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| 私の母はいい人だ。若干細かいところも有るが、ほがらかで優しい働き者だ。趣味で父と畑を作っている。健康そのものだ。 結婚して嫁ぎ先の親戚が次々病気になっているので、私は心配で「常日頃からドックなどに行って健康には注意してくれ!」とお願いしていた。その母が中華料理を食べに行って吐いたと言う。 たまにしか会わない私は少しずつ痩せてきた母のことが気になった。太っていたので本人はダイエットだと喜んでいたが…。 風邪もひいていて食欲が落ちていた。 昔からいきつけの内科・小児科の個人病院に行くと詳しい検査もせずに風邪による胃腸炎だと言われた。おかしい。次から次に薬を変えても良くならない。 「お願いだから胃腸科のある病院に行って!」と頼む私に母は 『私をひどい病気にさせたいみたいね。今度の薬は効いてるみたいだから』と聞く耳をもたず笑っている。私がうるさく言うので、母も先生に『ガンなんてことはないですよね。』と訊いた。 腹部のレントゲンを撮ったらしくって、ガスがたまってるから調子が悪いんだと言われる。でも、胃腸はレントゲンできちんとわからないからバリウム飲むはず。絶対おかしい。昔からの私もお世話になっている先生だけど…。妹にも父にも母に精密検査に行くように言ってくれるようお願いする。しかし、幸せなことにうちの家族は今までみんな健康だったので私は心配しすぎだと言われる。焦る。 1ヶ月半過ぎたあたりで、薬がなくなったので病院に行くつもりだけど、あまりに私が言うから私が薦めていた病院に行くからと朝母から電話があった。帰りに私の家に遊びに来ることになっていた。 やって来た母は暗かった。『先生から、次の日でも家族の人に電話するようにと言われた。』悪い予想が当たってしまった。 父に連絡を取りその日のうちに話を聞きに行った。見せられたX線写真の胃は狭窄をおこしていた。『もっと詳しく調べてみないとわかりませんが…。』以前、仲人の伯父さんが胃癌で腹腔鏡手術をしてもらい、経過が良かったことから、すぐにF病院に紹介状を書いてもらった。しかし、母のガンはとても腹腔鏡でできるものではなかった。胃全摘。しかもスキルスだった。 手術は無事終わったが、食事をとるのにかなり苦労して15kg痩せてしまった。いろんな本を読んだ。国立がんセンターの先生が書いた本。近藤 誠さんの本。代替医療の本。結局、治る人は治るし、治らない人は治らないらしい。治るというよりガンによって命を奪われないってことが大事なのだろう。別にガンと共存しても良いのだから。しかし…不安でたまらない。今、母の身体の中ではどうなっているのだろう?これから、どうなるのだろう? 現在、経口の抗がん剤はでていない。母にはたくさんの健康食品を摂ってもらっている。うちで現在使っているのは、紅豆杉茶・ノニ(ロイヤル・ファームズ)・サメの軟骨(カーティレイド)・プロポリス(65%)。効く事を願っている。 (2000年5月5日現在) 胃全摘後、母はほとんど食事が通らずどんどん痩せていった。ちょっと食べると吐き、ちょっと食べると吐くの繰り返しで、ほとんど、流動食しか受け付けなくなった。 レントゲンを撮ると、繋ぎ目がシャープペンの針ぐらいになっているということなので、バルーンを入れて広げた。かなり、きつかったらしくバルーン入れた後は憔悴していたが、その何日か後には見違えるほど食べられるようになった。でも、量はかなり少ないので、ぜんぜん体重は増えない。 あまり食べられないながらも風邪を引くこともなく、定期検査でも血液検査でも別に異常無く調子が良い日が続く。 母も「みんな、胃の手術した人は2年ぐらいはこうらしいから。先生から悪いところは全て切りましたと言われた。また、ガンになる可能性は他の人と同じぐらいらしいから。」と楽観していた。 私の方は、やはり再発が心配で母に健康食品を持っていっていたが、 「食事の時には緑茶じゃないと嫌。」 「先生からは食事をがんばって食べろと言われている。こんなの(健康食品)食べてたらその分食事が入らなくなる。」と言われて虚しくなる。 量が摂れないのなら濃度を濃くして飲んでくれるように頼んだが、無駄だった。お医者さんが励ますために言っている言葉を信じて、自分は治った気でいる。 でも、私の手前?薄いのをちょこちょこ飲んで、他の健康食品も少しは摂ってくれてはいた。 父に母のガンは再発の可能性が高いので協力してくれるように言っても 「おまえは不吉なことばかり言う。素人が分かったようなこと言うな!お医者様に任せとけば良いんだ。」と怒られる。 母に再発の可能性が高いことを言うべきかどうか悩んだが、免疫力が落ちそうなので家族との話し合いで言わないことにした。 母が摂っている健康食品の紅豆杉茶を糖尿病の伯母が飲み始めたところ、体質にあったのかみるみる血糖値が下がっていき身体の調子が良くなった。 父も血圧が下がり、私も母も風邪を引かなくなったと喜んでいた。 母も大分元気を取り戻し、好きな『ちぎり絵』教室にまた通おうとしていた矢先…。 妹が交通事故にあった。 肋骨折れて、肺と肝臓から出血している。顔はぐちゃぐちゃ。インフォームドコンセントかも知れないが、あんなにひどい妹の顔なんて見たくなかった。 まだ、嫁入り前の娘が事故にあったことで母は相当ショックを受けていた。おまけに顔。 父の話だと何日も泣きはらし、眠れない夜を過ごし、食欲もかなり落ちていた。 妹の交通事故から1ヶ月経った日。見舞に行く車の中で母の目と首筋が黄色いことに気付く。母は相変わらず自分の病気に対しては暢気だったが、私は病院へ行くように薦めた。 次の日F病院へ行ったところ即入院。ここには入院できないということでH病院を紹介される。再発だった。3週間前のCTで異常無しと言われたばかりなのに!! このまま、黄疸が引かなければ余命1ヶ月と言われる。 胆汁を外に出す処置がF病院から来た先生により行われる。ガンに対しては何も手立てがないと言われる。ずっと、病院にかかっていて再発した途端に治療法はありませんと言われ愕然とする。今まで病院にかかっていたのに…。死の宣告を早く受けるためだけに病院にかかっていたのか? 頼み込んで、丸山ワクチンの濃縮液であるアンサー20を使ってもらう。 まだ新しい病院で主治医も新米の女医さん。素人が考えても「え?」っていうことが多くて 「何もできないなら、早く出して欲しい。往診できる先生を紹介して欲しい。」 と言っていたが、無駄としか思えない検査を繰り返すばかりで、どんどん母は弱っていった。 検査のたびに食事制限され、そのたびに頼みの綱の健康食品もストップさせられ、食べれないので中心静脈栄養に変わり、ろくに便が出ていないのに検査のためのバリウムを飲まされ、その後便が出ないからと下剤をさんざん飲まされて・・・。 結局、2ヶ月以上バリウムが残ったまま。 水さえも吐いて戻す、高い熱も出て熱さましの座薬も使う状態になっていった。 F病院の主治医からホスピス行きを薦められるが福岡には2つしかないし、再発の告知をしていない母には…。おまけに母は治る気でいる。 それで、自分でインターネットで調べていたら在宅ホスピスに力を入れているNクリニックのHPに出会った。ラッキーなことに母の家のすぐ近くだった。 HPに御自分の考えを書かれていて、「この先生ならば。」と思い、在宅医療のお願いに行き、自分達の希望・考えも伝えたところ、即OKして下さったので、H病院を半強制的に退院させてもらい、次の日から在宅医療が始まった。 「病院でできるほとんどのことが在宅でできますよ。」 検査とか手術はできないけど、現代医療に見放された末期ガン患者だから・・・。 現在、テルモの充電式の24時間連続して使える小型ポンプで中心静脈栄養をしてもらい1日1回交換に来てもらっている。 退院してからの母は熱も血圧も下がり、久し振りに煎餅が食べれたと喜んでいた。 胆汁排出の為のチューブと中心静脈栄養のチューブが出ている母だが、今日も栄養バックを持って庭を散歩して、自分の育てていたシクラメンやシャコバサボテンが咲いたと喜んでいる。 孫が歌って踊るのをニコニコして見ている母、表情も明るくなった。 これから、どういうことが起きるか、どうなるか考えると怖いが、今の時点では本当に家に連れて帰って良かったと思う。 (2000年12月5日現在) 2001年4月24日ついに母との別れの日が来ました。 書かなきゃ…。これまでのことについてまとめようと思ってもなかなか筆が進みません。 追々やっていこうとは思っていますが…。 (2002年2月25日現在) 隠しておこうか・・・どうしようか迷っていました。 実は第20回『心に残る医療〜私の体験記コンクール〜』(日本医師会・読売新聞社主催)に佳作で入賞致しました。 もちろん、母のことを書いたものです。先日、お礼方々母がお世話になった、にのさかクリニックに小冊子を持って御挨拶に行って来ました。先生の掲示板にはたまにお邪魔しているのですが。それで、にのさかクリニックのティールームというコーナーで私の拙い文章を載せてくださることになりました。 2002年、今年の9月7、8日に福岡で日本ホスピス・在宅ケア研究会 第10回全国大会in九州というのが開かれるそうです。 興味のある方は御覧になってみて下さい。 『心に残る医療』の授賞式は東京の帝国ホテルでありました。主人と子供2人を連れて行って来ました。前日にお台場で観覧車に乗って、式が終った後皇居まで散歩して、主人の友達とお酒飲んで飛行機の最終で帰って来ました。 帝国ホテルに宿泊させてもらい、表彰式にパーティ。中華料理のフルコースでした。私は子供達の世話で度々席を離れていましたが、育児中の私には本当に心に残る出来事でした。 母がガンになってしまったから、もらうことができた賞です。素直に喜べないものはあります。私がかけっこで一番になった時、絵画・作文のコンクールで賞をもらった時などに今まで一番喜んでくれた母がいない。本当に寂しいものがありました。実は、「最終選考に残りました」という電話がかかってきた前日に夢を見ました。 それは母が無言で握手を求めてきた夢でした。 母が夢に出てきてくれた。それだけで喜んでいたのですが・・・。 あの母が、違う世界に行ってしまったからって、予知能力なんかのすごいパワーを持つとも思えません。たまたま夢に見ただけなのでしょうけど。 「おめでとう」って言いに来てくれた気がします。 私が受賞したこと自体が母からのプレゼントだったような気がします。 パーティで日本精神科病院協会名誉会長 齋藤茂太さん(故・斉藤茂吉氏のご子息)に娘がキスされてしまいました。娘の将来や如何に・・・?大変、名誉なことですね。 (2002年7月24日現在) 『白い巨塔』を見ていたら、どうしてもいろいろ思い出すし、考えてしまいます。 「世の中の里見先生、ガンを治す方法を早く見つけ出してください」 と掲示板に書きましたが、母の主治医の先生は、里見先生に近いものがありました。 大学病院で臨床医のかたわら、分子腫瘍学というのを研究されていました。母の病気のことで悩んでいた時、手術前に少しでも母に安心して欲しくて先生の名前で検索しました。それで、先生がガンについて研究されているのを知りました。その後にガンの最新治療のことが載った週刊誌を見たら、先生が世界特許を持つ制ガン剤の研究者のお1人だということを知りました。 「臨床試験ができるようになったら是非母に・・・」とお願いしていましたが・・・「研究協力してくれる会社が続けば良いけれど」と言われていた先生。 企業も何年間も同じ研究はできないらしいですね。ものにならないとその研究は打ち切られる。厳しい世界みたいですから・・・その後先生たちの研究はどうなったのでしょう? 再発した母はその大学病院には入院できなくて、他の病院を薦められました。母が入院してしばらくしてから先生は母の顔を見に来てくれました。嬉しかったですね。母も喜んでいました。 新しい病院では、検査ばかりで何も治療できなくて・・せめて丸山ワクチンの濃縮液であるアンサー20を使ってみたいと申し出ましたが断られてしまいました。母の入院した病院が取引がないからとのことでした。 本当に何もできないのか?? 「たとえば、放射線は?リンパ節にならできるんじゃないか?」「アンサー20は使えないのか?」と病院が変わった後も私達は大学病院の先生に相談に行っていました。 私達のせめてもの願いを聞き入れてくださった先生はアンサー20を私達が大学病院に取りに行って、新しい主治医に渡し、それを母に注射してもらえるように手配してくださいました。先生から「できるように手配したよ」と電話をもらったときは本当に嬉しかったです。先生にしたら困った患者の家族だったことでしょう。きっと。 大学病院は病院でもあり、研究機関でもあり、教育機関でもあると頭では分かってはいても、研修医の先生に怒りを覚えたことがありました。怒るのは筋違いだとは分かってはいても忘れられません。 母の手術が終わった後、説明を聞きました。 そのとき、母の胃は板に虫ピンではりつけにされていました。 そして、説明も終わって母が手術室から出てくるのをあっちこっち熊のようにうろうろとしながら待っていると、研修医の先生がちょっと軽い足取りで階段を下りてこられました。片手にははりつけ状態の母の胃に1枚のガーゼのみ。 「母は研究材料なんだ!」そう感じてしまいました。見なければ良かった。両手にうやうやしく持っていれば私は怒りを感じなかったのでしょうか? 「もう、母は前のように食べれない!なんで優しい母がこんなことに!!」運命に対する怒りも大きかったのでしょう。 母の胃ははりつけ状態でそのまま去っていきましたが、がんの手術で取りだした自分のがん組織で『自家がんワクチン』というのを茨城のベンチャー企業であるセルメディシンという会社がやっているそうです。 ***** [がん抗原や免疫担当細胞は、患者様一人一人によって異なるのが普通です。 「自家がんワクチン」は、患者様自身のがん組織を固定したものが原料ですか 、その患者様だけに特有ながん抗原を含みます。そのため、完全なパーソナルドラッグとなります。 「自家がんワクチン療法」はこれを用いた癌の再発防止・転移予防・微小がん治療を目的にしています。] 理化学研究所、中山医科大学(中国広東省広州市)、ジョンズホプキンス大学(米国 ボルチモア市)と共同で、革新的ながん免疫療法である“自家がんワクチン”が、肝がんの手術後の再発を明確に抑制できることを臨床試験で証明した。その論文がアメリカ癌学会誌・クリニカルキャンサーリサーチ2004年3月号オンライン版に掲載された。 臨床試験では、治療対象患者を無作為に2群にわけ、一方にだけ“自家がんワクチン”を投与して、がん再発が起こるかどうかを追いかけて見る必要がある。そうしないとはっきりと有効かどうか判らないからだ(これは第2相臨床試験といわれる)。 今回の試験では、 18 例の患者に“自家がんワクチン”を投与した結果、対照群の患者 21 例に比べ、 15 ヶ月(中央値)の追跡調査で、肝がん再発リスクが 81 %も抑えられた。もちろん統計学的に有意な差がある。 ***** とのことです。 詳しくは http://www.cell-medicine.com/を。 自家がんワクチン療法は、東京都心でも、遠方に住んでいる患者でも、医療機関によっては、地元で受診可能なように協力できるそうです。おおよそ小型車1台程度の費用が必要らしいですが、なんとなく期待が持てそうな療法のような気がします。 (2004年3月26日現在) >企業も何年間も同じ研究はできないらしいですね。ものにならないとその研究は打ち切られる。厳しい世界みたいですから・・・その後先生たちの研究はどうなったのでしょう? その後、研究は良い方向に向かっていたみたいです。杞憂でした。 久し振りに調べてみたら、先生と一緒に研究されていた方達がベンチャー企業を作られていました クリングルファーマ株式会社 http://www.kringle-pharma.com/index.html [NK4ならびにHGF(hepatocyte growth factor ; 肝細胞増殖因子)の研究開発を介して、病に苦しむ患者、世界の癌患者を新しい治療法によって救済する。 また、独創性の高い創薬につながる日本発のシーズを掘り起こし、世界に発信できる治療法に育成する。] NK4によるガン休眠療法については http://www.kringle-pharma.com/rj.html を見てください。 [腫瘍の成長は腫瘍組織における血管新生(腫瘍血管新生)に依存する一方、腫瘍組織に血管が到達しなければ腫瘍は成長することはない。私たちはガンの浸潤・転移や腫瘍血管新生を高効率に阻止する新しい分子“NK4”を発見した。NK4は腫瘍血管新生を阻害することにより腫瘍の成長を抑制する一方、ガン細胞の動き(浸潤)そのものを阻止することによりガン細胞があたかも“フリーズ(凍結)”した状態に至らしめる。NK4は実験動物に移植したヒトの膵臓ガンや肺ガンなど様々な難治ガンの浸潤・転移や腫瘍血管新生を阻止し、悪性腫瘍をあたかも良性腫瘍のごとき“休眠状態”に封じ込める。] 製薬会社の方々共同開発お願いします。早く治療に使えるようにしてください。 (2004年4月8日現在) 「行ってらっしゃい!」幼稚園バスを送り出す。
母は「あなたのお腹の子、優しい女の子のような気がするなぁ」 と言った。結局、その子に会えぬまま母が逝ってしまって5年。 娘も幼稚園生になった。 今日はお友達をたたきました。たたかれましたという先生達からケンカの報告を聞きながら・・ 優しい??に疑問符が付くときもあるけれど、お姫様に憧れるかわいい女の子だと親馬鹿な私は思う。 母が生きていてくれたなら・・どれほどかわいがってくれたことか? 主人が飲み会に参加することになったので、その日私は実家に遅くまでいることができた。母の好きなカニ鍋を作った。 スープだけだったけど飲ませてあげることができた。 「また、明日ね。おやすみなさい」いつも握手していた母の手が弱々しくて、次の日の明け方、激しく降る雨が怖くて、恐ろしくて・・母の死が近いと感じ私は眠れずに泣いていた。 朝早く、妹から電話が入った。 亡くなるちょっと前に突然、 「お母さん、果物が食べたい」と言ったので、たくさんの種類の果物を買って持って行った。そんなに食べることができないことは分かっていても、その言葉を聞いた私たちは一杯買って行った。 私が買った数個の果物と父の買ってきた数個の果物を小さく小さく切って味見してもらった。 結局、食べてもらえなかったおいしそうなマンゴーと作りかけのちぎり絵を棺に入れた。 最期の夜に嫁いだ娘が実家で母の好物を作って食べさせてあげれたのは、母にとっても私にとっても幸せなことなのかも知れない。 母は本当にエビとかカニとかが好きな人で、私は学生の時のバイトやボーナスなどちょっと小金が入った時に母にエビ料理やカニ料理をごちそうするのが好きだった。 本当に嬉しそうに食べてくれるので奢るほうも奢りがいがあった。 もちろん、母にはそれ以上によくしてもらっていたけれど。 厳しいところもあったけど、良い人で、本当にかわいらしさのある人だった。 今、母のことを心配してくれていた何人もの人達が病に臥している。
お見舞いに行っても私達が来たことさえ分からない。辛い。
喜んでもらおうと思ってやったことも反応がないので良かったのかどうかさえ分からない。
母が亡くなった時に
「いろいろな死をみてきたけれどお母さんは幸せよ」と何人かの人に言われた。本当にそうなのかも知れない・・ 自宅で看取ろうと思っても実際にはいろいろ問題があって難しいことも多いと思う。
私達がお世話になった二ノ坂保喜先生が監修をされている
「在宅ホスピスのススメ 看取りの場を通したコミュニティの再生へ」 木星舎発行 という本も参考になると思う。私達のことも少し書かれてある。 母に死が近づいている。そんな、辛い状況の中であっても幸せを感じる瞬間は何度もあった。
母のベッドの横でいねむりしてしまった私に、動き辛くなった身体をおして私に布団をかけようとしたのだけれど、私が起きてしまいバツの悪そうな母の顔。
まだまだ赤ちゃんの息子が「はっぴ〜?」とおもちゃのマイクで母にインタビュー。
できたばかりの綺麗な観覧車を見に行ったと目を輝かせて話してくれた。
寒い日が続いた後にちょっと暖かい日があって、その日は兄もいて、皆で宅配ピザをどれにするかと悩んで、とって、皆で食べた。
来てくれている看護婦さんお勧めのお好み焼き屋さんから出前も頼んだ。
母が育ている花が綺麗に咲いたと喜んでいたっけ。
何気ない日常がとても大切な思い出になっている。
(2006年4月24日現在) 母が亡くなって7年経った。 母が亡くなって数ヵ月後に生まれた娘も小学生だ。 7年の間にいろいろあった。義父まで亡くなってしまった。 ガン難民だけじゃなくリハビリ難民もいる。義父が脳梗塞で倒れてから知った。病院は長期間は入院させてくれない。 「治療法がありません」という訳でもない。もっとリハビリすればもっと良くなりそうなのに病院はすぐに「次のところを探して下さい」と言う。 どうにかならないものだろうか? (2008年4月24日現在) 今朝、夢を見た。
お寺にお参りに行くと大きい「おりん」が何故か叩いてもいないのにリンリン鳴っている。大きい「おりん」の中で何故か私の携帯がバイブで動きながら光っていた。誰かから電話?と思い携帯に出てみると母だった。 なんとなく泣き出しそうな声で、誰かの身体の調子が悪いと話したかと思うとそこで夢が終わった。 本当に久し振りに母が夢に出てくれたのになんか後味の悪い夢だった。今日は母の命日。 お母さん、どうか皆が健康で過ごせますように・・・見守っていてください。
(2009年4月24日現在) |