| Godavari便り −2009.3.18-24 藍沢さんの現地レポート | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| アーカイブス |
Godavari便り2009.9.29号と時間は前後しますが、3月に単身GBAGエリアを訪問された、藍沢紗百合さんのレポートを掲載いたします。7日間にわたる詳細なレポートで、大変興味深く、読み応えのある内容になっています。是非ご覧ください。 目次(タイトルをクリックすると記事の先頭へ移動します)
はじめに私は1998年に大学の授業の一環で行われていたインドスタディーツアーに参加し、その後1999年から5回ほど「GBAG(ゴダワリ河水域活動クループ)」の活動エリアを訪問している。GBAGとはダム建設による水没予定地域に住む住民(先住民族)の生活や権利を守る活動をしているSNEHA・KRUTHI・PRAKURUTHI・MAITHRIの4つのNGOの総称である。日本ではMTKが主催する勉強会やフリーマーケットに参加していた。ここ数年はインドで聞いた「皆さんの暮らしを変え、皆さんの社会を変えてください」という言葉に動かされ、地方に移り住み地域おこしの手伝いや自給自足の生活に取り組んでいた。しかし止む終えない事情が重なりこれを断念し、 昨年(2008年)の夏から地方の中心市街地に居を移して再び給与を得ながら生活している。 東京に住んでいるときと変わらない一般的なサラリー生活をしながら「地方に越してきたのにこのままでいいのか?」と自問する日々が続いていた。生活の場を離れ、今後どこで何をして生きていくのか考えたかった。そんなときに楠原先生に誘われ今回のスタディーツアーに参加することにした。しかし、ツアーが突然中止になり一人で行くことになった。インドへは3月15日出発し28日に日本に帰国した。この旅日記には、GBAGの活動エリアに滞在した18日から25日の様子を記している。私が見たもの聞いた事実をできるだけ詳しく書くように心がけた。GBAGエリアの様子が少しでも伝わればうれしい。 2009 インド一人旅スケジュール
換金レート
コルカタからチェンナイへ移動3/18 晴れ [kolkata → chennai]
4時起床。身支度を整えて宿を出る。まだ薄暗い道を歩き、4時45分すぎ、マザーテレサの活動の拠点であったマザーハウスに到着。そこにはマザーテレサが安置され、彼女の活動の展示室があり、各施設のボランティアの受付、そして毎日朝と夕方ミサが行われている。2階にあがり6時からはじまるミサに参加する。15日にインドに来てから、毎日朝夕通ったミサも今回が最後となる。まだ整理しきれてない思いを胸にマザーハウスを後にする。 明るくなり少しずつ活気づきはじめた街で、共同ポンプで体を洗う人、チャイ屋でチャイを飲んでいる人、道路を掃除する人、車を磨いている子ども、集まって新聞を読んでいる人たちなどを目にしながら宿に戻る。 道路沿いによく見かける小さな日用品屋は、自分で店に入って行き商品を選んで買い物する店とは違うつくりだ。家の窓辺で商売をしてる感じで、客は大きな窓の外から商品を指してとってもらうというスタイルだ。窓のようなところは地上より50センチほど高くなっている。店が閉まっているときは、観音開きの扉が閉まっているので店かどうかはわからない。開いていれば、店員が店の中央に座っていて、手を伸ばせば届く範囲に店員を囲むようにして商品が並べてあったり、ぶらさがっていたりする。言葉がわからなくても欲しいものを指してとってもらう。接客はいたってスムーズである。 朝ご飯は、そんな日用品屋の一番手前の木の枠のガラスケースに並べてあったパン(3Rs)とチャイ(2Rs)。チャイ屋はオープンカフェのスタンディングスタイルが多い。日本で私は朝食にパンを食べることはめったにないのだけれど、宿のタイムスターホテルの前、マザーハウスへ行く途中にもパン工房があり、また配達している人とすれ違ったり、日用品屋に並べてあったり、コルカタの朝はとにかくパンを食べたくなる。 一口食べてみると、こんがり焼けた小麦の香りが口に広がる。炭で焼かれているであろう焼き加減と、小学校のころ給食で食べたシンプルなコッペパンを思い出させるパサパサ具合がとても私ごのみなのだ。けれど残念なことに、昨日食べたライムジュースか、焼きそばに追加したカッテージチーズがあたったのか、お腹の調子が悪い。 お昼にチェックアウトする。一泊200Rsのシングルの部屋が空いてなかったので、300Rsでツインの部屋を一人で借りていた。16日?18日の2泊分を払う。今日の予定は飛行機でチェンナイに移動するだけだ。夕方の飛行機なのでせいぜい14時にここを出ればいい。そのままエントランスで待つことにする。ひとつ離れた席で『地球の歩き方』を読んでいる30代前半くらいの男性に声をかける。彼は私が韓国人と思って話しかけなかったのだとか。宮崎出身ということで話が盛りあがりあっという間に時間がすぎる。 背中にリュックを背負い両手もふさがっていたので、公共機関を乗り継いでいく気力はなく、空港には宿に前もってお金を払っておくプリペイドタクシーで行くことにした(250Rs)。信号待ちで止まっているとき隣のタクシーの運転手さんが、私の乗っている運転手さんに「どこに向かっているのか」と話しかけてくる。16日コルカタに着いた日も空港から市街へ来るとき、他の運転手さんに宿の場所をたずねる風景にもでくわした。窓を閉め冷房をきかせた移動式個室のような車はなく、窓全開でちょっと大きな声で立ち話じゃなくて、信号待ち話する運転手さんたち。 道路には、大型バス・ミニバス・セダン・自転車・人間が足踏みする足踏み式リキシャー・自動三輪車のオートリキシャー・リヤカー・牛そして人が混在している。信号・歩道橋はなく道路を渡るのは一苦労だ。私から見るとコルカタは、ごちゃごちゃしているように見えるけれど、信号がないところで譲りあったり、路面電車優先であったりして、ある一定の秩序があるようだ。 宿があるサダルストリート周辺から空港まで約40分。タクシーを降りると空港の敷地内は出迎えや見送りの人でごったがえしている。両肩にかけているA4サイズのトートバックがぶつかったり、ひっぱられたり。その度に体勢をくずし、背中に背負っている頭から腰まであるリュックが重くてよろける。あっちにフラフラ、こっちにフラフラ千鳥足で建物の中に向かう。早く来といてよかったぁと時計をみるとまだ15時前。飛行機は18時10分発だ。チェンナイ行きのカウンターに並んでいたのは、95%がインド人のビジネマン風の男性で、私はその後ろに続いた。しかし、いくら待っても開かず。1時間以上たったところでカウンターが開き、いざ私の番となり電子チケットを見せると、ここでは発券できないとのこと。指示されたカウンターに行くと、上役であろうと思われる白髪でメガネをかけた年配のおじさんが座っている。そこには列はなく、カウンター越しに私と同じように電子チケットを持ったお客が、寄ってたかってそれぞれが言いたいことをいいあっているではないか。ここで逃げ腰では飛行機に乗れない!と意を決して私もそこに突進! 無事に発券してもらう。ふぅー、疲れた。ひと休みに街でよくみかけたインドのコーヒーチェーン店「cafe coffee day」でカプチーノを注文(30Rs)。高い、しかも味はおいしいとはいいがたい。 息をついたのも束の間、保安検査は出発順ということで、また待つ。とにかく混雑している。椅子を探すが待合室の椅子は幅が広いが数が少ない。椅子に座っているのは大部分がビジネスマンたちで、彼らはときたま携帯で話しながらパソコンで作業をしている。つづいて、女性と子どもがひとつのイスに腰掛けている。その傍らにはお父さんも座っている。一族で一角を占拠していると思われるところ空席には、新聞や雑誌などが置かれていたりする。「空席だ!」と思って駆けつけるとたいがい汚れていて、それを見てグッと疲れが増す。子供のようにカートに腰掛けるほど体が小さい訳でもない。椅子をあきらめて土産屋に行こうとする。しかし、ガラス張りになっている店の中はすでに満員御礼だ。 こうして待つ場所を探していたら、カタカタめくられる掲示板に自分の飛行機が表示された、が、出発時間が変更になっている。チェックイン荷物のX線検査の長蛇の列に並ぶことなく、係員がいる通路を通りようやく搭乗口へ。しかし疲れた。 搭乗口の真ん前で椅子に座って待つ。次々と流れる場内アナウンスから私の乗る便らしき便名が聞こえてくる。でも目の前の掲示板は変わらない。どっちなのよ?と警備員さんに質問すると搭乗口が変更になったとのこと。ほんとに?!?、掲示板変わってないよ?。このとき英語を少しでも聞くことができてよかったぁと感じた。あのまま待っていたらと思うと冷や汗がでる。 飛行機まで移動するバスにやっとのことで乗車。隣に座ったおばさんの手にあるチケットをちらっとみる。が、おばさんに気づかれ、おそらく「アナウンスしかなかったからねぇ???」とベンガル語で話しかけられる。すいません、言葉がわかりません。 ようやく飛行機に搭乗し、胸をなでおろす。朝参加したミサの神聖な気持ちがふっとび、短時間で人にもまれ、すっごい疲労を感じたのと同時に、飛行機に乗るためにこんなに疲れるところがインドっぽくてふき出し笑いした。 コルカタからチェンナイまでは電車だと10時間はゆうにかかるのに、飛行機では1時間半しかかからない。機内食のサンドイッチを平らげ、機内誌にぱらぱらと目を通す。1ヶ月後に国と州の両方の選挙を控えているため各党の選挙アピール誌と化している。 あれ、見たことある風景。田んぼの畦をサリーを着た女性が列になって歩いている写真が目にとまり、本文を読む。やはりいま向むかっているアーンドラ・プラデッシュ州のダムの紹介だった。この地域ではダムの建設を巡って、建設中止と建設促進の双方の意見が対立している。この雑誌を読む人たちは、ダムが建設されれば恩恵に浴する人たちだろう。でも、その裏側でいろいろな事が起きてるのを知ってるのかなぁとまわりの乗客をみまわす。 チェンナイに着けばスバラジュ(「PRAKRUTHI」代表)に会えると思うと待ち遠しくて、いつもは夢中で読むはずの小説が頭に入ってこない。20時すぎチェンナイ空港に到着。荷物を受け取り、出口へ足早にすすむ。ごったがえす人々はすべて彼に見えた。ゆっくり歩く。アッ、と思ったけれど、別人だった。出口からはなれていくにつれ、人は少なくなっていく。なにかあったのかな。そう思ったときだ。声が聞こえた。「ハァ〜イ!」って大きく手を振るスバラジュを見つける。「また会おうね」って5年前に約束した彼が目の前にいる。思わず涙がこぼれる。ラッキーなことに、彼は今年のMTKツアーのお迎え担当だった。本来はツアーメンバーが10人以上いたはずなのに、私一人でも迎えに来てくれたのだ。「一人でも来てくれてうれしいよ」と。 空港から宿のYWCAへは自動三輪車タクシー通称「オートリキシャー」で移動する(250Rs)。電灯に照らされた看板に書かれているタミル語を見ると、南インドに来たなぁと感じる。3、40分くらい景色に見とれているうちにYWCAに到着し、清潔で静かなエントランスに迎えられる。 部屋に荷物を置き、すぐさま再びオートリキシャーに乗って街にくりだす。夕食は久しぶりの白いご飯と数種のおかずがのっている定食の「ミールス」とビールだぁ、と心がはずむ。ところが、入店を断られるのだ。心待ちにしていたので、何軒かあたってみた。ところがである。なんと、選挙期間中なので22時以降はお酒をだしてくれないとのこと。ガッカリ。結局ビールはおあずけ。YWCAに戻る途中、食堂で米にマトンとサフランなどのスパイスが炊き込んである「ブリヤニ」と野菜カレーを食べる。相変わらずお腹の調子が悪い。 FIN
チェンナイからサトゥパリへ移動3/19 晴れ [Chennai → Sathupally]
7時に起きて、YWCAで朝食をとる。50人くらいが入る食堂には、ざっと30人くらいの人がいる。そのほとんどが中年のインド人の男女で外国人は5人もいなかった。朝食はビュフェ形式で、コーンフレーク・トースト・オムレツなど西洋式と米粉と豆でできている酸味のある真っ白な蒸しパン「イドゥリ」・薄い揚げパン「プーリー」・数種類のカレーなどインド式の両方が用意されている。これからインド料理が続くので、トースト2枚とイチゴジャムをセレクトする。インドの食パンは、日本の食パンに比べて一回り小さくて8枚切りの厚さだ。ここのチャイは自分で砂糖を入れられるので、砂糖なしでいただく。インドの飲みものといえば、牛乳に砂糖を入れ紅茶を煮出したミルクティー「チャイ」と思っていたが、コルカタでは市街地と空港でコーヒーチェーン店が繁盛していて、ここでもコーヒーのほうが人気だった。最近の経済の発展で個人所得があがっていることもあってか、インド人の嗜好が多様化しているようである。 出発まで時間があるので、二人でYWCAからエグモア駅と逆の方向に歩き、通り沿いの雑貨屋で買い物をする。街は次々とキレイな建物がつくられていて、都会の装いに変わっているのだけれど、まだまだ歩道に陥没があって、下を見て歩かないと危ない。こんなところが微笑ましい。 時間に余裕を持って駅に行き、プラットホームの番号を確認する。インドで中長距離を列車で移動する場合は予約が必要である。席は以下のように7つにクラス分わけされている。といっても、すべての列車に7クラスが用意されているわけではない。
売店で水を買っていると乗る列車がホームに入ってきた。乗る車両まで移動する。さらに指定席の場合は、車両の入り口に貼ってあるリストで自分の名前と席を確認してから乗り込む。今回は始発駅なので名前を確認するのが楽だった。14時半、定刻どおりチェンナイ中央駅を出発。 チェンナイからGBAG活動エリアの近くのビジャワダ駅まで移動するときは冷房つきの2段寝台(2A)をいつも利用していた。今回冷房つきの1等座席(CC)を初体験する。車窓は、寝台車両よりも大きくて同じように日差しよけのフィルターが付いていている。しかし鉄格子はない。席は、45度くらいリクライニングできて、適度に足を伸ばせて前の人との間隔も狭くはない。荷物を網棚の上に置く。明るいからなのか、頭上にあるからなのか、防犯用のチェーンをかけている人はいなかった。スバラジュとお互いにこれまでのことを話して過ごす。 車内では「チャーイ、チャイ! コ−ヒー、コーヒ!」と中年のおじさんが低音の声を発しながら両手にステンレスの牛乳タンクを持ってやってくる。誘惑に負けチャイを注文すると、デミタスカップサイズ(120cc)の紙コップにティーパックを入れ、恐らく砂糖と水が混ざっている温かい牛乳を注いでくれる(5Rs)。チャイは町で飲むと2Rs〜4Rsなので、ちょっと割高である。味は、カップの底の方は紅茶がよくでているけれど煮出してないので物足りなさを感じる。 停車する駅にもたくさんの売り子がいる。今度は停車中に乗り込んできた売り子からインド風コロッケのサモサを買う(3Rs)。スパイスがよくきいていて、辛くなくて「もうひとつちょうだい」って思ったらすでに列車は進んでいた。サモサもテルグ語の新聞に包まれているとおしゃれなスナックになる。あれもこれもと次々につまんでいたら、お腹いっぱいになってしまった。 車窓にはのどかな田園風景が広がっている。茂っている大きな椰子の木がここがインドであること教えてくれる。 寒くて起きる。うたた寝していたようだ。冷房つき車両は、冷房がききすぎていて長袖を着ていても寒い。隣に座っているスバラジュは、どこから入手してきたのかテルグ語の新聞を読んでいる。「チャーイ、チャイ! コ−ヒー、コーヒ!」と聞こえてきたので、起きぬけコーヒーを注文する。チャイと同じ大きさの紙コップにインスタントコーヒーの粉を入れ、チャイと同じミルクタンクから恐らく砂糖と水が混ざっている温かい牛乳を注いでいる(5Rs)。ようはティーパックかインスタントコーヒーの違いということか。甘いカフェオレのようなコーヒーを片手に、地平線に沈んでいく太陽を眺める。なんて贅沢な時間だろう。 車窓に映る自分と目があう。外はすっかり暗くなった。小腹がすいてきたので温かいトマトスープを注文する(5Rs)。チャイと同じサイズの紙カップに注がれた。トマトがドロドロしていて、酸味がきいている。味わい深くてパンを浸して食べたくなる。他にも車内販売は、プーリーとカレー・ブリヤニ・パンとコロッケ・オムレツ・辛く味付けしてある煎り豆「チャナ」・コーラなどの炭酸飲料にポテトチップスなどのスナック菓子などひっきりなしにやってくる。ただし、アルコール類はない。 暗闇から光がポツポツと増えはじめ、列車はだんだんとスピードを落としはじめた。下車したビジャワダ駅のホームの電光時計は21時を表示していた。駅までムレリさん(KRUTHI代表)とリアーズさん(ファヤーズさんの弟)が、白い中古のジープMTKカーで迎えに来てくれていた。運転手のスリヌさんも以前ツアーでお世話になったので、みなさんと再会をはたす。 2004年に参加したスタディーツアーで利用したホテルの地下にある食堂で、ギンギンに冷えたインドビール「キングフィッシャー」で再開の祝杯をあげる。ゴクリ。味はすっきりしていて炭酸が強く日本で飲むよりずっとおいしい。インドの薄焼きせんべい「パパド」とポテトフライをつまみにしてビールを嗜む。近況を話しているうちに料理が運ばれてくる。ご飯と野菜カレー、それにチキンカレーに舌鼓を打つ。やっぱりご飯がいい!カレーには。 腹ごしらえも完璧。いよいよGBAGのひとつNGOであるSNEHAのオフィスがあるサトゥパリへ。ここから車で3時間の旅だ。駅周辺は明るいものの、少し離れるとたちまち辺りは暗くなり、ときどき小さな町を通りすぎていく。私たちの乗る車の音がうるさいのではと思うくらい、町はもう寝静まっていて、街灯に照らされた小さな寺院だけが明るかった。ひんやりとした風が気持ちいい。 幹線道路から左にまがり、車のライトを頼りに、舗装されてないでこぼこ道を進むと、右手にポツンと蛍光灯に照らされた白い建物が姿をあらわした。車はそこで停まった。 「ここ?」一人でタクシーで来てたら運転手さんと口論になっていたであろう。こんな夜遅くに別の場所に連れてこられたのだから。スネーハのオフィスまではバスターミナルから何度か歩いたことがあり、幹線道路から左に入ってすぐの住宅地の一角だったはずだ。聞けば移転したとのこと、詳細は明日ね、っと。腕時計の針は1時近くをさしていた。 バダラチャラムからサトゥパリに引っ越してきたというムレリさんと、リアーズさんはそれぞれバイクに乗り、運転手のスリヌさんはそのまま車で自宅へ帰り、オフィスにスバラジュと滞在する。夜は番人の人が雇われていて、セキュリテリィは万全だ。 FIN
ファヤーズ家で朝ごはん、結婚式を見に行く3/20 晴れ [Sathupally]
寝入ってしまって、起きたのは9時近く。ファヤーズさん(SNEHA代表)がオフィスにすでに来ていた。最近ダイエットをはじめたという彼は、6時半に散歩にでかけ、8時にオフィスでシャワーを浴び、朝食をとりに家に帰るのが日課だという。 朝食をごちそうするというので、家に一緒に行く。メニューは、奥さんお手製の「イドゥリ」。つけあわせの「ココナッツチャツネ」(削ったココナッツに数種類のスパイスと塩で味付けされているドロっとしたスープ)のスパイスのあわせ方が絶妙で、思わずおかわりする。このおいしさだったら、ファヤーズさんの体型がシャツのボタンがはちきれんばかりになるのもうなずける。 オフィスに戻りファヤーズさんから新しいオフィスの説明をうける。スネーハはオフィスを昨年(2008年)9月に移転し、レンタルから所有になったとのこと。新しいオフィスは敷地が広く、後ろには小学校、庭の前には畑が広がっており、少し遠くに製紙工場やユーカリの畑が見える。幹線道路のほうをむけば、以前のオフィスの屋根が少しだけみえる。
建物は前のオフィスの2倍以上の広さで風通しがよく、明るい日差しがはいる。
みんなの様子を見ていると、スタッフ同士が以前よりもフレンドリーになったと思う。5年前はスバラジュはファヤーズさんを「さん」づけで呼んでたはずが、今年は呼び捨てになっていたのもビックリした。ファヤーズさんとプラサードさんがオフィスをでたり入ったりしていた。 夜はファヤーズさんの一番下の娘さんとリアーズさん、リアーズさんの娘さん、息子さん、そして私の5人でリアーズさんの教え子の結婚式を見に行く。出発時間は21時をまわっていた。結婚式は夜にはじまり明け方までやるのが、こちらでは一般的だとのこと。リアーズさんは高校で英語の教師をしている。インドはお見合い結婚が主流なのだけれど、今回は教え子同士ということで、結婚前からお互いを知っていたという。 会場の入り口では、縦横に整列して並べられた白熱灯が縁となっている新郎新婦の似顔絵の看板に出迎えられた。結婚式というより広場で行われているお祭りのようだ。会場は2つに区切られていて、左側には式が執り行われている一段高い壇があり、その正面にはプラステックの客席がライトで照らしきれないほど並べてある。右側には照明のケーブルがはりめぐらされ、青、赤、緑と色とりどりの電球がぶらさがっている。提灯はないものの、まるで日本のビアガーデンようだ。 まずは儀式を見るために照明に照らされた壇の正面最前列の客席に座る。この位置からだと、壇上であぐらをかいている新郎の背中と新郎の顔の前にしかれた大きな布、それを持っている人たちが見えるだけで、新婦が見えない。どうやらお互いの顔が見えない状態で、お祈りの歌なのか、祝詞みたいなものがあげられている。日本の神前結婚式や教会での結婚式のような静けさはまったくなくとても賑やか。人がゆうにすれ違える通路を挟んだ壇の左側では、テンポのいい音楽がけたたましく生演奏され、壇の正面の客席に座っている参列者たちは、おしゃべりしながら見ている。 外国人という理由からか、儀式が行われている壇のふちに座ることになり、間近で見る。しかし、ゆっくり見ていられたのもつかの間だけで、参列者から質問攻めに遭う。しかし、言葉がわからないので、参列者席に移動して、一緒に来たファイヤーズさんの娘さんたちにテルグ語から英語への通訳をお願いする。子どもたちの英語の発音は聞き取りやすいのに、私の発音が悪くて、何度も聞き返される。わかるまで一生懸命聞き返してくれる真摯な姿に頭が下がる。子供たちの通訳に感謝。
ビアガーデンのようなところへ移動する。そこは食事会場だった。ビニール製のテーブルクロスがかかった会議室によくある長方形の長机が、5脚ぐらい横一列に向かい合わせに並べられている。前の人が使った紙皿などがそのまま置かれているのでどの席に座るか迷ったが、列の一番端っこに一緒に来た子どもたちと横一列に並んで席に着く。列にある程度人が着席すると片付けがはじまった。先頭の人は、プラステック製のバケツを持ってグラスだけを片付けている。次の人は、テーブルクロスを端から紙皿も巻き込みながらはいでいき、最後の人は、テーブルクロスからはみでてしまった汚れを拭いていく。あっという間に片付けが終わった。 新しいテーブルクロスが敷かれ、紙皿が配られる。ブリキ製のバケツを持ったご飯を盛る人が過ぎていくと、続いてカレーを盛る人がやってきて、続いてお菓子盛る人が・・・と料理ごとに流れ作業で配膳している。私も見よう見真似でご飯、ヨーグルト、バナナをもらう。儀式は5分も見てなかったが、雰囲気は充分楽しめた。 結婚式を途中で切り上げオフィスへ戻るとスタッフたちは庭で夕食を食べていた。夜になるとオフィスのまわりは、人が通ることはほとんどない。涼しい夜風にあたりながら、夜がふけいくのを見ていた。 ただ、スタッフたちの夕食のおかずなどが入っていたビニル袋が風に吹かれて飛んで行くのが気になるのだった。 FIN
サトゥパリからデヴィパットナムに移動3/21 晴れ [Sathupally → Devipatnam]
朝、案の定、前の畑に夕食のビニル袋の残骸を見つけたが、対処する技量はないので何もしなかった。7時半にムレリ家の朝食におよばれされる。 幹線道路をはさんでオフィスの反対側、ファヤーズ家よりもうちょっと奥に行ったところにある3階建ての建物の1階部分が彼の家だった。 奥さんと娘さんに再会する。おさげをしていた娘さんが、パンジャビ服の女学生になっているのに驚いた。しかも英語は発音、語彙ともに私よりも上になっていた。彼女ももう16歳だ。同い年の友達のようにはしゃいで二人で再会をよろこぶ。 朝食は定番のイドゥリ。彼女と一緒に食べる。彼女は大きくなったらエンジニアになって、世界を舞台に仕事をしたいとのこと。友だちがいるからバダラチャラム(以前住んでいたところ)のほうが楽しいなど、たわいもない話をしながら楽しいひと時を過ごす。 学校に行く彼女を見送り、ムレリさんとスバラジュと3人で、ツアーの写真をまわし見しながら思い出話に花を咲かせる。はじめてあった日のこと、またその場所、食べたもの、「今は何してるのかなぁ?」と。本当にたくさんの参加者がお世話になった。 昼近くオフィスにもどり、ファヤーズさん、ムレリさん、会計のプラサードさんにお礼を言って、スバラジュと彼の活動エリアであり家もあるデヴィパットナムへMTKカーで向かう。 MTKカーとは、ダム建設の水没予定地域の住民のために、村から研修センターへの移動手段としてMTKから送られた中古車だ。使う人がガソリン代を払うシステムになっている。今回はスバラジュが使うので、走りだしてまもなくガソリンを入れた。ちなみに、MTKカーは、ファヤーズ家のほぼ向かいにあるスネーハの運転手兼お手伝いさんのスリヌさんの家に駐車されている。 スネーハのオフィスがあるサトゥパリから、デヴィパットナムまでは車で3時間の旅。私は以前この区間をバスで移動したことがある。乗り換えが3回必要で、悪路の山道を走るからバスがすごく揺れて気持ち悪くなったり、お昼時に停車したと思ったら、食堂での昼食休憩だったり、山道で停まったかと思えば、トイレ休憩で、この山道でどこでどう用をたしたらいいかわからずおばちゃんたちに教えてもらったりした。こうして車で移動していると、そのときの思い出がつぎつぎとよみがえる。ちなみに、バスだと車の倍の6時間かかるとのこと。スバラジュはこの道のりをバイクで行き来するというのだから、すごくタフだと思う。「さすがに夏はバスを使うよ」とスバラジュは言う。事故にあわないことを祈るばかりだ。
もうすぐゴダワリ川を渡るところかなぁというところで、緑の山々から、灰色の岩がむき出しになっている無機質な景色に変わる。砂埃の先に見えてきたのもの、それはダムにつながる運河の造成現場だ。そうだ、この地域はダム建設問題をかかえていたのだ。これが運河!?、MTKの文集でみた写真よりも、想像を超えてはるかに大きい。どれだけ大きいダムなのか計りしれない。スバラジュの説明によれば、建設材料は近くの山を切り崩し、労働者は賃金が低い別の州から連れてきているという。このダム建設の影響は、この近辺の州だけではないようだ。
労働者の人たちの家と思われる三角錐を横にし、ワラのようなもので葺いてある家も見える。砂埃をあげて目の前を通り過ぎる大きなトラック、規則正しく動いている削岩機のシャベル、せっせと働く労働者たち。プロジェクトは確実に進んでいる。 ダムの話をしているうちにデヴィパットナム側にわたる船着き場に到着し、車を降りる。運転手のスリヌさんにお礼をしてお別れする。スリヌさんは、ツアーの際、運転手として雇われたのをきっかけに、今はスネーハでドライバー兼お手伝いをするようになったとのこと。人をよく見ていて、充分すぎるほど気をきかせてくれる。食事を取り分けてくれるとき、他のスタッフとのあいだで、おかわりを盛る、盛らないというようなやりとりをすることがあって、そんなときは見ていておかしかった。安全を祈りながら、来た道を戻っていくスリヌさんを見送る。
夕食のカレーを私が作ることになったので、家でスパイスと野菜のストックを確認し、スバラジュと買い物にでかける。5分も歩けば中心地だ。あたりを見回しても、男性しかいない。聞けばデヴィパットナムのような田舎では、女性は一人で買い物に行くことはないとのこと。たとえばスバラジュが不在のときは、スバラジュのお父さんが買い物に行くという。道理で男性しかいないわけだ。 じゃがいも、オクラ、トマト、パクチー、ニンジンを購入。計量は天秤タイプのはかりで、それぞれの皿に野菜と重りをのせる。極めて単純構造のこのタイプのほうが、よっぽど長持ちしそうだな、と家の電子ばかりを思い出す。 私は普段から市販のカレー粉を使わず、味噌、だし、醤油、そしてクミンを中心にしたスパイスで、カレーを作っている。調味料が違うのでちょっぴり不安になったけど、いつものようにタマネギから炒め、スパイスをいれ、トマト、ジャガイモと次々に投入し、煮炒めしてたらカレーができあがった。スバラジュと奥さん、私の3人分で量もばっちり。味見をしたいとやってきた近所に住む親戚の人たちにも振る舞って、みんなに合格をもらう。内心ホッとした。 インドは夕食を食べはじめるのが21時ぐらいで、食べるとすぐ寝る。日本では、食べてすぐ寝ると消化が悪くて太るとよく言われるが、考え方を変えると、効率的に皮下脂肪を蓄えることができるということだ。食べてからすぐ寝るというのは生活の知恵なのかもしれない。私は部屋で荷物を少し片付けてストレッチして横になる。食べてすぐはやはり眠れない。 FIN
水没予定地域の村のリーダーたちのミーティング、シータラム村で小規模金融の話を聞く3/22 晴れ [Devipatnam]
6時に目覚ましなしで爽快に目が覚める。今朝は私がチャイをつくる事になっていたので、朝からはりきる。しかし、停電していて、キッチンは少し暗かった。といっても冷蔵庫や冷房がないので言われなければわからなかったが。奥さんの指導のもとチャイをつくる。水牛のお乳でつくるチャイは牛乳でつくるチャイよりも、やさしい味がすると思う。 スバラジュ家では水牛を飼っていて、お乳をしぼるのはお父さんの仕事だ。牛乳を入れるための丸くて縦長のステンレスの容器を足にはさみ、両手でお乳をもち、片方ずつしぼっていく。しぼったお乳はチャイになり、またヨーグルトになり家で消費される。 スバラジュ夫婦が住んでいる向かいの棟に、スバラジュの両親とスバラジュの兄弟家族が一緒に住んでいる。その軒下では、奥さんが朝ご飯の準備をしていた。「ルッブロール」という道具に、ブラックペッパー・ターメリック・コリアンダー・クミン・チリなどのスパイスを入れ、太い石を使って擂り潰している。たまに水をほんの少し加えながら手際よく挽いている。
チャツネが完成すると、今度はドーサを作り始めた。豆を発酵させたペーストと米粉を水で溶いたものを丸くて平らなフライパンに均一に薄く広げて焼く。フライパンも焼きあがったドーサも日本のクレープ屋で見るものによく似ている。クレープと違うところは、片面しか焼かないところだ。そのため表面はパリっと、中はしっとりしていて焼きたては特においしい。これで朝ご飯が完成。さきほど挽いていたのは、つけあわせのチャツネだった。スバラジュ家のチャツネはスパイスがきつくなく、やさしい味がする。家庭料理を満喫した後は、子どもたちと外で元気に遊ぶ。 ミーティングまで時間があったので、写真をとりにひまわり畑に連れて行ってもらう。スバラジュのヒーローホンダ(Hero Honda)製の125ccのバイクの後ろにまたがり、肩につかまる。背中が大きい。家から5分もかからない中心地を少し通りすぎたところで、「キレイ!」と声をあげてしまった。日本ではめずらしいひまわり畑が、つづいている。青い空に黄色の大地、絵のような風景。ひまわりは食用油になるそうで、最近のはやりの換金作物のひとつということだ。 帰り道にはタバコの加工場による。白髪で鼻の下にヒゲをはやしたご主人に話しを聞く。工程は宮崎で聞いた話とほとんど同じで、地面に近い成熟した葉から収穫する方法も同じだった。簡単に製造過程を説明すると、葉の収穫→乾燥→出荷という流れだ。この工場では乾燥の行程をしていた。同じような様相をした倉庫が5棟ならんでいるのだが、どれも乾燥をするための工場らしい。収穫時期にあわせて熱風で乾燥させるとのこと。温度管理にすごく神経を使うらしい。乾燥が終わったタバコはバイヤーにより選別され値段が決まっていく。
インドは、世界第3位のタバコ輸出国で、2003年にはWHOのたばこ規制枠組条約の署名国となった。それによれば、条約署名10−15年以内に、たばこの供給量を50%減産することが義務つけられている。インドには約2億9900万人の喫煙者いるといわれている。市場が大きいだけに今度の動向が気になる。 【参考URL】http://www.business-standard.com/india/news/rising-tobacco-output-flies-infacewho-commitment/362855/ http://news.livedoor.com/article/detail/4059347/
家に戻り一息ついているとダム建設による水没予定地域の村のリーダーたちがミーティングのため、ちらほら人が集まってくる。 参加者は全員アディワシー(先住民族)の人々。
簡単な自己紹介をしてからダム建設に対する意見を聞く。 出てきた意見は次のとおり。
立ち退きしてもいいと答えた人は、政府の指定する土地ではなく自分たちが知る土地になら移転してもいいと政府に提案しているとのこと。このミーティングで話を聞くまで私は立ち退きを迫られている人は全員、一致団結して反対しているとばかり思っていた。でも実際には、意見がわかれていることがわかった。NGOsたちの活動をもっと知りたくなった。 「昨年のツアーのとき、ダム建設反対の署名を集めてくれるとのことだったが、それはどうなったか?」と質問され、一瞬なんと答えようか困ったが、担当者に聞いてみると答えるにとどめた。
ミーティング終了後に遅めのお昼ご飯となった。いつもは丸いステンレスのお盆状のお皿で食べているのだけれど、今回はバナナの葉皿で食べる。バナナの葉皿にもられた白いご飯と魚のカレーを右手でかき混ぜてから口に運ぶ。こうやって食べると五感をフルに使って食事を楽しむことができる。食事の準備をしているときの「耳」に聞こえてくる油で炒める音、バナナの葉に盛られた料理を「目」で見て楽しみ、「鼻」でスパイスのにおいをかぐ、食事を「手」で触って温かさにホッとする。そして「口」に入れて味わう。胃を満たすだけではなく心まで満たされる食事だ。 食事をしていると、中学校に通うため奥さんの実家に住んでいる、スバラジュの娘さんが遊びにきてくれた。「前きたときは裸で歩いてたのに」と私が言うと、みんな大笑い。なごやかな時を過ごす。 陽が暮れて涼しくなったところで、バイクで30分ほどのシータラム村に向かう。 途中トウモロコシを出荷するため、道端でトラックを待っている人たちにたびたび出くわす。 村ではまず小規模金融グループのリーダーという50代くらいの女性に話を聞く。小規模金融を簡単に説明すると、村の人たちがグループをつくり自分たちでお金を出し合って、グループのメンバーがお金を必要になったとき貸し付けるという仕組みのことである。いわば村人が自前で作った小さな銀行システムである。 この村では15人で1つのグループが構成され、全部で4グループあるそうだ。メンバーは月に50Rsずつお金を預けている。今までの融資先は、教育、結婚、起業とのこと。100Rs借りると利子は1ヶ月で2Rsつく。借りた人が払った利子もそのまま一緒に貯蓄されている。返せない場合はグループで話あうとのこと。従来の金貸しの利子を聞くと、金額は同じだけれども彼らは利子に頼って生活しているので、返せなければ水牛、ヤギまたは作物をうばっていくそうだ。 次に訪問した別のお宅では家族とご近所さん数人、あわせて10人くらいが軒下に集まり、ダム建設について意見を聞いた。 出てきた意見は次のとおり。
2日前に政府の役人が土地と住民の状況を調べるためにこの村に来たが、村をあげてその調査を拒否し、educated office(訳不明)に行き、ダム反対を主張してきたという。住民の人々は将来の予想がつかない日々過ごされているようだった。 さらに移動し3件目のお宅でもダム建設について意見を聞く。前に訪れた家で聞いた意見とだいたい同じ意見だ。いろいろ質問していると日本の結婚システムについて質問される。ツアーでもよく質問されるので、結婚への関心の高さを感じる。 今回はスバラジュのバイクがあるため、村の移動がスムーズで、訪問後すぐに帰宅することができた。5年前にこの村までバスできたときは、滞在時間は30分たらずだったにもかかわらず、バスの待ち時間は3時間もあった。しかし、そんなことはおかまいなしにミーティングにでかけたのを思い返す。 夕食は野菜カレーだった。ちょっと食べすぎのきらいがあるので、カレーを少なくし、ご飯にヨーグルトをかけてたべる。 食べたらすぐに寝る。これはお決まり。 FIN
ポラバラム・ニューコロニーを訪問、マーケットにでかける3/23 晴れ [Devipatnam]
朝ご飯はスパイスのきいたポテトサラダに、小麦の粒が入ったような「オプマ」を食べる。あっさりしていておいしい。 朝食をすませて、さあ、出発。今日も絶好の訪問日和。朝の涼しいうちに、バイクで20キロ離れている立ち退き者が住むポラバラム・ニューコロニーへ向かう。そこには立ち退きを強いられたPragasanipadu, D.Ravilanka, Bondogudemの3つの村の出身者たちが一ヶ所に集められ暮らしているという。山の緑と茶色の畑のくっきりしたコントラストの中を風を切って進む。気持ちいい。 そのときだ。曲がりくねった道の右前方に、どう見ても浮いているエリアを見つけた。目を凝らす。木も、川もなければ、軒先が低い茅のような葉でつくられた涼しそうな家もない。殺風景なそこにはコンクリートの道が伸びていて、両脇にコンクリート製でつくられた同じかたちの家が並んでいた。むき出しになっている赤土が乾燥し、日陰がないせいか視覚的に暑い
以前このエリアのある村で、政府の先住民族事業の一環でつくられたというコンクリート製の同じような形をした家を見たのを覚えている。その村ではその家に誰も住まなくなって、工事も中断していたほどだ。お役所仕事だからなのか、前例が役にたっていない。 40分ほどでコロニーに到着。20代前半くらいの女性に話を聞く。このコロニーではほとんどの家族が、以前住んでいた村に戻ってしまったらしい。彼女たち夫婦が帰らないのは、洪水で家が壊れてしまって、帰る家がないから、と。旦那さんと二人暮らしのこの女性は間口がひとつの小さいタイプの家に住んでいた。 家の中を見せてもらうと、すでにコンクリートが劣化している。政府は安くあげようとしてなのか、質の悪いコンクリートを使っているようだ。一間しかなく、家の中はコンクリートが熱を吸収して暑い。コンクリートむき出しの部屋は、なんだか心寂しい。
別棟になってるトイレはほんとうに小さい。163センチある私と同じくらいの高さで、幅は2メートルないと思う。彼女は、仕事と食料がなく、水がよくないという。 コロニーの一番奥に位置する集会所のとなりにある小学校に歩いて行ってみる。小学校は男女共学で、低学年と高学年の2クラスあった。先生は男性と女性がいて、二人とも30代前半くらいかそれより若いくらいで、ここに住んでいるという。児童数はあわせて25人で男の子7人、女の子18人とのこと。給食もあるそうだ。
続いて入り口がふたつある、大きなタイプの家に住んでいる家族を訪問する。そのお宅は、テレビや掛け時計、家の周りには垣根のようにして木が植えてあり、ニワトリもいて、もう長く住んでいる様子だった。聞けば、2006年10月2日に引っ越して来たとのこと。主のおじさんの最初の一言は「農業者から、日雇い労働者になったんだ」だった。やりきれない思いがこみあげてくる。 このおじさんによるニューコロニーについての話
近い将来どうする予定ですか?とたずねると、「検討もつかない」とのことだった。 話を聞けば聞くほど、この地域は新潟県奥三面ダム問題と共通する点が多い。奥三面の人々も移住により、自給自足的生活から賃金労働者になった。補償金で生活が潤ったのは束の間で、山では無料で使っていた川の水が水道になり、お金がかかり、山に入ればなにかしら食料がとれたのに、買う為にでかけて、さらにお金がかかる、というお金の存在が大きい生活をすることになる。取材したときに、「移住後、お金がかかる生活の仕方を教えてほしかった」と切実に語っていたおじいさんの様子を思い起こす。 容赦なくガンガン照りつける日差し、コンクリートの熱もあってか、体感気温がかなり高い。案の定、昼近くなっていて、滞在予定時間をオーバーしていた。体を気づかって途中で休憩をはさみながら帰る。 昼食はリクエストしておいたオクラのカレーだ。スパイスの匂いに思わず舌なめずりする。オクラはねばりがなくなるまで火をよくとおすのがインド流の調理方法。家庭で作られたカレーは本当においしい。 少し昼寝したあと、スバラジュと息子さんと3人で中心地で行われているマーケットにでかける。中心地の道の両脇には、野菜、肉、魚、お菓子、日曜品、装飾品などのお店が並んでいる。周辺のアディワシーもたくさん来ているということで、前の人につかえながら進まなければならないほどに混雑している。女性ともすれ違った。 マーケットでは、特に肉や魚の売り方に興味をもった。小ぶりの魚は1匹を横にして、そのまま4つにぶつ切りしただけで売られている。ニワトリは絞めて、頭を下にして、足を棒にくくりつけられたものの近くに、鳥肌姿のものも売られている。ヤギ、豚も元の姿が想像できるように売られていた。日本もこうやって売ればいのちの大切さが伝わりやすくなるのになぁと思うのと同時に、衛生状態が心配になる。 おやつのサモサと、八百屋で見つけたゴーヤを夕食に使ってもらおうと買って帰る。ゴーヤを買ったのはインドの食事には「苦み」を感じることがほとんどないので、どうやって調理するのか興味をもったからだ。家で奥さんに差し出すと、「この野菜は苦いわよ」と言う。
サモサをつまんだ後は、奥さんのサリーを着せてもらう。オレンジ色の生地に刺繍がふんだんに施してあるものを着て記念撮影。夕方にはちょっと寒かったけれど、ゴダバリ川で水浴する。明日出発するのでこれが仕納めだ。 夕食前のおしゃべりの時間は、スバラジュ夫婦にお母さんもまじえて私が持ってきた写真をみせながら、日本の生活を説明する。お母さんは五右衛門風呂にとても興味を持っていた。 最後の夕食は、お待ちかねゴーヤのカレー。食べてみるとまったく苦みがなくなっていて、スパイスとよくなじみ美味しい。ゴーヤの調理方法は、まず縦に半分に切って、それを横に細く切っていくのは同じだけれど、ヘタを取らないのと、砂糖の塊を入れると聞き、びっくりする。 夜は明日目が覚めたらもう帰るのだと思うと、なかなか寝付けなかった。スバラジュ家には本当にお世話になった。 FIN
デヴィパットナムからラジャマンドリィへ移動3/24 晴れ [devipatnam → Rajhmundry]
朝から荷物のパッキングで慌ただしい。裏に住む銀行に勤めるおじさんにブランチに招待され、おじゃまする。家に行くと、白髪で銀行の白い制服を着た、インド人ではめずらしくお腹がでてない小柄なおじさんが迎え入れてくれた。家には冷蔵庫があり、裏口では大きな電動ミキサーが何かを練り上げている。さすが上流階級だ。まずはお祈りの部屋に通されてお祈りし、そのあと神様に捧げられた供物のお下がり「プラサード」をいただく。今のところ南インドのお祭りや寺院でプラサードは、ご飯を牛乳と砂糖で煮てスパイスで黄色く色づけしたスイーツだ。どこで食べても同じような味で、私は大の苦手だ。しかし神様からの贈り物なので残すわけにはいかない。今回も我慢して完食した。
おじさんの家は乳製品も食べる菜食主義者「ラクト・ベジタリアン」なので野菜カレーだ。でもおじさんは野菜カレーは口にせず、ご飯とヨーグルト、それにほんの少しピクルスを口にするだけだった。太った人が金持ちというのは一昔前の話で、昨今は上流階級の人は健康に気をつけるのが主流のようだ。 おじさんの話によれば、インドもインスタント食品がはやりはじめているのだが、中に何が入っているか分からないため、不安を感じているとのこと。なので食事は家ですべて手作りだとか。奥さんは英語が話せないので、会話に加わることができず。奥さんは、揚げたお菓子、チャツネ、ピクルスなどを次から次へと私のお皿にのせてくれる。でも申し訳ないことに、私はおじさんと会話をするのがいっぱいいっぱいで、味わっている余裕がなかった。 話の内容は、近年のインドにおけるゴミ問題、世界のエネルギー分配の格差問題、国内外の貧富の格差、そして日本の家族の世襲制についてなどだ。行員をされているだけあって、統計の数字を使ってわかりやすく話してくれる。 私の英語能力が乏しかったので答えられなかった、というのはただの言い訳で、ほんとうは、事実として知ってはいるけれど、それについて自分でじっくり考えたことがなかったのでどの問題も即答できなかった。おじさんは、英語が理由で意見が言えないと思ったかもしれないが、実は私の意見がまとまっていなかったのだ。英語は手段にすぎなくて、人間中身が大切ということを思い知らされた印象に残る出来事だった。 あっという間に帰る時間になる。ありがたいことに、ザクロの手土産まで持たせてくれた。急いでスバラジュ家に戻り、涙をこらえながら、ありったけの感謝の気持ちをあらわし、みんなに見送られながらリキシャに乗り込む。
チェンナイにむかう列車に乗るためラジャマンドリィへ移動する。途中、女子学生2人が乗ってきて、運転手さんを入れて5人乗りになったのでパンクが心配になる。私の荷物が大きかったこともあって、身を少し乗り出す体勢になる。田舎のリキシャはよく壊れないなぁと関心する。 1時間もしないうちにラジャマンドリに着き、駅周辺をブラブラする。ステンレス製の壷のような形をした小さめの鍋、スパイスを入れる容器、そして数種類のスパイスと紅茶を購入した。16時、定刻通りに列車は動き出す。私の席は、冷房つき3段寝台(3A)で、一眠りして目覚めると6時半にチェンナイに着く予定だ。 奥さんがもたせてくれたブリヤニ、野菜カレー、タマネギ入りヨーグルト、そしてザクロを食べながらこのエリアの旅の終わりを噛み締める。 FIN
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ▲このページのトップへ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||






1時間半くらい走ったところでチャイで一服する。そして再びキレイに舗装された道路を順調にデヴィパットナムへ進む。まっすぐで中央線がない道路。運転手のスリヌさんは次々と前を走る車を追い越していく。運転手の後部座席の私が「あぶないよ、こんなところで追い越しするなんて」と身を乗りだして言い終わる前に、追い越してる。後部座席で隣に座っているスバラジュは「大丈夫、彼は運転がうまいんだから。心配いらないよ」と余裕の表情だ。無事に着くことを祈る。
サンダルを脱ぎ、ズボンを膝まであげ船に乗り込む。船は細長く、底が平らで喫水が浅い。水が入ってきちゃんじゃないかと心配になるくらいだ。船の後部にはエンジンが付いているから船頭はそれを使って船を動かす。渡し舟でゴダワリ川を横断しデヴィパットナムに到着。懐かしい。スバラジュ家までは歩いてむかう。郵便局をすぎて、左に曲がり少し進んだところの右側だ。ご両親、奥さん、息子さんが迎えてくれる。元気にまた会うことができて、胸が一杯になる。





ミーティングはスバラジュ中心で進められた。ミーティングの際、使われていたのはテルグ語だった。2時間ほどで解散。参加者はみんな自転車で来ていた。







