評被害と闘かっている。応援に行くか!俺も!

 昨日もう一件、釜石に行ってきた元同僚から電話があった。佐々木さんという上司で、私たちの結婚式でも巧みな挨拶をされた方がいた。佐々木さんは10年前に定年後、生まれ故郷の釜石に家を建て引越しをされた。片岸町というところだった。6年前に、私が五葉山を登りに釜石を訪れた時にお会いしたら、お元気で登山にも関心を抱いていた。電話によると、佐々木さん夫妻は地震の時、遠地に外出で留守であった。戻ると家はなく、現在夫婦別々のところで避難所生活をされており、佐々木さんは、避難所ではリーダーをされていて大変忙しそうにしていたとのことであった。來釜のチャンスがあったらお会いしたいと思っている。

                 2011年4日22日   選挙
 
地方選佳境で畑にいると、誠賑やかである。政治など存外な好々爺であるが気になることもある。初日から「○○が最後のお願いに参りました」とボリュウムをあげ絶叫している選挙カーがあった。初日から最後とはこれいかにで苦笑した。会社辞めて5年目になるが、先月の初め、会社から後援会にと、以外にもお偉らさんがきた。以前は同僚の組合役員か直接の上司がくることが常だったが、その日はK大出のスタッフだった。健忘症で名前が出てこず焦ったあげく「今、何して居るの、仕事忙しい」と聞いてしまった。ぼんぼん風の彼は「○○工場のマネージャをしています。景気悪くて・・・」。「そう、頑張ってね」しか言えなかった。不思議に会社辞めても、元の職場の動向が気になるのは病気だろうか。

                 2011年4日21日
 発句
 このようなとき、このようなつまらないツブヤキを、してはいけないとおもうのですが。
   山がゆれ 海またゆれて 春止まる      白朝
   地がゆれて 電気産む炉に 春は来しや   白朝
 という、句もどきをつくった。     

                  2011年4日20日  小説と絵画
 昨日一冊の本が送られてきた。送り手は職場の先輩からであった。2級先輩のSさんは、製鐵会社に勤めながら演劇活動に全力投球をされてきた方であった。戯曲も手がけられ、私も名古屋のホールで演じられるSさんの作品を何度か感銘して拝見した。送られてきた本は準季刊の『名古屋民主文学』であった。同封のお便りには「・・・わたしは昨年秋、ひょんな事から『名古屋民主文学』に誘われ会員になり、小説の勉強を始めました。その処女作が暮れの号に掲載されましたので、その号を送ります。戯曲と勝手が違い苦労します・・・」。タイトルは「終着駅」、ペンネームは島田たろうとあった。大手製鐵所で働く鉄鋼労働者の哀歓を、ご自分のご経験などを下敷きに描かれた力作であった。長年創作活動を続けられてきたSさんだからできた所業だろうと感じた。継続は力であるを見た感じだった。私は大いに刺戟を受け踵をただした。

 昨日、17日に書いた同級生の佐藤さんから、同じく同級生の佐々木さんの電話番号を教えてもらった。佐々木さんの安否と近況を訊ねるためであった。風邪で伏せっていたが、でてくれた。被害はほとんどなかったらしい。彼は15歳から製鐵会社に勤めたが、一貫して絵に打ち込んできた。実さんは、子供の頃から絵が上手かった。小三の絵の時間、向かい合って、あいての顔を描くテーマがあった。私の顔を描いたのが実さんだった。一ヶ月後かに実さんの絵が釜石の代表になり、岩手県の選考会に出品となった。そのために大きな画用紙に書き直すことになった。居残りである。佐々木さんは、先生に前の作品と同じよう描くように言われていたが、黒く、黒人のような絵をみて、私は「俺はこんな顔じぁない」と睨むと、性格のおとなしい実さんは、優しい顔に描き直し先生に渡した。それを見て先生は「前と同じに書き直しなさい。あさとは帰ってよろしい」ということが有った。

 また、10数年前に佐々木さんは、釜石製鐵所勤めだったが、不景気のあおりで愛知県の豊田市にあるトヨタ工場に応援という名目でで派遣されてきた。陣中見舞いにビールを持ってゆくと、部屋は画材でいっぱいだった、私は「おー」とうなるだけだった。彼はそれほど絵画に打ち込んでいた。彼は二科会に属していた。以前何度か会うたび「入選までいくんだけど・・・」と語っていたので、「二科会のほうどおう」と、訊ねると「一昨年、特選になった、あとはもっと上をねらうだけだ」と、風邪を吹き飛ばすような言葉だった。佐藤さんの情報では、佐々木さんは、隣町の大槌高校の美術臨時講師を週一回ほど、また、月二回ほど絵画教室の先生をされているとのことだった。ネットで検索すると、実さんは二科会の岩手支部長をもされ頑張っているようで、絵の好きな同級生としては頼もしく思う。山も、絵画も高みをめざすことが生きる励みとなるのかも知れない。まず一歩。

                  2011年4日19日    山岳情報
 散歩にいくと、愛知用水の上をツバメが4羽飛んでいた。今シーズンはじめてみるツバメだった。早い時は3月15日ころに観察したが、平均は3月25日前後だった。桜も遅かったがツバメの飛来も遅れているようだ。
 もう、1週間あまりでゴールデンウィーク、春山登山の季節となります。富山県山岳警備隊より、3月29日づけで山岳情報が出されています。
 
 それによりますと室堂で昨年より残雪が多いとのことです。他の情報では室堂では、昨年より2m多いとのことです。剱岳方面に入山される方は、富山県登山届出条例に従い事前に計画書を提出し、入念で安全な行動をして欲しいと願っています。まだまだ雪崩の恐れもあります、充分に注意され登山を楽しんでください。

                  2011年4日18日   酸っぱいおもいで
 2、3日まえ、娘の同級生の幸ちゃんから電話があった。「あっ、葉子ちぁんのおじさん、お母さんがね、釜石にいくんだったら、薄くてフワッとした敷物もっていかないかだって」、「ごめん、おじさん車に乗らないから、かさばるものだめなんだ」。幸子ちゃんは、2007年に、この池の平小屋のホームページの骨格を創ってくれた。その後、年に1〜2回、我が家を訪れ更新を手伝ってくれる。キーボードをたたきながら家族のことを話してくれる。どうも、お父さんのことを話す時、お父さんとの距離を少し感じる。しかし、幸ちゃんは実の娘より、私になんでも話してくれる。話しかわるが、私は語尾診断で相手の感情をはかる癖がある。語尾の強弱。語尾の抑揚のあがり、さがりでどのような心持で話しているのかと巡らす。娘は私と話しているとき意外と語尾が強い。父親と娘の関係はこんなものかなと思っている。でも、ここ数年、娘と山や旅行を楽しむようになった。

 私も、中高のころは、娘や幸ちゃんとおなじだったとつくづく思う。生意気になったころ、おやじを疎んじく感じ、同級生の幸夫くんのところへ、勉強をしにと言って家を出た。愛子さんという名の、幸夫くんのお母さんは気さくなかたで、「あさとくん、よく来た、入りなさいと」歓迎してくれた。なんかの調子で愛子さんの肩をもんでやったら大変喜ばれた。母にもしたことがなかったが、要領はどこかで見て心得ていた。つくづく親子の関係、対話は遠慮がないだけに難しいと感じる。

                2011年4日17日   報道マンから近況
 今日は工事屋さんは、お休みで静かだ。陽気も良いので、午前中は畑の草取りと野蒜(ノビル)の採集を行なう。野蒜は溜まり漬けにして、今年も池の平小屋にあげるものだ。ここ暫く本格的な降雨がないため土が固くしまり、草取りも力任せで指が痛くなる。午後は、入山に備え体力増強のため、長距離散歩を楽しむ。

 昨日、嬉しいことに,友人から近況のメールが入った。
 某テレビ局の報道カメラマンからでした。山屋で、20代後半の彼は、仕事で池の平小屋にきたことがありました。そこで、池の平小屋を気に入り、その年の秋と、翌年の小屋明けにも来てくれました。その時は富山支局勤務でしたが、その後、北海道の北見勤務になっていました
 「・・・私は昨日まで気仙沼に行っておりました。これまで延べ2週間ほど気仙沼を中心に取材させていただいました。目の前の光景を見ては言葉を失い、被災者の方の話を聞き悲しみを感じる日々でした。菊池さんの故郷を思うお気持ちは、私が想像できるようなものではないのかと思います。
 生活状況が変わらず、つらい暮らしを強いられている人がいまだ多いですが、少しづつ前に向かって進んでいるのも感じました。漁師さんも出漁する人が出はじめ、飲食店も徐々に開きはじめていま

す。「前を向いてやるしかない」と、己を奮い立たせる人たちの力に胸を打たれました。時間はかかるかもしれませんが、東北は必ず復興すると感じました。厳しい状況にあるにもかかわらず、東北の人は私たちへの気遣いを忘れず、がれきを燃やしたお湯でコーヒーをいれてくれるのでした。そんな人たちの力に少しでもなりたいと私も考えています。被災者を勇気づける話題、生活に役立つ情報などを少しでも届けられるように努めていきます。・・後略」。元気でお仕事頑張って欲しいものです。
<追記>

私の映像が以下のホームページで見ることができます。
http://www.nhk.or.jp/eco-channel/
動画検索で『エゾシカ』と検索すると出てきます。
私が撮影したのは
「エゾシカ戦いの秋」と「自然保護と観光 両立を目指す〜北海道・知床〜 」の二つです。
その他にも面白い自然の企画、映像が無料で見られますのでお時間ある時に見ていただけたらうれしいです。
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 昨日はまた、「菊池さんのブログみているよ」といって、香川県丸亀市のお客様の山地さんから、釜石に届けてと、本場讃岐の”うどん”が1箱送られてきた。試食したら腰が強くさすが本場のうどんと、麺好きの私は溜飲をさげてしまった。山地さん有難うございます。

                  2011年4日16日    地震日の雪崩
 ユスラウメの白い花が散ったら、モッコウバラの蕾が気になりだした。今年もたくさんの蕾を結んでいる。モッコウバラは中国原産のバラ科の植物で、秋篠宮家の眞子様のお印とのことだ。小さな庭に小さな黄色い花を無数に付けるので楽しみである。
 今日、”立山・黒部アルペンルート”が全線開通した。春山はすぐそこである。富山のモンロー会の仲間も、小屋明けのボッカに備えて頑張っているかな。

 未曾有の大震災で小さなあつかいであったが、震災の起きた3月11日午後、雪崩による遭難事故が発生した。白馬連峰・杓子岳の下部に小日向山(1908m)という山があるが、その北東斜面で雪崩は発生した。遭難者は3名で、日帰りの予定であった。内2名は地元白馬村の山岳ガイドであり、雪崩の知識も豊富で研究もされていた。もう1名は松本の林哲央さん(県職員、39歳)であった。遭難死したガイドの石川哲也さん(31歳)、市川昌さん(42歳)の2名は、2005年、不帰U峰東壁を滑降し

一躍、名を馳せた、舎川知弘氏が主宰する「カラースポーツクラブ」のメンバーでもあった。ネットで調べたら、市川さんは前日も、八方で雪のチェックをされていた。私も白馬村で3シーズン生活したことがあり、第2の故郷と感じ、白馬山案内人組合長の降旗さんはじめ、知人も多い。また、池の平小屋には白馬村在住のガイドさんにも沢山ご利用いただいている。その意味でも、白馬のガイドさんの事故死には、知人を亡くしたような気持ちに陥いり、残念でならない。尚、この雪崩事故発生後の14日、「

 「日本雪崩ネットワーク」が、4名で現地調査をおこない、以下の様な報告をしている。<種類>面発生乾雪表層雪崩。<規模>サイズ3(標高差700m)。<破断面>北東、幅150m以上、、高さ約70m、斜度、約40度。コメントとして「一部報道では地震との関連を指摘されているが、調査結果からは、人的な誘発であるか、地震が関係しているかは不明」。
 全員が亡くなり、真の原因は不明だが、地震が起因という線も払拭できない。心よりお悔やみ申し上げます。

 この日、小六時の担任の恭子先生からお電話があった。「あさと君、幾つになった」、「ハイ、5日に66歳になりました」、「あら〜、60歳くらいと思っていたのに、やだ〜、私と10歳しか違わなかったのね」、なんか、ゆったりと時がながれたような気がにした。

                  2011年4日15日   知人からの便り
 近所の、富木島大池は私の自然観察上のだいじな場所である。富木島大池には今冬、渡り鳥が極端に少なく、今日は一羽も観察できなかった。となりの、真池にはコガモが僅か4羽餌を啄ばんでいた。葦も新芽をわずかにみせている。あと、ひと月余りもすると、富木島大池は賑やかになっくる。まず、ヨシキリの元気な声が葭原に響く。その後、多彩なトンボが羽化し、トンボ好きの私はカメラをかかえ観察に忙しくなってくる。富木島大池でのトンボ観察も30年近くになる。観察はさらに、小屋明けで池の平小屋に入山しても続く。池の平のホームグランド、剱池(平の池)の池溏群(29ヵ所あり)で、今年もルリボシヤンマなどトンボ類、それに蝶の観察が待っている。まったく飛べない”トンボ・オヤジ”の私は、いつか飛べる日がくることを夢見て、毎日、池に通っている。
 池の辺を歩いていたらこんな句を想起した。鳥帰る 鶏舎の人の 背を越えて 白朝

ここで、三人の知人の私信を障りだけ紹介する。
  最初は、池の平小屋の古くからのお客様で、池の平の生き字引、本ホームページに「池の平小屋小史」と「池の平小屋関連年表」を書かれた上田さんからのもです。上田さんは元朝日新聞の記者でした。
 「・・・釜石出身の菊池さんにとっては、あの大空襲以来の痛恨事ではないでしょうか。・・・原発事故もあり一体、この国はどうなるのか。また今、私たちに出来る事は節電と買い控えぐらいしかありませんが、原爆や大空襲の惨禍を乗り越え、奇跡の復活を成し遂げた日本人ならきっと何とかなるのではないかと思っています。ですが、感度が鈍く、行動、判断に欠ける政府、政治家にはあきれるばかりです。
 こうした状況でも池の平小屋の管理人を続けられるのですか?もっとも何時までも暗い気持ちでいてはたまりません。大津波、原発、計画停電など被災地でなくても何となく重苦しい毎日です。一日も早く、復興が始まり、原発の安全宣言が出ることを願う日々です。桜の開花宣言も出始めましたが、天気予報によるとまだまだ寒い日が続くとのこと、・・・」(3月30日)。上田さんは、大槌高校の避難所に避難中の池田先生が気になり、11日にお電話をかけてきた。やはり、電話の方が話しが良く見えると思った。

 次は、仙台在住で、小中と同級で、大人になった今でも、唯一尊敬できる幼馴染の鈴木さんからの私信です。彼は大手の労働組合の専従を10年以上続け、その後、15年くらい前に、青木新門の『納棺夫日記』を読み感銘をうけて葬儀社に勤務、その後福祉関係に鞍替えするなど、温かく意志力の強い友人です。
 「・・・桜の花だよりも少しずつ北の方にも聞こえて来るこの頃ですが、こちらは相変わらずの地震と原発に怯えている毎日です。先日(7日)にも又強い揺れが来て停電となり、朝迄まんじりとも出来ない一夜でした。
 九日に妻と沿岸部の状況を見に行って来ましたが、津波による被害は、すべてを破壊し、飲み込み、家屋も土台を残して跡形も無い所、形は有っても内部はガレキの山、自動車は道路や田畑のそちこちに乗り上げ、まさに地獄図を見る思いでした。神戸の震災の時も現地に行って見たのですが、火災に遭わなかった所は潰れた状態でガレキ化していたのですが、今回の津波による被害は、すべてを破壊しグチャグチャにしてブルドーザーで掻き集めたような感じで、大きな漁船も街の中に置かれたような姿で、真に筆舌に絶する思いです。
 一日も早く安心できる日、来て欲しいものです。それにしても怒り納まらないのは、人災とも云うべく福島原発です。国民を欺き通して来た政治屋と電力会社の経営者は絶対許さない。人の命を金で買う奴らに天罰あれ。・・・どうか、足腰の動けなくなる迄、山を愛し行動して万年青年で居て下さい。・・・」(4月9日)。

 最後は、小5の担任の佐藤先生(88歳)からのお便りです。
 「・・・心づくし本当にありがとうございました。其の晩、十一時半頃また、震度六弱の地震で、又もや家の中がごちゃごちゃになりました。そしてガスも電気もストップ。前の時の生活に逆戻りです。この様子が何時まで続くかわからないので、お礼をハガキにしました。何時着くくのかわからないけどー。でも元気ですから心配しないで下さい」(4月8日)。先生は、郵便事情を信頼していないようで、10日に温かいお電話をかけてよこした。

                  2011年4日14日     若き塗装職
 今日の工事には新しい4名の若者が来た。屋根のペンキ塗り。壁の下地塗りなどのようだ。「自転車で散歩すか」、「ウン、郵便局までね」、「そうすか」。一見とっきにくそうだがそうでもない。「みんな高いとこ慣れているから、山登りなんか平気だろう。岩も登るのかな」、「岩登りなんか怖いす」、「だちに、山登り好きな奴いて、富士山登ったていっていました」、「ほう、富士山かいいなー」、「オジサンさん山好きですか」、と、仕事が終ったあと、4名の若者と2〜30分だべった。ご苦労さんといって、ペットボトルのお茶をあげ「ビールの方がよかったかな」。「酒飲むの彼だけです」、「僕だけです酒飲むの」。みんな、屈託ないが仕事熱心でノウハウも凄い、塗料関係について色々教わった。明日はビールを用意した方がいいのかな

 
ここ一週間ほど目の調子が悪い。時々右目がモヤット見にくくなるので、入山前にと眼科にいった。白内障、緑内障、糖尿病起因など想定して行った。2度ほど検査をした結果。「菊池さん老化現象のひとつで、原因は飛蚊症です。白内障。緑内障の恐れも、糖尿病からのものもありません。よって薬はありません。薬が無いということは、なんでもないという事ですから安心してください。ただし、年に1回は医者に見てもらった方がいいですよ」。「ハイ、しかし、視力は0.8と0.4ですか」、「調整で1.5と1.2だから問題なし、調整後が大事なのですよ」。ホットした。

 今日は、久しぶりに気合をいれて畑の草取りにいそしむ。山小屋勤務以前は、頭を空にするには草取りが最高なので、暇さえあれば家の近くの畑で草取りを楽しんでいた。没頭して手を動かしていると、頭がフリーになり、いいアイデアが浮かんでくる。散歩、軽いジョキング時も没入してくると、次から次えと想念が沸き始め、没自分状態になる。仕事のアイデァだったり、俳句や詩だったりと、時空をこえた想念のなかで、没我状態になる。リラックスし一番楽しい時だ。不味いことに、家で食事のときに

そのような症状がでる事がある。妻や娘から話しかけられても「ウン、うん」。これで、妻や娘からは叱られ、評価はまったく低い。今、畑で元気がよいのはニラで、毎年今頃は一日おきにニ料理がでてくる。玉葱は下山後200本程度植えたが生育は今一のようだ。冬も越した長ネギは私に似て小粒だ。まもなく、青々としたアスパラアが出てくるのが、今のところの楽しみだ。一番元気のよいのは雑草だが、雑草から元気をもらわなければと、土に這いつくばっている。

                  2011年4日13日  映画”岳”と落石
 妻が帰宅すると「ハイ」といって1枚のチラシを私に渡した。「オー」。映画「岳」のチラシだった。石塚真一氏の連載漫画「岳」(がく)の映画化である。一昨年秋、東京の息子のところへ行ったら、単行本で10冊あった。「お父さんケッコウおもしろいよ」。そのあと、東京オリンピックの頃住んでいた、亀有の町を懐かしく訊ねた。本屋を覗くと10冊揃った「岳」があった。池の平小屋用として揃いで買い、ヘリで荷揚げした。昨年は、かなりお客さんに読まれていました。また、池の平小屋でもその道の情報通の方が見え、「”岳”映画化なったみたいですよ」。「八方で撮影しているみたいですよ」。「島崎三歩

役は小栗旬だって」。「小栗似合わないな?」などなど、池の平小屋では、呑んでいるお客さんも、飲んでいないお客さんもワイワイでした。島崎三歩の恋人役は長澤まさみ。ロードショウのスタートは5月7日だそうである。私も是非見に行きたいと思っている。ちなみに私の息子は「岳」でたかしと読みます(中学の恩師が名付け親です)。

 震災関係の新聞記事を読んでいたら、三陸の岬近くで漁をしていたら、ドドッドーと轟音をたてて岩壁が崩れてきたそうで、地震だと思い逃げたそうである。従妹のご主人が船に乗っているので、船に乗っていて地震分かりますかと野暮な質問をしたら、したから突き上げるような響きを感じますと言っていたのでなるほどと感じ入った。筑波大勤務の呑み仲間のKさんからの情報では、筑波山は岩石の崩壊があり、危険な状態のため登山禁止になっているとの事。池の平小屋近くでも、北方稜線に

向かう鉱山道でも昨年、一昨年と2度小屋明け直後にあった。昨年7月、二股の橋を掛け作業をしているときに北又を20b登った右岸から、家半軒分くらいの雪と岩盤、それに大きな立ち木が一気に轟音をたて落ちてきた。腰を抜かすほどの音だった。登山道ではないが、橋を架ける前日までは、20名くらいの登山者の皆さんが、高巻きをして通ったルートだった。山は崩壊に向かい、平準に至る道を歩んでいる。これを忘れないで山を観、登って欲しい。特に雪解け後のガラ塲、岩場は要注意です。ご安全に!

 今日来た職人さんは3名だが、2名は60年配の左官屋さで昼過ぎには外壁の修理をして帰えった。マスキングなどの作業は昨日に続き、20代後半の明るい青年だった。「このような仕事していると高いところ平気だろう」、「いや〜、まだ1年半なので怖いです」、「前はなにやっていたの」、「板前をしていました、長島スパーランド知っていますか、あそこで働いていました。忙しくて、5人で500人分の料理を作ることもありました」、「オジサンも東京オリンピックのころ、東京で板前をしていたんだ」、「へぇ

〜、うちは父親が板前をしています。名古屋から京都に何年も通い修行したそうです」。私も、5年ほど板前の経験をしたが、会社組織のような大きなところで一人前の板前になるのは大変である。歯車としかみなされないから、役割をこなすことを期待され、技量を高めるのはなかなか至難だ。この青年も、技量を得る前に、人数をこなすことに疲れ、板前をやめたようだ。私も同じような経験をした。私の場合は、それではということで、東北でも名前が通っていた板前さんのお店にゆき、直接「料理を

教えてください、雇ってください」と頼みこんだ。「分かった、好きなとき来なさい」。と、順調に話しが進み、釜石の魚河岸の隣にある会員会館(今度の津波で3階近くまで被災)を辞めた。ここは鉄道弘済会系の施設で、2階が食堂で3階4階が宿泊施設(芸能人も宿泊しました)だった。辞めて新しいお店にいこうとしたら、名板前さんは大病で倒れ、急遽仙台の病院に入院してしまった。一転、退職金と休みを手にした私は、北アルプスに出かけ、白馬岳の虜になってしまった。あの青年は私と違って、お

父さんが名人なのだからお父さんから手ほどきを受ければ良かったのにと感じた。「結婚しているの?」、「ハイ、嫁さんいます」、「料理作ってやるの」、「期待されているので時々作ります。昨日、大きな鯛をもらったので作りました」。笑顔で語る、なかなかいい青年である。栄養ドリンクをあげると美味しそうに飲み作業に取り掛かった。

                    2011年4日12日    わらび
 今日は午前中、屋根、外壁などの高圧洗浄とのことで半日家の中にいる。だいぶ、くたびれた家なので、通りかかった工事屋さんが売り込みに頻繁に来るので辟易していたが、これで営業マンもこなくなり静かになるだろうか。若い、笑顔のたえない青年はひとりで黙々作業をしている。

 午後、従妹から頼まれた物を宅急便で送るため八百屋に行った。沿岸部の被災地は、まだまだ配達特区?になっているようで、まだ個別配達はせず集配所に取りにいかなければならなく、料金も4〜5割り増しである。”ゆうパック”は4s迄だったら戸別配達可能で、1個1150円。どっちが経済的か迷ってしまう。

 天気も良いし、その後、散歩にでかける。今日も里山周回コース。1万3千歩あるく。今日も収穫が多く、なんとワラビ65本、ゼンマイ10本を摘む。だいぶ前に、小学校の教頭で植物の先生に自然観察を指南していただいたことがあった。その時、このような話を聞いた。その先生の父親も教師だった。その先生が子供の時、姉さんがワラビを摘んで帰ったことがあった。それをみたお父さんは厳しく姉さんを叱ったそうである。「そんな、貧しい人が食べるものを摘んでくるんではない!」。なるほど、それで知多半島にはワラビがたくさんあるのか。この時期、田圃のあぜ道のスミレが目を憩わせてくれる。行きかう人の挨拶も”春うらら”で気持ちが良い。

                  2011年4日11日     足場
 今日から家の補修工事に業者が入る。足場屋さんが、2名で足場を組みだした。私の知っている巾広の足場と違い、狭い敷地に上手に組んでいった。足場を組むには、「足場組立て等作業主任者」という国家試験に受からないとできないが、聞くと、試験は簡単ですよといっていた。でも、広い工場などで使う材料と比べたら種類も多く、手元役(補助)の若手は先輩から叱られながらガンバッテいた。午後、外へ出ると風が冷たく、寒く感じた。「寒いところ、ご苦労さんです」と挨拶したら、怪訝な顔をされた。「こんなのが寒いの、という顔だった」。60代後半の老人と、2〜30代の若者とは体感温度が違うことをまざまざと知らされた。

 5時前にテレビを点けたら、寝るまで余震の報道が切れない。大きいものも2度あった。被災者の皆様はどんなにか脅えているのだろう、と考えると辛くなる。素人考えだが、気象庁は余震、余震というが、太平洋プレートの動き、方向、移動モーメントが変化しつつあるのではないだろうか、などと根拠はないが妄想してしまう。

                  2011年4日10日     春眠
 昨日も気持ちよく散歩した。ブドウ畑ののり面に今日もワラビを数本みっけた。ノビル(釜石でしろっことよんだ)も数本あった。昨年、皇居内を天皇ご夫妻が散歩するテレビ番組があった。両陛下ともにこにこと摘んでいらした。あ〜皇族の皆さんもこれで春を感じるんだなぁ〜と思った。私は味噌をつけて酒のツマミにするが、皇居のかたはどうやって食べるのか気になった。我が家の、庭や畑からはたくさん芽をだしている。大きな玉を、3年前から入山前に、味噌漬けと、たまり漬けの2種類を妻がつくり、ヘリで荷揚げし、お客様に提供している。なかなか好評だ。また、久しぶりにシロバナタンポポを2株みっけた。あまり見かけない花なのでつい嬉しくなる。知多半島では少なくなってきた。

 夕方、釜石で介護関係の仕事をしている従妹から、震災後、4度目の電話があった。昨日、町に出たら絵の仲間とあったらしい。その友人は地震後、お母さんを背負い高台に歩いている時に、背後から波が襲ってきた。背後からの圧力に耐えた一瞬、気がついたら背中のお母さんはいなかったという。その友人は、かなり落ち込んでいたとのことで慰めようがなかったという。、聞いている私も、複雑な気持で返事もでなかった。表面上は、釜石も幾分落ち着いてきたようだが、先日の余震でまた停電になり安定していない。時折テレビで町の映像が写るが、スーパーの陳列棚も空が目立つ。先日の電話では、ご主人は酒飲むのかと揶揄したら、電話の背後からタバコ吸いますの声が聞えた。少量送ったが、タバコがこんなにも値上がりしているとは想像しなかった。愛煙者の皆様お察しします。

 今日も一日、土方見たいな、力仕事をしていたら腰が痛くなってきた。明日から月末までは、家の補修工事屋さんが入るので、今日中にと事前の準備が大変だった。しかし、何とか間に合いホットした。明日は震災1ヶ月目である。日々、新聞を読むと死者の数が増えてゆく。数字とはなんと冷酷なものか、その数字の裏にひそむ家族の数に思いをはせると言葉もでない。

                    2011年4日9日     つなみと防波堤
 被災地での中継シーンに卒業式の場面があった。校歌を唄うところ。宮沢賢治の遺作「雨ニモマケズ」を愛唱するところ。なかでも、唱歌「ふるさと」を歌った学校では、父兄や、避難民の皆さんが涙し、私も、もらい泣きした。「ふるさとは遠きにありておもうもの そして悲しくおもうもの・・・」(室井犀星・金沢出身)の詩ではないが、私のように故郷を離れている者は、この”ふるさと”という言葉から琴線をゆすられるような懐かしさ、切なさを感じる。

 話変わって、この大地震による津波被害に混沌とした、不条理を感じている。その第一は、何故、古い昔の被災経験が後世に伝わらないのかだった。高校の頃、釜石市の文化施設で古文書などの展示会があった。矢立や筆で書かれた和本や、巻物が出品展示されていた。そのとき津波関係の文書が多かった。怪我の模様、災害の様子などが、絵入りで生々しく克明に描かれていた。この時、この三陸の地に津波被害が多いことを確認した。これらの古文書は、後世に津波の怖さを伝えるためのものであるが、三陸の各地の集落には津波の到達点等に、記念碑も多く建立されているとも聞いている(見たのは1ヵ所だが)。

 3月11日後、呆然の日々で何も手がつかない。書庫をみたら岩手関係の本のなかに津波を書いた本が3冊あった。一冊目は文字どおり『つなみ』(生出泰一著・昭和53年刊)である。これは明治29年6月15日の大津波のとき、被災者の救助、そして村の復興に全霊を尽くした”柴琢(シバタク)”こと開業医の柴琢治を題材にした小説であった。柴琢は復興資金の捻出のため、五葉山(国有林)のヒノキを盗伐し、官憲に追われて逃亡、五葉山の山中に足掛け3年潜んだ。二冊目は『岩手の明治百年』(毎日新聞社盛岡支局編・昭和43年刊)、もう一冊は『釜石市史・資料編』(釜石市著・昭和38年刊)であった。

 これらの資料によると、三陸の津波の歴史は、(1)西暦869(貞観11)年3月26日、睦奥国大地震津波を伴う。(2)1598(慶長3)年5月12日、津波。(3)1619(慶長19)年10月28日、大津波。(4)1677(延宝5)年3月12日、夜大地震高潮。(5)1677(寛政5)年1月7日、大地震津波。(6)1854(安政3)年7月23日、九っ時始めより、大地震、1時間半ばかりゆれる。鈴子八幡鳥居のかさ迄大潮水来る。(7)1896(明治29)年6月15日、明治三陸地震。(8)1933(昭和8)年、昭和三陸地震。(9)1960(昭和35)年、チリ地震。と、思いのほか度々発生している。

 『岩手の明治百年』に、「悲劇に彩られ津波史」という一項目があったので長いが引用し、往時の震災の様子をみてみる。
 「陸中海岸船越湾に沿った山田町と大槌町とのさかいに、、大鯨山小鯨山と呼ばれる山がある。標高六百b余りのこの山は、かってこの地方を襲った大津波で山の上にクジラが打ち上げられたことから名前をつけられたという。
 もちろん、あやしいものだが、こんな話を聞かされるとつい信じたくなるくらい、本県沿岸地方は津波と縁が深い。「世界一の津波の常習地」というありがたくない呼び名さえあるのだ。三陸沿岸にはV字型の港湾が多く、その口が震源に向かってひろがっていることーなどが津波被害のおもな原因である。

 岩大教授・森嘉平衛著『岩手県津波史』によると、浜通りは平均四十六年に一回の割合で津波の災害をこうむっている。江戸時代の記録に残っているだけでも慶長、延宝、宝暦、寛政、安政と三陸沿岸を襲った大津波は五回ある。
 日清戦争に大勝して国内が喜びにわきかえっていた明治二九年、史上まれに見る”海の怒り”が三陸海岸に襲いかかった。
 惨劇のプロローグは、同年六月一五日午後七時三十三分に東北、北海道、関東一帯で発生した地震だった。地震がおさまってから一時間ほどたったころ、本県の沖合いでドーンという正体不明のおとがひびいた。沿岸近くの住民たちは「軍艦の演習だべ」とさして気にもとめなかった。

 だが、それは演習ではなかった。無気味な海鳴りのひびきが二度、三度聞こえたあと突然、この世のものとは思えないほどの大波が三陸海岸にいどみかかったのである。このときの波の高さは一五bから三十四b。場所によっては三十bにも達したといわれる。
 六月一五日はたまたま陰暦の端午の節句に当った。沿岸の各家庭では、祝いの膳(ぜん)を前にして団らんのときを過しているところが多かった。奉公先から帰ってきた若い人もいた。大自然の猛威は、アッという間にこの人たちを地獄のどん底にたたきこんだ。

 この夜、大津波は八回も押し寄せたが、そのうちもっとも凶暴に荒れ狂ったのは第二波だった。最初の一撃から六分後に第二波がやってきた。「このときまでは波濤(はとう)の怒号の声と叫喚救いを求むる声が相和して凄惨(せいさん)を極めたが、この大浪の襲いあ去ったあとは・・・狂濤の音ばかりで人の声はまったく聞えなかった」と新渡戸仙岳は著書『三陸津波』でその恐ろしさを伝えている。被害を受けたのは下北半島尻屋崎から牡鹿半島にいたる南北約四百`の海岸だった。当然、本県地域の被害が一番ひどかった。唐丹村(とうに・現在釜石市唐丹)では住民二千八百人のうち生き残ったのはわずか三百人に過ぎなかった。釜石の中心部では千二百余りの戸数が一挙に百余戸に減った。ふたかかえ以上もある松の木が百本ほど根本だけを残して波にさらわれたところもあった。

 釜石市唐丹中学校の山崎玉太郎校長の父親、故玉吉さんは当時、十七歳の漁夫だった。津波が玉吉さんの家のある唐丹村で暴れ狂っているころ、彼は同僚36人といっしょに沖合いでマグロの群れを追っていた。二日後に郷里に帰った玉吉さんは、柱一本も残さず砂浜と化したわが家を前にして、ただ立ちすくむほかはなかった。家族のうちで生き残ったのは、たまたま山の手にある親戚宅に出かけていた妹一人きりだった。

 津波の原因となったのは、釜石の東方二百`の海底で起きた地震だといわれる。この日、本県の沿岸住民十万二千人のうち命を奪われた者二万三千人、ほかに負傷者四千人を出した。家屋、船舶など財産のほとんどはメチャメチァに破壊され、失われた。
 政府から直ちに支給された復興費四十五万円の大半が本県に向けられたが、交通未発達の当時とあっては救援活動も思うように進まなかった。被災地では不衛生のためコレラが発生し、死者の肉を食べて野生に化したイヌだひんぴんと人間を襲った。こうした悲惨な光景は、数ヶ月たってもなくならなかった。

 昭和四十一年の十月下旬、釜石市本郷の海岸で道路改修工事中に男女二体の白骨が発見された。この地区は明治二九年の津波で全滅に近いありさまとなっていらい、だれも住んでいないところ。二体の白骨は、しっかりと抱き合ったかっこうだった」。津波の実相はただただ厳しく、被災者の悲劇は今も昔も残酷である。

 森嘉平衛氏の『岩手県津波史』によると、平均46年に1回、この地に大津波が押し寄せているが、46年で土地の人達は悲惨な災害を忘れるのだろうか。確かに東北の地は貧しい、沿岸部で土地や山林を所有する人は一部であった。海の幸は豊富である。「板子一枚下は地獄」の諺があるが、才覚があれば、漁業技術と度量があれば、目の前の大海を糧に生きてゆける。そのような生活基盤が下地にあり浜辺から離れられなかったのだろうか。三陸の平地は僅か海沿いの河口部である。両脇は険しい山である。山を削り家を建てるには資金が要る。船のある港までの時間もかかる。そのようなことで、昭和35年のチリ津波までは海沿いに住む方の犠牲者が多かったように考える。私もチリ津波の1週間後かに、自転車で港を見に行った。近くまで近寄れなかったが、港附近の数棟の建物の玄関が損傷していたのが記憶にある。

 再三テレビや新聞で報道されている、岩手県宮古市田老地区の津波に対して最強とみられた2重構造の防潮堤が決壊した。堅牢強固、その規模の大きさから国際的にも注目され、世界中からの視察団も多かったようである。国土交通省釜石港湾事務所のホームペ−ジにはこの防潮堤を”万里の長城”と形容していた。この防潮堤は1957(昭和33)年3月完成した。2年後に襲ったチリ津波では被害を抑えた。このことから、防潮堤で津波を押さえ込むという思考が住民の期待と合い間って歩き出した。

 大船渡港口防波堤は1963(昭和38)年から4年をかけ19億円を投資して完成した。釜石湾口防波堤も約30年と1200億円の規模で2009(平成21)年完成した。なお、釜石市の湾口防波堤は水深63b、世界一深い防波堤としてギネス世界記録に認定された。その規模に世界から視察団が訪れ、ギネスにも登録される。造った国土交通省の方たちは胸を張り、港に働く人や住民は安心感を得、安堵する。しかし、役人の点検、検査を受けていても、自然からの強度検査は受けていなかった。そこに陥穽(かんせい)、油断があった。まだまだ海に対する油断、警戒の紐を緩めてはならなかった。

 震災後、港湾空港技術研究所は、釜石市の新湾口防波堤を、無かった時と推定比較し6分間、市街地への浸水を遅らしたと分析した。被災時の映像を見ていて気になったことがあった。壊れたり、倒壊した防波堤の残骸がブロック状に見えたことである。之だけ大きなものだから、一体ものの構造は建設上不可だと思うが、ブロックを重ねるような構造では、強度的に限界があったのではと素人ながら感じた。また、コンクリートの中には鉄筋を入れると思うが、最近では塩害に強い鉄も開発されているし、ブロックとブロックの接合部分(目地)はどのように工夫されていたのか知りたいところである。

 最後に、釜石港湾事務所のホームページに港湾防波堤の概要が図入れで紹介されていたが、最後の一節が気になった。”必ずしも完全に防げるものではありませんので、避難指示には従って下さい”。港湾当局は、世界一の防波堤だからと宣伝し市民に安心感を植えつける前に、市民に、この最後の一節、「この防潮堤は、100l安全を保障するものではありませんよ」を、真摯に語り、津波被害を風化させない土壌つくりが必要だったのではと素朴に思う。
 今回の津波災害の中で、ひとつ明るいニュースがあった。岩手県普代村(ふだい)の堅固な防潮堤(高さ15.5b、全長130b)と水門(高さ15.5b、全長200b)であった。防潮堤内の人、住宅の被害は皆無で尊い人命を守った。また、水門は川を溯上する津波を止めて近くにある小学校を守ったらしい。今後はこの普代村の知見が防災に生かされ、これ以上の犠牲者をださないことを願う。

                    2011年4日8日    山岳保険
 今日は久しぶりにお湿りとなった。早いもので山岳保険の更新の案内がきた。いよいよ小屋明け近しを意識し、トレニーングをしなければと思い焦る。もう一通、埼玉県春日部市に住む、生後4ヶ月の”さくら”ちゃんのご両親からお便りが届いた。春日部でもかなり揺れて、タンスが倒れ、冷蔵庫の中身が飛びだしたという。春日部でも飲料用の水が不足のようでとても喜んでいただいた。「日に日に成長してゆく、さくらの様子や表情に心が和みます。三人で力を合わせていきたいと思いますと」と、結んであった。妻とこのお便りを読み、迷いながらも楽しく子育てをしていた頃を思い出した。

                    2011年4日7日   先生の安否
 1ヶ月振りに散歩にでた。2月は公園内の散歩だったが、今日は、1年ぶりの里山巡りのコースだった。3時間余の歩きで汗を掻いた。藪を覗いたら、わらび、うどなどが数本でていた。しめしめ今日は初物だと気をよくした。山菜をみると血が騒ぐ。春は山菜、秋はキノコ採りは子供の頃の日課だった。藪の上をみると桜が咲いていた。春を感じたが、今年はツバメの飛来も遅れているようでみえない。そういえば、冬に、我が庭に居つくジョウビタキは、今冬姿を見せなかった。チョッコリとツバメの巣に入っている愛嬌ものだったが。今日の出来高は19000歩だった。

 夕方、おひとり安否を気遣っていた先生と連絡がとれた。大船渡市盛町に住む、小6時担任の恭子先生だった。テレビや新聞をみても盛町の名前は出てこなかった。10数年前に訪問をしたことがあったが、海の近くとの記憶があった。先生のお話によると、依然は海よりに住んでいたが、高台に移住して無事とのことだった。地震の揺れは凄かったが、被害は少なかったとのことで、数日、避難所で暮らしたとのことだった。電気も3日ほど前に流れ、電話も通じるようになった。

 77歳になる先生の声は澄んでいた。当時から穏やかで優しい先生だった。卒業式の日、理由は忘れてしまったが、不機嫌になった私は、卒業証書だけ持ち、あとの記念品などを机に押し込んで帰った。その晩、それらをかかえて先生がやっきた。その、私の行為が、40代になっても、私は澱となり気を重くしていた。そのころ、恭子先生の住所を教えてくれる方がみつかった。一生懸命、お詫びの手紙を書いた。そしたら先生から、長文のお手紙が届いた。長い教師生活中、私の行為を気にし、子供の心を理解しなかった不明を詫びた、あり難いお手紙だった。恭子先生には、何時までも、お元気で長生きしてほしいと願う。

 深夜また、震度6強の地震があった。被災地の皆様に安眠の日を届けたいと切に思う。

                    2011年4日6日    西田敏行さんの談話
 4月4日の朝日新聞の「生きていくあなたへ」欄に”浜ちゃん”こと俳優の西田敏行さん(63歳)が、本音で語った記事に心打たれた。転載します。
 「中学を出るまで福島県郡山市で育ちました。僕の情操を育ててくれた故郷です。仲良しの友や恩師もいて、時折、わいわい酒を飲みます。地震と津波があって、福島第一原発のことがあるから、いたたまれない気持ちでいっぱいでね。我慢強い人が多い福島ですけど、今度だけは、ね、東京電力や原発を進めてきた政治家たちに怒りの声を張り上げたい。

 あの原発がつくる電力は地元で使うものではなく、首都圏のためでした。なのに受け入れてきた。安全と説かれてきましたが、今回のことはきちんと”想定”されてきたのでしょうか。今、20キロ圏内の人は、行方の分からない家族を自ら捜しに行くこともできない。放射性物質に”汚染”されていると言う人がいる・・・。

 もちろん、命をかけて現場で働いている方々には感謝しています。こんなこと言ったから事態が早く収まるわけもない。でも、故郷のことは今、ちょっと落ち着いて語れないんです」。

 ここ7日ほど大工を行い、今日は畑の草取りで外で過した。陽射しも和らぎ気持ちが良い。でも、腰に負担も蓄積されたようで腰が重くなってきた。被災地の皆さんの苦労に比べたら、たいした労苦でもないのにと苦笑した。
                    2011年4日5日  阪神と東東北
 今回の大震災後、1995(平成7)年1月17日に起きた阪神・淡路大震災と比べられたり、その時の経験などがテレビなどで報じられている。阪神震災の翌日、出勤日で出社した。連操職場(連続操業)で昼食は交代制だったが、この日の昼は後工程がトラブリ、大人数で昼食となった。休憩室兼食堂には大型テレビがあった。NHKは神戸からの震災中継をしていた。画面が切り換わり長田地区の火災現場を映し出た。空を焼け盡ような炎に恐怖を感じた。突然、寡黙な私の上司がテレビに向かい怒鳴った「なにをやってんだ、早く消せ。なにをやってんだ、空からでも散水できるだろう、早く消せ・・・」。あとで伺うと、お姉さん夫妻の家があの炎の下にあるとのことだった。翌日、お姉さんと連絡が取れたらしく、上司は平常に戻ったようだった。

 夕方、釜石の母の実家から電話があった。従弟からであった。だいぶ落ちついた話し振りだったが、3人いるお姉さんのうち、次女の家が津波に被災されたとのことだった。私より一歳年下の従妹であった。家は全壊したものの家族は全員無事とのことだったが、住む家を奪われた落胆は大きく、気の毒で声も掛けれなかったと従弟の声は力がなかった。被災されなかった人は、被災者に掛ける言葉も無く、被災者はただ耐えるしかない。天の差配とはいえ間に引かれた線は冷酷だ。

 この日、私も66歳となった。父も、母方の祖父も66歳で一期を終えた。一応66歳を目標に生きてきたから、もう、お迎えがきても後悔はない。明日からはおまけの人生である。

                    2011年4日4日     想定外
 政府や被災した市の市長が語っていた。「再建の骨子は、住は高台に築き、そこから海や市場などに通勤する」。これを聞いてこのような事を想起した。いつから三陸の人達は海沿いに住むようになったのだろうか、と。
 今度の大震災のよる三陸地方の津波の被災地は山間に開けた扇状地が多い。入り組んだ、リアス海岸の入江入江に川が流れている。その川が海辺に僅かな平地を造った。

 私の故郷釜石には、五葉山などを源とする甲子(かっし)川が町を二分するように流れている。港から5〜6キロ上流に住んでいた中学のとき、近くの山肌に縄文晩期の遺跡があることを知り、通い遺物を採集した。川から15分程、坂道を登ったところにその遺跡はあった。日当りのよい南向きの斜面で、近くに小川が流れていた。

 貝塚には、海に生育する貝もあった。高校では、文献をあさり、市内の遺跡マップ製作に意欲を燃やしたが、担当の先生に「他人の成果を集めてどうする」と叱られ諦めたが、その時のおぼろな記憶では、海岸ベリには遺跡が少なかったようだった。甲子川も暴れ川で、3度ほど流れが大きく動いたと、当時の教師から教わった記憶もある。縄文人は川や海を恐れ、山手の高台に住んでいたのではと、今回の津波から、50年前のおぼつかない記憶で夢想してしまった。

 ただ、中学の理科の先生のコレクションに、縄文土器の底に入江の地図が描かれた拓本があった。ということは、縄文人も果敢に海に挑んでいた証左なのかという疑問も残る。何度か、津波に遭い高台に住んでいた人達を、海辺に招き寄せたのは、最近にになって築かれた、堤防や城郭のような防潮堤ではなかったのではないだろうか。学者先生たちもこれなら大丈夫と太鼓判を押し、管轄する国の機関も住民に安心感を植え付けた。言い換えれば、自然災害であるが、人災の側面もあったのではないかという穿った見方もできる。

 この地震は千年に一回の巨大地震だという、それを調査発見していた研究者は震災前に警鐘を鳴らしていたという。我々は安易に、国や権威を信じて命や財産を奪われてはいけないし、有用な情報は進んで獲得しなければならない、時代に住んでいることを自覚する必要がありそうだ。想定外という言葉をなくするためにも。

                    2011年4日3日     宣誓
 23日からはじまった,高校野球も今日が決勝戦だ。まったりした私は、高校時分から、高校野球が好きでテレビの前に寝っころんで観戦するのが常だった。が、今年は違った。岡山創志学園野山主将の「選手宣誓」には、正視し、涙してしまった。

 「宣誓、私たちは16年前、阪神大震災の年に生まれました。いま、東日本大震災で多くの尊い命が奪われ、私たちの心は悲しみでいっぱいです。被災地ではすべての方々が一丸となり、仲間とともに頑張っておられます。人は仲間に支えられ、大きな困難を乗りきることだできると信じています。私たちに今できること、それはこの大会を精いっぱい元気をだして戦うことです。”がんばろう!日本”。生かされている命に感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います」。高校生だけではなく、我々も、忘れてはいけない文言だった。

                    2011年4日2日     能登さんの体験
 梅の花が散りだしたら、庭のユスラウメが白い可憐な花をつけだした。黄の水仙もあざやかだ。
今日は、富山県黒部市在住で池の平小屋の温かい常連の能登さんから貴重なメールをいただいた。「この震災で、菊池さんが心を痛めているようすを、池の平のホームページで読みました。楽しみだった四国の山登りも中止されたようで残念だったでしょう。実は僕も地震の当日は、埼玉の元の職場

に着いたばかりで、挨拶中だったんです。ビルの中で震度 ”5強”は生きた心地しませんでした。夜の懇親会もほどほどになり、そしてホテルに行くにも電車が動かずで、又、懇親会場に戻って雑魚寝で過ごしました。翌日は、朝から富山への電車待ちで、何とか夜の11時頃黒部に着きました。でも翌日からのニュースを見て、僕の体験などは序の口で・・・甘えるんではないよ!と感じています」。 70歳を越えた能登さんは、かくしゃくとして、いまだ、剱岳日帰り登山をこなし、また各地のマラソン大会に出場し、人生を謳歌し、磨いている。

 昨日は葉書を2通いただいた。1通は土佐アルパインクラブの若手からだった。3月19〜21日の予定で、富山、金沢のモンロー会の仲間、それに岡山の仲間も参加して石鎚山に登り、20日の夜は高知で、土佐アルパインのお客さんなど10数人で懇親会を催す予定で、お知らせのお手紙を彼に出していた。ところが、彼は私の手紙がつく前に、卒業(高知大医学部)旅行として、3月中は、めいっぱい南米を駆け回ってきたらしい。だので「先日は、高知にお越しいただいき、ありがとうございました・・・」とあった。なんと長閑な、いや、知らないということはなんて素晴らしいのだと、反面うらやましくも思った。
                    2011年4日1日    子育て山仲間
 20代後半から、日々饒舌に、ジョウクをのたまい生きてきた。母もなかなかの饒舌家であった。池の平小屋の管理人になる前の、鉄鋼の職場ではダジャレの菊池でとおっていた。池の平小屋でもなかなかダジャレは好評のようである。今日はエプリールフール、何かを言って妻や周りの人を笑わしたいと思うのだが、笑いのエンジンがなかなか始動しない。

 昨年下山後の11月はじめ娘と沖縄旅行にでかけた。南方向では広島までしか行ったことがなかったが、九州を飛び越え沖縄となった。目的は沖縄戦の跡の見学と沖縄の蝶とのふれあいだった。一日目は石垣島めぐりだった。レンターカーを借りて、娘の運転で島内一周をした。この日だけで、スジグロカバマダラなどの蝶を5種ほどカメラに収めた。誠に子供のように嬉々として蝶をおかけた。翌日は雨の中、午前中竹富島に船で回り、午後から沖縄本島に移動した。やはりレンターカーで北部を一

周した。途中バス停の名称が気になり車を停めた。「津波」というバス停であった。少し行くと「津波小学校」という看板もあり海岸ぞいであった。娘とこの津波という地名を訝ったが、そのままとなっていた。今日、再度気になり調べたら「津波」と書いて「つは」と呼ぶらしいことが分かった。

 原発がなかなか好いほうに収束しない。障害競走のように、次から次へと難題が生じてきている。29日、子育て中の、東京の山仲間に電話をいれた。彼は大手の電気メーカーに勤めているが、その会社は、原発のシステム部門などを支えているので、かなり、この状態を緊張して見詰めているようだった。巨大地震から派生したこの事態の波紋はとてつもなく大きく深刻だ。

 もうひとつ、30日は同じく子育て中の埼玉の山仲間に連絡をいれた。彼は朝日新聞の記者である。埼玉には、原発から退避されて来た方が沢山借り住まいをされている。明日が見えないなかで、現状を凝視つづける友人の筆も重そうだ。

                    2011年3日31日   淘汰と戦う
 いよいよ、年度末も最後の日となった。
 3月11日、名取川を溯る津波と、釜石湾口を襲う津波シーンをみていて「創造主の淘汰」という言葉を想起した。淘汰とは選別である。神も仏も無い断裂な世界だった。ここまで創造主は民をいじくりまわするなら、創造主の造った大地に暮らす我々は性根を据え、生きねばならない。戦わねばならない。
自然は美しい、地球は素晴らしい、などと浮かれてはいけない。常に創造主は生贄を求めているのだ。
 創造主とわたり合うには、淘汰され生き残った者たちがスクラムを感じるしかない。生き残った者たちが、生きている温もりを感じるところから再生の一歩がはじまるであろう。みんな、淘汰されないように、アンテナを張り、周りに気を配り、気を緩めず、大事な人とともに戦おう。

 もうひとつ、戦いに生きる道は子供達だ。科学だ。大陸移動説が問われ、わずか100年あまり。プレート理論なんて認知を得てわずか、たったの50年あまりだ。創造主に勝つには相手を知ることからはじまる。凡人には、海底の構造、数理はいかんともしがたいが、未来の子供達は創造主に克つ定理方策を見つけ出すものと期待する。だから国も親も、周りの人達もみまもり応援しなければならない。

                    2011年3日30日     ゆうパック
 28日に郵便局に行ったら、被災地へ小荷物を送れるようになったという。嬉しい。しかし、箱のサイズは三辺の合計が90Cmで、しかも重量は4Kgまでだとのこと。釜石郵便局は被災したので、それ以上になると2時間ほど離れた支店まで取りに行くようになります。フムーとうなったが、ショウガナイ気は心と、取り合えず、2箱、釜石の親戚用に拵え、郵便局に持っていった。2箱とも数グラム多いとのことで、ガムテープをはがし、重量調整をした。無事、届いてくれる事を祈った。

 昨日のブログに、関東の赤ちゃんのいるお客さんのことを書いた。妻はスーパに長年勤めているので震災後の店の売り上げ品などのことを聞いた。マスコミの伝達に左右され、品物の売れ筋が変わるという。また、水や食料品などの欠品があるという。妻が言うには、買占めもあるが、生産地、生産者の被害もあるとのこと、というので、妻の進めもあり、サブザックを背負い近くのスーパやコンビニを歩き回ってみた。

矢張り、食品棚の空が目に付いた。驚いたことに、水もまったく無い。これは、と思い関東のお客さんに電話をしてみた。遠慮してか2名の方は「何とか・・・」と、ということで、今年の池の平小屋のことに
話題が切り換わった。電話の通じない昨年12月生まれの「さくら」ちゃんの、健やかを祈り、ご迷惑かと思ったが、水を少しばかりおくった。元気に健やかに育ってね。

                    2011年3日29日    従妹と山仲間
 昨日また、釜石の従妹から避難所らしい所から電話が来た。津波の災害に遭わなかったためか少し落ち着いたようである。ボランチァをしている姪は、当日は、友人3名と津波に遭った市の文化会館で介護関係のセミナーを受講ていたとのことだった。地震で慌てて外に出たが、最初は津波まで予想しなかったが、遠くに波が見えたので車に乗って逃げたが、メーンルートは大渋滞していたので、気転を利かし、わき道わき道と逃げ回り助かったとの話だった。岩手県漁業取締り事務所勤務で、漁船の監視業務中だったご主人も、繋留中の「岩鷲丸」に留守番役で乗っていたが、波が異状に引いたので慌てて逃げ助かったのことだった。新聞によると、車で避難中に渋滞し逃げ遅れた人も多かったと書いてあったが、まさにそうだった。

 モンロー会岩手県支部長の、菊池先輩に電話をしたらうまく通じた。先輩は現在アトラス山岳会の会長だから会員の消息が事の外気になる立場だ。伺うと、家族も含めると6名亡くなったとの返事だった。安否不明だった瓦田先輩も、ご夫婦で遺体が発見されたのことだった。火葬場が足りなく、秋田まで移送し弔ったのことだった。「情もない、チャチャとした簡単なもので、いたましかった」
また、菊池先輩は市の体育館で働いているが、今そこは避難所になっていて大変とのことだった。グランドは自衛隊のヘリポートになっていることで、「自衛隊の仕事は凄い、素晴らしいと」と讃えていた。

 歯科医の瓦田さん宅は、たしか3階建てのビルで、1階奥がアトラス山岳会の溜まり場所だった。ここで色々なことを教わった。新婚旅行も、わざわざ妻に故郷を見せたくて釜石にいった。瓦田医院の1階では、アトラスの仲間がてぐすね引いて待っていた。日大の山岳部出身の瓦田さんは相変らず柔和なお顔で座をみまもっていた。大変陽気で賑やかな祝賀会となり、浜辺の宿に帰った時は夜半を廻っていた。その宿も津波で無くなってしまったようだ。故郷も被災し、知人仲間も亡くなったが、記憶の糸つむぎ、亡くなった方への回向を続けたい。

 一人連絡のつかない従弟家族がいた。従妹に聞いたら、昨日見たという。そこで電話を入れたら通じた。横浜に出張していたという。弟が家を守っていたが、屋根がすこし傷んだ程度の被災だという。弟も陽気に話していたので安心した。5月の來釜の予約をとった。

 この日は富山の「はっぱさん」と「いわきさん」より、励ましの温かいメールを頂いた。励みになります。さらに、息子の嫁さんからも、感性豊な温かいメール。人はつながって生きていることを実感する。

                    2011年3日28日   放射線
 テレビをみていて  あの、へたりと座りこむ、おばあちゃんの背中をさすってやりたい。
              あの、よわよわと歩くおばあさんに、手をかしてやりたい。
           あの、被災地の丘から、だまって海をみつめるおじいさんに 無言で挨拶をしたい。

 原発の暴走は留まるところを知らない。大気はもとより、野菜、水もジワジワと汚染されていく様子が連日報じられている。池の平小屋のお客さんでも、関東に住む方が、3名の赤ちゃんを子育て中である。とても不安な毎日を、お母さんやご家族の皆さんが送られていると思うと切なくなる。
 1986年4月に起きたチェルノブイリ原発事故(広島に投下された原子爆弾の400〜500倍の放射線を発生させた)の時、日本でも微弱な放射線が観測された、と報じられた。

 翌日から放射性ヨーソ対策として、海藻に多量に含まれるヨード(ヨウ素)が異状に売れ出したとの報道に「みんな、そのような事知っているんだ」と、妻と驚いたことがあった。今でもそうであるらしいが、ヨードの生産率は千葉県が日本一であった。ネットによると、生産額はチリについで世界2位だという。このようなものにも頼らなくても良い、安全な生活、社会の復活を一日も早く願う。

                    2011年3日27日    ボランテァ
 3月の11日には満開だった福寿草も、花を落とし丈が伸びだした。植栽10年目の梅は、今年はみごとに1本の木に紅白の花を沢山つけた。まだ見頃である。でも朝晩冷え、被災地はまだまだ雪降りのようである。
 昨日、私の元同僚でモンロー会の瀧場さんからメールが届いた。福島原発の所在地、双葉町などに、親戚の方が何軒か住んで見えるのだが連絡が取れないという。原発に振り回され混乱されていることに心が痛む。早く、所在が、安否情報を得ることを祈った。
 なお、隣市の東海市は、釜石市と新日鉄が取り持つ縁で互助提携を結んでいる。もう2度ほど救援物資を届けている。瀧場さんは、その仕分けなどのボランテァに、17〜22日行って来たとのことだった。素早い行動に頭が下がり「ご苦労様」とエールをおくりたい。
 また、富山のホコラさんからも温かいメールを頂いた。

                    2011年3日26日  避難所より来信
 この日の夕、一通の葉書が届いた。見慣れた筆跡であった。18日に、山田町に避難されている事が確認された池田先生からであった。住所は岩手県山田町山田高校避難所とあり、差出日は3月24日であった。
 裏面には「前略、生きのびて、元気です。2000人の難民と暮らしています。安定した支援を受けています。あなたの縁故者の安否はいかがですか。余生の過し方を改めて、自問自答する機会を与えられています」。とあり、結びに一句添えられていた。
      おぼろ月 魚に喰われる 佛達    合掌

                     2011年3日25日   山田洋次監督の談話
 21日の朝日新聞、朝刊に、山田洋次監督へのインタビュー記事が載っていた。心に沁みたので紹介します。
 東日本大震災で、大きな悲劇の中にいる人たちに、僕が何を伝えたらいいのか分かりません。家を失い寒風にさらされている人に、海に襲われて水の中で果てた人に、東京の家の中から何かを言うことなんて・・・とてもできませんよ。こんな時、自分たちに何ができるにかという声をよく聞きます。
それも大事だけど、被災した人たちの悲しみや苦しみを、僕たちはどれくらい想像できるのか。そのこ

とがとても大事だと思うのです。現地の人たちの心の中をどれくらいイメージできるのか、自分に問いかけ、悩む。そこから何かが学び取れるのではないでしょうか。もう一つだいじなのは、この大災害に、僕たちの国の政府がどう対応するのか、きちんと監視してゆくことです。原子力発電所の問題など
で、きちんと情報が伝わってこないことが腹立たしいですが、そういうことことも含め、国民として政府

の動きをよく見ていて、問題ありと判断した時は、きちんと抗議の声をあげる。そうすることが、被災者への応援になると思います。こんな時、寅さんなら何と言うだろう、どう行動するだろうーと考えます。 阪神大震災の後、神戸市の長田地区で映画を撮りました。焼け出された人たちから「寅さんに来てほしい」という声があがったのです。僕は、あんな無責任な男の映画を被災地で撮るなんて、とんでもないことだと思い、最初はお断りしました。でも、訊ねてきてくれた長田の人たちが、口々に、こうお

っしゃるのです。「私たちが今ほしいのは、同情ではない。頑張れという応援でも、しっかりしろという叱咤でもありません。そばにいて一緒に泣いてくれる、そして時々おもしろいことを言って笑わせてくれる、そういう人です。だから寅さんに来てほしいのです」。寅さんのような男が、そばにいることが何かの慰めになるのならば。そう考え直して、撮影に向かいました。あの焼け跡であった出来事を思う

と、撮影していて、僕らはとてもつらかった。でも、長田の人たちはとても温かかった。ここで助け合い、支えあ合って生き抜いてきた人たちです。被災地とはまったく比較にならない苦労ですが、関東地方ではいま停電が起き、通勤電車には長蛇の列ができています。大勢の人が、愚痴も文句も胸に納めて、整然と、黙々と行動しています。遠くで厳しい現実に耐えているたくさんの人たちのことが、頭

の中にあるからではないでしょうか。貧弱な想像力を懸命に働かせて、被災地の人たちを思い続けたい。そうすることでつながっていたい。今はただ、そう思っています。

                     2011年3日24日       ボッカ隊長
 この日、池の平小屋のボッカ隊長の浜ちゃんからメールがあった。「釜石に行くとき、なにか手伝えることがあれば・・・」と、温かいメールであった。私自身、早く行きたいのは山々だが、車に乗らないエコ人間なので、公共交通機関が開通しないとどうしょうもないし、何よりまずいのは、4月初めより、家の補修工事に入る事を昨年末に契約していたことである。
 この補修には足場を組むため、10年前に私が作った出部屋と、倉庫が邪魔ということで、すこしづづ解体をしている。4月中旬に補修工事が終わり、その後1週間ほど掛けて出部屋を再建し、4月末か、5月始めにふるさとに向かおうと予定している。そのような訳で、毎日イライラしながらテレビに噛り付いている。

                     2011年3日23日   恩師
 昨日は、もう一人大事な方と電話が通じた。小学校5年の時の担任の敏子先生であった。私は、4年生までは元気の良いだけの子供だったが、静かに考えるようになったのは先生の教のたまものと、今でも感謝している。先生宅は比較的山側で津波の懼れはなかったが、高齢で一人住まいなので揺れによる被害を心配していた。しかし、88歳の先生はとてもお元気であった。趣味を楽しみ

、なんと療養所でボランテァ活動もされているという。「足が丈夫だから買い物も、ボランテァへも歩いてゆくのよ」と笑い声が弾んでいた。知人の被災、火葬場がなく土葬が行なわれるようになったことには声を落としたが、思いのほか明るく、話題も多く、この日は58分あまり先生と久しぶりに会話を楽しんだ。先生、何時までもお元気でご活躍を。

 地雷の撤去活動をされた経験がある、昨日の池田さんから返信があった。「前略、この大震災に対して、アメリカやドイツ、クロアチアなど世界中からお見舞いの言葉を頂いています。世界はひとつ、心も一つと感じます。山の仲間や酒の仲間は本当に心優しいですね。中略。ここ筑波山も落石の危険性があるので、入山禁止の措置を取られています。今年も、剱岳・池の平小屋の無事小屋明けを祈っています。必ず酒をぶら下げて・・・」。山仲間、飲み仲間は本当にいいものである。平穏の訪れを心より願う。

                     2011年3日22日    花貌の人たち
 この日も知人の消息を求め電話を掛け続けた。尊敬する釜石在住の千田ハルさんとやっと電話が通じた。避難場所から、戻ったところだった。千田さんは詩人集団「花貌」(かぼう)の会員で機関紙『花貌』の編集員でもあり、責任者でもあった。21世紀に突入して2,3年たった頃、釜石の艦砲射撃を調べていた私はネットで千田さんを知った。お電話を差し上げると『花貌』71号と合本『釜石艦砲記録集』が届けられた。「『花貌』は戦後二年目、食べるもの、着るものもない頃、十人ほどの若者で創刊。当時、特に詩人でもない私も参加、いまも、気持ちだけは平和と民主々義をねがう詩人のつもりです」と私信が添えられてあった。

 その後親しくなった千田さんから原稿依頼が舞い込み、『花貌』72号に「こぶしの落としどころ」。『花貌』73号に「五葉山二題」(2004年11月10日刊)を書いた。残念ながら73号は最終号となった。これで、釜石が少し遠くなったと感じた時、『花貌』73号(終刊)記念懇親会の案内が届いた。2005年12月3日、ホテルサンルート釜石で開催とあった。会員でもない部外者であったが、吸い込まれるように参加した。

 会場には 「さくら」、「すずらん」、「たんぽぽ」、「水仙」、「すみれ」、「たんぽぽ」、「はまゆり」と8卓のテーブルが用意され、戦後の釜石を凝視しされてきた方が着席されていた。私は「はまゆり」の卓で初対面の千田さんと同席した。はじめに48名の参加者の記念撮影があり、主催者として千田さんが58年を俯瞰され、さらに平和を希求される挨拶をされた。乾杯の後は、沢山の方と旧知のように会話を楽しんだ。なかに、昆勇郎さんという方がいた。高校の社研のころ、フィールドワークで、牧庵鞭牛和尚(道路の開削に生涯をささげた)の史跡を訪ねたり、津波関係の古文書に導いてくれた先生だった。また、私の詩を気に入り、和紙に墨書され送っていただいた鈴木アイ子さんなど多くの方から、釜石のいぶき、素晴らしさを感じ取った3時間あまりだった。

 電話越しにお孫さんらしい声も聞えたが、千田さんの声は重かった。長年三陸の地で、文筆や平和活動をされきた千田さんにはたくさんの知人、友人、親戚の方がいるのでしょう「大町の昆さんも亡くなってね・・・、大槌の鈴木アイ子さんは行方不明で・・・」。

 22日は、親愛なるメール4通頂いた。その中の1通に、取手市に暮らす池田さんからのものがあった。「前略、茨城は県北地区がダメージが大きく、津波でも被害が出ています。私の住む取手も相馬からバス3台分の被災者を受け入れております。我が家は瓦を少しやられました・・・。娘の結婚式を3/21日に予定していたいたのですが、交通機関の乱れや、本人達のきもちで延期となってしまいました。親としてはすっきりしないのですが、仕方ありませんね。後略」。池田さんに次のような返信をした「お嬢さんお気の毒でしたね。ご両親に似て、お気持ちの優しいお二人なんですね。また、屋根も壊れて大変ですね。神戸の震災の翌年、岡山に取材で行ったのですが、JRの沿線にブルーシートで蓋った家が多かったのが思い出されます。後略」。

                     2011年3日21日       加藤さんのこと
 この日、釜石の母方の実家に電話が通じた。家は大丈夫だったらしいが、60歳で肝っ玉の据わった従弟も釜石の惨状、被害には参っていた。激しい余震も多く心が落ち着かないと語っていた。ボットットした喋り方に、励ましの言葉も出ない。
 その後、幼馴染の恭子さんに電話が通じた。彼女は子供の頃、弱々しい感じだったが40代になり急に登山に目覚めた。屋久島まで出かけるほどである。同級会や帰省などで会うと、その元気のよさに口下手な私は圧倒されてしまう。この日も、励ますはずの私のほうがパワーを頂いた。時々美味しい「サンマ」を送って頂いていたが今年は無理であろう。ともかく被災者の皆様の、生活の再生を一刻も早く訪れることを願いたい。

 この日の昼過ぎ、加藤さんという女性からお電話があった。どなたか思い当たらず、はてと考えていたら、「盛岡の加藤です、息子の事でお世話になりました」という言葉が飛び込んできた。このブログ欄の一昨年(2009年)4月2日に東北大生で、池の平から槍ヶ岳を目指し北鎌尾根附近で行方不明になった、加藤君のことを書いたが、その加藤君のお母さんからだった。

 一昨年の4月、息子さんの手がかりを尋ねるお電話があった。私なりに各地にお電話や、お手紙を出して、消息の情報をあっめ、さらに北鎌尾根の詳細な資料も同封して送ったが、その後なんの連絡もなかったため失念していた。今日のお電話は、私が釜石出身であることを思い出しお見舞いのお電話であった。「釜石に行かれる時は私の家を使ってください」というあり難い申し出であった。

 加藤君のその後を伺うと、新しい手がかり情報もなく行方不明のままであるということだった。お母さんも必死で、ガイドを雇い烏帽子岳のあたりや、湯俣、北鎌尾根の取り付きの辺まで行かれ、息子さんの消息を捜し求めたが不思議にまったく見つかなかったという。そのため、どこかで生きているのではとの想いと願いが混在想起されるようである。
 加藤さんは私を見舞ってお電話をされたが、加藤さんの実家も今回の震災で家を損傷し、救出されたを母さんを盛岡に引き取り同居してますと淡々と語られた。まだ、ライフラインも整わないようである。この日は8名の友人、お客様、モンロー会の方々からご好意のメールを頂いた。

                   2011年3日20日     原発と丸原
 震災発生からテレビ報道が気になり、家に閉じこもり状態で運動不足になってきた。それでも原発の行く末が気になる。以前、名古屋の科学博物館に2〜3度見学に行ったことがあるが、驚いたことに子供達が沢山見学に行く場所に、巨大なスペースに原発の模型があり、原発の安全性を強調していた。中部電力の援助額が大きいのだろうか。日毎に報じられる原発報道に心悩むことが2点ある。
 
 その一つは、友人が福島の原発で働いていることである。東電の下請けで働いているのだが、彼の家に泊った時、放射能大丈夫と聞くと、「心配スンナ、作業日ごと測定をおこない、受線量の積算管理をしているから大丈夫だよ、保護具もシッカリしているよ」といっていた。一緒に食事していた奥様や、二人の成人した子供さんたちも、心なしか不安を抱いているように感じられた。1945(昭和20)年8月6日、8月9日の原爆投下の年に生を受けた(4月5日)私は、放射線と聞くだけで自然に嫌悪、身震いを覚える。

 二つ目は、62歳まで勤めた仕事のことである。40年ちかく某大手の製鐵会社に勤めた。製鋼工場というところで、溶鋼の成分調整行程などに従事していた。特殊合金鋼の注文の多い現場で、時々原子炉用鋼の注文が来た。「丸原」と呼んで特別に管理生産されていた。成分調整面や工程面ではさほど困難なものではなかったが、帳票類などの管理が厳しかった。製鋼工場だけで、4〜5ヵ所の工程を経るのだが、溶鋼の移動とともに、その鋼の戸籍台帳ともいえる「随伴券」が手渡しされた。

 記入ミス、印鑑ミスで降格になる方も出た。帳票類は50年保存と聞いていた。私たちが製造した鋼材は原子炉格納容器用か、原子炉圧力容器用かは不明だが、福島原発事故の推移をみていると、その鋼材の強度の重要さに今更ながらに緊張を覚える。私のタッチした「丸原」は、殆ど北海道電力泊原子力発電所用だったと記憶している。またこの日は、モンロ会の仲間から3件、お客さまから1件お見舞いのメールを頂いた。感謝します。

                   2011年3日19日     従妹
 昨日釜石とはじめて電話が通じたが、今日は懸案の釜石に住む従妹から電話がかかってきた。従妹の家は津波の恐れはないが、ご主人は船舶の取り締まりの仕事で船上勤務が常ですので心配していた。ニュースに寄ると事務所にかなりの職員が残されているとの情報があった。津波が押し寄せてきた時、港に繋留されていた船に乗っていたようで、急いで下船し高台に逃げたとのことだった。逃げた方向が二手になり、反対の方向に逃げた方は犠牲者になったようだ。

 釜石の消防本部は津波で壊滅し、消防車も波に呑まれたという報道もあった。消防署の職員に、2名五葉山で友達になり年賀状を交わしている山友達が居た。従妹の近くにも消防署があるということで確認してもらった。10数分後、無事ということでまたまた胸をなでおろした。この日は有り難いことにモンロー会の仲間2名、お客様からお見舞いのメールを1件頂いた。

                   2011年3日18日     池田先生と菊池棟梁
 昨日夜、仙台にもう一人気にかかる方と電話が通じた。池の平小屋のふたつの看板を揮毫された方で池田先生(元日大教授)という。前小屋があった1990(平成2)年7月に初めて池の平でお会いした。この年管理人の田中正雄さんは入院され、上山出来ないので知人の阿部さん(京都)、それに東京神田でレコード店を経営し、馴染みの上田さんにワンシーズンの運営を委託した。ところが上田さんは都合が悪く、店のお客の池田先生に声をかけた。

 当時池田先生は足の調子が悪かったので、事務職の小野さんという若い方を誘い、3名で入山した。その翌日に私が小黒部鉱山の調査で池の平に行くと、小屋は傾き、池田先生と小野さんは小屋の倒壊を恐れ困っていた(阿部さんは仙人湯に2泊し遅れてきた)。そんな事で小屋の倒壊防止、矯正を図っているうちに、私の持ち時間が無くなったので下山しょうとしたら、先生も同行することになった(小野さんは早めに下山した)。

 二人で下山していたら、大怪我をした神戸製鋼のパーティと出会い、急遽ヘリポートの仙人峠まで(当時ヒュテにはヘリは着地しなかった)背負い上げたりしている内に先生と気があってしまった。翌日下山し、田中さんを見舞いし別れたが、その後も池の平や大学のある郡山、仙台で度々歓談をしていた。そのような事で、お電話をいれたら奥様が憔悴されたようなお声で電話口に出た。「主人は留守です。昨日山田町にいるから心配ないと電話がありました。死体の運搬など手伝っていると言っていました」と、お声をおとした。

 先生は退官後「ウワミズザクラ」の調査で岩手県の大槌町や山田町に入り、地元の方とも大変親しくなり「大鎚や山田はいいとこだね」とよく言っていたが、震災の時も山田町に居たとは驚きであったが、津波に呑みこまれなかった幸運に安堵した。
 
 さらに、14日に息子さんから「父は無事です」の電話を頂いていたが、釜石の菊池先輩から直接電話がかかってきた。菊池先輩は棟梁であるが、私の高校の先輩であり、私に山とお酒を仕込んだ人でもあった。小屋明けに2度参加し、2008年夏には奥様と二人で遊びにも来てくれた。2009年10月の小屋閉め後には、娘(葉子)が自分の名前の元となった山に登りたいということで、先輩宅をベースに娘と三陸の秀峰「五葉山」に登った。言い換えれば親戚以上の付き合いであった。

 その先輩は、私の声を聞くと大変喜んでくれたが声は重かった。先輩は、私も入会していた「アトラス山岳会」(釜石高校の先輩達が創設)の会長であるが、会の重鎮2名が震災死し、一人が行方不明だという。行方不明者は前会長で、私に懇切に山を指導してくれた歯科医であった。自然には畏怖を感じるが鎮まることを祈願したい。この日お客さまからお見舞いのメールを1件頂いた。有難うございます。

                   2011年3日17日      安否情報
 この日もテレビと新聞、それにネットによる情報集めで一日が過ぎた。新聞は朝刊しか取っていなかったが、12日から毎夜コンビニに行き夕刊を求めている。少しでも事実を知りたいという気持ちが強い性格のなせる技かも知れない。小学1年の夏に、浜よりから山手の学校に転校した。

 甲子(かっし)小学校という校名ですが、高学年になると朝のホームルームの中に「ニュースの時間」というのがあった。内気な生徒が多いので、生徒に発言させるための企画のようであった。何でも良いからラジオや新聞で仕入れたニュースを発表すると、壁に貼ってある表の棒グラフが一マスずつ増えていった。
 外で遊ぶのも大好きだったが、新聞もラジオも好きだった。それでネタが潤沢だったので毎日発表した。不思議に誰も発表する人はいなく、1本棒だけの変な表となった。私はのめり込み、毛沢東やマクミランなど当時の政治家の顔写真まで切抜きをし、政治経済まで発表しだした。その後、女性陣からクレームが付いた。

 「もっと身近な事を発表したほうがいいと思います」。新聞、ラジオでは明るいニュースはなく、自然と身近なニュースは暗いものばかりとなるが、相変らず発表者は私一人で、ついには自然消滅となってしまった。まぁ〜そんなこんだで、いまだ以って新聞が離せない毎日である。この日盛岡のモンロー会の仲間から、釜石の仲間の1件安否情報が寄せられた。

                   2011年3日16日   幼馴染
 この日に仙台に電気が通ったのか、電話が仙台に住む幼馴染に通じた。たまたま外に居たが揺れがひどく立っことが出来なかったという。家や家族に被害がなかったが余震が強く寝れないと嘆いていたが、リーダーシップの強い彼は地域のまとめ役で忙しそうだった(頭が下がる)。「奥さん元気」と聞くと「母ちゃんは魂消るくらい強いさ、頼りになる」と笑い声が聞えた。この日は岩手の内陸部に住む従兄、それに中学時の恩師に安否を伺った。85歳で一人住まいの恩師は涙声で喜んでくれた。
 
 宮城で気にかかる仲間がもう一人居た。前管理人の新井さん家族である。彼は2008年(平成20)年4月から家族で栗原市に住み建設関係の仕事していた。運が悪いことに、移転して2ケ月後に岩手・宮城内陸地震に遭遇している。その意味で妙に気にかかり電話をしても通じなかった。そこで夕方彼の実家(宇都宮)に電話を入れると運良くでた。

 「電気がこないので携帯が電池切れで出れませんでした」。長女の「小窓」ちゃん、次女の「つるぎ」ちゃんも元気との事でホットした次第。なお新井さんは4月から新天地を求め、お母さんとともに北海道の伊達市に移転するとの事だった。
 この日福島で池の平に縁のある仲間から、お見舞いなどのメールが2件寄せられた。

                   2011年3日15日     原発
 この日、福島第一原子力発電所の2号機も、12日の1号機に続き爆発を起してしまった。放射能の大量飛散が懸念され恐怖を感じた。中学生の頃ラジオからこんなニュースが流れた。イギリスの少女が、雨に濡れ家に帰ったら急死したというものだった。遺体からは大量の放射線が計測された。冷戦下、原水爆実験で大量に浮遊していた放射能が雨と結びつき、濡れた少女の命を奪ったのだろうというニュースが未だに耳にこびり付いている。手元のスクラップ帳をみたら1996(平成8)年4月24日の記事があった(朝日新聞)。
 
 「汚染大地脅かす若い命・チェルノブイリ事故10年」の見出しで、次のような記事が続いた。「4月26日で、あの日から、ちょうど10年がたつ。史上最悪の原発じことなったチェルノブイリ事故でまき散らされた放射性物質は、ウクライナの肥えた穀倉や、ベラルーシのシラカバ林を汚染大地に変えた。子供の甲状腺がんの発生率事故前の約百倍に達した地域もある。ソ連崩壊後の貧しい生活の中で、貴重な栄養源となっている牛乳や森のキノコからは、高レベルの放射能が検出され続けている。
 
強制移住でゴーストタウンとなった町もあるが、汚染地帯に住み続ける人たちもいる。故郷への思い、そして避難先で待ち受けるインフレと貧困が主な理由だ。・・・」記事の脇には甲状腺がんで悩む10歳の少女リリャさんの写真と「消えた町」と題する写真が掲載されていた。説明文には次のように記述されていた。「原発に隣接する町、ブビャチでは事故翌日、3時間で約4万5千人が一斉に避難した。生徒たちが去り、荒れ放題のまま、学校の教室も10年を迎える」。どうか、このような惨劇にならないように、全知を傾け、関係者の方たちに頑張って欲しい。日本の未来をになう子供達のためにも。

                   2011年3日14日  岩手の人
 彫刻家でもあり詩人である高村光太郎は、戦時中花巻に疎開していた。その光太郎が昭和24年1月、地元新聞に書いた詩がある。題は「岩手の人」

 岩手の人眼(まなこ)静かに  鼻梁秀で  おとがひ堅固に張りて  口方形なり  余もともと彫刻の技芸にあそぶ  たまたま岩手の地に住して  天の余に与ふるもの  斯くの如き重厚の造型なるを喜ぶ  岩手の人沈深(ちんしん)牛の如し  両角に天球をいただいて立つ  かの古代エジプトの石牛に似たり  地を往きて走らず  企てて草卒ならず  つひにその成すべきを成す  斧をふるって巨木を削り  この山間にありて作らんかな  ニッポンの背骨岩手の地に  未見の運命を担う牛の如き魂の造型を(『沈深牛の如しー慟哭の街から立ち上がった人々』高崎哲郎著)  
 
 もくもくと復興に邁進する東北に応援したい。もくもくと立ち向かう被災者の皆様の応援をしたい。
どうぞ、心を強く持ってください。尚、11日夕から悪化する原発の行方が事のほか気になる。この日の夜、山の先輩で、小屋明けなどで3度訪れている、釜石の菊池棟梁の息子さん(東京在住)から「お父さん無事です」との電話を頂いた。花巻に住む次男さんが確認してきたという。ひとつホッとした。
この日、3名のお客様よりお見舞いのメールを頂いた有難うございます。


                   2011年3日13日    近所の人達
 被害の程度が陸続と報じられるなかで、頭を垂れるだけだったが、仲間達からネット使っての友人、親戚の安否情報の検索を示唆していただいた。この日、宮城の同級生と連絡が取れ、また奥州市の父の実家からも無事が伝えられた。ネットで安否情報を検索すればするほど不安が増してくる。

 見えないということは辛いものだ。私の近所の大半は、昭和40〜50年代に釜石製鐵所の大合理化の余波で、当時の東海製鐵(現・新日鐵名古屋製鐵所)に配転をされた方で、親族、友人が東北に住んでいる方が非常に多い。気のせいか皆さんの顔が暗い。この日、モンロー会の仲間1名、お客さまから1名お見舞いのメールを頂いた、有難うございます。
                   2011年3日12日     菊池アキ先生 
 この日関東に住む息子夫妻と連絡が取れる。2時間30分歩いて帰宅したとのことだった。しかし、東北3県に住む、親戚、同級生、山仲間、知人の安否はまったく不明だ。早速、モンロー会の仲間からお見舞いや、前管理人の新井さん(宮城県在住)の安否を尋ねるメールが届いた。
 小学校2年の担任の菊池アキ先生は、1933(昭和8)年の昭和三陸津波の被災者であった(死者900人余)。
 
 身近な方も亡くなり悲痛な体験者であったためか、国語の「稲むらの火」の時は涙ながら、津波の怖さを話してくれた。また、事あるごとに「地震がおきたらすぐ高い所に逃げなさいねと」教え、諭してくれた先生だった。そのような為か、海の近くで育った私ですが、海に臆病な人間となってしまった。余震も強く、昨晩も長野で強い地震があった。

 19日から、富山のモンロー会(池の平小屋支援組織)の仲間7名、それに岡山の仲間2名、高知のお客様などと四国の石鎚山に登り、高知市で高知の岳人と懇親会を計画していたが、皆様の発意で中止とした。祈るしか術の無い自分が歯がゆい。この日モンロー会の仲間3件、お客様から2件お見舞いのメールを頂いた、有難うございます。

                     2011年3月11日   14時46分
 この日は関東の知人に、お客様の河口健さんの写真展の案内や、大阪のお客さんにお礼状を書いていた。14時46分ユッタリと家が揺れだした。揺れかたが異状だったので妻に声をかけ外に飛び出した。小康後テレビを点けると、我が故郷釜石を含め東北、関東に目の蔽うような光景が続いた。

 巨大な津波に呑み込まれる家、家、翻弄される車、船、あの中には命ある人間が閉じ込められていると思うと哀しく切なかった。犠牲者が少ないことを心から祈った。この日、早速富山のホコラさんからお見舞いのメールを頂いた、有難うございます。

                   2011年2月23〜28日    奈良・宝塚
 50年ぶりに、奈良と大阪に行った。高校の修学旅行以来である。大阪は昨年から計画していた。大阪の中ノ島図書館に鉱山関係の資料が眠っているという予感で計画した。そして、一昨年12月、池の平小屋の古いお客様の大工原先生(鹿児島在住)と大阪の邑上さんに名古屋までおいで願い、駅裏の居酒屋で懇親の席を設けたことがあったので、今度は大阪でとなった。奈良で2泊し、初日は興福寺と奈良国立博物館を見学した。阿修羅像には不思議な魅了を感じていた。翌日は、好きな写真

家入江泰吉を記念した「奈良市写真美術館」で氏の世界を堪能し、その後西ノ京にまわり、薬師寺と唐招提寺を懐かしく歩き回った。修学旅行時は薬師寺の広場で、若き高田好胤師(1924〜1998)が高校生を前に熱心に法話をされていたことを思い出す。当時の私は、仏像に心ゆすられたが、法話には興味なく離れて見ていたような気がする。薬師寺に入り、あまりにも立派になったのには驚いた。落ち着かないので、休憩所で茶をもとめ、すすりながら50年前を思いだしていた。反して、唐招提寺

は静かで古色を湛えていた。ゆっくり、ゆっくり歩いた。その後、また薬師寺に戻り、2時間近くかけて外から薬師寺をながめた。2日目の夜も安宿の近くの居酒屋で時間をつぶした。前夜もだが奈良の夜は閑散としていた。25日は、午前中、人間より多い鹿に取り囲まれた東大寺と正倉院を見学し、午後から大阪にむかった。邑上さん馴染みのお店が準備されていた。大工原先生とは1年振りであった。邑上さんは、お客さんでアマチュア写真家の飛田さん、それに、池の平小屋でアルバイトをした経験

のある玉枝さんにもお声をかけておられ、4名で乾杯となった。大阪の料理も、お酒も美味しい夜でした。26日は、午前中、邑上さんの案内で、六甲山の「ゴロゴロ山」登り、のち、お客さんで、セミ写真家の藤原さんと歓談し、27日は、娘も新幹線で南下し合流、宝塚観劇となった。宝塚、なかなか素敵でシッカリ観劇に感激しました。後日、富山の山仲間に、「宝塚に感激したので、今後は山を止め、宝塚一本にしょうと悩んでいます」と、メールをしたら「宝塚もいいけれど、山を止めないで下さい」と、抗議

の返事が来た。28日は、前日に続き、邑上さんに大阪の街を案内していただき午後から名古屋に向かった。そうそう、新幹線の大阪駅で階段を急ぎ登ったところで、一人の若者とぶっかりそうになりました。見かけた顔だったので「おう〜」と手を挙げかけたところで「だれだっけ」。時間が無いので新幹線に乗り、「フゥー」としたところで、NHK朝ドラ「てっぱん」の滝沢薫君(長田成哉)だと気がついた。

                   2011年1月30日       風のマント
 5日ころから体調が悪くなった。鉱山研究会用の原稿〆切りを、12月末から1月末に1ヶ月伸ばしてもらっていたが、20日過ぎまで熱はないが、咳、鼻水、涙、痰が止まらず、呼吸も苦しくなり、寝ることも叶わず、テッシュペーパーは離せず状態が続いた。病院は苦手だった。20日、寒かったが思い切って、自転車で薬を買いに行った。なんと、翌日から症状が軽くなった。ホットしたら印刷屋さんや、会から原稿を早くと催促が来た。モリブデンと池の平(小黒部鉱山)の歴史を含む、原稿『風のマント』を必死で今日書き上げ郵送した。

                 2011年1月1日         新年
 大晦日は、妻と娘とで紅白を見て新年を迎えた。午後、東京から息子夫婦がやってきた。4人で乾杯、新年を祝った。家族の健康、そして山での事故の皆無を念じた。剱岳を愛する皆さん、今年も池の平でお会いしましょう。また、健康第一で安全登山、そして楽しい山行の創出にガンバッテ下さい。

                       ここより2010年分

                   2010年12月29日   第九と望年会(関東支部)
 サントリーホールで東京交響楽団による「第九」演奏を聴くのは4回目となる。2006年秋、池の平小屋で同楽団の主任チェロリストのボーマンさん(スェーデ人)との縁がはじまりであった。2回目からはボーマンサンの友人とともに鑑賞し、その後はボーマンさんの友人の会田さんが経営している「ポランの広場」(雑色)につどい忘年会となっていた。いつもは3〜5名の参加であったが、今日は20余名の参加と大盛況であった。池の平小屋の小屋締め隊の亀谷さん、小元さん、佐藤さん、太田さん、畑木

さん、小屋の賄いの応援団の長谷川さん、根本さん、お客さんで写真家の志水哲也さん、林久夫さん(北海道)、さらに、今夏、幕営した武田さん(愛媛)、下川さん(鹿児島)、私の元同僚の秋庭さん、さらに息子夫婦。また、会田さんの知人で写真家の鈴木秀樹さん、明野山岳会の佐野さん、志水さんのお連れの河井さんなどの参加者で、さながら、モンロー会関東支部の望年会となった。ここでも、興に乗ったボーマンさんのチェロの演奏が焼き鳥の煙で霞むなかで演奏された。

                   2010年12月13日   映画・武士の家計簿
 下山後、2回目の妻との映画鑑賞は「武士の家計簿」となった。NHKの大河ドラマ「新撰組」で山南敬助を演じた堺雅人をいいな〜と感じたが、彼が主役だった。幕末という時代の狭間の舞台でなかなか生活感のある映画だった。見終わったあと、私も家計簿をつけようと試みたが、意志が弱く数日で霧散してしまった。

                   2010年12月11日   モンロー会・望年会(名古屋支部)
 
20年以上も、狭い陋屋で望年会を続けている。元は茜山岳会の望年会だったが、池の平小屋にかかわる仲間が増えるに従い、モンロー会と茜山岳会の望年会となった。宇奈月温泉在住で、池の平小屋オーナーの米澤さんも4回目の参加だ。今回は、富山から、さらに橋本さんと岩城さんが参加となった。望年会は例年通り大盛況で21名の参加となった(内小1名、高1名参加)。

                 2010年11月6〜9日
    沖縄旅行
 昨年小屋締め後は、娘と二人で岩手に6泊の旅行をした。目的は娘の名前(葉子)の元となった三陸の名峰五葉山登山であった。釜石に直行し菊池先輩宅に泊り、翌日菊池先輩と私たち3名で台風の影響で雨降るなか登った。まだ、ストーブもない無人の山小屋「しゃくなげ莊」泊った。下山後また菊池先輩宅に泊り、翌日は盛岡近くに住む従弟宅に泊り岩手山をめでた。最後は父の実家のある奥州市にまわり、藤原の里や平泉を、義兄や甥と楽しんだ。そのとき来年はどこに行こうかとなった。

 結果は私の意向を聞き入れ沖縄となった。初日はセントレア(中部国際空港)から石垣島に直行した。私が小屋番をしているときに、娘が全てをスケジュリングしてくれたので私はついてゆくだけだった。私の狙いは戦跡の見学と南方系の蝶々の写真撮影だった。着くなり、レンターカーを借り島内一周となり、めぼしい観光地と蝶のいそうな所を訊ねた。初日に玉取崎展望台で狙いの蝶に出会え感動した。食事は私が持つということで、ついつい酒の飲まない娘をつれて居酒屋めぐりとなった。居酒屋には土地の方が沢山見えて知り合いになり、色々秀逸な情報を提供してくれた。その功で翌日は、雨だったが、急遽竹富島に渡った。景観、時間が異質な世界を醸し出していた。午後から沖縄本島に渡り、また車を借り中央部の観光地を廻った。この夜もホテル近くの居酒屋にいった。隣席したのが金城ご夫妻だった。蝶に対する思いを語ったら、東南植物園がいいと教えられた。翌日、早速東南植物園を高速道路で飛ばした。インターを出るとき、料金が0円と表示するので、機械の故障?と思っていたら沖縄は無料化実験中であった。

                  2010年11月1日 曇り    映画・雷桜
 下山後、妻とはじめて映画を見に行く。題名は「雷桜」(らいおう)。新聞の小さな活字を見て蕾桜(つぼみさくら)と読んでいたが、老人性誤読だった。蒼井優の作品は3作目だがずっしりした満足感を得た。今後も大いに期待しその作品に接したい。ストーリーも後半盛り上がり引き込まれた。シーズンオフも、なかなか家に閉じこもってばかりおられない。                   

                   2010年10月24日 曇り
    114日ぶり
 8時前、岩城さんに富山駅まで送っていただく。北陸線に乗り、米原を過ぎ一の宮まで来ると家が近いと感じそわそわしてきた。名古屋から名鉄で太田川に着く。駅も大分変わった。そこから、知多バスで15分、上野台着であった。歩いて3分、1時30分には家に着いてしまった。114日ぶりの帰宅であった。入山時に時間が止まってしまったような我が家であった。

                    2010年10月23日 晴れ    鉱山道
 今日も岩城さんがアッシー君をしてくれるという(感謝)。今日は長い間懸案となっていた、大正期(小黒部鉱山最盛期)の滑川〜馬場島間の馬車道の同定であった。一部でも手がかりを見っけれればと感じていた。手始めに呉羽山の麓にある県立富山図書館を訊ねた。『滑川市史』に概略が載っていたからである。コピーし滑川出身の岩城さんに見せると、しきりに頷いていた。その後滑川図書館に行き、補完資料を入手し実地調査となつた。市史による当時のルートは東加積の千鳥から蓑輪を経て早月中村にでるものであった。

 千鳥は岩城さん宅の裏山であった。結局、付近の林道を虱つぶしに走り、大よそのルートは確認できた。あとは市史に載っている隧道を探し出せば完璧と感じた。来年のいいテーマかもしれない。昼過ぎ馬場島下のいわなを扱う食堂「はやつき」に寄る。釜飯ときのこ汁を注文する。岩城さんは渓流釣りをしているとき常連さんだったようで、脳梗塞を病んでいるご主人は「何を釣った、何匹釣った」と何度も聞き返していた。その度に岩城さんは嫌な顔もせず「うんにゃ、今日は釣りじゃないじゃー」と根気よく何度も応えていた。ここには馬場島の好きな常連さんが集るところらしく、岩城さんの知人も来ていた。腹も一杯収穫も一杯ということで帰途に着く。

 「菊池さん、長勢の近く通るから寄って行かない」。「いいよ、小屋明け以来あっていないから」。かくて、スパーで食材や酒を仕込み(20日もそうだったなー)長勢家へ。長勢さんのホームページネームは「真っ黒ネコさんの散歩道」だが、豪華なロビーには真っ黒なウサギが檻の中で飼われていた。真っ黒ネコは聞くと、長勢さんと同級生の岩城さんは隣室から、体躯がよく、毛並みの輝く真っ黒猫さんを抱いてきた。なるほどと唸ってしまった。翌日は、長勢夫妻と岩城さんとで尖山に登る計画らしい。ということで草々に退散した。長勢さんご馳走さまでした。この日も岩城さん宅泊まり。

               2010年10月22日 晴れ 祖母谷温泉と慰労会
 5時起床、近くのコンビニ”ポプラ”で昼食と、登山史関係の資料のコピーをする。今日の予定は祖母谷温泉入浴と、19時から富山駅前で開催の池の平小屋関係者の懇親会出席だった。
 7時11分に宇奈月を発ち、9時前に欅平着。錦秋とはいえないが深みが増してきていた。4〜50分歩いて祖母谷温泉着。唐松、祖母谷間にあった大黒鉱山の調査時は(昭和50年代)定宿にしていた。当時小屋を守っておられた芳弘さん、それに女優の轟夕起子に顔立ちがそっくりの奥様には可愛がられ、自分の家のように過ごしていた。懐かしくもありがたい山小屋である。

 いまでも小屋の名義人は佐伯さんのようであるが、実質の経営はお嬢さんの峰岸さんとご主人、それにご子息の3名、ご家族で運営されているようである。つくなり、露天風呂に入り手足を伸ばす。広い浴場一人である。20年ほど前、白馬登山の帰り家族で入った思い出の湯でもある。その時は、白馬から道ずれとなった、10数人のアメリカ人パーティと一緒だった。言葉は通じなかったが、ワイン、日本酒を媒体にボディランゲージで楽しく盛り上がったものだった。息子は「ストロング・ベイビー」といわれたのも懐かしい。

 そういえば、あの時小屋近くの谷で、夕方、雨の中数人のアメリカ人が疲労で歩けなくなった。そこで妻と子供を先に行かし、彼らの荷を担いだ。一緒に歩いたリーダーのジョーン(大学の助教授といっていた)さん、雷が鳴ったら「ブンボンバーン、イコール、サンダー」と濡れながらのものの笑顔が素晴らしかった。雨に打たれての日米交流だった。だから、その夜は思い出に残るほど楽しかったのかもしれない。彼らは、上高地をめざし縦走をした。

 入浴後ビールを頂いた。峰岸さんとの世間話も楽しかった。ここは時間がユッタリしていると感じた。ビールをお変わりし、大好物の岩魚の骨酒に舌鼓し、気持ちのいいところで山菜、茸入りラーメンを頂いた。昼過ぎそろそろ神輿をあげないと19時までに富山に着かないので、お暇を告げた。山を降りてから、はじめて骨が抜けたと感じるほどゆったりしてしまった。峰岸さんありがとうございました。

 宇奈月に着くと、富山行き特急電車は終っていた。ひとシーズンお世話になった米澤ご夫妻にお礼とお別れを述べ、90分車中の人となった。今日は4時間30分電車に揺られた。19時前に会場に着いた。岩城さんはじめ、今シーズンの裏方さんが続々と集合した。橋本、文山、地元、根岸、藤本、山田、飯田の諸氏諸嬢等、9名の参加であった。3回も乾杯となり、隣室の若者組みに負けない盛況となった。火をつけたのは、文山、地元ニュウコンビによる、6日ほど前の源次郎尾根〜馬場島登攀であった。御前さま登山となったようで、それへの追求、追尾が週刊誌並であった。飲みたらず、2次会はどじょう店で粘りを付け解散となった。私は岩城さん泊りとなった(藤本さんも)。


                    2010年10月21日 晴れ  資料探し
 今日は休養日となりそうな予感。出勤の岩城さんとJRの駅で別れ富山駅へ。新幹線工事で駅舎の位置も変わり、戸惑う。例年通り駅前の写真店”陽光堂”にて、今シーズン分の写真を焼いてみる。その後、富山地鉄で下立駅へ。宇奈月の図書館兼博物館を訪れ企画展「黒部の鉄道史〜電源開発の軌跡〜」を拝見する。その後3時間ほど郷土史関係の本をみていたら、小黒部鉱山関係者が建てたダムの資料を見つけ気を良くし宇奈月に向かう。この夜は町の公衆浴場で汗を流し、居酒屋で少しばかり盃を傾け早めに就眠した。
                      2010年10月20日 晴れ  古道探訪
 この日は岩城さんが振り替え休日ということで、アッシー君を依頼する。9時に宇奈月まで来て頂き、馬場島に向かう。今日の目的は、下田(げた)金山の探索と馬場島周辺の探訪。岩城さんネットでいろいろと検索し、「菊池さん、坑内に入るなら長靴いるよ」などと事前準備は万全なようだ。滑川生まれで、子供の頃から渓流釣りが好きな岩城さんの頭の中には、この辺の河川、林道の情報が一杯詰まっているらしい。ほどなく吊橋の前に出た。「この橋、車で渡れるんじゃない」。「僕の車では無理ですよ」。橋をわたり、林道を登ると数件の集落にでた。一人の男性が作業をしていた。「おじさんなにしているんけー」。

 人好きで、物怖じのしない岩城さんは、旧知の友人のように話しかけてゆく。見ていてあっけらかんとして気持ちがいい。取材能力は私よりも上かもしれない。かくして、一時故郷下田を離れ、その後もとの位置に家を再建した黒田さんと懇意になった。坑口は10分くらい登ったところにあった。地元の小学生達の社会科の野外コースや、遠足コースになっているらしく、坑内には配線が引かれ所々に明りが灯されていた。黒田さんが電源の入り切りをされているようだった。幅1m前後、高さ1m50〜70cm程度で、100m続いていた。横坑があったが近年の採掘の時にズリで埋められたということだった。

 見学し下に下りると、黒田さんが待っていた。杉林の中にポッントあった坑車。とても珍しいものと感じた。また、黒田さんの好意で小さな資料館の鍵を開けて頂き拝見させて頂いた。金鉱石を磨り潰したと思われる金のすり鉢などおもに昭和の頃と思われる生活用具が並べられていた。坑車の車輪も1台分あった。集落には黒田さんの車のほかに1台増えていた。皆さん往時を懐かしみ仮の住まいを建てているようで、ここで世間話をするのが楽しいようだ。勿論ここまでは車で入れるようだ。黒田さんお礼を言い下ると、清水が湧き出ていた。その下に釣り橋があるので、横幅を計測したら充分普通車が通れる幅であった。

 その後、岩城さんの取材能力発揮で、3件目に伊折で昔のことを知っているお年寄りを探し出し、お話しを聞くことができた。馬場島の下2杉の平2というとこまろで案内して頂き、杉林のなかの石垣を指差し示し「ここが鉱区小屋が在った所だ」と教えていただいた。ほぼ目的は完遂であった。
 腹が空いたので馬場島の東屋でおにぎりでもと思っていたら、岩城さんが「馬場島莊のそば美味しいですよ、とくに山菜そば絶品です」。こう言われたら、大のそば好きの私は従うしかない。食堂に入ると、2組4名が板長と茸談義をしていた。みなさん地元の方らしかった。板長は大分ふけたが佐伯透さんに違いなかった。先客が帰ったので「池の平の菊池です、お久しぶりです」と話しかけた。彼は「あ、」と頷いて仕事の手を休めなかった。

 記憶の螺旋板を高速で回しているようだった。「たしか、新日鉄に勤めていたよね」。「はい」。「もう、20年位なるよね」。「はい、20年前、壊れた池の平小屋の片付けをしている時、透さんが仙人の新生爺さんに頼まれたといって、ビールやジュース届けてくれましたよ、2回もね」。「そうか20年になるか」。会話はそれだけだった。
 佐伯さんは、当時切れ物の近寄りがたいナイスガイドだった。お兄さんは剱沢小屋の佐伯友邦さん。ただ、聞いたところに拠れば、透さんは不慮の事故に遭い歩行不能までなったらしいが、持ち前の克己心で乗り越え現在は馬場島莊を守っておられるようだ。

 食事後、馬場島の地形に疎い私を、岩城さんは、白萩、赤谷山の取り付きなどを案内してくれた。あとは岩城さん宅に向かい寝るだけであった。ところがである・・・。
 じつは、22日夕、池の平小屋専務のはっぱさんのアイデァで、富山駅前のの1等地で、池の平小屋の打ち上げ式、懇親会を19時からやろうと17日に決った。

 だが、富山県のボランテァの組織の礎、キッカケを作ったのは黒部貫光の池原さんであった。その彼は22日は愛妻との旅行で不参加とのことであった。ということで、池原さんを信奉する岩城さんが「今から、池さんのところ行ってみない」。池さんには3年御無沙汰の私は「いいよ」。かくて、禁酒予定日を返上し、八尾までドライブとなった。久闊を交わしこの夜も楽しく更けた。

                      2010年10月19日 晴れ   松倉金山
 朝、黒部峡谷鉄道勤務の橋本さんの車に便乗し、彼の職場宇奈月に。その前にあるオーナーの米澤商店の向かい、一昨日洗濯したものを片付け、他の私物などを梱包し3ツのダンボールを家に発送をする。その後、米澤さんの好意で魚津市へ向かう。藤田さんのお宅に着くと名刺を頂いた。”魚津松倉金山研究会”、金山案内人藤田秀治と書かれていた。これは本格的な鉱山研究家と嬉しくなった。「今日はもう一人同行します、元市会議員の朝野さんという方です」。途中で朝野さんを藤田さんの車に乗せ、はじめに向かったのが昨日伺った松倉小学校であった。校内に招かれると、古い絵地図(模写)が飾られていた。佐渡金山関係の書物にに似たような絵地図があったような記憶があったが素晴らしいものと感銘した。

 その後は、林道を駆け上り、虎谷集落を目指した。数件の建物が残されていたが、廃屋に近く数人しか住んでいないという。そこに異質とおもわれる巨大な石造が建ち圧巻された。京都からとかいう青年が鑿を振るっていた。また近くの建物の中では地元の青年達が木工製作をしていた。お年よりは女性の方2名を見たが、静かに黙々と働き生活をしていた。その集落から車で数分山道をのぼり「この先に坑口があります」ということで、靴を履き替え歩こうとすると、「バンバン」と爆竹の音、さらに大きな鈴を鳴らし、金物の付いた長い棒を振り回し、大声を上げ歩き出した。魚津市は熊の出没数が多くかなりの警戒心であった。1ヵ所坑口を見せていただいた。狭く水が湛えられてあった。

 「もっと上部に、300mもの深いものもあるのですが、今日は突然ですので時間が在りません」。今日は江戸期の金山の一端を拝見でき眼福であった。帰途、松倉城跡に登り、金山の持つ重みを地形、歴史と重ねてしばし忘我に浸った。途中のラーメン店で、貴重な資料などを沢山拝見させて頂いた。毎年5月末の地元のお祭りには、鉱山の見学会も合わせ行なうというので来春は是非訪れたいと思った。
 魚津駅の交番に寄り、自転車で警ら中の黒川巡査部長をまった(藤田さんとは懇意で、鉱山にも関心がおありのよう)。制服に身を固めた黒川さんは、山岳警備隊の業務で、今シーズン2度池の平小屋でお会いした時の印象とは違って見えた。笑みと寡黙さだけは変わらなかったが。

 この夜は1件の取材が待っていた。17時、待ち合わせ先の宇奈月のオーナー宅にいると、今シーズン、池の平小屋に2度もボッカ登山をして頂いた稲荷さんがやってきた。今晩は稲荷さんのお父さんからお話を聞く手配となっていた。稲荷さんのお父さんは若い頃池の平にあった小黒部鉱山で働いていた経験のある方だった。この夜は、貴重な戦時中下の池の平の様子を伺うことが出来た。
 収穫も終わりに近づいた頃、橋本さん、飯田さんが稲荷家を訪れまたまた宴会となってしまった。
                      2010年10月18日 晴れ  ヒスイと金
 この日は橋本さんの案内で、新潟糸魚川市に2ヵ所あるヒスイ峡を見学する。昨晩投合した能登さんもご一緒だ。国道8号線を北上し、親不知を抜け海岸線の光景を楽しみながらのドライブとなる。
 初めに青海川沿いの橋立にある原石をみる。駐車場には監視カメラがあった。さすが国の天然記念物に指定されてるだけのことはある。

 次に向かったのが、小滝にあるヒスイ峡。目の前聳える標高1188mの明星山圧倒された。広角レンズに納まらない大岸壁に見とれてしまった。親不知のドライブインで好物の牡蠣フライを食べ、渚に
でてヒスイ探しに興ずる。らしきもの2〜3個採取。
 能登さんと別れた後、魚津市の山際を松倉金山(虎谷鉱山)の手がかりを求め走る。今年7月11日に泊った、山岳警備隊の黒川さんから聞いた、「魚津市の藤田洋菓子店の社長さんが虎谷鉱山に詳しい」という言葉を何気なく思い出し、橋本さんに話したら乗ってくれた。藤田さんへの連絡先が不詳で、とりあえず、一昨年にネットで見た松倉小学校を訪ねてみた。

 藤田さんは、ここの小学校の生徒さん達を社会科の授業の一環として鉱山の案内役をされているようで、すぐお電話と住所を教えていただいた。訊ねたら留守で名刺を置いてきたら、2〜3度電話があり、翌日11時から、2時間くらい鉱山を案内してくれると確約してくれた。
 この夜も橋本宅泊まり。橋本君は通称、”池の平小屋KK専務”。そのくらい池の平小屋のことを気にし、いろいろと素晴らしいアイデアを出してくれる。この夜は発泡酒を手に来期の構想で夜半を迎えた。

                      2010年10月17日 晴れ   僧ケ岳
 山小屋の習慣で3時半に目覚める。10月は忙しかったので洗濯をする間もなかったので汚れ物を沢山担いで降りてきたので洗濯に興ずる。洗濯が終わり、度々荷下げしていると、3階で休んでいた関東の面々が健やかなお顔でおりてき、6時過ぎ扇沢経由で帰途に向かう。朝食後、オーナーにシーズンの会計報告を済ますと、橋本君が10時頃迎えに来る。今日は僧ケ岳に登り、戦時中開山されていた鉱山跡を訊ねるのが狙いだ。昨年も同目的で入山したのだが氷雨に出会い退却してしまった。

 昨年は鉱山道を探すのに手間取ったが、今年は楽勝に目的地にたどり着き、数多く残され放置されている鉱山の遺品を写真に納めることが出来た。昼食後は僧ケ岳の山頂を目指した。沢山の登山者に出会い、縦走の先の駒ケ岳には40名ほどいたらしい。駒ケ岳から戻ってきた単独行の妙齢の女性がスカートを穿いていた。「ムム、これが巷で噂の山ガールか!」。声をかけると地元の女性で日帰り登山がメーンに山を楽しんでいるとのこと。記念に1枚写真を撮らせて頂いた。
 
 夕は、橋本さん宅のある黒部市生地に。近くの温泉に入り、海鮮居酒屋へ。匂いを嗅ぎ付けてきた、朝日小屋の応援団の飯田さんとジョッキーを傾けた。2次会は橋本宅。3名で山談義を弾ませていると、池の平小屋の常連の能登さん(今年4名で連泊)が仲間に加わる。賑やかで楽しい夜だった。

                      2010年10月16日 小雨後くもり  月夜茸と下山
 今年も関東の強力な小屋締め助っ人集団、亀谷さん(蛍雪山岳同志会)、それに東芝山岳会の、小元、佐藤ベテランに太田さんが初参加で加わり、さらに亀谷さんの仲間の畑木さんという調理人の女性が初参加となった。
 今年の小屋締めほど完璧で、やり易いとしはなかった。食堂脇の2階の従業員部屋の床が低く頭をブツお客さんが多々見られ、また照明も届かず暗かったが、14日の午前中には改善してしまった。調理人畑木さんの働きもめざましく、昨年までと違い、棚卸、片付けなどに専念できた。東芝山岳会の面々も本業は大工さん?、土建屋さん?と見まがうほどの責任感の強い仕事振りであった。
 さらに、このメンバーに小屋締め、小屋明けのベテランで地元の山田(挌)さんが、仲間を連れ参加、その上東京から知人で焼肉屋を営む会田さんが参加。昼も、夜も賑やかで楽しい小屋締めとなった。
 朝7時20分出発。1時間余で仙人池着。小屋締めを終え、ヘリを待つ静代婆ちゃんはじめ、小屋番の方5名が待機していた。ヘリが飛ばないらしく「こちらは視界がよく、5・6のコールも見えるので、飛んでくなんしょ。はよう来るのまっとるですけね」。受話器を持つ婆ちゃんの声は大きく、何度もかけ直していた。例年どうり、仙人温泉の付近は紅葉の盛りであった。小休止後、錦秋の纏われ下山。12時30分前に仙人ダムに着いた。この夕は、フィール宇奈月で汗を流し、慣例どうり「ささや」で祝杯を挙げ、2次会は米澤さん宅の離れの3階でとなった。

 どうゆう訳か主役は会田さんとなった。彼が雲切新道でビニール袋イッパイ採取し、米澤さんに「今晩これを調理して食べさしてください」と渡したものが間接的な主役であった。たまたま、下山の労をねぎらいに訪れた橋本さんの3名で微妙に顔を見合せてしまった。「小屋明けに参加した、稲荷さんコケに詳しいから呼んでくるは」。「こんなもん、食べれんちゃ。みんな月夜茸だっちゃ」茸通の稲荷さんは微笑を浮かべ呆れたように語った。「山小屋の経営者および小屋番たち毒キノコにあたる、これは新聞記者達が喜ぶネタだね」と橋本君は笑い転げた。背筋がゾクットした一瞬であった。
 

                      2010年7月2 くもり  いよいよ入山
 間もなく池の平小屋の小屋明けのため、愛知の「モンロー会の仲間4名が宇奈月に向けて出発である。夕方には、東京から3名も集結する。明日の朝になると、地元富山の力強い仲間達9名ほどが駆け付ける。16名で小屋明け登山なんて池の平小屋始まって以来の出来事である。天候に恵まれ安全であることを願う。池の平小屋にはパソコンがないので管理人からの発信もこれで一端終了である。みなさん池の平小屋でお待ちしております。今シーズンも宜しくお願いします。

                       2010年7月1 晴れ  腰のケアー
 
今日も小屋明けのメンバーのやり取りで明けた。ワールドカップの興味は萎んだものの池の平小屋のワールドカップはこれからである。体力のある若者や、それに負けじと中高年の応援団も、20kg以上の荷物を担ぐことを期待している風が読み取れる。
 20kgを担ぐと、比例しエネルギーを補給しなければならない。カロリーが高く即効性が高い食料はと”山屋さん”に問うと、決まって「お酒、ビール」との返事が返ってくる。

 こうなると、管総理以上の査定能力を北アルプスで一番小さい山小屋の管理人は持たねばならない。しかし、先に酔い潰れる管理人には査定能力はないと、仲間達は野党の党首のごとく冷徹である。
 今日は、久しぶりに「整体」で腰のケアー。その後は県営の温泉でシッカリ汗を流す。が、ここにも応援団からややこしい電話が届く。人生死ぬまで安泰はないと悟った。家に帰ると、また楽しい、嬉しいメールが琴線を刺戟する。仲間も家まで来て「いいザックないか?貸して」。あと半日でパソコンも休養である。おやすみ。

                     2010年6月30 晴れ   ワールドカップ
 昨晩は「オーレー・オレ・オレー」で燃え、寝不足となった。しかし、惜しかった残念。
今日は梅雨明け宣言のような快晴。今日は一日家事労働ときめる。少しでも妻の労働負荷軽減ということで、家内外の片付けにいそしむ。が、なにせ暑い。水分だけが欲しくなる。リサイクル用資源の整理。来年のために、少し早いがアジサイの剪定。「お父さんあれ出して、これ仕舞って」、最後には、妻が私の買い物のアッシー君を勤め一日が終る。私としては、入山前に纏める仕事が沢山あったが未完に終った。まあ〜下山後としょう。その後も、小屋明け仲間から相談が舞い込み、計画表の訂正や激励電話に夜半まで追われる。
 
 真砂沢ロッジの佐伯さんに電話を入れたら、小屋の下見に行ってきたとのこと。残雪が多かったが小屋に被害がなくホットしていた。大日小屋は被害が大きいらしい。昨日仙人温泉小屋の小屋明け隊からの報告では、宿泊棟の太い梁が折れ曲がったとのことだった。小屋の周りにも雪がビッシリ残っていた。池の平小屋はトイレが心配だ。が、行って見なければ分からないので、ここは落ち着くしかない。
 二股の架橋が7月20日と判明、事実上7月20日からが営業開始日となる。真砂沢の佐伯さんの話では、今シーズンはどの小屋も予約が入っていなく営業が厳しいと言っていた。北アルプスで一番小さな山小屋の”池の平小屋”は振り回されずノンビリ行くしかない。
                       2010年6月29 曇り晴れ   定番
 今日で通院も最後である。「ウン、お腹の調子心配だから整腸剤出して置きます。それから、菊池さんお酒は飲み過ぎないようにね」、先生は血液検査の結果表をみてほほ笑んだ。
 山に出勤まであと3日。「今日中に畑の始末」を、と意気込み長靴を履く。昨年は100本ほどさつま芋を植え、焼き芋屋さんの真似事をしている友人に収穫を頼み、山に上がったが下山してからの後始末が大変だった。今年は思い切って作付けを放棄。7割ほどの畑をブルーシート覆うことにした。嬉ことにブルーシートの上をトンボが飛び始めた。青い池出現と思ったのだろうか、大分昔の観察では黒いビニールなどの反射するものにも”水”を感じて寄ってきたこともあったが、これは新しい発見だ。

 ちなみに、4月は岐阜方面に”ギフチョウ”の観察と写真撮影に出かけているが、ギフチョウも水色を好む性質があり、飼料などの入った水色袋、カタクリの花、スミレの花に寄ってくるのが観察される。 私の横で撮影の邪魔をする採取者たちは、水色の服を着、ブルーシートを敷いておびき寄せ、水色のネットを振り回していた。
 この日も、ボランテァ仲間から沢山、煽動、慰め、労いのメールがあった。
 そんな中、登山史関係の本の収集のことで、以前にお世話になった、東京の岡田さんからお手紙があった。

 「登嶽同道」という、立山博物館での企画展のご案内と招待券同封であった。サブタイトルは「竹内鳳次郎・ヒサ夫妻の山」で、竹内ご夫妻は、家族登山の魁で、しかも、奥様のヒサさんは、女性での剱岳登頂第一登頂者であった(期間7/17〜8/29)。
 お手紙をくれた岡田さんはこの竹内ご夫妻の甥子さんであった。入山中の企画ですが、ご関心の有る方は足を運んで頂きたいと願っています。この企画展の詳細は池の平小屋のH/P中の「お客さま関係の企画展」のコーナーをご覧下さい。

                       2010年6月28 晴れ
 暑い日だった。小屋明けメンバーも1週間前に12名に決まり、担いで上げる物などの分担が、地元の若者達の自発性ですすんでいる。そのやり取りが、メール介在で飛び回っている。そんな中、熊も恐れる長勢さんから1名追加と嬉しいメール。と思ったら、昨年まで2度小屋明けを手伝って頂いていたBOWO女史から、「やはり行きます、3名です、ひとりは新潟の凄い馬力の女性。一人は金澤の山の先輩です」とメール。「ウゥーン、なに3名」と、すさかず女史に電話をいれる。今年は、腰痛の私以外は馬力マンばかりで、頼もしい小屋明け隊結成である。

                       2010年6月26 くもり    巣立ち
 
昨日まで賑やかだった玄関が静かになった。4羽の子ツバメが巣立ち、親も巣を放棄したらしい。4羽のヒナのうち、特別に甘えるヒナがいた。常に大きな声で鳴き、巣の前の物干し竿の上で、羽をバタバタさせて親を待っている。好奇心も旺盛で、開けっ放しの玄関から家の中に入り飛び回ることもあった。攻守入れ替え、今日からは雀が巣を占有し始めた。新建材、新工法で雀も住宅難のようで雀とツバメのバトルも散見されたが今日からは雀も安心するだろう。

                     2010年6月25 くもり    棄権
 山に入ってからのわたしの小市民的なネックは、選挙投票にいけない事であるが、今回の参議院選挙は鳩山さんの迷走発端で入山前にかなった。現実社会に参加することが、逃げることが嫌いな私は久しぶりに”期日前投票”という形で、今日をめでたく義務と責任を果たした。期日前投票は久しぶりだったが、思いのほか投票者が多く後に並んでいた。20〜30歳代のころ不在者投票に行くと、市役所の対応が悪く、理由などをひつこく聞く時は高圧的で不在者投票を引け目のように感じさせられた。いやな記憶である。その意味で、あとからきた若者達がニコニコ楽しそうに語り合い入ってきたのには好感と時代の隔たりを感じた。そういえば、あのころ山に行くこともいろいろと大変だった。

                       2010年6月24日曇り   沖縄へ
 ホームページの更新を終わりビールを飲んでいると娘が帰ってきた。「お父さんが山から下りて来たらまたどこか旅行に行こうか」と、娘に話しかけると「いいよ〜」の返事。二人の意見が合い、南の島に行くことになった。その後、娘はパソコンに向かい仕事の工程表などを作っているようだったが、そのうち「お父さん、お父さん」と私の名前を呼んだ。OAルーム(普通の部屋です)にゆくと「お父さんツバメがいる、あそこ」と指差した。一羽小ツバメが額の上に止まっていた。静かに下を見下ろしていた。3時間ほど前に、この部屋でパソコンに触っていたが気がつかなかった。ただ、畳の上に鳥の糞が落ちていたので、またツバメが入ったかと感じたが、部屋の中にいるとは思ってもみなかった。その後は、各部屋の扉を閉め、明りを消し、玄関だけ明りを点けたら、迷わず出て行った。
                       
                       2010年6月21 曇りのち晴れ
 今日はトレーニング山行日。自然観察会の村瀬さん、竹原さんと歩く。村瀬先生は大変な博覧強記の小学校の教師で池の平小屋にも2回訪れている、ちなみに竹原さんも池の平歴2回。。キノコ、植物(とくに和蘭)をいろいろ教えていただきながら歩く。梅雨時はキノコの仲間の出現も多い。早朝から活動し過ぎたためか、昼過ぎには家に帰りついた。
 そこで、午後からは、昨年の下山後から買い集めた食材、用具などを汗だくで梱包する。ヘリ荷揚げ日が7/5日に早まり(昨年は7/20)、宇奈月のオーナーから6/24まで着くように要請があった。荷物を整理梱包し、ダンボール7箱を宇奈月に発送する。
                       
                       2010年6月18 
 先日新聞を読んでいたら平城京のトイレが出土の報があった。未完


                       2010年6月17日 晴れ
 
昨朝、玄関を見たらちっちゃな小さな卵が一個おちていた。ツバメの卵だった。異様に軽く無精卵のようだった。先月、名古屋市の農業センーを散策がてらに訪れた。ここは沢山の家畜を飼育し展示している。先日は家禽コーナーを詳細に見学した。そこには孵卵器があり、鶏の有精卵が入れられていた。孵卵器の中で弱々しくも、自分で殻をやぶりでてきたヒナが何羽もいた。それをみているといとおしくも可愛くなる。近くにいた子供達もゲージを囲んで瞬きもしない。
 卒啄(そったく)という言葉を以前聞いたことがある。孵化近い卵の中のヒナが殻をつつく瞬間を、親鳥は察知して、親鳥が外から殻をつつきヒナを助けることをいうらしい。調べてみると、これは元々は「卒啄に機」という、悟り直前の弟子と、見守る師とのやりとりを、禅宗の教えを出自として、うまれた諺らしい。
 話変わるが、この春、佐渡のトキの繁殖行動が毎日報じられた。が、衆目のペアーは卵を巣外に全部捨ててしまった。報じられた原因は、経験不足から孵化が近くなり、ヒナの卵の殻を破る音を異物として認識し捨てたか、それとも無精卵、または途中で卵の成長が止まったと考えられるとあった。鳥は抱卵中、卵の位置を嘴を使い回転させるが、昨日のツバメの卵を見た感じでは、素人考えだが、卵の重量の相違か、体温の伝導の差異を感じて捨てたのではないかと推定された。以前キジの放棄された巣を覗いたら、孵化した卵殻4〜5個の中に、1個そのまま残っていた。持ってみると軽く、針穴を開けてみたが、なかは空だった。
 トキの報道の中に、3回ほどカラスに卵を奪われたとあった。我が家のツバメの巣にもカラスが狙いを付けており、昨年はヒナが1羽捕食されるのを目撃した。今年も、5月27日早朝、巣を覗きに来たが
 山に行く私と玄関で鉢合せ、驚いて逃げてしまった。今日は酉年生まれの、鳥好きさんの取り留めない話。

                     2010年6月16日 晴れ
 入梅ということで、2日間シトシトだったが、一転今日は快晴スッキリするお天気だった。今日は岐阜のお客さんから写真展のご案内をいただいた。「四季のいろ」という、第4回日本風景写真協会選抜展というサブタイトルがついていた。詳細は「07管理人の呟き・お客さま企画展と出版物」で紹介している。また、先日はお客さまで『岳人』などで活躍されています、女流のMさんより、写真集をご寄贈頂いた。『日本の山百景』、『四季の山』、『四季讃歌』の三冊で、いずれも著者は「山岳写真同人四季であった。素晴らしい写真集で、山小屋でみなさんから賛意と感嘆が浴びせられるものと想像する。この本もあと2〜3日でヘリでの空輸のため宇奈月温泉に送られる。お客さまからの問い合わせ、池の平小屋支援組織モンロー会の皆様からの打ち合わせの、メール、電話も多くなり決戦近しの様相になってきた。それに輪をかけヘリの荷揚げが7/5と、2週間ほど早くなったことも小心者を焦らしてくれる。マーァビールでも飲んで寝るか。

                        2010年6月13日 小雨
 気象庁、例の如く「今日入梅したとおもわれます」と,トーンを落としのたまう。来るものが来た。歳時記暦どおりにすすまないと、なにか落ち着かない、これも日本人の証左か。久しぶりの雨の一日、庭のアジサイが見ごろだ。今日は終日伝票類の整理と予約帳などを作って過ごす。

                        2010年6月12日 曇り
 
今年の小屋明けは、ベテランの2名の女性が用事ができて不参加との連絡に困惑していたが、ひとり昨年、一昨年とお泊り頂いたSさんが参加してくれるようになった(5/28)。もう、ひとりと願っていたら神の差配か温情か、一昨年お泊り頂いたUさんが今日OKとの返事をくれた。嬉しいことに失業だからと(人の不幸に付け込んで申し訳ありません)、8月中旬まで残ってくれることになった。二人はバリバリの山屋さんなので小屋明けが楽しみである。
 午後は娘にアッシー君をお願いする。はじめは、画家の山口さん宅に先日の写真を届け、次に宴会場に送ってもらう。今晩は知多自然観察の暑気払い日。池の平にも2度みえたT女子幹事長は小屋明け入山前や、下山直後にご苦労さん会を計画してくれる。嬉しいことだ。Tさんの次男さんが、今年山岳部のある高校に入学したが、夏休み前のプレゼントに『処女峰アンナプルナ』(モーリス・エルゾーグ著)を贈ることにし持参した。
 この本は、私が高校2年のとき初めて手にした山岳書であった。友人宅に遊びにいったら山の本が本棚を占有していた。彼のお父さんは岳人で山の本を沢山持っていた。そこから、三冊借りた中の一冊が『アンナプルナ』であった。読み感動してしまった。その後、沢山の山の本を読んだが、いまだ、この本に優る山岳書になかなか出会わない。その後古書市で求めたものをプレゼントしたが、はたして、Tさんの息子さんはどのような感想をいだくのだろうか。明るく元気に生きて山にも登って欲しいと願うだけである。

                        2010年6月11日 晴れ
 「お父さん今日買い物に行こうか」。アッシー君の妻は今日は休みとみえ声をかけてきた。午前中病院に行き入山中の薬を貰いに行く。敬愛する先生も私の山小屋篭りを知っているので「もう、山入りの時期ですか、事故などの時は大変でしょう」と慰めてくれる。馴染みの看護士さんからも「うらやましい」、「菊池さんはトレーニングどうしているの、うちの旦那は歩かないから」などと声をかけられる。実はボロボロの体調なのだが、声をかけられることが嬉しい。
 この日は酷暑、夕方から荷揚げ用の食材をもとめ3店ほど廻る。小屋番4年目ともなると妻も要領を得ていて、カートを押して付いてくる。あとは、買い物の微調整と宿帳の作成など細事だ。あと20日あまり。

                        2010年6月10日 晴れ
 画家の山口のさんから依頼されていた、薬師からの俯瞰写真を引き伸ばし、その後サイクリングを楽しんで帰ると、山口さんから電話があった。薬師岳の登山口折立に建立されてある慰霊碑についてであった。登山の帰途、昭和38年1月に発生した愛知大学山岳部の遭難のことに触れたことで、折立に着くなり慰霊碑にお参りをした。13人の御霊にちなみ十三重の塔が建立され涙を誘うが、「菊池さん、なんかおかしくない十二重しかないよ」と山口さんは塔の数を何度も数え直し語った。そして、塔の周りを巡った。「あった、これだこれが落ちたんだ、変だと思った」。塔の裏手に一番上の傘状の石が落ちていた。山口さんと同年輩の若者の遭難を知り、篤い合掌をしていた山口さんは気になり、今日愛知大学にお電話をして、慰霊碑の損傷を伝えたという。篤い哲学心をもって、画布に対峙している画家山口剛生さんらしいと感銘した。

                      2010年6月8日 曇り
 生憎の曇天だか視界は100パーセント。画家の山口さんはじめ3人は食事後、鷲羽岳を書くべく北ノ俣岳方面に向かう。私は小屋に残り、昨日の須田さんから現場で懇切にディーゼルエンジンの日常管理法を教わる。頭が痛くなるくらい、面倒で手間隙がかかる。今年はこのエンジンに泣かされそうだ。だが頑張るしかない。実習がおわりほどなく3人が戻ってきた。少し登ったところでいいアングルのポイントがあったようで、山口さんも笑顔であった。見飽きない展望と、樹林帯の花々に憩われ、昼過ぎに折立に辿り着いた。道路事情もよく、中尾温泉で汗を流すも夕食の頃には名古屋に着いてしまった。折立でみたアサギマダラが好印象であった。また、下山時に垣間見た剱岳にも圧倒された。あと、25日あまりであの山の裏手の住人になるのだ。気が騒ぐ。

                        2010年6月7日 晴れ
 1996年から、深田久弥の「日本百名山」を描き続けている知人がいる。山口剛生さんという、昭和17年生まれの画家である。20年ほど前に彼の個展を拝見した。ドッシリトした雪の五竜岳の絵に魅了された。池の平小屋が完成した翌年の、1995年に彼を池の平小屋に誘った。その時3泊ほどしたのだが、その時、飲んでた勢いで「日本百名山」を描くことを勧めた。当時、山口さんは深田久弥の「日本百名山」を知らなかったが、山仲間の話を聞いたり、資料を読み解く中で深田の山に舞没して行った。
 伺うとあと4山だという。この日は水晶岳と鷲羽岳に的を絞り、サポター3名の合計4名で薬師岳の太郎小屋をめざした。まずまずの天候で途中剱岳も毅然とみえた。この日は、水晶岳と薬師を描いていた。私は腰の調子が悪く難儀したが小屋に着くと、5年前高天ケ原の輝水鉛鉱鉱山調査のおりお世話になった、高天ケ原小屋の管理人の小池さんがいた。いろいろ小屋の運営のこと、エンジンの運転管理などを教えていただいた。とくに池の平小屋は今年ディーゼルエンジンを始めてあげるので、その方面のメンテ、知識に的を絞り伺うと、詳しい専門家がいるからと一人の青年を呼んでくれた。青年は須田さんといい大変な知識、経験の持ち主だった。3人でぬくぬくのコタツに入り、ディーゼルの運転、管理方を詳細に伺った。その後、山小屋を舞台とした四方山話になると、2人の若手もあつまり楽しい集いとなった(小屋番は9名常駐していた)。21時消灯。部屋に戻ると明日のスケジールが決められ、また、山口さんの「日本百名山」達成した時のセレモニー話で盛り上がっていた。

                        2010年6月4日 はれ
 小屋明けの計画表もおおむね纏まり、荷揚げ物資の一覧表も完成した。この1週間でそれらの送付けで、14通の手紙を書き差し出した(メールはその倍近く)。応援団のみなさん、リピターさんに小屋明けの時々刻々が伝わればと念願する。

                      2010年5月27日 晴れ
 6月7日から2泊3日の日程で知人の画家達と薬師岳にゆく計画となっている。深田「日本百名山」を描くためだ。トレーニングがてら山に行かないかと、その画家さんに声をかけると、「いいですね、また鈴鹿ですか」、「今回は場所をかえて猿投山はどうでしょうか」、「いいですね、お願いします」。翌日「女房も行きたいといっていますが。ということで、愛知県の瀬戸市と豊田市にまたがる猿投山に628.9m・一等三角点)に3名でのぼる。天気は上々、豊田市の猿投神社に車をおき登る。早速イトトンボが3種お迎えしてくれる。夏の渡り鳥が情感をたかめてくれる。この山は10回近く登っているが、こんなに人と行き会うのははじめてだった。登山者だけでなく、マラソンで登ってくる方も多かった。頂上に着くと風が強く一枚はおったが快適な山だった。そこには、掲示板のようなものがあり、登山者が自分の名前と登った日を書いていた。登山口は2箇所あるが、地元の愛好家なのだろうか、3月くらいから数十人の方の名前がまた、朗朗とカンツオーネのようなものを歌いながら登ってくる人には驚いた。途中でコーヒを楽しみ6時間のハイキングを終えた。帰途、ラジューム泉が歌い文句の猿投温泉で汗を流したが、1500円の入浴料には2度ビックリ

                      2010年5月21日 曇り
 
散歩コースむかうと、道ばたにワラビがはてなマークの頭をもたげていた。ミッバアケビにまといつくようにサトキマダラが1頭飛揚していた。10分ほどカメラで追ったが気が合わない固体で、葉裏から姿をみせなかった。ここ数日シオカラトンボのメスばかり観察していたが、今日は1頭元気のよいオスを観察した。里山の縁を歩いているとおばさんが、ビニール袋を膨らましている。「なにとったの」と聞くと、袋の中を見せてくれた。太いサイズのワラビだった。「この辺のワラビ遅いんだよ」といって次の採集地へむかった。ときおり、雉の雄たけび(縄張り宣言)が心地よい。
                     
                      2010年5月20日 曇り、時々雨

 先日、少し離れた博物館にいった。広い庭園に小川がながれ数人の子供達が遊んでいた。下はパンツひとつで木の葉などをながして声をはずませていた。みていると、とくに女の児が元気がよい。暑い日で、私も木陰をもとめ緑陰にむかうと、二人の中学1〜2生と思われる男の子が芝生とにらめっこしていた。昆虫の好きな私は変わった虫がいるのかと期待し「なにがいるの」と声をかけた。二人の男の子は、はにかみながらも真面目な顔で「四葉のクローバーを探しているんです」と応えるとまた下をむいた。なかなか見つからないのか真剣だった。二人の男の子を見ていて「草食系男子」という言葉を連想した。
 この言葉は2〜3年前からメディアで知った言葉だが、この言葉に比喩的な侮蔑感を含むなら、私も若い頃は草食系だったことを否定しない。小学高学年のころ、幼い弟妹のためにトンボを数匹つかまえ家の中にはなし喜ばせたことがあった。弟妹は喜んだが次々に死んでしまった。
 死に敏感だったのか、それをみていたら気持ちが悪くなてしまった。それ以来、昆虫など生き物を捕まえることは苦手となった。
 15年ほど前、池の平小屋の小屋明けを済ませ、仲間達に仙人池ヒュッテの静代母ちゃんを紹介しょうと、仙人池に一泊したことがあった。当時、仙人池には、神奈川県のさる会社の社長さんが応援していた。毎年、部下を数人同行させヘリで入山していた。私とは馴染みとなっていた、自信と馬力の塊りのような社長さんは、太っ腹のうえ酒豪であった。我々が食事をしていると、社長さん、お酒が美味しかったのか、仕事の進捗が順調だったのかご機嫌だった。そして、下界での生態を見せ始めた。貧乏サラリーマン連を見下してである。横から、静代母ちゃんが心配して相手にするなとシグナルを送ってきていた。
 わたしは幾分の信念をこめ、しかも白旗と装うように話題を変えた。「私は、郷里の歌人石川啄木の短歌が好きでしてね、とくに”友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻と親しむ”のうたが好きなのですよ」と醒めた口調でいった。それぞれの個人の生活の尊厳を示唆して言ったのであったが、その社長さんは、即応「そんなのは負け犬の遠吠えだ」と畳み込んできた。之では接点がないと思っていたら、静代母ちゃんの勧めもあり床へ着いた。
 昨今の草食、肉食談義になると、キマッテこのことがおもいだされる。

                        2010年5月18日 晴れ
 昨日に続いての好天に誘われ、昼食後散策にでる。家の裏手に”神様池”という溜め池がある。草むらで動いたものがあった。私は満面の笑みをうかべ「あっ」と声をだし走り出した。
 今年初めてのトンボとの対面だった。アキアカネのようであった。前日より風は凪いでいたが、この風では静止してくれない。
 
 そこで、期待を込め、30年来のトンボの観察地”富木島大池”に向かった。ここは家から10分程度の距離なので、サラリーマン時代は毎日のように観察に訪れていた。4〜5種のイトトンボを含め、10種類程度のトンボを観察できる池であった。なにを隠そう私はトンボお宅、トンボを最上に美しく感じている。

 ネイチァーフォトに魅せられている私は、梅雨の霧の日を心待ちにしていた。雨具を着て朝5時頃からトンボの羽化をまった。普通の状態でも、トンボの羽化は妖精のようにみえ神秘めくのだが、朝霧の日は格別厳かになる。
 水中から現われたヤゴは霧で水滴につつまれ、そのなかで羽化の営みが始まる。殻から出て白いからだが反転したころ、太陽が霧を透かす。羽をじっとみていると少しずつ伸びてくる。そして羽のなかの脈に沿い赤ぽい体液が流れているのが見える。ぞくぞくする時間は意外と長い。2時間以上掛かる時もある。ここはじっくり観察する。池の平の剱池でも、8月末から毎日この営みが観察されます。仕事を忘れるほどの自然の営みのなかで、トンボをはじめ蝶などの昆虫を好きな方を待っています
 
 今日は風のためか一頭も観察できなかった。そこで、30分ほど離れた”山の脇池”向かう。ここでも観察できなかった。そこから奥の谷地田に向かい、田植え前の水田を歩いていると、遠くで2頭のトンボが絡み合っていた。アキアカネより少し大きくコシアキトンボかと身を潜めているとよってきた。シオカラトンボのメスであった。羽化したばかりなのだろう、少し小柄だった。カメラに納め、後は2時間近く
闊歩し、県営の温泉で汗を流した。

                        2010年5月15日 晴れ
 13,14日と風の強い日が続いた。畑の草取りも辟易した。一転、今日は好天、高浜市かわら美術館で開催され、あと二日しか開催日が残っていなかった企画展「ひめゆり平和への祈り・沖縄戦から65年」を見に行った。心にずっしりと沁みた企画展であった。展示物もひとつひとつ想いをこめて展示されていたが、それ以上に心をかきむしられたのは、1時間余、10数人による実体験を語った証言であった。これほど重い映像を見たことはない。この映像をみて、ここから今日の沖縄が始まり、戦後はまだ終っていないと感じた。
 帰途、刈谷の登山用品店「穂高」によってみた。このお店は、65歳でエベレストを掌中に収めた、石川冨康さんが以前経営されていたが、現在は鈴木さんという好青年が経営をされていた。
 鈴木さんは富山県立山町にある”文登研”(文部省登山研修所)の講師もされているとかで、黄金週間も剱沢に入っていたいたとのことで、逆パンダ焼けが勲章となっていた。今年の残雪は半端じゃないとの情報も得、小屋明け入山の貴重な情報となった。このお店に、山岳ガイドをされている桜井さんという青年もいた。お二人とも剱岳に詳しく頼もしく思えた。この「穂高」店のホームページ、池の平小屋とも、今日リンクしましたので、ご参考にしてください。毎日、いろいろな方との縁(えにし)が楽しい。

                       2010年5月12日 晴れ
 突如、妻が休日となったので今日も恒例の映画デー。噂の「のだめカンタービレー」を観る。現役のサラリーマン時代の準夜勤帰りに、晩酌とともに愉しみ観た記憶がある。あの頃、珍しいストーリーと、上野樹里・玉木宏のコンビにフレッシュさを感じた。さらに好きなクラシックの満載もご満悦だった。
 映画館に行ってみると、テレビとは違う迫力ある音響下、”てんてこ盛り”のクラッシックに妻ともども感動してしまった。 ラブロマンと音楽、映画の魅力を二乗し、おおいに得した気分になった。
 上野樹里は来年のNHKの大河ドラマの主役とか、おおいに期待したい。
 鑑賞後は、恒例の慣例で美味しい昼食。その後は、刈谷美術館でアニメの先駆者、トリック映画の前衛「カレル・ゼマン展」を観る。大いなる刺戟を受けた。5本も初期(昭和20〜30年代の)のミニ・アニメーションを鑑賞した。わくわくし、つい私も創ってみたいと思ってしまった。
 その後、夕食まで、庭の整備。4月末から続いているコンクリート打ちに勤しんだ。しかし、17時も過ぎると風が冷たく寒かった。庭では白い蔓バラが、陋屋を高級館のようにつつみ始めた。

                     2010年5月11
 小雨
 畳余の葦原揺れてよしが啼き(白朝)。
 春は本当に嬉しい季節だ。俳句の下手な私も冗句がでる。隣の東海市に住んでいた時、県や市の委託で市内の自然を見回った。特に市への報告書を出すときには、定点観察として毎日、富木島大池と真池という二つの溜池の水温や目視での野鳥、昆虫調査をしていた。
 野鳥のヨシキリは縄張り意識が強いのか大きな声で、緑したたる葦原で甲高く通る声で”縄張り”を宣言する。
 朝から茂みで観察していると、ヨシキリもホトトギスやカッコウの托卵(人間的に比喩的に解説すれば、我が児を殺す敵)を学習しているみたいで、目の前にホトトギスが現われ、大騒動(啼いて、追尾)を目撃したこともあった。反射的に警戒しているようだった。
 この時期、私を喜ばす野鳥はヨシキリだった。アマチャ写真屋の私の写真をみて「この鳥は賢い、目が賢い」と、野鳥の好きな上司が感動を込めて言っていたが、レンズ越しに見るヨシキリには心を奪われてしまう。また、この時期、耳につく位の鳴き声だが、この声を聴くと、不思議に頭が活性し、いいフレーズ、アイデァが浮かぶ。

                         2010年5月10 くもりのち雨
 今日は定例の妻との映画鑑賞日。題名は「てぃだかんかん」。沖縄の海を愛し、サンゴの復活に燃えた男の実話をもとにして創られた映画だった。主役は岡村隆史、その妻役に松雪泰子。たんたんとした岡村の喋り。元気のよい女性のアクション。地道なサンゴの養殖。海への移植。そしてラストシーンへといざなうサンゴの産卵。後半は涙が止まらなかった。いつもならハンカチを持ってゆくのに、お笑いの岡村隆史主演ということで安心して忘れてしまった。最近は本当に涙腺が緩み切ない。
 映画を見た後は、食事をしながら映画評論。いっもは厳しい妻も「よかったね」。今月末は何にするか楽しみが続く。

                         2010年5月9 晴れ
 快晴のこの日心弾ませ付近を散策する。コース横のミカン畑を覗くとおばあちゃんが座り込んで仕事をしていた。「なにしているの」、「畑に生えてきた竹の子とっただ、食べるかい」、「大好物です」。わたしも道ばたに腰を下ろし皮をむいたりした。天気はいいし、70歳というおばあちやんと世間話に興じた。なかなかの旅行通で、国内はほとんど歩き、外国の自然豊な景観地もかなり歩かれていた。「山もいいよね、足が丈夫だったら行きたいね」。”ホッコリ”と30〜40分話し込み、下山したらミカンの収穫を手伝うことを”ほっこり”した気持ちで約束した。
                         2010年5月8 くもり
 
庭に名前不詳の3本の木がある。高知から移植して9年になる。不思議なご縁で我が家にやって来た。今年初めて、白い糸状の花が咲いた。2000年老いた母親を喜ばそうと家を解体新築することにした。そもそも、これが予想外の出来事の発端だった。新築工事中社宅を借りた。妻が引越しの疲労などで入院となった。
 そんな中、仕事で帰宅すると病弱名な母が玄関で倒れて急遽入院となった。妻が回復し退院して落ちついたと思ったら私が倒れてしまった。
 
 炎天下帽子を被らず走ったり、水分を取らないで自転車でロードをしていた。高校時代や社会人になってもボクシングをしていた経験で、先輩たちからの水分を抑える教えに疑問も持たずにいた。水を飲むと根性がないと言われていた。その日も、炎天下自転車で走り職場へ。そして、23時に仕事を終え0時頃家に着いた。その日は私にとって記念となる日だった。3年がかりで書いていた童話が一時間ほどの執筆で完了した。祝いに一人で缶ビールを1本空け1時過ぎに就眠した。
 
1時間ほどし尿意を覚え起きようとしたら体が重かった。軽い脳梗塞だった。2週間ほどの入院だったが、その時家が完成し引越しとなった。山仲間が3台ものトラックを持ち寄り10数名が応援に駆けつけてくれた。有難かった。そのメンバーの中に故人となった小野さんがいた。引越し時、2日間も会社を休み手伝いに駆けつけてくれた。翌年春、彼から電話があった「菊池さん体調どう、温かくなって来たからどこか行かない、どこでもお供するよ」。考えたあげく、高知をメーンとした四国旅行とした。
 私の前任の池の平小屋管理人の新井さんは高知に住んでいたし、その他高知に山の知人が二人いた。そして、田宮虎彦の文学に傾倒している私は、足摺岬を尋ねてみたかった。5泊6日の旅であった。

 高知勢3名、愛知勢2名の5名で、四国の山々や、私のリクエストで、幸徳秋水の墓や記念館、別子鉱山跡と記念館そして足摺岬と2台の車を疾駆させ、夜は温泉地の公園にテントを張り旅を楽しんだ。  そんな中、4日目に子持ち権現に登りその帰り、小さな渓谷に入った。そこに1cmほどの芽が出たばかりの若木があった。高知勢のお一人は牧野富太郎植物園で植物を勉強されている方で、菊池さんこれ○○の木(失念してしまった)だから家に植えてみたら。その時持ち帰った1本が初めて咲いたのだった。
 その弟のごとき山仲間の小野さんも、2007年3月労災事故で亡くなった。モンロー会の知恵袋だった。この木に魂が宿ることを願う。

                         2010年5月7 くもり
 今日は知人の「退職お疲れさま」という会があった。直接的には私と関係の薄い会であったがアルコールの香りに誘われ参加した。
 その知人は、いまでは所属山岳会は違うが40年ほど前からの山仲間であった。池の平小屋の支援組織「モンロー会」の長い仲間でもあり、昨年に続き、今年の小屋明けの参加も約束してくれた。
 18歳から60歳までの長きに亘り、困難で厳しい会社勤めを大過なく終え、さらにお二人のお子さんを育て上げた歩みを”お疲れさま”と讃えたい。これからは奥様と仲良く山登りなどを続け、人生をエンジョイして欲しいと願った。
 会の終了のころ、奥様も見え「お疲れさま」という含みと、ひとつの節目に対する安堵感に満ちた笑顔が初々しく、そばにいた我々の心を和ませた。ゴールデンウィークの雪山で日焼けした、寡黙な彼の笑顔もこれからの人生に対する思いを晒し、男らしく輝いていた。
 公民館で3時間、20名近くで開催された会であったが、呑んだ勢いか、二次会は何故か我が家でとなった。5名が集い、その後は私の妻も交え青春時代の話で盛り上がった。なぜか、若き日を省みると蹉跌とともに妖しく愉しくなる。

                         2010年5月6 曇り
 NHKの番組に「熱中人」とかいう面白い企画があったが、どうも私もその性癖が強い。1月からはじめた、池の平小屋のホームページに「データで見る池の平」という項目を書き続け、一応、4月末に昭和編まで書き終えたところで完了とする算段だったが、床に就くと次から次へとアイデァが浮かび、平成編を追加し、登山者の組織実態の解明までと欲がで止まらなくなった。そのため、頂いた私信、依頼事などの返信などが積もりに積もってしまった。今日は朝からお返事の作文で終る。パソコンのメールと違い辞書を片手の作文はなかなか捗らない。やはり、文明の利器パソコンは素晴らしい。

                         2010年5月5 晴れ
 散歩していると、これまではオスのキジの姿や「ケーン、ケーン」という啼き声ばかりだったが、ここ数日前から番い(つがい)での採食シーンも観察されるようになった。キジは国鳥ながら狩猟用としても放鳥などもされている。話変わる、がイギリスでは同様に雷鳥を放鳥ハンティングしている。
 
 以前、愛知県の嘱託で臨市東海市の環境調査をしているとき、異様にキジがジャンプをしている姿が目に付いたので、双眼鏡で観察したらヘビを襲っているところであった。何度か、足と鋭い嘴での攻撃のはて勝負がつき、ヘビを銜え消えた。さすが桃太郎の助っ人になるだけあって、キジは強いと認識を新たにした。
 2008年の小屋明け後の宴会の時たまたまその話をしたら、富山の長老ボランテァ(モンロー会)である山田さんが「俺も見てよ、写真も取ったぞ」と携帯の写真を見せてくれた。しっかりとヘビを捕らえた見事な写真だった。キジはミカン畑の根本、田んぼのあぜ道など、畑の横の草原など、以外に身近なところに巣をつくり抱卵している。驚いたのは、道路の中央分離帯の草地で抱卵している雌をみたときだった。外敵から卵を護るための苦肉な対応なのだろうか。
 
 池の平の鉱山道の脇にはヤマドリがいて驚かされることが時々ある。ヤマドリもキジも人が近寄っても逃げない習性がある。ジット我慢し、身をひそめ耐える。でも1m近くまで寄ると我慢しきれずバタバタと大きな羽音をたて飛び立つ。足もとからの飛び立ちに、人間も驚き腰を抜かしてしまう。
 とくに、一人のときは心臓に悪いくらいビックリだ。この、こらえ絶えるキジの習性の悲話を聞いたことがある。生物の棲息調査のとき、農家の奥様からお話しを伺っていたら、キジの話はしたくないと暗い顔をされたことがあった。 その奥様が、ブドウ畑の雑草を草刈機で刈っていたとき、突然に草とともにキジの首が飛んできたという。驚いた、その奥様は草刈機を放り出して逃げだしてしまった。その後は可哀想でその場所にしばらく近寄れなかったという。
 雌キジは、卵をまもるため身を伏せていたが、長尺の機械のため距離感を過ち、鳴き声もたてず死んでしまった。ご主人がその後、その場所をおとずれると、亡骸の下に5〜6個の卵があったという。
 どの世界でも、母親は体を張って子供をまもっているという崇高さが反芻される季節だ。                        
                  2010年5月4 晴れ
 今日も一生懸命に入山中の畑の維持(雑草レス)に汗をながす。あまりに暑く昼に2時間ほど休憩、熱中症予感に悪寒を覚える。その時、同時間に2人の関東の友人からメール、。「トレーニング山行にいってきました」であった。2人は高尾山地域の山を、今夏の池の平詣でのためにトレーニング山行をこなしたらしい。女性の方は山が初めてだが、7時間余の工程を難なくこなし、本人も、ガイドをした友人もメールに安堵感がにじみ出ていた。お2人は鉱山研究会の仲間なので是非坑道を見て頂きたい。また、鉱山研究会の仲間はあと2人池の平に来る予定、今年は小黒部鉱山の当たり年になるかも。
 
 昼ころパソコンに集中していたら、窓の外がうるさい。ツバメの鳴き声だがあまりに耳障りなので、網戸越しに外をみると窓の外の物干しの上で3羽のツバメが啼きあっていたら、1羽が1羽の上に乗った。交尾かなと思っていると、降り、又乗った。もう1羽は横で静観していた。
 鳥の交尾は、鶏とキジバトしか見たことがないので珍しいと思いカメラをと思っていたら、下になっていたツバメが落ちるように下に飛び、網戸にしがみ付いた。これは異様なことで、シャッターを切ろうと思っていたら下の縁側に落ちて動かなくなった。

 手に取ってみると目が閉じ死んでいた。ツバメの世界では3角関係はよくあることだが、異性の取り合いで負けたのか、不明だ。ツバメがツバメを殺すなんて聞いたことがないので不思議だ。以前、交通事故にあったツバメの傍に2羽のツバメが離れずにいて、そばにいたツバメも巻き添えにあったシーンを目撃した経験があるが、そのことを思うとツバメがツバメを殺すなんて信じられない。私の頭では、この暑さで熱中症かなくらいしか考え及ばなかった。家族を失ったようで残念だ。ツバメの亡骸は、今花が盛りのモッコウバラの根元に埋葬した。

                         2010年5月3 晴れ
  今日は娘のアイデァで、家族3名で名古屋のロシア風のお店で昼食会。帰りは名古屋市の農業センターに寄り、種々な家畜、植物を見て廻った。豚のコーナーに行ったら4種類ほどのなかに、ベトナム産を改良した小型豚が3頭いた。各々ニックネームが付いていたが、1頭に息子と同じ名前が付いていた。それに気づくと妻と娘は真剣に携帯で写真を撮りはじめた。今頃その写真は息子のところに届いているのだろうか、気の毒に。その後、先日見つけたワラビ畑に寄り、採集民族の本能を満足させ帰途に着いた。車内は夏日であった。

 この日嬉しいお便りが2通あった。1通は画家の熊谷榧さんからの個展のご案内で2枚同封されていた。 「熊谷榧高山展」               「熊谷守一美術館25周年展」
<時>2010年5月12日(水)〜17日(月)   <時>2010年5月21日(金)〜6月13日(日)
<時間>10時00分〜17時00分         <時間>10時30分〜17時30分
<場所>岐阜県高山市上一之町26      <場所>豊島区千早2-27-6、
遊朴館2Fギャラリー(0577-32-8883)        熊谷守一美術館 電話03-3957-3779
この他に、「豊島区立・熊谷守一美術館だより」も同封されていた。
熊谷榧さんとは3度山行をともにし、個展は10回以上拝見させていただいている。4〜5年お会いしていないが、あのダイナミックな筆遣いと、小さなことに拘らない竹のようなご性格に魅了されている。
ご健筆をお祈りしたい。書き忘れたが、明治の画壇の大御所熊谷守一氏の娘さんが熊谷榧さんである。
 もう1通は、某テレビ局のドキメンタリー担当のプロデュサー氏からであった。1月に上京したおり、少しばかり取材に協力したのだが、その時、氏が担当で、昨年放送分で見逃した番組があったので複写を依頼したものが、4枚のDVDとなり同封されていた。しばらく楽しめそうである。
                         2010年5月2 晴れ
 今年も、この時期に遭難が発生してしまった。残念な気持ちと共に、犠牲者のご冥福を心からお祈りするものである。ゴールデンウィークは剱岳に単独で行こうと予定していたが、晴天続きの予報をみて溜まっていた屋外の仕事に専念することにした(山は何時でも行ける)。とりあえず、2日間でセメント80Kg煉った。それで簡易倉庫周り、裏庭の水屋周りを打った。そういえば、山では結構コンクリート打ちの仕事がある。なかなか重労働で腰に応える。会社勤めの時は、耐火物練り作業がありスコップを使用していた。なかなかこの労働から卒業は出来ないものらしい。終ると、庭と広大な畑(借地)の草取り。採っても採っても終らない。
 昨日は息子の誕生日だったので、私も今風に携帯でメールをうった。返事に条件が整えば仲間の皆さんと池の平に行きたいとあった。今シーズンまた楽しみが増えた。
                         2010年4月30 晴れ
 昨日の散歩は、ここ10年ほど行っていなかった藪山のほうにいってみた。緑陰のなかでチラット飛翔するものがいた。もしかと思いカメラを出しおいかけた。3度目の接近で撮影に成功、同定も出来た。期待どうり”クロコマチョウ”(黒木間蝶)だった。越冬に耐えた固体らしく、羽はボロボロだったが、色は夏見かけるものより明るく可愛い顔をしていた。日陰を好む、地味な色のこの蝶の10数年前に初めてあった。その羽の色とし素朴な飛翔に魅せられた。その後カメラをかかえクロコノマチョウを追って里山の雑木林に通った。この蝶と友達になるには、他の蝶と違う気配りが大切だった。雑木林のクヌギになりきり、ときには枯葉となりジーッと静かに待ち続ける忍耐が必要であった。静かに、静かに待っていると蝶の方から寄ってきて、かたわらで羽を休めるのであった。

 林をぬけると空き地があった。以前畑だったところだが、破棄されたらしく草ボウボウとなっていた。よく見ると数十本、ワラビが頭をもたげ私をまっていた(今晩のおつまみは決った)。

 採取を終え、里山をぐるっと廻ると大きな農家の家並みがつづく。大きく立派な鯉幟が薫風に舞っていた。昨今、テレビのニュース番組で風物詩として、観光地の川などにロープを渡し、使われなくなった鯉幟を吊るしている様子を流している。鯉幟は立て紐に吊るすものが一般だが、横紐に吊るす習慣は我が家が早いかもしれない。
 昭和49年、当時4階建ての社宅の2階に住んでいた。長男の出生を祝い、妻の姉夫妻から大きな鯉幟が届いた。団地サイズをお願いしていたのに、事業の成功者らしい大きなものであった。ベランダで苦慮していると、10mほど先に電信柱が建っていた。ヒトツのアイデァが閃き、即実行した。30mと40mのザイルがあったので、電信柱に登り、ザイルを結び、その先端をベランダの手すりに結び、張ったザイルに鯉幟をつなぎ吊り下げた。尻尾の先端と地面の間が1mくらいだったので、近所の子供たちが寄ってきて飛びつき遊んだ。困ったのは強風であおられ、鯉幟どうしが絡み合ったり、ザイルに巻きついたときであった。そんな時は、子供達の見ていない時間帯を選び、チロリアンブリッジで張ったザイルの上を渡り、揺れるザイルの上で、片手で是正した。なかなかスリルがあり、人様にはお見せできない光景だった。それ以降、ますます「子育ては体力がいるよ」と言って憚らなくなったかも知れない。


                         2010年4月29 晴れ
 1月末からまとめてきた「データでみる池の平」やっと先ほど初期の目的の昭和編まで完成した。昭和58年からの20冊余の古い宿帳を仔細に読みデータをとった。興味のある方、特に登山史に関心がある方に読み取って欲しいと願う次第です。一応、今年はここまで終了です(入山の準備をしなければ)。
 ここのところ、忙しくブログもお休みしていた。頂いた私信もたまり、返事もお留守になってしまった。
@この間、元同僚でモンロー会の斉藤さんから「私たち結婚しました」のお便りをいただいた。、そこには幸せそうな笑顔のおニ人があった。彼は、池の平小屋にはお父さんと2度来ていた。また5月の連休に剱岳の難ルートをボードで滑走する技術の持ち主でもある(この時は、管理人がサポート)。おめでとう、また一緒に山に、スキーに行こう。

A昨年お泊りいただいた、お客さまの大坪靖さんから個展のご案内状を頂いた。大坪さんは昨年スケッチにおいでになり、一泊された。靴の底がはがれ応急手当をして差し上げことがあった。大坪さんは水墨画の会を主宰されているようであった。お便りには以下のようにあった。
   8回 現代毛筆画会 水墨画展
<時> 2010年5月10日(月)〜16日(日)AM11時〜PM6時(最終日PM3時まで)
<所>ギャラリー ”くぼた”
<場所>東京都中央区京橋2-7-11.電話03-3563-0005

 添え書きには、「小生の出品は2点、山の作品はしません。もう小屋は開いたのでしょうか」とあった。
ご関心のおありの方は、足を運んでいただければと思います。


B長野県から2通、1通目は白馬村の友人から近況報告。もう1通は茅野市の姉貴から、「水と緑と生命を守る諏訪の森運動・環境会議通信」(月刊 第254号)が送られてきた。12ページの小冊子に姉の原稿も載っていた。”おもしろかった「農業おもしろ塾」”という文で地這人・北沢久恵のネームで書かれていた。姉は蓼科 の入り口でオーガニックカフェ「郭公」(かっこう)というお店を長い間営んでいる。
ホームページのアドレスは<http://suwa-net.com/kakko/>です関心のある方はどうぞ。

Cこれまた、長年のお客さまである加藤孝子さんから昨年の池の平小屋の写真を送っていただいた。
木下さんとのツーショットであった。加藤さんは単独行のスペシャリスト。2008年の「岳人」(山岳誌)に特集され載っていた。古い宿帳をみると、池の平小屋との関わりも20年近い。大変な健脚の方で、テントを背負い、大日平、一の越や室堂から北方稜線越えコースでやってくる。帰りは、9時ころ出発し、17時ころ祖母谷温泉から着の電話を入れてくる。今年も、お会いするのが楽しみな方である。

D手作りの封書を開くと、手書きの10ページ余の会報。温もり一杯である。会名は変化題(へんげだい)と少し変わった名前である。これは、毎号誌名が変わるためである。ちなみに、4月26日号の誌名は「芽起し」で通算187号目であった。
 このような手作りの封書が、毎月のように送られてくる。頭が下がる。発行人は大阪の井関扶さん。私は岳兄と慕っている。この上なき人望の持ち主で、井関さんの人柄に引かれ花開いたのが”変化題”というサークルであった。関西の山好きの方が多く、関西近辺の藪山で、昼に数本のワインをたしなんでいるグループをお見かけしたら”変化題”の面々かも知れません。くわばら、くわばら。
                         
2010年4月19 晴れ
 昨日、1通のメールが届いた。一昨年”点の記ラーメン”第1号となり、さらに、昨年宿泊第1号となった、お客さまのnoharaさんからだった。4月4日付けのブログを読んでの感想だった。沖縄ファンの私が”センバツ”で興南高校の優勝を讃えた記事を書いたのだが、なんとnoharaさんは沖縄石垣島出身であった。パスポートの必要な、本土復帰前に本土に渡って来られたとのことで、故郷沖縄に対する想いがが綴られていた。決勝戦の応援にもいかれ、混沌としたゲームに一喜一憂されたこことも熱く、熱く書かれていた。
 末尾には、迷走する普天間問題に触れ、「沖縄を参議院選挙の票、政争の具にしてほしくありません」と、まとめられていた。このような庶民の真摯な願い、声を為政者は真剣に聞き届け、叶えて欲しいと強く感じた。平和があっての登山文化ですよね。
                         2010年4月18 晴れ
 昨日の知多自然観察会に指導員の先生が5名参加されていたが、そのなかにT先生がいた。先生には3人のお子さんがいる。3月の段階で言うと、長男さんが大学受験。次男のDさんが高校受験。三番目の長女さんが中2年生。数年前(2003年)に、観察会の行事で静岡の岩岳山に登った。大人連の先生達(9名)の歩みが遅かったが、8名の小学生は元気良く私について来てトップを競った。
 それを踏まえて、翌前に白馬岳登山を計画した。大人5名、子供4名であった。その中にT先生の3名の子供さんと、、A先生の子供さん1名も参加されていた。天気にも恵れ、景色、花、星を媒介に山が皆さんを魅了した。
 そして、2007年、私の池の平小屋管理人の仕事振り偵察と、慰問に観察会の面々が12名でやってきた。嬉しいことに、顔馴染みとなった子供さんも3名が、相変らず元気良く、トップで小屋に着いた。
 さらに、1年おいて昨年夏、また観察会の先生達が9名で訪れた。嬉しいことである。そのなかにT先生の次男さんと、A先生の次男さんがいた。2人は、岩岳山からの縁であった。
 就眠前、戸締りをしていると、星明りの中で本を読んでいるDさんをみっけた。「暗いところで、なにを読んでいるの」、「剱岳・点の記です」闇の中で恥ずかしそうに言った。Dさんは中3というのに180pに近い身長で、野球部に属していた。思わず「進学決った。野球の強いところに行くの」と聞いたら、「僕、山学部のある高校探しているんです」という意外な返事に驚いてしまった。そのDさんから、今年、嬉しい年賀状が届いた。「登山部のある高校を目指して頑張っています。そこで、もっと力がついたら菊池さんと山に登りたいと思っています」と、墨痕鮮やかに、丁寧に書かれていた。
 昨日、T先生に伺った。「Dちゃんの進学どうなりました」。「名古屋のワンゲルのある高校に入りました。隣接の高層大学の階段で、部のザックを背負いトレーニングしているみたいですよ」。その後、「小学生の時の、岩岳山登山が遠いきっかけかも知れないですね」と笑みをこぼされた。
                       2010年4月17 晴れ
 今日は燐市での自然観察会。「竹の子を採って簡単な料理を学ぼう」という企画。文字通り参加者のお父さん、お母さん、子供さん達と竹の子堀りを楽しみ、その後、板前さんを中心に竹の子料理をつくり、春の味覚を味わった。低学年の男女の子供達の活発こと。さらに、包丁を持っての調理や片付けなども元気良く、積極的であった。これをみたら、家で何もしないお父さん達も、刺戟を受けるのではないだろうか。下山後、何もしない私も、大いに刺戟受け学んだ。家に帰ると、モンロー会の仲間から電話「今から、菊池さんのところで一杯やらない」。妻は仕事で留守。ジャー早速、ツマミを作らなければ。あ、それより先にビールを買いに行かなきゃ・・・。相変らず、、懲りない私でした。
                         2010年4月12 
 昨日は半日、樹高4m弱の松の木に登り剪定の真似事をした。ついでに、他の木の剪定、庭の草取りなどにいそしんだ。今日は、肩や腰が重い。でも、今日は妻と映画を約束してあった。題名はアカデミー賞受賞の話題作「ハート・ロッカー」。イラクでの爆弾処理班 の物語だが、パワフルな映像と音響に疲れも眠気も吹っ飛んでしまった。ただ人が演じているのに、乾いた台地でむなしい戦争の断片を描いているせいか、人間が見えなかった。そのことが、アメリカ映画の限界なのかと感じた。映画は娯楽としても、爪の垢でもメッセージを付与してもよいのではないだろうか。映画をみていて、湾岸戦争時、テレビで戦闘場面をみていて、創作した詩をしきりに想起していた。「中東に雪を降れ 静かに静かに雪よ降れ やわらかい雪の下で こびしをふりあげた 中東の人々よ こぶしを下ろして眠れ アメリカの兵士も眠れ 心がやさしくなるまで みんなみんな眠れ」(1991年作)。戦(いくさ)、争いごとのない世界の到来を希求する。                 

                       2010年4月11
 晴れ
 起きてくるなり、妻が「お父さん、井上ひさしんが亡くなったよ、肺がんだって」。起きがけのニュースに、言葉も出なかった。小説家井上ひさしさんの世界に耽溺してきただけに、ショックが大きかった。妻も愛読していた。初めて読んだのは、釜石を舞台にした「花石物語」であった。いままで読んできた世界と違うので虜になってしまった。氏の書かれた小説の6〜7割は読んでいると思う。17〜8年ほど前、近くの公民館で井上ひさしさんの講演会があった。その時、許可を得て、一番前でビデオに撮り、長文の手紙を添えて氏に送った。ほどなくして、仕事を終え家に帰ってくると、妻が興奮していた。「井上ですけど、井上ひさしですけど、先日は・・・」。なんと、井上ひさしさんから直接に、お電話があったとのことだった。「お父さん、ビデオのことや釜石のことなど話していたよ・・・」75歳で、一期をむかえられた井上ひさしさんの、ご冥福を心からお祈りいたします。本当に、私の人生を豊かにして頂きました。
                     2010年4月10 晴れ
 
私の散歩は、カメラを持ち、そして山菜にも目を凝らすという欲張ったものである。家に帰ると知人の文学者から電話があった。田宮虎彦研家である。「今日なんの日か覚えている」、「田宮虎彦先生の命日ですよね」。田宮虎彦先生が亡くなり22年。最近では書店に行っても、先生の書影は見渡たらなく寂しいが、知人の電話は、新しい単行本が出版されたことと、新聞に載った情報の提供であった。山小屋生活に浸り、鉱山研究に邁進するなかで、どうも小説との距離が離れたことが気になる。知人は頑張れと、発破をかけて来たのかも知れない。
                     
2010年4月5 曇り
 昨年下山した時、宇奈月のオーナー宅から、昭和50年代からの宿帳を借りてきた。今日から、本越を入れ整理に掛かる。20日ほど掛かりそうだ。データーを取る事が好きなので、そこから面白い読みが出来ればと思っている(年寄りで目が辛いが)。夕方、勤めを終えた妻がケーキを買ってきた。65回目の私の誕生祝いであった。

 
                 2010年4月4 
 今日は、2時間ほど里山添いの散歩を楽しんだ。若草の緑が気持ちいい。その後夕方、30分ほど歩き、花見で有名な”大池公園”に桜を見に出かけた。1時間ほどかけ、写真を写しながら廻っていると声をかけられた。元の職場の花見であった。夜勤帰で、昼から始めたそうである。会社を辞めて4年目になるが、みんな覚えていてくれ、ビールを頂きながら話しがはずんでしまった。とくに、一名、鈴鹿の御在所岳に連れて行った同僚がおり、その時の体験談や山小屋の仕事の説明で盛り上がってしまった。ほとんどが20歳代の青年で、明るく元気がいい。怪我、事故の多い職場なので、みんなの安全と幸せを願った。
                     
2010年4月3日  曇り
 
”センバツ”・高校球児の真摯なプレーに、毎日魅了されている。15歳からテレビ観戦を楽しんでいるが、何を隠そう、私は隠れ沖縄ファンである。東京オリンピックの翌年、私たち田舎の落ちこぼれ連は、東京大田区の安アパートに集い、大学進学を夢見て、働きながら机に向かっていた。
 そんな時、私鉄に働く青年の火の不始末で、福島の旧家を移転して建てられアパートは燃えてしまった。20名くらいの若者が住んでいたが、その中に沖縄出身の青年がいた。彼の嘆きは尋常ではなかった。「パスポートがなと困る、家に帰れない」涙を流し焼け跡の中を必死で探していた光景が今でも目に焼きついている。
 その体験が、つい沖縄の高校が出てくると、大声を上げる声援に作用してしまう。20代は「固き土をやぶりて・・」と沖縄を返せ歌ったのも、この原点が有るからかもしれない。二日間、ひとり声を挙げ、興南高校にエールを贈った。そして、基地問題の早急な解決を願った。興南高校おめでとう。
                     
2010年4月1日  雨のち曇り
 ここのところ、パソコンに向ったり、電卓を叩いたりと、池の平小屋のホームページの更新にいそしんでいる。また、高校野球は高校時代からの大ファン、時間配分が難しいが、集中できない性格というか、考えながら他のことのアイデァ創出という、希なる(家族は、ろくに話を聞いていないと迷惑がる)中途半端な性格なので、両立させ楽しんでいる。昨日は静岡の大事なお客さんの「磯」さん、今日は高名な山岳写真家の畠山氏から、今シーズン訪れたいとメールがあった。桜の花のような便りであった。
 今日は、雨で一試合順延、また気になって寝れないなァ。広陵高校、雨で天が味方せず、夏は頑張って。また、明日の興南、大垣日大も好試合を期待する。

                     
2010年3月31日 曇り
 
遠距離の散歩をしていたら、自転車の知人に会った。どこへ行くのかと聞いてみたら、桜の樹のあるところを訊ね回っているとの答えだった。花好きの方は、最近多いように感じるが、自転車で廻るのも、私のように歩いて廻るより、効率が良く楽しいかなと感じた。夕方、帰着すると、お客様から写真展のご案内が届いていた。
    <深澤武展・「北アルプス白馬・大地の鼓動}」>と題された御案内で、
期間は2010年4月9日(金)〜15日(木)迄。時間帯は10時〜19時まで(期間中無休)。
場所は、東京都中央区銀座5-1、銀座ファイブ2F,[エキシビジョンサロン銀座](JR有楽町駅が近い)
会場への連絡はフレームマン銀座事務局(03-5638-2213、090-1613-2213)
都内の方で、山岳写真にご関心がおありのお方は、どうぞ、足を伸ばしてみてください。

                     2010年3月30日 晴れ
 
畑で草取りをしていると、傍らで、子供らが土筆(つくし)摘みをしていた。
 <発句>  睥睨する 児らに負けじと 土筆立ち  (白朝)
 面白いことに、冬、暇なときに、”寒起し”と称して畑を深く耕していると、スギナの地下茎に当たるときがある。それを良く観察してみると、先端は土筆そのものが結ばれており、「あっ、寒い土の中で春の準備をしているんだ」と思うと感動をし腕の動きを止めてしまう。

 
私のところ(愛知県大府市)の新聞に載らなかったが、TVのニュースで、3/29日夕方、鈴鹿(三重県)の御在所岳(1212m)で中国人の女性が道に迷い凍死と報じられた。ご夫婦での登山であったが、あいにく、この日は吹雪で道に迷ったらしい。ネットで調べたら、この日の山頂の気温は零下6度で、山頂付近で道に迷い、携帯で110番に救助要請したらしい(18時35分頃)。23時55分頃、山頂から300m下の登山道で救助隊が遭難者を発見した時は、奥様は凍死をされており、ご主人は怪我も無かったと書かれていた。
 つくずく、春の山、3月の山は恐いと思う。私も、先日(3/21)富山の仲間などと御在所岳を登ったが、陽気もよくテーシャツ1枚でルンルン気分で登ったが、翌日の3/22の鈴鹿は猛吹雪。さらに、その翌日の藤原岳は快晴で、八合目までは半袖で登った。この季節、細心の慎重さを忘れてはいけないとつくずく思う。              
                      
2010年3月29日 曇り
 
今日は自治会の総会日。この日、三つの仕事を頼まれ、バタバタしながらも何とかこなす。これでホットして山に集中できる。終了後、7名の役員さんが集い、ご苦労さん会をおこなう。私は、畑で取れた野蒜(のびる、東北ではしろっこと呼ぶ)と信州のお客さんから届けられた「味噌」を持参する。会話が進むうち、偶然だろうか、7名の内、5名が岩手県釜石市出身者と分かる。他のお2人は、地元、愛知と長野県出身だった。野蒜を話の穂に、故郷談義、思い出話となり盛況となった。故郷、子供の頃の想い出にまどろむのもいいですね。
                     
2010年3月27日 曇り
 
雨で三日も家でゴロゴロしていると虚しくなってくる。昨日は3時間半、今日は4時間歩く。昨日は、里山の周辺で、初物のワラビとウドを採取。春を実感する。フキノトウと野蒜(ノビル)は先日味わったが、ウドの葉の天ぷらも乙な物だ。今日の散歩ではモズの活動が目に付いた。2羽で行動を共にしているところを見ると、ツガイかもしれない。近くの茂みに巣作りするのだろう。溜池では、カイツブリ、コガモ、チュウサギ、カワサギなどが採餌し、桜の大木も蕾を大きくし秋波を送ってくる。そろそろ、花見の準備もしなければと考えていたら、山仲間から、鈴鹿の「御池岳」(鈴鹿最高峰、1247m)に登ろうと電話。OKの声を弾ませた。
                       
2010年3月25日 雨
 
数日前、鉱山研究会の仲間からメールがあった。「昨年10月に病死された、知人の奥様が、池の平小屋に行きたいと言っているのですけれど・・」。その知人のお名前は橋本康夫さん。長年、鉱山研究仲間で、私が調査等で上京すると、最終日はいつも彼と肩を組み、新宿の安居酒屋をさまよった仲だった。彼は写真家で「藍の時代・足尾と私の十三年」、「閉山三日前の三井三池炭鉱」の素晴らしい写真集、二冊を残し逝った。さらに、沢山のネガを残してである。彼は生前、「僕も元気だったら菊池さんの小屋、池の平に行って見たいのだけれど」と言っていたが、奥様はその代参だろうか。21日、その奥様からメールがあった「心して基礎体力を付けます」。今夏の楽しみがまたひとつ増え、頑張らねばと心しているところである
                      
2010年3月23日 雨
 昨夕来客があった。長旅なのに元気よく玄関にいた。「お帰りなさい」。「チュ、チュ」と啼き飛翔した。ツバメの里帰りである。我が家のツバメの巣はなかなか忙しい。空いている暇がないのである。秋に主が南国に飛び立つと、チャッカリ雀が居候をするのだが、冬になるとジョウビタキが跡目を狙い、下を通る私たちを「もっと、静かに玄関を開けろ」といった風に巣の中から見下ろす。ジョウビタキが去ると、また常連の雀が巣篭もり。玄関の掃除も大変だが、観察しているとなかなか楽しい。今年は何羽巣立っか、満開のユスラウメの白い花を見ながら心が弾む。
                      
2010年3月22日 晴れ
 
今日は、富山の仲間を鈴鹿の藤原岳に案内する。案内役に、モンロー会の「ヨっ」さん、「ノン」ちゃんが加わる。伊勢湾岸道から見る、鈴鹿の山並みは真っ白。前日は猛吹雪だったらしい。登山口に着くと、富山から「はっぱ」さんの友人「稲」さんが待っていた。仕事の関係で出発がずれ、昨日は御在所岳に向ったら、吹雪でなにも見えず大変だったらしい。3合過ぎから雪が現れ、4合過ぎから、2〜4センチの積雪でこの時期としては珍しい光景となった。8合付近から、福寿草が顔を見せ始めた。さながら雪の中の”ぼんぼり”であった。雪の中からすかして見える黄は、可憐で心が洗われれる想いであった。昼過ぎ、名残を惜しみ、再会を約し解散となった。
 <福寿草 雪をまといて まどろみぬ>
                      
2010年3月21日 沈鬱な黄砂曇り
 この日の天気予報は大荒れ、山は止め、知多半島めぐりとする。黄砂で視界が利かないなか、知多半島の先端、師崎港に向う。ここで、名物の大アサリと牡蠣の焼いたもので舌鼓み。ビールが欲しくなる。景勝地、羽豆岬に登り、天然記念物のウバメガシの群落と展望を楽しむ。その後、海鮮市場の「魚広場」を覗き、「エビセンベイの里」で試食と買い物in.。その後、池の平小屋のお土産を製作している常滑市の誠山窯に向う。窯元は、前日御在所岳登山に一緒に登った「片」さんご夫妻。管理人の長い山仲間である。「真っ黒ネコ」さんのロクロを回して見たいとの、希望から生まれた企画であった。3時間ほど、頭と、手と、ロクロを回し、8点ほど作品を完成させた。窯元の「筋がいいね」のお言葉どうり、お二人は集中し、見事なぐい飲みなどを仕上げた。1ケ月後の窯だしが楽しみである。
                      2010年3月20日 晴れ
 富山の池の平小屋の応援団でハンドルネーム「はっぱ」さんと「真っ黒ネコ」のお二人が鈴鹿の山を愉しみにやって来た。こちらからは、茜山岳会の「村」さん、「片」さん夫妻に私の6名で御在所岳を登る。驚いたことに、三連休の初日で、天気快晴なのに駐車場はガラガラの上、登山者も少ない。裏道を登る2007年10月ゲリラ洪水で大被害を受けた藤内小屋はまだ復旧していなかった。私と娘も1週間ほど手伝だったのだが、なかなか困難なことが多く、営業再開まではハードルが高そうだ(日向小屋は撤去され、隣接して砂防ダムの工事が始まっていた)。国見峠から、頂上の岩場にて昼食。陽気に誘われてか、越冬したヒオドシチョウが傍らから動かない。帰りは、展望コースの中道を下る。身の軽い富山の岳人は、地蔵岩、負ぶさり岩に果敢にアタック。次回は前尾根を約する。この日、日当たりの良い草地でタテヤマリンドウ、風衝帯で矮小なマンサクが黄色こよりの花を付けていた。夜は、我が家で歓談、談笑とまらず。

                   2010年3月16日 曇り
 最近年のせいか寝つきが悪い。うつらうつらしていたら、饒舌な句が湧いた(白朝出)。
<饒句>
1.マスコミは 世論調査で 世論産み(世論調査の信頼度て何パーセントなんでしょうね
      2.政治とは 格闘技かや 春の宵  (権謀術数よりも政策と理念を伺いたいですね)
      3.さわらびを さがす人あり 鳥騒ぐ(先日、里山散策中のできごと、私の好きな光景です)
     
 4.役者ども 大挙走りて 土佐ひかり (NHKの龍馬伝、好演技、好演出にのめり込み状)

                    
 2010年3月15日 曇り
 
今日は妻と映画を観る日。朝日新聞のコラムにこの映画の感想が出ていたが、「OCEANS」は、今年名古屋で開催されるCOP10(生物多様性条約)と想い、願いが重なるものと認識を深めた。観ていて感じたことは、海は、陸のゴミ捨て場にしてはならないということだった。なにげなく、道ばたに落としたものが、雨で川に流され、それが海にたどり着き堆積する。ただただ堆積してゆく。ただただ地球を愛しみ続ける気概を堅持したい。しかし、映像中の生き物達は素晴らしく生き生きしていた。その行動に迫力を感じた。また、構成もgoodだった。
!.

 帰途、嬉しい電話。池の平小屋のボッカ隊長の「はっぱ」さんからだ。今月中旬鈴鹿の山々をを登りに来るとのこと、早速、伝統ある「モンロー会」の面々に、同行すべき歓迎の激におわれる。

                   2010年3月14日 晴れ
 天候安定しない日々だが、今日は良いとの予報。小屋明けに備え、何時もは1万歩が目標だが、前日から2万歩を歩く算段をする。両足に囚人のごとく、重しを付けてである。約、4時間弱、2万歩余を闊歩する。愛用のカメラには蝶、コブシ、野鳥、美しい池などがおさまった。里山ではウグイスの初啼きを聞いた。また、嬉しいことに、ヤット「池の平小屋ホームページ」が1ページ目に表れるようになった。

                  2010年3月9日 曇り
 毎日、鉱山史等の資料の整理と、ホームページのに追われ、バタバタしていたが、今日、今シーズン初ての予約が舞い込む。シーズン間じかと、頭の切り替え、準備もしなければと気忙しさと

                    2010年2月7日 雨のち吹雪
 今日は5年振りのスキー。「お父さんスキー行く」と2〜3週間前に娘に訪ねられた。「いいなー、でもお父さんお金ないからなー」と返事したら、嬉しいことに、娘が日帰りのバススキーに段取りを付けてくれた。場所は岐阜の鷲が岳スキー場。約2時間のバスの旅であった。行くときから雨模様であったが、ゲレンデは霙模様。でもその内雪に変わったが、風が強く、原因不明だがリフトも良く停止した。近場の3月のスキーとあなどり薄着で行ったら、吹雪で顔が痛いし、下半身は冷え冷え。そんな時、娘が「お父さん、ここには温泉も有るから、早めに切り上げ温泉に入ろう」とありがたいお言葉。実に良い久ぶりのスキーだった。勿論、足前は?!?。
                    2010年2月15日 曇り
 今年二回目の妻との映画鑑賞は「おとうと」とした。監督・脚本山田洋次、出演、吉永小百合、笑福亭鶴瓶、蒼井優等でしんみりと日常をみつめる作品で、心打たれ、比例するように目頭が潤るおってしまった。
                    2010年2月21日 晴れ
 下山後懸案で、お客さまから「池の平小屋のホームページどうなっている」の、お問い合わせが多々あったが、ようやく今日復帰した。娘の幼馴染の幸ちゃんに、2007年に立ち上げていただいたのだが、昨年夏、光通信に切り替えた時(入山前後)にプロバイダーが変わり、私のアドレスと共に接続が断たれてしまった。皆様には大変ご迷惑、ご心配をお掛けしました。心からお詫びを申し上げます。また、専門職の幸ちゃん長時間ありがとうございました。

                   2010年2月10日 曇り
 池の平小屋の支援組織「モンロー会」の地元組隊長「はっぱ」隊長から電話。どうやら、大阪に出張。関西支部のお方たちと懇親会もあるよう、私も、大阪の中ノ島図書館に出張しようかな、そして、大阪の皆さんのお顔も拝見したいしなどと、下戸の私は心が揺らいでしました。
                   2010年2月8日 曇り
 発句、「朴訥に、汗をぬぐいし和平逝く」(白朝)、この日亡くなった、立松和平氏のご逝去心よりお悔やみ申し上げます。氏とは、2008年11月、ゲリラ豪雨で被災した、鈴鹿・御在所岳の藤内小屋の復旧作業のお手伝いのさなかにお会いした。氏は岳人へ連載中の百霊峰巡礼の取材のため、三重の岳連の方の案内で登ってきた。剱岳の池の平小屋の管理人をしていると、自己紹介したら関心を持って頂いた。気になったのは、ものすごい量の汗を掻いていたことで、また、あの有名な素朴な語り口が印象に残った。鉱山屋の私は、鉱山を描いた「恩寵の谷」しか読んでいないが、いずれ他の作品も読みたいと思っている。
                    2010年1月8日 曇り

 今年一回目の妻との映画鑑賞。噂の3D映画を観る。予告編を観ていたので迷わず「カールじいさんの空飛ぶ家」とした。幼児向けのファンタジーかなと思っていたが、なかなか味のある、アクション含みの冒険映画だった。飛び出す映画は大昔見たような気がするが、まこと迫力ある映画だった。3D時代到来を予感させるエポックとなるだろう。

                      ここから2009年

                     2009年10月20日 晴れ
 
昼前に家に帰る。7月3日に家を出て以来の我が家はやはり落ち着く。この日は大好きな畑でさつま芋の収穫(ゴウヤ、茄子も)、草取りに汗をながす。我が体内から、じわじわと入山前のリズムが湧き出てくるのを感じた。
                  
                    2009年10月19日 晴れ

 こ
の日は、まず立山町の芦峅にでかけ、立山博物館、立山カルデラ砂防博物館、環境庁の出先機関などを訪れる予定だったが、いずれも休館か不在だった。
 この日は予定を変え、旧知のカメラマン高橋敬市さん宅のギャラリーで来年のお土産品を購入し、その後、仙人のばあちゃんこと志鷹静代さん宅を訪ねた。静代さんはひなたぼっこ最中であった。静代さん宅訪問は3度目だが、いつも歓待してくれる。下界の静代さんは、山でと違ってゆったりとした笑顔が素敵だ。美味しいお茶を頂き歓談する時間はゆったり感じる。
 その後、急遽、アッシー君役の瀧場さんの協力も得、長年心をくだき資料収集していた、岐阜の「平瀬鉱山」を探ることになった。
 寄った先の、喫茶店の女将さんの好意から、坑口、ズリ捨て場、働いていた方、鉱石、資料などが、予想外に、芋吊り式に舞い込み、嬉しい、予定外の一泊となった。
                    
                     2009年10月18日 曇り
 モンロー会関東組の亀谷さん、小元さん、佐藤さん、それにひとシーズンともにした木下さんの4名、来月開催予定のモンロー会の望年会での再会を約し、早朝に車で帰省。
 名古屋組ボランテァの瀧場さんと私、それに地元ボランテァで今シーズン8回もボッカ登山をしてくれた橋本さんの3人で、宇奈月の重鎮「僧が岳」に登る。戦時中に、鉱山として稼業されていた痕跡を探るための登山であった。橋本さんのGPSを頼りに、鉱山道を探しガレバの道をたどると夥しい痕跡が残されていた。おりしも、天気予報に反し強烈な氷雨。逃げるようにして下山となった。
 その後、オナーに会計報告とお暇を告げ、宇奈月の博物館兼図書館「うなづき友学館」で”黒部川絵巻”展を拝見し、橋本さんと再び合流、朝日小屋の管理人の清水さん宅に伺う。清水さんのホームページは、いつも拝見し、参考にしていただけにお会いしたいと思っていた方であった。予想どうり、素敵な女史であった。その後は、銭湯でひと風呂あび、お客さまのイイダさんも交え、魚貝の名門店で今シーズンを振り返り、橋本宅で夢をむすんだ。
 
                     2009年10月17日 晴れ
 4名のたくましい「モンロー会」の(小屋締め隊)仲間を含め6名で今日は下山(1名は前日下山)。3日かけ小屋締めも順調にすすんだ。指差呼称による作業確認もスムーズ。120パーセントの出来栄えであった。これなら、来春も小屋はしっかり建っていてくれるでしょう。
 雪に輝く八ツ峯やチンネに見送られ小屋をあとにする。仙人峠を、我々池の平小屋の者は「見返り峠」と称している。ここで、恋人のような”チンネ”や”モンローの唇”ともお別れであるからである。仙人池の方向は、静代お母さんなど小屋の関係者は、前日ヘリで下山されたので閑散と静寂そのもののように見える。仙人温泉の付近から紅葉が眼を愉しませてくれる。仙人温泉は高橋オーナーはじめ、4名のボランテァで小屋締めのさかりであった。「菊池さん、お茶でも飲んでいってよ」の誘いで、私にとり第二のふるさと言うべき後立山連峰を拝謁して、美味しい緑茶を頂いた。
 3年目を迎えた「雲切り新道」は年々歩きやすくなっているのが感じられる。眼下の、仙人ダム湖のグリーンが心をゆさぶる。無事、野菊の咲く仙人ダム駅に着き、ダムの外壁でクライミングを簡単に行なう猿達に感動しッツ、缶ビールで乾杯。後、仙人温泉のボランテァ加藤女史と合流、宇奈月着。105日めの下界であった。この夜は、10数年行きつけの食堂「ささや」で山海の珍味に舌鼓をうち杯をかさねた。

                     2009年7月3日 晴れ
 
今日は、富山県の宇奈月温泉に向い、名古屋から2パーテイ、6名、岩手県釜石から1名、東京から、1名向う。その他、4日早朝には、地元富山や、石川の元気のよい、お兄さん、お姉さんが合流する。地元の4名はボッカ志願である。昨年も何度か新鮮な野菜などを届けてくれた、池の平小屋の恩人である。今年も池の平小屋の動脈として、大いに盛り上げ、助けてくれそうだ。万歳!。
 
名古屋からのパーテイは、池の平小屋のボランテァ組織「モンロー会」の10年選手が多い。ベテランである。要領を知っているので、何もいわなくてもてきぱきと仕事を進めてくれる。そして、お酒も弱い(サイコー)。一人私の元同僚が初参加。無理をしないで小屋明けを楽しんで欲しい(なんと、管理人の元同僚は4名参加です)。

 釜石から参加の方は、管理人の高校の先輩で、山と飲酒を指導してくださったありがたい方である。永年棟梁をしていた方で、今回で小屋明けは3回目。
 昨年夏は、三陸の新鮮な魚を背負って、奥さんと擬似ハネムーンにやってきた。おアック小屋前の残雪の融けること早いこと早いこと。
 
東京から参加は、木下さんといい、御年70歳。でも、まだまだ冬山もやり、元気溌剌である(蛍雪山岳同志会)。昨年は仙人温泉小屋を手伝だっていたが、2006年、2007年は管理人と一緒に池の平小屋の守り役で頑張ってくれた方で、池の平小屋のベテランです。

ということで、今年も賑ぎ賑ぎしく幕開けです。ご来店をお待ちしております。  店主敬白
                    

                     2009年7月2日 曇り
 
小屋明け入山前は本当に忙しい。畑の草取りは採っても採っても毎日出てくる。庭木の剪定もしないと庭が藪山に変身するし、4ヶ月も家を空けるので、立つ鳥痕をを濁さずで、部屋も倉庫も書庫なども、綺麗に片付け女房の心象も良くしておかないとである。
 雑用が多いところに、健康保険証が、7月1日で切れていた。今日は、娘の車に乗せて貰い市役所に行き、国民健康保険に切り替え手続きをした。意外とカンタン済んだ。昨日は、前の会社の保険証が切れていたのを知らず(妻の話では来年3月までOKということだったのに)、病院に行き、会計の時ビックリしてしまった。2万円でも足りない金額だった。いろいろ、勉強になる昨今である。畑で草取りをしていたら、仲間2名から携帯が入った。明日と明後日の打ち合わせであった。そして先ほど、東京に住む息子から「気を付けてと」電話があった。天気を祈るだけである。
             
        
                     2009年7月1日 雨
 ここのところ梅雨らしい空模様が続いている。家で寝るのもあと2晩である。昨日から嬉しい便りが目に付く。昨秋、東京の後輩のお見せで知り知り合った、登山が趣味の娘さんから、秋に結婚しますとメールが来た。相手はアウトドア関係のお仕事をし、山もなかなかの人のようである。お二人で自然に親しみながら、幸せなご家庭を築いて欲しい意味のエールを送った。その他、6人から、近況報告と、また行きますとの頼りになるメール(フム、フム!)。さらに、今日は2通のお手紙。一通は山を愛する女性から、結婚しましたと言うお知らせ。もう一通は富山のガイドさんから、親しみをこめた、嬉しい予約のお便りだったまた、昨年ちょっとしたミスをした、お嬢さんが、汚名挽回に、いや、「ゆっくり池の平でくつろぎに行きます」との、永年の友人のようなメールもあった(将来、池の平小屋の看板娘になるかも)。今年は、バイトの木下さんと、ゆっくり、お酒なんか飲んでいる暇がないのかもしれない。           
                     
                    2009年6月30日 雨
 
一昨日から、私が購入準備した荷揚げ品の梱包をはじめ、今日やっと完了した。ダンボール箱20箱や長尺もの3本である。中腰で働いたら、持病の腰痛がまた出てきた。7月4日の入山は大丈夫だろうか(ヤメヨウカナー、ホンマ)。
 話し変わるが、最近の冤罪事件について考えさせられている。
 2007年10月、小屋締め作業を終えて家で寛いでいたら、私服の警察官2名が訊ねてきた。「○月○日、家に居ましたか」。「近くで、怪しい人見かけなかったですか」。私の家から歩いて、3分程度のところに派出所が在るが、私の下山した日に、大胆にも、若い警察官が詰める、派出所に空巣が入り、警察手帳、手錠などを盗んだらしい。
 そんなことをつゆ知らない私に、愛知県警の威信をかけた物々しい捜査であった。「その日だったら、山から下りてる時で、富山県にいたことになります」。恐い、と言うよりも、厳しい面持ちの、彼らは、怪訝そうな顔で「そうですか、何か思い出したら知らせてください」と言って帰った。しかし、2日たったら、また二人の私服がやってきた。顔ぶれは違っていたが、プロレスラーのような体付き、威厳は一緒だった。「先日も言ったのですけれども、私はここに居ませんでしたから、分かりません」。「それは聞いていますけど、前回と違うことを言う方もいるので、一軒一軒聞き直しているのです」。その時、感じたのは、自分のアリバイは、いったい誰が証明してくれるのだろうか、と言うことだった。
 先日の冤罪事件の当事者、菅家さんは、善良な、気の優しい小柄な方で、警察官からの罵倒、圧力に負けて、屈するのですが、果たして、自分にアリバイがなく、権力を嵩に圧力をかけられたら、小柄で、気の弱い自分は、耐えれるだろうかと、自問自答してしまった。
 真に開かれた、公明な警察機構で、弱い人を守る人達であることを望みたい。ちなみに、犯人は遠地の県西部に住む若者で、昨年逮捕された。                                                  

                    2009年6月29日
 
丹精を込めている畑の野菜の生育がよく、収穫した夏野菜が食卓をにぎわしている。
49歳から、超ストレス職場に、2人の子供の学資捻出のために配転を希望した。緊張と怒号の職場のなかで、朝方はいつも仕事の夢を見るようになった。トラブルに追われる夢のなかで、脂汗を掻いていることもあった。
池の平小屋の小屋明け、小屋締めにボランテァで上がってくると、その時は仕事の夢は見ないが、下山の前夜はきまって、仕事の夢で起された。仕事は面白く嫌いな訳ではないが、家に帰ったら忘れたい日々だった。
 そんな、サラリーマンの時の息継ぎは畑だった。ただ、何も考えずに、無心に草むしりをしていると心が安らいだ。畑に来る昆虫をカメラで追った。土は不思議な力、魅力を持っていると感じた、安堵の世界であった。
ただ、池の平小屋の管理人となって、仕事の夢から解放されたが、畑に埋没できなくなったことが残念で寂しい。                 

                     2009年6月27日 晴れ
 
例年通り、今の時期は問い合わせが多い。それ以上に、池の平小屋関係者からの、確認の電話やメールが舞い込む。まだ、小屋明けしていないのに、もう、小屋締めの日程尋ねてきたり、写真家の方からは、下山(10/17早朝)を遅れさせれないかといった我がままも頂戴する。そのような方の要望を聞いて、昨年は小屋締めに入ってから2名の方が逗留された、飯場のような灰神楽のなかでである。それが、また、一体感を感じさせ山の面白みを倍化させるようである。
        
                         2009年6月25日
 一昨日、大阪から2本のメールが届いた。1本目はM氏より、生ゴミ用焼却炉を、池の平小屋にプレゼントするための、発送完了のお知らせだった。もう1本はやはり常連のM氏より、寄贈山岳写真を発送したというものだった。宇奈月のオーナーに確認したら今日着いたと言う。焼却炉はなかなか立派なものらしい。これで、生ゴミ捨て場に小動物の立ち寄りを防げる、Mさんありがとうございました。
 6月は環境月間である。各地の山では、真摯な登山者により清掃山行が行われている。
マスコミを見ると、温暖化の元凶ともいえる二酸化ガスの削減が大きく報じられ、身近な愛知では、来年開催のCOP10(コップテン・生物多様性条約会議)に対応した取り組みで、観察会の仲間達も忙しそうだ。また、環境省主導のエコ・アクション・ポイントなども経済界とタイアップして消費者のふところを刺激している。そんな動きにさらさら追随したわけではないが、本年は、「エコ料金」と称し、ご自分のゴミの持ち帰りに(空き缶も)にご協力される、1泊2食の登山者に限り200円バックすることにした。昨年オイル高騰の煽りで、ヘリの運送費が高騰し、それが、宿泊費に連動した。それへの、ジクジが発想の源である。       
                   
                           2009年6月23日
 昨日は、映画「剱岳・点の記」を見に行ったのですが、館内で不思議に知人に沢山出会った。前の勤務先の同僚3名。それぞれ家族同伴であった。さらに、知多自然観察会の先生ご夫婦。そして、パンフレットをみていたら「菊池さん〜」と声をするので見上げたら、昨年お泊りいただいた、Yさん、Tさんだった。Yさんは、初日にも鑑賞し、感想をくれた女史で、もう2回目の鑑賞であった(凄い!)。帰途、電話が鳴った。先ほど会った同僚であった。映画の感想と、池の平小屋のホームページをいま開いているとの嬉しい電話だった。夕方、メールを開くと知多自然観察会の山の先輩からだった。2007年に続き、今夏も、9名で池の平小屋に遊びに来るという、計画書添付の便りだった。今回も、元気な中学生3名の名があった。目的は、池の平山での観察会のようであった。今年は、仲間の皆さんが池の平に来てくれるので、楽しみが大いに増した。                                                  
                 

        2009年6月22日映画「剱岳・点の記」鑑賞
 車を運転する妻が休みとなったので、今日は映画鑑賞dayとする。目的は、もちろん「剱岳・点の記」である。映画館に行って、あまりの混雑にビックリする。開演50分前に着いたのに、券買所前は長蛇の列であった。開演は10時30分であったが、10時40分でもチケットを買えない有様だった。チケット購入後に走りこんで、50分ころに席に着いたら始ったばかりだった。
 
 この映画は、2007年に、3ヶ所のロケ地で、映画製作現場の厳しさを見させていただいた。
 最初は、9月26日、快晴の池の平では、午後から半日かけて平の池で撮影をしていた。池溏の前で、八ッ峰をみっめて剱岳への登頂ルートを探すシーンだった。ロケーションもよく、撮影も上手く行ったみたいで、夕食は、木村監督始め、浅野さん、香川さん、それにスタッフ陣もご機嫌のように見えた。木村監督は二人の俳優さんに、大変な気配りをしていて、だされた料理をしきりに勧めていた。その割りに、好き嫌いの多い木村監督は、夕食に、人参の入っていないラーメンを注文してきたが、大鍋でおでんを出したら、取り消してきた(残念なことに、この夕の味噌汁には人参がたくさん入っていたのでした)。
 
 翌朝、木村監督にインスピレーションが働いたらしく、「ルートを探すシーンで、ピーカンで、楽園のような場所は合わないだろう、菊池さん」といって、積んでいた石垣の石を、テント場に数十個転がすようにスタッフに命じた。「何を考えているんだ、自然の石がそんなに綺麗に並んでいるか?、もっとランダムに置くんだ」。私達や、俳優さんには優しい木村監督だが、スタッフには厳しかった。暗雲を示唆するような雲のきれめから八ッ峰が見えだしたころ、木村監督のgoがでた。その後、朝食が終ると、プロデュサーの菊池さん(監督の女房役で、チームの要)が小黒部谷の草を少し刈っていいかといってきた。

「道のないころの話だからね」と言って、急斜面のイタドリの群落の間を二人に登らせた。小黒部谷は、傾斜がキック滑りやすい。小屋の者でも登りたくないルートである。浅野さんと、香川さんは顔を蒼ざめ、息を切らして登った。

 映画を見ていたら、テント場とイタドリのシーンは、現場を見ていただけに、臨場感が支配した。その後、10月中旬に小屋締めをして下山後、2箇所で映画製作現場の追っかけをした。
 最初は芦峅であった。訊ねて行くと旧家で撮影をしていた。ガードするスタッフが目を光らせているので、遠巻きに見ていたら、秋に紅葉シーンを撮りにきた、スタッフの一人のマーチャンが顔を覚えてくれて「池の平小屋の菊池さんじゃない、何をしているの?なかに入って、入って」、「この方お世話になった、池の平小屋のオーナーさんですから」と、屋内の撮影現場へ入れてくれた。マスコミに公開の場面らしく、北日本新聞や4社のテレビ関係者もカメラを回していた。自然と私は前に押され、俳優さんたちへ2mほどのかぶりつきとなった(翌日の北日本新聞には私も小さく写っていた)。

 「バカヤロウ、もっとよく見ろ、それでは時代がでないだろう」。「ヤカンから蒸気出すぎだ、水入っているか」、「そこの床にごみ落ちてる」、「その柱、汚い」などなど、カメラを覗いた監督から、叱声がつぎつぎに飛び、私は緊張のしっぱなしだった。シーンは、担ぎ降ろされた行者(夏八木)と、柴崎、宇治の三名が囲炉裏で語り合うシーンだった。

 「夏八木さん、ここのとこ、いいアイデァありませんか。香川さんはどお、浅野さんは」、監督は、優れた俳優さん達とコンタクトをとり、その意見を織り込んで映画を作るという、真摯な映画人で情熱が伝わってきた。撮影の合間に、10分近く、香川さんとトンボを主体とした昆虫談義で盛り上がった。香川さんは、子供のころから昆虫が好きで、その知識は深いものだった。池の平で撮影の合間、近くにあった私のネット(池のゴミ採取用)で、さっとルリボシヤンマを捕らえたらしく、それを、すぐルリボシヤンマと同定した眼力は凄い。
 
 翌日の撮影現場は岩峅駅であること、この年の最後のロケであることを聞き、急遽、芦峅の民宿に泊まった。翌朝、芦峅在のプロのカメラマン高橋敬市さんに岩峅駅まで送っていただいたら、東映と書かれた大型車が横付けし、諸準備が始まったところだった。

 岩峅駅は富山駅に見事に変身されていた(映画作りは、小道具さんなどの裏方さんの力が大きいことがよくわかった)。これでもか、これでもかというくらいリハーサルは延々と続く。その中で少しづつ形が固められ、確かめられてゆく。

 そして監督のひらめきで「その、ポスト邪魔だ片付けろ」。そして、また「そこに、ゴミが落ちてる拾え」、「道が乾きすぎだ、もっと、散水」、「そこは、もっと自然に前を向いて歩いてください」と、激は飛び、全員に緊張感が漲ってゆく。そうして、やっと俳優さんの登場。リハーサルはさらに続くが、本番そのものとなってゆく。

 そんなとき、私を見っけた香川さんがウインクを送ってきた、そして隣の浅野さんに「池の平のおやじ、今日も来ているよ」といったようなことを、浅野さんに耳元でささやいているようだった。その後、浅野さんからも笑みが送られてきた。緊張感のなかあっけなく、本番が終った。

 監督の笑み、お礼の挨拶があり、エキストラの皆さんとの記念撮影がはじまった。集合写真が終ると、俳優さん、監督入り乱れのランダムな撮影会となった。私は控えめに離れた場所からそっと、それを写していたら、後から、香川さんがやってきて、私の肩に手を回し「菊池さん、一緒に撮ろう」といってきた。香川さんのおおらかさ、気配りに嬉しくなり、心が満たされた一瞬だった。
その後、時間を区切って借りていた岩峅駅は、一気に片づけが始まり喧騒の宴となった。
それらのことを、思い出し、反芻し、満ちた気持ちで「剱岳・点の記」を観た。心の充実とは、このようなことをさすのかも知れない。
                 
                     2009年6月21日
 朝、メールをチェックすると、東京のお客さんから映画観てきましたと入っていた。「菊池さんの、試写会の感想どおり素晴らしい出来栄えですね。CGなどのインチキもなく、撮影場所も忠実にこだわっており、山ヤもうなづける内容だと思います」とあった。昼になると、高知の女性のお客さんからお電話があり、感動が伝えられた。製作場面を見ているので、我がことのように嬉しい。予約の電話もあり、気忙しくなってきた。
                     
      
                     2009年6月20日
 今朝の朝刊をみたら、大きく映画「剱岳・点の記」、本20日全国公開、との囲みが眼に入った。いよいよ、始まるかとおもうと、笑みと同時に、木村監督やスタッフのみなさん、それに俳優の香川さん、浅野さんの顔が浮かんでくる。昼から、元同僚で、池の平小屋へ初ボランテァ参加のTさんとの打ち合わせである。携帯品のチェックのため、装備を詰め込んだザックを持ってきた。2時間ほど山談義を楽しみ帰ると、入れ替わりに宅急便が届いた。差出人を見ると、東映のプロデュウサーの菊池さんからだった。入っていたのは、「剱岳・点の記、オフィシャルガイドブック」(扶桑社、2009年6月10日刊、1.600円)だった。「帯には未公開スチール、撮影秘話満載」と書かれた、90ページもある大分な、ガイドブックであった。なかには、東映の菊池さんより「木村監督から、菊池さんにこの映画のメイキング本をお送りするよう、申し受けました」 と手紙が入っていた。木村監督の熱い気持ちが伝わってきた。夕方になると、近くに住む、女性のお客さまのYさんから「感動しました、また、見に行きます」とメールがあった。                                        

                      2009年6月15日
 オーナーに荷揚げのリスト書や、運営案を書いた私信、それに先日の息子の写真を送った。いよいよ小屋明けまぢかである。                                                      
  
                  2009年5月30日 霧雨

 結婚式会場につくと、”しおり”をいただいた。それを妻と手にし驚いた。しおりをひらくと、二人の写真が添えられていた。昨年8月に、二人で池の平小屋に登ってきた時に、池の平小屋の前で私が写したものだった。その下のWedding Storyを見ると、2003年5月に職場で知り合い、その後、共通の趣味として、ともに山に行くなかで愛情を深めたようで、小屋に着く前日に求婚したとあった。次のページに結婚披露宴の、席順表が書かれていた。テーブルには山の名が書かれていた。結婚翌日に伺うと、二人が登ったことのある山名をつけたという。嬉しいことに、私達のテーブル名は「池の平」だった。お嫁さんのご両親のテーブル名は「南岳」だった。南岳は二人で登った山であった。なかなか、両親への心配り、そして自分達の心情に忠実な、席順、”しおり”であった。スピーチは、巧みと言うべきか、百戦錬磨といった方がよいのか、男女とも上手な方が多く、笑顔と爆笑が絶えなかった。その後、お嫁さんのスピーチ。そして、父親の私の挨拶、〆に息子が述べて無事、楽しい祝いの会は終った。
以下に、照れくさいが、結婚式の雰囲気を感じて頂きたく、私の挨拶文を掲載する。
             

挨拶文

 窓の外は、新緑の木々に霧雨がまとい美しいですね。

 そのような本日、お忙しいなか、子供達の結婚披露宴においで頂き、誠に有り難うございます。

私は、花や野菜がとても好きで、ちっそ、燐酸、カリなどの肥料をやって育てているのですが、いま思えば、子供たちにはなにも与えていなかったなーと反省しています、それでも、不思議に親よりも、大きく育つものですね。

唯一、与えたといいますか、教えたのは、無理やり、有無をいわさず、赤ちゃんのときから、連れ廻した山登りでした。それは、最高に美しいものを見せたい、という気持ちからでしたが、たぶん、子供たちは迷惑だったでしょうね。

ところで、息子の名前をつけたのは、残念ながら、私ではありません。わたしの心の故郷、オアシスとも言うべき、中学の恩師で小原先生と言います。半年以上、苦労して考えたと言っていました。今、病床ですが、今日の日を喜んでいることでしょう。

私は今、不思議なご縁で、定年後の2007年より北アルプス・剱岳の一番山奥にある池の平小屋の管理人をしています、そこに、昨年8月22.23の両日、息子とお嫁さんが、2日、10数時間を掛け、私を訪ねてきました。もう夕食時の真っ暗な中でした。

二人の関係を知らず、人事、色恋に鈍い、私はお嫁さんを、ただの山好きな息子の仕事仲間と思い、息子の友達なら、お酒や料理でサービスしなきゃー、ということで連日宴会となり、お嫁さんの前で、楽しくも、しっかり酔っ払い小父さんを演じてしまいました。

その後、二人は2日かけ下山。3日後の夕方、東京駅から、電話がありました「今、東京に着いたのだけど、お父さん、じっは、一緒に行った女の人と結婚する予定だけど」。

私は、エッと言う驚きの言葉を飲み込み、「おめでとう、よかったね」の一言を発するのが精一杯でした。本当に、皆さん、初対面の方と会うときは、気を付けないといけませんね。でも、この経験が元で、今では息子より、お嫁さんのほうが自分の子供のように、身近に感じています。

さらに、とんで、昔、私どもの子供達は、親の誕生日に「肩たたき券」や「足踏み券」をくれました。その券が、今手元に1枚残っています。小学低学年にくれた「何でも券」です。長年使うときを待っていましたが、今日やっと私たちに安心と喜びをくれたことで、この券を使います。有り難う。そして、祝福に見えた沢山の皆様にも、心より篤くお礼を申し述べます。有り難うございました。    2009/05/30   
                    

 
                   2009年5月28〜29日 晴れ
 妻から「結婚式の挨拶文できた」。「そんなもの、何とかなるよ」。「本屋にゆくと、挨拶文の参考書有るそうよ」。7日前に、結婚を控えた息子から、親族への連絡と親族紹介、そして謝辞の挨拶頼むとメールがあった。ノンビリと何とかなる主義だったが、気になりネットで調べたら、なかなか、決まり文言があったりで、難しいものらしいことが分かった。あまり難しいことを言おうとすると、美味しくお酒も飲めないし、好きな写真も撮れない。第一それでは、まったく楽しくない。そこで、平易で喋りやすい文にし、忘れたときの用意にプリントアウトをしておいた。これなら、安心してお酒が飲め、祝福できる。
 と、いうことで、翌日(29日)、名古屋駅から7名で上京した。目黒のホテルで岩手からの親戚2名と合流した。「夕食はなんにする」と私。「居酒屋でもいいんでないの」と、岩手の甥っこ。そこで、目黒駅前の「和民」で賑やかに、愉しく親族郎党会議となった。一番若いのは女子高生。最高齢は70歳の従兄であったが、みんな若やいでみえた。「会話は美味しい」のテーゼでもあった           

                    2009年5月24〜26日
 
毎年、入山前のこの時期はことほか忙しい。今年は、大の友人であり、モンロー会の重鎮だった小野正史さん(享年55歳)が労災で亡くなり3年目。追悼集発行も軌道に乗せないと、と言うことでの原稿依頼が39通。
その他、小屋明け計画書を関係者などに10数通。お客さまからの問い合わせへの返事や礼状、それに、長男の結婚式まで、あと僅か。遠方の親族が多いため、調整など気苦労も多い。この3日間で、手紙を56通出した。右手は悲鳴を揚げているが、草ボウボウの畑も気になる毎日である。     
                  2009年5月19〜20日 晴れ 池口岳登山(南ア、飯田市)
 1995年(平成7)9月、前年に再建した池の平小屋に一人の画家を案内した。名前は山口剛生といい、愛知県知多市在住である。2〜3度、氏の個展を拝見しているうちに、「五竜岳」という作品に魅了された。後立山の名峰である、厳冬期の五竜岳が屹然と描かれていた。海の絵も沢山飾られていたが、彼に剱岳の魅力を描いて欲しいと誘った。池の平小屋で4泊したが、その時の酒席で、深田久弥の『日本百名山』を描くことに挑戦しないかと焚きつけた。それから14年、山口さんは大型のワンボックスカーに寝泊りして、日本行脚、100の山を追いかけた。
 毎年12月、私宅で開催しているモンロー会の望年会で、昨年は残すところ、あと6山ということだった。
 前置きが長くなったが、この登山は、南アルプスの聖岳、光岳などを描くための、展望スケッチ登山であった。メンバーは、このコースの経験者であり、モンロー会の重鎮の吉沢さんをリーダーにした3名パーティでテント1泊であった。天候に恵まれ山口さんはご満悦であった。
 山口さんはエッセをも、お書きになり、500ccの発泡酒を片手に、それを朗読され、気合が入っていた。この夜は、星も強く瞬き会話も弾んだ。
 今秋に南アの残りの悪沢岳。来年夏、水晶岳(黒岳)と鷲羽岳を20号のキャンバスにググット描けば『日本百名山』完成である。心から、炊きつけ人としては無事に完成して欲しいと願っている。
                       2009年5月17日 雨
 
隣市の「東海市九条の会」で、映画会を開催するというので見に行った。題名は「ビルマの竪琴」、中井貴一主演の映画だった。若いころ1年あまり歌声合唱団に入っていたことがあったが、改めて、歌のもっている力、素晴らしさを再認識し、さらに平和の大事さを感得した。見終えた後、脚本家のSさんと喫茶店に入り文化談義になった。登山も含めた文化活動が、いかに人間が生きるうえで大事かなどを、話し、下山後の再会を約束した。       
                    
                      2009年4月28日
 
GWは剱沢でスキーと計画していたが藪用で家にこもることになった。それにしても、山での事故が多いような気がする。京都府立大の山岳部の遭難には胸を痛めた。昨年晩夏、雨の日に同大の山岳部の子たちが四名池の平山を登りに来た。ほとんどが1〜2回生のようだった。雨なので、中に入れコーヒーを勧めた。寒いのか、甘いものに飢えていたのか、砂糖やクリープを3〜4倍入れ、ニコニコとしてお代りをした。なんでも、新入生が沢山入部したとシッカリした女性部員が述べていた。遭難者にこの子達がいたか不明だが、子を持つ親として慎重な行動で事故を回避して欲しいと願う。       

                      2009年4月20日
 今日は常連さんお二人からメールがあった。お一人は大阪の俳人の方で、M氏。池の平小屋の,半分潰れたドラム缶製の焼却炉、見るに忍びないから、1基寄付してくれるという,あり難いご連絡だった。もう一人は、富山の山屋さんで、「2008年・昨年のときめき」欄に顔写真が出てしまった方だった。承諾を得ないで載せたので、抗議かと思ったら違っていた。抗議されたらの、抗弁は決めていた。「うちは、いい男、イケメンしか載せない主義ですので」。でも、道義が必要と考え「イケメン最優先で探したら、Nさんしかいなくて。いい男は辛いですよね。ゴメンネ」と、最大限の賛辞で返事のメールをNさんにおくった。

                      2009年4月15日
 今朝、朝日新聞の朝刊を見ていたら、素敵な男の顔が載っていた。「剱岳・点の記」の監督をされた木村大作氏である。
 記事を読むと、今の世では稀有な強い信念をもった、一途な人であることが如実に書かれていた。一昨年の池の平での撮影から、先日、2月2日の試写会まで、4回ほど、お顔と撮影風景を拝見する機会があったが、木村さんほど男気のある男はそういないと思う。大きなエールを送り、「剱岳・点の記」の成功を心から祈りしたい。そして、木村さんまだまだメガホン取ってください。お願いします。



                      2009年4月11日

 昨日、映画鑑賞のことを書いたが、なんと出口へ続く通路にの脇に、「剱岳・点の記」のパンフレット
と、200円の割引券(右端)が置いてあった。パンフレットは2月2日の試写会で配布されたものと同じだった。
 室堂の除雪完了の報がテレビから流され始めたが、パンフレットと割引券の写真を見ていると、山の季節が来たという気になる。皆さん「剱岳・点の記」見に行きましょう。素晴しい映画です。


                 2009年4月10日 晴れ
 今日は、今年3回目の妻との映画鑑賞日。題名は「鑑識・米沢守の事件簿」、相棒と好きな映画を見るのもいい。出かけるときに、電話台の上に枯れ葉が一枚あった。拾おうとみたらチョウだった。観察するとルリタテハだった。羽化したてのようで飛べずにじっとしている。周りを探したが羽化殻はみっからなかった。3月18日に、茶の間で古新聞を片付けていたら、羽化したばかりと思われるカマキリが袖につかまっていた。あたりを確認しても、これ1頭だけだった。古新聞は、雨のあたらぬ縁側に置いてあるがそこに産卵し羽化したのだろうか。暖冬とはいえミステリーである。暖冬といえば、ランを1鉢、冬中庭に置きっぱなしだった。しかし、いま大きな蕾を数多くつけている。      

                 2009年4月5日、晴れ
 管理人も、今日で御年64歳。誕生会は娘の手作りの「ケーキ」で昨晩祝っていただいた。入山まであと3ヶ月、弱った足腰をシッカリ鍛へ、今シーズンも頑張りたい。皆さん応援お願いします。
                 
                 2009年4月4日 
 
名古屋駅前の登山用品店「駅前アルプス」から、加藤幸彦著「絶対に死なない」が届いた。昨年6月に、登山用品を買いに入ったら、加藤さんこと「ドンちゃん」の本があった。これはとおもい、サインを頼んだら、「今度、何時来るか分からないけど、来たらサインをしていただいて送りますから、ご住所を頼みます」だった。加藤幸彦さんはカナダ在住だった。昭和43年に、白馬の小屋番をやめ、愛知県東海市の製鐵会社に勤め、すぐにJRCCという岩登りの会に入った。名古屋の千種で例会が開かれていた。その近くにチロルだったか登山用品点があった。そこで、声を交わし、名古屋駅まで車で送ってくれたのが加藤幸彦さんだった。そのころはもう、名古屋の岳人によく知られたクライマーだった。JRCCの先輩たちは、みな「ドンちゃん」と呼んでいた。是非、また豪快な、加藤さんに一度お会いしたいものと願っている。      

                 2009年4月3日 晴れ、桜麗し
        「熊谷榧さん、80歳にて回顧展開催おめでとう
@ 山岳画家として著名な熊谷榧さんの回顧展が、3月30日より、4月5日まで東京都品川区「セシオン杉並」(03-3317-6611、杉並区梅里1-22-32、9〜21時)で開催されている。
 榧さんとは不思議なご縁で、3度山行をともにし10数回お会いしている。もう30年も前に、登山史研究のため、戦時中の山岳雑誌を見ていたら、お父さんの高名な画家、熊谷守一氏のことが書いた記事があった。生活が困窮し、木曽の山中でいかだ流しをして糊口をしのいでいるという記事で、守一の知人の画家が尋ねて書いたものだった。それを複写して榧さんにとどけた。1年以上たってからだったろうか、「熊谷ですが、菊池さんですか」という電話があった。「はぁ、どちらの熊谷さんですか」と戸惑うと、「熊谷榧ですが、数日後、名古屋で個展を開くのですが、1日空けるので、近くの山を案内してくれませんか」。この時は、鈴鹿の藤原岳を案内した。こんな感じで、愛知や岐阜で個展があると声がかかり、恵那山、冬の御岳山などをともにした。榧さんは、スケッチブックを首にかけて登り、3分程度の休憩で同行者に迷惑をかけずスケッチを1枚仕上げ、20〜30分の休憩で水彩画をあっという間に書き上げた。榧さんの線は太くためらいなく、一気に山が描かれるが、その絵のように榧さんの性格も明るくシンプルで、心服している画家である。昨年11月、下山後上京して、熊谷守一記念館を山仲間と訪ねた。留守で、お電話をかけたら、お元気そうだったが、足の調子悪く山に登っていないというお返事だった。 今回は上京できないが成功をお祈りしたい。榧さん、今後も頑張って私たち山岳画ファンを喜ばしてください。

 Aこの日は、妻と名古屋に出かけ二つの展覧会を拝見した。一つは画家の「片岡珠子展」であった。時系列に展示されていたが、浅間山を書き始めた、昭和30年代後半から筆致がかわり、大胆な線と色が私の目を引いた。山屋には嬉しく、富士山、妙義山、立山(図録のみ)、羊蹄山などの山が書かれていたが、とくに、富士山と対座し、格闘された連作は圧倒された。
B昨年日本山岳写真協会・東海支部の方が2名宿泊された。その方から、名古屋の中央、栄町での「2009-山・われらをめぐる世界」展のご案内をいただいた。天気はよく、桜をみながら会場まで歩いた。大型サイズの、四季おりおりの山の写真が出迎えてくれた。私も、若い頃は中型のカメラを担いで、山の素晴しさを写そうと懸命だった。だから、写真を見ていると、作者の鼓動が伝わってきた。苦労が、喜びが手をとるように理解できた。写真を見ていると、青春の日が甦り、山の素晴しさ、厳しさを反芻した。
山の季節も間もなくである。         

                   2009年4月2日 曇り
 今日は我が故郷の県、岩手県の花巻東高校が選抜高校野球大会決勝で負けたこともあるが、それ以上に悲しい日となった。昨年、8月12日テントで宿泊された青年がいた。
 東北の名門大学を休学し、不思議に、丁度1年前の4月2日に鳥海山をスタートして、日本の背稜部の峰々を登り、九州の屋久島までテント生活で行くというスケールの大きい、山旅をされている大学生だった。
テント申し込みノートに記入された住所が、たまたま私の故郷の県と同じだった。それで、話し込んでいるうちに彼の稀有な企画を知った。長旅を物語るように髭は伸び、ザックもズボンも綻んでいた。
小屋ではタバコを置いていないが、彼が所望してきたので、泊まり客に聞いたら、2名の方が2箱をカンパしてくれた。風呂を勧めたら疲れているので、夕食が済んだらすぐ寝るので宜しいとのことだった。それで、寝酒用にビールを1本とオレンジをあげた。

 行程は北方稜線だった。快晴の翌朝、差し入れのジュースを手に、少し遅めに彼は出発した。鉱山道から小窓経由で剱岳に向うのかとおもったら、池の平山方向に登ったので、大きな声で、鉱山道経由のほうがいいと叫んだ。かなり荷物が重いし、池の平から小窓に下りるハイマツ帯の道が明瞭でないからだった。彼は、考えていたが「池の平山を登りたいです」と大きな声で返してきた。「じゃ、気をつけてねー」。
今年の年賀状に屋久島まで行けましたか、というようなことを書いて、差し出したが返事はこなかった。
今日、午後、盛岡に住むお母さんから突然にお電話があった。伺うと、8月20日頃、高瀬入の湯俣の晴嵐莊近く出合った方がいて、北鎌尾根を目標にしていたという。それから先は長野県警、富山県警の懸命の捜査でも手がかりは一切現れないということで、藁にすがるおもいで、私にお電話をかけてきたご様子だった。私は力になれないが、ただ、どこかで生存されていることを信じたい。
                    
                       2009年4月1日 晴れ
 今日は世にゆうエプリールフール。知人から電話がかかってきた。彼は今シーズン、小屋明けから小屋締めまで働くことに決っていた。入山の打ち合わせかと気を回したら違っていた。2月に大病を患い入院していたという。それで、今シーズンは、家で静養するので入山できないという、困った電話だった。 お大事にとの言葉と、彼の、「来年は必ず入山します」いう言葉に少し慰められたが、頭が真っ白になってしまつた。早速、ボランテァ組織「モンロー会」の仲間に電話と、ホームページで<アルバイト募集>の呼びかけをはじめた。どなたか、手伝ってくれるかたおりませんか。
         
                       2009年3月27日 晴れ
 
今日は、妻と映画を鑑賞してきた。題名は「釣りキチ三平」。テレビのない子供のころ、私は、映画少年であった。岩手の、人口7〜8万の中堅の町だったが、映画館は6〜7館あった。そのほかに、学校、自治会、青年団などの主催で、外に大型の白いカーテン状のものを張り、見せてくれることもあり、必ず見に行っていた。しかし、大人になり、登山優先に生活を切りつめたのでごぶさたとなった。
妻も映画が好きで、女性の日などの格安日には、率先して見に行っていた。そのうち、子育てが始り、生活に忙殺されるようになると、テレビで我慢するようになった。
 しかし、どういうわけか、一昨年(2007年)6月で、退職し、山小屋の管理人になる前後から、妻と映画鑑賞に行くようになった。「母べえ」、「相棒・絶対絶命42.195Km」,「まぼろしの邪馬台国」、「蟹工船」、試写会「剱岳・点の記」などで、鑑賞後、食事をしながら感想をかたり合うときが、我が家の至福となりつつある。 
 
                      2009年3月20日 晴れ
今日は、近くの喫茶店で登山会議である。私は地元、愛知のの自然観察会の会員ですが、一昨年は観察会の仲間が、12名(子供さん3名含む)が池の平小屋まで、自然観察をしながら、遊びに来てくれた。その様子は池の平小屋のホームページ「池の平の住人」にリンクしている。なんと、今年も、観察会の仲間が池の平小屋に登ってくるという。今日の参加者は8名。トレーニン山行の計画から始まり、装備、ルート、食糧などワイワイ盛り上がった。午後は、はじめて小屋明け山行に参加するT君と打ち合わせ。元職場の同僚で、同期ながら2歳年下。なかなか気が合う仲間である。3ヶ月間、トレーニンすれば立派な戦力になると、ビールを飲みながら檄を飛ばした(奥様、ご馳走様でした)。  
                       2009年3月2〜11日
 
上京期間中は、基本的に9時から16時30分は図書館で頭を三角、目を四角にしていた。2日の夕、昨年事故死された方のご遺族にお会いした。お泊り頂いたときの印象が好く、ご夫婦仲も素敵で、素晴しかった。目的はお二人のことを書いて良いかの許可だった。「いいですよ、協力します」。前日は、山仲間と埼玉の武甲山に登ってきました、と柔和な笑みをたたえる、ご主人から出た言葉は、嬉しいご返事だった。
 3日は、やはり昨年お泊りの方、2名とお会いした。お一人は私の長年の山友の知人だった。この夕方は気温が一気に下がり小雪が舞い始めていた。恵比寿の後輩がやっている居酒屋にいったら営業前だったので、近くの焼肉店に移行した。Uさんは秩父から山行の帰りであった。お顔が寒さで真っ赤になっていた。それをみたOさん「リンゴみたいで、可愛い」。山屋は山の話をしているときが一番楽しい。すぐ友達になってしまう。白いほっぺも、黒いほっぺも、みんなUさんのように赤いほっぺになり、池の平賛歌で盛り上がった。
 4日は、やはり昨年はじめてお会いした山屋のIさんと上野でデートとなった。彼はT大の事務職で、上京後半は彼のお力添えで,T大のゲストハウスに2泊し、T大の膨大な図書室での閲覧を許された。東京オリンピックのころ、上野の聚楽で板前をしていた私にとって上野は懐かしい町である。裸足で歩きまわりたい気持ちで、各々の人生観、期しかたを肴に、山談義を深めた。
 5日は、昨年入山のおりギアーオイルをボッカしてくれた、Iさんと懇親した。同じ歳ながら、彼は気力、体力が充実し若く見える。笑顔もいい。我々の世代は、第2のスタートに踏み出した方が多い。家庭でも、趣味でも、なにか目的をもって生きてゆけば、素敵なものに触れ合う機会があると思う。私は、ただ好奇心だけで生きているきらいがあるが、いまさら生き方も変えられそうもない。
 6日は、たまたま、広島から横須賀に出張していた青年と懇話した。彼は池の平の池が好きで何度も佇んでいた姿が印象にのこっていた。酒はやらない彼だったが、焼肉屋で生ビールを舐めて頂き、剱岳を語り合った。彼は、大学の山岳部ではよく剱岳で合宿したそうである。仕事が忙しく、たまたま池の平にこられ命の洗濯をされていたようだ。日本の国を守る仕事をされている、彼の口調は静かで穏やかであった。日本が平和であれば、また池の平でお会いする機会があるものと願った。

 7日は、昨年池の平小屋で2泊した、息子夫妻と食事を楽しんだ。新婚の二人を見ていると、自分達の新婚のころを思い出し、さらに嬉しさで胸が一杯になり、一人はしゃいでしまった。
 8日は、T大のゲストハウスで一人でのんびりした。豪華なホテル並みの設備で、エコノミーホテルとは桁違いだった。
 9日はT大の図書館詣で。120年の歴史をもつ大学だけあり、蔵書の数は、200万冊素晴しいものだった。嬉しかったことは開架方式であり、探していた鉱山関係の本が沢山あった。夜は、仕掛け人Iさん、それにIさんの先輩で、私の馴染みのTさんとで、筑波駅頭で会食となり、その後は3人でゲストハウスに泊まりこみ、山岳談義を深めた。
10日、再度東京に向い図書館へ。その晩は南千住で1泊。翌日、青春18キップで7時間かけ帰宅した。     

                         2009年3月1日
 登山史や鉱山史の資料をもとめ、今年はじめての上京。昨秋は上野の安宿(1泊3700円)泊まりだったが、今回は南千住のエコノミーホテルとした。1泊2700円で、77室あるとのことだった。外人が多い宿と紹介されていたが本当に多かった。小さな風呂に入ったら先客がいて「コンニチハ」と挨拶された。浴槽を覗いたらなかなかの好青年だった。オーストラリア人であること、冬のスポーツはやらないこと、京都が目的なことだけが、何とか解かった。室内、トイレ、お風呂、ロビーなどの注意書きは、すべて横書きばかりで異国に行ったような気になった。仔細に観察すると、不思議に高齢者の日本人の方が3〜4人我が家のように暮らしていた。訊ねると12〜3年泊まっているという。「俺より古い人が何人かいるよ」と温厚なAさんは語った。後日、調べて知ったのですが、以前はこの辺は「山谷」と呼ばれ、日雇いの労働者などが沢山暮らしていた下町であった。Aさんのお話では、この宿も以前はそのような方の宿だった。「ちょっと、部屋を空けたら泥棒が入り財布を盗まれてねー、油断も隙もありゃしなかった」。「夜になると、宿に泊まれない連中が入り込み、廊下で寝ていることもあった。オートロックになり、安全になり住みやすくなった」。このホテルも、数年前から、労働者の宿からバックパッカーなど格安の宿を求め移動する外人さんに狙いをつけたらしい。確かに、21時以降は玄関はオートーロックになり、また、スタッフは外国語の堪能な方が多かった。ヨーロッパ、アメリカ、中国人の方が目立ち、長逗留の方もみえた。情報はインターネットで得ているようで、玄関脇のパソコンは大人気であった。若い女性群が「スシ、テンプラ、ギンザ」などと言い、歓声を揚げる姿をみていると微笑ましかった。食事は質素で、コンビにで買った、カップラーメンを食べる方が多く、食パンを焼き、間に買って来た野菜、ハムをはさんで食べる青年もいた。私も彼らと一緒だったが、違うのは発泡酒を、ひそかに飲むことだったかも知れない。   

                      2009年2月15日 曇り
 昨年1年分の出来事を「2008年、私的な私的な、池の平小屋備忘録」として纏めた。超膨大な記録となった。池の平小屋で検索されればショットしたらヒットしてみれるかもしれない。その、付録として一昨年に続き宿泊されたお客さまの年齢構成などを数値化してみた。現在宇奈月温泉のオーナー宅には古い宿帳があると思うので、それらもデーター化すれば時代を感じる面白いことが分かるかも知れない。


2009年2月2日 曇り 
  
妻と「剱岳・点の記」の試写会に招かれた。撮影シーンを3ヶ所で見学していたが(池の平、芦峅、岩峅)素晴しいシーンの連続に感動してしまった。最後に、映画に携わった方達の名前が出てくるが、そこには、肩書きや役名の紹介がなく、ひとくくりに「仲間たち」と紹介されていた。池の平小屋の「剱岳・点の記」の関係者のサインボードにも、プロデュサーの菊池さんが「仲間たち」と書かれたのを思い出し、試写会終了後、傍に見えた菊池さんに尋ねると「あれは、木村監督の思いなのですよ」と語った。
 映画が終ったあと、ロビーに出ると木村大作監督が近づいてきて「菊池さん、新しい名詞です。宜しく」といって、下記の名刺を渡してくれた。「宣伝マンですよ」、の言葉に映画人の気迫がこもっていた。


2008年11月7日 曇りのち雨
 
今日は曇天、仕事はちっともはかどらない。しゃがんで、縁の下に潜っての力仕事は疲れて厳しい。今日は下山日、何とか縁の下の土砂は、めどをつけたいと頑張るが一人ではまったく進まない自然の中での人間の小ささをつくづく感じる。この日はまったく人影もなく、人目を盗み、残飯をあさうカラスしか見えない。いちおう、小雨降りだした午後3時過ぎ、戸締りも終え、満たされない気持ちで下山する。
人のいない道には、雨にも関わらず、サルが集団でのびのびと戯れるていた。2時間近く歩き、温泉で4日分の汗をながし、電車に乗ったときには、なんとなく、寂寞とした安堵感におそわれた

2008年11月6日 晴れ

 
今日は平日、登山者は見えずと思っていたら、外の方で音がした。元東芝山岳会員で、度々ボランテァ登山をされている安沢さんだった。高齢にも関わらず、気力、体力に満ちた方で。まだ、元気で仕事をされているという。何台かあるチェンソーの修理、保全作業をされていた。池の平小屋にも、2台あるので要点をおそわった。昼過ぎ、どやどやと5〜6名登山者が見えた。リーダーらしき方が「安沢さん」と声を掛けた。東芝四日市山岳会の方たちだった。なかに一人見覚えのかたが混じっていた。ひょっとしたらとおもい声を掛けた「作家の立松和平さんですか」。「はい、そうです」と、汗にまみれた、お顔に笑みをうかべた。しかし、こんなに汗をかくとは、昨夜は歓迎会で宴会だったのでは、と感ぐってみたくらい汗をかいていた。リーダーの方は根本さんといった。山岳雑誌「岳人」の取材で立松さんを、山岳宗教遺跡を、ご案内してきたといった。自分の紹介に、剱岳・池の平小屋の管理人をしている菊池といったら、根本さん相好をくずした。1週間前に、川崎に出張があり、川崎工場の山岳会のメンバーと飲んだとき、「先月、池の平小屋の小屋締めをしてきた。楽しかった」と、小元さんと佐藤さん言っていましたよ。なんと、小屋締めを、はじめて手伝っだってくれた、小元、佐藤両氏の知人だった。世の中は狭い。この晩も一人、もの思いにふけり、独夜と酒をたのしんだ。ここには、赤塚不二夫さんの漫画にでてくる「うなぎネコ」にそっくりの、しっぽをもった野良猫(ヒョットしたら山猫)が棲んでおり、退屈しない。

  2008年11月5日 晴れ
 この日も、自衛隊の方たちの働きは目覚ましかった。しかし、小屋の床下に入り込んだ土砂の書き出しは遅々としてすすまなかった。佐々木さん、神谷さん達は、仕事の関係で、この日夕方下山した。この
夜は私一人であった。幸い平林さんにボッカしていただいた、食糧と缶ビールはあり、昨晩に続き外で薪ストーブ焚き静かな山を楽しんだ。頭に去来したのは、人間の命と、自然の営みであった。接点があるのかないのか。私の頭の中では「なるようにしか、ならない」という、想念に満ちているのだが、ビールの作用でか思考は進まない。時折、タイム・スケールという言葉が夜星のようにきらめいた。

2008年11月4日 晴れ
 急遽、友人の平林さんも参加となり、二人でボランテァとして入山した。平林さんは若い頃、丹沢の小屋で3シーズン、アルバイトの経験がある方で、池の平小屋にも2年連続手伝いに上がってきてくれている根っからの、山好きである。この日は、佐々木さんの婿さんと友人の4名で、本館の屋根にビニールシート掛けや膨大な土砂、残材の片付けで一日が終ってしまった。私は寝袋持参で、平林さんは仕事もあり、新妻の待つ名古屋に下山した。この日、自衛隊の方たちの働きはめざましかった。
 夜は、佐々木さんの娘婿の神谷さんと二人だけだった。神谷さんにお会いしたのは前日が始めてであった。私の手作りの料理で、ビールを飲みながら、薪ストーブに手をかざし語りあった。神谷さんは山には無縁の沖縄出身の方であった。単車で北国を疾走中に奥様と出会い、結婚されて三重県住まいであった。洪水の翌日、山の様子がおかしいということで、佐々木さんと二人で危険を侵し、中道越しに小屋近くまで入った時の様子を聞いた。お話しから、山の厳しさ、自然のもつ厳しさを感じたが、一番重く、強く認識したことは「山は生きている」、であった。それは、池の平小屋の管理人をしていても感じることであった。山は人間の意志とは違うところで動いている事実であった。神谷さんとは初対面であったが、旧知の友のように内面をさらけ出し、星達天空のささやきを聴いた。の夜は中庭からは、下界の明りが弄ぶように揺れていた。

2008年11月3日、晴れ

 
  9月中旬にに入山した友人から、9月1〜2日にかけ三重県の鈴鹿山系に「ゲリラ豪雨」が降りアッチコッチで土石流が発生し、藤内小屋、日向小屋がかなりの損傷をうけたと聞いていた。気になりネットで検索したら、未曾有で重大な自然災害であることが分かった。知人の経営している山小屋も再起が危ばまれるような被害を受けていた。自分の目で確かめたいと思い娘と出かけた。登山口から10分も歩くと谷添いの道はなく、巨石が圧倒した。日向小屋の谷側の基礎はえぐられ、建っているのが不思議なくらいだった。そこから、2〜30分巨石の間を巡り、藤内小屋に着いた。自然の力、土石流のすさまじさを恐怖の面持ちでみた。小屋主の佐々木さんとは古くからの知り合いで、子供が赤ちゃんの頃から我が家はお世話になっていた。ここ2〜3年は小屋明け前のトレーニングや、池の平小屋にくる仲間達の足試しによく利用させていただいていた。何人かのボランテァの方が手伝っていた。佐々木さんたちご家族も疲労の色が如実にみてとれた。すぐ、娘と二人お手伝いを申し出た。娘は残材の整理、から、石垣用の石の運搬と重労働に汗をながしていた。私は材木の釘抜きやコンクリート練り、大工さんの真似事をしたが、冬を前に仕事が捗らないことに危惧し、一度、家に帰るも、明日から再度入山し、4日ほど泊り込みで入ることをきめた決めた。帰途、温泉に入ると、久しぶりの労働に手足の筋肉がこわばった。
2008年、10月18日。晴れ
 
ボランテァ4名を含めて、6名無事に宇奈月に下山しました。仙人ダム周辺に咲いていた、素朴な色合いの野菊に「あぁ、里は近い」と、懐かしさに似た切なさを感じた。下界に降りたのは107日目ぶりで、それから2日後、やっと妻と娘の待つ家に帰りました。
今シーズンの詳細は後日アップします。

ここからは、昨年の入山前のことを書いたものです。
2008年、7月4。 晴れ
今日は何という暑さだろう。明日もこの陽気ならバテそうだ。昨日宇奈月峡谷鉄道の売品担当の方から電話を頂いた。池の平をモチーフにした、お土産の検討依頼したら、石のアートが出来たという、手に取るのが楽しみだ。あと30分で出発。ただただ、皆様との出会いを楽しみにしております。どうぞご安全にお出で下さい。では。
後日アップします。
               
2008年7月3日。小雨
山を覚える前の私は孤独な青年だった。なにをしても自信がもてなかった。詩やエッセイの真似事。ボクシング。カメラなどに打ち込んだ。27歳の時結婚し、岩手県遠野の恩師宅を私を含め3組の新婚さんが集った。恩師はしきりに頭を傾げ、妻に聞いていた「いっから、こんなに喋るようになった」。妻は「付き合った時からです」とはにかみ恩師に返事した。
今日は、朝から「点の記」ラーメンのアイデァが次々に舞いこんだ。無理だから止めたらとの忠告もあった。「なんとかなるさー」。これが私の返事だった。
今夏、池の平小屋で演奏会を開催する。昨年は、小屋にある歌集(茜山岳会・歌集)で歌声喫茶に、4〜5回早代わりした。高齢者が多く、老眼鏡がないと見えないという苦情もあった。が、歌の好きな方が沢山見えた。今年、演奏をしてくれるのは、野崎さんというまだ20代の青年である。
一昨年夏、隣の仙人ヒュッテから、奥さんと散歩にこられた。池の平小屋の歴史を話したら興味をもたれた。昨年またヒョッコリ現れ、腰から布に包んだ包みを出したら、「いまから尺八を吹きますから、ここで吹いていいですか」。あり難い好意だった。民謡かなと思ったら、歌謡曲、童謡などレパートリが広く、それもポピーラーな曲が多かった。彼は、奥さんと、必ず早月尾根を登り、剣沢におりてのコースを選んでいる。いわば通のコース、剱岳の魅力満載のコースである。二人はいっも笑みを浮かべ、澄んだ風を感じさせる。野崎さんの尺八の音も澄み、池の平周辺の山々にこだまするものと期待している。池の平小屋は本当にいろんな方が吹き寄せられてくる稀有な山小屋だ。今年はどんな音色、どんな風が吹くのだろうか                 
2008年7月2日。晴れ
あと、2日で池の平小屋に入る。書斎(ゴミ置き場ですけれど)を整理していたら、30年ぐらい前の、北アルプス朝日小屋の、元気なお嬢さん達の写真がでてきた。女の子達3〜4人が小屋前の岩で遊んでいる(小学3〜5年か)。この小屋は家族づれなどで、2度訪れ懐かしい山小屋だ。
もう、登行意欲は減退したが、また行きたい小屋だ。
突然、ラーメンが頭をかすめた。
昨秋9月末、東映の「剱岳・点の記」撮影隊が来た時、心を込め、採算を無視し料理をつくった。
それも、割り振りが徹底せず、2回戦の(3回戦まで)予定で出したものが、1回戦で皆、胃袋に入り、2回戦の人達は、小皿叩いてチャンチキオケサ状であった。この忙しいのに、監督のアシスタントさんは、「監督、ラーメン希望です。ご飯なしです。ラーメンには、絶対に人参なしでお願いします。カップ・ラーメンでもなんでもいいです」。
この後、サービスに、おでんを出したら、件の、アシスタントさん、「監督、ラーメンいらないです」。翌朝、朝のシーンを撮影したら、監督はじめ、カメラ担当者は、小窓の展望台に、精力的にでかけ。残った俳優の香川さん、浅野さん、責任者の菊池プロデューサーたち20名余は、次のロケ地、二股にむかった。そのとき無線から、監督の生の声で「あと10分で着く、ラーメン6人前頼む」。を聞いた。昨晩から、ラーメン好きを承知していたので、ラーメンを出しながら、いたずらっぽく「監督、”監督ラーメン”のネーミングで池の平でラーメン出してもいいですか?と、香川照之さんなみの演技力で言ってみた。「なに、監督ラーメン」。私は一瞬首をすくめた。「監督て、なんの監督か分からないだろう、そうだ、”点の記ラーメン”にしなさい」。話は、木村大作監督のアイデァで即決だった。それで今年は、木村大作監督をうならせるような、味の創出を目指し、スタッフや、富山のラーメン通に「点の記ラーメン」のアイデァを出すように薫陶している。

2008年、7月1日。快晴
管理人は愛知県大府市在住です。日本の中央あたりで呑むと、巨人の牧原投手が出た町ですねと、一時はよく言われました。でも時々郵便物が大阪まで行って帰ってくることに辟易します。2月にも大事な書類が難波まで行き反故です。昨晩、杜父魚ブログを主宰している、元共同通信社の幹部を歴任された古澤さんにまた夏山シーズン、池の平小屋の小屋明け入山ですと告げた。
古澤さんは練達の敏腕な記者であり、政治にシッカリとピントを合せてきた方で。多数の読者の支持を得ている。朝、日課のように古澤さんの杜父魚ブログを覗くと「北アルプス”池の平小屋”が小屋開き」の見出し。嬉しい応援砲だった。早速、大阪の常連さんから「多くの応援団の声援ありますね」と、今後を示唆するようなメールがあった。
夜になると、富山の紳士ボッカ隊の池隊長から、女性で凄いボッカさん居るのだけれど、連れていってよいかと打診があった。重い荷は担ぐが、ノーマルエンジンだから酔うような軽油はいらないという。また、ほかに希望者が沢山居るというのだ。「アー、皆さん、母のような、甘えれるアットホームな小屋が欲しいのだ」と感じ、いまでもある、ふるさと釜石市の岳人たちの揺りかご「しゃくなげ山荘」(無人の素敵な山荘・岳人達が管理している)に思いを馳せた。今年は、禿頭を掻き毟り、「山屋さん達の、故郷に、母に成るぞ」と叫んで見たい。
担当者は、小窓の展望台に、精力的にでかけ。残った俳優の香川さん、浅野さん、責任者の菊池プロデューサーたち20名余は、次のロケ地、二股にむかった。そのとき無線から、監督の生の声で「あと10分で着く、ラーメン6人前頼む」。を聞いた。昨晩から、ラーメン好きを承知していたので、ラーメンを出しながら、いたずらっぽく「監督、”監督ラーメン”のネーミングで池の平でラーメン出してもいいですか?と、香川照之さんなみの演技力で言ってみた。「なに、監督ラーメン」。私は一瞬首をすくめた。「監督て、なんの監督か分からないだろう、そうだ、”点の記ラーメン”にしなさい」。話は、木村大作監督のアイデァで即決だった。それで今年は、木村大作監督をうならせるような、味の創出を目指し、スタッフや、富山のラーメン通に「点の記ラーメン」のアイデァを出すように薫陶している。
                       
2008年6月30日。晴れ
今日は友人との、入山前の鈴鹿での最後のトレーニング山行日。しかし、腰痛治まらず、天気もドシャ降りということで、昨日ドタキャンした。直後に、池の平小屋のファンから明日午後ゆくとメールがあった。これは、やはり中止して正解かとおもいきゃ、起きたら、なんという快晴。これまでの、2回は雨の山行だったのに。なんとも、摩訶不思議、複雑である。
日々、池の平小屋のボランテァ組織「モンロー会」の皆さんからのメールや、お客さまからの問い合わせも増えている。また長年のお客さまからの、安全祈願を込めての「鐘」もピカピカに化粧され宇奈月のオーナー宅に着た。いよいよ小屋明け近しである。今日は、終日荷上げの梱包作業か?(フッー)。
今日突然に訪ねて来たのは大手A新聞のH氏だった。素敵な新妻を伴ってである。彼は”池の平”が好きで、昨夏ファンセをを宇奈月温泉にまたせ一人登って来た(こんな身勝手な山男、今もいるんだね)。学生時代は、丹沢で山小屋のアルバイトを2〜3年経験した、根からの山好きである。池の平小屋は、丁度トイレ建設で大忙し、「働かない奴にはビール飲ませないヨ」H氏は大工が苦手なようだが、持ち前の低音で、皆を引きつけ、いい仕事をしてくれた。初々しい奥様は、かなりH氏のペースに洗脳され、そこそこに低山逍遥し、自然に魅せられ、「いつでも、好きな山に気をつけて入ってらっしゃい」という顔で、私との山の話に聞き入っていた。自然が好きという奥様の顔をみていると、私達の結婚時代もこんな感じだったのかと、奇異な幻想に囚われてしまった。私達の新婚生活の場は、山仲間の溜まり場で、週末や山行帰りは、青春の熱気と、気負い、社会に対するジレンマなどを梃子に、酒の匂いとタバコの煙で混沌としていた。懐かしい。当時は政治、経済も山屋の会話の範疇だったが、今はオブラートで包んだ、取り留めない会話が多くなったような気がする。