up2002.10/12

第三章 村上源氏から見た『増鏡』






  1. 通説の紹介


 前章において、私が『増鏡』の作者を『とはずがたり』の作者と同一人物ではないかと考えた理由を述べたが、私の関心の特殊性から『増鏡』の全体像が若干見えにくくなっているようにも思われるので、ここで一度、『増鏡』についての通説的な見解を紹介しておきたい。そして、その上で通説を批判的に検討したい。

 『増鏡』についての研究は戦前はかなり盛んであって、注釈書も数多く出されていたが、戦後は低調な時期が続いた。その中で岩波日本古典文学大系本の注釈を書かれた木藤才蔵氏の見解は、今なお通説的地位を占めていると思われるので、木藤才蔵氏の見解の概略を知るために、木藤氏が執筆されている『日本古典文学大辞典』(岩波書店.1984年)の『増鏡』の項目を引用してみたい。

増鏡 ますかがみ
 十七巻または十九巻。歴史物語。伝本によっては、「益鏡」「増鑑」「真寸鏡」などと記し、「源起記」と題する写本もある。作者は、二条良基説が有力だが、ほかに兼好・二条為明・四条隆資・丹波忠守などを作者とする説がある。
【成立】 興仁親王が皇太子になった暦応元年(一三三八)以後、永和二年(一三七六)に至る間の成立。その中で、応安(一三六八−一三七五)から永和二年にかけての成立とみる説が有力。執筆の意図は、その序文に示されているように、『栄花物語』『大鏡』『水鏡』『今鏡』『いや世継』など、先行の歴史物語のあとを受けて、後鳥羽天皇以後の歴史を叙述しようとしたものである。
【構成】 最初に、筆者が嵯峨の清涼寺に参詣して、高齢の尼から歴史物語を聞くまでのいきさつを記した序があって、本文に移り、以下、巻一から巻十七まで、鎌倉期の歴史を、出来事中心に時間の流れに従って叙述してある。古老の語る歴史を筆録したという形式をとっているのは、先行の鏡物に習ったのであるが、本書では序文に対応する結びの言葉を欠いている。巻々に『源氏物語』ふうの優雅な名前を付けているのは、『栄花物語』や『今鏡』に習ったのだろう。増補本系の諸本は、「内野の雪」の次に「煙のすゑ/\」を置き、「北野の雪」を増補して上下二巻とし、全体を十九巻にしている。
【内容】 治承四年(一一八〇)の後鳥羽院の降誕から、後醍醐天皇が隠岐の島から還幸になった元弘三年(一三三三)に至る百五十余年間の歴史を公家中心に記してある。本書において一貫して取り上げられているのは、後鳥羽院以下十五代の天皇に関する事であって、それぞれの天皇の父母・誕生・元服・立坊・践祚・後宮・子女・譲位・出家・死等に関しては、必ず記されている。それに、『続後撰和歌集』を除いては、鎌倉期に成立している『新古今和歌集』以下八つの勅撰集の撰進の次第についても記述があり、また、皇室関係の遊宴・賀宴・詩歌管絃の雅会・仏事などの行事をはじめ、所々への行幸・御幸、和歌の贈答あるいは男女間の恋愛や情事に関する物語などをも織り交ぜて、公家の風雅な生活が、絵巻物でも見るように叙述されている。こうした叙述の仕方は、『栄花物語』にきわめて近いものがあるが、中古に成立した歴史物語に比較してみて、摂関家に関する記述は概して簡単であり、それに対して、廷臣中の実力者でありその一門から多くの后妃を輩出した西園寺家に関する記述は比較的詳しい。また、武家の時代の到来を示す鎌倉の将軍に関しては、初代の源頼朝以後、九代めの守邦親王に至るまで、一応の記述が見られるが、幕府の実権を握っていた、執権北条氏については、皇室に関係のある大事件に関与した場合に限って記されているに過ぎない。本書に取り上げられている出来事についてみても、将軍実朝の暗殺、承久の乱、文永・弘安両度にわたる元の来襲、正中の変、元弘の乱と北条氏の滅亡など、後鳥羽院治世下以後の、鎌倉期における主要な事件について、一応は触れられているものの、皇室に関係があるかないかで、繁簡に著しい差がある。執筆に際しては、記録・史書・歌書歌集・補任・物語などにわたって相当多くの資料が利用されたことが指摘されているが、『源氏物語』のように単なる文飾として使用されているものを除くと、確証のあるものはそれほど多くなく、『五代帝王物語』『弁内侍日記』『とはずがたり』『舞御覧記』『大鏡』『今鏡』『平家物語』『土御門院御百首』『遠島御歌合』『続古今和歌集』『古来風躰抄』などが主要なものである。特に『五代帝王物語』『弁内侍日記』『とはずがたり』の三書は大幅に利用されており、これ以外にも、現在湮滅してしまっている物語・日記類を相当利用しているこどが推測される。
【性格・価値】 本書は第一級の資料を豊富に使用しているため、その記事が大体において正確であることが指摘されているが、本書の作者は歴史的事件を過不足なく記述して、正確な史書を著作することを主目的としていたとは考えられない。宮廷関係の記事に限ってみても、大嘗会・女御入内・行幸御幸・遊宴・賀宴その他の儀式や行事など、各時代を通して、そのすべてが取り上げられているわけでもなく、また、叙述の仕方についてみても、その繁簡は決して一様ではない。これは一つには、適切な資料の有無の問題も関係しているが、それ以上に文芸的意図が優先していることを否定できない。「内野の雪」には、後嵯峨の石清水・宇治・鳥羽殿・吹田への御幸を記したあとで、ひき続き宮廷における風流生活が次々に述べられているが、これらの出来事に関しては、日時が必ずしも明示されていないだけでなく、時には時間的な順序さえ無視されている。ここで作者が意図したのは、後嵯峨院政下における優艶で風雅な貴族の生活を、絵巻物でもみるように繰り広げてみせることにあったと考えられるが、本書の骨格をなす儀式や行事の叙述には多かれ少なかれ、この種の意図が働いている。その一方において、承久の乱に敗退した後鳥羽院の降誕をもって起筆し、後醍醐天皇即位以後、元弘三年までの約十六年間に三分の一の記述量を与え、鎌倉幕府の滅亡をもって終筆していることの意味も考えてみる必要がある。政治権力を奪われた鎌倉期の公家たちは、王朝の文化伝統と官能の生活にのみ生きがいを見出し、閉塞された社会で「艶」と「あはれ」に満ちた明暗さまざまな生活をくり返すが、朝権回復の機会を得て奮起し、輝かしい勝利を得るという本書の大筋は、まことに劇的なものを内包している。『源氏物語』ふうの優雅な文体で貫かれている本書が、「むら時雨」以下の三巻において躍動するものを秘めているのも、こうした構成法と無関係ではない。

 『増鏡』の豊饒な世界を見事に要約した解説であるが、問題も多い。節を改めて検討したい。







  2.『増鏡』における摂関家と西園寺家


 木藤才蔵氏は「中古に成立した歴史物語に比較してみて、摂関家に関する記述は概して簡単であり、それに対して、廷臣中の実力者でありその一門から多くの后妃を輩出した西園寺家に関する記述は比較的詳しい」と書かれているが、実際に『増鏡』を読んでみると、西園寺家関係の記事は「比較的詳しい」どころか、摂関家に関する記事の僅少さと比べると、どこか異常な感じがするほど分量が多く、また詳細なのである。

 この点について、山岸徳平・鈴木一雄氏は『鑑賞日本古典文学14.大鏡・増鏡』p245において、次のように述べておられる。

 『増鏡』が西園寺家関係にくわしく、また感情をこめている点は、作者を、現在最有力とされている二条良基と考えれば、まことによく結びつくところがある。良基の母は、右大臣西園寺公顕の娘である。太政大臣にまでなった西園寺実兼は、良基にとって曾祖父にあたるわけである。「第九草枕」の巻に語られる、後嵯峨院皇女、前斎宮※子内親王をめぐる情事の一方の当事者が母方の曾祖父実兼であり、もう一人の当事者は父方の祖父兼基の兄香園院関白師忠であるのも興味深い。ともあれ、『増鏡』が良基の著であれば、西園寺家系内に特にくわしい知識、時には内々の裏話まで洩らすほどの情報が盛られていても不思議はないことになるであろう。
※りっしんべんに「豈」

 山岸徳平氏は『とはずがたり』を「発見」された方であり、鈴木一雄氏も深い学識を誇る方であって、そういう二人に対して言うには若干のためらいも感じるのであるが、でもまあ正直に言うと、私はこれほど的外れな見解も珍しいと思うのである。

 まず、「太政大臣にまでなった西園寺実兼」とあるが、摂関家の人間から見れば西園寺家など「太政大臣にしかなれない」家である。摂政・関白になれる家柄と太政大臣どまりの家柄は、当事者、特に摂関家の側から見れば天と地との違い、月とスッポンの差である。これは現代人から見れば全く不合理な差別意識であるが、貴族社会の基本的な秩序感覚だから仕方ないのである。

 次に、「後嵯峨院皇女、前斎宮※子内親王をめぐる情事の一方の当事者が母方の曾祖父実兼であり、もう一人の当事者は父方の祖父兼基の兄香園院関白師忠であるのも興味深い」とあるが、西園寺実兼と二条師忠の役回りを比べてみると、二条師忠は極めて滑稽な引き立て役であって、「興味深い」で済まされるような話ではない。これは摂関家の二条家にとっては屈辱的な話であって、師忠の曾孫である二条良基が『増鏡』の作者だったら、こんな描き方をするはずがないのである。

 山岸徳平・鈴木一雄氏の根本的な欠陥は、貴族社会の人々の時間感覚が全く理解できていない点にある。現代の我々は孤立した個人として、現在のみに関心を集中して生きているのに対し、貴族は滔々と続く家の流れの中で、過去と現在と未来の複合的な時間の中に生きているのであり、貴族が歴史を叙述する場合には、そうした複合的な時間感覚が反映されるはずなのである。

 そんな難しい言い方をせず、あっさり言ってしまえば、要するに一族にとって不名誉な話は事実であっても書かない、あるいはなるべく都合良く修正して書いてしまうということであり、仮に「後嵯峨院皇女、前斎宮※子内親王をめぐる情事」が客観的事実であったとしても、二条家に属する良基なら、全く書かないか別の書き方をするはずなのである。

 「『増鏡』が良基の著であれば、西園寺家系内に特にくわしい知識、時には内々の裏話まで洩らすほどの情報が盛られていても不思議はないことになるであろう」というのも全くの誤りであり、情報の量ではなく、情報がどのように取捨選択され、どのように加工されているかに着目しなければならないのである。

 結論として、「『増鏡』が西園寺家関係にくわしく、また感情をこめている点は、作者を、現在最有力とされている二条良基と考えれば、まことによく結びつ」かないと私は考える。






 3.『増鏡』における源通親と土御門定通


 二条の曾祖父である源通親(1149〜1202)と、同年に生まれた九条家の祖である九条兼実(1149〜1207)は宿命のライバルというべき存在であるが、この二人の『増鏡』における取り扱いは極めて興味深い。

 まず、通親については、土御門天皇(1195〜1231)に関連して次のような記述がある(井上宗雄氏『全訳注(上)』p48)。

 今の天皇の御実名は為仁(ためひと)と申し上げた。御母は能円法印という人の娘で、宰相の君といって宮中に仕えておられるうちに、後鳥羽院の御寵愛を受けて、土御門天皇がお生まれになり、その後、内大臣通親の養女になられて、しまいには承明門院と申し上げた。この宰相の君は、内大臣通親の北の方が、かつて能円の妻であった時の子でいらっしゃったので、通親はもちろん義理の親であるが、皇子を生んで御幸運までも引出しなさったので、ほんとうの娘と同様の待遇をしたのであった。土御門天皇もそのまま通親邸で養い申し上げなさる。かくして建久九年(一一九八)三月三日御即位、十月二十七日御禊(ごけい)、十一月は恒例のように大嘗会(だいじょうえ)が行なわれ元久二年(一二〇五)正月三日御元服なさった。たいへん優美でかわいらしくいらっしゃる。御性格も、父帝後鳥羽よりは少し温和でいらっしゃったが、情け深く、何かの情趣や人の喜怒哀楽につけてよそごととして聞きすごすということがおありにならなかった。

 これに対して、九条兼実については、次のようなごく簡単な記述があるだけである(井上宗雄氏『全訳注(上)』p39)。

(後鳥羽)天皇はたいそうおとなびて賢くいらっしゃったので、(後白河)法皇もなみなみならずかわいくお思いになった。文治二年(一一八六)十二月一日御書始(おんふみはじめ)をなさった。御年七つである。同六年(一一九〇)女御が入内された。月輪関白兼実公の御むすめである。まもなく中宮にお立ちになった。後に宜秋門院と申し上げたお方である。この方の御腹には、春花門院と申された姫宮だけがいらっしゃった。建久元年(一一九〇)正月三日、十一で御元服になった。

 つまり九条兼実については、政治的業績など一切無視して、宜秋門院の父として名前を出しているだけなのである。

 井上宗雄氏は、「解説」において、「辣腕家通親について筆をやわらげながらも、外戚に成り上がって行く様を簡潔に記述している」と書かれているが、二条良基(1320〜88)を作者と考える通説の立場からすると、通親についての「筆をやわらげ」た記述、そして九条兼実について、宜秋門院の父と一言触れているだけであることは、極めて奇妙なことなのではなかろうかと私は思う。

 兼実は九条家の祖である。兼実の孫で、西園寺家と結びついて権勢を振るった九条道家(1193〜1252)の息子の代に、九条流は九条・一条・二条の三家が分立することになり、これと近衛流の近衛家・鷹司家の五家が、摂政関白になれる最高の家柄、即ち五摂家を構成することになるのであるが、九条兼実は二条良基にとって大切な御先祖様であるとともに、摂関家全体にとっても極めて重要な人物である。

 他方、兼実の『玉葉』によれば、源通親は「外祖の号を仮りて、天下を独歩するの体なり」と評され、世人が「源博陸」(げんはくろく)と呼んだ人物である。「博陸」とは漢の武帝が重臣霍光(かくこう)を博陸侯に封じた故事に由来する関白の異称であり、つまり摂関家出身でないにもかかわらず、関白のように権勢を振るった人物なのである。

 兼実と通親の厳しい対立関係をごく簡単に説明すると、源頼朝と密着して宮中での地位を築いた九条兼実に対し、通親は後白河法皇に寵愛されて権勢を振るっていた丹後局と組んで、まず、大姫入内を餌に源頼朝と兼実の関係を切り離したのである。そして後鳥羽天皇(1180〜1239)に入内した源通親の義理の娘(後の承明門院)が、兼実の娘(後の宜秋門院)に先んじて皇子(土御門天皇)を生んだ幸運に乗じて、土御門天皇誕生の翌建久七年(1197)十一月、通親は、周到な準備の下に、いわゆる建久七年の政変を演出し、兼実を政治的に葬り去るのである。

 この建久七年の政変では、兼実は関白・氏長者を罷免され、娘の宜秋門院は宮中追放、同母弟の天台座主慈円はその地位を奪われるという具合に、九条家全体が逼塞を余儀なくされてしまったのである。

 二条良基が『増鏡』の作者であったら、その執筆にあたって、最重要文献である九条兼実の『玉葉』、及び慈円が書いた『愚管抄』を読まないはずはないのであるが、『玉葉』には政敵通親に対する兼実の批判・怒り・そねみ・恨み・嫌悪・罵倒が満載されているのであって、摂関家の一員である二条良基が読めば、通親に対する怒りがふつふつと沸いてこざるをえないのである。また、『愚管抄』も、「一面では摂関家史観ともいうべきもので貫かれており、特に鎌倉初頭の公家社会の動向や通親に対する評価は、ほとんど兼実の視点と軌を一にしている」(橋本義彦氏.吉川弘文館人物叢書『源通親』)のであって、やはり二条良基にとって、純粋に客観的に読むことは困難なのである。

 要するに、摂関家の一員である二条良基が『増鏡』の作者だとすれば、通親について冷静に、客観的に、「筆をやわらげて」書いてあること自体が異常である。そしてこれは通親の子の土御門定通(1188〜1247)に関する『増鏡』の記述についても言えるのである。

 摂関家、特に九条流の人の立場に立ってみると、鎌倉時代における自家の地位の低下をもたらした主たる敵は二人いる。一人はもちろん通親であり、二人目は土御門定通である。土御門定通について、これまたごく簡単に説明すると、通親の死後、徐々に復活してきた九条家に頭脳明晰で強い性格の九条道家が出て、承久の乱以降、西園寺公経との密接な関係のもとに、威勢を振るっていたのである。ところが、仁治三年(1242)、四条天皇が十二歳の若さで頓死すると、その後継として順徳上皇の皇子を推した九条道家に対し、土御門定通が執権北条泰時(1183〜1242)に工作して土御門院の皇子(後の後嵯峨天皇.1220〜72)を即位させて道家の権威に泥を塗り、しかもその後九条家がとった挽回策がことごとく裏目に出て、建長四年(1252)の道家の死に至るまで、九条家は急坂を転げ落ちるように没落して行くのである。

 この四条天皇崩御後の勢力争いに関し、『増鏡』は露骨に土御門定通側に立っているが、これは通親についての描写と同様、摂関家の人が書ける内容ではないと私は思う。幕府の使者、安達義景が土御門定通に皇位継承を告げる場面は、『増鏡』の中でも最も劇的な場面のひとつなのであるが、摂関家、特に九条流の人から見れば、これほど不快で苦々しい出来事はないのであって、こんな場面を二条良基が書けるはずがないのである。

 『増鏡』の作者を論じている学者たちは、通親・定通に対する『増鏡』の評価についてのきちんとした分析を誰も行っていない。学者たちは、どうでもいいような言い廻しだとか、つまらない出来事の分析には執念深く取り組むのに、作者と想定される人物と、その人物の祖先の事績、さらにその祖先と関係している人物・事象を『増鏡』がどのように描写しているかについての分析が極めて甘い。言いかえれば、作者とその作者の家の歴史の関連性についての分析が不十分なのである。

 繰り返しになるが、これは根本的には時間の認識の仕方について、現代の学者と昔の貴族の間にずれがあるからだと思う。現代の学者は、あくまで個人として存在している。研究者と研究対象である歴史的人物に血縁関係が存在することは稀であり、仮にそうした関係があったとしても、歴史を研究するに際して、自分の先祖に対する特別な感情が研究内容を左右するようなことは学問的でないとして当然に排除されることになる。

 しかし、『増鏡』の時代には、歴史を描く人と歴史に登場する人、そして描かれた歴史の読者として予定されていた人は同じ貴族階級に属し、多かれ少なかれ血縁関係を持っているのである。そして貴族というものは家から切り離された個人として存在しているのではなく、滔々と流れる家の歴史の中に自らの存在を確認しつつ生きているのである。そこでは日記に記され、また口頭で伝えられた祖先の記憶は現在を生きるための糧であり、現在の記録は未来の子孫のための指針である。現代の我々が個人として現在のみに関心を集中して生きているのに対し、貴族は過去と現在と未来の複合的な時間の中に生きているのである。

 このような貴族が歴史を書こうとする場合、程度の差はあれ、そこに家の歴史、家の利害関係が反映してくるのは自然である。作者は現代の歴史家のような「客観的」な立場にいる人間ではない。重要な史実を知っていてもあえて書かないことは沢山あるし、意図的に変更して書くこともある。個人的には書きたくても、あちこち配慮して書けないことも一杯あるのが当たり前なのである。

 私は二条良基説は通親・定通についての評価だけでも破綻していると思う。更に西園寺家関連の記事の膨大さに較べ、摂関家への言及があまりに少ないこと、その数少ない言及部分のうちに、二条師忠や近衛家平に関する記事のような摂関家にとって不名誉な記述が多いことを考えると、二条良基説が通説となっていたこと自体、何か不思議な感じがする。






 4.洞院公賢説への疑問


 今谷明氏は名著『室町の王権』において、何の説明もなく『増鏡』は「洞院公賢の著というのが有力」(同書p39)とされており、私は不思議に思っていたのであるが、『創造の世界』第106号(1998年)の「連載/王権の日本史第14回 後醍醐の討幕運動」において、その根拠を要領よく整理されているので、検討してみたい。今谷説は以下の通りである(同書p148)。

 本稿では鎌倉最末期、元亨の変(いわゆる「正中の変」)・元弘の乱を中心とする幕府倒壊の状況を取扱う。そこで問題となる基本史料に、従前もしばしば引用してきた『増鏡』があげられるが、その信憑性、すなわち史料としてどこまで信拠してよいかという問題が不可避である。従来から『増鏡』は、『太平記』などより遥かに高い史料的価値を有するとの評価を得ていた。例えば、前々稿で言及した亀山院「殉国」祈願問題の如きも、基本史料は『増鏡』が唯一の典拠たるにかかわらず、どの論者も『増鏡』の信憑性を疑わず、安心してこれに依拠されている。これは、『増鏡』が公卿日記等とほとんど齟齬する所なく、また『太平記』等の戦記物と異なって後世の潤色、改変の跡がほとんどみられないからであった。ではその作者は誰なのか。その作者が確定せぬうちは『増鏡』の史料的性格も判明せず、その信憑性も全面的には依存できないということになる。
 あの弘安四年(一二八一)の殉国祈願を今一度顧みよう。神宮に納められた亀山上皇願文の内容を知る立場にあった人物はごく少数で、上皇本人と生母大宮院に限られてくる。『増鏡』の著者は誰からその情報を得たかを考えてみると、大宮院の実家、西園寺家以外にはまず想定できない。多くの先学が認めるように、『増鏡』は西園寺家を比較的好意的に描いており、その作者も西園寺家周辺の人、という推測は、「殉国祈願」の一事からみても肯綮に当っていると思われる。永らく『増鏡』の作者とされてきた二条良基と西園寺家との関係は次のとおりである。
 −系図省略−
 二条良基作者説は早く和田英松によって提唱され、多くの国文学者が追随しているが、その根拠は、良基作が確実な書物との文章の相似というにすぎず、確証によるものではない。他に中村直勝の四条隆資説、宮内三二郎の兼好法師説等も出たが、根拠はいっそう怪しいものである。なお史学畑で『増鏡』著者論に踏み込んだのは中村直勝唯一人で、あとはみな文学者による論争となっている。しかし、『増鏡』の価値がその文学性にあるというよりは史料性、記録性にあることを顧みれば、もっと史家による作者論が出されていて然るべきだったのではなかろうか。
 さて『増鏡』作者研究の永い停滞を破ったのは、若き国文学者田中隆裕氏で、一九八四年のことであった(同氏「『増鏡』と洞院公賢−作者問題の再検討−」二松学舎大学人文論叢27・29輯)。氏は『増鏡』に描かれる大臣薨去記事を点検し、西園寺嫡流の公相死亡の描き方が「死屍に鞭打つ」趣がある反面、洞院実泰の死去には「哀悼表明」がみられるとして、西園寺庶流家の洞院家に注目する。さらに元亨四年(一三二四)賀茂祭の叙述に当って公賢の婿、徳大寺公清の祭使ぶりを特筆していることから、作者の視点は「洞院家偏重」であると推論し、作者は洞院公賢が最適と提唱した。また四条家伝来の秘籍『とはずがたり』が三箇所も引用されている問題についても、康永三年(一三四四)南都より放氏処分を受けた四条隆蔭が公賢の奔走により救われた史実を紹介して、公賢説を補強した。このように田中氏の公賢作者説は緻密な考証に支えられていて堅実であり、"作風"など曖昧な根拠しか示さない良基説を格段に上回る。「二条良基作者説は現在も有力」(長坂成行氏「内乱期の史論と文学」岩波講座『日本文学史』巻六)と、公賢説を却ける見解もあるが、私は田中氏の論証を支持する者である。

 私も田中隆裕氏の論文を読んでみたが、とうてい賛成できなかった。まず、増補本系では確かに西園寺公相についての奇妙な記事があるが、一七巻本では別に「死屍に鞭打つ」趣があるような記述はない。なにより、「洞院家偏重」というなら、洞院公宗が亀山天皇に嫁ぐ妹佶子(京極院)への禁断の愛に悩んで、父の洞院実雄もとても心を痛めたという巻七「北野の雪」の奇妙な記事をどう解釈するのだろうか。これは大変な話であって、読みようによっては京極院が生んだ後宇多天皇の父は誰なんだ、という問題にもなりかねない、洞院家にとっての一大スキャンダルなのである。『増鏡』のどこをどう読んだら「洞院家偏重」などという寝ぼけた感想が出てくるのか、私には全く理解できない。『増鏡』は圧倒的に「西園寺家偏重」であり、洞院家は極めて軽く扱われているのが実態である。

 なお、今谷氏は「四条家伝来の秘籍『とはずがたり』が三箇所も引用されている」と言われているが、『とはずがたり』の引用は三箇所どころではない。






 5.「後嵯峨院高野御幸」


 『増鏡』を、村上源氏の出自を誇る最高級貴族の一員で、極めて頭が良く、洗練された美的感覚を持ち、性格は傲慢でずうずうしく、自慢話が何より好きで、社交的で冗談好きで、知的でないもの・美しくないもの・下品なものを徹底的に軽蔑する女性が書いたものではないか、という眼で見直してみると、従来疑問とされていた箇所について、合理的に説明できることが多い。

 例えば、元弘の変後に幕府に処刑された貴族のうち、平成輔や日野資朝・日野俊基への言及が極めてわずかなのに対し、北畠具行(1290〜1332)を描いた部分が分量的に圧倒的に多く、しかも『増鏡』でも屈指の名場面として、作者が力をこめて感動的に叙述していることは、北畠具行も村上源氏であって、二条の親戚だから、というごくあっさりした理由で説明できる。

 また、元弘三年(1333)五月七日、足利尊氏が後醍醐天皇方に寝返って京都に突入し、六波羅を総攻撃したことによる大混乱の状況を叙述する中で、中院通顕・通冬父子の帰宅に際して、暗くて通冬を見つけることができなかった母親が惑乱する様子を詳細に描いた箇所は、確かに感動的な名場面なのであるが、歴史を揺るがす重大事件に関する挿話にしては、少しプライベートすぎて奇妙な印象を与えるのである。しかし、これも中院通顕父子が村上源氏であって、二条の親戚だからと考えれば、情報源を含め、あっさりと納得できるのである。

 村上源氏の眼から見た『増鏡』の検討を全面的に行う余裕はないが、一箇所だけ、今まで誰も疑問を抱いていないけれども、私の立場からすれば極めて奇妙な箇所について述べておきたい。それは巻六『おりゐる雲』、後嵯峨院の高野御幸の場面である。

 普通に見ればどうということはない場面なのであるが、私は、二条のような自己顕示欲の強い人間が、自分の生まれた年である正嘉二年(1258)にかこつけて何か書かないはずはないと思って、その近辺をじっくり見てみたのである。すると、どうも怪しい記述があるのである(井上宗雄氏『全訳注(中)』p37)。

 翌正嘉二年(一二五八)八月七日上皇の第二皇子が皇太子に立たれた(後の亀山天皇)。御年十歳であった。万事すっかり決まって落ち着いた世の中を、上皇はめでたく、御心安らかに思われることであろう。
 その翌年の三月(二十日)であったか、上皇の高野御幸は、これはまた過去にも将来にも例があるまいと見えるほど、世をあげての大仕事で、天下の騒ぎであった。関白兼平公、前右大臣公相公、内大臣実雄公、左大将基平公、右大将公親、検非違使別当隆行をはじめ、都に残る人は少ない。馬・鞍・随身(ずいじん)・舎人(とねり)・雑色(ぞうしき)・童(わらわ)の髪や格好、背丈、容姿に至るまで、不十分な点のない者を選びそろえて、工夫を凝らした装いなど、一々は筆にも記し難い。こういう色もあるのだなあ、と珍しく、つい驚いてしまうほどであった。
 金銀を薄く延ばして飾りとし、二重(ふたえ)・三重(みえ)の織物、艶を出した布、唐や日本の綾錦(あやにしき)、紅梅の直衣(のうし)、桜がさねの唐織の綺(き)の紋、こ裾濃(すそご)、浮線綾(ふせんりょう)、いろいろさまざまの直衣や袍(ほう)や狩衣(かりぎぬ)を着て、その下に思い思いに着た衣を裾(すそ)から見えるように出している。どんな(霊妙な力を持つ)秋の女神竜田姫でも、これほど美しい衣を織り出すのは困難であろうと見えた。(事前に)おたがいに相談することはなかっただろうが、同じ模様も色合いもなかったのは不思議である。あまりにも染め方が凝りすぎて、なんとかいう中将は紺村濃(こんむらご)の指貫(さしぬき)までもつけていたが、そういうものも珍しくて、下品にはみえなかったとかいうことだ。上皇の御容姿は、場所がらだけに、いちだんと光彩を添えて、りっぱに見えられた。
 後土御門内大臣定通の御子顕定(あきさだ)の大納言が大将になりたいと望んでいたのを、上皇もよかろうと思われたので、除目の夜、お家の人々もそのつもりでいて、除目の儀式が終るのを待遠しく思いあっていたところ、予想とは違って、前にお話しした公基の大臣でいらっしゃったか、大将になられたので、顕定は恨めしくてたまらず、剃髪(ていはつ)してこの高野山にこもっておられたのを、上皇は気の毒に、また、はかないことにも思われていたので、今日の御幸のついでに、顕定の庵室をお訪ねになって、御対面あるべき旨を仰せ遣わしたところ、昨日までおられたが、夜の間にその庵をひき払って、跡もすっかり片づけて、たいへんさっぱりと、白い砂だけをわざわざまき散らしたという様子で、人もいない。自身は洛外の桂の葉室(はむろ)の山荘へ逃げ上られたのであった。その旨を奏上すると、「今さら私に会うまいというのだな。たいそうきつい心だ」とおっしゃった。

 冒頭は原文では「明くる年八月七日、二の御子坊にゐ給ひぬ。御年十なり。よろづ定まりぬる世の中、めでたく心のどかにおぼさるべし」となっている。何気ない書き出しであるが、後の後深草院の持明院統と、亀山院の大覚寺統の対立を考えると、皮肉なユーモアすら感じさせる部分である。

 この高野御幸の場面では、顕定の大納言に関する話が全体の三分の一を占めているが、顕定の大納言の父は土御門定通(1188〜1247)、即ち、わずか十二歳の四条天皇の急死の後、執権北条泰時に通じて後嵯峨天皇即位を画策し、当時権勢を振るっていた九条道家を没落に導いた異能の宮廷政治家である。定通は二条の祖父・久我通光の同母弟であり、顕定の大納言と二条の父・雅忠は従兄弟同士となる。

 顕定の大納言(1215〜83)は近衛大将になれると思っていたのに、西園寺公基(実氏の子.1220〜74)がなってしまった。怒った顕定は建長七年(1255)四月、突如出家して高野山にこもってしまった。そこで、気の毒に思った後嵯峨院が面会しようとしたら、「跡もすっかり片づけて、たいへんさっぱりと、白い砂だけをわざわざまき散らしたという様子で」さっさと逃げだしていた、というのである。

 これは、村上源氏の眼からすれば、後嵯峨院は大恩人である土御門定通の子との約束を守らない恩知らずだと非難しているのであって、それはそれで重大な問題なのであるが、それはひとまず置いといて、この部分をじっくり見てみると、ここで一番奇妙なのは、実は高野御幸の年を誤っている点なのである。

 『増鏡』を読む限り、高野御幸は亀山天皇が即位した正嘉二年(1258)の翌正嘉三年(1259)三月の出来事と考えざるをえないのであるが、実際に高野御幸が行われたのは正嘉二年三月、まだ後深草天皇が在位している時期の話なのであって、それは他の記録を見れば明らかなのである。『増鏡』では「そのまたの三月廿日なりしにや(その翌年の三月二十日であったか)」などととぼけているのであるが、この二と三の取り違えはどうも怪しいのである。

 だいたい、この種の盛大な公的行事が行われた年月日は諸記録にきちんと書かれているのであり、『増鏡』の作者は明らかに膨大な史料を参照しつつ『増鏡』を執筆しているのであるから、「そのまたの三月廿日なりしにや」などと疑問に思ったなら、史料をちょっと見て確認すればよいはずである。それを妙にとぼけた書き方をしていることは、巻十一「さしぐし」の西園寺実兼の娘(永福門院)の入内の場面で、二条が「三条」という名前で登場することを思い出すと、極めて怪しく思われてくるのである。つまり、

  二年−二条−『とはずがたり』
  三年−三条−『増鏡』

という暗示なのではないかと思われるのである。

 結局、これは正嘉三年の顕定の大納言の事件のように言っているけれども、実は正嘉二年生まれの二条が自分自身のことを言っているのではないかという感じがするのである。もともと正規のきちんとした地位につけてもらう約束になっていたのに、後深草院が西園寺家出身の東二条院に遠慮して、二条をいつまでも女房の身分にとどめていたから、アタマにきた二条は自分から宮廷を飛び出した。反省した後深草院が未練たらしく「戻ってこいよ」と言ってきたのに対し、二条は後深草院のもとに帰るのを「やなこった」ときれいさっぱり拒絶した。とうとう後深草院は音を上げて、「今さら私に会うまいというのだな。たいそうきつい心だ」とおっしゃった、という訳ではないだろうか。自分の人生を実に巧妙に歴史物語のなかに織り込んで、公的な歴史物語の一部を、ちゃっかり自分の回想録に変換しているのではないだろうかという感じがするのである。

 ついでに言うと、「洛外の桂の葉室の山荘」というのも、けっこう怪しいと思う。というのは、『増鏡』の冒頭、嵯峨の清涼寺で、八十歳過ぎに見える老尼は、「われながら気強く参詣を思い立ってきたけれど、ひどく腰が痛くてがまんできない。今夜はこのお寺の部屋に休もう」と言うのである。そして、聞き手が「どこからいらっしゃいましたか」と聞くと、「ほんの目の前というような近くに住んでおりますが、歳をとったせいでしょうか。ここまでがたいへん遠い気持がします。情けないですね」と答えるのである。

 『増鏡』の語り手である、このちょっとクセのある老尼の住んでいるところは、嵯峨の清涼寺から「ほんの目の前というような近く」であるが、年寄りには「ここまでがたいへん遠い気持がし」、腰が痛いときは、帰らずに清涼寺の部屋で休みたい、と思うような距離なのである。桂の葉室なんて、ぴったりではなかろうか。

 もちろん本当の二条は歳をとったって元気一杯に決まっているのであるが、自分が演じている語り手の老尼に託して、ずうずうしくて冗談好きな二条は、ちゃっかり自分の現住所まで、この歴史物語に記しているような感じがするのである。

 実はさらに怪しいこともあって、この高野御幸の記事は、『五代帝王物語』には「正嘉元年三月廿日高野御幸あり」と記されているのである。『五代帝王物語』は『増鏡』に丸写しに近い形で引用されている点で『とはずがたり』と共通であり、私は非常に怪しい作品だと思っているのであるが、高野御幸の行われた年は『五代帝王物語』では元年、『増鏡』では三年である。とすると、この三つの書物の間には、

  一年−(一条)−『五代帝王物語』
  二年−二条−『とはずがたり』
  三年−三条−『増鏡』

という関係があって、もしかしたら、これは二条が書いた作品の順番ではないか、という感じもしてくるのである。

 話がくどくなってしまうが、実は、『増鏡』を読み始めてかなりたってから更に思いついたこともある。まず「なにがしの中将とかや」(何とかいう中将)であるが、これは『増鏡』の作者が史料として「参考」にしていることが明らかな『五代帝王物語』を見れば、対応する部分に中将として登場するのは四条隆顕(1243〜?)のみであり、そこには「宰相中将隆顕卿、殊にきらきらしく出立て、行粧おびたゞしかりしに」と書かれているのである。

 『五代帝王物語』では、続けて「父の大納言隆親卿は善勝寺の出納四五人ばかり雑色につくりたてて、白張きせて、白木の柄長ひさごもたせて、世にははれのあるとだに思う気色なくて供奉したりしこそ中々見物にて侍りしか」となっており、「なにがしの中将」とは誰なんだろうと疑問に思って『五代帝王物語』を調べた人は、後深草院二条の祖父で後嵯峨院近臣の四条隆親が、十六歳の嫡子隆顕を絢爛豪華に装いたてて、その権勢と富貴を誇示している様子を見出すような仕組みになっているのである。

 また、「先に聞えつる公基の大臣にぞおはせしやらん(前にお話しした公基の大臣でいらっしゃったか)」という表現も、ちょっと変なのである。というのは、顕定が近衛大将になれないのを恨んで突如出家し高野山に籠もったのは建長七年(1255)のことであるが、西園寺公基(1220〜74)は既に建長五年(1253)に右大将となっており、建長七年の時点で顕定と大将の地位を争ったのは西園寺公基ではない。建長七年に右大将となっているのは三条公親なのである。

 とすると、「先に聞えつる公基の大臣にぞおはせしやらん」という不明瞭な書き方が気になって顕定と近衛大将の地位を争った人物の名前を調べた人は、それが西園寺公基ではなく、「三条」公親(1222〜92)であることを見出すような仕組みになっているのである。

 この「三条」というのはそれ自体では何の意味もない記号であるが、『増鏡』巻十一「さしぐし」で後深草院二条が三条という名前で登場する場面を読んで、「三条」が『増鏡』と『とはずがたり』の作者が行っている言葉遊びの最重要キーワードではないかと気づいた者には、これも何かのヒントなんだろうなと思わせるのである。

 結局、この高野御幸の場面で『増鏡』の作者が、いくつもヒントを出して読者を考えさせるように仕組んだ上で、読者に本当に気づいてほしいことは、『五代帝王物語』・『とはずがたり』・『増鏡』という「おたがいに相談することはなかっただろう」と思わせるような模様も色合いも異なる三つの作品を、時には銀(しろがね)・黄金(こがね)の飾りのように唐や日本の古典を華麗に引用し、時には「こういう表現もあるのだなあと珍しく、つい驚いてしまうほど」の不思議な技巧を用いて「二重(ふたえ)・三重(みえ)」に描き分け、「どんな(霊妙な力を持つ)秋の女神竜田姫でも、これほど美しい衣を織り出すのは困難であろうと見えたほどに」美しい世界を創り出したこの私は、なんて素晴らしい才能の持ち主なんでしょう、私こそ言葉の世界の竜田姫なんですよ、ということなのではないかと私は思うのである。






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