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秋山喜代子 「乳父について」
(『史学雑誌』99編第7号.平成2年)





秋山喜代子氏の略歴
1964年生
放送大学非常勤講師

※『中世の空間を読む』(五味文彦編.吉川弘文館.平成7年)執筆者紹介より



※この論文は「はじめに」「第一章 乳父の存在形態」「第二章 天皇の乳父」「第三章 鎌倉期における変化」「おわりに」から構成されていますが、ここでは第三章の途中までを引用します。
※乳父についての先行研究の一例はこちら。(橋本義彦氏「乳父管見」)


第三章 鎌倉期における変化


 天皇家では元来中級貴族が乳父、乳母にあてられていた。但し、皇子女の外戚が権勢家であれば乳父はその家司やミウチであることが多く、落胤や皇位継承が期待できない皇子であれば院近臣であることが多いといった相違はある(84)。 だがいずれにしろ家格の点では中級貴族である。

 尤も乳父は「執事」であるので、中級貴族の、しかも公卿になる以前の四位や五位の者がなるのはむしろ当然と言わねばならない。特に勧修寺流諸家などの実務官の家から輩出したが、それは勧修寺の流れに位置する葉室定嗣〔1208〜72.65歳〕が、乳父となるのは「一門代々例也」(85)と述べているのに徴される。摂関家の乳父もまたこれらの家から多く出たが、こうしたことは代々摂関家、天皇家に近習奉仕し、家司、蔵人、院司などとなってその家政、雑事を奉行する彼ら実務官僚が「執事」たる乳父に最も相応しかったことをよく示している。また末茂流などの有力な院近臣の富裕な家にも乳父が少なからずみられるが、これは彼らの豊かな財力による経済的奉仕が期待されていたからに他ならないだろう(86)。

 そして東宮の乳父ならば、「執事」という役割から、また家格、位階に応じて東宮亮や大進などに補されることが多かったのだが、そうした東宮の場合に乳父のあり方の変化が最も早くかつ明瞭にあらわれることになる。それがストレートに表出するのは東宮職である。 表3を参照すれば順徳〔1197〜1242.46歳〕の皇嗣である懐成(仲恭天皇)〔1218〜34.17歳〕以降、乳父が東宮内の責任者である大夫や、その上に位置し東宮補佐の臣として極めて名誉な傅に任じられているのが知られよう。そこで懐成の乳父西園寺公経〔1171〜1244.74歳〕に注目したい。

 公経が乳父となったのは異例ずくめであると言わねばならない。まず西園寺家は家格で言えば清華、すなわち上級貴族である点である。これ以降、上級貴族が代々の皇嗣の乳父となっていくので画期的と言ってよい。このとき彼の娘が乳母となったが、まさに前掲の『禁秘抄』にみられる「近代」の「左道」の「花族御乳母」に相当する。しかも通例では乳母は二、三人付置されるのだが、懐成の乳母は公経女ただ一人であった(87)。この点もかなり異例である。また公経が懐成の外戚(叔父)九条道家〔1193〜1252.60歳〕の舅である点も先例に違う。これ以前の摂関家を外戚とする皇子女の乳父は、例えば九条兼実〔1149〜1207.59歳〕の外孫昇子春華門院.1195〜1211.17歳〕の乳父が兼実側近の家司藤原宗頼〔1154〜1203.50歳〕であったごとく、摂関家の家司がなるのが普通であった(88)。そうした慣例を破って家司ではなくミウチの有力者があてられたのである。では何故公経が乳父となったのだろうか。

 周知のごとく公経は道家の後盾であった。道家は父良経〔1169〜1206.38歳〕と祖父兼実を相次いで亡くし、若年にして保護者を失ってしまう。そこで彼の後援を引き受けたのが母方の叔母(一条能保女)を妻にする公経であり、道家は祖父兼実の喪が明けると公経の婿となってその一条室町殿に入ったのである(89)。

 公経は政治的にも経済的にも道家を熱心に援助し引き立てている。例えば建暦二年(一二一二)六月、道家が内大臣に就任したのは、兼実の弟で院の護持僧慈円〔1155〜1225.71歳〕と公経が、後鳥羽院〔1180〜1239.60歳〕卿二位〔1155〜1229.75歳〕に運動した結果である(90)。建暦元年十月、道家の一条室町殿(東殿)に順徳天皇が方違した際も全く公経の沙汰で修理が加えられている(91)。

 このように公経が道家の強力な後見者たりえたのは、彼が院の側近の一人で既に朝廷内で重要な位置にあったからに他ならない。公経と言えば従来関東申次という側面ばかりが重視されてきたが、後鳥羽の若年の頃からの近習であった点も忘れてはならない。(そうであったからこそ申次となったのである。) 彼は京都守護一条能保〔1147〜97.51歳〕の婿となることによって関東と強縁を結んだのだが、能保もまた後鳥羽の乳父としてその側近くに位置付けられていた(92)。公経も能保の縁で後鳥羽の近習に加えられたのである(93)。この点に関しては『愚管抄』巻第六にも「此公経院ノ近習奉公年ゴロニモナリシカバ」とみえる。従って後鳥羽の仰せや政治上の重要事が公経経由で道家の許にもたらされることは多く(94)、道家もまた院への伝達を公経にしばしば依頼している(95)。公経は院と若年の道家とを繋ぐ存在であったと言えるだろう。

 また公経は道家の姉立子東一条院.1192〜1247.56歳〕順徳〔1197〜1242.46歳〕の中宮になるとその大夫に補されているので、立子の後援者でもあったとみられる。その立子が皇子を出産することは、天皇の外戚となるのを理想とする道家のみなず(96)、彼らの後見者たる公経にとっても大願であったに違いない。そして建保六年(一二一八)十月、立子が道家の一条室町殿で恙なく懐成を出産すると公経が乳父に据えられたのである。以上にみた経緯からも彼が懐成の「執事」としてではなく、後見者として付置されたことは明らかであるが、果たして彼は後見者に相応しい官職に任じられていく。同年十一月の立親王で勅別当に、その直後の立坊で東宮大夫になったのだが、承久二年(一二二〇)正月には大夫を去り、代りに嫡男実氏〔1194〜1269.76歳〕を権大夫に申任して東宮内への足場を維持している(97)。

 尤も経済的負担は相当課せられている。『玉蘂』承久二年十月五日条には懐成の著袴の儀に際し、公経が乳父として祈りの用途や女房装束料を負担していることがみえるが、それは公経独りでは賄いきれず成功に頼らざるを得なかった程莫大であった。この他にも魚味の儀の祈りの用途(98)、懐成の病気の際の祈りの用途(99)などがみられ、公経の負但は随分大きかったと推測される。

 これらから「扶持」者という側面に変化はないことがわかる。しかしもはや従来のごとく雑事をとりしきり近習奉仕する「執事」ではあリえなくなったのであり、皇嗣の後見者と化してしまったのである(100)。既述の通り本来乳父には後見者的側面があったのだが、そうした役割が強調されてくると言えるだろう。

 かかる乳父のあり方の変化に伴って、皇嗣の場合に限定されるのだが、その数が増加した。仲恭天皇までは一人であったが、その次の皇嗣、四条天皇〔1231〜42.12歳〕以降二、三人となったのである(表1を参照)。しかも重臣や院の寵臣が揃っている。但し彼らが皆、公経と同様「執事」的な要素が欠落した全くの後見者かといえばそうとも言えない。上級貴族であるか中級貴族であるかによって役割も微妙に違うようである。この点を四条天皇(秀仁)の乳父の場合で簡単にみることにしよう。

 寛喜三年(一二三一)二月十二日、秀仁が誕生すると『明月記』二月二十九日条に三人の乳父が定められたとある。これより先、二十日条によると「内々沙汰」(おそらく外戚九条道家の意向)で西園寺実氏(道家の舅公経の嫡男)が、また後堀河天皇〔1212〜34.23歳〕の強い希望でその近臣(101)大炊御門家嗣(後堀河の乳母成子の婿)〔1197〜1271.75歳〕が推挙されており彼らが有力候補と見做されていたのだが、この二人に四条隆親〔1203〜79.77歳〕が加えられて決定した。隆親は後堀河の近臣で(102)、この直前、正月二十九日に道家の次男良実1216〜70.55歳〕を「婿」(103)(姉妹灑子の夫)にとった人物である(104)。

 さて、秀仁の立坊と同時に実氏(105)は東宮傅に、家嗣(106)は大夫に任じられたので、上級貴族である彼らは公経の系譜を引く全くの後見者化した乳父であるとみられる。一方、中級貴族の隆親には元来の「執事」的側面が色濃く残っている。それは通過儀礼における降親の経済的負担が他の二人よりも断然多いこと(107)、本来乳父、乳母の課役であることの多い装束(108)を隆親のみがしばしば献じていること(109)などに窺える。彼は東宮職に補されなかったけれども東宮に近侍しており(110)、むろん即位後も近習であった。例えば利子内親王式乾門院.1197〜1251.55歳〕が四条天皇の准母となって入内した天福元年(一二三三)四月十七日の『民経記』には「斎宮(利子)入御遅々之間、幼主(四条)令寝給、凡驚給之間及遅々、御乳母四條中納言(隆親)参入奉抱、為奉驚也」とあり、寝てしまった幼い天皇を乳父隆親が抱いて起こしたというのだが、このことは彼の近習奉仕の様子をよく示している。また四条天皇は方違いなどで隆親の冷泉万里小路殿へ行幸しているが(111)、特に嘉禎三年(一二三七)秋、閑院内裏の修理のために隆親邸に渡った時は翌年二月まで逗留している(112)。

 尤も隆親は乳父となった時点で既に公卿−参議であり、これ以前の場合はまだ四位や五位の頃乳父となったので、従来とは一線を画するものがある。「執事」としての性格の強い中級貴族の乳父もまた後見者的側面を強めているのである。

 以上にみた通り、皇嗣の乳父の変化は著しいのだが、但し皇嗣以外の皇子女にあっては依然として中級貴族が多く、人数的にもほぼ一人である(113)。しかし前掲の後嵯峨天皇の乳父源通方中院.1189〜1238.50歳〕のように中には上級貴族もみられるので、皇嗣の場合と同様、地位が上昇し後見者的立場が強められていると考えられる。

 このような変化と併行して、乳父は乳母よりも重視されてくる。以前は、言わば乳母の影に隠れた存在であった乳父が、乳母に代って表舞台に立つようになるのである。

(以下、略)



84 拙稿(「皇子女の養育と「めのと」−鎌倉前半期を中心に−」〈『遙かなる中世』10.1989年〉)を参照。
85 前註61史料。(→61『葉黄記』宝治二年〔1248〕九月二十九日条。但し定嗣は後嵯峨院が乳父となるよう説得したにも拘らず辞退してしまった。)
86 四条家に関しては後註104、112を参照。
87 『玉蘂』承久二年〔1220〕四月六日、十六日条。
88 拙稿を参照。
89 『明月記』承元二年〔1208〕四月二十一日、二十五日条。
90 『玉蘂』建暦元年〔1211〕九月四日、同二年六月四日、五日、十七日、十九日、二十日条。
91 『玉蘂』建暦元年九月二十八日、十月四日、五日条。
92 『玉葉』文治三年〔1187〕八月三日、同四年二月四日、五日、同五年十月十二日条などを参照。また『愚管抄』巻第六に「能保卿ハ、中納言、別当ナドニ成テ、終ニ病ヲモクテ出家シテ、ヨクナリテ、内ナドヘ参シカドモ」とあるのも参考となろう。なお嫡男高能も後鳥羽の若年の頃からの近習であった。
93 『禁秘抄』「近習事」「被聴台盤所之人」、『三長記』建久七年〔1196〕十二月二十六日条。
94 『玉蘂』建暦元年〔1211〕八月十九日、二十日、同二年十二月二日、承久二年〔1220〕三月五日条など。
95 『玉蘂』承元五年〔1211〕三月二日、建暦元年七月二日、三日条など。
96 本郷和人氏「鎌倉時代の朝廷訴訟に関する一考察」(石井進氏編『中世の人と政治』所収)二一三頁を参照。
97 『公卿補任』、『常磐井相国記』承久二年〔1220〕正月二十日条。
98 『玉蘂』承久二年三月十二日、二十九日、四月六日条。
99 『玉蘂』承久二年五月十三日条。
100 懐成が公経邸に赴いていることや(『玉蘂』承久二年四月二十六日条など)、『玉蘂』承久二年三月一日条が参考となる。
101 『民経記』寛喜三年〔1231〕四月十七日条、十一月一日条など。後堀河〔1212〜34.23歳〕の乳父実宣が死去(安貞二年十一月)したのち宗子と結婚し、それによって後堀河・北白河院周辺に接近した人物である。
102 『明月記』寛喜三年三月二十二日条など。
103 『明月記』寛喜三年二月一日条。

104
 平安末以来院近臣が輩出し、諸大夫から羽林のコースにのった四条家からは乳母、乳父が多く出たので隆親に関しては若干の補説を付すことにする。

 父隆衡〔1172〜1254.83歳〕は、後鳥羽の外戚として勢威を振った坊門信清〔1159〜1216.58歳〕の婿であったことも手伝って、後鳥羽の近臣となり、承久の乱以前はその年預であった。(建保三年後鳥羽上皇逆修進物注文「伏見宮記録」『鎌倉遺文』二一六二。なお隆衡は土御門〔1195〜1231.37歳〕 の乳父子でもありその近臣に位置付けられていた。) 嫡男降親も早くから後鳥羽に接近し、院御給で正五位下、従四位上に叙されたのだが、興味深いのは彼が承久の乱の最中、後鳥羽の比叡山御幸に武装して供奉したことである(『吾妻鏡』承久三年六月八日条)。ちなみにその時同行したのは、源通光〔1187〜1248.62歳〕、藤原定輔〔1163〜1227.65歳〕、親兼〔1195〜1231.37歳〕の兄弟、親兼の息子信成、尊長という院近臣ばかりであったが、承久の乱の張本の一人と見做された尊長は別としても、隆親以外は皆乱直後の七月二十日に恐懼に処された(『公卿補任』)。あまつさえ親兼、信成は六波羅に拘禁され、その際親兼は出家してしまった(同上)。通光もその後ずっと籠居し、安貞二年になってようやく出仕している(同上)。隆親一人何の処分もうけず、乱後も順調に昇進したのである。彼が処分を免れ得たのは姉貞子〔1196〜1302.107歳〕が幕府と親密な西園寺実氏〔1194〜1269.76歳〕の妻であったことによるのかもしれない。(但し貞子所生の長女※子が嘉禄元年〔1225〕か二年の誕生であるので〈『女院次第』『五代帝王物語』『平戸記』仁治三年六月三日条など〉この婚姻が乱以前に成立していたかどうかには疑問が残る。)
※女へんに吉

 それはさておき、四条家は乱後急速に北白河院(後堀河の母)〔1173〜1238.66歳〕に近づいたらしく、北白河院が貞応元年〔1222〕四月従三位となると、隆衡がその勅別当となっている。そして元仁二年〔1225〕正月、丹後国を拝領して北白河院御所持明院殿の造営に着手したのだが、それが成った翌年八月、隆親は勧賞で三人を超越して正三位に叙されている(『明月記』元仁二年正月十三日、嘉禄二年〔1226〕八月四日、五日条)。 こののち隆親が北白河院の執事別当とみえることからすれば(同上寛喜二年〔1230〕八月二十三日、同三年三月二十二日条など)、院号宣下時にまず隆衡が執事別当となリ、嘉禄三年九月に隆衡が出家した後隆親が跡を継いだのだろう。いずれにしろ四条家が側近中の側近として北白河院中をとりしきっていたとみられる(同上寛喜元年十二月十四日条を参照)。

 こうした国母との親密な関係によって、隆親は後堀河〔1212〜34.23歳〕の有力な近臣となった。それは後堀河が隆親邸へしばしば方違していることや(同上寛喜二年〔1230〕四月十七日、『民経記』同四年二月十九日条)、人事に関わることで後堀河への取り次ぎを依頼されている(『民経記』貞永元年〔1232〕四月十一日、九月二十八日条)のによく示されている。

 以上にみた天皇家の近臣としての活躍は、四条家が大層富裕であったことと無関係ではない。その富威は隆衡、隆親らの天王寺参詣が女房二十人、侍二十人、侍従三百人を引き連れ、「諸人属目歟」という華やかさであったと記す『民経紀』嘉禄二年〔1236〕九月十九日条に明瞭にあらわれている。かかる豊かな財力による奉仕が見込まれて負担の重い院の年預や乳父に何度もあてられたのだろう。(既述のごとく隆衡は後鳥羽院の年預であったが、隆親も後堀河の譲位と同時に年預となリ〈『民経記』貞永元年〔1232〕十月四日条〉、隆親の一男房名〔1229〜88.60歳〕も後嵯峨の退位時に年預〈但し実質上は隆親〉となった〈『陽龍記』寛元四年〔1246〕正月二十九日条〉。四条家が引き続いて任じられているのに留意すべきである。)

105 乳父となった直後内大臣に就任し(嘉禎元年〔1235〕に右大臣)、翌年二月には父公経〔1171〜1244.74歳〕出家の跡をうけて後院別当となり天皇の直領を管領する立場になったが(四条在位中も後院別当である)、更に後堀河の退位と同時にその執事別当となった(『民経記』貞永元年〔1232〕十月四日条)。 実氏が四条に近侍していたことは天福二年〔1234〕八月十一日の後堀河の葬送に関わる『明月記』十二日条に「内府(実氏)依内御乳母(四条)、夜前不被供奉」とあるのに端的に示されている。実氏が天皇の乳父であるが故に葬儀の列に加わらなかったというのだが、源有資や藤原実清が「雖所望常候内之輩也」であるので供奉を許されなかったとみえるから(同十一日条)、実氏も乳父として四条に伺候する都合上供奉しなかったということがわかる。
106 四条の即位後坊官賞で右大将となリ嘉禎四年〔1238〕、権大納言から一足飛びに内大臣となった。家嗣が四条の近習であったことは、装束を着す際にしばしば奉仕しているのに明らかである(『玉蘂』嘉禎三年三月十九日、同四年三月二十八日条など。なお隆親も同様)。また四条の葬礼の奉行人であった(『四条院御葬礼記』)。
107 『民経記』寛喜三年〔1231〕四月九日条。立坊後は東宮職にある実氏や家嗣には当然その職にあてられた課役があるのだが、そうではない隆親にも乳父として負担が課せられている点も注意すべきである(魚味の儀『民経記』寛喜三年閏九月二十七日条)。
108 『山槐記』治承三年〔1179〕正月六日、建久二年〔1191〕十二月二十六日条(『親王御元服部類記』所引)など。そのほか源有長が入手して荘号を申し立て九条道家〔1193〜1252.60歳〕の所領とした讃岐国託間荘の年貢は、有長が道家女仁子(近衛兼経妻)の乳父なので仁子の装束料にあてられていたことや(石田祐一氏「諸大夫と摂関家」三一頁、『日本歴史』三九二、一九八一年)、足利義満〔1358〜1408.51歳〕の養育者伊勢貞継が御服所を管轄していたこと(例えば応安元年〔1368〕の義満元服の際の装束を沙汰している)などが参考となる。 また東宮懐成の御服所は東宮亮藤原資頼邸にあった(『玉蘂』承久二年〔1220〕三月十五日条)。資頼は乳父ではなかったが、乳父が亮、大進になることが少なくなかった点に鑑みれば、このことからも乳父と御服所、装束料との密接な関わりが推測されよう。
109 『民経記』貞永元年〔1232〕十月四日、天福元年〔1233〕四月十七日条。
110 『民経記』貞永元年二月四日、五月二十八日、八月十一日、十二 日条など。
111 『明月記』嘉禎元年〔1235〕十二月二十日条。

112
 『百練抄』嘉禎四年〔1238〕二月十一日条。しかしこの直後の閏二月、隆親は「禁中狼籍事行不調事等之故」突然権大納言に任じられる代わリに近習を放逐されてしまった(『玉蘂』閏二月十五日条)。すなわち乳父をやめさせられてしまった訳である。こののち四条天皇〔1231〜42.12歳〕生存中は殆ど朝廷の表舞台に登場しなくなるのだが、仁治三年〔1242〕正月、四条が急死し後嵯峨天皇〔1220〜72.53歳〕が推戴されるとその近臣として再浮上した。しかも妻能子(足利義氏1189〜1254.66歳〕女)は後嵯峨の乳母と称されている。この点に関して深く言及することは避けるが、とりわけ注目されるのは四条が死去した閑院内裏に替って彼の冷泉万里小路殿が新内裏となったことである。それは幕府の使者が上洛する以前に内定していたようなので(『平戸記』仁治三年正月二十日条)、一早く彼が後嵯峨の許に参じたことがわかる。その後は後嵯峨の皇嗣久仁(後深草〔1243〜1304.62歳〕)の乳父となリ(久仁の母※子は隆親の姪)、建長二年〔1250〕には家格を破って大納言に進み、また院の評定衆に加えられ、更に後深草院の執事別当となった(『民経記』正元元年〔1259〕十一月二十四日条)。かくして『とはずがたり』の著者二条〔1258〜?〕の外祖父として知られる隆親は、『正元二年院落書』に「四条権威アリアマリ」と書かれるに至るのである。

113 例えば後嵯峨院皇女の乳父四条隆行〔1224〜85.62歳〕(『増鏡』第十、老のなみ)。






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