up2002.10/13
第四章 『増鏡』の成立年代

| 1.『増鏡』の作者と成立年代の関係 『広辞苑』で「増鏡」を引くと、「一一八〇〜一三三三年、後鳥羽天皇降誕から後醍醐天皇の隠岐からの還幸まで、一五代一五〇余年間の事跡を記した編年体の和文の歴史物語。三巻。作者は二条良基か。一三七六年(永和二)までに成立」と書かれている。 この永和二年というのは、「尾張本」に永和二年四月に書写した旨の奥書があるので、その時点以前に『増鏡』が成立していたことは確実なのであるが、いったい何時成立したのかについては通説と呼べるものはまだ存在しないように思われる。 『増鏡』の作者論と成立年代論は密接に関係していて、木藤才蔵氏などの多数説は作者を元応二年(1320)生まれの二条良基としたいがために成立年代を後ろにずらす傾向があるが、私は正嘉二年(1258)生まれの後深草院二条を『増鏡』の作者と考えているので、作者の年齢からも、最終記事以降、比較的早い時期に『増鏡』が成立したものと想定している。 成立年代に関しては、『増鏡』に極めて重要と思われる記述が二箇所あるので、順次検討したい。また、平泉澄氏の弟子で、戦後も皇国史観を維持された歴史学者である平田俊春氏が昭和十四年に発表された「増鏡の成立に関する一考察−舞御覧記との関係について−」(『吉野時代の研究』所収)という極めて興味深い論文があるので、随時参照して考察を進めたい。 |
| 2.「北山行幸」 『増鏡』巻十五「むら時雨」には、元徳三年(1331)の春、後醍醐天皇が北山の西園寺邸に行幸した記事が載っている。『増鏡』の語り手の老尼が登場する極めて重要な場面なので、まず前半部分を引用してみたい(井上宗雄氏『増鏡(下)全訳注』p187)。
老尼の登場について、平田俊春氏は、「この記事に於いて、先づ注目すべきことは、尼の清涼寺に於ける物語であるとする増鏡全篇の構成に応じて、こゝに尼の感慨をもらしてゐる様を記してゐることである」として、『増鏡』に老尼が登場する場面は極めて少ないことを事例を挙げて詳しく述べた上で、次のように言われている。
「果してさうであらうか」は反語であって、もちろんそうではないのである。そうではないどころか、『舞御覧記』は「八十あまり」の「はとの杖」をついた老尼が記した記録であって、『増鏡』の嵯峨清涼寺での冒頭場面とそっくりなのである。平田俊春氏の説明をさらに聞いてみたい。
ということで、『舞御覧記』の著者は、弘安の末、まだ春宮大夫だった頃の西園寺実兼を知っている人物なのである。西園寺実兼(1249〜1322)は煕仁親王(伏見天皇)の立太子に尽力し、建治元年(1275)十一月、その実現とともに春宮大夫となり、弘安十年(1287)十月、後宇多天皇にかわって煕仁親王が皇位についたので、春宮大夫を辞している。従って、老尼が「故入道おとゞ(実兼)の未だ春宮大夫など聞え給ひし比、しもづかへの数にてまいり通」ったのは、「北山行幸」の行われた元徳三年(1331)から見て、ほぼ半世紀近く前の話となるのである。 そして、この老尼は元徳三年の時点で「としも八十あまりにやなりぬらん」と自称しているのであるが、参考までに正嘉二年(1258)に生まれた後深草院二条が元徳三年に何歳かというと、七十四歳である。 平田俊春氏の説明をさらに聞くことにしたい。
『増鏡』と『舞御覧記』を読み比べてみれば、平田俊春氏の言われるように、『増鏡』の「作者が舞御覧記を引用するに特殊の関心をもつてゐたこと」、「舞御覧記は、増鏡の成立に頗る重要な意義を有つたもの」であることは明らかであるが、平田俊春氏は、あくまで『舞御覧記』が先に存在していて、『増鏡』が「鳩の杖にかゝりて参」った「八十にもや余りぬらむと見ゆる尼」を話し手としたのは、先行する『舞御覧記』に影響を受けた結果と考えておられる。 そして、平田俊春氏は「舞御覧記の記事を『としも八十あまり』の『老尼』のかたつたところとすると、本文の語り手自身なる尼と全く混雑してしまふ恐れがある」から「幼きわらべなどの、しどけなくなかた」ったものに変更したのだと解釈されるのである。 さて、ここで「北山行幸」の後半部分を引用したい(『増鏡(下)全訳注』p189)。
原文では、後醍醐天皇の御製は「代々の御幸(みゆき)のあとと思へば この上(かみ)、忘れ侍る のちにも見出(いだ)してぞ」となっている。また、尊良親王の歌は「代々をへてたえじとぞ思ふこのやどの花にみゆきのあとをかさねて」である。 平田俊春氏は、『増鏡』の上記部分に対応する原文と『舞御覧記』の原文を掲げたあとで、次のように述べておられる。
平田俊春氏が着目されているように、後醍醐天皇御製に対する『増鏡』作者の態度はずいぶん奇妙なものである。平田俊春氏は「これを逆に増鏡の作者が冷淡に無視し奉つたのは、作者が西園寺家に対し好意を有つてゐなかつた為としなければならない」とされるが、御製の上句を削除してしまっているのであるから、素直に考えれば、作者は西園寺家ではなく後醍醐天皇に対し「好意を有つてゐなかつた為としなければならない」はずである。 |
| 3.「北山行幸」についての私の考え方 平田俊春氏の極めて優れた研究を参考にして、「北山行幸」の場面に語り手の老尼が登場する意味や『増鏡』と『舞御覧記』の関係について考えてきたが、ここで私の考え方を整理しておきたい。 この北山行幸の場面は、『増鏡』の作者と成立年代を考えるうえで、極めて重要な部分であると私は考える。まず第一に、語り手の老尼が登場して「その日のことを拝観していませんので、たしかではございません。小さい童などが、とりとめもなく話したままを申すのです。ここにおいでの方々の中で御覧になった方もいらっしゃるでしょう。私のほうがうかがいたいものです」などと述べた点についてであるが、平田俊春氏の言われるように、『増鏡』においては語り手の老尼が登場する場面は極めて少ない。しかも私のように後深草院二条を『増鏡』の作者と考えると、老尼の登場する場面は極めて意味深長な部分ばかりである。 この北山行幸の場面でも、私は老尼の発言の直後にある、原文では「簾の内にも大納言二位殿琵琶、播磨の内侍箏、女蔵人高砂といふも琴弾くとぞ聞きし。まことにやありけむ」とある部分が極めて怪しいと考える。この「まことにやありけむ」(それはほんとうであろうか)について、井上宗雄氏は「語釈」で、「上文を受ける。老尼が当日の儀を実見していないからこういった」とされており、文章を素直に読む限り、確かにそのとおりである。 しかし、老尼は当日の儀の全体を実見していないことになっているので、何故「簾の内にも大納言二位殿琵琶、播磨の内侍箏、女蔵人高砂といふも琴弾くとぞ聞きし」だけを受けて「まことにやありけむ」と言うのか、考えてみればずいぶん奇妙である。 私は、ここも巻十一「さしぐし」で後深草院二条が「三条」という名前で登場する場面と同じく、また、巻十「老の浪」で、公卿勅使の歌をめぐる奇妙な記述の次に、蒙古の帝王が「私はどうかして今度は日本の帝王に生まれ、あの国を滅ぼす身となろう」と誓って死んだという更に奇妙な話があって、「まことにやありけむ」と続く場面と同じく、作者がちょっととぼけて、読者に謎掛けをしているのではないかと思う。 つまり、「まことにやありけむ」(それはほんとうだろうか)は、意味の上では「簾の内にも大納言二位殿琵琶、播磨の内侍箏、女蔵人高砂といふも琴弾くとぞ聞きし」を受けているのではなく、ひとつ飛ばして、老尼が「その日のことを拝観していませんので、たしかではございません。小さい童などが、とりとめもなく話したままを申すのです。ここにおいでの方々の中で御覧になった方もいらっしゃるでしょう。私のほうがうかがいたいものです」と言った部分を受けているのであって、<本当に私はその日のことを拝観していないのでしょうか、読者の皆さんに私のほうがうかがいたいものです>と謎掛けをしているのではないかと思うのである。『舞御覧記』と『増鏡』の関係について、ちょっと考えてみて御覧なさいな、と読者に知的ゲームを仕掛けているのではないかと思うのである。 第二の問題点は、後醍醐天皇の御製について、「この上(かみ)、忘れ侍る。のちにも見出(いだ)してぞ」(上の句を忘れてしまいました。後にでも見つけて申します)と極めて冷淡な取り扱いをしている理由である。 「のちにも見出してぞ」などととぼけた書き方をしているが、この上の句は『藤葉和歌集』巻一に、「次の年の春、西園寺に行幸侍りて庭花といふことを講ぜられける次(ついで)に 後醍醐院御製 宿からは花も心にとまるかな代々のみゆきのあとと思へば」とあるのだから、別に調べるのは難しいことではなかったはずである。 だいたい天皇の歌というのは、この種の行事の最重要ポイントであって、忘れてしまったから書きません、などというのは奇怪千万である。忘れたなら徹底的に、何が何でも調べて、とにかくきちんとした形で載せるのが当然である。上下を分断して下だけ載せるなど、極めて不吉であり、貴族社会の歴史書としては異常としか言いようがない表現なのである。 私は、この異常な表現は、それにふさわしい異常な理由でなければ説明がつかないと考える。即ち、『増鏡』の作者の後醍醐天皇に対する露骨な悪意、徹底的な軽蔑である。あなたは代々の天皇の地位を継ぐにふさわしくない人物だ、という断罪である。 とすると、『増鏡』全体から伺われる作者の後醍醐天皇に対する好意と、この部分だけに見られる徹底した悪意を整合的に説明する必要が生じるが、私はそれを時間的変化、作者の後醍醐天皇に対する感情の急激な悪化に求めるべきであると考える。 元徳三年(1331)三月、元弘の変の直前に行われたこの華麗なる行事に登場する主要人物たちの数年後の運命を思うと、実に暗澹たる気持ちにならざるをえない。翌年、北畠具行は近江国柏原で佐々木道誉により斬首。建武二年(1335)、西園寺公宗は名和長年の手により斬殺される。建武四年(延元二.1337)、尊良親王は越前金崎城で自刃し、暦応元年(延元三.1338)、北畠顕家は阿倍野で戦死するのである。 鎌倉幕府打倒という輝かしい成果の犠牲となった北畠具行を別として、建武新政実現後の極度の混乱、分裂に次ぐ分裂、戦争に次ぐ戦争によってもたらされた夥しい人命の損失の責任は、その大半が後醍醐天皇の恣意的な政治運営に帰せられるべきものである。 建武の新政がたった三年で崩壊してしまったことに明らかなように、後醍醐天皇は疲弊した旧制度の破壊者としては傑出した有能さを発揮したが、自身が目指し、周囲が期待した新秩序の創造者としては全く無能な人物だった。 新しい時代が来るのだという希望を抱いた多くの人々にとって、後醍醐の新政がもたらした惨憺たる結果は、過剰な期待を抱かせただけに、その反動として極端な反発・嫌悪・軽蔑をもたらしたはずであり、『増鏡』の作者も、そうした後醍醐に対する急激な感情の変化を共有したものと私は考える。 ただ、『増鏡』の作者にとって、そうした後醍醐に対する感情の変化をそのまま『増鏡』に反映させることは、極めて困難なことだったはずである。何よりも時代の変化が急激すぎて、どういう決着がつくのか誰にも分からない時期が延々と続くのであり、一人の歴史家にとって、統一的な視点から歴史を描き直すのは極めて難しい作業であったはずである。 そして作者の個人的な感情としても、『増鏡』の全面的な改変は困難だったはずである。元弘三年(1333)六月の後醍醐還幸により、武士が権力を専断し、貴族社会をないがしろにした鎌倉幕府の時代がやっと終わって、これからは再び天皇を中心とする正しい秩序が回復され、素晴らしい時代がくるのだと期待した最高級レベルの貴族出身の歴史家を『増鏡』の作者と想定すれば、『増鏡』は元弘三年六月の時点では完璧な作品だったはずである。それを後醍醐天皇への反発から大幅に改変するのは、作者にとって忍び難い行為だったように思われる。 そこで作者としては、自分の気持ちの変化を、ほんの一部に痕跡として残すことで、作品の完璧性を損なうことなく、自分の感情との妥協を図ったのではないか、そしてその痕跡が、この「この上、忘れ侍る。のちにも見出してぞ」(上の句を忘れてしまいました。後にでも見つけて申します)という異常な表現なのではないかと私は考える。 |
| 4.「三条前大納言公秀の女、三条」 成立年代に関して、巻十五「むら時雨」の「北山行幸」と並んで極めて重要と思われる記述は、巻十六「久米のさら山」の最終部分に存在している。その場面は次の通りである(井上宗雄氏『増鏡(下)全訳注』p337)。
原文では「三条前大納言公秀の女、三条とてさぶらはるる御腹にぞ、宮々あまたいでものし給ひぬる、つひのまうけの君にてこそおはしますめれ」との文章で、巻十六「久米のさら山」は終わっているのでる。 この「三条前大納言公秀の女、三条」に関する記述は、『増鏡』の成立年代を考える上で極めて重要な部分として、従来から注目されており、井上宗雄氏は「解説」において、
と言われている。 「三条前大納言公秀の女、三条」は応長元年(1311)に生れ、文和元年(正平七.1352)、四十二歳のときに陽禄門院の院号を受けた女性であり、北朝第三代崇光天皇(興仁親王.1334〜98)、北朝第四代後光厳天皇(弥仁親王.1338〜1374)の母である。 『増鏡』自体は元弘三年(1333)六月、護良親王が四条隆資らとともに京に入ったことを最終記事としているが、この「三条前大納言公秀の女、三条」に関する記述によって、『増鏡』は弥仁親王(後光厳天皇)が生まれ、興仁親王(崇光天皇)が皇太子となった暦応元年(延元三.1338)以降に成立した、と解されているのは一応もっともなことである。ただ、改めて考えてみると、次のような素朴な疑問が浮かんでくる。
以上のうち、特に重要なのは(1)である。元弘三年(1333)六月から暦応元年(1338)八月までの間には、後醍醐天皇による急激な政治改革とその失敗、護良親王と足利尊氏の対立激化、建武元年(1334)十月の護良親王逮捕、建武二年(1335)六月の西園寺公宗らによる後醍醐帝暗殺計画の発覚、同年七月の中先代の乱とそれに伴う足利直義の護良親王殺害、同年十一月以降の足利尊氏と新田義貞の全面的対立、建武三年(延元元.1336)年一月の足利尊氏入京と西海への敗走、同年三月多々良浜での勝利による尊氏の再起、同年五月、湊川の戦いでの楠木正成の戦死、同年六月の光明天皇の践祚、同年十二月の後醍醐天皇の吉野への脱出、建武四年(延元二.1337)三月の越前金ヶ崎城陥落と尊良親王の自決、同年八月以降の北畠顕家の再西上と翌暦応元年(延元三.1338)五月の阿倍野での敗死、同年閏七月の越前藤島での新田義貞の戦死など、重要な事件が次々に生じているのに、『増鏡』の作者はこれら一切を無視して、なぜ暦応元年(1338)の弥仁親王(後光厳天皇)誕生と興仁親王(崇光天皇)の立坊のみを、妙に不自然な、何かほのめかすよう形で記すのか。 仮に『増鏡』の作者が、建武の新政以降の混乱を描くのが嫌で、後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒と建武の新政の開始という栄光の側面だけを描きたかったのであれば、なぜ元弘三年(1333)六月で『増鏡』を完全に終わらせなかったのか。暦応元年(1338)の弥仁親王(後光厳天皇)誕生と興仁親王(崇光天皇)の立坊という、いわば不純物を、なぜ追加したのか。 従来の学説は、そもそも私のような問題意識を全然抱いていないので、当然のことながら何ら検討はなされていないのであるが、少なくとも二条良基(1320〜88)や洞院公賢(1291〜1360)を『増鏡』の作者とする立場からは、これらの問題について、きちんとした根拠にもとづく合理的な説明をすることは極めて困難であるように思われる。 以上の問題についての私の考え方は次の通りである。
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