up2002.10/11

第二章 『増鏡』の作者






 1.『増鏡』との出会い


 私は『とはずがたり』を読んでみて、学者たちの言うことに全然納得出来なかった。前三巻はあまりに異常な話で、矛盾に満ちている部分が多く、まして時代背景と照らし合わせてみたら、こういう話を真に受けている人が大勢いること自体、奇怪千万としか思えなかった。また、後二巻も、一見もっともらしいことが書いてあるものの、足摺岬のような宗教的聖地に関して、行ってもいないのに行ったとウソを言っているような有様で、こちらも全然信用できなかった。宗教に関してすら平気でウソをつけるのだから、こんな女の言うことなど何ひとつ信用できないと思うのが当たり前である。

 そして作者が『とはずがたり』のような変な物語を創作した動機についていろいろ考えてみたのだが、どうにも行き詰まってしまい、気分転換のつもりで、『とはずがたり』が大量に引用されているという『増鏡』を読み始めてみたのである。私の能力では現代語訳がないときちんと理解できないので、テキストは井上宗雄氏の『増鏡 全訳注』(上中下三分冊.講談社学術文庫)である。すると、『とはずがたり』も変だったが、『増鏡』も相当変なのである。

 『増鏡』を読み始めると、まず『大鏡』以来の鏡物のパターンとして、聞き手・語り手が登場するのであるが、聞き手は洛西嵯峨の清涼寺で話し手の変な老女と出会うのである。

 この老女は八十歳は越えていそうな尼で、老人用の「鳩の杖」(握りの部分に鳩の形を刻んだ杖)を持ち、物に寄りかかっている様子が「なにとなくなまめかしく」(気品があって)、物がわかりそうな人と見え、話し方も「古体にみやびやか」(古風で優雅)なので、聞き手が昔話をしてくれるように頼むと、「若かった時代に見聞きしましたことは、長い年月立つ内に、夢ほどの記憶さえもなくぼんやりしてしまって、何も覚えておりません」(井上宗雄氏訳、以下同)とかいいながら、まんざらでもないと思っている様子なのである。

 そこで、聞き手が一段とおだてて、『大鏡』や『今鏡』を引き合いに出して、「やっぱりお話ししてください」とねだると、おだてられているとは承知しているようだが、いよいよ口をすぼめがちにして、「昔のことは、はっきりしませんが、きれぎれにほんの少しをお話しします。間違いが多いでしょうよ。それはお直しください。きっとお聞き苦しいことでしょう。あの、『大鏡』などのような古い書物と同列にはお考えくださいますな」とか何とか言って、結局は話し始めるのである。

 私はしょっぱなから、あれれ、と思った。というのは、この八十歳を越えていそうな老尼の外見、話し方、性格が、なんとなく私が想像していた二条の年をとってからの姿に似ているような感じがしたのである。

 『とはずがたり』紀行編の巻四で、出家したばかりの三十二歳の二条は、正応二年(1289)鎌倉に下る。このとき二条は、十九歳の執権北条貞時のもとで、事実上幕府の最高実力者として権力をふるっていた平頼綱の奥方から頼綱邸に招待される。後深草院の正妻で、二条の宿敵でもあった東二条院から贈られてきた衣装の裁ち方について相談にのってくれ、というのである。

 二条は、わずらわしくて、たびたび辞退したけれども、仲介者の小町殿が何と執権北条貞時の手紙まで持ち出してきたりするので、しぶしぶ頼綱邸に行くのであるが、その豪奢な邸には容貌・体つきが堂々としていて背が高く、田舎者の分際で「御方」とか呼ばれている奥方がいて、せっかくの素晴らしい衣を的外れな裁ち方で台無しにしているので、都人のセンスで適切に指導してやるのである。

 また、頼綱からも将軍御所の室内装飾のチェックを頼まれ、「とは何ごとだとわずらわしいけれども、ゆきがかりのところでもあり、冷淡なふうに言うべきではないので、御所に参った。これはそれほどひどいというほどのことでもなく、一通り正式の風にできている。御飾りつけのことは、ただ今とやかく指示して言うようなことはなかったので、『御置棚の立て所や御衣(おんぞ)の掛けようはこんなふうがよろしいのでしょうか』などといったことで帰った」(次田香澄氏訳)のである。

 つまり、二条は、貴族文化の圧倒的な優越感を背景にして、学識と芸術的センスをひけらかすことが本当は好きで好きでたまらないのであるが、しかし表面上はいかにも謙虚に奥ゆかしく、人から何度も勧められたので仕方なくやらせていただきます、みたいなフリをしてみせるのである。

 『増鏡』の冒頭は、二条が鎌倉で平頼綱夫妻を相手にしている場面と感じがよく似ており、二条のような高慢で、ずうずうしくて、頭がよくて、意地が悪くて、冗談が好きな人間が年をとると、この「鳩の杖」をついた老尼のようになるのではないか、と私は思ったのである。

 まあ、そんなことはどうでもいいので読み進めていくと、承久の乱が起こり、後鳥羽上皇が隠岐に流され、慈円と定家が妙に下手な長歌を詠み、四条天皇が頓死し、その後、誰も皇位につくと思っていなかった後嵯峨天皇が棚ボタで即位し、その翌年に久仁親王(後深草天皇)が生まれたと思ったらわずか四才で即位し、十七才で弟の亀山天皇に代わる、といった具合に、どんどん歴史は進んで行くのである。






 2.「公宗の思い」の奇妙さ


 『増鏡』を読んでいて、少しひっかかったのは、西園寺家の動向がやたら詳しく出てくるな、ということであるが、あまり気にしないで先に進んで行くと、次にちょっとびっくりしたのが、巻七「北野の雪」の洞院佶子の記事である。佶子は亀山天皇の皇后で、後宇多天皇を生んだ女性である。佶子とその兄の公宗をめぐる話はあまりに奇妙なので、全文引用してみる(『全訳注(中)』p61)。

 この入道実氏(さねうじ)公の御弟に、そのころ右大臣実雄(さねお)と申す方がいて、姫君をたくさんお持ちであった中に、格別に(容姿の)すぐれた方(佶子)をかわいいものとして、たいせつに育てられた。今上(亀山)天皇の(大嘗会に参仕する)女御代(にょうごだい)としておいでになることになっていたのを、そのまま、それをきっかけにして文応元年(一二六〇)入内するように御心づもりになった。後嵯峨院からも、お許しの御内意を賜っていた。入道実氏公の姫君(嬉子)も入内なさるはずだといううわさはあったが、そんなことはあるまい、とあえて決行された。たいへん気の強い御心というものだろう。
 この姫君(佶子)の御兄たちは多くいらっしゃった、その中の、一番上の兄君で、中納言公宗(きんむね)と申す方は、どういう御心があったものか、(上に燃え上らず)下でいぶっている火のように、ひそかに胸の中で恋いこがれて悩んでおられるのは、お気の毒であった。そういう(兄が妹を恋うなどという)ことは、まことにあるまじきことと思い切ろうとしても思い切れぬ心の苦しさを、起きても寝てもただ泣いていることが多く、妹君の入内の御支度が近づくにつけても、我を失ったような呆然とした様子で過されるのを、父実雄公は、これはまたどうしたことだ、と御心配になる。
 涼しい初秋風が吹き始める様子が現われてきて、いかにも優美な趣のある夕暮れ、実雄公がいらっしゃって御覧になると、姫君(佶子)が、薄色の表着(うわぎ)におみなえし襲(かさね)の袿(うちき)をひき重ねて、几帳からすこし外れてすわっていらっしゃる御容姿は、いつもよりなんともいいようなく上品で、美しさが溢れるほどで、かわいらしくお見えなさる。御髪もたいへん多く、五重(いつえ)の御扇とかいうものを広げたような様子で、すこし赤味を帯びておられるように見えなさるが、毛筋が細かく、額から毛の先までくせもなく素直で美しい。普通の人の妻には、ほんとうにもったいないような人柄でいらっしゃる。
 実雄公は几帳(きちょう)をわきに押しやって、わざとらしくなく拍子をとって、姫君に御箏(こと)を弾かせ申しなさる。ちょうどそのとき、中納言(公宗)が参られる。「こちらへ」と実雄公がおっしゃると、かしこまって御簾(みす)の中へおすわりになるその御容姿は、この方もまたたいそうりっぱで、どこまでもしっとり落着き、お心のうちを知りたくなるくらいで、この方の前ではだれでもがなんとなく気がおけてしまう、という御様子で、洗練されて優雅に、澄ました感じで、上品に美しい。公宗中納言はいちだんと心を静め騒ぐ胸を抑えて(気持が外に出ないように)ことに用心をなさる。
 笛をすこし吹き鳴らされると、その音が空高く澄み上ってたいへん趣がある。姫君の弾く御箏の音の、ほんのりとかわいらしいのが、これと合奏されたとき、(感動して)かえって一々の音を聞きとることもできず、涙がにじんで来そうなのを、こらえて平気なように装っておられる。なでしこの花に露がそのままきらめいている模様の小袿(こうちき)に、御髪がこぼれかかって、すこし前かがみになっておられるお姿を横から見たところ、ほんとうに、光を放つ、というのはこういうことをいうのだろうか、とお見えになった。世間なみの娘であっても、人の親はどのように見てしまうだろうか(よいほうに見がちである)。まして、このように類のないほどの御容姿なので実雄公がたいへん深い親心の闇に迷われてしまうのも、ごもっともなことであろう。

 ここに出てくるのは、西園寺実兼の祖父、実氏の二十五歳下の異母弟の洞院実雄(1219〜73)と、その息子、そして娘である。西園寺家が皇室との姻戚関係の形成に手間取っている間に、分家の洞院家の方が着々と手を打って、本家の西園寺家を圧するような勢いになってきた時期のことである。

 私は、この場面に出くわすまでは一応歴史書を読んでいるつもりだったので、こんな訳のわからない話が突然出てきたので、びっくりしてしまった。隠岐に流された後鳥羽上皇を描く「新島守」の巻など、戦前の国語教科書には必ず出ていたというだけあって実に格調が高く、感動的な場面があったりしたのに、ここにきて、突然、兄が妹への禁断の愛に悩む姿が出てくるので、なんだこりゃと思った。これくらい歴史的意義のない話も珍しいのであって、なんでこんな話が鎌倉時代を公家の立場から描いた一大歴史書に出てくるのか、さっぱり分からなかったのである。

 それに、もうひとつ疑問に思ったのは、通説によると、『増鏡』は摂関家の二条良基(1320〜88)が書いたそうなのであるが、これが本当に男が書ける文章なのだろうか、ということである。特に、「御髪もたいへん多く、五重の御扇とかいうものを広げたような様子で、すこし赤味を帯びておられるように見えなさるが、毛筋が細かく、額から毛の先までくせもなく素直で美しい」、「なでしこの花に露がそのままきらめいている模様の小袿に、御髪がこぼれかかって、すこし前かがみになっておられるお姿を横から見たところ、ほんとうに、光を放つ、というのはこういうことをいうのだろうか、とお見えになった」などという部分は、どう見ても女の感覚であって、男ではとても書けないのではないか、と思ったのである。

 ま、この話などはまだマシな方であって、その後にも、月華門院(後深草院・亀山院の同母妹)の堕胎と急死とか、新陽明門院の不倫とか、関白近衛家平が他界した後に同性愛の相手も狂死したので、家平があの世から迎え取ったに違いないという噂が流れたとか、ホントにもう、とんでもない話がゴロゴロ出てくるのである。






 3.『とはずがたり』との類似性


 変だなあと思いつつ読み進めて行くと、ますます変なのである。それまで『とはずがたり』ばかり読みふけっていた私には、『増鏡』の文体や内容が、どうも『とはずがたり』に似ているような気がしたのである。擬古文調の優雅な表現、『源氏物語』や『栄花物語』などの日本の古典や白居易などの漢籍の自在な引用、大きくヤマ場を押さえ、ドラマティックに話を盛り上げる構成の見事さ、そして真面目な話の中に、急にスキャンダルめいた変な話を持ち出すところなど、ずいぶん似ているように思えたのである。

 私が『増鏡』と『とはずがたり』の類似を感じたのは、後から調べてみれば当たり前のことであって、『増鏡』には『とはずがたり』を直接に引用した部分だけでも、「『増鏡』全十七巻のうち、『あすか川』『草枕』『老いの波』『さしぐし』の四巻にわたり、まことにおびただしい量にのぼる」(松本寧至氏「『増鏡』と『とはずがたり』」.『鑑賞日本古典文学 大鏡・増鏡』所収)のである。それは松本寧至氏によれば、岩波『日本古典文学大系』本でいうと、およそ419行になるそうである。岩波の大系本で419行というと、419×37字≒15500字にもなるのであり、膨大な量である。

 あまりの『とはずがたり』との類似性、『とはずがたり』の引用の多さに、変だ変だと思いつつ読み進めていた私は、とうとう本格的に変な部分にぶつかったのである。それは巻九『草枕』である。この『草枕』という巻名は、後深草院とその異母妹の前斎宮(後嵯峨院皇女の※子〈がいし〉内親王)が嵯峨で対面し、かりそめの契りを結んだことに由来しているのだが、道徳的に問題があるこの情事は、分量的にも巻九の半分以上をさいて語られているのである。
※りっしんべんに「豈」

 斎宮というのは、天皇の即位ごとに選定され、三年の潔斎ののち伊勢神宮に仕えた未婚の内親王または女王のことであるが、山岸徳平・鈴木一雄氏「『増鏡』本文鑑賞」(『鑑賞日本古典文学 大鏡・増鏡』)p252に従って、この前斎宮に関する部分を要約すると、次のようになる。

後嵯峨院崩御にともなって斎宮※子内親王が都に戻ってきた。大宮院(後深草院と亀山院の母親)が、これを慰めて呼び、亀山殿で後深草院とも同席することになる。「御髪いとめでたく、さかりにて、二十に一二やあまり給ふらん」と見える内親王の美しさに、後深草院は部屋に戻っても「まどろまれ給はず。ありつる御面影、こころにかかりておぼえ給ふぞいとわりなき」という始末。輾々反側の末、「御はらからといえど、年月よそにて生ひ立ち給へば、うとうとしくならひ給へるままに、慎ましき御思ひもうすくやありけん」、ついに、情欲のおもむくまま、兄と妹の道ならぬ情事におよぶことになる。

ということで、『増鏡』も「(後深草院は)けしからぬ御本性なりや」と一言しているのである。

 まあ、確かに変な話であるが、私はこの話は『とはずがたり』で知っていた。『とはずがたり』では二条が手引きをする役で、『増鏡』でも二条は「なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人」(某大納言の娘で御身近に召し使う女房)として、同じ役で出てくるのである。

 私の考え方によれば、高貴な身分である二条がそんな下級女官のような真似をするのは、物語の構成上、ナレーターが必要だからであり、内容もどうせウソ八百だから、と思っていたので、どんどん読み飛ばして、後深草院が、"この内親王は全く期待はずれ、つまんない女"と捨ててしまうところまでいったのである。『とはずがたり』の方は、これでおしまいである。

 ところが、『増鏡』では物語が急転回し、『とはずがたり』には出てこない場面が延々と続くのである。なんと西園寺実兼がこの内親王のところに忍んで行き、内親王もその来訪を心待ちにするようになる、というのである。

 そして、ある夕暮れ、内親王邸を訪れる西園寺実兼の行列を避けたつもりの左大臣二条師忠を、内親王側では西園寺実兼と思い違えて屋敷の中に導き入れ、暗いので気付かなかった内親王は、今度は二条師忠と契ってしまうというのである。一方、ほかの男が内親王の屋敷に入るのを見た西園寺実兼は、現場に残しておいた随身の報告から事情を知って、裏切られたと思った、というのである。まあ、一応悲劇ではあるが、もう笑うしかない変な結末である。

 井上宗雄氏は、「この西園寺実兼らとの関係は何によったのかわからない。小説的な話のようでもあるが、照明なども乏しい往時には、こういう悲劇も間々あったのであろう」と解説されているのであるが、照明のせいにするのは、いくらなんでも大胆過ぎる推論であると思う。

 さて、私のように、前半が二条の作り出したウソ八百であると考えるとすれば、後半もずいぶん変なことになる。もちろん、『とはずがたり』には現在伝わっているのと別の本があったとか、『増鏡』の作者が『とはずがたり』のウソにつけ加えてウソの二段重ねにした、とかの可能性も論理的には成り立つのであるが、素直に考えれば、こんな変なウソを連続的につきまくっているということは、『とはずがたり』と『増鏡』は、同一人物、つまり二条が書いているのではないか、と思ったのである。

 そういう目で見ると、『増鏡』は怪しいことだらけで、「北山准后九十の賀」が『とはずがたり』にも負けない膨大な分量で延々と続くのも怪しいし、伏見天皇の女御として西園寺実兼の娘(永福門院)が入内するときに、「久我大納言雅忠の娘」が「二条」ではなく「三条」という名前で出仕したという記事も、とんでもなく怪しいのである。






 4.四条隆資


 怪しいなあと思いながら、鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇が京都に帰ってくる最後の部分まで読み進めると、再びびっくり仰天である。『増鏡』の終わり方は、かなり変なのである。どのように変かというと、次のように変である(『全訳注(下)』p379)。

 礼成門院もまた中宮と申しあげる(ことになった)。六日の夜、すぐ内裏へお入りになる。昨年御出家なさった。御病気はまだおなおりにならないので、さっそく五壇の御修法を始められる。八日から(政務の)議定を行なわれる。昔、天皇に仕えていた人々は残りなく参集する。
 十三日大塔の宮尊雲法親王が御入京になる。この数ヵ月来、御髪をのばしてなんともいえず美しい男におなりになった。唐(から)の赤地の錦の鎧直垂(よろいひたたれ)いうものをお召しになって、御乗馬でいらっしゃると、御供には堂々とした武士たちが囲んで、(その豪勢さは)天皇の行幸の御供であった行列(の武士たち)にも、ほとんど劣らないようであった。すぐ将軍の宣旨をお受けになった。
 流された人々も、程もなく競争するように上京して来る様子は、枯れた木や草が春にあったような気持がする。その中に、参議季房入道だけが、預って警固していた者が、無情の心根(こころね)であったのであろうか、東国の戦乱のどさくさまぎれに殺してしまったので、兄の中納言藤房が帰京したのにつけても、父の大納言宣房、母の尼上の嘆きが尽きない。(悲しみで)胸の晴れない気持がしたことであった。
 四条中納言隆資という人も、剃髪していたが、また髪をのばして還俗した。もともと俗塵を逃れて出家したのではなく、敵のために身を隠そうとして、かりそめに髪を剃っただけなので、今また憂えが去って、喜びに会うときになって(還俗して)俗男となるというのに何の遠慮があろうか、と同じ心持の者同士が言い合うのであった。天台座主でいらっしゃった法親王さえ、ふたたび俗世にもどられたのだからまして、というのである。だれであったか、そのころ(次のような歌を詠んだと)聞きました。
(墨染めの法衣をも花やかな色の衣にかえました。月草が移ると衣の色が変わるように、月日が推移すると人の心も変化して)
   

 つまり、鎌倉時代を公家側からみた歴史書である『増鏡』は、四条隆資という、後醍醐天皇や大塔宮尊雲法親王と較べたら、はっきり言ってどうでもいいような人のことを述べて終わっているのである。

 井上宗雄氏の解説によれば、そのため、学者の中には、まだ完結していないのではないか、という人がいる一方で、四条隆資の名前があまりに唐突であり、かつ隆資が後醍醐天皇と近い点などから、『増鏡』の作者は四条隆資ではないか、という説(中村直勝博士)もあるというのである。この中村直勝博士の説は、南朝の闘将として戦乱の渦中にいた四条隆資に、そんなものを書いている余裕はないはず、との理由で誰からも賛成されていないそうである。

 ところで、この四条という家名に引っかかった私は、『鎌倉・室町人名辞典』(新人物往来社)を引いたところ、なんとこの人は、あの二条を猫っ可愛がりしてくれた二条の母方の叔父、四条隆顕の孫なのである。「粥杖事件」で狂言廻しの役をやっていた、軽妙洒脱な小太りのひょうきん者、善勝寺大納言隆顕の孫なのである。この四条隆資の経歴を同書より引用すると、次の通りである。

一二九二〜一三五二(正応五〜文和元・正平七) 南北朝時代の南朝方公卿。父は左近中将四条隆実。父が早世したため祖父の隆顕に養育され猶子となる。因幡守・蔵人頭・加賀権守・左兵衛督などを歴任、元徳二年(一三三〇)、権中納言となり、検非違使別当となる。正中の変では日野資朝らとともに倒幕に参画、また元弘の変にも加わり天皇とともに笠置山に潜んだ。笠置が陥落したのち、行方をくらますが、事がおさまると京都へ戻り、建武の新政では雑訴決断所、恩賞方、武者所の構成員となる。南北朝の分裂後は吉野へ赴き、後醍醐天皇が崩御したのち北畠親房・洞院実世らと幼主後村上天皇を補佐して政務をとる。貞和四・正平三年(一三四八)、飯盛山に陣して戦うが、高師直が四条畷で楠木政行を破り、吉野へ進攻するに及び、天皇を奉じて大和国賀名生(あのう)に避ける。観応二・正平六年(一三五一)、南朝で従一位に叙せられ、大納言となる。同七年年五月十二日、足利義詮と男山八幡で戦い敗死する。六十一歳。その子の隆貞・隆俊・有資らも南朝方として倒れる。『新葉和歌集』に若九首がある。

 四条隆資は正嘉二年(1258)生れの二条より三十四歳年下であり、この大塔宮尊雲法親王の入京する場面は元弘三年(1333)六月なので、このとき四十二歳である。『とはずがたり』で割と軽いキャラクターとして登場してくる隆顕の孫から、こんな筋金入りの武闘派貴族が出てくるなんて、私には驚きだった。

 さて、二条が『増鏡』の作者だとすれば、四条隆資が最後に登場する理由は簡単明瞭である。すなわち、可愛い親戚の子のえこひいきである。鎌倉時代を公家の立場から俯瞰した一大歴史物語を、しゃあしゃあと親戚の子の自慢で締めくくるようなとんでもないずうずうしさも、二条なら納得できる感じがするのである。

 そして、「もともと俗塵を逃れて出家したのではなく、敵のために身を隠そうとして、かりそめに髪を剃っただけなので、今また憂えが去って、喜びに会うときになって(還俗して)俗男となるというのに何の遠慮があろうか」と言い合った「同じ心持の者同士」とは、二条と四条隆資のことだと思う。二条の宗教に対する感覚は、このように極めてさばさばした、実利に徹したもののような気がするのである。さらに、こうして四条隆資の名前を出す以上、『増鏡』は後醍醐天皇の側近である四条隆資と二条が組んで、何か特殊な目的のために作った本ではないか、という感じがしたのである。






 5.「三条」と呼ばれた二条


 さて、『とはずがたり』と『増鏡』の作者は同一人物ではないか、という眼で、あらためて『増鏡』を読み直してみると、怪しいところが本当に信じられないくらいぼろぼろ出てくるのである。

 第一は、先ほど少し触れた、巻十一『さしぐし』で"久我大納言雅忠の娘"が登場する場面である。正応元年(1288)、西園寺実兼の姫君が、即位したばかりの伏見天皇の女御として入内するときに"久我大納言雅忠の娘"が登場するのであるが、その様子は次のとおりである(『増鏡(中)全訳注』p342)。

 女房の出(いだ)し衣(ぎぬ)をした車が十両、その第一の車の左に母北の方の御妹一条殿、右に二条殿、この方は実顕の宰相中将の娘で実兼大納言が子になされている方ということだ。二の車、左は久我大納言雅忠の娘で、三条と女房名がつけられたのを大変つらいことと嘆かれたが、ほかの方が先に一条・二条とつけられたので、あいているまま(三条と)つけた(のにすぎない)のだ、と慰められた。

 井上宗雄氏の解説によれば、

 『とはずがたり』は、巻三が弘安八年で終って、巻四は正応二年から始まり、その間三年余りの空白がある。その空白は欠巻部分で、本来は記述が存したのだろうという推測もあり、『増鏡』のこの部分も、『とはずがたり』の、今は散逸したそこから採ったのではないか、と考える立場もある。すなわち雅忠の娘(二条)が、三条という女房名を悲しんだ、という記事は、『とはずがたり』巻一の末に、二条という名さえも父が返上した、という記事から充分に推察されるのである。 そもそも二条という名は上臈につける名だが、大臣の猶子そして出仕した女房には(二条など上臈の名を含めて)小路名などつけるべきではない、と名門村上源氏の流れに属する二条の一族は、誇り高くも考えていたからである。

そうである。

 しかし、自分の名前が二条だか三条だかにコロコロかわるのは、別に名門村上源氏の流れに属する一族でなくとも、ずいぶん嫌なものである。犬のポチだって、今日からおまえはクマゴローだ、と言われたら機嫌が悪くなると思う。そんな変なことを、あの異常に気位の高い二条が我慢したというのも理解しがたい話である。あの傲慢な二条なら、半狂乱になってわめきたててくれた方がずっと自然である。

 また、母北の方(三条坊門通成の娘)の妹や、西園寺実兼の養女のような高貴な方々に、一条だの二条だのといった"小路名"をつけるというのも変である。特に、前年の弘安十年(1287)に、大覚寺統の後宇多天皇から持明院統の伏見天皇への劇的な転換を演出し、後深草院の院政を現出させ、後深草院の信任が極めて篤い政界の最高実力者の一人である西園寺実兼の養女に"小路名"をつけるというのはおかしい。ちなみに『尊卑分脈』には、三条坊門通成の娘の妹に三人がみえるが、一条殿と明記されている人はいないそうである(井上宗雄氏の「解説」による)。

 結局、私は、この部分はその直後に出てくる極めて奇妙な記述と合わせて考えなければ理解できないと思う。

 その暮、頭中将為兼朝臣が、天皇のお手紙を持参した。天皇御自身で書かれている。
宮中でこれから幾千代かけてすごされるその初めの日というので、今日の日影もこのように久しく(なかなか暮れぬように)感ぜられるだろうか(夜が待遠しいことよ)。
 紅の薄様の紙に書かれ、同じ薄様に包まれていたようだ。関白師忠公は「包み方をしらぬ」とかおっしゃって、花山院家教に、その心得があるとお聞きになったので、それを遣わして包ませられたとうかがった、と老尼は語る。すると連れていた女房が、『いつぞやは、天皇のお使いは実教中将であったとお話しになったのに』という。

 ここは極めて奇妙な部分なのである。謎に満ちているのである。

 まず、天皇のお使いが誰であったか、手紙の包み方がどうだったかなどという、どうでもいいようなことを何故ここまで詳しく書いたのかが不思議である。

 また、老尼とその連れの女房が出てくるのも不思議である。『増鏡』では、嵯峨清涼寺での老尼の物語という一応の設定はあるのだが、実は、いったん物語が始まると、老尼は殆どといっていいほど姿を現さない。この点、語り手の老人たちがしつこいくらい頻繁に登場する『大鏡』と全く対照的なのである。

 そして連れの女房に至っては、最初に「『我ながら気強く参詣を思い立って来たけれど、ひどく腰が痛くてがまんできない。今夜はこのお寺の部屋に休もう。お前は坊にいって、お燈明を上げることなどを頼んで来なさい』といって、連れてきた若い女房で、主人の尼のお供には似合わしいほどの者を僧坊の方へ帰したようである」という記述があるだけで、何時戻ってきたかの説明もないまま、ここで唐突に口を挟むのである。

 平田俊春氏が昭和十四年に書かれた「増鏡の成立に関する一考察−舞御覧記との関係について−」という論文によれば、「増鏡に於いては大鏡に真似て老尼と伴の女と作者の三人の対話の如くしながらも、実は殆んどこれを顧慮せずして単なる編年体の記述に堕し、巻尾も全く結びを忘れてしまひ、全巻を通じて老尼の話として序文に応じ文を切つた所は」わずかに六箇所だそうである。そのうち二箇所は、単に「とて」(と言って)とあるだけで、極めて意味の軽いものであり、本文において序文の設定と対応するのは実質的にわずか四箇所、しかも老尼の連れの女房が登場するのは実にこの一箇所だけなのである。その意味で、この部分は極めて重要であり、暗示的なのである。

 さて、ではこの部分は何を意味しているのだろうか。私は、"二条"師忠が、包み隠れてボケをかましているのを、内幕を知っている相方の漫才師が、「あれあれ、以前は別の名前で出ていたんじゃなかったっけ」と、ツッコミを入れているのだと思う。「実教」という名前も怪しいのであって、「実を言うとね」「ホントのことを教えるとね」と言っているような感じがするのである。『増鏡』の作者は、懇切丁寧なヒントを出して、《私と別の本の作者の関係について考えてみてちょうだいね》と読者をからかっているような感じがするのである。






 6.新陽明門院


 怪しい点の第二番目は、新陽明門院の不行跡に関する記事である。新陽明門院に関しては、まず巻九「草枕」の前斎宮と後深草院・西園寺実兼・二条師忠をめぐる変な話が終わった後に、「草枕」を締めくくるところで、次のような記述がある。

 亀山院には先年近衛大殿基平公の姫君(位子)が女御として入内されていた。初め女御と申していたが、このころ女院号があって新陽明門院と申すようである。建治二年(一二七六)の冬ごろ、近衛殿で若宮(啓仁親王)がお生まれになったので、めでたく輝くばかりで、三夜・五夜・七夜・九夜などの儀も、花やかに行われて、御子もすぐ親王宣下があった。(井上宗雄氏訳)

 そして、次に巻十一「さしぐし」で、正応三年(1290)三月、浅原為頼が伏見天皇の暗殺を図った浅原事件の黒幕は亀山院ではないかという嫌疑を受けた亀山院が剃髪して逼塞していたとの記事の後、二条の従兄弟の六条有房と◇子女王の不倫の記事があり、それに続いて新陽明門院の不行跡の話が出てくるのである(『全訳注(中)』p382)。
※てへんに「侖」

 新陽明門院(亀山院女御)も、禅林寺殿の下のほうの、母屋(もや)から離れた部屋に、所在なくおいでになったころ、松殿宰相中将兼嗣が、どのようにしたのであろうか、始終参上しておられたが、宰相中将の御子に僧侶となっていた人がいた、その御房(頓悟房)に女院の御心がついに傾いて、このうえなく思い慕われていたうちに、御子までもお生みになった。その生まれた姫君は、初めは富小路(とみのこうじ)中納言季雄(すえお)の北の方でいらっしゃったが、後には、歓喜園院(かんぎおんいん)摂政兼忠公と申された方の末の御子に基教(もとのり)と申す方がおられて、その北の方になって、なくなるまでいらっしゃった。新陽明門院はこの姫君をかわいがられたので、遺産の御分配などたいそうたくさんあった。
 「そのように深く立入って、こんな御事などまでお話し申すのは、物の言い方が悪いという罪を逃れられないのですが、それでもまあ、昔もそういうことがあったというのは、近ごろの人の御様子(御身持)にもたまたま軽々しいことのあった場合、(世間から)大目に見てもらえる先例にもなるでしょう、と思います、そこで遠い昔の人の御事は、今お話ししてどうして悪いことがあろうか、と思って、すこしずつ申しあげるのです」といって(老尼)が笑うのもつつましそうではない。「どこに、最近ではだれが悪くいらっしゃるのですか」と聞くと、「いやいや、今の方を申すのはなんとなく恐ろしいですね」といって頭を振る様子も、やはりおもしろい。

 この部分も語り手の老尼が登場する場面で、非常に気になるところである。そして、老尼の言うことが妙に弁解がましくて、しかも底意地の悪さが露骨に出ていて、興味深いのである。

 新陽明門院(位子.1262〜96)の父は関白左大臣近衛基平(1246〜68)、母は右少将久我通能の娘であるが、久我通能は太政大臣通光の子、雅忠の兄弟なので、その娘は二条の従姉妹となる。つまり新陽明門院は二条の従姉妹の子であり、年齢は四歳下である。

 位子の経歴を見ると、文永十一年(1274)六月二十八日、十三歳で亀山院の後宮に入り、翌年二月二十二日、十四歳で女御、同日従三位に叙せられ、准三后。さらに同年三月二十八日院号宣下があり、新陽明門院と称した、という具合に極めて華麗である。啓仁親王・継仁親王らを生み、正応三年(1290)四月二十六日出家ということなので、おそらく同年三月の浅原事件の余波で出家したのだと思われる。そして出家の六年後の永仁四年(1296)正月二十二日、三十五歳で薨じている。

 十三歳で亀山院の後宮に入った時には、父は六年前に死んでおり、母方の祖父久我通能は、通光の遺言では正式の子として扱われておらず、しかも右少将どまりの人物なので、実際上何の力にもなれなかったはずである。つまり新陽明門院は後ろ盾を持たない存在であり、その点では二条とよく似ているのであるが、それにもかかわらず、わずか十四歳で院号宣下である。これは極めて異例であり、おそらく亀山院の強い後押しがあったのだと思われる。

 新陽明門院が十四歳で院号宣下を受けた建治元年(1275)に、四歳上の二条が何をしていたかというと、女御にもなれず、「粥杖事件」などでふらふら遊んでいた訳である。

 自分より三年遅れて後宮に入った親戚の娘が、あっという間に女御となり、あれれと思っているうちに准三后となり、その上、な、なんと院号まで授与されて行くのを見て、二条がどのような気持ちを抱いたかは、かなり容易に想像できる。二条は、親戚の年下の娘「今参り」が「女楽」で自分より良い役についただけで職場を放棄し行方不明になってしまうような女であるから、多分、はらわたが煮えくり返るような嫉妬心を覚えたのだろうと思うのである。

 ところで、新陽明門院の人生は、最初は順調すぎるほど順調だったが、全体として見るとそれほど幸福のようにも思えない。啓仁親王・継仁親王は相次いで夭折してしまったし、もともと亀山院は「恋心のおもむくまま、気に入った女性を見逃されることなく、度を過ごすくらいに手をつけられるうちに、腹違いの宮たちが大ぜいおできになった。だいたい、十三の御年から、お子様がお出来はじめになったので、たいそう乱りがわしいと思われるほどだ」(『全訳注(中)』p246)という人物で、日本の歴代天皇の中でも有数の漁色家であり、非常にけしからんというか、うらやましいというか、とにかく大変な人物だったのである。

 従って、新陽明門院としては、なまじ最初の寵愛があつかっただけに、その後の人生はつらく孤独なものだったように思われる。愛人が出来たからといって、旦那が旦那であるから無理からぬ感じがするのである。

 さて、『増鏡』の作者が南北朝期の二条良基(1320〜88)であれば、彼は新陽明門院の人生全体の記録を知ることができたはずである。だとすると、自分が生まれる二十四年も前にわずか三十五歳で亡くなっていて、特に自分や自分の先祖と直接の利害関係があるわけでもない一人の女性について、たとえ不倫のことを知っていたとしても、ここまで意地悪く嘲笑することができるのであろうか。

 繰り返しになるが、『とはずがたり』では、いったん話が始まると、語り手である老尼は殆ど姿を現さないのである。しかし、ここではかなりの分量で登場し、妙な弁解をしながら、しかもつつましそうではなく笑っているのである。これは別にそれほどたいした話でもない新陽明門院の不行跡を、妙にしつこく書く不自然さを誤魔化すためのような感じがするのである。

 いずれにせよ、ここまで念を入れて新陽明門院を嘲笑する理由は、二条の若い時代の新陽明門院に対する強烈な嫉妬心と、最後まで幸せとは行かなかった彼女に対する<ザマーミロ>という意地の悪い気持ちを前提にしないと合理的な説明ができないのではないかと私は思う。






 7.中御門経任


 怪しい点の第三番目は、中御門経任という人物に関する悪意に満ちた記事が、『とはずがたり』にも『増鏡』にも共通して出てくることである。

 中御門経任(1233〜97)は勧修寺流の極めて有能な実務官僚で、後嵯峨院に重用され、亀山院政、さらには後深草院政にも不可欠な人材として重んじられた人物である。

 中御門経任が『とはずがたり』において徹底的に嫌われ者として出てくるのは充分な理由がある。それは、この人が二条の祖父の兵部卿隆親と組んで、隆親の息子で二条の叔父である善勝寺大納言隆顕をだまし、大納言の地位を奪ったからである。『とはずがたり』巻二、「女楽事件」で二条が御所を出奔し行方不明になった部分の直後に次のような記述がある(『とはずがたり(上)全訳注』p366)。

 そうしているうちに、四月の賀茂祭見物の御桟敷のことを兵部卿が用意し、両院の御幸をお世話するなど、騒ぎ立っているということも、よそ事のように伝え聞いたが、同じ四月のころであろうか、主上(後宇多院)・東宮(伏見院)の御元服の儀式に、大納言で年齢の高い人が必要であるのを、前官では悪いというので、兵部卿があまりの奉公の忠義だてのつもりでか、子息善勝寺隆顕の大納言の官を、一日借り受けて奉仕すると申し出た。殊勝なことだということで、兵部卿は参内して、御元服の上寿の役に奉仕してのち、当然大納言を隆顕に返すということだったが、そうではなくて、引き違い経任が大納言に任ぜられた。善勝寺は、大納言の官を理由なくして剥奪されたことはまったく父の大納言のしわざと思い、深く恨んだ。兵部卿は現在の北の方の腹の隆良の中将の参議任官をしきりに申し入れていたころであるから、ここで経任を大納言に押し上げて、自分の地位を越えさせようとするつもりだと善勝寺は考え、父との同居も意味がないと、北の方の父九条中納言の邸に籠居したということを聞く。

 建治三年(1277)、隆親は儀式の都合上大納言の肩書きが必要だったので、それを息子の隆顕から借りたところ、隆顕には返されず、かわりに中御門経任が大納言に任ぜられてしまった、そして善勝寺隆顕は深く父親と経任を恨み、籠居の後、出家してしまった、というのである。

 これが歴史的事実であったのか、隆親と隆顕の対立の真の原因が何であったのかは別として、『とはずがたり』においては、年をとって政治的判断力が低下した隆親を、悪知恵の働く経任がいいように手玉にとって、自分の昇進に利用したという具合に書かれているのである。

 さて、経任は二条の後ろ盾である隆顕の敵であり、従って二条の敵となるので、『とはずがたり』には経任に関する中傷や辛辣な批判がたっぷり出てくる。まず、後嵯峨院の病気が重くて、とても回復の見込みがなくなったので嵯峨の離宮へ移すことになった場面では(『とはずがたり(上)全訳注』p81)、

さて、道の途中で召し上がることになっていた御煎じ薬を、医師の和気種成・師成の二人が法皇の御前で御水瓶二つに調合して入れ、経任が北面の下ろうののぶともに命じて持たせられていたが、それを内野で法皇に差し上げようとすると、二瓶とも御薬が一滴も入っていない。まことに不思議なことであった。それから法皇はいよいよおじけづかれてであろうか、ご病状も悪くなられたようにお見えになったなどと聞いたことだった。

 後嵯峨院の死を早めたのは経任だ、と言わんばかりなのである。また、後嵯峨院の葬送の場面では(『とはずがたり(上)全訳注』p86)、

経任は、あれほど法皇の御寵愛が深かった人である。定めて出家をすることであろうと、だれしも言い思っていたのに、御火葬の帰途、なよなよとした、しじらの狩衣の服装で、壺にお入れしてある御骨を持っておられたのは、まったく意外であった。

と言っているのである。

 ところで、善勝寺隆顕の大納言の地位剥奪について、中御門経任の関与が事実であったとしても、それはしょせん隆顕と隆顕に同情する二条にとって個人的な怨恨の対象になるだけのことであって、別に歴史的大事件でも何でもないはずである。そして、経任が後嵯峨院の崩御に伴って出家しなくても、これまた歴史的大事件とは言えないはずである。

 だいたい『増鏡』の話題は天皇・上皇を中心とする最高級レベルの貴族の動向に集中していて、実務官僚に関する話などあまり出てこないのであるが、勧修寺流の実務官僚に過ぎない経任に関する記事が頻りに『増鏡』にも出てくるのは不思議であり、しかも後嵯峨院の崩御のときの記事など、『増鏡』の方が分量的にも遙かに多いのである。巻八『あすか川』の終わりの方である(『増鏡(中)全訳注』p169)。

 二十三日御初七日の日、大宮院は剃髪された。その間は、非常に悲しいことが多かった。天下はみな黒い喪服になった。万事しんみりとして物哀れな世間の有様につけて、心ある者も心なき者も涙をもよおさぬ者はない。
 後深草院や亀山天皇のお嘆きはもちろんのこと、朝夕法皇に親しくお仕えしていた人々の、悲しみに沈んでいる様子は、常識をこえて激しいものであった。その中に、経任中納言は、他の人々よりは、ことに御寵愛があった。年も若くないので、きっと出家するだろうとみなが思っていると、平常どおりのしなやかな狩衣を着て、御骨壺を捧持してまいったのを、意外なことだと見る人々は思った。
 権中納言公雄と申すのは皇后宮(佶子)の御兄弟である。はやくから後嵯峨院がたいへんかわいがりなさって、(公雄も)夜昼お側離れず祗候して、朝夕お仕え申しなさったので、死出の旅にも自分をあとに残されたことを、若い(純情な)年ごろなので、慰めようもなく悲しいと深く思いこまれた。<中略>具氏中将も故後嵯峨院の御寵愛の人で、同じような気持ちの友人に思われたので、まことに感慨が深くて、悲しいことも語りあおうと一日じゅう待っていたのに、とうとう来なかった。不思議に思っていたところ、はやくもその夜剃髪していたのであった。
 年も盛りで、現に皇后宮の御兄弟で、東宮の御伯父なので、世の信望も他の人に劣るはずもない。世間の思うところも頼もしく、(自分自身も)得意になってよい身で、こんなふうに世を捨ててしまう心のほどがたいへんあわれなので、みないたわしくも悲しいことにうわさするようである。経任の中納言よりは、このうえなくすぐれた心根であろうか。

 心ない者までも悲しくて涙しているのに、経任は平然としている。一方、小倉公雄(洞院実雄の次男。亀山妃京極院と後深草院妃「東の御方」の兄)は、ちゃんと後嵯峨院の恩に報いて出家なさった。なんと御立派なのでしょう。それに較べて経任はなんと恥知らずなんざましょう、というのである。

 まあ、どうせひと事ではあるが、ここまで罵倒されている中御門経任にも少しは弁解させてやりたいような気になるほどの辛辣さである。経任はこのとき四十歳で、確かに若くはないけれども、そもそも彼は勧修寺流の実務官僚、要するにB級貴族であって、トップが変わればそれに従わざるをえない立場である。いちいち出家していたら身が持たないのである。

 さて、中御門経任がらみの出来事は、少なくとも鎌倉時代を公家の立場から描く一大歴史物語に記載してまで非難すべきほどの事件ではない。『増鏡』の作者が『とはずがたり』を資料として、この部分を書いたとしたら、(1)歴史の大局的な流れに全く無関係な、どうでもいい話であり、(2)そうかといって、色恋沙汰のように読者にとって面白い話という訳でもないので、真っ先に切り捨てるはずの部分である。それにもかかわらず、ここまでご丁寧に書き込んだということは、『増鏡』の作者自身にとって、これを書かずにはいられない個人的な理由があったから、と考えるのが素直だと思う。

 私は、その理由が隆顕の出家に二条が同情したからだとは必ずしも思わない。そもそも白河院政期以来、四条家に蓄積された富は莫大なものであって、四条家は巨大な経済主体であり、その指導者の地位にあった隆親・隆顕父子の対立の原因が『とはずがたり』に描かれているような単純なものとも思えない。

 いずれにせよ、中御門経任のような実務家から見れば、二条など妙に色気づいた小生意気な娘であって、逆に二条から見れば、中御門経任は屁理屈ばかりこねている辛気くさいオヤジである。不羈奔放な二条は、おそらく「粥杖事件」に類するような騒ぎを起こして経任に遠回しに嫌味でも言われたのではなかろうか。そして、自己中心的で身勝手で、ずうずうしくてあつかましい二条は、自分にも悪い点があったかもしれない、などとは全然思わずに、経任を不倶戴天の敵と逆恨みするようになったのではないだろうかと、まあ、これは史料がないから想像するしかないけれども、そんな事情があったような感じがするのである。






 8.「タカ」と「ツネ」の交換


 ところで、中御門経任関連では、もう二つほど極めて興味深い話がある。その一つは『とはずがたり』に出てきた薬の紛失の話で、これが少し変形されて『増鏡』に出てくるのである(『増鏡(中)全訳注』p161)。

道の途中で召し上がるべき煎じ薬を、和気種成・同師成という医師らが、御前で調合して、銀の水瓶に入れて、隆良の中納言が(薬を奉る役を)承って、北面の武士の信友という者に持たせてあったのを、内野の辺で差し上げようとして瓶を召したところ、二つの瓶にお薬は一滴もない。本当に不思議なことである。それほど、大事なものを下手に持ってこぼすなどということはどうしてあろう。法皇も、いちだんと気弱なお気持ちが加わって心細く思われたのであった。

 なんと、『とはずがたり』で経任がやっていた役を、『増鏡』では隆良の中納言がやっているのである。この隆良の中納言とは、いうまでもなく兵部卿隆親の末っ子であって、当時まだ正四位下右少将の四条隆良(?〜1296)のことである。隆親が経任と組んで善勝寺隆顕をだまし、経任を大納言にするかわりに参議に押し上げようとした、まさにその人である。

 大納言の地位を、「隆顕」と「経任」、「タカ」と「ツネ」が交換したように、『とはずがたり』と『増鏡』で、薬の持ち主について、「隆良」と「経任」、「タカ」と「ツネ」が取りかえっこをやっているのである。

 しかも、『とはずがたり』と『増鏡』の間の、「タカ」と「ツネ」の取りかえっこは、ここだけではないのである。まず、『とはずがたり』には次のような記述がある(『とはずがたり(上)全訳注』p293)。

 さて六条殿の長講堂を新しく造られて、四月に御殿移りの儀式があったが、お堂の供養には曼陀羅供(まんだらく)を、御導師公豪僧正、讃衆(さんしゅ)二十人で行なった後、憲実(けんじち)の御導師で定朝(じょうちょう)堂供養、これは御移りの後である。御移りの御幸には出(い)だし車(ぐるま)が五両あったうち、私は第一の車の左の最上席でお供する。右側には京極殿が乗る。私は撫子(なでしこ)色の七枚重ねの衣(きぬ)、若菖蒲(わかしょうぶ)の表着(おもてぎ)を着た。京極殿は藤色の五枚重ねの衣である。御殿移りの儀式の三日間は、みな白い衣に濃い紅の裳(も)・唐衣(からぎぬ)、袴(はかま)である。
 御壺合せをなさろうというので、公卿・殿上人、上臈・小上臈の女房がそれぞれ中庭を分けて頂戴した。私は常の御殿の東向きの二間分の庭を頂戴した。御新築の定朝堂の前二間分をいただいて庭をつくり、反(そ)り橋を遣水に小さくかわいらしく渡したところ、善勝寺大納言が夜の間にこっそり盗みとって、自分のほうの庭に置かれたのは、まことに愉快なことだった。

 この部分、「私は第一の車の左の最上席でお供する」だの、「私は撫子色の七枚重ねの衣、若菖蒲の表着を着た。京極殿は藤色の五枚重ねの衣である」だの、二条のあつかましい性格がよく出ていて面白いのであるが、それはひとまず置いといて、次田香澄氏の解説を読んでみると、次田氏は次のように指摘されている。

〈解説〉この段は六条殿長講堂移徙の盛儀であるが、ここにも「一の車の左に参る」と地位を誇示し、あわせて後文の壺合せのエピソードを点出して、作者と最も親しい叔父である善勝寺隆顕の軽妙な人柄を語る。粥杖報復事件における描写と合せてみると、いっそう彼の人物像が鮮明となるであろう。『増鏡』「老の波」では、この段を用いながら隆顕を平大納言経親に変えている。この点は、「増鏡』「飛鳥川」で『とはずがたり』(巻一の一O段)によりながら、吉田経任を四条隆良としていることとともに、不可解なことである。この八段の「いとをかしかりしか」が「いと恐ろしく心かしこくぞ侍りける」(「増鏡」)では、この段のおもしろ味を理解しなかったものであり、『とはずがたり』の本質を捉えていないことになる。

 そこで、『増鏡』の方を確認してみると、『増鏡』「老の波」の記事は次のようなものである(『増鏡(中)全訳注』p259)。

 六条殿の長講堂も、先年焼夫したのを造営されて、このころお移りになられた。四月の初めごろである。後深草院は庇(ひさし)の御車で赴かれ、公卿・殿上人や御随身は、なんともいいようなく美々しいことであった。女院(東二条院)の御車には姫宮(◆子内親王)もお乗りになる。女房の出車(いだしぐるま)も多く、みな白い袷(あわせ)の五つ衣(きぬ)、濃い(紅の)袴、同じ白の単(ひとえ)で、(移転の慎みの)三日間が過ぎて、いろいろの衣や、藤・つつじ・なでしこがさねの衣に着かえられた。
 後深草院はしばらくこの御所におられるので、人々がたえずここに参集する。西園寺家の公達(きんだち)も毎日伺候される。(ある日)中庭を区分されて前栽合(せんざいあわせ)があったのにも、風流で珍しいことなどが多かった。某朝臣が宇治槇島(まきしま)の風景を造ったのを、平大納言経親(つねちか)がまだ身分が低く、兵衛佐(ひょうえのすけ)などといったころであったか、その宇治川の橋を盗んで、自分の造った前栽のほうに掛け渡したのは、じつに恐るべく、利口なことであった。
◆女へんに「令」

 『とはずがたり』と照らし合わせて見ると、ずいぶん色々なところを少しずつ変えているのであるが、最も大きな違いは隆顕の役を経親がやっていることである。井上宗雄氏は次のように述べておられる。

〈解説〉 六条殿移徙(わたまし)のことは『とはずがたり』によっている(供花のことはみえない)。『とはずがたり』には蹴鞠(しゅうきく)に続いて記されており、建治元年ごろの所に置いてある。
 前栽合(せんざいあわせ)は「反橋(そりはし)を遣水(やりみづ)に小さくうつくしく渡したるを、善勝寺大納言、夜の間に盗み渡して、わが御壺に置かれたりしこそいとをかしかりしか」とある(『とはずがたり』の「うつくしく渡したる」の主語を、作者二条とする説と、某とする説とある)。橋を盗んだのは『とはずがたり』によると、二条の伯父四条隆顕だが、『増鏡』は経親である。他にも小異があり、「これは増鏡の作者の創作と見るよりも、参照した資料の相違に基づくものであろう」〈大系〉に従うべきであろう。
 後深草院は現在院政を執っているわけではないが、すでに皇子が立太子しているから、やがての院政は必至であるという状況で、人々多数の参集になるのであろう。したがって『増鏡』にみえる、移徙と供花とのにぎわしさが、(確実な史料によって)事実であるとすれば、建治元年四月の移徙ではない(この時はまだ煕仁(ひろひと)親王の立坊は決まっていない。むしろ後深草方の沈滞期であった)。その点、弘安二年三月とみる方に分(ぶ)があるが、もう一つ確実な(『増鏡』の依拠した)一等史料が出現するまでは、結論は出しにくいであろう。『増鏡』が、蹴鞠の条を受けて、創作的に記述したということもありうるからである。

 木藤才蔵氏が注釈を書かれている岩波の〈大系〉では、隆顕と経親の違いは「参照した資料の相違に基づくものであろう」とのことであり、井上宗雄氏もそれに賛成されているのであるが、おもちゃの橋を盗んで別のところに渡すようなどうでもいいことが、直接の当事者である二条の「日記」は別として、果たしてそんなに多くの資料に書かれるものなのだろうか。

 私は、国文学者たちは「この段のおもしろ味を理解しなかったものであり、『とはずがたり』の本質を捉えていない」と思う。両者を読み比べれば明らかなように、『とはずがたり』と『増鏡』は極めて技巧的に書き分けられており、「タカ」と「ツネ」の違いは知的なゲームだと思う。二条は、「ワタシは『とはずがたり』と『増鏡』という二間分の庭を頂戴して、反り橋を架けたりして遊んでいる訳よ。だから、ワタシが懇切丁寧に出したヒントを手がかりに、『とはずがたり』と『増鏡』の関係について、しっかり考えてみてちょうだいね。それにしても、ワタシって、こんなにいろいろあちこちに橋を架けたりして、なんて『いと恐ろしく心かしこくぞ侍りける(じつに恐るべく、利口なこと)』なのかしら」と読者をからかっているのだと思う。

 学者たちは、掛詞的発想、つまり同じ形態を利用して、次から次へと意味の異なるものを結びつけ、思考をランダムにジャンプさせて行く言語技術に不得手なため、何時までも同じところを徘徊していて、結局、『とはずがたり』と『増鏡』の関係のおもしろ味を理解することができず、『とはずがたり』と『増鏡』の本質を捉えられないでいるように、私には思われるのである。






 9.公卿勅使の歌

 さて、経任関連のもうひとつの興味深い話は、蒙古襲来に際して伊勢神宮への勅使が詠んだ歌についてのものである。弘安四年(1281)、第二次蒙古襲来を前にして、中御門経任が敵国降伏を祈る公卿勅使として伊勢神宮に派遣されたのであるが、その勅使が詠んだとされる歌について、『増鏡』には極めて分かりにくい記述がなされていて、大問題となっているのである。少し長いが、重要な部分なので丁寧に引用してみる(『増鏡(中)全訳注』p279)。

 その(弘安四年の)ころ、蒙古が襲来するとかいって、世の中が騒ぎ立った。いろいろさまざまに恐ろしい風聞が立つので、「後深草院と亀山院とは関東に下向(げこう)されよう。天皇・東宮は京においでになって、関東武士が上洛して警固するだろう」などとうわさされて、山でも里でもあらゆる寺院でお祈りの行なわれることは数知れぬほどである。伊勢神宮へ敵国降伏(ごうぶく)を祈る勅使に経任大納言が参向する。亀山院も石清水八幡宮へ御幸されて、西大寺の長老を召されて、大般若経(だいはんにゃきょう)全巻読誦(とくじゅ)の供養をされる。伊勢大神宮への御願文(ごがんもん)に、「私の(治天の君として治めている)御代に、このような乱れが起こって、ほんとうにこの日本が敗亡するようなことがあったら、わが命を取上げてください」という旨を御自身でお書きになったのを、母大宮院が「それはまったくとんでもないことです」とやはりお諌め申しあげなさったというのは、(女親の心として)ごもっともで、しみじみと共感されることである。
 関東でも、いいようもないほどの祈祷をことごとしく騒ぎたてて行なう。後嵯峨院の御代(みよ)にも、五十の御賀の試楽(しがく)のころ、こういう蒙古からの国書が来た事件があったが、まもなく静まったのに、今回ははなはだ不愉快で、蒙古からの牒状(国書)を持って参った者などがいて、事がたいそうめんどうだという話なので、上下の人々が限りなく思案にくれたのであった。
 しかし(閏)七月一日ものすごい大風が吹いて、異国の船六万艘、敵兵が乗って筑紫へ攻め寄せてきたのが、みな難破してしまったので、あるいは水に沈み、たまたま生き残った者も泣く泣く本国に帰っていった。石清水八幡宮で、大般若供養の高潮に達していた時に、晴れた空に黒雲が一かたまり現われてたなびいた。その雲の中から、白い羽で矢羽をつけた大きな鏑矢(かぶらや)が、西をさして飛んでいって、その鳴る音がものすごかったので、あの筑紫の地では大風が吹いてくると敵兵の耳には聞えて、波が荒く立ち、海上は恐ろしく荒れて、みな沈んだということである。やはりわが国に神がいらっしゃることは、あらたかなのである。
 さて、為氏の大納言は伊勢の勅使になって、上京の途中からつぎの歌を送ってきた。
天皇の勅を奉じてお祈りした、その霊験の神風によって、攻めてきた敵船は、寄せくる波が砕け散ったように、みな敗滅してしまった。
 蒙古の事件が静まったので、京でも関東でも、みな安心されて、このうえなくめでたいことである。あの元の皇帝は残念なことに思われて、湯水もあがらず、「私はどうかして今度は日本の帝王に生まれ、あの国を滅ぼす身となろう」と誓って死なれたと聞き及んだが、ほんとうであったのだろうか。

 この部分、特に亀山院が身をもって国難に当たりたいとおっしゃったという話は、戦前は国史の教科書に必ず取り上げられていて有名だったということであるが、戦後生まれの私は全然知らなかった。

 ま、それはともかく、この文章で極めて奇妙なのは、伊勢神宮への勅使は経任だと言っておきながら、すぐ後の方で、勅使として歌を送ってきたのが為氏(藤原定家の孫.1222〜86)だとしているところである。

 ここは、昔から謎だとされていたそうであり、井上宗雄氏は次のように述べておられる。

〈解説〉「勅として」の歌は、『増鏡』には、どういうわけか為氏の歌としてみえるが、この時の公卿勅使は経任であることが明らかであり、川添昭二「蒙古襲来と中世文学」(日本歴史302、昭和48年7月)は「この作者は『弘安四年日記抄』から、為氏ではなく中御門経任だといわれている」と述べている。  この歌は、昭和17年に選定された愛国百人一首に採られ、『増鏡』を典拠としたため、為氏が作者となっている。ただ選者たちの間でも、この増鏡の文章に疑問を感じ、川田順『愛國百人一首評釋』によると、辻善之助(選定顧問)に聞いたところ、後宇多天皇の勅使として経任、亀山院の御使として為氏が遣わされたという「史実を教へられ、疑問は氷解した。(筆者はさう了解したが、聴き誤りであつたならば、辻博士にすまない。)とにかく増鏡の叙述ぶりは不精確である」とある。
 思うに「史実」というのは今に至るまで見出せず、史料をどう解釈するかということであろう。龍粛「弘安の御願について」(『鎌倉時代』下、所収)で種々述べているように、為氏が亀山院の非公式の院使として下ったことがあり、「勅として」の歌も為氏作という確証はないが、「さりとて別人の歌である証拠もなく、この問題についてはなお攻究すべき余地がある」としている。ただし「史実」が発見されるまでは、川添論文のように考えておくのが穏当であろう。

 私も川添昭二氏の「蒙古襲来と中世文学」(『中世文芸の地方史』平凡社選書掲載のもの)と、元東京大学史料編纂所長龍粛(りょう・すすむ)博士の名著『鎌倉時代.下』(春秋社)に載っている「弘安の御願について」を読んでみた。川添昭二氏の論文は、この問題に関しては結論のみであり、拍子抜けしたのであるが、龍粛氏の精密な研究には心から感嘆の念を抱いた。学者というのは本当に恐ろしいものだと感心したのである。

 さて、龍粛博士の論文に縷々説かれていたような「弘安の御願」に関する大正時代以来の大論争など全然知らずに、何となく、この極めて難解な問題に直面することになってしまった私は、二条作者説からの解釈として、次のように考えている。

 即ち、二条は経任が嫌いだったので、勅使として優れた歌を詠むような良い役を経任に演じさせてたまるものか、そんなことは絶対に許せないと思い、適当に史実を変えて為氏の歌にしてしまったのだ、と。ただし、それは経任が勅使であることを否定している訳ではなく、経任の名前はきちんと出しているのだから、本格的な悪意というよりは、ちょっとしたいたずら程度の軽い気持ちでやったものだ、と。

 このように考えるべき理由のひとつとしては、為氏の歌の直後に、「元の皇帝は残念なことに思われて、湯水もあがらず、『私はどうかして今度は日本の帝王に生まれ、あの国を滅ぼす身となろう』と誓って死なれたと聞き及んだが、ほんとうであったのだろうか」という奇妙な一文があることもあげることができると思う。これは、ちょうど巻十一「さしぐし」で二条が「三条」という名前で登場する場面と同じく、作者がちょっととぼけて、読者に知的ゲームを仕掛けているように思われる。「まことにやありけん」(ほんとうであったのだろうか)という一文は、作者の隠された意図としては、元の皇帝についてのウソに決まっている話ではなく、その前の「為氏の大納言、伊勢の勅使上る道より申しおくりける」云々を受けていて、為氏の話は「まことにやありけん(ほんとうであったのだろうか)」と読者に問いかけているのではないか、経任と為氏の関係について、ちょっと考えてみなさいよと読者をからかっているのではないかと思われるのである。

 何しろこれは、戦前は国史の教科書に必ず取り上げられていた、亀山院が身をもって国難に当たりたい、とおっしゃったという有名な話に直接に関係する問題であり、また、神聖なる『愛国百人一首』に関わる問題でもあって、時代が時代なら、このような軽薄な解釈は"不敬"と非難されかねないことなので、私もそれなりに熟慮してみたのであるが、結論として、あちこちで「タカ」と「ツネ」を取りかえっこしている二条なら、この程度のことは平気でやるわな、と思うのである。






 10.持明院殿蹴鞠


 怪しい点の第四番目は「持明院殿蹴鞠」の場面である。二条は『増鏡』に何度か顔を出しているが、「久我の太政大臣の孫」として正面から姿を現しているのが、巻十「老の波」の、持明院殿蹴鞠の場面である。この部分も『とはずがたり』との関係が興味深いところなので、まず『とはずがたり』から見てみる(『とはずがたり(上)全訳注』p287)。

 そのうちに、本院(後深草院)・新院(亀山院)の御仲がよくいらっしゃらぬことを、悪(あ)しざまに関東で思い申しあげているといううわさが聞え、こちらの院の御所へ新院が御訪問遊ばされることになった。蹴鞠(けまり)のお庭を御覧になりたいということで、鞠の競技をなさろうということなので、院は「さてどのようなやり方がよいか」と近衛大殿にお尋ねになる。(大殿がいろいろ進言なされた中で、)
「あまり進行してしまわないうちにお酒を、鞠の途中で御装束をお直しになる折、柿浸(かきひた)しを召しあがるのが例でございます。女房のお給仕でさし上げられるのがよろしゅうございましょう」
と申しあげられる。「さて女房はだれがよいか」とお尋ねがあり、
「ちょうどお年ごろでもあり、然るべき家柄の人でもあるから」
というわけで、私がこの役をうけたまわることになる。
 衣裳は樺桜(かばざくら)の衣(きぬ)七枚、裏山吹の表着(うわぎ)、青色の唐衣(からぎぬ)、紅の打衣(うちぎぬ)、生絹(すずし)の袴であった。下に浮織物の紅梅色の匂(におい)の三つ小袖、唐綾(からあや)の二つ小袖を着る。 (この御所ヘ)新院がお着きになられたところ、両院のお席を対座に設けてあったのを、新院が御覧になられ、
「前院(後嵯峨院)御在世のとき(兄院に対して父子の礼をとるよう)順序を定めておかれたのに、このお席の設け方はよくない」
といって、長押(なげし)の下(しも)へ御自身の座をおろされるところヘ、主人の院がお出ましになられて、
「(源氏物語の)朱雀院の行幸のときには、(宣旨があって)六条院の座を引き上げて対座にされたのに、今日のお出ましには御座を下げられる、変っていておもしろいですね」
と申されたのは、「とても優雅なお言葉だ」と人々が申したことだった。
 とくに正式のお膳をおすすめされ、三献のお酒が終りなどして後、東宮(伏見院)がおいでになられて御鞠(まり)が始まった。競技が半ば過ぎるころに、二棟(ふたむね)の御所の東の妻戸(つまど)へ新院がおいでになられるところへ、柳筥(やないばこ)にお杯を据え、かねの御提子(ひさげ)に柿浸しを入れ、別当殿−松襲(がさね)の五つ衣(ぎぬ)に紅の打衣(うちぎぬ)、柳の表着(うわぎ)、裏山吹の唐衣を着ていた−に持たせて参り、私が杯を取って新院へさし上げる。「まずあなたから飲みなさい」と、新院はお言葉をおかけになる。暮れかかるまで御鞠をなさり、松明(たいまつ)をともさせて新院はお帰りになる。
 翌日、仲頼(なかより)を使いとしてお手紙があった。
いかにせんうつつともなき面影を夢とおもへばさむるまもなし
(どうしたらよかろう。うつつにみたとは思えぬ美しいあなたの面影を、夢かと思えば覚めるまもなく、あなたを恋しく思うが)
  紅の簿様の紙に書いて柳の枝につけられてある。御返事をさえ申しあげないのもあるいは失礼かもしれぬと、薄藍色の薄様に書き、桜の枝につけてお返しをした。
うつつとも夢ともよしや桜花咲き散るほどと常ならぬ世に
(うつつでも夢でも、どちらでもよろしゅうございます。桜が咲いてすぐ散 ってしまう間くらいに、移りやすいこの世でございますから。あなた様のお言葉も一時のおたわむれでございましょう)
 新院からその後もたぴたぴつぎつぎと引きつづいてお便りを頂戴したが‥‥、師親の大納言が住んでいる所へ牛車を頼んで帰った。

 この場面は、「有明の月」から恋の告白を受けた場面の後に置かれていて、私があまりに美しいので亀山院からも注目されて、早速お手紙を頂いてしまいました、という厚かましい自慢になっているのである。

 自分がいかに美しいかを他人の口から言わせるのは、この女の常套手段であり、臨終の父親に、おまえの美貌は楊貴妃並みとさえ言わせていることを考えると、ここの記述など二条にとってはまだ言い足りないくらいなのだと思う。そして、これだけヌケヌケと厚かましいことと言っておきながら、「御返事をさえ申しあげないのもあるいは失礼かもしれぬ」などと謙虚そうなフリをするのも、この女の特徴がよく出ていて面白いのである。

 ま、それはともかく、この蹴鞠の場面に対応する部分は、『増鏡』では次のようになっている(『増鏡(中)全訳注』p254)。

 三月末ごろ、持明院殿の花盛りに、亀山院の御幸があった。蹴鞠(しゅうきく)の庭を御覧なさる御志であったので、御前の花はこずえのも庭のも真っ盛りであるのに、よその桜までお取寄せになって散らし加えられた。たいそう深く積った花の白雪は、足跡をつけにくいほど美しく見えた。公卿・殿上人がたいへん多く参集する。御随身(みずいじん)や下北面(げほくめん)の武士などもたいそう美々しく着飾って伺候した。わざとらしくなく(女房たちも)美しい袖口が御簾(みす)の下から押し出されて、格別念入りに装っておられる。
 寝殿の母屋(もや)に、両上皇の御座を相対して設けられたのを、亀山院がおはいりになって、「故後嵯峨院御在世の折、(対面の儀は朝覲のそれに準ずるようにと)お決めになった以上は、今さらそれを改められようか」といって、御自分の席を長押(なげし)の下(の廂の間)にお下げになったところに、後深草院がお出ましになって、(『源氏物語』の故事にある)朱雀院の行幸には、(下座にあった)主人の座を(同列に)直されましたのに、今日の御幸には(お客の)座をお下げになるというのは、まことに異様ですね」など、申しなされる御様子はほんとうにおもしろい。儀式ばったお話はすこしで、すぐお花見の興に移った。
 お杯が相当に巡った後、東宮がおいでになって、蹴鞠の庭のかかりの木の下にみな立ちいでなさる。両院・東宮もお立ちになる。蹴鞠の半ばを過ぎたころ、お客様の亀山院が(御殿に)お上りになって、しとうず(足袋の類)などを直されるうちに、女房別当(べっとう)の君、またいかにも上臈ふうに見える久我太政大臣通光公の孫とかいう人(二条)が、樺桜(かばざくら)の七つがさね、山吹の表着(うわぎ)、赤色の唐衣(からぎぬ)、生絹(すずし)の袴(はかま)という装束で、銀のお杯を柳箱(やないばこ)にのせて、同じ銀のひさげで、柿ひたしを差上げると、ちょっとした御冗談などおっしゃる。
 日が暮れかかるころ、風がすこし吹いて花もひどく散り乱れるところで、御鞠(まり)が何度も空に蹴上げられる。人々はほんとうにうっとりした気持になっている。趣ある木陰にお休みになる亀山院の御容姿はたいそうお美しくりっぱである。東宮も若く美しげで、濃い紫の浮織物の御指貫(さしぬき)をしなやかに召し、それをすこし引きあげておられると、そこへ花がたいそう白く散りかかり、紋のように見えたのは趣があった。東宮が桜を仰がれて、一枝お折りになったご様子は絵にも描きたいような夕映えの景である。その後も、お酒などむちゃくちゃなほどお召しになり、騒々しいほど浮立って、夜がふけてお帰りになった。

 「いかにも上臈ふうに見える久我太政大臣通光公の孫とかいう人」という表現(原文では「上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや」)など、いかにも自慢話ふうに見えるのであるが、それはひとまず置いといて、『とはずがたり』と『増鏡』を見較べてみると、この部分の「引用」の程度は殆ど丸写しといってもいいような感じである。この点も、改めて考えてみれば、ずいぶん不思議なのである。

 一般に、『増鏡』の資料の利用の仕方は、冒頭の「おどろのした」の歌のように、作成年代の異なる歌をひっぱってきたり、『弁内侍日記』の引用の際に、場面に合わせるために歌の作者を変えたり、といった具合に原史料をかなり自由に、というか勝手に改変して、作者独自の物語世界を構成していることが多い。作者の制作手法はコラージュ風であって、作者にとって原史料など、どのような重要な書物であろうと、どんなに偉い人の話だろうと、単なる素材のひとつになってしまっているのである。

 ところが、原史料を、その文脈から切り離して使用することに全然ためらいを見せない『増鏡』の作者が、『とはずがたり』と『五代帝王物語』に限っては、丸写しに近い引用の仕方をしているのである。

 『五代帝王物語』については、今は触れる余裕がないが、『増鏡』の作者のような創作意欲の強い人間にとって、他人の資料を丸写しにするというのは相当に心理的な抵抗を生む行為であるはずである。

 従って、『増鏡』が『とはずがたり』を丸写しにするのは、作者が別だとすれば極めて奇妙なことなのであるが、作者が同じであれば、心理的な抵抗など皆無であって、自分の書いたものなのだからいくらでも「丸写し」できることになるのである。

 ところで、この蹴鞠の場面、『増鏡』は『とはずがたり』を丸写しするようでいながら、細かい変更も行っている。例えば、『とはずがたり』では、亀山院は二条に、「『まずあなたから飲みなさい』と、新院はお言葉をおかけになる」と言っているだけなのに、『増鏡』では、「ちょっとした御冗談などおっしゃる」に変わっているのである。

 学者たちは、得意のワンパターンで、「他の資料によったのだろう」とか「『増鏡』の作者が創作的に変更したのだろう」などと言うのであろうが、「ちょっとした御冗談」など二条以外の人間にとってはどうでもいいことであって、他の資料の筆者が書きとめるとも思えないし、二条以外の人間にとって、創作的に変更する動機も考えにくいのである。

 また、『とはずがたり』では二条の着ていた服が「青色の唐衣」であるが、『増鏡』では「赤色の唐衣」になっている。これは現代人にはどうでもいいことであるが、当時の貴族社会では禁色(きんじき)の問題がからむのであって、相当注意するはずのところなのである。

 この点、私のように二条が作者と考えれば、「タカ」と「ツネ」の交換と同じように、遊びでやっているんだろうな、ということになるが、二条以外の作者を想定すると、変更の動機の説明は極めて困難である。実際、学者たちは、「別の資料に依ったのだろう」「奇妙だ」などと、例のワンパターンの説明や感想しか述べないのである。

 なお、『増鏡』がそれほど文学的評価が高くない原因のひとつとして、儀式の連続など退屈な部分が多くて、中だるみになっていると言われることが多い。例えば東京大学名誉教授の市古貞二博士は、『中世文学点描』(桜楓社)所収の「新島守と秋霧」というエッセイにおいて、「はじめに後鳥羽院の承久の乱、終わりに後醍醐天皇の元弘の変が記されて居り、この二つが『増鏡』の二つの大きな山であることは、誰しも説くところであるが、その間を埋めているのは、天皇の即位・譲位、后妃の入内、皇族の出産や死であり、あるいは賀宴であって、それらの事象が次々に単調に繰り返されていることが多い。読んでいてもそれほど興味をそそられないのである」と言われている。

 確かに、現代人の目から見れば、『増鏡』の二つの山に挟まれた部分はつまらない話の連続のように思えるのであり、この持明院殿蹴鞠の場面などその典型なのであるが、仮に二条が作者だとすれば、ひとつひとつの話が、自分の若いころの宮廷生活の思い出であり自慢話であって、いくら語っても語り尽くせないくらい面白い話の連続なのだろうと思う。『増鏡』の奇妙さは、公的な歴史物語に、特定個人の宮廷生活日記が織り込まれていることから生じているように私には思われる。







トップページ