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阿部猛 「平泉澄とその門下」
(『太平洋戦争と歴史学』.吉川弘文館.1999年.p38以下)







阿部猛氏の略歴(上掲書による)
1927年、山形県に生まれる
1951年、東京文理科大学史学科卒業
現在、東京学芸大学名誉教授・文学博士
主要著書
『尾張国解文の研究』『万葉びとの生活』『平安貴族の実像』『鎌倉武士の世界』『下剋上の社会』『歴史の見方考え方』『荘園史用語辞典』



平泉澄とその門下


平泉澄の歴史観
 一世を風靡した平泉澄(ひらいずみきよし)の歴史学がクローチェ(Benedetto Croce,1866-1952)から大きな影響をうけていたものだとは、大隅和雄の書物から知った(『中世思想史への構想』名著刊行会)。しかも、志向するところは異なるものの、平泉と羽仁五郎がともにクローチェの徒であることを大隅から教えられて、私は一瞬たじろいだ。国粋主義者の平泉と、マルクス主義者の羽仁とが、クローチェという共通項を持つなどとは考えてもみなかったからである。また、松尾章一の『日本ファシズム史論』(法政大学出版局)によって、若き平泉をとりまく学問的風潮、環境について再認識し、教えられるところが多かった。

 平泉澄およびその門弟たちの歴史観は「皇国史観」と称される。定義的にいえば、皇国史観とは「日本国は皇国であると考え、日本の歴史を皇国の歴史として捉える歴史観」である。その「皇国」とは、天照大神を皇祖とする万世一系の天皇が統治する国をいう。とくに国家主義的な政治・社会体制が強化された段階で、西欧の近代的な歴史思想を排除し、国体を宣揚する歴史観であり、その運動の中心となり指導的役割を果たしたのが平泉澄であったとみられている。

 平泉は明治二十八年(1895)二月、福井県の白山神社祠官の家に生まれた。大正七年(1918)東京帝国大学文科大学国史学科を卒業し、同十五年母校の助教授となり、昭和五年(1930)三月から翌年七月まで、ドイツ、オーストリア、イタリア、フランス、イギリスを歴訪し、同十年教授となった。かれの学位論文となった『中世に於ける社寺と社会との関係』(大正十五年、至文堂)は、西欧における中世史研究の動向をも視野に入れた斬新な学風を示すものとして注目をあつめたという(日本史大事典』5「平泉澄」大隅和雄稿)。平泉の考え方は、右の書の「序」に明らかに記されている。

いふまでもなく学としての歴史は、一般化的法則を求むるものにあらずして、個別なもの特殊なものを叙述すべきである。

 また同年に出版された『我が歴史観』(至文堂)は、

明治以来の学風は、往々にして実を詮索して能事了(おわ)れりとした。所謂(いわゆる)科学的研究これである。その研究法は分析である。分析は解体である。解体は死である。之(これ)に反して真を求むるは綜合である。綜合は生である。而(しか)してそは科学よりはむしろ芸術であり、更に究竟すれば信仰である。(中略)歴史を生かすものは、その歴史を継承し、その歴史の信に生くる人の、奇(く)しき霊魂のカである。この霊魂のカによつて、実は真となる。歴史家の求むる所は、かくの如き真でなければならない。

と記している。平泉の歴史観は、かくして明らかなように、歴史は芸術であり信仰であるとし、科学としての歴史学を否定する。「平泉氏の歴史観は、平板素朴な精神主義的歴史観であり、きわめて唯我独尊的な歴史観である。それ故にこそまさに、日本ファシズムをささえる歴史観となりえた」のである(松尾前掲書)。


平泉澄の言動
 戦局の進展とともに、平泉の発言のボルテージがあがってくる。

(大東亜戦争の花々しき戦勝)皇軍のかくの如き見事なる戦果は、決して偶然に得られたものではなく、其の基づく所は、極めて深く且(かつ)遠いもの之(これ)を一言にして申しますならば、それは実に国体に基づくと申してよいのであります。而して其の国体は、いふまでもなく遠き神代に淵源を発し、御歴代天皇の聖徳によつて益々光を増し、歴世忠臣の至誠によつて護持せられて来たのでありますからして、我等今日の戦勝を喜ぶ者は、之を喜ぶと同時に深き感激を遠き古(いにしえ)に捧げなければならないのでります。(『順徳天皇を仰ぎ奉る』昭和十七年)

 大久保利謙(としあき)は、平泉史学は東大国史科の文化史派の先駆けであって、「精神史」「精神生活」という新しい概念を導入して、綜合的に歴史をとらえようとした、『中世に於ける社寺と社会との関係』や『中世に於ける精神生活』は大正文化史の産物であって、国史学界に新しい問題を投じたと評価し、豊田武の座の研究や秋山謙蔵の活躍などはその影響を蒙ったものだと述べている(「私の近代史研究」『日本歴史』403号)。

 平泉の言動については、多くの人びとの証言がある。昭和のはじめ学生だった中村吉治(きちじ)は、平泉の自宅で卒業論文の計画を問われ、漠然と戦国時代のことをやるつもりだと答えると、平泉は「百姓に歴史がありますか」と反問したという。意表をつかれた中村が沈黙していると、平泉はさらに「豚に歴史がありますか」といったという(『老閑堂追憶記』刀水書房)。また昭和十八年、学生の研究発表の場で、「豊臣秀吉の税制」を発表した斎藤正一(しょういち)は、「君の考え方は対立的で、国民が一億一心となって大東亜戦争を戦っている時、国策に対する反逆である」と決めつけられ、大目玉をくった。そのうえ、参考文献について尋ねられ、研究室に備えられている社会経済史関係の雑誌を挙げたところ、そのようなものを読んでは駄目だと断言され、副手の名越時正を呼びつけ、これら雑誌は有害であるから撤去せよと命じられたという(『庄内藩』吉川弘文館)。


平泉の帰朝
 さきにふれたように、平泉の歴史観が、ヨーロッパ留学後急変したということではなかったが、迎えた学生、同僚たちの眼には急激な変化と映ったようである。豊田武は「昭和六年七月九日、平泉先生が帰朝せられた。先生の考えがにわかに国粋主義となられる。『日蓮とサボナローラ』といった話が講義にも出てくる。研究室の粛清がはじまり、副手の遠藤元男君が交代するなど、あっけにとられる」と回想している(豊田武先生古稀記念会『一歴史家の歩み』)。

僕らの時は、平泉さんの帰りたてで、いきおい入れこんだわけです。我々が入ってす ぐの一年生の時に与えられた演習が『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』。「大日本は神国なり」と書いてあるでしょう。本当に驚いた。それで北畠親房(きたばたけちかふさ)、いや「親房」(笑)と言わないと叱られた。(沼田次郎「近世対外関係史研究の軌跡 上」『日本歴史』554号)

日本史関係のものにとって、とくに印象に残るのは、一九三一年、満洲事変の勃発前後の頃、平泉澄氏が洋行を中途で切りあげて帰ってきたことだった。本郷三丁目の交叉点の東大寄りにあった明治製果で帰朝歓迎会がもたれた。席上、彼はこう宣言した。 「日本人は外国で非常に馬鹿にされている。それに対抗する道は一つしかない。“大和魂を磨け”この一語につきる」と。これは平泉氏が皇国史観へ転換する明確な宣言であったといえよう。

とは、石井孝の回想である(『歴史学研究 戦前期復刻版』月報「第3巻解題‐皇国史観への抵抗‐」)。また、北山茂夫はつぎのように述べている。
 
平泉澄がドイツから帰ったのは一九三一年であるが、かれの思想は、ヨーロッパの不安と動乱に触れて、ますます右傾した。のみならず、かれは政治的意味において、行動的になった。(「日本近代史学の発展」岩波講座『日本歴史22』別巻一)

 平泉の帰国を迎えた黒板勝美は「自分の大事な弟子が帰ってきたと、よろこんで学生に紹介した」。ところが「しばらくたったら、黒板さんの意にかなわないことばかり言うんで、急にもう嫌になっちゃった。黒板さんが平泉さんを急に嫌いになったのね、またあれも極端。−しかし、黒板さん、口を極めて平泉先生の悪口を言っていましたね」と玉村竹二は述べる(「禅宗史研究六十年上」『日本歴史』526号)。


平泉澄とその門弟
 昭和九年(1934)東京大学に入学した家永三郎は、平泉の講義をうけて、その「極端な日本主義には、到底ついて行くことができなかった」といい、

たとえば先生は「君(きみ)」というのは天皇に対してだけ使う言葉であり、それ以外に使うべきではないと説かれた。何々君(くん)というような用語をいっさい使わず、学生に向かって「誰々さん」といわれた。北畠親房とか楠木正成(くすのきまさしげ)の名前を口にするときには、必ずその下に「公」をつけて呼ばなければならず、山崎闇斎(あんさい)や平田篤胤(あつたね)などの名を呼ぶ場合には「先生」という敬語をつけなければならなかった。これは大きなオドロキであった。

と述べている(『一歴史学者の歩み』三省堂)。

 「君」「さん」については永原慶二の証言があり(『皇国史観』岩波ブックレット)、林勉も「平泉派の先輩は、『さん』付けは軟弱だ、『君』は天皇を指すと私を『林氏』と呼んだ」と述べている。また林は、「『大日本史の三大特筆は?』と尋ねられた。第一南朝正統、第二に神功を除き弘文を入れたことをいっしょにした。第三に歴史を神武から始めた科学性、といったら一喝された」という(東大十八史会編『学徒出陣の記録』中公新書)。

 永原は、学生の月例研究会で国学の問題を研究発表したが、その「タネ本は羽仁五郎氏の『国学の誕生』『国学の限界』という連作論文であった」「ところが同席した平泉教授は散会後ただちに私をよびとめ、あのような論文はよくないから読まぬ方がよいと厳粛な顔つきで私をいましめた」という。また田中健夫は、「社会経済史なんかやりますと、先生はご機嫌が悪い。それから思想史といっても勤皇の思想を研究するのが思想史であって、仏教思想や何かのことでないわけで、すべて勤皇ということが基準になるのです」と回想している(「戦後の中世対外関係史研究 上」『日本歴史』586号)。

 平泉門下の人びとの団体に朱光会なるものがあり、平田俊春、村尾次郎、名越時正といった人びとが中心メンバーであった。田中は「山口康助さん(=田中は新潟高等学校で山口と同期)の下宿で集まりがあるということで覗きましたところ、居合わせた人たちが先生の本を頭の上におしいただいて勉強しているのを見まして、これはとってもついていけない」と思ったという。

 山根幸夫は、中学生の頃から日本史を研究したいという希望を持っていたが、姫路高等学校の生徒のとき「朱光会々員の東大生(国史学科)が私の高校にまで遊説にやってきてた。それ故、国史学科へ進むことは到底できないと考え」東洋史を選択したという(『過ぎ来し方』燎原書房)。第一高等学校生徒だった直木孝次郎が東京大学を避けて京都大学を選んだのも、藤木邦彦の助言によるものだったという。


平泉澄の社会的影響力
 平泉澄が、政界・軍・警察にも大きな影響力を持ったことは、松尾章一が『日本ファシズム史論』(法政大学出版局)に述べるとおりである。昭和十八年(1943)八月、教育総監部から、下級将校のための日常軍隊教育の参考として配布された『皇軍史』に平泉史学の影響が見られるという。また、護雅夫の証言によると、予備学生として海軍兵学校で教育をうけていた護雅夫、村上健蔵、藤岡次郎らは、午前中は教育をうけ、午後は生徒に対する普通学の講義を担当したが、

教材として平泉澄著『皇国護持の道』を使わせられたが、そのほかに、文官教授たちの編集した教科書もあったように記憶する。何(いず)れにせよ、神話からはじまる戦前・戦中の国史教科書に、楠正成父子そのほかに「愛国者」たちの事蹟をとくに強調して列挙、付加したものであったが、とくに、建武中興(けんむのちゅうこう)、『神皇正統記』、山崎闇斎、吉田松陰などに重点がおかれ、そこに一貫して流れるのは、皇国史観、天壌無窮史観であった。歴史科の文官教授のなかには、伊東隆夫氏(広島大学名誉教授、東洋史)や 糸曾義夫氏(前明治大学教授、西洋史)のような方もおられはしたものの、平泉澄氏の門下生が少なくなかった。また時々、平泉氏が招かれて、将校集会所で、教官たちに講義されることもあった。

という(神田信夫・山根幸夫編『戦中戦後に青春を生きて』山川出版)。また、松尾章一によると、三重県下の警察幹部修練講習会のテキストには、平泉の『万物流転』『日本精神』『中世に於ける国体観念』『北畠顕家公を偲ぶ』などが使用されたという。

 家永三郎が「天壌無窮の神勅文の成立について」と題する論文を『歴史地埋』に投稿したところ、改題を求められ、「日本書紀一書所載神勅文の成立について」と改めて再提出したが、結局校正刷のまま葬られ掲載されなかったという。史料編纂所の先輩からは「君は不敬論文を書いたそうだね」といわれ、「そんなことをやらなくても、ほかに研究することはいくらもある」ともいわれたという。また、家永は「昭和十七、八年ごろになると、生徒(=新潟高等学校)の中から西暦を使うのをやめてくれと要求する者の現われたのには驚いた」とも書いている(『一歴史学者の歩み』三省堂)。


平田俊春『吉野時代の研究』
 この書物は、昭和十八年(1943)三月、山一書房から刊行された。表紙裏に「著者略歴」がある。出版社側で用意した文章のようである。それによると、平田は富山県の出身で、昭和九年東京帝国大学文学部国史学科を卒業、同年四月から十五年八月まで副手・助手をつとめ、同年九月から佐賀高等学校教授となった。「平泉澄博士の門下として、左傾思想横行の時代より夙(つと)に皇国史観を唱道して、学界の革新、国体の護持に苦闘し来つた少壮の学者である」と紹介されている。

 本書には、男爵菊池武夫の題字と、平泉澄の「序」が付されている。菊池は陸軍中将で貴族院議員。昭和十年二月十八日、第六十七通常議会の貴族院本会議の質疑で美濃部達吉の著作をとりあげて糺弾し、いわゆる天皇機関説問題の発端をつくった国体明徴運動の中心人物である。平泉は「序」で、

十年前までは、自由主義の潮流激しく漲(みなぎ)り、加ふるにマルキシズムの風烈しく吹き荒 (すさ)んで、時には暗憺晦冥(あんたんかいめい)の状さへ呈したのであつたが、その中に於いて幾多の苦難を凌(しの)ぎ、一筋に国体の大義を明かにしようとして来た学士の純情は、之を知る者の回想して感慨やまざる所である。

と述べている。平田の「自序」は、「建武中興の御理想と吉野の忠臣の御事蹟を再び仰ぎ奉ることの意義極めて大なるを覚え、大楠公七生報国の誓に因み、三部廿一篇の論攷を訂補して本書を成した次第である」と述べる。本書の内容は、つぎのごとくである。

第一部 皇室篇 ─ 一 建武中興、二 後醍醐天皇の御諡号(ごしごう)、三 後醍醐天皇の御宏図(ごこうと)と諸皇子の御活動、四 宗良親王の御終焉(一)、五 宗良親王の御終焉(二)、六 吉野時代の原理

第二部 臣民篇 ─ 七 新田公の挙兵、八 大楠公の戦死、九 菊池武時公と大智禅師、一○ 新田義貞と足利高氏、一一 吉田定房(一)、一二 吉田定房(二)、一三 北畠顕家公の戦死地と墓地、一四 建武の勇士本間孫四郎、一五 叡山の勤皇と道場坊祐覚、一六 金崎落城と由良・長浜両公

第三部 文献篇 ─ 一七 吾妻鏡と六代勝事記、一八 増鏡の成立、一九 神皇正統記の成立、二○ 太平記の成立、二一 太平記の復活

 平田の基本姿勢は、きわめて明確である。わが国の政治のあり方は「天皇親政」にあり、これが尺度である。したがって「蘇我氏一時専擅(せんせん)を恣(ほし)いまゝに致しましたので、天智天皇之(これ)を誅(ちゅう)し給ひ、大化改新を断行遊ばされたのであります。かくて再び国体に基づく正しい政治体制に帰り」ということになり、醍醐・村上天皇のときは、よく藤原氏を抑えて「国体に基く政治が顕現され」たとする。いわゆる摂関政治や院政は、天皇をないがしろにするものであり、「天皇統治を根本とする我が国体の上から論じて、全くあるべからざることであります」となる。後醍醐天皇は、米価の安定をはかったり、新関を廃止したり、酒造を制限したり「国民生活の安定」に意を用いたにもかかわらず、「当時の国民は、多く未だ国体をわきまへず、大義を知らず」新政治は「わづか三年にして」破れたのであると。


国史を貫く精神
 「南北朝」の呼称について、『大日本史料』第六篇をはじめ、久米邦武(『大日本時代史南北朝』)、田中義成(よしなり)(『南北朝時代史』)、魚澄惣五郎(『綜合日本史大系  南北朝』)、中村直勝(『日本文化史 南北朝』、のちの『日本新文化史』〔昭和 十七年〕では「吉野朝」と改められた)らの書がこれを用いていることを、平田は非難する。平田はいう。「田中博士が斯(か)かる重大な誤に陥られた根本原因は歴史の研究に於いて単なる事実のみ重く見られて、ために大義名分を軽んずるに至つたことによるのであります」と。

 「足利高氏は史上に於いて類少い逆臣であり、恩義を知らざる禽獣(きんじゅう)にも等しき人間なることは、今日三歳の童子と雖(いえど)もよく知つてゐることであります」といい、「吉野朝」正統の根拠は、平田によると、@「大義名分に基いて正統の朝廷であらせられる」、A「吉野の朝廷が絶対に所謂(いわゆる)『北朝』を御認めにならなかつた歴史的事実」によるという。このような論理がまかり通ったとは笑止のいたりであるが、戦中・戦前には不思議とも思われなったのである。

 楠木正成(くすのきまさしげ)の死について、正成ははじめから討死を覚悟して湊川(みなとがわ)に出陣したか否か、もし討死の決心がなかったとすると、その死はただの死となり、意義うすいものとなる。したがって「それは単に楠公に関する一史実に止まる問題ではなく、我が国民道徳の上に、又端的には教育上に、非常に重大な事柄である」と平田は述べ、菊池武朝状と、武朝の曾祖父武時討死の際の状況を「傍証」として、「楠公は湊川出陣前、すでに討死を決心されてゐたことを断じうるのである」と記し、「現今の学界に於いて、太平記の史的価値の極めて貴重なことが決定的に認められてゐる」とし、あわせて、正成の討死覚悟の出陣の証とした。

 湊川における正成の行動を非難するのは「支那思想、西洋思想に心酔し『国体君臣ノ大義』を没却し、日本人の道を忘れたのによるのである。かくの如くして万巻の書を読み、等身の研究を積むとも『益ナクシテ、害アリ』、況(いわ)んや外国思想に立場を置き、日本の道を蹂躙(じゅうりん)するに至つては、腐儒(ふじゅ)と云はれ、学匪(がくひ)と罵(ののし)らるゝも詮ないであらう」「今や光栄ある皇紀二千六百年を迎ふるに当り、史家たるもの、否日本人たるものは、ここに反省懺悔、以て国史を貫く精神、此の日本人の大義を明かにし、国体護持のために進むべきではないか」と説く。

 以上のような平田の書物について、小沢栄一の書評がある(『史潮』第十三年一号)。「国基護持のわれら日本人の魂の、祖先に於ける歴史的な在り方を自覚することこそ、われらの今日の生き方を更に振起する所以(ゆえん)である。忠は神代以来万古一すぢ、その歴史的具体的内容といふが如きは自明のことであるとしても、逆にまた国民の利己心などといふものは、これはいつの世にも存在して頽廃と滅相の根因となつてゐるもの、その抽象的な指摘でなしに、歴史的性格を剔抉(てっけつ)することはまた史家の一つの仕事たるを失はない」と、小沢はひかえめに述べているが、平田の弱点を鋭くついている。時空を超えて、過去の歴史的な事象に道徳的規準を求めようとすることの危うさを小沢は指摘しているのである。


東京大学史料編纂所では、戦時中も「南北朝時代」と呼んでおり、『大日本史料』の第六編は、南北両朝の年号を併記する方式をとっている。これについて昭和十二年、平泉澄とその門弟たちが攻撃を加え、宮内省の芝葛盛も「明治天皇の勅裁に反する」として、吉野朝年号に統一すべきだとした。村田正志・松本周二・鷲尾順敬の三人で協議したがまとまらず、所長の辻善之助の判断で、編纂は続けるが出版は保留するとして、第六編は二十八で刊行をストップした。第二十九は戦後刊行された(村田正志「南北朝時代史の研究と懐旧談下」『日本歴史』573号)。



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