up13.2/18
※「第二章 源姓足利氏の発展」より。引用部分の執筆担当は小谷俊彦氏。

※第二節はこちら。
第三節 足利氏の所領とその経営 足利氏所領奉行注文 鎌倉時代の足利氏の所領を書き上げた史料として有名なものに、昭和三十年 (1955)、佐々木光雄によってはじめて紹介された(『歴史』第一一輯)、東北大学付属図書館蔵倉持文書の足利氏所領奉行注文がある。次にその全文を掲げる。
この年月日未詳の史料は、その後、桑山浩然によって、鎌倉末期における足利氏所領のほぼ全容を記載したものであることが明らかにされ(「室町幕府の草創期における所領について」『中世の窓』一二)、いっそう注目されるようになったものである。内容は、足利荘以下の所領を三群に分け、それぞれに対応させて、有力被官高(こう)一族の南右衛門入道(頼基)、同三戸八郎左衛門入道(師澄か)、上杉三郎入道(頼重)を筆頭とする三番の奉行人の名を列記しており、足利氏の所領管理支配機構を知る上で重要な手掛りを提供している。 足利氏は鎌倉時代を通じて、吉良・斯波・渋川・桃井をはじめ多くの一族庶流を分出しているが、これら一族庶流の苗字その他から推して、この足利氏所領奉行注文にあげられている所領は庶流にはほとんど関係のない、足利氏嫡流家独自の所領であったと考えられる。また、それぞれの所領の内容・性格については不明なものが多いが、上総・三河両国の守護職のほかは、郡・荘・郷・保などの地頭職が大部分を占めるが、なかには、領家職兼帯のものや郡司職を含むと考えられるものもある。いずれにしても、鎌倉末期の足利氏は、源氏の嫡流として御家人の間に高い声望を得ていたばかりでなく、その経済的基盤においても、北条氏のそれには比ぶべきもないが、一般御家人にぬきんでいたといえよう。 本領と散在所領 鎌倉御家人の所領は、近世の大名領のように一か所にまとまっていないで、各地に分散しているのがふつうであった。所領のこのような形態を散在所領とよんでいるが、なかでも、先祖が開発し、代々伝えてきた土地は、苗字の地となり、本領とよばれて最も重要なものとされた。足利氏の足利荘がこれにあたる。 前掲の史料は所領の所在国を記していないので、これらの所領のうち、国名その他について手掛りの得られるもの、推測可能なものを一覧表にして次に示す。なお、これらのうち十四か所については、すでに桑山浩然(前掲論文)および入間田宣夫(「東北地方における北条氏の所領」『日本文化報告』別巻七)によって地名比定が行われている。 「第五表 足利氏の所領一覧」はこちら。 この表に見られる如く足利氏の所領は、陸奥・上野・下野・上総・安房・相模・三河・能登・山城・河内・和泉・丹波・丹後・美作・備前・阿波・筑前の十七か国にわたって散在しており、数の上では美作(六)が高い集中度を示している。また、これらの所領がどのような過程をたどって足利氏に伝えられるに至ったのか、個々についてその経緯を十分に明らかにすることは困難であるが、本領の足利荘を除く大部分は、ほかの御家人の場合に見られるように、平氏追討をはじめとする鎌倉前期の諸合戦や、北条氏の覇権確立過程で起きた和田氏の乱・宝治合戦などの恩賞として与えられたり、あるいは、足利氏は代々北条氏と姻戚関係にあったから、北条氏より譲られたものや、足利氏の保護下に入った御家人が足利氏に寄せた所領もあったであろう。 つぎに所領の内容であるが、ここで指摘できることは、皇室領の荘園が足利荘をはじめとしてかなりの数にのぼることと、当然のことながら、所職としては大半が地頭職であったと考えられることである。なかでも、郡地頭職は陸奥(一)、上総(二)、安房(一)、三河(二)の六郡を数える。これらの郡がすべて足利氏の一円領有の下にあったとは成し得ないまでも、郡全体に及ぶ権益を手にしていたことは確実で、この郡地頭職保有の意義は単に経済面のみにとどまらず大きいものがあった。たとえば、足利氏の守護任国上総の場合、市東・市西両郡は宝治合戦で滅んだ上総権介秀胤の旧領であったから、国府が市西郡に置かれていたことなどより推して、足利氏は秀胤が権介として有していた同国の国衙在庁に対する指揮権をもあわせ継承し、強権をもって国内に臨むことができたものと思われる。また、三河は足利氏の強固な地盤となった国であり、南北朝初期において足利氏の軍事基地として特に重要な役割をになったことはよく知られている。その理由としては、足利氏が守護として同国に多くの所領をもち、また、吉良氏・今川氏ら一族が繁衍したことが挙げられているが、ほかに、足利氏が額田・設楽両郡を郡地頭として支配したことにより、設楽氏をはじめ在地武士の多くを被官として組織していたことも考慮にいれる必要があろう。 所領の経営 足利氏が鎌倉末期において諸国に散在する所領を管理支配するためにかなり整った機構を設けていたことは、最近、入間田宣夫によって明らかにされ、また、その所領構造も北条氏のそれと同質であったことが指摘されている(「東北地方における北条氏の所領」『日本文化研究所研究報告』別巻七)。入間田の論考を参考にしなが ら、鎌倉末期の足利氏の所領支配組織について述べてみよう。 足利家時は文永三年(1266)四月二十四日、倉持忠行を陸奥国賀美郡穀積郷の地頭代職に補任し(倉持文書)、足利貞氏は嘉元三年(1305)八月十四日、粟生四郎入道に三河国額田郡秦梨子郷の郷司職を安堵し、さきの知行の例にまかせて郷務を領掌せしむべきことを命じている(前田家所蔵「武家手鑑」)。これらの郷はその後それぞれの子孫に伝領されていくが、穀積郷の場合、倉持氏は同郷から、毎年五月十五日に、北条泰時〔1183〜1242.60歳〕の菩提所粟船御堂(大船常楽寺)の仏事用途一○貫文と、月ごとに、主家足利氏の御料沙汰用途の進納を義務づけられていた(倉持文書)。足利氏は、この例に見られるごとく、その所領に郷単位の地頭代職や郷司職を設けて、被官をこれに任用していた。彼らは給主ともよばれ足利氏の所領管理支配機構の末端に位置して、自ら現地に下向し、あるいは一族子弟らを所務代官として派遣することによって郷内農民の支配にあたり、年貢収納・勧農・開発以下の郷務を管掌した。 また、郡・荘などの大規模な所領には、領内の給主を統轄し、一郡・一荘全体のことをつかさどる上級機構が存在した。鑁阿寺文書仁治二年(1241)二月日付足利義氏下文(七○)は宛所を「足利御庄公文所」とし、文中には「公文所寄人(よりうど)」の語が見出されるが、それによると、足利荘公文所は、義氏の命を受け、荘内給主に対して鑁阿寺の毎月の大師講の用途を催し勤ずべきことを下達している。ほかに三河国額田郡にも公文所が置かれていたことが確認され、足利家時は弘安四年(1281)十一月五日、郡内秦梨子郷を不輸の地(年貢免除の地)として給主に宛賜わったことを同郡公文所に通達している(前田家所蔵「武家手鑑」)。これら公文所は現地に設置され、有力被官が公文所職に任ぜられて、足利荘における公文所寄人、額田郡における郡沙汰人(臨川寺重書案文)などの現地職員を指揮し、郡や荘の全域にわたる行政事務をおこなった。郡の場合は、多くは地頭職そのものが律令制の郡司の権限を継承したものであったから、一方では国衙行政権の担い手として郡全体に関する国家的行政を担当し(入間田宣夫「郡地頭職と公田支配」『日本文化研究所研究報告』別巻六)、他方では足利氏の私的な所領支配を統轄するという二つの側面を持っていた。したがって、整備された機構と多くの人員が配置されていたことであろう。 以上が各地の所領に設けられた管理支配機構であるが、足利氏の常住する鎌倉の邸には、足利氏の家政全般を見、郡や荘の公文所の上に立って所領全体を総轄する家務執行機関が置かれていた。北条氏得宗家の家政機関「公文所」は有名であるが、足利氏の場合、その名称は明らかではない。鶴岡社務記録紙背文書の某書状断簡に「あしかかのまむ所」と見えることから、「政所」とよばれていたとも考えられるので、いま仮に政所としておく。この足利氏の家務執行機関政所が具体的にどのような機構を備えていたかは不明であるが、前掲史料の奉行人が重要な構成メンバーであったと考えたい。足利氏は何らかの基準によって所領を三群に分かち、それぞれに対応させて、南・三戸・上杉を頭人(とうにん)とする三番の奉行人を編成し、一番七〜八名の合議により管轄所領の行政事務を担当せしめたのであろう。彼ら奉行人は原則として鎌倉に常駐していなければならなかったから、鎌倉に屋敷を与えられていたと思われ、前掲史料中、奉行人の第三グループに属する倉持新左衛門尉(家行)が子息師経に譲与し、乾元二年(1302)閏四月十二日に足利貞氏の安堵を受けた所領の中には「鎌倉屋地・同屋形」が挙げられている(倉持文書)。清源寺本「高階系図」の注記に見られる「公方御沙汰頭人」・「公方御沙汰人」はこの奉行人にあたるのであろうか。 同系図にはほかに「身内侍所(みうちさむらいどころ)」・「御内引付頭人」の注を記載している。この注記を信ずるならば、足利氏においても、北条氏得宗家の「御内侍所」・「得宗方」に類似した被官の統率や訴訟裁判をつかさどる特殊機関がそれぞれ設けられていたことになる。現在までのところ、足利氏の御内侍所の存在を示す史料は管見に入らないが、ぼう大な被官群を統制するためにも、当然置かれていたと考えてよかろう。訴訟裁判機構については、「松雲公採集遺編類纂」所収長伝書写の、足利氏被官長彦三郎幸康と継母尼観阿および弟七郎師連の父の遺領をめぐる相論を裁定した元亨二年(1322)五月二十三日付足利貞氏裁許状写によって、ある程度その内容を知ることができる。すなわち訴訟審理はまず訴人=原告・論人=被告の間で三問三答の訴状・陳状(訴状に対する反駁状のこと)を交換させてその書面審理をおこない、ついで訴人・論人を「勘録(かんろく)の座(ざ)」(幕府の訴訟制度では引付の座とよばれる)に召し出して対決=口頭弁論をさせ、その上で判決をくだすという、幕府の引付制度にならった、きわめて整った訴訟手続きであった。この長氏一族の裁判では訴人幸康の非理が立証され、幸康には「奸訴(かんそ)の咎(とが)」によって所領一か所の没収が申し渡されている。 鎌倉時代の武家の中に家法をもつものがあったことはよく知られており、豊後国大友氏の「新御成敗状」や下野国宇都宮氏の「宇都宮家弘安式条」は整備された家法として有名である。足利氏の場合、領内の寺院に個別に下した規式の類が見られるだけで、まとまった法令は残されていない。ところで、鶏足寺文書応永十三年(1406)八月十九日付鎌倉府奉行人連署奉書(鶏足寺文書)は、智光寺の供僧職をめぐる鶏足寺と智光寺供僧らとの相論に関するものであるが、これに、智光寺側の主張として「去る嘉禎元年(1235)二月十五日御法のごとくんば、禅家・女子・俗仁知行すべからずと云々(うんぬん)」とあり、もし、智光寺の創建が前に述べたように文永二年(1265)であるとすると、この嘉禎元年御法は智光寺に下されたものではなく、足利氏領内寺院に関する法令とみることができ、前述の整った訴訟手続きの存在を考えあわせると、足利氏においても、網野善彦が推測しているように(「蒙古襲来」『日本の歴史』10)、所領の統治支配のための独自の家法が存在していたものと思われる。 足利氏においても、北条氏の場合と同様、家政全般を統轄する執事が置かれていた。家時時代の高重氏(重円)・貞氏時代の高師氏(心仏)・同師行・同師重(貞忍)がそれで、代々高氏一族の惣領の立場にある者が任ぜられていたようである(尊氏時代の高師直も同じ)。彼らの活動を史料によって例示すると、
弘安四年(1281)十一月五日、主人足利家時の意を奉じ、三河国額田郡秦梨子郷を不輸の地として給主に宛賜わったことを額田郡公文所に伝達している。ほかに、鑁阿寺文書に文永八年(1271)三月十五日付沙弥重円奉書写があり、これは主人家時の意をうけ、鑁阿寺寺務学頭明仏房に大御堂一切経会の無事遂行を賀し、あわせてその労をねぎらったものである(七四)。
弘安九年(1286)三月二日、 主人(おそらく足利貞氏)の意を帯し、鶴岡八幡宮両界供僧職安堵のことを参河阿闍梨教意に伝えている。
徳治三年(1308)五月二十八日、主人貞氏の意を奉じ、陸奥国賀美郡穀積郷に対して、前年十月分の用途九百文を来月二十五日までに進納すべきことを命じ、もしそれができないのであれば、早々に代官をさし遣わして勘定を明らかにすべきことを通達している。入間田はこの師行を倉持氏の一族と推定しているが(入間田宣夫前掲論文)、高師行とすべきで、その系譜関係はつぎに掲げるとおりである。 (□は執事就任を示す) ※人名を□で囲んでいるが、赤字に替えた。 高 (重円) (心仏) 左衛門尉 重氏─┬─師氏─┬─師行─┬─師秋 │ │ │ 称三戸六郎左衛門尉 └頼基 │ └─師澄 号南右衛門尉 └─師重─┬─師直 (貞忍) │ └─師泰
元応二年(1320)二月十三日、足利貞氏の意を奉じ、高坊法眼に熊野山本宮御師職ならびに美作国稲岡南荘内御師職名(田在家)の安堵のことを通報している。 執事は足利氏の家務執行機関政所を主宰し、右の例に見られるように、主人の意を奉じ、被官などの所領・所識安堵の伝達、足利氏の私的支配下にある社寺への命令下達、財政問題処理の指示など、多方面にわたる活動を示している。 これまで述べてきたことを図示するとつぎのようになる。 ※一番左側に執事以下を「←被官群→」と括り、一番右側に、三番奉行人までを「中央」、その下を「地方」と括っている。☆には五本の斜線が引かれ、そのうちの三本が三つの公文所につながっている。*には三つに枝分かれした線が引かれ、そのうちの真ん中のものが下の地頭代・郷司につながっている。 足利氏 │ (執事) (鎌倉) ┌─────┬─────┤ 侍所 勘録 政所 (被官の統率) (訴訟裁判) ☆ (三番奉行人) 賀美郡 額田郡 足利荘 (郡・荘) 公文所 公文所 公文所 * * * 地頭代 郷司 地頭代 (郷・村) │ │ │ (所務代官) (所務代官) (所務代官) 以上のように、足利氏は整った機構を備え、ぼう大な被官群を政所以下の各部に配置することによって、諸国に散在する所領の管理支配を一元的に実現していたのである。 つぎに、この足利氏の支配を支えていた被官たちの所領構成を見ることにしよう。前掲史料の奉行人第三グループに属する倉持新左衛門尉家行の正安二年(1300)年ごろの所領は、
の十四か所をかぞえる(倉持文書)。これらのうち、郷村名のみのものは家行が給主(地頭代・郷司)として管理支配をゆだねられていた所領であり、屋敷田畠は足利氏より与えられた給恩地であろう。 このような所領構成は、所領数こそ違え、他の被官にも共通していた。長季連が正和四年(1315)十二月に父幸連より譲られ、文保二年(1318)年九月十七日、足利貞氏の安堵を受けた所領は、能登国土田荘上村半分、三河国富永保内助吉名、下野国足利荘給田一町、相模国愛甲荘船子屋敷東野畠二段、同給田一町で、前二者が地頭代職、あとは屋敷給田畠からなっていた(「松雲公採集遺編類纂」所収長伝書写)。また、有力被官高氏の場合も、後年の史料ではあるが、高師行の子孫小太郎師長の長禄三年(1459)十二月日付本領注文に、三河国額田郡政所職をはじめ、東関における本領として足利荘内足次・渋垂郷・小曾祢郷・山形郷・岩井郷・荒萩郷があげられている(内閣文庫所蔵古文書)。額田郡政所職は額田郡公文所職の後身であり、足利荘内の各郷については、本来地頭代職であったのか、給恩地であったのか、いずれとも明らかではないが、その所領構成はほぼ推測できる。被官のなかでも有カな者は、各地の公文所職(政所職)地頭代職を兼ねていたが、彼らは、一族子弟や家人を現地に代官として配し、自身は鎌倉にあって、足利氏の家政機関政所などの奉行人としての職務に従事し、時に地方へ下向して所領経営の監督指揮にあたるという生活を送っていたものと思われる。 被官たちはほとんど例外なく足利氏の本領足利荘内に屋敷・田畠を与えられ、鎌倉もしくは鎌倉にほど近い相模国愛甲荘内にも屋敷・給田畠を持つ者が多かったが、このことは足利氏所領の有機的統一を保つうえで重要な意味をもっていた(入間田宣夫前掲論文)。また、たとえば木戸氏が地頭代職をもつ足利荘木戸郷(上杉家文書)内に倉持氏の屋敷・給田畠が存在し(倉持文書)、長氏の屋敷・給田畠がある相模国愛甲荘船子郷(「松雲公採集遺編類纂」所収長伝書写)は、梶原氏が地頭代として管理・支配にあたっている(「新編相模風土記稿」)というふうに、足利氏はそれぞれの郷に地頭代・郷司以外の被官の屋敷・給田畠を設定しているが、これは地頭代・郷司による所領の管理と農民支配を補強する上で効果的な方策であったといえよう。 被官たちの所領・所職は、何らかの理由がないかぎり、足利氏が勝手に没収したり、他の者に与えたりすることはなかった。また、被官たちの所領の譲与・相続については、下野中部の雄族宇都宮氏の場合、すでに弘安六年(1283)、これに介入し制限を加えているが(「宇都宮家式条」)、足利氏においては被官の相続問題に介入した事例は見出せない。親権が絶対視され、足利氏は単にその譲与に安堵=承認・保証を加えるだけであったようである。 したがって、被官たちの所領は、地頭代職や郷司職を含めて、分割相続によって細分化されていく傾向にあった。たとえば、倉持氏の陸奥国賀美郡穀積郷地頭代職の場合、数代の分割相続によって、鎌倉末期には、わずかに郷内の屋敷一か所を公事(租税・課役のこと)負担付きで知行するのみの者すら現われてくるほどである(倉持文書)。被官たちのこのような所領の零細化は、貨幣経済の進展とあいまって、彼らの窮乏と年貫公事負担能力の低下をもたらし、その結果、年貢公事の未進・対捍や一族間の所領相論が生じ、また、地頭代・郷司と、郷内に屋敷・給田畠を持つ被官との間にも、土地や農民の支配をめぐる紛争が頻発するようになってくる。 こうして、諸国に散在する多くの所領とぼう大な被官群の上に立つ足利氏は、鎌倉末期になると、北条氏専制による圧迫に加え、その支配体制自身の持つ数々の矛盾の激化により、存立の基盤をゆるがす危機に直面するに至る。ここにおいて、足利氏は、何らかの新しい方策をとり、それによってこの危機的状況を打開する必要に迫 られるのである。 |
※第四節はこちら。