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「第一節 鎌倉御家人足利氏」
(『近代足利市史』第一巻通史編.足利市.昭和52年.p149以下)

※「第二章 源姓足利氏の発展」より。引用部分の執筆担当は小谷俊彦氏。





小谷俊彦氏の略歴(上掲書による)
慶應義塾大学文学部講師・慶應義塾普通部教諭
※後日補充します。




 第一節 鎌倉御家人足利氏


足利義清の動向

 治承・寿永の内乱前夜における源姓足利氏の動静には不明な点が多いが、義康の子義清・義長・義兼らは、『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』によると、鳥羽法皇の皇女上西門院〔1126〜89.64歳〕や八条院〔1137〜1211.75歳〕に仕えて蔵人(くろうど)、判官代(ほうがんだい)などに任ぜられていたようである。なかでも八条院は足利氏の領有する足利荘の本所であったから、足利氏との関係は特に密接であった。当時、八条院の御所は反平氏の拠点となっており、また、以仁王〔1151〜80.30歳〕は女院の猶子(ゆうし)であったから、義清兄弟も平氏打倒の計画に加わったことであろう。

 治承四年(1180)五月、源三位頼政〔1104〜80.77歳〕は以仁王を奉じて挙兵し、平氏軍の追撃にあって宇治で敗死した。権中納言中山忠親〔1132〜95.64歳〕は日記『山槐記(さんかいき)』にこの時の戦闘の様子を詳細に記しているが、それによると、この戦いで平家方に討取られた者のなかに足利判官代源義清の名をあげ、さらに註記して「後に聞く、この頸(くび)は義清にあらず。義清は戦場に交らずとうんぬん」としている。ところが、『源平盛衰記』では、義清は頼政軍に加わったことになっており、味方の敗色が濃い中で、頼政の養子八条院蔵人仲家らと共に追撃軍を防ぎ、この間に頼政に心静かに自害させたと、その奪戦を伝えている。この戦闘に関する朝廷への報告や噂を詳細に記した『山槐記』にくらべると、『源平盛衰記』の史料的価値は低いが、八条院と義清の関係や次に述べる『吾妻鏡』の記事から考えて、義清の参戦はあながち否定されるべきでなく、義清はおそらくこの合戦の後、平氏の追求を逃れて落ちのびたのであろう。

 『吾妻鏡』は頼政父子の首と共に足利判官代義房の首がさらし首にされたことを伝えている。この義房が源姓足利氏の一族であったことは間違いないであろうが、『尊卑分脈』には見えず、その系譜関係は明らかでない。続群書類従本「清和源氏系図」・「足利系図」は義房を義清の兄弟とし、これが通説のようであるが、義康の弟季邦のこととする説もある(臼井信義「尊氏の父祖」『日本歴史』二五七)。

 同年八月、以仁王の令旨をうけた伊豆の源頼朝〔1147〜99.53歳〕が平氏打倒の旗を挙げると、これに続いて諸国に雌伏していた源氏がいっせいに蜂起するが、やがて義清も再起し木曾義仲〔1154〜84.31歳〕と行動を共にする。義清が義仲と結んだ理由としては、宇治敗戦の後でもあり、独自の行動をおこすだけの軍事力を持たなかったことがあげられるが、ほかに、義仲が同年十月、信濃から上野に進出し、下野の足利俊綱を討とうとしたことがあったから、祖父義国以来梁田御厨の領有をめぐって藤姓足利氏と対抗関係にあった義清は、義仲と連携し、これを機会に足利俊綱を倒して足利地方を完全に支配下に置こうとしたことも考えられよう。この時には、義仲は、頼朝の勢力が北関東に伸びてきたので、これと接触するのを避けるため、俊綱を攻撃することをあきらめ、反転して信濃に帰り、以後、北陸方面に進出していく。そして、寿永二年(1183)五月、加賀・越中国境の倶利伽羅(くりから)峠で平氏軍を撃破し、やがて七月には京都に迫って平氏を西国に追い落した。義清はこの時、丹波方面の老(おい)の坂(さか)より京都に進撃している(『平家物語』)。

 義仲の軍勢は同年十月、平氏追討のため西国に発向し、播磨から備前に入ったが、この地方は平氏の強固な地盤であっただけに、在地武士の激しい反撃にあい、戦況は思わしくなかった。閏十月一日には、備中国水島の海戦で平重衡〔1157?〜85.29歳?〕・通盛らの率いる平氏水軍によって決定的な打撃を受け、この戦いの大将軍として陣頭にあった義清は、弟義長や家人らと共に壮烈な討死を遂げた。名草中町の清源寺に伝わる「高階系図」には、高惟長(こうのこれなが)・惟信(これのぶ)兄弟が義清に従いこの戦いで討死したことを記している。

 義清について『平家物語』・『源平盛衰記』は共に矢田判官代とし、『尊卑分脈』も足利矢田判官代と注記しており、一般に、義清は信濃国矢田荘を領して矢田判官代と称したといわれているが(『足利市史』上昭和三年刊)、これについては全く明証がない。彼の領有した梁田御厨(やなだみくりや)の梁田を矢田と誤り伝えたものであろうか。なお、南北朝時代に足利氏の部将として活躍する仁木・細川の両氏は義清の子孫である。


足利義兼の鎌倉参向

 足利氏の嫡流三郎義兼〔?〜1199〕は、兄義清とは行動を共にせず、鎌倉に参向し頼朝の下に加わった。義兼が史料にはじめて名を見せるのは、『吾妻鏡』治承四年(1180)十二月十二日条の、頼朝が鎌倉の新造御所に移徙(いし)する際の供奉(ぐぶ)武将の一人としてである。義兼の母は熱田(あつた)大宮司範忠の娘で、頼朝の母(範忠の父季範の娘)の姪であったから、この関係が義兼を頼朝に結びつけたのであろう。この段階においては、頼朝は木曽義仲をはじめとする諸源氏の間にあって、まだ優位の地歩を築くに至っていなかったから、かつて保元の乱において、独立の武士団を率い、武士の棟梁(とうりょう)として頼朝の父義朝〔1123〜60.38歳〕と対等の地位を占めた足利義康〔?〜1157〕の嫡子義兼が自己の陣営に加わったことは、頼朝の立場を有利にするものとして大いに歓迎されたことであろう。翌養和元年二月、義兼は頼朝の命によってその妻北条政子〔1156〜1225.70歳〕の妹をめとった(以下『吾妻鏡』による場合は注記しない)。義兼は頼朝の下に加わったとはいえ、まだこの段階では頼朝の家人になったわけではなく、独自の行動をとりうる立場にあったから、義兼を自己の下につなぎとめようとする頼朝の政略的意図に出たものとみることができる。

 義兼は元暦元年(1184)五月、志水冠者義高〔1173〜84.12歳〕の残党討伐の将として甲斐に発向し、ついで八月、蒲冠者範頼に属して平氏追討のために西海に赴き、武勲をあげた。翌文治元年〔1185〕八月には勲功賞として、山名義範(伊豆守)・大内惟義(相模守)ら源氏の人々と並んで頼朝が賜わった知行国の名(めい)国司に推挙され、上総介に任ぜられた。頼朝は文治五年〔1189〕十二月知行国を返上し、義兼は上総介を辞すが、この間義兼は頼朝の側近にあって、頼朝の社寺参詣などの供奉を勤め、文治五年七月には、頼朝の奥州藤原氏征伐に従い、泰衡〔1155〜89.35歳〕の後見熊野別当を捕えるなどの武功をたてた。つづいて翌建久元年〔1190〕正月、泰衡の遺臣大河兼任が出羽で蜂起すると、追討使として発向しこれを鎮圧した。

 このように義兼は頼朝の覇業に参加し、鎌倉幕府の創設に協力をおしまなかった。しかし、このことは頼朝の政治的地位の上昇に伴い、義兼の地位を相対的に低下させることになり、やがて足利氏が鎌倉殿=頼朝の御家人として鎌倉政権の内部に位置づけられることになった。義兼は文治四年〔1188〕正月六日、頼朝に椀飯(おうばん)を献じ、馬五頭を進め、また自ら銀作りの太刀を献上している。この椀飯は、鎌倉幕府において、有力御家人が、新年に際し、将軍に対して忠誠の誓いを新たにし、馬や武器などを献ずる行事として恒例化されるものである(福田豊彦『千葉常胤』)。したがって、義兼が頼朝に椀飯を献じたことは、足利氏が御家人として頼朝に忠誠を誓う立場に立つに至ったことを物語るものといえよう。とはいえ義兼は源氏の名族として一般武士の尊敬を集めて幕府内部に重きをなし、常に鎌倉にあって幕府に奉仕した。

 建久五年(1194)十一月十三日、義兼は将軍家の繁栄を祈願するため、鶴岡(つるがおか)八幡宮に、妻北条氏と共に書写した一切経及び両界曼荼羅(まんだら)を寄進し、八幡宮別当円暁を導師に、題名僧六○名を請じて盛大な供養を行った。この供養には大内義信・山名義範以下の源氏の人々が列席し、頼朝夫妻も十五日には結縁(けちえん)のため八幡宮に参詣した(鶴岡八幡宮文書「鶴岡八幡宮供僧次第」)。一切経と両界曼荼羅は八幡宮の東廊に安置され、両界壇所(だんしょ)と名づけられて供僧二名が置かれた。この供僧は代々足利氏が進止(支配)し(「鶴岡両界供僧次第」)、供料(ぐりょう)は毎年足利荘の公文所(くもんじょ)から送らせることとした(相承院文書)。その後、義兼の子義氏〔1189〜1254.66歳〕は、宝治二年(1248)二月、供料を公文所よりの送進にかえて、足利荘粟谷郷の地利の一部と定め、これを寄進している(鶴岡神宮文書)。

 翌建久六年〔1195〕三月、頼朝が東大寺供養のために上洛した時、義兼はこれに従って供養の儀式に供奉し、その後同月二十三日東大寺において出家をとげたという(『尊卑分脈』)。

 義兼はその後も五月に頼朝の天王寺参詣に随侍しているので、出家の日を三月二十三日とするのは疑問であるが、この天王寺参詣供奉を最後に、義兼の名が『吾妻鏡』に見られなくなるから、このころ出家したと考えて間違いないであろう。

 この上洛までのあいだには、建久四年〔1193〕八月、陰謀の疑いで範頼が殺され、同年十一月と翌五年八月に、幕府創業に大きな役割を果した甲斐源氏の安田義定〔1134〜94.61歳〕・義資〔?〜1193〕父子が相ついで誅殺されるという事件があった。頼朝は奥州平定後、同族御家人に対する統制を強め、自らの独裁権力の確立をはかって、その障害となる者の排除を露骨に進めるが、範頼以下はその犠牲になったものである。このような状況の下にあって義兼の立場は、その血統と声望の故にきわめて微妙なものにならざるをえなかっ た。義兼は範頼らの死をまのあたりにし、やがてふりかかるであろう危険を感じ、それを回避するために出家の道を選んだのであろう。今川了俊(りょうしゅん)〔1325〜?〕の『難太平記(なんたいへいき)』の、「(義兼は)殊のほか頼朝に昵近(じっきん)していたので、世をはばかって空者狂(そらものぐるい)になり、その代を無事に過した」とする伝承はこの義兼の立場をよくあらわしている。

 義兼は出家後は法名を鑁阿(ばんな)と称して足利に隠棲し、邸内に持仏堂を設け、念仏三昧(ざんまい)の日々を送ったといわれている。この持仏堂は堀内御堂(ほりのうちみどう)とよばれ、これが後に鑁阿寺に発展する。義兼は亡母の菩提を弔うため、樺崎の地に法界寺(廃寺)を建立したという。寺址については説が分かれ、八幡山の東山麓、現樺崎八幡宮の社地をこれにあてる説(前沢輝政『足利の歴史』)と、八幡宮の東、向かい側の山ずそにあったとする説(『足利市史』上昭和三年刊)があるが、共に寺址としてはやや狭い感がある。もし法界寺が前沢輝政の説の如く浄土教寺院であったとするならば、北は堂山、南は亀池までの広闊な地域を想定すべきであろう。義兼はまた、堀内の御堂僧に命じて内外典(ないげてん)の講莚(こうえん)を開かせ(鑁阿寺所蔵文書)、僧俗の教学の事にも心を用いた。これが足利学校の前身であるとする説があるのは周知のことである。

 義兼は正治元年(1199)三月八日に没し(『尊卑分脈』)、樺崎の八幡山の東麓に葬られたと伝えられている。現在、八幡宮の本殿床下に竪穴が確認されるから、これが義兼の墳墓であるとすれば、後になって八幡神が勧請され、合祀されたものであろう。なお、義兼と同時代に、高野山に鑁阿と称する僧があり、この僧を義兼とする説があるが、この人物は明らかに別人である(臼井信義前掲論文)。

 『尊卑分脈』によると、義兼には三男二女があった。長子義純は、元久二年(1205)畠山重忠〔1164〜1205.42歳〕が滅ぼされた後、その未亡人の北条時政娘と結婚し、重忠の旧領を与えられた。その子泰国より畠山氏を称する。義純はさらに新田義兼の娘と結婚して時兼をもうけたが、この時兼は母方より上野国新田荘内の土地を譲られ、新田岩松氏の祖となった。義兼の次子義助は承久の乱に宇治川で討死を遂げ、その子孫は上野国桃井を領して桃井氏を称する。三男義氏は生母が北条時政の娘であったので、嫡子となり家を継ぐ。二人の娘は、右衛門督藤原親兼および熱田大宮司野田朝氏にそれぞれ嫁している。このうちの一人は、かつて元久元年(1204)ごろ、将軍実朝〔1192〜1219.28歳〕とのあいだに縁談があったが、実朝はこれを断わり、京都から前大納言坊門信清の娘〔1193〜1274.82歳〕を夫人にむかえた。この出来事は実朝の京文化に対する強いあこがれを示す逸話として説明されるのがふつうであるが、上横手雅敬は、足利氏が、頼家時代の比企氏の如く、将軍と結んで権勢を伸ばし、北条氏の地位をおびやかす存在になる可能性があり、それをおそれた北条氏の意志が強くはたらいていたとする見解を示している(『日本中世政治史研究』第三章)。


源氏の滅亡と足利氏の立場

 正治元年(1199)、将軍頼朝が死去し、頼家〔1182〜1204.23歳〕があとを継ぐと、北条時政〔1138〜1215.78歳〕・義時〔1163〜1224.62歳〕父子は頼家の母政子とはかり、頼家をおさえて、時政父子ら重臣・宿老の合議で幕政を運営することにした。これにより北条氏は優位を占めたが、一方、幕府内部の対立も激化し、頼朝以来の功臣梶原景時〔?〜1200〕・比企能員〔?〜1203〕らが相ついで滅ぼされた。建仁三年(1203)、時政は頼家を廃してその弟実朝を将軍にたて、政所別当となって幕政の実権をにぎり、翌年、頼家を殺した。

 時政はその後も宿老の排除につとめ、元久二年(1205)には、頼朝の遺命によって頼家の輔佐にあたった畠山重忠を攻め滅ぼした。足利義兼の跡をついだ十七歳の三郎義氏〔1189〜1254.66歳〕は、この討伐軍に加わっている。

 時政退隠のあとは、嫡子義時がつぐが、義時もまた、対抗勢力を倒して権力の確立につとめた。建保元年(1213)、侍所別当(さむらいどころのべっとう)として御家人の間に隠然たる勢力をもっていた和田義盛〔1147〜1213.67歳〕を挑発し、いわゆる和田氏の乱をおこさせて、これを滅ぼした。義時はこの後、侍所別当を兼ね、ここに北条氏の執権政治が成立する。

 足利義氏は和田氏の乱がおこると、五月二日、北条泰時〔1183〜1242.60歳〕・朝時〔1193〜1245.53歳〕らと幕府を守り、防戦に力をつくした。この時勇猛をうたわれた敵の朝夷名(あさひな)三郎義秀が惣門を破って乱入してきた。義氏は政所の前の橋のそばで義秀と行きあって一騎討となり、義秀に鎧の袖をつかまれ、これを振り切ろうと馬を駆って濠を飛び越えた。鐙の袖は中ほどから引きちぎられたが、馬も倒れず、主も落ちず、これを見た者は手を打ち舌を鳴らして、両者の武勇をほめそやしたという。義秀は橋を回って、なおも義氏にせまったが、鷹司冠者(熱田大宮司範忠孫野田三郎朝氏父)が命を捨てて両者の間に入ったので、義氏は遁れ去ることができた。墓府軍はやがて攻勢に転じ、義氏は和田勢を米町辻大町大路に攻めたてた。翌三日、敵が再び攻勢に出た時にも、義氏は町大路で奮戦し、幕府方を勝利に導いた。五月七日、和田氏の乱の論功行賞が行われ、北条氏一門をはじめ多くの御家人が恩賞に浴した。義氏については『吾妻鏡』に記録されていないが、足利氏の所領の中には、この合戦の恩賞として賜ったと考えられるものがある。

 義氏は幕府内の対立抗争の中にあって、若年ながら去就を誤らず、北条氏と結びその権力確立に力をかしたが、建保三年〔1215〕ごろには、北条泰時の娘を妻に迎えて、その連帯を強め、同五年〔1217〕には北条時房〔1175〜1240.66歳〕にかわって武蔵守となり、さらに貞応元年(1222)には義時のあとをうけて陸奥守となり、幕府内部に重要な地位をしめるに至った。

 承久元年(1219)一月、将軍実朝〔1192〜1219.28歳〕が暗殺され、源氏の将軍の血統が断絶すると、源氏の一族阿野(あの)時元が挙兵するなど、将軍の地位をねらって策動する者があらわれ、世情は動揺した。このような情勢の下で、義氏は慎重に行動し、北条氏に協調する態度をくずさなかった。同年七月、京都より二歳の九条頼経〔1218〜56.39歳〕が将軍の後嗣として鎌倉に下向した。義氏はその際の行列に、泰時と並んで頼経の輿(こし)の直前に侍している。将軍の後嗣が決まったが、なお、世情の不安は静まらず、加えて鎌倉に大火がおこるなどの災異が続いたので、この年の秋から翌二年にかけて、不穏な空気は日増しに高まっていった。このような状況の中で、同年五月二十日、義時・時房・義氏が大江広元〔1148〜1225.78歳〕邸に参会し、小弓の会を催した。これは幕府首脳が小弓会にことよせて会合し、世上動揺の鎮静と幕政安定の策を議したものであろう(彦由三枝子「承久の乱前後に於ける前武蔵守足利義氏」『政治経済史学』)。

 かねてより幕府に反感を抱いていた後鳥羽上皇〔1180〜1239.60歳〕は、関東の不穏な世情を幕府衰退のあらわれとみて幕府打倒にたち上り、承久三年(1221)五月、北条義時追討の院宣を全国に下した。承久の乱がこれである。幕府側は北条政子・執権義時を中心に団結し、東海・東山・北陸の三道より大軍を西上させた。義氏は北条時房・泰時・三浦義村〔?〜1239〕・千葉胤綱〔1208〜28.21歳〕と共に東海道大将軍となり一○万余騎を率いて京都に進撃した。六月五日には尾張一宮に到着し、京方が防衛線をしいた尾張川(木曽川)攻撃の部署が定められ、義氏は池瀬に向ったが、この日、東山道を進んだ武田勢が美濃大井戸の京方をうち破って進撃して来たので京方は退却した。幕府軍は逃げる敵を追って進み、十三日には、近江野路より諸方に分かれて進軍することとなった。義氏は泰時とともに宇治に向かった。この日、泰時に属した三浦泰村と軍議を無視して進み、京方の猛反撃をうけて多くの死者を出す失策もあったが、翌日には、義氏は付近の在家を壊して筏(いかだ)に組み、これに大勢を乗せ宇治川を渡しながら戦い、京方を撃破する武功をあげた(『承久軍物語』)。宇治川渡河に成功した幕府軍は、翌十五日には京都に入り、乱は終りをつげた。宇治川の戦いで、幕府軍は多くの戦死者を出した。義氏の兄義助が討死したことは前に述べたが、清源寺本「高階系図」には、高惟重・義定父子が義氏に供奉して従軍し、惟重は生年六十歳で宇治川において戦死し、義定は父子の勲功賞として近江国栗大郡辺曾(へそ)村を拝領したこと、また、一族の大平惟行が京方の武士他由(池田か)左近貫持を討取ったことを記している。


関東の宿老足利義氏

 承久の乱の勝利によって、幕府は朝廷をおさえ、その威令もようやく全国に及ぶようになった。執権として幕府権力の伸張につとめた義時は元仁元年(1224)に没し、その翌年には、北条政子が世を去り、宿老大江広元もこれと前後して死去した。執権泰時〔1183〜1242.60歳〕は幕政刷新の必要を感じ、有力御家人と文筆職員からなる一一名の評定衆を任命し、執権を補佐して幕政の評議にあたらせることにした。足利義氏は評定衆になることはなかったが、幕閣の外にあって、義父であり従兄である泰時の治政を好意の目で見守っていたことであろう。やがて寛喜三年(1231)ごろには左馬頭となり、連署として泰時を助けてきた北条時房〔1175〜1240.66歳〕の没後の仁治二年(1241)から翌年にかけて、義氏は政所に出仕し評定衆らとともに政務にあずかった(臼井信義前掲論文・中条家文書他)。このころには、義氏も年齢すでに五十歳をこえ、官位も正四位下に進み、また、小山朝政〔1158〜1238.81歳〕・三浦義村らの長老も死去していたので、おのずから幕府の宿老として内外に重きをなした。

 これよりさき、義氏の長子五郎長氏〔1211〜90.80歳〕は、安貞二年(1228)より幕府に出仕し、嫡子の泰氏〔1216〜70.55歳〕も、嘉禎二年(1236)には出仕して、丹後守、ついで宮内少輔に任ぜられ、将軍頼経に近侍した。泰氏は泰時の孫娘を妻とし、足利氏と北条氏の関係はいっそう緊密になった。

 泰時は仁治三年(1243)に没し、孫の経時〔1224〜46.23歳〕が執権となった。出家して正義と称していた義氏は、宿老として、また北条氏の縁者として、影ながら若年の経時の捕佐にあたったと思われる。寛元四年(1246)、経時が病死し、弟の時頼〔1227〜63.37歳〕があとをつぐと、不穏な動きがおこり、人々は動揺したが、時頼はこれを機に幕府創設以来の有力御家人三浦氏の排除をはかり、外戚安達氏と結んでこれを挑発し、宝治元年(1247)、ついに三浦一族を滅ぼした。これが宝治合戦であるが、義氏はこの時、事件に連坐して滅亡した上総権介(かずさごんのすけ)秀胤の遺領を恩賞として与えられている。

 この時期が鎌倉時代における足利氏の最盛期で、義氏は上総と三河の守護を兼ね、子息泰氏・長氏のほか、孫の太郎家氏・次郎兼氏や、一族の畠山泰国・国氏父子も幕府に出仕しており、他を圧する観があった。建長二年(1250)、幕府は閑院内裏の造営費用を御家人たちに割りあてたが、この時には義氏は単独で小御所を分担しているから、その経済力も一般御家人よりはるかにぬきんでていたことがわかる。

 このころ、義氏は結城入道日阿(朝光)〔1167〜1254.88歳〕に雑人(ぞうにん)のことについて手紙を送ったことがあった。その手紙には「結城上野人道殿足利政所」とあった。書札礼では、宛所の上に謹上の語をそえるか、脇付を書き、差出しには本名を記すのがふつうであって、このような書式は相手を見下(みくだ)した非礼なものである。そこで日阿も、返書に「足利左馬頭入道殿 結城政所」としたところ、義氏は立腹して、時頼に、自分は頼朝の一族であるが、日阿は頼朝に仕えて今に存生しているものである。それなのに昔のことを忘れてこのような書式をとるとは奇怪である。よくいましめてもらいたい、と訴え出たという。これは『吾妻鏡』に記されているところであるが、義氏の自分の血統に対する誇り、宿老としての大きな自負を示すものとしてうけとることができよう。

 ところが、建長三年(1251)十二月二日、足利氏の繁栄に影を落とす事件がおこる。義氏の嫡子泰氏が所領下総国埴生(はにう)荘で、幕府に無断で実然出家してしまった。三十六歳であった。埴生荘は上総権介秀胤の遺領で、宝治合戦の恩賞として義氏に賜わり、泰氏に譲られていたが、幕府は泰氏の自由出家を理由にこれを没収し、北条実時〔1224〜76.53歳〕に与えてしまった。この泰氏の突然の出家について、臼井信義は、建長三年は将軍頼嗣が解任され、かわって宗尊親王〔1242〜74.33歳〕が下向する前年にあたっているところから、源氏の嫡流として御家人の間に重きをなす足利氏の立場が、この将軍更迭問題をめぐって微妙になってきたからではないかと推測している(臼井信義前掲論文)。傾聴すべき見解であるが、幕府で将軍更迭のことが問題になるのは泰氏の出家後のことである。泰氏が出家した直後、鎌倉中が騒擾し、謀叛の噂が飛んだが、やがて在京の前将軍頼経〔1218〜56.39歳〕と結ぶ一派の幕府転覆の陰謀が発覚し、十二月二十六日には一味が捕えられた。幕府はこれを機会に頼嗣〔1239〜56.18歳〕を廃し、かねて希望していた皇族将軍の実現を策したのである。泰氏は幕府出仕以来将軍頼経に近侍し、寛元二年(1244)に頼経が将軍の職をその子頼嗣に譲ってからは、頼嗣の近習(きんじゅう)として側近に侍していたから、前将軍頼経を中心とするこの陰謀にまき込まれる危険性があり、それを避けるために出家したと考えることもできよう。

 泰氏出家の後も、義氏の公的生活はかわらなかった。翌四年〔1252〕三月の宗尊親王の下向に際し、三河国守護として同国矢作(やはぎ)宿・宮路中山の宿所の経営にあたり、親王鎌倉下着後の四月三日には新将軍に椀飯を献じた。この年には、執権時頼の妹を母とする嫡孫三郎利氏も出仕するようになり、十一月には、将軍の新御所移徒に、太郎家氏や長氏の子上総三郎満氏らと供奉している。義氏にとって、この利氏の成長を見守るのが老後の大きな楽しみであったであろうが、やがて二年後の建長六年(1254)には病いの床に臥し、十一月二十一日に永眠した。享年六十六歳、法号は法楽寺殿正義。本城三丁日の法楽寺は建長元年(1249)二月義氏の開基になるといわれており、義氏の菩提寺となった寺院である。境内には義氏の墳墓と伝えるものがある。

 義氏の生きた時代はまさしく北条氏の権力確立の時期でもあった。義氏は生涯を通じて北条氏との協調関係を保ち、つねに側面からその権力の確立に力をかした。このことは、有力御家人達が北条氏によって排除され、おさえられていく中で、足利氏の一家一族に繁栄をもたらし、また、義氏自身を「関東の宿老」たらしめたのであった。

 義氏のころは、三代将軍実朝の好学、つづく摂家将軍の下向などの影響もあって、鎌倉武士のあいだで和歌や学問・芸術に対する関心が高まった時代であった。義氏は鎌倉のこのような文化的雰囲気の中にあって、上流武士としてかなりの教養を身につけていたことと思われるが、それを窺うことのできるほどのものは残されていない。嘉禎三年(1237)三月九日、将軍頼経の新御所で催された和歌会に出席したことと、『続拾遺集』冬部に収められた一首の詠歌がわずかに義氏の風雅を示すのみである。

  霰(あられ)ふる 雲の通路(かよいじ) 風さえて
     おとめのかざし 玉ぞみだるる

 観念的で硬く、古歌の引きうつしといった感じが強いが、これが当時の武士の和歌にみられる一般的傾向であった。

 義氏は亡父義兼の孝養のために、足利荘の堀内御堂を発展させて一寺にすることを思いたち、天福二年(1334)工を起こし、方五間の大殿を建立して大日如来像を安置した(鑁阿寺所蔵「灌頂庭儀之図裏書」鑁阿寺大御堂棟札写)。鑁阿寺大御堂がこれである。そして長日の勤行のために供僧を置き、堀の外周に十二坊を設けたという。また、寺の規式を定め、供科・用途(費用のこと)は足利荘の公文所、荘内各郷及び給主(きゅうす)などにそれぞれ負担させることとした(七○)。その後も当寺の興隆に意を注ぎ、講書の請定、供料・用途の催促、禁制(きんぜい)を下すなどの保護をしばしば行っている(鑁阿寺所蔵文書・鑁阿寺文書七一・七二)。

 義氏はまた、嘉禎四年(1238)、伯母北条政子〔1156〜1225.70歳〕の十三回忌にあたって、追善報恩のために、高野山金剛三昧院に大仏殿を建立して丈六の大日如来像を安置し、実朝及び政子の遺骨を納め、その回向(えこう)の料として美作国大原保を寄進している(金剛三昧院文書)。

 義氏には五男三女があったという(『尊卑分脈』)。長子五郎長氏〔1211〜90.80歳〕は、幕府に出仕した翌年の寛喜元年(1229)には、将軍頼経の御前で催された犬追物や流鏑馬(やぶさめ)の射手に選ばれる栄誉に浴し、やがて従五位下検非違使尉となり、ついで上総介となった。この長氏は少年のころ、父義氏より三河国吉良(きら)荘を装束料として譲られている(『難太平記』)。この後流が吉良・今川両氏である。三郎泰氏〔1216〜70.55歳〕は北条泰時の娘が生母であったので嫡子となった。四郎義継は『尊卑分脈』以下の系図に「渡唐帰朝」と注記されているが、他に徴すべき史料がない(荻野三七彦「武蔵の吉良氏についての研究」(一)『軍事史学』創刊号)。次の有氏については出家と記すのみである。末子は鎌倉勝長寿院の別当となった最信で、鑁阿寺の多宝塔が造立された時には、その供養導師を勤めている(一二四)。女子には新田太郎政義の妻となったもの、四条大納言隆親〔1203〜79.77歳〕の室になったもののほか、『関東往還記』によると、義光流源氏の小野蔵人太郎時村の妻となった女子があり、この女性は弘長二年(1262)に西大寺叡尊(えいぞん)〔1201〜90.90歳〕より五戒を授けられ、是信(ぜしん)の法名を与えられている。


☆鎌倉時代の足利氏については、『足利市史』上・臼井信義氏「尊氏の父祖−頼氏・家時年代考」・千田孝明氏 「足利氏の歴史− 尊氏を生んだ世界−」も参考になる。
☆後深草院二条の母方の叔父、善勝寺大納言隆顕(1243〜?)は足利義氏の娘を母としている。足利義氏は北条時頼・隆弁とともに『徒然草』第216段に登場する。


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