更新10.12/23
(※初版は1974年)

| 網野善彦氏の略歴(『朝日人物辞典』より) |
| (1928〜)日本史学者。山梨県生まれ。1950(昭25)年東大国史学科卒。学生運動に参加し,国民的歴史学運動で活躍。運動の退潮後は,中世民衆の生き方を根底からとらえ直すため荘園中心の史料の世界に沈潜,『中世荘園の様相』(66年)などを著す。他方,日本常民文化研究所勤務が機縁で民俗分野へも関心を深め,従来の歴史学が軽視してきた海民・職人ら非農業民に着目。この学問上の転換は後に『日本中世の非農業民と天皇』(84年)に収録される中世天皇の支配基整の再検討の仕事や,中世の自由と平等の問題を階級闘争とは異質の観点から考察した『無縁・公界・楽』(78年)に集約されるが,それは同時に高度経済成長の終焉という現代史の岐路での歴史学の見直しをも意味した。 その後,阿部謹也との対談『中世の再発見』(82年)が示すように,日本史以外の歴史・人類学者とともに普遍史と日本史とのかかわりを考え,あるいは日本常民文化研究所の再建に尽力し,『列島の文化史』などで坪井洋文ら民俗学者と協働するなど多面的に活動。『東と西の語る日本の歴史』(82年)で東国と西国の文化的差異を強調して民族史的次元の歴史学を提唱し,『異形の王権』(86年)では後醍醐天皇論から人類学的王権論に接近するなど,その多彩な業績は,政治・経済史から日常的・構造的な社会事象への現在の歴史学の比重の変化を結果的に代表するものでもある。80年より神奈川大短大部教授。(山本幸司) |
| 網野善彦氏の見解 | 私の考え方 |
宮廷の左義長 正月一五日は小正月、いまでも民間でさまざまな行事が行なわれる日である。甲信地方では道祖神祭がこの日に行われる。ドンド焼といって、さまざまなものを焼くのである。宮廷でも清涼殿(せいりょうでん)の東庭に青竹をたばねて立て、毬杖(ぎっちょう)三個をむすび、短冊や天皇の吉書を焼くのが古くからの年中行事であり、これを左義長(さぎちょう)といった。この日小豆粥(あずきがゆ)を食べる風習はいまものこっているが、その炊事に用いた薪(たきぎ)で女の腰を打ちあい、男子誕生を祈ることも行なわれた。粥杖(かゆづえ)打ちという。 |
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| この年(文永一二年)、後深草の御所での粥杖打ちはたいへんにぎやかであった。上皇自身が近習(きんじゅ)の男を召しあつめ、逃げる女房たちを追いかけ、打ってまわる。これをくやしく思った二条をはじめとする女房たちは、一八日、こんどは上皇を待ち伏せして、さんざんに打ちすえた。 |
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| 「あやまった」といった上皇はさらに悪ふざけをはじめ、タ方の食事のとき、公卿たちにこのことを話して恨みごとをいい、とうとう、二条が発頭人(ほっとうにん)として罪のつぐないをさせられることになった。二条の後見人や近親たちは、みなぎょうさんな贈物をつぐないとして、上皇や公卿にとどける。二条の外祖父四条隆親(たかちか)は上皇へは直衣(のうし)、楓(かえで)の小袖(こそで)一〇、太刀一振(ひとふり)を、公卿たちには太刀一振ずつ、女房たちには檀紙(だんし)一○○帖というたくさんなものをさしだし、西園寺実兼もたいへんな贈物をする。そしてこのことをいいだした上皇自身もまた、二条の父がわりなのだから、ということになり、自分の放言を自分でつぐなわなければならぬはめにおちいってしまった。いたずらの発頭人、一八歳の二条はおかしくてたまらなかったと記している。 |
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| 祈祷のかげで しかしこのような、はなやかなにぎわしさの裏には、人々のさまざまな情念が渦を巻いていた。二条は久我雅忠の娘。二条の幼いころに死んだ母の大納言典侍(だいなごんないしのすけ)は、幼少の後深草に新枕(にいまくら)を教えたといわれ、二条を通じて、この典侍のおもかげを追いもとめたのか、上皇は二条の一四歳のとき以来、彼女を「あこ」とよび、溺愛したのである。それは中宮東二条院公子のはげしい嫉妬をかきたてるほど、異常なものがあり、二条は上皇の皇子(二歳で夭折)まで生んだ。 |
| こうした寵愛をうけて上皇と深くむすぱれながら、二条は権勢ある関東申次(もうしつぎ)、西園寺家の当主実兼の愛にもこたえ、皇子出産後、ただちに実兼の子をみごもっている(文永一○年)。この実兼との交渉はすべて上皇にかくれて行なわれた。二条が女子を出産すると、実兼はすぐにその子を、死産に終わった正妻の子とすりかえ、上皇には二条流産と報告させて、いっさいを密のうちに葬ってしまう。この女子は、成長して、伏見天皇の妃永福門院(えいふくもんいん)か、あるいは亀山法皇の妃昭訓門院(しょうくんもんいん)になった人であろうという。 |
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| そうした二条のまえに、この年、第三の男性があらわれた。例年ならば六条殿にある長講堂で行なわれる後白河院国忌(こき)の法華八講は、一昨年、六条殿が焼けたので正親町(おおぎまち)の長講堂で行なわれたが、その法会(ほうえ)に参じた高貴の僧から、二条はひたむきな愛をうち明けられる。その僧は後深草の異母弟、仁和寺御室(おむろ)の性助(しょうじょ)法親王であった。 | |
| 八月、上皇は病にかかり、延命供(えんみょうく)の祈祷に性助が参院してきた。それまでも、何度か情のこもる手紙を二条のもとによこしていた性助に対し、迷惑に思いつつも、二条の心も動いてはいた。しかしこの祈祷のとき、上皇の用事で聴聞所(ちょうもんどころ)に行った二条は、ただ一人そこにいる性助に出会い、道場の側の局(つぼね)にみちびかれ、とつぜん性助に手をとられる。「仏のお心の中も恥ずかしいこと」というのもおよばず、二条はそこで性助と、あわただしいときをすごすことになってしまった。それからのち、性助の想いはつのる一方、「悪道に墜(お)ちるのは覚悟のうえ」とまでいって、激情を訴え、はなれようとする二条に、はげしい恨みを述べてくる。しばらくのち(弘安四年)、このことを知った後深草は、ふしぎにも二人のあいだを仲立ちし、後深草の公認のもとで、性助と二条との交渉はつづいたのであった。 上皇、高位の公卿、御室の法親王と女房二条との、このさまざまな交渉は、二条の作品『とはずがたり』のなかにえがかれている。 |
| 両統対立の萌芽 男女のこうした葛藤もからみつつ、宮廷のなかには、このころ深刻な政治上のもつれが生まれようとしていた。後嵯峨法皇の死後、後深草上皇と亀山天皇とのあいだに、しだいに溝が深まりつつあったのである。 それはすでに後嵯峨在世中からきざしていた。後嵯峨は、後深草が幼少から虚弱であり、性格的にも陰湿なところがあったのに対し、健康で闊達な皇子恒仁(つねひと)を早くから愛していたという。恒仁が亀山天皇として即位して以後、すでに出生している後深草の皇子をさしおき、文永五年(1268)、わずか二歳の亀山の皇子世仁(よひと)を立太子させたことに、その意思は露骨にあらわれているといってよい。 |
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| しかし崩ずるにあたって、後嵯峨は自己の遺志の明言を避けた。所領について、後深草・亀山への配分を処分状でしめしたのみで、「治天の君」については白紙のまま世を去ったのである。「治天下」の実権をにぎるのが上皇か、天皇かは、まったく幕府の決定にゆだねられた。これは承久の乱後、後嵯峨自身の即位にあたり、幕府が駆使した権限であり、後嵯峨はみずからのときの例にならったのである。 |
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| だが、二月騒動の直後の収拾に追われる幕府は、それを決定するのを避け、後深草・亀山の生母大宮院(きつ)子に、後嵯峨の遺志を聞き、それに従う態度をとった。大宮院の答えは亀山であった。かくて亀山天皇の親政が実現、やがて皇太子世仁は文永十一年、八歳で即位して後宇多天皇となり、亀山院政がひらかれたのであった。 |
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| それは天皇家の周辺にも大きな波紋をひろげた。関東申次として天皇家の外戚となって権勢をふるっていた西園寺家は、公経(きんつね)のあと、実氏(さねうじ)と洞院実雄(とういんさねお)の二流にわかれ、実氏流が関東申次の地位をたもっていた。しかし実氏の子公相(きんすけ)が早世したのに対し、実雄の娘※子(亀山皇后・京極院)の生んだ皇子世仁が皇太子に立つにおよんで、実雄の力は強く、年若な実氏の孫実兼は、関東申次の地位にありながら、実雄に圧倒されぎみであった。こうした実雄との対抗上、西園寺実兼は後深草上皇に接近し、とくに実雄が文永一○年に没するや、後深草をもり立てて、その権勢を張ろうと画策していた。二条はそうした後深草と実兼とのあいだに介在していたのであった。 |
※にんべんに「吉」. |
| しかし後深草にとって、前年(文永十一年)の後宇多即位は、決定的な事態のように思われた。皇位が完全に亀山流に継承されていく可能性は、これできわめて強くなったことはまちがいない。この年のはじめの、にぎやかな粥杖打ちの騒ぎのかげには、こうしたどうにもならぬ上皇のむなしさが隠されていたのであった。そして四月、上皇はついに尊号・随身・兵杖(ひょうじょう)を辞して、出家する意志を固めた。何人かの身近なものに出家の伴が命ぜられ、二条もまたそのうちにあった。しかし幕府はこれをしきりになだめ、両上皇の仲をとりもとうとしたので、後深草も思いとどまり、九月、仲なおりのために、亀山が後深草の御所富小路殿を訪れることとなった。二条もその席に侍っていたが、両上皇はたがいにうちとけて、酒宴や鞠(まり)などに一日をすごし、亀山は灯をともすころに帰った。ところがその翌日、二条のもとに亀山の使いが来り、想いを伝えてくる。そしてそれはこののちもたびたび重なったのである。 |
| やがて十一月、おそらくは実兼の運動が効を奏したのであろう。後深草の皇子煕仁(ひろひと)が皇太子に立つこととなり、後深草の前には、ふたたび大きな希望がひらけてきた。後深草と亀山は、その後も表面、兄弟仲むつまじく、たがいに訪問しあってはいるが、心中の溝がしだいに深まっていくのを、おさえることはできなかった。 |
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| 建治元年(一二七五)の日本は、このようなさまざまな動きにいろどられつつ暮れていく。元軍再襲にそなえてあわただしく動く幕府、必死で恩賞をもとめる武士、寺社での祈祷、叡尊・日蓮・一遍などの思想家たちの動き、そこにわれわれははげしく動く時代をじかにみることができる。そして紀伊国の有田川の谷々での、百姓・地頭・預所の争いをとおして、この動揺の一つのみなもとをうかがうことも可能である。しかし前年の襲来は、この人々にとってはまだ遠い世界でのできごとだった。ましてやこの『とはずがたり』の世界にはいれば、前の年の襲来には一言半句の言及もない。そこでは、北九州での激闘も、まったくよそごとでしかないようにみえる。日常というのは、そういうものかもしれぬ。 |
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| しかし、二条に対する後深草の溺愛、行ないすました御室の法親王の心中に燃える、おそるべき呪詛(じゅそ)すらともなった情念を通じて、われわれは、鬱してなお爆発しきれぬ力の一端をみることができるのかもしれぬ。そして、後深草と権勢家実兼との二条をめぐる深いかかわり、さりげない遊びのかげに隠された、性格をまったく異にした二人の上皇の微妙な対立のなかには、やがてきたるべき分裂の萌芽をはっきりみてとることができる。それはまだ細い裂け目ということができるかもしれない。しかし前述したような社会の深部から発する矛盾は、貴族間の、権臣たちの大小の争いを通じてそこにくい入り、回復しがたい大分裂をみちびきだしてゆくのである。 | 私は二条という特異な女性の一方的な証言に対してここまで無防備に対応している網野善彦氏の歴史家としての基本的姿勢を疑う。 網野善彦氏の近著のタイトル『日本中世史料学の課題−系図・偽文書・文書』(弘文堂)』も、皮肉としか思えない。 |
| ☆網野善彦氏の後醍醐天皇論はこちら。(『中世とは何だろうか』)また、同氏の間の抜けた中世女性論はこちら。(「中世における女性の旅」) ☆『とはずがたり』に虚構が多いことについては、福田秀一氏『新潮古典集成 とはずがたり』解説と水原一氏「『とはずがたり』の虚構性をめぐって」が参考になる。 |