
今年度も全国の高校生のみなさんからご参加をいただいた国際哲学オリンピック(IPO)国内予選。審査に携わった立場から、みなさんから提出いただいた哲学論考について、全体的な講評を述べたいと思います。参加者のみなさんも、これからIPOへの参加を考えている方々、これからのいろいろな機会にお役立てください。
課題ごとの全体講評@ "Everyone has his or her own philosophy.”
―誰もが自分自身の哲学を持っている。
この命題を通じて、そもそも「哲学」とは何なのか、ということを考えさせられた人も多かったと思います。誰もが「哲学」を持っているとしたら、それはどういう意味での「哲学」なのか。専門の哲学者でもない人々が「哲学」に関わるとしたら人生のどんな場面なのか。専門の哲学者の存在意義はどこにあるのか、など、いろいろと興味深い論点も見られました。参加者の皆さんの独自な哲学観、「哲学についての哲学」も垣間見えて興味深いところです。
さらに言うならば、専門の哲学者たちの思索を具体的に参照してみると、さらに「誰でもの哲学」と「専門の哲学」との関係も見えてくると思います。こういった方向で、思考を進めてみるのもよいでしょう。
A It must be acknowledged that all the sciences are so closely interconnected that it is much easier to learn them all together than to separate one from another. If, therefore, someone seriously wishes to investigate the truth of things, he ought not to select one science in particular, for they are all interconnected and interdependent. (Rene Descartes)
―すべての学問が相互に結合していて、一を他から分離するよりも、すべてを一度に学ぶ方が、はるかに容易であることを、よく心得なければならない。従って、何びとでも真面目に事物の真理を探究しようと欲するなら、どれかただ一つの学問を選んではならない。(デカルト『精神指導の規則』より)
この課題を選択した人は少なかったのですが、「知」の意味と役割を考えた興味深い論がみられました。何か一つの仕事をするのに、どこまでの知識が必要か、ということを具体例から考えた考察も面白かったところです。ただ「すべての学問を一度に学ぶ」ことは、デカルトの時代ならまだしも、知識の高度な専門化・細分化が進んだ現代ではそのまま実行することは現実的に不可能なのは自明の理です。「専門を持つ」「知の分業」を持ち出して反論するのは簡単なことで、それは現実に起こっていることです。
「専門化」「分業」という知の形に問題点があるからこそ現代にこのようなデカルトの命題を改めて見直す意義があるのであり、この命題の「精神」を現代的に生かすにはどのような道が考えられるのか、ということまで考えを進めてみると、哲学的な知識論としてさらに深まると思います。
B The passing from the state of nature to civil society produces a remarkable change in man; it puts justice as a rule of conduct in the place of instinct and gives his actions the moral quality they previously lacked. (Jean-Jacques Rousseau)
―人間には自然状態から市民社会へ移ると、顕著な変化が起る。つまり人間は本能の代わりに正義を行動の規範にするようになり、人間の行動は以前にはなかった道徳的性格を帯びるようになる。(ジャン=ジャック・ルソー『社会契約論』より)
この課題を選んで、「社会」がどのようにして成り立つのか、哲学的に深く考えた論考もたくさんみられました。「本能」「自然状態」や「正義」「道徳」についても、独自の視点から解釈した議論には興味深いものがありました。ただその反面、こうした概念について自分なりの理解だけで解釈し、論を進めようとした文章を多く見受けました。
このコンクールでは必ずしも「元の命題を正確に理解しているかどうか」を採点材料とはしませんが、自分が理解しているかぎりでの「本能」や「正義」の概念が、当のルソーの命題と向き合う上で適切かどうかを見直す姿勢も欲しかったところです。特に「正義」の観念を、(「正義の味方」の影響から?)「悪を懲らす」意味で考えている人は多かったようですが、こういう意味での「正義」は哲学的にはむしろ派生的なものですし、課題のルソーの一節に当てはめて適切かどうかという問い直しもほしかった。
自分が普段何気なく使っている言葉の意味を問い直して突き詰めるのは、哲学的な思考の大事な作業のひとつです。C Humans are condemned to be free. (Jean=Paul Sartre)
―人間は自由であるべく宣告されている。(サルトル『存在と無』より)
この課題を選んだ人がいちばん多かったのですが、「自由」の意味や、人間の自由な行為の成り立ちについて考えた力作もたくさんあったように思います。ここでも、サルトルの一節で語られている「自由」とはどういうものなのかをどう理解するかが鍵です。特に、権力・圧政からの強制がないという意味での「社会的な自由」と、どんな社会条件にあろうと、人間に備わった「根源的な(実存的な)自由」とを十分に区別せずに論じた議論も見受けられ、そのために考察が不十分に終わっている議論もみられました。
「宣告」「刑」といわれるほどの自由は、まずもって後者の自由です。圧政下の社会に生まれようと、それに服従するか、抵抗に立ち上がるか、という自由は残されている、というのはこの自由ゆえです。それが時としては人間に「刑」といわれるほどの重荷になる、という問題です。こういう自由と社会的な自由とは決して無関係ではないのは当然ですが、二つの自由を混同したうえで論を進めるのと、いったん明晰に区別したうえで両者の関係を考えるのとは別のことです。
「同じ言葉で表されているからといって、同じ事柄とは限らない」ことに思い至り、概念を適切に区別するのも、哲学的な思考としては大切なところです。予選審査を終えて
それから、改めて、哲学的な論述をするうえで特に心がけてほしいこととして、次のようなことがあります。
・異なる立場、自分とは反対の哲学的視点を想定すること。
・自分なりに理解した言葉の意味を見直すこと。他の人の用法とどこまで一致しているか確かめること
・重要な言葉の意味は、きちんと定義してから議論を進めること
・「経験」「実例」によって議論に具体性を持たせるのはよいが、哲学的な反省を加え、もっと普遍的な妥当性を持たせるように努めること
・単なる自分の価値観、人生観に終わらせず、他者に通じる主張として、きちんと論理的に根拠づけること
こうしたことは、哲学的な論述以外の場面でも、心がけておくと有用でしょう。