up2002.10/13

第四章 『増鏡』の成立年代







 1.『増鏡』の作者と成立年代の関係


 『広辞苑』で「増鏡」を引くと、「一一八〇〜一三三三年、後鳥羽天皇降誕から後醍醐天皇の隠岐からの還幸まで、一五代一五〇余年間の事跡を記した編年体の和文の歴史物語。三巻。作者は二条良基か。一三七六年(永和二)までに成立」と書かれている。

 この永和二年というのは、「尾張本」に永和二年四月に書写した旨の奥書があるので、その時点以前に『増鏡』が成立していたことは確実なのであるが、いったい何時成立したのかについては通説と呼べるものはまだ存在しないように思われる。

 『増鏡』の作者論と成立年代論は密接に関係していて、木藤才蔵氏などの多数説は作者を元応二年(1320)生まれの二条良基としたいがために成立年代を後ろにずらす傾向があるが、私は正嘉二年(1258)生まれの後深草院二条を『増鏡』の作者と考えているので、作者の年齢からも、最終記事以降、比較的早い時期に『増鏡』が成立したものと想定している。

 成立年代に関しては、『増鏡』に極めて重要と思われる記述が二箇所あるので、順次検討したい。また、平泉澄氏の弟子で、戦後も皇国史観を維持された歴史学者である平田俊春氏が昭和十四年に発表された「増鏡の成立に関する一考察−舞御覧記との関係について−」(『吉野時代の研究』所収)という極めて興味深い論文があるので、随時参照して考察を進めたい。






 2.「北山行幸」


 『増鏡』巻十五「むら時雨」には、元徳三年(1331)の春、後醍醐天皇が北山の西園寺邸に行幸した記事が載っている。『増鏡』の語り手の老尼が登場する極めて重要な場面なので、まず前半部分を引用してみたい(井上宗雄氏『増鏡(下)全訳注』p187)。

 翌元徳三年(一三三一)の春、三月の初めごろ、花御覧に北山の西園寺邸に行幸される。ふつうの時よりもとくに趣のあるはずの時節であるから、北山殿でも心を配られる。まず中宮が行啓、翌日天皇の行幸があった。前右大臣兼季公が参られて楽所のことなどを指図される。(平安時代の)康保の花御覧の例などを思い出されたのであろうか。北殿の桟敷(さじき)で内々試楽(予行演習)のような状態で、家房朝臣に舞わせる。御簾の内で、大納言二位殿、播磨の内侍などが琴を合奏されて、たいへん興深い。
 三月六日の辰の時に舞楽が始まる。寝殿の階(はし)の間に御しとねを敷いて天皇はいらっしゃる。第二の間に中宮、そのつぎに永福門院・昭訓門院もお越しなさったということだ。階の間の東に、二条前関白道平公・堀川大納言具親・東宮大夫公宗・侍従中納言公明・御子左中納言為定・中宮権大夫公泰などが伺候される。右大臣兼季は琵琶、春宮権大夫冬信は笛、源中納言具行は笙、治部卿冬定は箏、琴は参議室町公春、琵琶は参議薗基氏らが参仕したということであった。(老尼は)「その日のことを拝観していませんので、たしかではございません。小さい童などが、とりとめもなく話したままを申すのです。ここにおいでの方々の中で御覧になった方もいらっしゃるでしょう。私のほうがうかがいたいものです」などという。
 御簾のうちでも大納言二位殿が琵琶、播磨の内侍が箏、女蔵人高砂という者も琴をひいたということである。それはほんとうだろうか。また中務卿尊良(たかよし)親王も参上された。随身(ずいじん)を賜わって、御直衣(のうし)に太刀を佩(は)かれていた。御随身らはたいへん美々しく装束をつけて得意な様子である。万歳楽から納蘇利(なつそり)まで十五遍、妙技を尽くして、たいそう見どころが多かった。青海波を地下の舞人だけで終ってしまったのは物足りない気持がした。
 暮れかかるころ、花の木の間に夕日が花やかに映じあって、山の鳥も声を惜しまず鳴き渡る、そういう所へ陵王(りょうおう)の舞人が輝くような美しさで舞い出て来たのは、なんともいいようなくおもしろい。そのとき、天皇も御引直衣(ひきのうし)で椅子(いし)におつきになって、御笛をお吹きになる。ふだんより格別に雲井を響かす有様である。参議中将顕家が、陵王の入綾(いりあや)の手を妙技を尽くして退場するのを、呼び返して、前関白道平公が御衣を取って禄として賜わる。紅梅のうわぎ、二色の衣である。左の肩にかけて、すこし一曲を舞うて退出した。右大臣の長通公が太鼓をお打ちになる。その後、源中納言具行が採桑老(さいそうろう)を舞った。これも紅(くれない)の打衣(うちぎぬ)を賞として下さる。

 老尼の登場について、平田俊春氏は、「この記事に於いて、先づ注目すべきことは、尼の清涼寺に於ける物語であるとする増鏡全篇の構成に応じて、こゝに尼の感慨をもらしてゐる様を記してゐることである」として、『増鏡』に老尼が登場する場面は極めて少ないことを事例を挙げて詳しく述べた上で、次のように言われている。

 しかしながら茲に更に問題となるのは、この北山行幸の記事は作者の見聞でなくて、幼童の語つた所を述べるのであると特に断つてゐることである。増鏡の文中、かくの如き叙述は極めて稀なのであるが、果してこれは事実であらうか。元弘元年三月と云へば増鏡の著作年代から余り隔つてゐないのであるから、増鏡のかくの如き記述は読者を対象として事実を語つてゐることの様に思はれるであらう。しかも之は決して事実ではないのである。即ち此条は早く故和田英松先生の指摘された如く、舞御覧記を材料としてゐるのである。左に何記の文を対照してみる。
(中略)
 増鏡の記事と此の舞御覧記の記事を比較すると、増鏡は舞御覧記を材料としたものであることは極めて明かである。増鏡の材料となつた書が、吉野時代の騒乱の渦中にさらされて殆んど湮滅し去つた今日、舞御覧記の存在は増鏡の素材に対する扱ひ方、又その史料的価値を見る為に極めて重要な意義を有するものと云はなければならない。而して上の記事と比較すると、増鏡の記事は舞御覧記を簡単にしてゐるだけで、事実そのものは全く同じで、たゞ舞御覧記では治部卿冬定が箏を弾いたとあり、増鏡では篳篥となつてゐるのみである。しかもこれは東側の公卿の順序は両書一致してゐるのに、西側に於いて冬定の順が異つてゐるから、恐らく増鏡の写し誤りか、何かであらう。
 かやうに増鏡の北山行幸の此条は全く舞御覧記を材料としたものであるのに、増鏡の著者は何故にこれを「幼きわらべなどの、しどけなくかたりしまゝなり」と云つたのであらうか。舞御覧記が「幼きわらべなどのしどけなくかた」つたものであれば、それは当然のことであるが、果してさうであらうか。

 「果してさうであらうか」は反語であって、もちろんそうではないのである。そうではないどころか、『舞御覧記』は「八十あまり」の「はとの杖」をついた老尼が記した記録であって、『増鏡』の嵯峨清涼寺での冒頭場面とそっくりなのである。平田俊春氏の説明をさらに聞いてみたい。

 舞御覧記は決して「幼きわらべなどの、しどけなくなかた」つたものではない。同記の作者は明かでないが、その記事によれば、作者は元徳三年(元弘元年)に「八十あまり」の老尼であつて、「はとの杖に掛りてよろぼひまい」つて、後醍醐天皇の北山行幸を拝観して記したものである。即ち序文に、
弘安のすゑの年のころにや、故入道おとゞ(実兼)の未だ春宮大夫など聞え給ひし比、しもづかへの数にてまいり通ひしも、今は一昔になりて、としも八十あまりにやなりぬらん、われとだに思にかれぬ程なれど、北山どのゝ花の盛りに行幸なりて、舞御覧あるべしと世中のゝしり侍りしを、今この御家主にて御座ます春宮大夫殿(公宗)とやらん申は、昔の忝なき入道おほきおとゞ(実兼)の御ひことかや申めるを、余りにおんなつかしく も、ゆかしくも覚え給ふ儀に、はとの杖に掛りてよろぼひまいりたれど、耳もきこえず目もみえねば、たゞ心あてにそれかとばかりおがみ奉るに、をのづからまた声を高くして、語りきかする方も侍し、はしはしを老の心にも忘れがたくおぼえ侍て、賤きふせやに帰て終夜ともし火をかゝけつくして、筆にまかせかきつけ侍なり、
とあり、また後にあげるやうに文中に於いても自ら称して
老尼の賤しきむねのうちに云々、
と云つてゐるのである。

ということで、『舞御覧記』の著者は、弘安の末、まだ春宮大夫だった頃の西園寺実兼を知っている人物なのである。西園寺実兼(1249〜1322)は煕仁親王(伏見天皇)の立太子に尽力し、建治元年(1275)十一月、その実現とともに春宮大夫となり、弘安十年(1287)十月、後宇多天皇にかわって煕仁親王が皇位についたので、春宮大夫を辞している。従って、老尼が「故入道おとゞ(実兼)の未だ春宮大夫など聞え給ひし比、しもづかへの数にてまいり通」ったのは、「北山行幸」の行われた元徳三年(1331)から見て、ほぼ半世紀近く前の話となるのである。

 そして、この老尼は元徳三年の時点で「としも八十あまりにやなりぬらん」と自称しているのであるが、参考までに正嘉二年(1258)に生まれた後深草院二条が元徳三年に何歳かというと、七十四歳である。

 平田俊春氏の説明をさらに聞くことにしたい。

従つて増鏡の作者が此条は舞御覧記によつたが故に、特に己の見聞とせず、他によつて記したことを断るとしても、普通ならば老尼の語つたところとするのが当然なのである。何故に増鏡はこれを幼童と改めたのであらうか。これについて考ふべきことは、増鏡の構成である。即ち増鏡は巻頭が、
二月の中の五日は鶴の林に薪尽きにし日なれば、かの如来二伝の御かたみのむつまじさに、嵯峨の清涼寺にまうでて、常在霊鷲山など、心のうちに唱へて拝み奉る、傍に八十にもや余りぬらむと見ゆる尼ひとり、鳩の杖にかゝりて参れり、とばかりありて、たけく思ひたちつれど、いと腰いたくて堪へがたし、今宵はこの局にうちやすみなむ、坊へ行きてみあかしの事などいへとて、具したる若き女房のつきづきしき程なるをば返しぬめり、
と云ふにはじまつて、この八十歳余りの老人が参詣者の請に応じて、物語をしてゐるのであつて、その主役は舞御覧記と同様八十歳余りの老尼なのである。従つて北山行幸の条に於いて、舞御覧記の記事を「としも八十あまり」の「老尼」のかたつたところとすると、本文の語り手自身なる尼と全く混雑してしまふ恐れがある。それで増鏡の作者は舞御覧記の記事を特に「幼きわらはべ」の話としてしまつたのであらう。こゝに増鏡の作者の一つの作為が窺はれ、興味あるところである。
 しかして更に考ふべきことは、増鏡に於いて「鳩の杖にかゝりて参」りし「八十にもや余りぬらむと見ゆる尼」を主役としたのは、実は舞御覧記に影響されたのではないかと云ふことである。即ち増鏡が舞御覧記を材料にしてゐること、その舞御覧記の記者は舞御覧の日に「はとの杖に掛りてよろぼひまいり」し「八十あまりになりぬらん」「老尼」なること、而して増鏡の作者が舞御覧記の記事を材料とした条に於いては、前に述べたやうに特に尼をして其事を自ら見たことでないと断らしめてゐる筆法が増鏡全巻中に於いて希有の例であつて、作者が舞御覧記を引用するに特殊の関心をもつてゐたことをあらはしてゐると思はれること、等によつて之は断じ得るであらう。決して之は偶然の一致とすることは出来ないのである。かくの如く見れば、舞御覧記は、増鏡の成立に頗る重要な意義を有つたものとなつてくるのである。

 『増鏡』と『舞御覧記』を読み比べてみれば、平田俊春氏の言われるように、『増鏡』の「作者が舞御覧記を引用するに特殊の関心をもつてゐたこと」、「舞御覧記は、増鏡の成立に頗る重要な意義を有つたもの」であることは明らかであるが、平田俊春氏は、あくまで『舞御覧記』が先に存在していて、『増鏡』が「鳩の杖にかゝりて参」った「八十にもや余りぬらむと見ゆる尼」を話し手としたのは、先行する『舞御覧記』に影響を受けた結果と考えておられる。

 そして、平田俊春氏は「舞御覧記の記事を『としも八十あまり』の『老尼』のかたつたところとすると、本文の語り手自身なる尼と全く混雑してしまふ恐れがある」から「幼きわらべなどの、しどけなくなかた」ったものに変更したのだと解釈されるのである。

 さて、ここで「北山行幸」の後半部分を引用したい(『増鏡(下)全訳注』p189)。

 翌日は無量光院の前の花の木の陰で、公卿たちが続いて伺候した。廂(ひさし)に椅子を立てて天皇が着座される。御遊が始まる。拍子には治部卿冬定が参仕した。天皇も桜人をおうたいになる。御声はたいそう若く花やかでりっぱである。去年の秋であったか、資親の中納言に、この曲をば伝受されて、その賞に正二位をお許しなさったのも、今日のためであったのだろうか、とたいへん優雅なことである。楽(がく)の調子などもよく調って、じつに結構なことである。
 その後、和歌をお召しになる。花の枝を結んで文台(ぶんだい)の代りになさったのは、(平安時代の)保安の例によったのだ、というようである。東宮大夫公宗が序を書かれた。
天下が安らかに治まったこの御代(みよ)に、宮城の北のこの北山邸の桜が美しく咲いた春、天皇の行幸をここに仰いで、雅楽が御前で奏せられた。重ねて和歌を人々から奉らしめ、しばしば数樹の色濃い桜花を賞せられる。梢(こずえ)に咲き満ちた桜の花は、昔(素戔鳴命すさのおのみことが詠まれた)出雲の雲がふたたびかかったのではないかと疑われ、庭一面の花は、昨日の舞の袖から降った雪がまだ残っているのかと思われる。風情の乏しい歌ではあるが、とにかく詠作することとなった。その詞(ことば)は、
よい時 節をえて行幸を仰いだかいのあるその庭では、花の色も久しい(盛りを保つ)ことであろう。
御製、
ここは代々の天皇の行幸の跡だと思うと。── 上の句を忘れてしまいました。後にでも見つけて申します。
中務卿尊良(たかよし)親王、
この後、代々の帝の行幸は絶えまいと思う。この北山邸の花を御覧になるため今まで行幸があったが、その跡に重ねて。
だれもがこうした事柄(素材)にばかりとらわれて、「花のみゆき」のほかは珍しい点もないので、そうたくさんも記し難い。万事名残多いが、そういつまでもはというので、九日還幸された。       

 原文では、後醍醐天皇の御製は「代々の御幸(みゆき)のあとと思へば この上(かみ)、忘れ侍る のちにも見出(いだ)してぞ」となっている。また、尊良親王の歌は「代々をへてたえじとぞ思ふこのやどの花にみゆきのあとをかさねて」である。

 平田俊春氏は、『増鏡』の上記部分に対応する原文と『舞御覧記』の原文を掲げたあとで、次のように述べておられる。

 此の両書の記事を比較してみると、先づ増鏡には舞御覧記に見えない記事が存することに気がつく。即ち天皇が資親中納言に桜人の曲をうけ給うたこと、春宮太夫公宗の序、及び尊良親王の御歌の上の句等である。蓋し公宗の序は老尼の断つた如く漢文であるために舞御覧記では略したのである。しかして増鏡は此日の行幸の概況を叙するために、その日の歌集等によつて、公宗の序、及び尊良親王の御歌の上句を補つたのであらうし、資親中納言云々のことも、或は其歌集に記せられてあつたのであらう。とに角、是等の相違はさして問題とするに及ばない。
 しかし茲に注目すべきは、後醍醐天皇の御製に対し奉る両書の態度の相違である。両書ともに上句を欠いてゐるが、舞御覧記は「御製などの御ことは申出も恐おほく覚え侍」と非常に畏みまつゝたためであり、しかも「御こと葉巧に、ためしなく人びと沙汰し申侍き」と深く感歎し奉つてゐるのであるが、増鏡では「このかみ忘れ侍る、後にも見いだしてとぞ」と、全く冷淡な態度なのである。既に尊良親王の御歌の上句を補つた程であるから、増鏡の作著が此の御製の上句を補へない筈はないのであつて、かゝる冷淡な註を特に付したことについて、作者が此の上句を略することを特に意識的になしたものとしなければならない。この御製の全歌は藤葉和歌集に「次の年(元弘元年)春、西園寺に行幸侍りて、庭花といふ事を講ぜられけるついでに、後醍醐院御製」と題して、
宿からは花も心にとまるかな
       代々のみゆきのあとと思へば
と見えてゐるのであるが、この上句を著者が故意に略したのは何故であらうか。蓋しこの上句の「宿から」の「から」は故にの意で、西園寺家の品を非常に重じ給うたものであり、されば舞御覧記にも公宗の名誉なりしことを記して「御主の御面目も色そひて聞ゆ」とあるのであり、又その記者はもと西園寺家に仕へてゐた者であるため、深く感激し奉つて、之を記し奉るを憚つた程である。これを逆に増鏡の作者が冷淡に無視し奉つたのは、作者が西園寺家に対し好意を有つてゐなかつた為としなければならない。これは舞御覧記の其下に前関白の歌を「面白」とし、二条(御子左)為定の歌を「花も盛の久しかるべきためしに侍れば、めでたくおもしろくぞ聞えし」と記してゐるのに、増鏡が「めづらしきふしもなければ、さのみもしるしがたし」と全く略してゐる条も同様である。

 平田俊春氏が着目されているように、後醍醐天皇御製に対する『増鏡』作者の態度はずいぶん奇妙なものである。平田俊春氏は「これを逆に増鏡の作者が冷淡に無視し奉つたのは、作者が西園寺家に対し好意を有つてゐなかつた為としなければならない」とされるが、御製の上句を削除してしまっているのであるから、素直に考えれば、作者は西園寺家ではなく後醍醐天皇に対し「好意を有つてゐなかつた為としなければならない」はずである。






 3.「北山行幸」についての私の考え方


 平田俊春氏の極めて優れた研究を参考にして、「北山行幸」の場面に語り手の老尼が登場する意味や『増鏡』と『舞御覧記』の関係について考えてきたが、ここで私の考え方を整理しておきたい。

 この北山行幸の場面は、『増鏡』の作者と成立年代を考えるうえで、極めて重要な部分であると私は考える。まず第一に、語り手の老尼が登場して「その日のことを拝観していませんので、たしかではございません。小さい童などが、とりとめもなく話したままを申すのです。ここにおいでの方々の中で御覧になった方もいらっしゃるでしょう。私のほうがうかがいたいものです」などと述べた点についてであるが、平田俊春氏の言われるように、『増鏡』においては語り手の老尼が登場する場面は極めて少ない。しかも私のように後深草院二条を『増鏡』の作者と考えると、老尼の登場する場面は極めて意味深長な部分ばかりである。

 この北山行幸の場面でも、私は老尼の発言の直後にある、原文では「簾の内にも大納言二位殿琵琶、播磨の内侍箏、女蔵人高砂といふも琴弾くとぞ聞きし。まことにやありけむ」とある部分が極めて怪しいと考える。この「まことにやありけむ」(それはほんとうであろうか)について、井上宗雄氏は「語釈」で、「上文を受ける。老尼が当日の儀を実見していないからこういった」とされており、文章を素直に読む限り、確かにそのとおりである。

 しかし、老尼は当日の儀の全体を実見していないことになっているので、何故「簾の内にも大納言二位殿琵琶、播磨の内侍箏、女蔵人高砂といふも琴弾くとぞ聞きし」だけを受けて「まことにやありけむ」と言うのか、考えてみればずいぶん奇妙である。

 私は、ここも巻十一「さしぐし」で後深草院二条が「三条」という名前で登場する場面と同じく、また、巻十「老の浪」で、公卿勅使の歌をめぐる奇妙な記述の次に、蒙古の帝王が「私はどうかして今度は日本の帝王に生まれ、あの国を滅ぼす身となろう」と誓って死んだという更に奇妙な話があって、「まことにやありけむ」と続く場面と同じく、作者がちょっととぼけて、読者に謎掛けをしているのではないかと思う。

 つまり、「まことにやありけむ」(それはほんとうだろうか)は、意味の上では「簾の内にも大納言二位殿琵琶、播磨の内侍箏、女蔵人高砂といふも琴弾くとぞ聞きし」を受けているのではなく、ひとつ飛ばして、老尼が「その日のことを拝観していませんので、たしかではございません。小さい童などが、とりとめもなく話したままを申すのです。ここにおいでの方々の中で御覧になった方もいらっしゃるでしょう。私のほうがうかがいたいものです」と言った部分を受けているのであって、<本当に私はその日のことを拝観していないのでしょうか、読者の皆さんに私のほうがうかがいたいものです>と謎掛けをしているのではないかと思うのである。『舞御覧記』と『増鏡』の関係について、ちょっと考えてみて御覧なさいな、と読者に知的ゲームを仕掛けているのではないかと思うのである。

 第二の問題点は、後醍醐天皇の御製について、「この上(かみ)、忘れ侍る。のちにも見出(いだ)してぞ」(上の句を忘れてしまいました。後にでも見つけて申します)と極めて冷淡な取り扱いをしている理由である。

 「のちにも見出してぞ」などととぼけた書き方をしているが、この上の句は『藤葉和歌集』巻一に、「次の年の春、西園寺に行幸侍りて庭花といふことを講ぜられける次(ついで)に 後醍醐院御製 宿からは花も心にとまるかな代々のみゆきのあとと思へば」とあるのだから、別に調べるのは難しいことではなかったはずである。

 だいたい天皇の歌というのは、この種の行事の最重要ポイントであって、忘れてしまったから書きません、などというのは奇怪千万である。忘れたなら徹底的に、何が何でも調べて、とにかくきちんとした形で載せるのが当然である。上下を分断して下だけ載せるなど、極めて不吉であり、貴族社会の歴史書としては異常としか言いようがない表現なのである。

 私は、この異常な表現は、それにふさわしい異常な理由でなければ説明がつかないと考える。即ち、『増鏡』の作者の後醍醐天皇に対する露骨な悪意、徹底的な軽蔑である。あなたは代々の天皇の地位を継ぐにふさわしくない人物だ、という断罪である。

 とすると、『増鏡』全体から伺われる作者の後醍醐天皇に対する好意と、この部分だけに見られる徹底した悪意を整合的に説明する必要が生じるが、私はそれを時間的変化、作者の後醍醐天皇に対する感情の急激な悪化に求めるべきであると考える。

 元徳三年(1331)三月、元弘の変の直前に行われたこの華麗なる行事に登場する主要人物たちの数年後の運命を思うと、実に暗澹たる気持ちにならざるをえない。翌年、北畠具行は近江国柏原で佐々木道誉により斬首。建武二年(1335)、西園寺公宗は名和長年の手により斬殺される。建武四年(延元二.1337)、尊良親王は越前金崎城で自刃し、暦応元年(延元三.1338)、北畠顕家は阿倍野で戦死するのである。

 鎌倉幕府打倒という輝かしい成果の犠牲となった北畠具行を別として、建武新政実現後の極度の混乱、分裂に次ぐ分裂、戦争に次ぐ戦争によってもたらされた夥しい人命の損失の責任は、その大半が後醍醐天皇の恣意的な政治運営に帰せられるべきものである。

 建武の新政がたった三年で崩壊してしまったことに明らかなように、後醍醐天皇は疲弊した旧制度の破壊者としては傑出した有能さを発揮したが、自身が目指し、周囲が期待した新秩序の創造者としては全く無能な人物だった。

 新しい時代が来るのだという希望を抱いた多くの人々にとって、後醍醐の新政がもたらした惨憺たる結果は、過剰な期待を抱かせただけに、その反動として極端な反発・嫌悪・軽蔑をもたらしたはずであり、『増鏡』の作者も、そうした後醍醐に対する急激な感情の変化を共有したものと私は考える。

 ただ、『増鏡』の作者にとって、そうした後醍醐に対する感情の変化をそのまま『増鏡』に反映させることは、極めて困難なことだったはずである。何よりも時代の変化が急激すぎて、どういう決着がつくのか誰にも分からない時期が延々と続くのであり、一人の歴史家にとって、統一的な視点から歴史を描き直すのは極めて難しい作業であったはずである。

 そして作者の個人的な感情としても、『増鏡』の全面的な改変は困難だったはずである。元弘三年(1333)六月の後醍醐還幸により、武士が権力を専断し、貴族社会をないがしろにした鎌倉幕府の時代がやっと終わって、これからは再び天皇を中心とする正しい秩序が回復され、素晴らしい時代がくるのだと期待した最高級レベルの貴族出身の歴史家を『増鏡』の作者と想定すれば、『増鏡』は元弘三年六月の時点では完璧な作品だったはずである。それを後醍醐天皇への反発から大幅に改変するのは、作者にとって忍び難い行為だったように思われる。

 そこで作者としては、自分の気持ちの変化を、ほんの一部に痕跡として残すことで、作品の完璧性を損なうことなく、自分の感情との妥協を図ったのではないか、そしてその痕跡が、この「この上、忘れ侍る。のちにも見出してぞ」(上の句を忘れてしまいました。後にでも見つけて申します)という異常な表現なのではないかと私は考える。






 4.「三条前大納言公秀の女、三条」


 成立年代に関して、巻十五「むら時雨」の「北山行幸」と並んで極めて重要と思われる記述は、巻十六「久米のさら山」の最終部分に存在している。その場面は次の通りである(井上宗雄氏『増鏡(下)全訳注』p337)。

 さてさて、日野大納言俊光といった人は、文保のころ(この家としては)初めて大納言になったのを、たいへんなこと(破格の栄進)と時の人々はいい騒いだようだが、その子で、このごろ院の執権をしている資名という者が、また大納言になった。めでたく(父子二代)度重ねての昇進は、たいへんすばらしいことであるようだ。前代、後醍醐天皇の御代にも、定房が一位となり、宣房が大納言になされなどしたのを、このように破格だと人々は思いもし、言いもしたようである。
 光厳天皇には女御もまだいらっしゃらないので、西園寺の故大納言実衡公の姫君で、広義門院のおそばに、今御方とか申して、だいじに育てられている方を、(後宮として)さし上げられたので、この方が(ゆくゆく)お后になられる方かと、世人も早いうちから結構なことだと思っていたが、どういうわけか、御寵愛のあまりぱっとしないのが残念である。三条大納言公秀の娘三条といって仕えていられる方の御腹に、宮々がたくさんお生まれになったのだがその方が結局は皇太子になられるようである。

 原文では「三条前大納言公秀の女、三条とてさぶらはるる御腹にぞ、宮々あまたいでものし給ひぬる、つひのまうけの君にてこそおはしますめれ」との文章で、巻十六「久米のさら山」は終わっているのでる。

 この「三条前大納言公秀の女、三条」に関する記述は、『増鏡』の成立年代を考える上で極めて重要な部分として、従来から注目されており、井上宗雄氏は「解説」において、

 末尾の「三条前大納言」以下の一文は、公秀女に複数の皇子が生まれてこと、少なくともその内の一人が立太子したことなどを、『増鏡』の作者が知っていることを示したものである。すなわち『増鏡』は弥仁親王出生の暦応元年三月、興仁親王立坊の同年八月以後の成立である、ということになるのであろう(和田英松・宮内三二郎)。

と言われている。

 「三条前大納言公秀の女、三条」は応長元年(1311)に生れ、文和元年(正平七.1352)、四十二歳のときに陽禄門院の院号を受けた女性であり、北朝第三代崇光天皇(興仁親王.1334〜98)、北朝第四代後光厳天皇(弥仁親王.1338〜1374)の母である。

 『増鏡』自体は元弘三年(1333)六月、護良親王が四条隆資らとともに京に入ったことを最終記事としているが、この「三条前大納言公秀の女、三条」に関する記述によって、『増鏡』は弥仁親王(後光厳天皇)が生まれ、興仁親王(崇光天皇)が皇太子となった暦応元年(延元三.1338)以降に成立した、と解されているのは一応もっともなことである。ただ、改めて考えてみると、次のような素朴な疑問が浮かんでくる。

(1) 『増鏡』の作者は暦応元年(1338)の出来事を知っているならば、なぜ元弘三年(1333)六月を区切りとしてしまって、その時以降の様々な出来事を書かないのか。なぜ暦応元年の弥仁親王(後光厳天皇)誕生と興仁親王(崇光天皇)の立坊のみを、何かほのめかすような奇妙な形で記すのみで、それ以外の重大事件を記述しないのか。

(2) 暦応元年(1338)八月に皇太子となった興仁親王(崇光天皇)は十年後の貞和四年(正平三.1348)十月二十七日に践祚しているから、この記述は『増鏡』の作者が崇光天皇の践祚を知らないことの証拠になるのではないか。

(3) 「三条前大納言公秀の女、三条」は文和元年(正平七.1352)十月に陽禄門院の院号を受け、同年十一月二十八日に没しているから、この記述は作者が陽禄門院の院号宣下とその死を知らないことの証拠になるのではないか。陽禄門院の院号宣下を知っているのであれば、同じ段落に出てくる広義門院(延慶二年〈1309〉に院号宣下を受けている)と同じように陽禄門院の女院号で呼ぶか、あるいはその旨の何らかの注記をするはずではないか。

 以上のうち、特に重要なのは(1)である。元弘三年(1333)六月から暦応元年(1338)八月までの間には、後醍醐天皇による急激な政治改革とその失敗、護良親王と足利尊氏の対立激化、建武元年(1334)十月の護良親王逮捕、建武二年(1335)六月の西園寺公宗らによる後醍醐帝暗殺計画の発覚、同年七月の中先代の乱とそれに伴う足利直義の護良親王殺害、同年十一月以降の足利尊氏と新田義貞の全面的対立、建武三年(延元元.1336)年一月の足利尊氏入京と西海への敗走、同年三月多々良浜での勝利による尊氏の再起、同年五月、湊川の戦いでの楠木正成の戦死、同年六月の光明天皇の践祚、同年十二月の後醍醐天皇の吉野への脱出、建武四年(延元二.1337)三月の越前金ヶ崎城陥落と尊良親王の自決、同年八月以降の北畠顕家の再西上と翌暦応元年(延元三.1338)五月の阿倍野での敗死、同年閏七月の越前藤島での新田義貞の戦死など、重要な事件が次々に生じているのに、『増鏡』の作者はこれら一切を無視して、なぜ暦応元年(1338)の弥仁親王(後光厳天皇)誕生と興仁親王(崇光天皇)の立坊のみを、妙に不自然な、何かほのめかすよう形で記すのか。

 仮に『増鏡』の作者が、建武の新政以降の混乱を描くのが嫌で、後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒と建武の新政の開始という栄光の側面だけを描きたかったのであれば、なぜ元弘三年(1333)六月で『増鏡』を完全に終わらせなかったのか。暦応元年(1338)の弥仁親王(後光厳天皇)誕生と興仁親王(崇光天皇)の立坊という、いわば不純物を、なぜ追加したのか。

 従来の学説は、そもそも私のような問題意識を全然抱いていないので、当然のことながら何ら検討はなされていないのであるが、少なくとも二条良基(1320〜88)や洞院公賢(1291〜1360)を『増鏡』の作者とする立場からは、これらの問題について、きちんとした根拠にもとづく合理的な説明をすることは極めて困難であるように思われる。

 以上の問題についての私の考え方は次の通りである。

@ 『増鏡』は正嘉二年(1258)に生まれ、元弘三年(1333)の時点では七十六歳になっていた女性が、後醍醐天皇による新しい政治に多大の期待を寄せて執筆した作品であり、元弘三年六月の時点では殆ど完成していた。

A しかし、その後の政治情勢の急展開は、およそ後醍醐天皇に期待をしていた多くの人々を裏切る惨憺たるものであり、『増鏡』の作者たる女性自身にとってすら、後醍醐を高く評価した部分は極めて腹立たしいものになっていた。

B ただ、事態は依然として流動的であって、統一的な視点から『増鏡』を書き直すことは実際上不可能であり、また作者にとって『増鏡』の完成度があまりに高いものだったので、作者の個人的心情としても『増鏡』の書き直しは極めて困難だった。

C そのために、作者は元弘三年六月以降の出来事についての追加を断念し、作品の完璧性を維持しつつ、後醍醐天皇に対する軽蔑を表現するために、巻十五「むら時雨」の北山行幸の記事において、後醍醐帝の歌の上の句を削除して「この上、忘れはべる。後に見出してぞ」という奇妙な一文を付け加えた。

D そしてそのごくわずかな変更を行った時点は、おそらく暦応元年(1338)八月の興仁親王(崇光天皇)立坊の直後であり、作者はそれを巻十六「久米のさら山」の末尾に記録した。「三条前大納言公秀の女、三条とてさぶらはるる御腹にぞ、宮々あまたいでものし給ひぬる、つひのまうけの君にてこそおはしますめれ」がその記録であり、「三条前大納言公秀の女、三条」と「三条」を繰り返すことは、自らを「三条」という名前で『増鏡』に登場させた作者にとって、分かる人にだけ分かってもらえればよい特別なサインだった。

E 暦応元年(1338)の時点で、『増鏡』の著者たる女性は八十一歳であり、それ以降いつまで生存したかは『増鏡』のみからは判断できない。ただ、年齢からみて貞和四年(1348)の崇光天皇(興仁親王)の践祚、文和元年(1352)の陽禄門院の院号宣下は知らなかった可能性が高い。





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