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| 阿部征寛氏の略歴 |
| (1) 上掲書より 昭和44年明治大学大学院修士課程修了、同49年藤沢市文書館勤務。論文に「鎌倉武士階層の女子の相続をめぐって」(わが住む里24号)「惣領制研究ノート−相良氏の場合」(駿台史学30号)「社会経済史用語辞典」共著(朝倉書店)などがある。 (2)『日本史研究者辞典』(吉川弘文館) (あべ ゆきひろ.1942〜89) 中世史。横浜開港資料館企画室長。1942年(昭和17)10月5日、秋田県由利郡東由利町に生まる。秋田県立本荘高等学校を経て、明治大学文学部卒業。同大学院入学。69年、同修士課程終了。藤沢市に勤務、市史編纂に従事。74年、藤沢市文書館員。79年、横浜開港資料館設立準備担当。81年、横浜開港資料館調査研究員。86年、企画調査室長。1989年(平成元)5月25日没、46歳。 《主要業績》『蒙古襲来』(教育社、1980)、『大和市史一 通史編 原始・古代・中世』(共著、大和市、1989)、『中世関東の武士団と信仰』(阿部征寛著作集刊行会、1990) 《年譜・著作目録》『中世関東の武士団と信仰』(前掲) 《追悼文》福島金治「阿部征寛氏の訃」(『日本歴史』495、1989) |
時頼政権 執権になるまで 時頼は安貞元年(1227)五月十四日辰刻、六波羅で生まれた。 父は北条泰時〔1183〜1242.60歳〕の長子時氏〔1203〜30.28歳〕であり、承久の乱を契機に設置された六波羅探題の長官として、元仁元年(1224)から寛喜二年(1230)までの六年間、その重責を務めた人物である。 母は秋田城介安達景盛〔?〜1248〕の女(むすめ)で、時頼のほか、兄経時〔1224〜46.23歳〕、弟為時、時定を生んでいる。一族の婦人に慕われ、松下禅尼と敬愛された人物である。 父時氏は病弱のため、寛喜二年〔1230〕三月に鎌倉に帰って来るのであるが、その時、時頼は三歳であり、京都での生活を記憶する年齢には達していなかったと思われる。両親と兄弟は鎌倉に来て新しい生活を始めることになるのであるが、父時氏はその年の六月十八日、二十八歳の若さで死んでしまうのである。本来ならば、泰時の次代を担う人物であったはずの父が死去したため、時頼は二歳上ママの兄経時とともに、祖父泰時から執権職を担う人間としての教育を受けることになるのである。 その後、時頼は嘉禎三年(1237)、元服を終え、幕府の使者として用務をつとめたり、あるいは鎌倉武士の修身課目である流鏑馬(やぶさめ)を修得したりしている。また元服を終えた八月には鶴岡八幡宮放生会の際に行なわれる流鏑馬の射手として登場している。この日のために、祖父泰時は一ヵ月前から時頼を鶴岡の馬場で特訓を行なうほどの熱の入れようであったという(『吾妻鏡』)。 祖父泰時は武人としての教育は勿論のこと、将軍職後見人として、あるいは武士社会を統轄できる人物としての帝王学をことあるごとに教授していた。 時頼が十五歳になった仁治二年(1241)の秋、鎌倉武士の両雄である三浦氏と小山氏との間に、ささいなことから端を発し、やがて騒動にまで発展するという事件が起った。 兄経時はこの事件で一応理のある三浦氏を助勢しようと駆けつけた。それに対して時頼は酒の場での喧嘩とばかりに、その騒動のなりゆきを静観していた。この両者の行動について、泰時は、経時の行為は将軍後見者としてあるまじき振舞てあると謹慎処分にしてしまった。一方時頼はどちらに加勢するともなく事態を静観していたので「将来、後見(こうけん)の器(うつわ)」に叶う人物として高く評価され、その一週間後には一村を贈与されたという(『吾妻鏡』)。 祖父は御成敗式目を編纂した人物であり、その法令中に「喧嘩両成敗」を設けた本人である。経時・時頼という孫が将来執権職を担おうとする時、この武士社会を統轄するためにはどちらに加勢するという判断より、まず一般武士の上位に自分を置いて、両者を成敗する心がまえが必要であることを教えたかったのであろう。 老骨に鞭打って孫子の養育に努めてきた泰時は仁治三年(1242)六月、六十歳で死去してしまった。執権職は兄経時が継承したのである。しかし経時はまもなく黄疸(おうだん)に罹り、寛元四年(1246)閏四月に、二十二歳ママの若さで死去してしまった。その執権期間は僅かに四年であった。 時頼は、兄経時が死去する二ヵ月前の、三月二十三日、執権職を譲られたのであった。 名越事件 時頼が執権職を譲られた旨を将軍頼嗣〔1239〜56.18歳〕およびその父である前将軍頼経〔1218〜56.39歳〕に賀申し、評定を開始してまもなく、兄経時は死去している。その葬儀が終えて一ヵ月を経ない閏四月十八日、午前十時頃から鎌倉中に原因不明の騒動が起り始めるのである。 翌月になっても、その騒ぎは静まらず、そのうち鎌倉の庶民が資財雑具等を四方八方に運び出し始めた。そして五月二十四日になって、やっとその騒動の原因がわかり始めてきたのである。 それは、執権譲渡をめぐって、北条氏一族のなかの名門である名越氏による叛乱であった。名越氏は泰時の弟朝時〔1193〜45.53歳〕が、名越に住むようになってから名乗るのであるが、このたびの事件は、その子の光時が起したものであった。そして事件の落着に応じて判明してきた事件の真相というのは、名越光時が前将軍頼経と共謀して、執権時頼をその座から除去しようとしたことにあった。 しかしその叛乱の結果、名越氏の所帯である越後国守護職は剥奪され、主謀者光時は伊豆国に流罪となった。また共犯者、前将軍頼経は七月一日に京都へ追放されることになった。その処罰は幕府高官である評定衆にも及んだ。前佐渡守基綱〔後藤.1181〜1256.76歳〕、前大宰少弐為佐、上総権介秀胤〔千葉.?〜1247〕、前加賀守康時〔三善.1206〜57.52歳〕らは罷免と同時に本国への追放を受けることになった。 名越光時、前将軍頼経の二人を中心としたこの事件の様相及び処罰状況は六月六日、飛脚をもって京都へ伝えられた。それを受けた京都方では「是等、時頼の沙汰か。衆口嗷々、天下紛々たり」(『葉黄記』原漢文)と時頼の処置を批難したと伝えている。しかし時間が経つにつれ、しかも頼経上洛時の七月下旬には「謀反(むほん)の事により、追上げられる」(『百錬抄』原漢文)と、京都方における世評ははっきりと謀反による追放と受けとめるようになっていたようである。ここに頼経を迎える九条家ではその事件によってことのほか動揺は激しかった。 時頼にとって、北条氏一門のエリートである名越氏の失脚により、北条氏一門内の執権の道は保証されたといっていい。また武士間に隠然として勢力を増しつつあった前将軍頼経を追放したことにより、「時頼是よりして、威勢高く輝きて、天下の権を執り治め」(『北条九代記』)ることが可能となったのである。 宝治合戦 寛元五年(1247)二月下旬、京都では公卿たちが改元の事でいろいろ評議していた。「宝治」という年号の可否についてである。「治」という字は、頼朝治政下に「文治」というのがあったが、それを使用したときから「世衰の始まり」があった。したがって縁起が悪い字であるから不採用にすべきだという意見が起り紛糾した。ところがそれにかわる字を発見できず結局最初の原勘文どおり「宝治」ということに決定をみたという(『葉黄記』)。 この年の五月、鎌倉では不穏な動きがふたたび起り始めるのである。 二十一日、鶴岡八幡宮の鳥居前に立礼が建てられた。その文面には、
とあった。これに続いて二十八日には「此程、世上静かならず、是ひとえに三浦の輩、逆心あるによる間、人性皆、怖畏(ふい)をさしはさむ故なり」と、三浦一族の叛逆が喧伝された。こうした事態を迎えた翌月一日、時頼は近江氏信〔佐々木.京極氏の祖.1220〜95.76歳〕を使者として、三浦泰村〔1204〜47.44歳〕の館に様子を探らせに行かせた。氏信は、館内には鎧唐櫃が約百二、三十個用意されていることやその他戦闘態勢を整えていることを逐一報告した。その中で、三浦泰村が氏信に伝えた述懐として、
と、三浦氏一族の栄運状況とその栄運に対して讒訴するものがでてきても不思議ではないと述べたという。三浦一族の肥大化とそれによって生ずる諸問題の発生に対し客観的に受けとめ、事態に対処しようとする態度が克明に伝えられた。 六月三日、こんどは三浦泰村の南庭に、桧板に書かれた落書が建てられた。その文面には、
たび重なる讒訴に対して、きわめて冷静に態度を堅持してきた泰村は、この落書の一件を契機に、時頼に対し自分には全く野心は無いことを正式に表明するとともに、身辺に感じる危険の排除を依頼するに至った。これに対して時頼は六月五日、泰村誅伐の気は無い旨を書簡で答え、泰村側で準備している武装態勢の解除を申し達したのである。 しかし、時頼の和平工作を知った安達氏はこの段階に至って和平することの無意味さと戦うならば一安心している今日の時点をおいて三浦氏を破る時はないと判断した。長老格の景盛〔?〜1248〕は一族を前にして次のような激励をしたという。
露骨な挑発をくり返してきた安達氏の、三浦氏討滅の意図が鮮明に表明されている一文である。と同時に騒動の原因といい醸成させてきた張本人は安達景盛であったことがわかる。 このころ鎌倉にはすでに騒動を聞きつけて近在の武士らが群参していた。安達氏は甘縄の自邸を出発し、路次群参していた武士たちを味方に誘い、三浦氏討滅に赴いた。 この事態を知った三浦勢は安達氏の奇襲作戦と大きな軍団を前に「鉄壁の城郭あるといえども、今に遁れ得ず」と戦いをあきらめ、源頼朝〔1147〜99.53歳〕の法華堂に籠り、堂内に架けられていた頼朝の絵像を前にして、一族五百余人、自害し果てた。その自殺したもののうち、幕府の番帳に登載されていた三浦一族の人数は二百六十人の多きを数えたという。この時点における、幕府内に占める三浦氏の勢力の大きさを窺わしめるものである。なおまたこの事件の縁坐者として、三浦氏とともに大きな勢力を持っていた上総権介秀胤は泰村の妹聟であるという理由で、自殺を余儀なくされた。 ここに鎌倉幕府を支えてきた三浦・千葉氏の両権力者は消えたのである。 時頼の政治姿勢 寛元四年〔1246〕の名越事件、宝治元年〔1247〕の三浦・千葉氏事件は二十歳になったばかりの時頼にとって、薄氷を踏む思いであったことは事実であったろうと思うが、これらの事件をとおして時頼の対応ぶりとその対応のなかにおける狙いが何であったのかについて考えてみることにしよう。 まず三浦氏との戦いについてみてみると、時頼は合戦の前面には決して姿をあらわさず、その戦いは三浦氏と安達氏との戦いとして処理しているように振舞っている。がしかし、去る四月四日、安達景盛が高野詣から帰ってきた折、景盛は時頼と長時間に亘って密談をし、その直後、義景〔1210〜53.44歳〕・泰盛〔1231〜85.55歳〕らを呼びつけて、安達氏のふがいなさを叱ったという。安達氏はその月の二十八日、愛染明王像を造像し供養したが、その理由には「ことなる願いごとがあるので、秘法を修した」というのであった。つまり、この時点から安達氏は三浦氏討滅の準備を始めていたのである。時頼が安達氏の三浦氏討滅計画を知らなかったわけはない。しかし前述の如く、度重なる三浦氏への挑発行為はすべて安達氏側からなされているのを知っているのに、その氏族に対しては、時頼からの抑止策はただの一度も行なわれなかったばかりか、黙視していたのである。むしろ安達氏をして三浦氏討滅を行なわせようとしているふうに見える。 時頼は、安達氏は現執権時頼の外戚として、三浦氏は泰時以来の政務の相談役として、それぞれが幕府政治における補佐役の覇権を争う両者のライバル意識を巧妙にエスカレートさせ、安達一氏をして三浦氏討滅に追い込んでいった形跡が随所にみられるのである。名越光時といい、三浦・千葉氏の場合といい、政治上のライバルとなる存在を追放、自殺という形で抹殺して行く手法は、時頼にかぎらず、北条氏の伝統的なものであるが、かりに時頼という人物のなかに暗いイメージをみるとすればかかる政治姿勢のなかにあるといえよう。 時頼が執権に就任して間もなく行なったことは、以上にみてきたように、有力者の政治的払拭問題が第一にとりあげられるが、第二としては将軍に対する対応策があげられよう。 北条氏は歴代の将軍に対して、きわめて冷淡であった。将軍頼朝は一応おくとして、頼家〔1182〜1204.23歳〕、実朝〔1192〜1219.28歳〕は続けざまに非業の死を遂げ、そして九条家から懇望してつれてきた頼経〔1218〜56.39歳〕に対しては十八年間、政務をまっとうしてきたのに北条氏の独断で解職し、幼い〔1239〜56.18歳〕を将軍にしたてることをなんなくやってのけることをしてきた。こうしたなかにあって、頼経は名越氏や三浦氏・千葉氏等を初め、かなり多くの幕府高官の人々にも慕われていて、流鏑馬・懸笠・犬追・詩歌管絃などの興宴・催物を通して昵近の間柄になっていたという。そうした頼経を中心とする御家人たちが、将軍を冷淡に扱う北条氏一流のやり方に批判を抱き、やがておりあらば、その体制の刷新を試みようと考えたとしてもおかしくはなかったろう。事実、三浦泰村の弟光村〔1205〜47.43歳〕は頼経と共謀して「武家権」を時頼から剥奪しようと約束していたという(『吾妻鏡』宝治元年六月八日条)。 外戚安達氏をはじめ時頼の母松下禅尼らが中心となって、執権時頼をおびやかす将軍とそれをとりまく有力御家人の政治的・軍事的な払拭が図られた。時頼はそれを陰で指揮していた張本人であった。ここに時頼の政治的な巧智さがあるといえよう。 『北条九代記』の著者は将軍改替問題に触れて次のように言っている。
まさに至言というべきであり、時頼の対将軍策を見抜いているといえよう。 時頼はこれら有力御家人の一族の探索を徹底して行なった。その探索状は全国に触れ回された(『吾妻鏡』宝治元年六月五日条)。 時頼の政治と行政 独裁体制の確立 時頼は、建長四年(1252)三月、連署重時〔1198〜1261.54歳〕との密談を通じて、前将軍頼経の子である頼嗣を将軍職から追放することに決意した。その廃立の理由は僧良行等がすでに帰洛している頼経と共謀して幕府の顛覆を画策したというのであった(『吾妻鏡』『北条九代記』)。またしても頼経が陰謀者として登場してきた。そこで、頼経と幕府との政治的な関係を、この際、完全にたち切る手段として、頼嗣がその犠牲になったと見ていいだろう。 また時頼としてはデッチ上げてでも、頼経との政治関係は断ち切りたかったのである。そのことによって、幕府内の政治的権威を自分のものとして確立できるからである。 将軍職には、後嵯峨上皇〔1220〜72.53歳〕の皇子宗尊親王(十三歳ママ)〔1242〜74.33歳〕を迎えることになった。代々の将軍を送りこんでいた九条家はこの時点から衰亡の途をたどることになるのである。かわって、西園寺(実氏)家が台頭することになる。すでに親北条氏派としてあった西園寺家は時頼の指名によって太政大臣に就任することになる。 前述の将軍職改替問題といい、将軍候補者の指名、また京都の公家たちの人事に対してまでも、時頼の権限は拡大されていった。 一方、幕府内においては、既述のとおり、名越光時を追放することによって北条氏一門における覇権を握り、三浦泰村・千葉秀胤らを抹殺することによって一般御家人層の上位に君臨する位置を確立し、後藤・三善・太田氏等を政治的に罷免し府内行政の中枢機関を掌握することに成功してきた。ここに、執権時頼は相棒重時ととも、ついには難関とも思われた京都政治への干渉に成功したのである。 北条氏執権の歴史から言えば、まさに第五代執権時頼に至って、執権独裁の道が完全に開かれたと言えよう。執権政治を支えてきた合議制は否定され、かわって独裁制が政治の基本となったのである。 時頼の禁令布達 時頼は宝治合戦(三浦氏討滅事件)のあった翌七月、六波羅探題で京都の公家政権の監視と尾張以西の庶政を統轄して十七年間、その重責を担ってきた北条重時を連署として鎌倉に迎えた。時頼はこの重時をもっと早く鎌倉に招請し連署にしようとしていたが三浦氏に拒否され実現できなかったともいわれる。いずれにしても、時頼はこの重時の能力を頼んで、政治・行政・司法の面に亘って、諸改革を精力的に行なうことになるのである。 彼は重時を抜擢した翌八月、まず恒例の贈物(将軍に対する御家人の)行為を全面的に禁止した。この施策を嚆矢(こうし)として、建長二年(1250)十月には博奕・鷹狩の禁止、十二月には御所中の経営に精勤することを奨励、翌年九月には鎌倉中で売られている「沽酒」を一屋一壺制とすること、建長五年〔1253〕九月には関東御家人ならびに鎌倉に居住する人々の過差(かさ)(贅沢)禁止、十月には法家の女房の装束に対する過差の禁止などの布令を出した。翌年十二月には評定衆や大名外の者が出仕、あるいは私用で外出する際、馬に乗って行ったり、供人を伴なうことを禁止したが、その理由は晴儀ではないからというのであった。 時頼の禁令布達はじつに多い。しかもその禁令の対象が庶政の末端まで及んでいるのも歴代執権にはみられない特色である。こうした時頼の一面が、のちの時代になって、吉田兼好などに、母松下禅尼の「倹約の教え」という道徳的な物語へと昇化させるための好材料を提供することになったのであろうか(『徒然草』百八十四段)。 大番役の負担軽減 それはともかくとして、時頼が手がけた数多い制度改革のなかで注目されるのは、京都御所警固の大番役と京都の辻々の夜警役である篝屋(かがりや)役の負担軽減である。 従来まで、この役務の在京期間は「京都大番として、明年より始めて、六箇月を以て、一巡と定め、十二番を結ばれ畢(おわんぬ)。早く一番として、明年正月より六月に至り、在京せらるべき状」(『中世法制史料集』第一巻・文暦元年=1234=正月−原漢文−)となっていた。この六ヵ月間の滞在期間中に費す生活費・旅費等はすべて自費弁償であったのである。遠国から任務に来る御家人にとっては、この役務(えきむ)は大変な過重負担であった。 そのため、御家人等は在地の百姓や土民に対して過重の年貢を押収したりするような責任転嫁がしばしばみられ、在地での相論に拍車のかけることもあった(五味克夫「鎌倉番役制度について」〈『史学雑誌』所収〉)。 時頼は執権就任早々の宝治元年(1247)十二月二十九日に「京都大番事、これを結番す。おのおの面々、三ヶ月を限り在洛警巡いたせしむべきの旨、これを定め下さる」(『吾妻鏡』)と、従来までの六ヵ月の滞在勤務期間を三ヵ月に短縮するという改革を試み、御家人層の負担軽減を策したのである。 この改革案に続いて、京都に近い武士階層の大番役動務の方策を検討しているが、翌年の二月二十五日になって、西国の名主・庄官層の中で、幕府の御家人となりたい者を募り、大番役に勤務させるという、弾力的な適応策をとった。この発案は重時に依ったものかもしれないが、こうした制度改革が当時の弱小御家人層にとって、大きな助けとなったことは事実であろう。しかも、当時の武士社会は相続形態が分割であり、分割によって一族の惣領の実権は漸次薄れて行く過渡期にあたっていて、惣領が一族の大番役課役・課金の徴集もあまりうまく行かなくなりつつあったときである。そうした時期をすばやくとらえて、京都近国の武士階層の登用を考えた点は時宜を得た方策であったといえよう。 撫民政策 次に、撫民政策の展開である。 地頭と名主、百姓との間の相論であるが、この間の争いはたえることがなかった。この件に関して、時頼は地頭による一方的な在地支配に対して抑制策をとっている。 例えば、宝治元年十一月には、地頭が一円に支配できる土地であっても、名主側に異議申立てがあれば、その事件の経過を詮議して是非を決定するよう命じている(『吾妻鏡』)。また降って建長三年(1251)六月にも、その間の相論には特別の奉行人を立てて、事の経過を詳しく尋問し、決定するよう指示を与えている(『吾妻鏡』)。 しかし、こうした在地での問題はそんな簡単に解決をみる性質の問題ではなかった。そこで建長五年(1253)十月には、諸国郡郷庄園の地頭代に対して、十三ヵ条に及ぶ新制を布達し、地頭代らの行うべき規範を提示した。その項目をあげると、
等々である。 条文の内容はいずれもが在地における百姓・土民・奴婢といった階層に対する取締り・処務規定である。その中の二、三例を引いて時頼の撫民政策を見てみることにする。 第六条の「取流土民身代事」では、
と述べ、地頭代が土民・百姓の保護や更生の機会を作るよう努め、吹毛の咎で身代を取流すようなことにはならないよう、柔軟な姿勢で対応するよう命じている。 第八条「土民去留事」では、
ここでは、泰時時代以来の、百姓の去留の自由が再保証されているのであるが、この問題は重大であった。つまり、地頭・地頭代が百姓等に対し、鎌倉幕府の権威を背景に不当な課税・課役を強制した結果、百姓・土民が労働意欲やその労働基盤を欠くような事態にでもなれば、在地での生産面に著しい低下をみることがあまりにもあきらかであるからである。低下した土地での支配者である地頭等がかりにも御家人役を消化できなくなった日には、必然的に幕府の存立にかかわる問題となってはねかえってくるのである。 時頼の保護政策は、この十三ヵ条に充分に反映されているであろう。 かつて、幕府の人々は夏の暑いさかりになると富士山の残雪を鎌倉に取り寄せ、納涼を楽しんだものであるが、時頼は建長三年〔1251〕六月五日、「以無民庶之煩休被止之」とした。つまりその作業や運搬に従事するのはすべて「民庶」であり、そんなことまで命じると、一年中休む暇もなくなるから、これ以降やめるというのである。当時、このことで「善政随一」の評判をとったといわれる(『吾妻鏡』当日条)。 引付職の設置 さて眼を転じて、時頼の、幕府行政の面での問題に触れてみると、執権者がその職務を完遂できるかどうかの鍵は、対外的には政治能力、対内的には行政能カの優劣にかかっているといえる。 幕府創設以来、幕府者の最も頭を痛めてきたことは、所領に関する訴訟事件の頻発とそれに対する裁判の公正・迅速の点であった。つまり御家人層の土地に関する訴訟事件をいかに迅速に裁判し、その裁判がいかに公平に行なわれるか、そこに幕府と御家人との主従関係を左右する鍵があった。かつて、泰時が御成敗式目を制定した、そのねらいとするところはまさに既述の点にあったとも言われるくらいである(渡辺保『鎌倉』)。 幕府ではすでに処理機関として問注所を設置し、訴訟裁判事務を管掌させていた。しかし激発の一途をたどる件数を前に、問注所の能力では充分に効果をあげ得なかった。そのうえ、宝治二年〔1248〕には問注所の役人等が所内で酒宴放遊を行なうという風紀の乱れや欠勤者が続発している状況であった。 このため、建長元年(1249)、これにかわって引付(ひきつけ)を設置し、裁判の迅速・公正化をはかったのである。 その組織は引付頭人(三名)と引付衆(四、五名)、引付奉行人(四、五名)から構成され、頭人等には北条政村〔1205〜73.69歳〕、大仏朝直〔1206〜64.59歳〕、北条資時〔1199〜1251.53歳〕の北条氏一門の者を選んで命じた。 ここでは訴訟取扱と審理の点で専門化された。例えば文書審理だけで済むものは先規どおり決済し、業務の刷新がはかられた。また勤務態勢は午前十時前に来庁し、雑務審理を行ない、その従事した時刻は逐一報告するよう義務づけを行なった。 この裁判機関は、評定会議の下部に属し、三方(局)から構成されていた。ここで審理された文書原案は上部へ回され、判決を下すシステムになっていて、従来の滞りがちな裁判制度の改善がはかられたのである。 鎌倉時代の御家人にとって、生死を争う土地問題がその制度の改善化によって多く歓迎されたことは想像するにあまりあろう。 鎌倉の町づくり 次に、鎌倉の町づくりやその町に居住している人々の日常生活に対する面についてみてみよう。 鎌倉の町(都市)の形成は京都のように整然と計画されてなったのとは事情が違って、自然発生的なものであった。しかも幕府が存在する場所としては狭い土地といえる。 幕府が政治的に安定化するのに応じて、御家人をはじめ下人や商人等が群参して来る。そしてそれに伴ない邸宅、商店、民家が建ち並び、そのうえ鎌倉近在の商人が道に露店を設けたりして、町全体が次第にふくれあがっていった。 ついに寛元三年(1245)四月に、保司奉行から五ヵ条にわたる禁令が出された。その主なことは町の路を狭くしたり、塞ぐような家作をしてはならないとするものであったが、どうも厳守されなかったらしい。そして建長三年(1251)十二月には、商売できる地域を幕府があらがじめ、大町、小町、米町、亀谷辻、和賀江、大倉辻、気和飛坂上の七ヵ所に限定し、商売の終ったあとの清掃を義務づけることにした(『吾妻鏡』)。 庶民政策 また日常生活に関する点としては、建長四年(1252)九月に、沽酒の禁止をし、翌年の十月には、日常使用する炭や薪などの燃料代や馬の飼料代等の沽価(公定価格)を定めている。すでに京都では万物沽価法が制定されたりしていた(『玉葉』治承三年〔1179〕)が、幕府では初めてであった。 鎌倉周辺の藤沢や逗子等の地域の武士ならいざ知らず、遠国の武士らにとって、野菜・魚貝類・調味料・副食品・炊事用具、その他生活品は、先述の露店商人等から買っていたのであろう。これらはすべて自弁であるから、物価の安定は町人たちだけでなく、御家人自身にとって、なによりも強く望むところであった。御家人たちが持ち合せがなくなると、自分の所領から疋夫等が運んで来るのであったが、その疋夫に横領されることもあった(『吾妻鏡』寛元四年〔1246〕十二月二十八日条)。 以上、彼の行政面のことをみてきたのでもあるが、制度改革、都市づくり、庶民生活等に対し、じつに熱心に関心を示している。このことは重時という人物を無視して語れないものであろうが、それにしてもこの注意力と裁断力にはみるべきものがあるといえるだろう。 出家と帰依 時頼の出家 建長八年(1256)、長年幕府政治全般に亘って、時頼の影の存在として、抜群の能力を発揮し執権を補佐してきた北条重時は連署を辞退し、その後出家して観覚と称した。その代替者として、北条政村が抜擢されたのである。 その年の七月、時頼は自分も近いうち出家を遂げる旨を表明した。そのことがあってまもなく、彼は赤班病(麻疹)に罹(かか)った。この伝染病は周辺の人々にまでひろがり、時頼の娘はこれが原因で死去したりした。彼はまもなく平癒したが、十一月には今度、赤痢に罹った。 すでに執権譲位の準備はしていたのであるが、たびかさなる病魔に襲われたことが影響したのか、回復のみられた十一月二十二日になって、北条長時〔1230〜64.35歳〕を第六代執権としたのである。時頼は翌日、最明寺において出家をとげた。当年三十歳であった。戒師は道隆禅師〔蘭溪道隆.1213〜78.66歳〕で、時頼の法名は覚了房道崇と称した。この出家に際しては時頼を慕って、結城家・三浦家・信濃家〔二階堂〕兄弟の人々が同時に出家して、幕府への出仕を止められるという出来事が起こったと伝えられている(『吾妻鏡』)。 隠然たる勢力 時頼は出家後、執権のときのような繁忙さからは解放され、勝長寿院造営や大慈寺供養とか、あるいは将軍宗尊親王〔1242〜74.33歳〕を自邸に招いて、弓・鞠・競馬・相撲などの勝負事や詩歌管絃などの遊宴を催して余生を楽しんでいたふうにみえる。 しかし、現役を隠退したとはいえ、単なる隠居生活とは違った様子が窺われる。 時頼は出家後の、正嘉元年〔1257〕四月十五日、皇太神宮に大般若経一部を奉納した。その経巻に添えて一枚の願文を書いた。その末尾では、
と書き送っている。長い間、患っていた病気平癒と執権譲渡などのことがあった直後に書かれたものであり、その件に関する祈願を主軸とする願文である。しかし文面に示されている「国家擁護」、「民黎富饒」の語は時頼の素念として語われていることから、よくみられるような出家後の淡々とした吐露はそこからうかがえない。 正元元年(1259)一月二十日、幕府内に昼番衆が設置された。この設置背景には、時頼がさるころ、御所に用事があって行ったとき無人であったことがきっかけとなり、昼番を常置するよう指示したことに由来するのである。その番衆とは、歌道・蹴鞠・管絃・右筆・弓馬・郢曲以下、すべて一芸に堪能な者であることが条件であり、選ばれて候補にあがった者のリストを点検して、時頼自ら決めたという(『吾妻鏡』当日条)。 また弘長元年(1261)一月四日のこと、翌月七日に行なわれる八幡宮放生会の供奉の件のことであるが、供奉人の選定は金沢実時〔1224〜76.53歳〕がすでに幕府の引付頭人の責任をもって決定していた。 御家人間では供奉人のメンバーに入っているかいないかということは名誉に関することなので、ことのほか注意をひくことであった。したがって、幕府側責任者としては、御家人の感情を害さないように充分な配慮をして選定するのを通例としていた。 しかし、出家したはずの時頼は慎重に行なった金沢実時の供奉人の選定を勝手に変更してしまったのである。その知らせを聞いた金沢実時は、
ど述べたという。つまり、幕府がいったん決めた決定事項に対し、時頼が簡単に変更を行ない、そのため苦境に立たされることは度々あったというのである。 幕府側では、あわてて調整をしなおしているところから、時頼が出家後も政治を左右する隠然としたカを持ち続け、幕政の上に君臨する象徴的な存在として生きつづけたことは、ほぼまちがいあるまい。『保暦間記』では「出家ノ後モ、凡(おおよそ)世ノ事ヲバ執行(とりおこな)ハレケリ」と伝えている。 さて、時頼の出家後については、『北条九代記』に「二階堂入道只一人を召倶(めしぐ)し、密に鎌倉を忍び出て、貌(かたち)を窶(やつ)して、六十余州を修行し給う事三ヶ年、在々所々の無道残虐を聞出さんが為とかや」とあるごとく、諸国行脚に出たことを伝えており、『太平記』や南北朝時代の作といわれる謡曲『鉢の木』等にも同様の記述がある。また回国の時に泊ったといわれる場所も伝説的に諸々に伝えられており、その折、所領安堵を受けたと伝えられる寺もある。 が、『吾妻鏡』にはいっさい見えず、その真偽は不明である。 信仰への傾斜 弘長三年(1263)八月二十五日、病気に罹った時頼は法印房律師覚乗を自邸に招じ、大般若経を真読させ、彼の回復を祈らせた。しかし病状は悪化の一途をたどり、二十二日の夜、ついに最明寺北亭において死去した。当年三十七歳の若さであった。 時頼は臨終に際して、袈裟を着け、縄の床の上で坐禅を組みながら、いささかの動揺の気もなく往生を遂げたという。そして偈(げ)「業鏡高懸、三十七年、一槌打破、大道坦然」を口で唱え、印を結んで往生するさまは、周辺の人々に大きな感動を与えたという(『吾妻鏡』当日条)。 時頼はその生前、神社・寺院に対する関心が非常に強く、私的な面においても護持僧を置き祈祷をさかんに命じている。 かつて泰時は御成敗式目で「右、神は人の敬いによって威を増し、人は神の徳によって運を添う。しかればすなわち恒例の祭祀陵夷(りょうい)をいたさず、如在の礼奠怠慢せしむることなかれ」(第一条)と説き、「右寺社ことなるといえども崇敬これおなじ。よって修造の功、恒例の勤、よろしく先条に准じて後勘を招くことなかれ」(第二条、『中世法制史料集』第一巻)と御家人たちに説いていた。時頼はその条文に説かれている寺社保護に関しては、じつによく遵行している。 時頼が実際手がけた寺社保護に関する主なものをリストアップすると、
そのほか供養・修理・供祭料・灯油料の催促、保護を頻繁に行なっている。 また寛元四年〔1246〕九月には、大納言法印隆弁〔1208〜83.76歳〕を京都から招請し護持僧とした。翌年八月には鶴岡八幡宮の別当に補任し、公私に亘る諸事の加持祈祷を修させている。 時頼のこうした事例は歴代執権のなかでも目立って多く、そのことを捉えて宗教的雰囲気を好む天性として評価することができよう。 しかし、二十歳で執権に就任した彼が二つの大きな政治事件を体験し、またその後は地頭・守護、御家人の管理、行政運営、庶政一般の運営・管理等々の山積される問題の多さと、そのうえ飢饉、疫病の発生とその解決等が彼を苦悩に落し入れていた。それらの問題を前にして、彼は全精力を使って、問題解決のために努力していた。すでに見たように、伊勢神宮への願文にも「国家擁護と民黎富饒」を強く望んでいたことからも、彼が宗教を欲する前提としてはまず政治・経済の安定であった。そして飢饉・疫病の発生を防ぎたかったのである。宗教を欲する前提に対し、時頼が目に見える努力もなしに、単純に神社・寺院の保護をしたとなれば、いかにも宗教を好む天性の持主として評価されてもいたしかたないということである。しかし、政治家として、幕府の恒久的な安穏と民政の安定を祈る気持が強いのに応じて神社・仏閣の保護を渙発させたといえよう。時頼は泰時が説いた「神は人の敬いによって威を増し、人は神の徳によって運を添う」という信仰を政治家として遵守したにすぎないといえよう。 時頼と禅宗 ところで、時頼と宗教のかかわりのなかで見逃すことのできないのは、新しく日本に入ってきた禅宗との関係である。 時頼の時代にはかなり盛んな貿易が行なわれており、その貿易船(唐船)は単純に品物だけの輪出入だけでなく、人的な文化交流を兼ねていた。この船をとおして、当時の南宋に流布していた禅宗文化が本格的に日本に入り始めてきたのである。 寛元四年〔1246〕、南宋の禅僧である蘭渓道隆〔1213〜78.66歳〕がまず来日し、純粋な禅宗を伝えるのである。道隆は貿易船に乗って、太宰府に到着し、京都の泉涌寺の来迎院に寓居した。時頼は翌年、道隆を大船の常楽寺に招き、執権就任時の激務の暇を縫って道隆を訪ねたという。したがって、時頼は二十一歳の時には南宋禅に触れる機会を持ったのである(『元亨釈書』)。 そして建長三年〔1251〕十一月に、山内荘の巨福山に建長寺を建立し始め、建長五年〔1253〕十一月完成した(『吾妻鏡』当日条)。開山道隆をそこに住まわせると同時に、関東の諸方面から聴聞に来る学徒の師としたのである。 道隆の来日以後、南宋の禅僧が多く来日した背景には北方のモンゴル民族の宋国侵入が相続き、僧侶・寺院への弾圧の激しかったことに由来する。 文応元年(1260)には兀庵普寧(ごったんふねい)〔1197〜1276.80歳〕が来日した。普寧は道隆の宋での旧友であった(『元亨釈書』)ともいわれ、その関係から鎌倉に招ばれ、時頼との関係が生ずるのである。時頼は道隆・普寧を迎え、政治の暇を見ては、問答をしに行ったという。 普寧は形式や固定観念をしりぞけ、自己本来の面目にたちかえることを説いた。例えば建長寺の日仏殿に安置している本尊地蔵菩薩は自分より下位にあるとして一喝し、菩薩は壇を下りて自分を礼拝すべきであると言ったという話は有名であり、また時頼が普寧を知る以前に、夢想したところの絵像が普寧の相貌と似ているというので普寧に見せたころ、夢を説くなかれと一喝されたという。 一見、型破りな普寧に接したほか、建長六年(1254)に円爾〔1202〜80.79歳〕に会い、また極楽寺の忍性〔1217〜1303.87歳〕、西大寺の叡尊〔1201〜90.90歳〕などの名僧と接し、修養に務めた。 時頼が個人の修養上の問題としては、南宋から来日した道隆などの禅僧を通じて、参禅に精進しているのが顕著である。そして臨終に際しての禅宗からの強い影響を受けた往生の仕方は逆に遠く南宋まで伝わり、やがてそれを伝え聞いた無学祖元〔1226〜86.61歳〕の来日を誘発することになった。 |
| ☆時頼の時代の政治史的位置づけについてはこちら(村井章介氏「執権政治の変質」)。 ☆時頼が鶴岡八幡宮寺別当に補任した隆弁(1208〜1283)は四条家の人で、後深草院二条の祖父四条隆親(1203〜1279.77歳)の叔父にあたる。隆弁は『徒然草』第216段に時頼とともに登場する。隆弁について、詳しくはこちら(貫達人氏「隆弁」)、またはこちら(湯山学氏「隆弁とその門流」)。四条家系図はこちら。 |
