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第一章 『とはずがたり』と後深草院二条






 1. 村上源氏と久我家


 『とはずがたり』の作者は、持明院統(北朝)の祖である後深草院に二条という名前で仕えた女性である。彼女は村上源氏の嫡流たる久我(こが)家の生まれであることに強い誇りを抱いており、非常に知的レベルが高く、また勝ち気で我儘な性格だった。はっきり言って、ちょっと変な人である。

 源氏というと、普通はいわゆる源平合戦の源氏、即ち武士の棟梁となった清和源氏を連想するが、もともと源氏とは皇族を臣籍に降下させるときに与えた姓であり、いずれの天皇の子孫かにより嵯峨源氏・清和源氏・宇多源氏・村上源氏・花山源氏・後三条源氏などに分かれている。そして貴族社会においては、清和源氏の武士など、天皇家との血縁が非常に薄い身分の低いものであって、とうてい源氏の本流だとは考えられていなかったのである。

 では、貴族社会での源氏の本流は何かというと、それは第六十二代村上天皇(926〜67)の子孫である村上源氏である。この村上源氏の嫡流が久我家であり、久我家は五摂家につぐ清華(せいが)の家柄、即ち近衛大将を経て太政大臣まで昇り得る家柄として高い格式を誇っていたのである。

 とはいっても、村上源氏という言葉自体、一般にはあまりなじみがないが、後醍醐天皇の側近で『神皇正統記』の著者である南朝のイデオローグ、北畠親房(1293〜1354)や、闘将千種忠顕(?〜1336)も村上源氏であり、また明治の元勲岩倉具視(1825〜83)も村上源氏である。これらの人々は、みな本姓は源であって、家名が北畠や千種・岩倉となっているだけである。

 さらに、女優の久我美子さんも村上源氏に属する。久我美子さんは久我家第三十三代当主、侯爵久我通顕氏の長女であるが、昭和二十一年、学校(女子学習院)や家族に内緒で東宝の第一期ニューフェースに応募し、合格した時は、侯爵家の令嬢が女優のような下賤な職業につくなんてとんでもないと一族の間で大問題になったそうである。ちなみに久我美子さんは芸名を「くが・よしこ」としているが、結婚前の本名は、字は同じでも「こが・はるこ」である。

 さて、村上天皇の孫である源師房(1008〜77)から久我美子さんに至る村上源氏一千年の歴史の中で、特筆すべきは、源頼朝に対して、いかにも貴族的な方法で反撃した人物として有名な源通親(みちちか.1149〜1202)である。

 晩年の頼朝は、娘を後鳥羽天皇の妃として入内させることに固執するなど、次第に本来の貴族的性格を露わにして、御家人との間に疎隔を生じるようになっていったのであるが、この頼朝の弱点を巧みについて、九条兼実らの頼朝シンパの貴族を一挙に失脚させた天才的な政治家が源通親である。

 誰が言い始めたのかよく分からないが、いろいろな本に、この人こそ日本史上最も悪辣な陰謀家、マキャベリストと書いてある。思想史に関心がある人には、あの異常に難解で、かつ不思議な魅力に満ちている『正法眼蔵』を書いた道元(1200〜53)の父親と言った方がいいかもしれない。

 『とはずがたり』の作者、後深草院二条は、このマキャベリスト源通親の曾孫にあたる女性である。マキャベリスト源通親の血を承け、また名女優久我美子さんのご先祖様でもあるこの女性が書いた『とはずがたり』という作品は、昭和十三年になってはじめてその存在が確認された、古典としては極めて珍しい作品で、その登場のときから謎めいた事情につつまれているのである。

 『とはずがたり』には、持明院統(北朝)の祖である後深草院と、後深草院の同母弟で大覚寺統(南朝)の祖である亀山院などをめぐる、極めて退廃的な男女関係が描かれていたために、戦前は研究が実際上不可能だったが、昭和二十五年に復刻版が出版されて以来、多くの国文学者・歴史学者・小説家等の知識人の関心を呼び、急速に研究が進んでいる。

 しかし、学者たちは極めて多様な、というかてんでんばらばらなことを言っていて、『とはずがたり』をめぐる学説は矛盾にみちており、学者の本を読めば読むほど、作者の統一的な人間像を描き出すことができなくなっている。『とはずがたり』の研究状況は、今なお大変な混乱の中にあるのである。

 私は殆どの学者たちの認識に奇妙な違和感を感ぜざるをえない。二条はほんの数行に和漢の典籍を複雑華麗に引用するなど、極めて頭の良い女性であり、芸術的な感性が鋭いとともに論理的思考にも優れ、その性格は大変に勝ち気で我儘である。また、実際に読んでみて驚いたのであるが、『とはずがたり』には機知に富んだ、ひょうきんな、コメディタッチの部分が多いのである。

 私は、彼女の知性のタイプは、学者たちが暗黙の前提として想定しているものと全然違うと感じている。そして、二条と学者たちの知性のタイプのずれから、とんでもない誤解が生じているのではないかと思っているのである。

 以上を前置きとして、さっそく『とはずがたり』の具体的な内容紹介に入りたい。






 2.『とはずがたり』の内容


 『とはずがたり』に関する歴史学会と国文学会の研究水準を確認するために、以下に『日本史大事典』と『日本古典文学大辞典』を引用してみたい。

 平凡社の『日本史大事典』は吉川弘文館の『国史大辞典』と並ぶ日本史関係の代表的辞典であり、また、そこで『とはずがたり』の執筆を担当されている細川涼一氏は、既に数多くの著作を発表されている新進気鋭の歴史学者である。『日本史大事典』における『とはずがたり』の解説は以下の通りである。

とはずがたり
後深草院の女房で愛人でもあった後深草院二条(中院雅忠の女)の日記文学。伝本は宮内庁書陵部に一本のみ伝わる。晩年にその生涯を回顧する形で綴られた自伝的作品で、全五巻から成るが、大きく前編三巻、後編二巻に大別できる。前編三巻は、一二七一年(文永八)、作者が一四歳で後深草院の御所に出仕して以来、後深草院の寵愛を受けながらも、院の近臣の「雪の曙」」(西園寺実兼)、院の護持僧の「有明の月」(仁和寺御室性助・法助の両説がある)とも関係を結ぶなどの愛欲に満ちた宮廷生活が描かれる。後編二巻では、八九年(正応二)後深草院のきまぐれな寵愛の果てに御所を追われて出家し、尼となった作者の東国鎌倉への旅、次いで西国への旅などが描かれる。二条はこの旅に流離するみずからを、女西行、あるいは小野小町の落塊した姿になぞらえている。そして、一三○四年(嘉元二)の後深草院の葬送に際して、その葬送の車を裸足で追った二条は、○六年(徳治元)、院の女の遊義門院と再会し、院の三周忌の仏事を聴聞するところで回想は終わっている。鎌倉時代末期の後深草院の持明院統、亀山院の大覚寺統の対立が激しくなっていく時期の公家政権内部の実態を、女性の立場から描いた書物としても貴重である。

 『とはずがたり』に虚構が含まれていることは多くの国文学者が指摘しているのであるが、細川涼一氏の記述には、そうした点への配慮は一切伺えず、『とはずがたり』は歴史的事実を記録した日記であるとしか読めない内容になっている。

 次に、『日本古典文学大辞典』(岩波書店.1984年)での『とはずがたり』の解説を、少し長文にわたるが引用してみたい。

 執筆者の松本寧至氏は『とはずがたり』についての多数の著書・論文を発表されており、『とはずがたり』研究に一生を捧げておられると言っても過言ではない国文学者である。

とはずがたり
五巻 日記文学。後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう)作。作中の後宇多天皇の注記からの割出しで正和二年(一三一三)十一月十七日以前に成立していたことは確かだが、記事最終の嘉元四年(一三〇六)をそう下らずに成ったのであろう。
【作意】鎌倉時代後期、後深草上皇に愛された女性が過去を回想して綴った自伝的作品。「とはずがたり」という題名は作者自身の命名と思われるが、この語が示すように自己の体験・見聞を語らずにいられない衝動に駆られて書いたものである。跋文にも、廃れようとしているわが家の歌道の誉れを再興しようとしたが成功しそうもなく、そのかわりに、華やかだった宮廷生活のこと、西行の跡を慕っての旅の思い出を書いた、といっている。後深草院崩御後の悲しみと孤独感のなかで、自己の存在証明のためには自伝的作品を書く以外になかったであろう。全五巻を大きく前三巻・後二巻に分けると、前編は後深草院御所の生活、後編は東国・西国の旅がおもな内容になっている。宮廷における愛の遍歴、快楽と苦悩と、それを捨てて出家し諸国行脚の仏道修行に新しい生き方を求めて行く女人の生涯を述べたものである。
【梗概】巻一 −二条が後深草院の寵愛をうけた文永八年(一二七一)十四歳の正月から 起筆。翌年、父が死んで孤児となるが、院と並行して「雪の曙」(西園寺実兼)との秘密の関係を続け、罪の呵責に悩む。巻二−高僧「有明の月」(院の異母弟性助法親王、法助とする説もある)の求愛をうけ、また院のはからいによって「近衛大殿」(鷹司兼平)にも身を委ねる。巻三−「有明の月」との関係は院に知られるところとなったが許されて、灼熱の恋として燃えさかる。しかし、かれは流行病にかかって死ぬ。亀山天皇とのことも噂となり、東二条院(後深草院中宮)の排擠にもあって、やがて寵衰えた二条は御所を退出することになる。その後、北山准后貞子九十の賀の盛儀に大宮院女房として出仕する。巻四−かねて念願していた出家を遂げた二条は、西行にならって東国の旅に出る。鎌倉を周遊するうち、将軍惟康親王が廃されて都へ護送されるあわれな様を目撃する。ついで後深草院の皇子久明親王が新将軍として下るその御所の準備などに参画する。ついで小川口(埼王県川口市)に下って越年、善光寺参詣をすませて高岡石見入道の邸に逗留。帰途、武蔵野の秋色をめで、草深い浅草寺に参り、隅田川・堀兼の井などの歌枕をたずねて鎌倉にもどり、帰郷。まもなく奈良路をめぐり、途中石清水で後深草法皇と再会。また伊勢から熱田をまわる。伏見御所に招かれて法皇と往時を語りあう。巻五−それから九年後、正安四年(一三〇二)安芸の厳島をさして旅立つ。厳島からの帰途、足摺岬に行き、帰って西行にならい白峰・松山に崇徳院の旧跡を訪う。またもどって備後の和知に行き、そこで二条の教養が高く評価され、落ちとどまるようすすめられ、豪族間の争いに巻き込まれて、下人にされそうになるが、かつて鎌倉で会ったことのある広沢与三入道に救われて帰ることができた。嘉元二年正月、東二条院崩御、ついで七月に後深草法皇の病悩のことがつたわり、心を悩ますが、ついに七月十六日崩御。悲嘆にくれて裸足のまま霊枢車を追う。その後に法皇三回忌までのことがある。
【特色・影響】愛欲編・修行編は霊と肉の相剋であり、混沌と浄化という対照であるが、一体に立体的に構築されているのが特徴である。後深草院と実兼の性格の相違、または院が好色の対象として召した扇の女とささがにの女の対比、東国の旅と西国の旅、陸路と海路もそうで、作者の論理的な思考と知的な創作力を示す一端である。そして各巻にクライマックスの場面を設定している。物語文学の影響も顕著で、『源氏物語』の影響はもっとも濃厚であるが、構成の巧みさは『狭衣物語』からうけ、女性を主人公とし心理描写の詳しいことは『夜の寝覚』に学んでいる。『伊勢物語』からも想を得ている。説話文学や当時流行の絵巻にも関心を示す。『豊明絵草子(とよのあかりえそうし)』はその絵詞の類似性から二条作者説もあるが、『とはずがたり』の影響作であろう。そのほか先蹤作品から多くを吸収して、虚構的な要素もつよい。史実との矛盾は作者の記憶違いという点もあるが、意識的なものも多い。例えば「有明の月」に関する記事と史実との矛盾ははなはだしいが、作者はもちろん事実を書くより人間性を書くことに目的があったのである。地理の上でも不審が多く、足摺岬行きは虚構とみられている。父への思慕と報恩の念から歌道の誉れを再興したいという宿願をもって作歌に執心するが、これは狂言綺語観の展開であり、文学即仏道という考えで、執筆の背景をなす思想である。旅は西行にならったというが、足跡は一遍と重なるところが多く、二条と時衆は近接関係にあったと思われる。歌も作中に一五八首あるが、大部分は作者の創作であろう。『とはずがたり』は『蜻蛉日記』以来の女流日記における自己観照の精神を仏教によって中世的に自己形成という形で達成した作品である。日記文学の伝統と中世の新しいジャンルである紀行文学の要素とを加えた日記文学の総決算としての意義がある。なお、『増鏡』の「あすか川」「草枕」「老の波」「さしぐし」にかなり多量の引用があり、この歴史物語の重要な資料となった。

 以上の松本寧至氏の記述、特に「梗概」の部分を見ると、『とはずがたり』にはずいぶん盛り沢山の内容が含まれることに改めて驚かされる。『とはずがたり』は極めて多様な場面から構成されていて、目まぐるしく場面が転換して行くことがひとつの顕著な特徴なのである。






 3.『とはずがたり』の虚構性


 さて、松本寧至氏を始めとする殆どの国文学者は、『とはずがたり』に相当に虚構が含まれていることを認めつつ、しかし全体としては『とはずがたり』は事実の記録であり、作者は真実をあからさまに書くのをためらって、細部を「朧化」しているにすぎないのだと説いている。

 しかし、『とはずがたり』の虚構性が、「朧化」などという表現ですまされる程度なのかについて、私は根本的な疑問を抱いている。それを、二条が醍醐寺の尼寺・勝倶胝院に籠もる場面を例として考えてみたい。

 細川涼一氏の「洛東山科における寺院の成立と展開−醍醐寺の歴史と真言密教寺院の展開」(後藤靖・田端泰子編『洛東探訪−山科の歴史と文化』.淡交社.平成四年)には、以下のような記述がある。

 鎌倉時代には、奈良法華寺が尼寺として復興されたのをはじめ、各地に尼寺が造営されたが、下醍醐にも尼の住む子院として勝倶胝院(しょうぐていいん)という子院があった。この勝倶胝院は平安末期に第一七代座主実運(明海)によって建立されたものであるが、第二四代座主(第二六代座主にも復任)成賢は、寛喜三年(一二三一)に、この勝倶胝院の堂舎および付属の山林・田畠を尼真阿弥陀仏(真阿)に譲った。この勝倶胝院は成賢の後世菩提のために不断念仏を行う道場であったが、成賢はこの自分自身の遠忌の勤修を尼真阿に託したのである。こうして、醍醐寺において、尼寺勝倶胝院が誕生した。
 以後、勝倶胝院は、真阿から嵯峨殿(もとの八条院の女房、八条院高倉。醍醐に一時住んだので、醍醐殿とも呼ばれた。高松院〔二条天皇后〕と安居院澄憲の密通によって生れた女子で、のち奈良法華寺に入って空如と号した。)に譲られたが、後に返されて浄意という尼に譲られ、さらに建長四年(一二五二)八月二十日に、浄意から信願(久我家の縁者の尼か。後深草院二条(久我雅忠の娘)の『とはずがたり』に真願房としてその名がみえる)に譲られた。その際の浄意の譲状によれば、勝倶胝院は無縁の尼たちが立ち宿って、不断念仏を勤修する道場であった(「醍醐寺文書」)。
 その後同院は、文永四年(一二六七)に信願から久我通忠の娘、小坂禅尼(後深草院二条の従姉)に譲与され、応長元年(一三一一)に小坂禅尼から万里小路姫君に譲与されて、勝倶胝院は九条家の進止権下に入った。このように、鎌倉時代を通じて、勝倶胝院は尼によって相伝されたのである。
 浄意の信願への譲状には、勝倶胝院は無縁の尼たちが宿って念仏を勤修する道場であると述べられているが、このような寄る辺のない女性たちが尼となって集う場所としての勝倶胝院は、『とはずがたり』にもうかがうことができる。
 すなわち、『とはずがたり』巻一によれば、後深草院二条は、文永九年(一二七二)の父久我(中院)雅忠の死後、縁故のある真願房(信願)を頼って、年の暮れに勝倶胝院に籠っている。院主の真願房は、二条のもの悲しい無聊を慰めようと、年寄った尼たちを集めて過ぎ去った昔の思い出話などもしているが、そこは庭先の水槽に入る筧の水も凍りつく佗しい冬の住居であった。晨朝(暁)から初夜まで、尼たちは交代して、交代時には「誰がし房はどうなさいました。何阿弥陀仏は」などと交代者を呼び歩きながら、念仏を勤行したが、その尼たちの勤行に出る際の衣も、粗末な麻の衣に真袈裟(粗末な袈裟)を形ばかり引き掛けたというものであった。
 二条は建治三年(一二七七)にも後深草院の御所を出奔して勝倶胝院に隠れているが、その際の『とはずがたり』巻二によると、院主の真願房は、勝倶胝院は「十念成就の終りに、三尊の来迎をこそ待ち侍る柴の庵」である、と述べている。すなわち、この尼寺は、寄る辺のない尼たちが終焉の折りに、阿弥陀三尊が来迎して極楽浄土へ往生するだけを待って念仏の勤行をする、賤しい柴の庵だ、というのである。
 真願房のこの言葉は、出奔した二条を訪ねてきた愛人の西園寺実兼に対して、謙譲の言葉として述べられているものであり、そこには多少の誇張もみられるものと思われる。しかし、いずれにしても、勝倶胝院は、父が死んで後ろ盾を失った二条が一時この寺に籠ったように、寄る辺のない無縁の尼たちが集住して念仏を称えながら終焉を待つ(『とはずがたり』に描かれた勝倶胝院の尼にも、老尼の姿が少なくない)、ホスピタリティー施設としてあったのである。

 細川涼一氏は『とはずがたり』の記述を、歴史的事実として、そのまま鵜呑みにしておられる。しかし、この部分はどう考えても異常な話なのである。

 『とはずがたり』によれば、後深草院二条は文永九年(1272)四月に後深草院の皇子を懐妊し、六月頃から体調不良を訴え、八月に父が死亡して将来に不安を感じ、十月に妊娠六か月の身でありながら「雪の曙」と連日同衾し、十二月に「庭先の水槽に入る筧の水も凍りつく佗しい冬の住居」である醍醐の勝倶胝院に、身の回りの世話をする人もないまま一人で籠もり、しかもそこにまず後深草院が、次いで「雪の曙」が吹雪の中を訪問し、「雪の曙」とは終日酒盛りをしたというのである。そして翌年二月には出産である。

 細川氏の引用部分に限っても、十五歳(満年齢なら十四歳)で妊娠八か月の初産の女性が、旧暦十二月、吹雪もある厳寒の時期に醍醐のような寂しいところに一人で籠もり、しかも訪ねてきた愛人と終日酒盛りをやっていたというのである。  細川涼一氏は本当にこれらに疑いを抱かないのであろうか。これほど不自然な点があるのに、『とはずがたり』を事実の記録として、ここまで安易に引用してよいのだろうか。

 ところで二条は醍醐の勝倶胝院に二度籠もるのであるが、二度目は建治三年(1277)、二条が二十歳のときに起きた「女楽事件」がきっかけになっている。

 二条は女楽(おんながく)という源氏物語を模した音楽の催しにおいて、もともと明石の上という身分の低い役柄に不満であった上に、祖父四条隆親が、自分の晩年の子で、二条にとっては一応叔母にあたる「今参り」をえこひいきして、演奏者の位置について介入してきたことに激怒し、当てつけがましい歌を残して御所を飛び出し、行方不明になってしまうのである。

 原文ではもっともらしいことをいっぱい言っているのであるが、素直に考えれば異常なまでの気の強さ、あくのつよさ、不羈奔放ぶりである。いくら頭にきたからといって、少しふてくされる程度ならともかく、勤務先を飛び出して行方不明になってしまうのだから尋常ではない。後深草院や亀山院の口を借りて、自己正当化のための弁明も執拗になされているが、どう考えても二条は変な女である。

 細川涼一氏は「勝倶胝院は、父が死んで後ろ盾を失った二条が一時この寺に籠ったように、寄る辺のない無縁の尼たちが集住して念仏を称えながら終焉を待つ(『とはずがたり』に描かれた勝倶胝院の尼にも、老尼の姿が少なくない)、ホスピタリティー施設としてあったのである」などと言われて、二条の言うことを完全に真に受けておられるが、二条のような性格の人間の証言をそのまま信じてよいのであろうか。

 「賤しい柴の庵」で、「終焉の折に、阿弥陀三尊が来迎して極楽浄土へ往生するだけを待って念仏の勤行」をしている「寄る辺のない尼たち」が、二条のような自分勝手な人間を暖かく迎えるということが、人間の自然な心理として本当にありうるのだろうか。

 それは、例えば、あくまで仮定の話ではあるが、男とやりたい放題遊び回って野村沙知代に説教された神田うのが、野村沙知代と大喧嘩したあげく、頭にきて仕事をほっぽりだし、世間の目を誤魔化すために修道院に隠れ、しかもその修道院にまで男をひっぱりこんでいるにもかかわらず、そこで静かな信仰生活を送っていた中高年の敬虔な修道尼たちが神田うのを好意的な目で見守り、なにくれとなく親切に世話をしてあげるようなものではないだろうか。つまり人間の自然な心理としては絶対にありえないことではなかろうか。

 また、「愛人の西園寺実兼」が、関東申次という極めて重要な職務を放擲して、こんな身勝手な女をあちこち探し歩くようなことが本当にありえたのかも疑問である。

 西園寺実兼に関しては、鎌倉・南北朝期の公武間の交渉について緻密な研究を重ねておられる森茂暁氏が、『鎌倉時代の朝幕関係』(思文閣出版)p42において次のように書かれている。

 さて、当面の問題はこの西園寺実氏の関東申次としての活動と朝幕関係との係わりである。実氏の執務状況・態度を考えるとき、『公衡公記』(実氏の玄孫公衡の日記)弘安六年(一二八三)七月二十一日条にみえる「故入道(実氏)殿御時、故太政大臣(公相、実氏息)殿曾無令申次給事、入道殿毎度老骨令参給」という記事は参考になる。これは当時の関東申次西園寺実兼(公相息)が病気のため東使が院参する日に出仕が困難という状況の中で、余人に代替させようという案も出てきた時、結局これを受け入れなかった実兼が述べた言葉である。すなわち、祖父実氏は関東申次の職務を子息など余人に代替させたことはなく、毎度本人が老骨に鞭うって、これを勤めたし、今更その儀に違ってはならない、というのである。関東よりの申し入れの上奏は関東申次自身がこれを行うのが「御定」だとまで言い切っている点も、この職務が専門職化、家職化した様子を示していて興味深い。このとき実兼は病を押して院参、その任務を果たしている。

 実兼は父の公相(1223〜67)が祖父実氏(1194〜1269)より先に亡くなってしまったため、文永六年(1269)、若干二十一歳(満年齢なら二十歳)で関東申次の職を祖父から承継した。そして、文永十一年(1274)の文永の役当時は二十六歳、この『公衡公記』の記事の書かれた弘安六年(1283)当時は三十五歳である。

 『とはずがたり』巻一には、二条が後深草院の子を宿すはずのない期間に「雪の曙」の子を妊娠し、その事情を隠すために出産時には人を遠ざけ、後深草院には早産と偽りの報告をしたとの話が出てくるが、そこでは「雪の曙」は、世間には春日神社に籠もったと称して、二条の秘密の出産に付き添っていたことになっている。

 国文学会の通説によれば、これは文永十一年(1274)九月のことであって、「雪の曙」こと西園寺実兼は、まだ関東申次としての経験が極めて浅く、しかも初めての元寇(文永の役)という危機的状況の中で、愛人の出産のために実質的に職務を放棄していたとされているのである。

 しかし、弘安六年(1283)、即ち弘安の役の二年後の比較的忙しくない時期においてすら、病気を押し切って関東申次の職務を全うした西園寺実兼が、元寇の直前という重大時局に際して、愛人の出産のために職務を放棄したなどということは絶対にありえなかったと私は思う。同様に西園寺実兼が、勝手に御所を飛び出した愛人を捜すために、わざわざ醍醐のようなところに自ら出向いたとは私にはとうてい思えない。

 『とはずがたり』のような奇妙な本から離れて、当時のきちんとした史料から伺われる西園寺実兼の姿を素直に見ると、西園寺実兼はびっくりするくらい真面目人間なのである。西園寺家は、実兼の祖父実氏も、実兼も、実兼の息子公衡も、みんな誇りと責任感を持って関東申次の仕事を行っていたのであり、精神の退廃の気配など微塵もないのである。

 そして、西園寺実兼のみならず、後深草院も、「有明の月」とされている性助法親王も、変態老人「近衛の大殿」とされている鷹司兼平も、『とはずがたり』や『とはずがたり』を大量に引用している『増鏡』から離れて、当時のきちんとした史料に残された記事を積み重ねて行けば、『とはずがたり』とは全く異なる人物像が描き出されてくるのである。






4.『とはずがたり』の構造


 国文学者たちは『とはずがたり』を整合的に把握しようとして、年表を作ったりして詳細な研究を重ねているのであるが、『とはずがたり』に本当に整合性があるのだろうか、というのが私の基本的な疑問である。これを「粥杖事件」を素材として検討してみたい。

 「粥杖事件」というのは二条が十八歳のときに起こした騒動で、学者たちが作った年表によれば建治元年(1275)のこととされている。『とはずがたり』の特徴、作者二条の性格を分析するために非常に重用な部分だと思われるので、少し丁寧に紹介してみたい。

@ 一月十五日の小正月には粥杖の風習があり、この日、粥を煮た燃えさしの木で作った杖で女性の尻を打つと男児を生むとされ、例年大騒ぎすることになっていたが、この年(建治三年)の小正月に、後深草院は自分自身だけでなく御近習の男たちまで集めて女房たちを打たせた。これが悔しくて、二条と「東の御方」(煕仁親王即ち伏見天皇の母)が申し合わせ、十八日に後深草院をひっぱたこうと計画した。そして他の女房を見張りに立てたうえで、「東の御方」が後深草院をつかまえている間に、二条が粥杖で後深草院を思うさまにひっぱたいた。

A 「しおほせたり」(うまくやった)と思っていたところ、その日の夕方、後深草院が公卿たちを前にして、「わたしは今年三十三歳になるが、その厄に負けた。こんな目にあったのだ。天子に杖を当てるなんてとんでもないことだ」と言い出した。すると、二条の叔父で、お調子者の善勝寺大納言隆顕がしゃしゃり出てきて、「そんなことをした女房の名前は誰々でございますか。急ぎ承って、罪科の趣を公卿一同で協議いたしましょう」と言う。しめしめと思った後深草院が、「罪の科は親類にも及ぶのであろうか」と問いかけると、隆顕をはじめとする公卿たちは、「申すまでもありません」と答える。すると後深草院は、「私を打ったのは久我大納言雅忠の娘、四条大納言隆親の孫、善勝寺大納言四条隆顕の姪で、隆顕卿の養子でもある二条殿なのだから、まず第一にあなたが責任を負うべきで、ひと事ではないだろう」と隆顕に言う。御前に控えていた公卿たちがいっせいに大声ではやし立て、笑い騒ぐ。結局、四条大納言隆親と息子の善勝寺大納言隆顕が贖(あがない.財物を出して罪を償うこと)をすることになる。

B 二条の母方の親戚である隆親と隆顕は贖のプレゼントを用意して大宴会を開く。隆顕は「自分たちは贖をすませたけれども、二条の父方の親戚にも責任があるので、久我の尼にも贖をさせるべきです」と言い出す。すると久我の尼は、「二条は幼いときから御所に召されていたので、里方で育てるよりも立派に育っていると思っていたのに、こんないたずら者になっているとは知りませんでした。これは後深草院さまの責任です。父親の雅忠が生きていれば、不憫に思って贖をしたかもしれませんが、私は全く関係がないので、勘当せよということでしたらそうします」と反論の手紙を院に提出する。

C 公卿たちは久我の尼の反論はもっともだと言って、後深草院にも責任がある、と言い出す。後深草院は驚いて、「私自身のために贖をさせたのに、まわりまわって私が贖をするなどということがあるものか」と言うのであるが、「主上として科があるとおっしゃるのであれば、臣下の方としても、また御上の科を申し上げるのも理由のないことではございません」ということになって、結局、後深草院も贖をすることになり、中御門経任が用意することになる。二条は「をかしくも堪えがたかりしことどもなり」(おかしくってしかたがなかった)と言って終わりになる。

 つまり「粥杖事件」は四幕もののコメディになっているのである。初春の明るい宮中の雰囲気が伝わってきて、文章も極めてスピーディで本当に楽しい場面である。しかし、学者は誰ひとり指摘しないけれども、この場面は極めて異常だと私は思う。いったいどこが異常なのかというと、実にこの明るさが異常なのである。分かりやすくするために、この時点での二条の履歴書を作ってみることとしたい。


 
履歴書
 
1275年(建治元年)1月18日現在

氏名 後深草院二条(久我雅忠女二条)
年齢 18歳(満年齢17歳)
生年月日 1258年(正嘉2年)1月
住所 京都市中京区二条富小路殿(後深草院御所)内
電話番号 なし
学歴 4歳より自宅(久我雅忠邸)と後深草院御所を往復し、宮廷女性としての礼儀作法と一般教養をOJTにて学ぶ。
職歴 14歳にて正式に女房となり、現在に至る。
得意な学科 国語(『源氏物語』や西行の歌を好む。)
特技 音楽、特に琵琶。6歳より叔父久我雅光に習い始め、9歳より後深草院に学ぶ。後嵯峨院より誉められたこともある。また、絵も上手。
健康状態 良好
特にアピールしたい点 とっても明るくお茶目な性格です。
家族 なし


 こういう状況を想定していただきたい。あなたがある企業の採用担当者だとする。高校卒業予定者の面接の日にやってきたのは目の覚めるような美少女で、頭の回転が速く、ハキハキとしゃべり、性格も明るくて良さそうだ。履歴書も特に気になる点はないので、あなたはこの子を是非採用したいと思ったとする。ただ、家族の欄が「なし」となっているのが気になったので、あなたは何気なくこう質問するのである。

 「立ち入ったことを聞くようだけど、ご家族は何をしていらっしゃるのかな」

すると少女は満面に笑みを浮かべつつ、次のように答えるのである。

 「母は私が二歳の時に亡くなり、父は三年前に病死しました。実は四年前にある社会的地位の高い人の愛人になって、二年前に子供が一人生まれましたが、三か月前に死にました。また、その子を妊娠中に別の男性と不倫関係となり、四か月前にその男性の子を生みましたが、赤ちゃんはその人がどこかに連れていってしまい、今は会っていません」

 あまりのことに卒倒しかけたあなたは、それでも最後の勇気をふりしぼって、こう聞いてみるのである。

 「ええと、ちょっと前に、ほら宗教関係のことがいろいろ話題になったけど、あなたは何か特別な宗教団体に入ったりとかしてないかな」

 すると、少女は明るくハキハキと、こう答えるのである。

 「不倫の結果生まれた二番目の子どもと別れなければならなかったり、一番目の子どもが死んだり、とても悩み事が多かったので三か月前に出家しようと決意しましたが、都合によりやめました」


 二条は「粥杖事件」のわずか三か月前に、「前後相違して、愛児に先立たれた悲しみと、生きて愛児に離別した苦しみと、この二つがただわが身一つに集まった思い」がして、「人間の習いとして苦しんでばかり明け暮れる、一日一夜に生ずる八億四千とかの妄念の悲しみも、ただ私一人に集まっているように思い続けられると、そうだ・・そうだ、いっそただ恩愛に苦悩するこの境涯から離れて、仏弟子になってしまおう」(次田香澄氏『とはずがたり(上)全訳注』p203)と決意しているのである。なんと十七歳にして出家したいと思うのである。

 ところが、こんな重大な決意をしたにもかかわらず、その三か月後の「粥杖事件」時においては、二条は何の屈託もなく明るい。あまりといえばあまりな明るさである。

 私は数年前の紅白歌合戦において、沙也加ちゃんの母である松田聖子が、異常に幼稚な舞台装置のもとに、異常に幼稚なコスチュームを着て、昔のヒット曲をメドレーで歌いまくるのを見て、背筋に悪寒を感じた覚えがあるが、そんな明るさとすら比べようのない、異常な、血も骨も凍る、鬼気迫る明るさである。

 このように『とはずがたり』はとても変な話なのである。ひとつひとつの場面は非常に良くできているのであるが、それぞれの場面の関係を真面目に考えようとしたとたん、迷宮に入り込んだような感じになってしまうのである。

 学者たちはなんとか『とはずがたり』に整合性を持たせようとして必死になって説明するのであるが、私にはさっぱり理解できない。私は国文学者だけでも百人近い学者の論文を読んでいるが、納得できる説明はただのひとつもないのである。学者たちの説明は、『とはずがたり』から自説に都合のよい部分だけを恣意的に取り上げた、ずいぶん乱暴な議論としか思えないのである。

 ここに紹介した例でも明らかなように、『とはずがたり』に普通の日記や自伝、あるいは小説にあるような整合性を求めることは、いくらなんでも無理だと私は思う。むしろ通常の意味での整合性がないことを前提に、なんでこんな変てこな話ができたのかを考えた方がよいと私は思うのである。

 このような観点から、改めて『とはずがたり』の構造上の特徴をとらえなおしてみたい。『とはずがたり』、特にその宮廷編においては、後深草院を始めとして亀山院・「有明の月」(性助法親王?)・「近衛の大殿」(鷹司兼平?)などが次から次へと変態的行動をとっている。二条自身の行動も相当変である。

 これらを整理すると、『とはずがたり』においては、

@ 異常な設定の下に、
A 異常な人物達が、
B 異常な言動を次から次へとくりひろげ、
C 物語の全体的な構造を合理的・統一的・整合的に把握することが極めて困難ないし不可能であるが、
D しかし、ただ何となくずるずる読んでいると、それなりに納得してしまう。

のである。

 これは一見すると極めて特異な構造のように思えるが、実はわれわれが日常見慣れているものと全く同一のパターンを示している。それはテレビドラマである。

 ちょっと古いが、現代のテレビドラマの特徴が鮮明に現れていた『家なき子』(1994年.日本テレビ.土曜夜9時.安達祐実主演)を例にとってみたい。

<『家なき子』の主人公、相沢すず(十一歳)の母親は難病で入院中。相沢すずは学校では貧乏だといじめられ、 家に帰ればアル中の義理の父親に金をせびられる。 教室で金を盗んだとクラスメイトからつるしあげられても、絶対にやっていないとシラを切るが、「相沢は絶対に盗んではいないと信じてる」という担任片島には 「甘いねぇ。一生青春やってろ」と手厳しい。 父親が女を部屋に連れ込むと、 夜中に灯油をまいて火をつける。 しかも、父親が火をつけたと警察に嘘の証言をして‥‥‥‥>

 私はこの続きを良く知らないのであるが、仮に『家なき子』の全シナリオを取り寄せて、全回にわたって登場人物ひとりひとりの言動をいちいち記録し、年表を作って、相互に矛盾がないかを細かく検証してみるとしたら、いったいどうなるであろうか。

 考えるだけでもおぞましい作業であるが、その検証作業の結果現れてくるのは、多重人格、それも二重や三重といった生やさしいものではない多重人格の化け物以外ないであろう。

 つまり、『家なき子』においては、

@ 異常な設定の下に、
A 異常な人物達が、
B 異常な言動を次から次へとくりひろげ、
C 物語の全体的な構造を合理的・統一的・整合的に把握することが極めて困難ないし不可能であるが、
D しかし、ただ何となくだらだら見ていると、それなりに納得してしまう。

のである。ま、これは別に『家なき子』の独創ではなく、山口百恵の『赤いシリーズ』以来、多かれ少なかれテレビドラマはこんなものである。

 このように『家なき子』においては物語の全体を合理的・統一的・整合的に把握することは不可能なのであるが、しかし、だからといって、『家なき子』をみた視聴者から日本テレビに怒りの電話が殺到し、他のマスコミが日本テレビに激烈な批判を加え、日本テレビの特別調査委員会が内部調査を開始し、担当プロデューサーがクビになり、責任を痛感した社長が陳謝の記者会見を行ったうえで辞職した、という話もあまり聞かない。

 要するに高視聴率狙いの連続テレビドラマにおいては、物語の全体性・ストーリーの整合性などどうでもいいのである。各回の視聴率が上がりさえすれば何でもあり、である。視聴率を上げるためにはマスタードの上にわさびを塗り、さらに唐辛子をかけて、仕上げにタバスコをふるようなことも平気でやるのである。テレビ局が注意しているのは、せいぜい直前の回までのストーリーとあまりにかけ離れた内容となってしまって、視聴者にバカバカしいと思わせてはならない程度のことである。また視聴者も、テレビというのはそんなものだと許容しているのである。

 そして、『家なき子』と殆ど同じことが『とはずがたり』においても言えるのではないかと私は思うのである。作者はそもそも物語の全体性・ストーリーの整合性をあまり重視していないのではないか。作者が力を注いでいるのは、ひとつひとつの場面をどれだけドラマチックに盛り上げるか、その一点だけなのではないか。あとは一応の歴史的事実を背景にして、一話完結の数多くの話を、だらだら読んでいる分にはあまり矛盾が目立たない程度に巧みに編集した物語なのではないか。私にはそんな風に思われるのである。

 私は別に奇矯なことを言っている訳ではなく、ひとつひとつの場面を重視し、全体の整合性はあまり考慮していない作品は、テレビでなくたってたくさんあるのである。例えば赤川次郎氏の作品もそうである。

 赤川次郎氏の作品は推理小説のような形態をとってはいるが、詰めて考えて行くと、殆ど全ての作品に矛盾や破綻がある。ある場面でAという行動をとった人が、さほど時間的間隔が離れていない別の場面でBという行動をとることは、人間の自然な心理として絶対にあり得ないのに、それが起きてしまう。そうした事象が次々と連続しているのが赤川ワールドである。

 整合性のないことは許せないという信念の持ち主からすれば、こういう小説があること自体ミステリーなのかもしれないが、大多数の読者は別にそんなことは気にしない。赤川次郎氏の作品が極めて多くの読者を獲得しているのは、全体の構成がしっかりしているからではなく、ひとつひとつの場面がとても生き生きとしていて、会話が洒落ていて、文章に心地よいスピード感があって、現代人の感覚に適合しているからである。

 整合性のない文学作品もあっておかしくはないのであって、すべての文学作品に厳密な整合性を求め、年表を作ったりして詳細に事実関係を調査したりするのは、それ自体が異常な行動の場合もあり得るのである。私は率直に言って、『とはずがたり』の年表を作ったりするのは、『サザエさん』や『水戸黄門』の年表を作るくらい変なことなのではないかと思っている。

 『とはずがたり』の構造が私の考えているようなものだとしても、本当の問題はその制作動機であるが、それは後で検討したい。

 なお、過去二十数年にわたって中世史学会をリードしてきた網野善彦氏は、名著との評判が高い『蒙古襲来』において、「粥杖事件」を事実の記録として全面的に引用しているが、率直に言って、ちょっと莫迦っぽいと私は思っている。






 5.『とはずがたり』の「リアル」さ


 『とはずがたり』の「リアル」さは、多くの学者から驚異的なものとして受け取られているが、私は全く異なる意見を持っている。『とはずがたり』の原文がどのようなものであるのかの紹介も兼ねて、『とはずがたり』の「リアル」さについて、少し検討したい。

 検討の素材としては、巻二の終わり、今様伝授のために伏見殿に後深草院の御幸があり、そこで「近衛の大殿」が後深草院の了解のもとで二条と契る場面をとりあげる。ここは『とはずがたり』の中でも屈指の変態的場面のひとつである。まず、原文を紹介する。(『とはずがたり(上)全訳注』p407以下)

 今日は御所の御雑掌(ざしやう)にてあるべきとて、資高(すけたか)承る。御事おびたたしく用意したり。傾城(けいせい)参りて、おびたたしき御酒盛なり。御所の御はしりまひとて、ことさらもてなしひしめかる。沈(ぢん)の折敷(をしき)にかねの盃(さかづき)すゑて、麝香(ざかう)のへそ三つ入れて、姉賜(たま)はる。かねの折敷に、瑠璃(るり)の御器(ごき)にへそ一つ入れて、妹(おとと)賜はる。
 後夜(ごや)打つほどまでも遊び給ふに、また若菊を立たせらるるに、「相応和尚(さうおうくわしやう)の破(われ)不動」かぞゆるに、「柿の本の紀僧正(きそうじやう)、一旦(いたん)の妄執(まうしふ)や残りけん」といふわたりをいふ折、善勝寺きと見おこせたれば、我も思ひ合はせらるるふしあれば、あはれにも恐ろしくも覚えて、ただ居たり。のちのちは、人々の声、乱舞(らんぶ)にて果てぬ。
 御殿(との)ごもりてあるに、御腰打ち参らせて候(さぶら)ふに、筒井の御所のよべの御面影、ここもとにみえて、「ちともの仰せられん」と呼び給へども、いかが立ちあがるべき。動かでゐたるを、「御(お)よるにてあるをりだに」など、さまざま仰せらるるに、「はや立て。苦しかるまじ」と、忍びやかに仰せらるるぞ、なかなか死ぬばかり悲しき。御あとにあるを、手をさへ取りて引き立てさせ給へば、心の外に立たれぬるに、「御とぎにはこなたにこそ」とて、障子(しやうじ)のあなたにて仰せられゐたることどもを、寝入り給ひたるやうにて聞き給ひけるこそあさましけれ。
 とかく泣きさまだれゐたれども、酔(ゑひ)心地やただならざりけん、つひに明けゆくほどに帰し給ひぬ。我過さずとはいひながら、悲しきことを尽して御前に臥したるに、殊にうらうらとおはしますぞ、いと堪へがたき。
 今日は還御(くわんぎよ)にてあるべきを、「御名残多きよし傾城(けいせい)申して、いまだ侍る。今日ばかり」と申されて、大殿より御事参るべしとて、また逗留(とうりう)あるも、またいかなることかと悲しくて、局(つぼね)としもなくうち休みたるところヘ、
 「みじか夜の夢の面影さめやらで心に残る袖の移り香
近き御隣の御寝覚もやと、今朝はあさましく」などあり。
  夢とだになほわきかねて人知れずおさふる袖の色をみせばや
たびたび召しあれば、参りたるに、わびしくや思ふらんと思し召しけるにや、殊にうらうらと当り給ふぞ、なかなかあさましき。

 次田香澄氏の現代語訳は以下の通りである。

 今日は院のお受持ちとしようということで資高(すけたか)が仰せを承る。御酒宴を盛大に用意した。白拍子(しらびょうし)が参って盛んなお酒盛である。院の御馳走だというので、格別に騒ぎ立ってもてなされる。沈香(じんこう)の折敷(おそき)に「かね」の杯を載せて、それに麝香(じゃこう)の固まりを三つ入れて姉が頂戴する。「かね」の折敷に、瑠璃(るり)の器(うつわ)に麝香の固まりを一つ入れて妹が頂戴する。
 後夜(ごや)の鐘を打つほどまでもお遊びになったが、また若菊を立たせて舞わせられるときに「相応和尚(かしょう)の破(われ)不動」の今様を(鼓の拍子に合せて)歌うと、 柿の本の紀僧正、一旦(いたん)の妄執(まうしふ)や残りけん (柿の本の紀僧正が后を恋い幕い、いったん思い込んだ妄執がさぞ残ったことだろう)という辺りをいう折に、善勝寺(隆顕)がちらっと視線を送ってきた。私も思い合せられることがあるので胸を突かれ、また恐ろしくも思われて、じっと座っていた。後々には、人々の大声や乱舞になって宴は終った。
 院がお寝みになっているときに、おそばで御腰を打ってさし上げていると、筒井の御所の昨夜のお方が、すぐそこにみえて、「ちょっと用があります」とお呼びになるが、どうして立ち上がることができよう。動かないでいたところ、「御所がお寝みになっている折なりと」など、さまざまにおっしゃられる。
 すると院が、「早く立って行きなさい。差支えあるまい」と、忍びやかにおっしゃられるのは、かえって死ぬほど悲しい。院の御足もとに侍っているのを、私の手を取ってまでお引き立てになるので、心ならずも立ちあがったが、「御所のお相手のときにはこちらに返してあげますよ」と、大殿が襖のあちらでおっしゃっていたことどもを、院が寝入っているようにしてすっかりお聞きになっていたのは、なんともあさましいばかりだった。
 あれやこれやと泣きくずれていたのだが、たぶん二人とも酔い心地が普通ではなかったのだろうか、結局明けゆくころにやっとお帰しになった。自分からの過ちではないとはいえ、ありたけの悲しい思いをして院の御前に臥していると、格別に御きげんよくていらっしゃるのは、ほんとうに堪えがたかった。
 今日はお帰りのはずだったが、
「傾城(けいせい)がお名残多いと申して、まだおります。今日だけもう一日」と申され、大殿のほうで御酒宴を御用意申しあげようとて、さらに御逗留(とうりゅう)があるのも、またどういうことになるかと悲しくて、局(つぼね)というほどでもないところでちょっと休んでいると(大殿から)、
「みじか夜の夢の面影さめやらで心に残る袖の移り香
(短夜に結んだあなたとの夢の面影が、今もなお覚めやらず、袖に残った移り香とともに心に残っています)
 「すぐおそばの方(院)が目を覚まされるのではと、今朝はすべてはばかられて」 などとあった。(返し)
夢とだになほわきかねて人知れずおさふる袖の色をみせばや
(ゆうべのことは夢とさえまだ区別しかねて、人知れずおさえている私の袖の涙のほどを見ていただきたいと思います)

たびたび院のお召しがあるので、参ったところ、私がつらく思っているだろうと思われたのだろうか、ことに御きげんのよい御様子でお扱いになるのは、かえって、ひどくつらく、言葉もなかった。

 ここは『とはずがたり』の中でも、その異常性で有名な場面であって、次田香澄氏は「解説」で次のように言われている。

 大殿が傍若無人にも、院の側にいる彼女を呼び出そうとすると、院が積極的に立たせる。彼女が院の心をはかりかねて、「なかなか死ぬばかり悲し」く思うのも当然である。まして、彼の所から帰って後、「ことにうらうらとおはしますぞ、いと堪えがたき」、さらに「殊にうらうらとあたり給ふぞ、なかなかあさましき」と二度にわたり言っているのは、彼女のつらさのほどがわかる。それにしても院の態度はもはや異常を通り越して不可解である。

 確かにここに描かれた「うらうら」している後深草院の姿は極めて不可解で不気味なのであるが、そうかと言って二条の態度も相当に変である。

 本当に二条が後深草院と近衛大殿に異常な行為を強要された「被害者」なら、その心理的衝撃は非常に大きくて、まさに「死ぬばかり悲し」いはずであり、普通だったらショックで茫然自失となったり寝込んだりするのが当然だと思われるが、二条は寝込むどころか、「加害者」近衛大殿が贈ってきた歌に対して、のんびり返歌を詠んだりしているのである。

 続きがあるので、原文から紹介する。

 事ども始まりて、今日はいたく暮れぬほどに御舟に召されて、伏見殿へ出(い)でさせおはしはします。更けゆくほどに、鵜飼(うかひ)召されて、鵜舟、端(はし)舟につけて、鵜使はせらる。鵜飼三人参りたるに、着たりし単襲(ひとへがさね)賜(た)ぶなどして、還御(くわんぎよ)なりてのち、また酒参りて、酔(ゑ)はせおはしますさまも今宵はなのめならで、更けぬれば、また御(お)よるなる所へ参りて、「あまた重ぬる旅寝こそすさまじく侍(はべ)れ。さらでも伏見の里は寝にくきものを」など仰せられて、「脂燭(しそく)さして給(た)ベ。むつかしき虫などやうのものもあるらん」と、あまりに仰せらるるもわびしきを、「などや」とさへ仰せ言あるぞ、まめやかに悲しき。「かかる老いのひがみは、思(おぼ)し許してんや。いかにぞやみゆることも、御めのとになり侍らん古きためしも多く」など、御枕にて申さるる、いはん方なく悲しともおろかならんや。例のうらうらと、「こなたもひとり寝はすさまじく、遠からぬほどにこそ」など申させ給へば、よべの所に宿りぬるこそ。
 今朝は夜のうちに還御(くわんぎよ)とてひしめけば、起き別れぬるも、憂き殻残るといひぬべきに、これは御車の尻(しり)に参りたるに、西園寺(さいをんじ)も御車に参る。清水の橋のうへまでは、みな御車を遣(や)りつづけたりしに、京極より御幸(ごかう)は北へなるに、残りは西へ遣り別れし折は、何となく名残惜しきやうに、車の影のみられ侍りしこそ、こはいつよりの習はしぞと、わが心ながらおぼつかなく侍りしか。

 次田香澄氏の現代語訳は以下の通りである。

 御酒宴が始まって、今日はあまり暮れないうちに御舟に召されて、伏見殿へおいでになられる。夜が更けゆくころに、鵜飼をお呼びになって、鵜舟をお召しの舟の端(はし)舟としてつけて、鵜をお使わせになる。鵜飼が三人参っていたのに対し、私が着ていた単襲(ひとえがさね)を脱がせて賜わるなどして、(下の御所ヘ)お帰りになって後、また酒を召しあがって、お酔いになるさまも今宵はひととおりでなく、夜も更けたころ、またお寝(やす)みのところへ大殿が参って、
 「度重なる旅寝はほんとうに味気ないものですよ。そうでなくても伏見の里は寝にくいといわれていますのに」 などおっしゃられて、
 「脂燭(しそく)をさしてください。いやなむしなどのようなものもいるでしょうから」
 と、しつこく申されるのもやり切れないのに、「どうして行かないのか」とまで院の仰せがあるのは、これはほんとうに悲しい。
 「こういう老人のひがみは許してくださいませんか。すこし釣合わないようにみえても、お守役になるという古い例も多いことだから」
 などと、院のお枕もとで申されるのは、なんと言いようもなく、悲しいどころではない。院は例のように御きげんよく、
 「こちらもひとり寝は物寂しいから、あまり遠くない所にいてくれよ」などおっしゃられるので、また昨夜の所に泊ったのは、(なんとも堪えがたいことであった。)
 今朝はまだ暗いうちにお帰りとて騒ぎ立つので、起き別れたのも、「憂き殻のこる」というような心地であったが、私は院のお車に同車でお供したが、西園寺も同じお車に御奉仕される。清水の橋の上まではみなお車をひき続けたが、京極通りから院の御一行は北へおいでになるのに、残りの車は西へ行き別れた折には、なんとなく名残おしいようにあちらの車のうしろ影が見送られたのは、これはいったい、いつからそんな気持になったのだろうかと、わが心ながらおぼつかなく思ったことだった。

 これで巻二は終わるのであるが、次田香澄氏は「解説」で次のように述べておられる。

 初めに、院が彼女の着ている衣を鵜匠に与えさせるところがある。これは、今回の伏見行きに、曙から贈られたものであり、曙はこの様子を傍らでみて、さぞおもしろからず思ったろう。院としては、昨夜の筒井の御所のことも、この件も、彼女と曙との関係を知悉した上で、あえていやがらせをしたことになる。しかし曙としては悔しくてもどうにもならない。そうした彼女をめぐる男たちの卍巴(まんじどもえ)の心理の葛藤が暗黙のうちに想像される部分である。 終りの、五条橋を渡って車が遣り別れるときの作者の心理も、これまでの経過と作者の心情からすれば不可思議に思われる。しかし、女性の微妙な心理を理解すれば、女性の内面的な秘密を告白したものだと知るのであり、ここに物語・小説などの創作では求めえない真実の迫力を感じないではいられない。巻二を院・大殿と作者との関係で終ったことは、その関係の異常性が、巻三において院有明と作者との関係、同時に曙との関係の終焉として発展する前表とみることができよう。

 私はあまり「女性の微妙な心理を理解」できないので、次田香澄氏の言われることはよく分からない。こんなのんびりした感想を抱くような人が本当に「死ぬばかり悲し」とか「いはん方なく悲し」などと思っていたのか、この人が本当に「被害者」なのかという疑いを深めるばかりである。

 また、そもそも「女性の内面的な秘密」がどうのこうのと言う前に、もっと外面的なところで詰めておくべき作業があるように思われる。それはこの伏見御幸が行われた時期についての検討である。

 『とはずがたり』を素直に読む限り、この伏見御幸が行われたのは「女楽事件」と同じ年である。二条が「女楽」の配役をめぐって祖父隆親と大喧嘩し、御所を飛び出して行方不明になったのが、国文学者の「年立て」によれば建治三年(1277)三月のことであり、翌四月に善勝寺大納言隆顕が父隆親と対立して籠居、同じ四月末に二条は醍醐で隆顕と会い、また隆顕・雪の曙と三人で語り合い、さらに後深草院に迎えられて御所に戻る。そして八月になって伏見御幸が行われるのであるが、実は二条は「女楽事件」のときには妊娠していたことになっていて、懐妊は前年の十二月頃と書かれているのである。

 そうだとすれば、伏見御幸が行われた建治三年八月には二条は妊娠九か月であり、出産直前の時期であるが、そういう時期に牛車にガタガタ揺られ、船に乗って伏見くんだりまで行くこと自体が奇怪であり、また近衛大殿が後深草院の了解のもとで妊娠九か月の女と連日同衾したとすれば、それはグロテスクとしか言いようのない光景である。

 次田香澄氏、久保田淳氏、三角洋一氏といった錚々たる国文学者の書かれた『とはずがたり』の注釈書には、いずれも詳細な年表が付されていて、そこには女楽事件が建治三年三月、伏見御幸が同年八月と明記されているのであるが、これはいったいどういうことなのだろうか。学者たちは、詳細な年表まで作りながら、何の疑問もいだかないのだろうか。

 私は、伏見御幸の時期ひとつとっても、ここで語られていることに「真実の迫力」など全く感じない。伏見御幸の話は確かにその描写が「リアル」で異常な迫力があるが、それは「真実の迫力」ではなくて、特別な才能を持つ作家の手により緻密に構成された濃密な演劇的空間においてのみ生まれる「虚構の迫力」だと考える。それは「物語・小説などの創作で」なくて「は求めえない」リアルさだと考える。






 6.地名の誤り


 『とはずがたり』の前三巻(宮廷編)と較べると、後二巻(廻国編)は内容が地味で、虚構性も高くないように見えるのであるが、詳しく検討すると、そうでもないのである。ずいぶん奇妙な記述が多いのである。

 例えば巻四で、正応二年(1289)、二条が鎌倉入りする場面には次のような記述がある(『とはずがたり(下)全訳注』p219)。

 夜が明けると鎌倉へはいったが、極楽寺という寺へ参ってみると、僧の所作は都と違わないのをなつかしく思ってみた。化粧坂(けわいざか)という山を越えて鎌倉のほうをながめると、東山で京をみるのとはだいぶ違って、家々が階段のように幾重にも重なって、袋の中に物を入れたようにぎっしりと住まっているのは、ああやりきれない、とだんだん見えてきて、心の惹かれるような気もしない。 由比の浜というところへ出てみると、大きな鳥居がある。若宮のお社がはるかにお見えなので、───他の氏よりはとくに源氏を守って下さるとか、お誓いになっているということだが、自分は縁があったればこそ源氏の名門に生れたのだろうに、どういう報いでこうなのであろうと考えてみると、───そうだった、父が来世に極楽に生れ変るようにと(石清水八幡に)祈誓申した折、「おまえの現世の幸福と引替えに、かなえよう」と承ったので、(それを)恨み申すわけではないけれど……たとえ乞食の境涯におちても嘆くことはできない。

 原文では「明くれば鎌倉へ入るに、極楽寺といふ寺へ参りてみれば、僧の振舞、都にたがはず、懐しくおぼえてみつつ、化粧坂(けはひざか)といふ山を越えて、鎌倉の方(かた)をみれば、東山(ひんがしやま)にて京を見るにはひきたがへて、階(きざはし)などのやうに重々に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる、あなものわびしとやうやう見えて、心とどまりぬべき心地もせず。……」となっていて、この場面は中世都市鎌倉の特徴を極めて鋭く把握したものとして、歴史学者が好んで引用する箇所である。

 しかし、この記述は、実は極めて変なのである。鎌倉の地図を見れば明らかなように、極楽寺から化粧坂を経て由比ヶ浜に出るという行程はありえないのであって、二条が通ったのは化粧坂ではなく、極楽寺坂だと考えざるをえないのである。

 この点は、もちろん多くの人が気づいていて、例えば司馬遼太郎氏は、『三浦半島記 街道をゆく四十二』(朝日新聞社)において次のように述べておられる。

 化粧坂といふ山を越えて、鎌倉の方(かた)を見れば‥‥とある。彼女はやがて坂の上から鎌倉市街を見おろすのだが、その前に極楽寺を参詣している。当然、彼女が選んだ入口は、極楽寺坂なのである。当の化粧坂は、極楽寺から直線にして二キロ半ほども離れている。途中、山また山で、じつに遠い。さらにいうと、彼女は坂をくだって由比ケ浜に出たという。化粧坂だと、海岸に出ず、いまでいえば鎌倉税務暑の前に出てしまう。おそらく彼女は極楽寺坂を上下しながら、化粧坂という地名のよさが気に入って、ついとりちがえてしまったのにちがいない。彼女は、その前半生を化粧(けわい)のなかですごした。院に寵せられ、五摂家の当主とも思い出があり、それに仏門に入ったはずの法親王にまで愛された。俗体のころは粉黛(ふんたい)にまみれていたなどという感想も、化粧坂という地名に触発されて湧いたかとも思える。

 しかし、私には二条が「化粧坂という地名のよさが気に入って、ついとりちがえてしまった」ものだとは思えないのである。二条は、直前の江ノ島の場面で和漢の典籍を複雑華麗に引用していることからも明らかなように、凄まじい博識、恐るべき記憶力の持ち主である。その二条が、極楽寺坂という特別に重要な宗教的・軍事的空間を、弘安八年(1285)の霜月騒動のわずか三年四か月後、平頼綱の恐怖政治の下に人々が怯えて暮らしていた時期に通過していながら、その名前を誤るなどということは絶対にあり得ないと私は思う。

 では、なぜここに「化粧坂」が出てくるのかであるが、それを検討する前提として最初に考えなければならないのは、『とはずがたり』においては異常に頻繁に重大な地名の誤りが出てくること、そしてそこで用いられている言葉が喚起するイメージに奇妙な特徴があることである。地名の誤りを列挙すると以下のとおりである。


(1)東海道を鎌倉に下るときに、二条は伊勢物語の「かきつばた」の歌で有名な八橋(愛知県知立市)の次に熱田社・鳴海潟(愛知県名古屋市)を通過したことになっているが、これは順序が逆である。

 この点、例えば冨倉徳次郎氏は、『とはずがたり』(筑摩叢書)において、「前段に三河の八橋を記してこの段熱田に至るのは、旅程として倒錯している。結局作者の過失によることと思われるが、その過失の意味するところは、この紀行が旅程の中で書き継がれたのではなく、晩年の一括した回想の中でたどられたものであること、後日に書いたときに正確な旅のメモなどもなかったであろうことを思わせる」と言われている。

 しかし、尾張は「故大納言の知る国」即ち父雅忠の知行国であって、しかも熱田詣では『とはずがたり』において合計四回もなされているのである。どんなに物覚えの悪い人であっても、四回も行った場所とその周辺の地名の関係は把握できるであろう。まして八橋と言えば、歌を詠む人間で知らない人はいないほどの有名な歌枕なのであるからなおさらである。それを二条のような博覧強記の人間が過失で間違えるというのは、どう考えても変である。

 そこで、この部分は過失ではなく、作者が何らか意図を持って書いているのではないかと考えると、気になるのは「八橋」、即ち幅の狭い橋板を数枚、折れ折れに継ぎつづけて架けた橋、という言葉である。そしてこの言葉が創り出すイメージを素直に考えると、それは不安定さ・複雑さ・繊細さといったものだと思う。


(2)二条は武蔵国川口から信濃の善光寺に行ったことになっているが、その途中で「碓氷坂、木曽の懸路(かけぢ)の丸木橋、げにふみみるからにあやふげなるわたりなり」(なるほど踏んでみただけであぶなげな山路である)という場所を通過したことになっている。

 しかし、「木曽の懸路」は長野県木曽郡上松町にある東山道(中山道)の難所であり、武蔵から碓氷峠経由で善光寺に行くのにこんなところを通るはずがないのである。碓氷峠と「木曽の懸路」は直線距離で約100キロ離れており、しかも歩くとすれば、それを遙かに超える距離を、高低差の激しい曲がりくねった道を通って延々進まなければならないほど離れた土地なのである。

 学者は「碓氷も険路であり、ここでは慣用的に使う」(次田香澄氏)とか、「善光寺へ行ったとしても、通った筈はないが、信濃路の険阻から慣用的に出したと解される」(福田秀一氏)とか、「難所を連らねた文飾と見られる」(三角洋一氏)とか、適当なことを言っているのであるが、どうにも不自然な説明である。

 ここも、「懸路」すなわち「木材で崖に棚のように造り懸けた路」という言葉に着目すると、この言葉から最も素直に導かれるのは、不安定さ・危険さといったイメージだと思う。


(3)二条は善光寺に参詣してから武蔵に戻り、浅草寺に参詣するのであるが、『とはずがたり』では浅草寺の近くの隅田川に「すだの橋」があって、その対岸が「みよしのの里」となっているのである。この「みよしのの里」というのは『伊勢物語』などに出てくる歌枕で、現在の埼玉県川越市付近であり、もう本当に訳のわからない話なのである。

 ただ、これは浅草寺の本尊たる聖観音を尼である二条が十一面観音と間違えるという、これまたとんでもない記述と密接に関連すると思われるので、後で述べることにする。


(4)巻五で、西国旅行に出かけた二条は和知(広島県三次市)の豪族の館に滞在するのであるが、この和知は中国山地の山懐に抱かれた土地であるのに、『とはずがたり』では鞆の港(広島県福山市)のすぐ近くのように描かれている。

 二条は滞在先の人々が鎌倉にいる親族の広沢入道という人物を迎える準備をしていて、「絹障子を張って、それに絵を描きたがっていたときに、なんという深い考えもなく『絵の具さえあれば描くのですけど』と申したところ、『鞆というところにあります』といって取りに人を走らせる。まったく悔しかったけれど仕方ない。持ってきたので描いた」((『とはずがたり(下)全訳注』p364)などと言っているのである。

 ここも素直に考えれば非常に不自然なのであるが、学者たちは「海岸近くにも一族が住んでいたようだから、その地名が落ちたのかもしれない」(次田香澄氏)などと格別の根拠もない説明をするのである。

 私は、そんなことよりも「絵を描く」という言葉の創り出すイメージに着目すべきだと思う。「絵を描く」と言えば、やはり想像力をフルに働かせて場面を創り出している、という感じがするのである。

 この和知の話は、スリリングな展開と社会派ルポルタージュ風のきびきびした文章で、特に歴史学者の興味を引きつけているところであり、一橋大学名誉教授永原慶二氏をはじめとする錚々たる歴史学者が、地方豪族の生態を「リアル」に記録した貴重な史料として生真面目に引用されているのであるが、どうも話が面白すぎるのである。

 私は、二条がさりげなく、なんという深い考えもないようなフリをしつつ「絵を描く」という言葉を出しておいて、ここに描かれていることは事実ではなく適当に作り上げた面白い話なのよ、その点充分注意してちょうだいね、でも私はこれだけ丁寧にヒントを出しているのだから、間違えても私の責任じゃないわよ、と言っているような感じがするのである。


 以上のように『とはずがたり』における地名の誤りは大変なものである。それぞれの場面について単純に直線距離を測ると、熱田社と八橋が約30q、碓氷峠と「木曽の懸路」は約100q、浅草と三芳野の里が約40qで、鞆の港と和知が約60q、合計約230q分の誤りがあるのである。

 このように、重大な地名の誤りが頻出することと、そこでいわばキーワードになっている「八橋」「木曽の懸路の丸木橋」「絵を描く」という言葉が喚起するイメージを考えると、これらの地名の誤りは決して偶然ではなく、二条という極めて緻密な知性の持ち主が残したサインのように思われるのである。

 創作能力が異常に豊かで、極めて高慢で、知的でないもの・下品なものを徹底的に軽蔑し、「心の中を人や知らんといとをかし」(秘密を知っている自分の心の中をだれが知ろうか、とまことにおもしろかった)(『とはずがたり(上)全訳注』p284)と思うような、人をからかうのが大好きな女性が残した、『とはずがたり』は決して素直な事実の記録ではなくて、危険で複雑で不安定な創作物だから、取り扱いには充分注意してちょうだいね、というからかいに満ちたメッセージのような感じがするのである。

 さて、浅草を除く三例と比較してみるだけでも、「化粧坂」が単なる勘違いなどとはとても言えないと私は思う。その本当の意味を知るためには、「化粧」という言葉が創り出す最も素直なイメージに着目すべきだと私は考える。即ち、これは決して素顔の私ではなく、お化粧で極めて巧みに装った私なのよ、これから入ろうとする鎌倉についても面白い話をたっぷり用意しましたけれど、化粧した私が話すことだから充分に注意して下さいませ、というからかいに満ちたメッセージなのではないかと思うのである。






 7.二条の宗教意識−浅草寺の「十一面観音」


 先に留保した浅草寺についてであるが、まず、問題の場面を紹介したい(『とはずがたり(下)全訳注』p255)。

 八月の初め頃ともなったので、武蔵野の秋の風情の見たさにこそ今までここら辺りにもいたのだと思って、武蔵の国へ帰った。そこには浅草と申す堂がある。十一面観音がいらっしゃる。霊験あるみ仏と聞くのもゆかしくて参ると、野の中をはるばると分けてゆくのに、萩・女郎花(おみなえし)・荻(おぎ)・芒(すすき)よりほかにはまた混じるものもなく、これらの高さは馬に乗った男が見えないほどなので推しはかれよう。三日ぐらいか分けていっても尽きもしない。すこし協へ入った道にこそ宿場などもあるが、はるばると続く道は来し方も行く末も野原である。
 浅草の観音堂はちょっと高くなって、それも木などはない原の中にいらっしゃるが、(折からの月の出に)ほんとうに「草の原より出づる月影」と思い出せば、今宵は十五夜であった。宮廷で催される管絃の御遊も思いやられるが、院から賜わった形見の御衣(おんぞ)は、如法経の折に御布施として、八幡大菩薩に奉納したので、「今ここにあり」とは思われないけれど、宮廷のことを忘れ奉ることがないので、余香を拝する志も古人の心深さにかわらないと思った。

 原文では「武蔵の国に帰りて、浅草と申す堂あり。十一面観音のおはします、霊仏と申すもゆかしくて参るに……」となっていて、浅草寺の本尊が十一面観音だとされているのである。

 しかし、浅草寺の正式名称が「聖観音宗総本山金龍山浅草寺」であることからも明らかなように、関東地方きっての古刹である浅草寺の本尊は聖観音であって、十一面観音ではないのである。例えば、金龍山浅草寺が自ら編集している『図説浅草寺−今むかし』(東京美術)という本には、

 浅草寺に伝存の『浅草寺縁起』によると、推古天皇三十六年(628)三月十八日の早朝、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟が江戸浦(隅田川の下流辺りを昔は宮戸川といった)で漁労中、一体の仏像を投網(とあみ)の中に発見した。それを土師中知(はじのなかとも)が拝し、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)の尊像であることを知り、自ら出家し、屋敷を寺に改めて深く帰依(きえ)したという。これが浅草寺の草創である。

と書かれているのであるが、これは鎌倉時代においても、少なくとも関東の人には常識だったはずである。

 なぜ聖観音が十一面観音に替わってしまっているのかは後で検討することにして、「みよしのの里」の場面も、一応確認しておきたい。先に紹介した部分のあとに歌が二首あげてあって、それから以下のように続くのである(『とはずがたり(下)全訳注』p259)。

 ところで隅田川原近い辺りだろうかと思うが、たいそう大きな橋で清水や祇園の橋ぐらいなのを渡ると、小ざっぱりした男二人と会った。「この辺りに隅田川という川があるそうですがどこでしょう」と問えば、
 「これがその川ですよ。この橋をすだの橋と申します。昔は橋がなくて、渡し船で人を渡しましたが、わすらわしいというので橋ができました。隅田川などとはやさしい名を付けておいたものですね。土地の者たちの言いならわしでは、すだ川の橋と申しております。
 さてこの川の向うを昔は三芳野(みよしの)の里と申しましたが、百姓たちの刈り乾す稲と申すものに、実の入らぬ所でしたのを、時の国司が里の名を尋ね聞いて、実の入らないのも道理であるとて、吉田の里と名を改められて後、稲はちゃんと実が入るようになりました」

 ここで、『伊勢物語』に出てくる都鳥の話を思い出して歌を二首詠んで、鎌倉へ戻ったという展開になっているのである。

 さて、『とはずがたり』のこの部分は、直前に描かれた浅草寺の寂れた光景と併せて考えると、ずいぶん奇妙である。浅草寺という聖なる空間があるからこそ、そこに町が生まれ、活発に交易がなされ、清水・祇園に匹敵する巨大な橋が必要となったはずである。中世の町のあり方から言って、浅草寺の興隆と周辺の商業活動・交通の発展は分離できないのであって、一方で巨大な橋が維持され、そこに「きたなげなき男」も存在しているほど町が発展しているのに、浅草寺が寂れているというのはバランスがとれないのである。

 ま、それはともかく、前に述べたように、隅田川を渡ると「みよしのの里」だというのは余りに奇妙な話なのであるが、久保田淳氏は「『とはずがたり』−配所の仮託」(『隅田川の文学』岩波新書)というエッセイ風の文章で、次のように言われている。

 「みよしのの里」を思わせる古い地名として、『伊勢物語』十段に「入間の里、みよし野の里」というのがあり、現在の埼玉県坂戸市横沼かとされている。また、「吉田」は川越市に地名として残る。両市は境を接し、『伊勢物語』の、「みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる」「わが方によると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れん」という歌語りの世界はここかと伝えられてもいるのだが、しかし彼女は浅草寺に詣でたのち、入間の郡までさまよって行ったのではないであろう。この時代にも隅田川は浅草寺のすぐ東側を流れていたと考えられるのである。
 「みよしのの里」や「吉田」は当時の隅田川界隈に実際にあった地名かもしれないし、『伊勢物語』の世界を持ち込んで在五中将業平への言及を自然にしようとした彼女の作為であるかもしれない。ともかく、この川は大河であった。そこに架けられた橋は、清水詣でに渡った都の五条橋、祇園に参籠した時渡った四条大橋を思い出させた。しかし、業平が呼び掛けたという都鳥は見えない。立ち籠める川霧に視界もきかない。雲の中に初かりがねの声がする。その声は「どうして旅するの、何が悲しいの」と呼び掛けるかのようである。長旅にやつれながらも昔の色香を失っていない尼は、大川のたもとに佇んで涙する。

 久保田淳氏は、「『みよしのの里』や『吉田』は当時の隅田川界隈に実際にあった地名かもしれない」などと言われているが、ここでの地名の大混乱は大変なものである。原文を素直に読む限り、奇怪なことに、「彼女は浅草寺に詣でたのち、入間の郡までさまよって行った」としか考えられないのである。

 また、「『伊勢物語』の世界を持ち込んで在五中将業平への言及を自然にしようとした彼女の作為」があると考えるならば、浅草寺という宗教的聖地に関連して、このような作為を平然と行う後深草院二条の宗教に対する基本的態度について、多少の疑問を感じるのが常識的な感覚だと思うが、久保田淳氏にはそうした感覚は無いようである。

 さて、『とはずがたり』において、浅草寺の本尊を聖観音ではなく十一面観音としている点について、私は主要な注釈書を全てチェックしたみたが、国文学者たちは完全に無視するか、せいぜい『廻国雑記』でも十一面観音としている、といった程度のコメントを載せているだけである。

 しかし、この部分は極めて奇妙である。二条は尼であり、仏教の専門家である。そして彼女は浅草寺に「霊仏と申すもゆかしくて参」ったはずの人なのであり、あちこち数多くの寺を廻ったついでに浅草寺にも行ったと一言だけ触れている『廻国雑記』とは事情が違うのである。そのような人が訪問先の寺の本尊を間違えるなどということが本当にありうるのだろうか。

 現代の観光客なら観音の種類などどうでもよいことであるが、それでも聖観音は顔がひとつだけの最もシンプルな観音であるのに対し、十一面観音は文字通り顔が十一もあるのであって、知っていさえすれば小学生でも区別は簡単である。しかも二条は『とはずがたり』に記された仏教的語彙だけからみても、仏教について該博な知識を持っていることが明らかな仏教の専門家である。その専門家が、参詣のためにわざわざ出向いて行った寺の本尊を間違えるなどということは、ずいぶん仏教を軽んずるものであり、仏罰を蒙ってもおかしくないほどの醜態である。それは国文学者が枕草子の作者を紫式部と誤解したり、仏教学者が日蓮宗の開祖を親鸞だと思い込んだり、鮨屋の親父がイカとタコを間違ったりするくらい変なことだと私は思う。

 私は、この「誤記」は単なる間違いとして済ますことは到底できないほど奇妙なものであり、細心の注意を払って分析する必要があると考える。そして、その際には少なくとも以下の点に配慮しなければならないと思う。

 第一は、二条が描き出した浅草寺の様子は、他の史料から伺われる当時の浅草寺の状況と較べると貧相に過ぎ、二条が実際に浅草寺を訪問したにしては不自然に思われる点である。

 第二に、どこか暗示的なのが「浅草」という地名である。これは「深草」の反対語になっていて、この言葉自体、後深草院を連想させる。しかも「浅草」の対岸が何と埼玉県川越付近の「みよしのの里」であり、この「みよしのの里」という地名が、久保田淳氏も言われるように『伊勢物語』の「みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる」「わが方によると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れん」という歌を思い出させ、さらにこれらの歌が『とはずがたり』巻一の冒頭、即ち後深草院が二条を後宮に入れようとして、父大納言雅忠に「この春よりはたのむの雁もわが方によ」と言った場面を連想させる、という具合に、複雑かつ優雅な連想をともなって、「浅草」は後深草院を思い起こさせるのである。

 『とはずがたり』において最も重要な登場人物は後深草院であるが、同時に後深草院こそ、最も不可解な、最も謎めいた人物である。そして、この浅草寺の場面も随分謎めいているのであり、もしかしたら作者二条にとって必要だったのは、当時現実に存在していたはずの浅草の地や浅草寺ではなく、この「浅草」という言葉自体だったのではないか、作者は「浅草」という言葉をキーワードにして後深草院に関係する何かを表現しようとしているのではないか、という感じがするのである。

 第三が問題の十一面観音である。これは『岩波仏教辞典』によると、次のような仏である。

 原語は、十一の顔を持つ者という意味。観音信仰の広がりの中で最も早くヒンドゥーの神と接点を持って変化した観音で、頭上に十の小面をつけ本面と併せて十一面を持つ。これは観世音菩薩の別名として、あらゆる方角(十方)に顔を向けたもの、という救済者として持つべき能力を具体化したものといえよう。正面三面が慈悲面、左三面が瞋怒(しんぬ)面、右三面が狗牙上出(くげじょうしゅつ)面、後方暴悪大笑(ぼうあくだいしょう)面、頂上仏面である。陀羅尼集経(だらにじつきょう)や十一面神呪経(じんじゅきょう)の漢訳に伴って中国・日本でも広い信仰を集めた。

 この説明で一番気になるのは、「暴悪大笑面」である。十一面観音の穏やかな正面の顔の反対側には、大笑いしている顔が隠されているというのである。私は初めてこの『岩波仏教辞典』の説明を読んだときは、笑う仏像というイメージが全然浮かんでこなくて、実際にどのような顔をしているのか確認しようと思ったのであるが、仏像に関する普通の写真集に出ている十一面観音の姿は正面像ばかりで、背後からとった写真など、なかなか見あたらないのである。

 さんざん苦労したあげく、ある図書館でやっと室生寺の十一面観音の「暴悪大笑面」を見つけたのだが、これには意表を突かれた。これを見たときは本当にぞっとした。いくら名前が「暴悪大笑面」とはいえ、観音と言えば慈悲の代名詞、母性の象徴のような仏様なのだから多少は穏やかな顔をしているのではないかと思っていたのだが、実際の「暴悪大笑面」は、笑い顔というよりは凶悪・凶暴な面構えと言った方がいいような凄まじい顔なのである。

 で、結論であるが、上記の点を総合的に考慮すると、作者が浅草寺の聖観音を十一面観音と「誤記」したのは、「浅草」が「深草」の反対語なのだから、十一面観音の反対側を御覧なさいよ、そこに本当の私がいるかもね、それが敬虔な尼を演じている私の本当の姿なのかもしれないね、というメッセージを伝えたいためなのではないかと私は考える。後深草院二条は、十一面観音の「暴悪大笑面」に、にんまり笑いながら隠されたメッセージを発信している自分を重ね合わせているのではないかと思うのである。

 そして「浅草」の対岸を「みよしのの里」としたのは、十一面観音だけではヒントが少なすぎて、特に関東以外の人には気づいてもらえないおそれがあるから、分かりやすい甘いヒントを付け加えておいて、この浅草の場面には何か特別な意図があることを示したかったからではないかと思う。

 以上のような見解は古典の常識を覆すものであって、容易に受け入れられないであろうことは私も十分わきまえている。私も、後深草院二条という女性が誠実で信頼できる人間ならば、いくら地名の誤りが多いからと言って、また、暗示的と受け取られるような表現があるからと言って、こんな技巧的な分析はしないのである。

 しかし、後深草院二条という女性が常識ではとても捉えきれない存在であることは、他ならぬ『とはずがたり』が豊富な例証を用意している。学者たちが詳細に分析しているように、彼女は、話を面白くするためには、皇女(遊義門院)の誕生と治天の君(後嵯峨院)の死という、身分秩序の根幹に関わる重要人物の生と死の時期について、史実と逆転させた記述をすることを全くためらわない。また、同じく話を面白くするためには、弘安二年(1279)に死んでいるはずの祖父四条隆親を弘安六年(1283)に生き返らせることもためらわない。さらに、どう見ても行っていないはずの足摺岬という宗教的聖地に行ったと平然と言い張ることもためらわない。

 これらのひとつひとつについて、国文学者たちはもっともらしい、とは言っても、何らかの事情で事実を朧化したのであろう、などという、全然理由にもならない説明を重ねるけれども、ごく素直に考えてみれば、後深草院二条は相当に変な女である。

 どんな社会においても、ついてよいウソといけないウソがあると思うが、後深草院二条は、基本的な身分秩序より、先祖の生死より、宗教的聖地より、話の面白さを優先させているのである。この女はどう見ても普通の女ではないと私は思う。

 もっとも、以上は後深草院二条という女ならとんでもないことをやりかねないと言っているのみで、いわば状況証拠の積み重ねに過ぎないことは私も承知している。『とはずがたり』を使って後深草院二条が何をやろうとしたのか、その動機の部分が正確につかめないと説明としては不十分であることは、もちろん私も自覚している。

 ただ、後深草院二条が、出家後も決して敬虔な尼になった訳ではないと疑うに足る理由が充分すぎるほど存在することだけは、ここで確認しておきたい。







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