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※「第二章 源姓足利氏の発展」より。引用部分の執筆担当は小谷俊彦氏。

※第三節はこちら。
第四節 足利尊氏と室町幕府 足利尊氏の挙兵 足利尊氏は嘉元三年(1305)、貞氏〔1273〜1331.59歳〕の次子として生まれた。初名は又太郎高氏(以下、便宜上尊氏とよぶ)、母は上杉清子〔?〜1342〕、同母弟に直義(初名高国)〔1306〜52.47歳〕がある。その出生地については、丹波国八田郷梅迫(うめさこ)(現京都府綾部市梅迫町)に「尊氏誕生の井戸」と称するものがあるところから、同地とする説があるが(山越忍済『足利の鑁阿寺』)、やはり鎌倉とすべきであろう。『難太平記』は、尊氏の出生時の奇瑞として、産湯(うぶゆ)の時に、山鳩が二羽飛来し、一羽が尊氏の左肩に、一羽が杓(ひしゃく)の柄にとまったと伝えている。 尊氏は、兄左馬助高義の早世により、庶出の身ながら嫡子となり、元応元年(1319)十月、十五歳で従五位下治部大輔に任ぜられた。翌元応二年〔1320〕九月に、治部大輔の官を辞し、以後、前治部大輔と称した(「足利家官位記」)。そして、間も なく、北条氏の一門赤橋久時〔1272〜1307.36歳〕の娘登子(最後の執権守時〔1295〜1333.39歳〕の妹)を妻に迎えた。 このころ、幕府では、北条高時〔1303〜33.31歳〕が執権であったが、政治の実権は内管領の長崎高資〔?〜1333〕が握り、専断をほしいままにしたので、政治は乱れ、御家人たちの不満が高まっていた。一方、朝廷では、十三世紀半以降、皇統が持明院統と大覚寺統の両統に分裂し、皇位の継承をめぐる激しい対立が続いていた。幕府はこの解決策として両統が交互に即位するという方式を成立させたが、両統の対立は依然として解消しないまま、文保二年(1318)、大覚寺統の後醍醐天皇〔1288〜1339.52歳〕が即位した。天皇は、父後宇多法皇〔1267〜1324.58歳〕の院政停止を機に、政治の刷新をくわだて、記録所を設け、人材を登用して、親政をはじめた。しかし、皇位の継承は、天皇のあと、兄後二条〔1285〜1308.24歳〕の皇子邦良(くによし)親王〔1300〜26.27歳〕、ついで持明院統の量仁(かずひと)親王〔光厳天皇.1313〜64.52歳〕と決定していたので、両派はそれぞれ幕府に働きかけて天皇の早急な退位の実現を画策した。 天皇は、このような情勢のなかで、自己の皇位を安定させ、理想とする天皇中心の政治を実現するためにも、また、年来学んできた宋学(そうがく)の名分思想の立場からも、幕府を倒す必要を痛感し、近臣たちとひそかに討幕の計画をすすめた。この計画は、正中元年(1324)、未然に発覚して失敗した。これを正中の変という。その後も天皇の倒幕の意志は変わらず、奈良や叡山の僧兵を味方に引き入れるなど、その準備工作をすすめた。しかし、これもまた、元弘元年(1331)、幕府の知るところとなり、主謀者日野俊基〔?〜1332〕をはじめ文観〔1278〜1357.80歳〕・円観〔1281〜1356.76歳〕・忠円らが捕えられた。天皇は、同年八月、大和の笠置に逃れ、挙兵した。これに呼応して、河内の楠木正成〔?〜1336〕が赤坂城で挙兵したのをはじめ各地に挙兵するものがあらわれた。 天皇挙兵の報に接した幕府は、九月二日、出兵を命じ、幕府軍は五日から七日にかけて鎌倉を出発した(『北条九代記』)。足利尊氏はこの九月五日に父貞氏を失い、その仏事も終わらぬのに動員令を受けた。このことは尊氏の心中に北条氏に対する憎しみを深く刻みつけたことと思われる。 幕府の大軍の前に、やがて笠置城は落ちて天皇は捕えられ、神器も幕府が擁立した光厳天皇(量仁親王)に渡された。そして尊氏ら西上軍も十一月には鎌倉に帰着した。 翌年三月、後醍醐天皇は隠岐に流され、事件の主謀著たちもそれぞれ処分されて、元弘の乱は終息したかにみえた。ところが、同年の末、赤坂落城後姿をくらましていた楠木正成が千早城で、天皇の皇子護良親王〔1308〜35.28歳〕が吉野で挙兵し、元弘三年(1333)に入ると播磨の赤松則村〔1277〜1350.74歳〕が挙兵するなど、各地で反幕勢力が立ちあがった。後醍醐天皇も、閏二月には隠岐を脱出して伯耆の名和長年〔?〜1336〕に奉ぜられ、各地の武士に綸旨(りんじ)を下して討幕を呼びかけた。これを知った幕府は、大軍の派遣を決し、北条氏一門の名越高家〔?〜1333〕と尊氏を大将として上洛させた。 尊氏は幕府の要求にしたがい、異心のない旨の起請文を書き、妻登子と嫡子で四歳の千寿王(義詮)〔1330〜67.38歳〕を人質に置いて、三月二十七日、北条氏への背反を心に秘しながら、一族・被官以下三千余騎を率いて鎌倉を出発した(『太平記』)。途中、三河国で一族の吉良貞義に挙兵のことをはかったところ、貞義は、今では遅いくらいだといって、幕府への反逆を勧めたといい(『難太平記』)、また、近江国鏡(かがみ)の駅で細川和氏〔1296〜1342.47歳〕と上杉重能〔?〜1349〕がかねてひそかに賜わっていた後醍醐天皇の綸旨を尊氏に披露し、挙兵を促したともいわれる(『梅松論』)。尊氏は四月十六日入京後、周到に挙兵の準備を進め、その機を窺っていたものと思われる。『太平記』は、尊氏が京着の翌日、使者を伯耆に遣わして天皇に帰順を表明し、朝敵追討の綸旨を賜わったといい、二十二日には、ひそかに上野国の同族岩松経家〔?〜1335〕に北条氏追討の内書を送って挙兵を催促している(正木文書)。尊氏は二十七日、六波羅の軍議にしたがい、山陰道を伯耆に向けて出京したが、この日、一方の大将として山陽道に向かった名越高家が、赤松則村と戦って敗死したのを好機に、ついに決意を固め、そのまま丹波国に入り篠村に陣した。そして同日、陸奥の結城宗弘〔?〜1338〕、信濃の小笠原貞宗〔1292〜1347.56歳〕、石見の益田氏や、島津周防五郎三郎、野介高太郎など各地の武士に軍勢催促状を発して、勅命により後醍醐天皇の味方に参ったから合力するよう、協力を呼びかけ(白河証古文書・小笠原文書・萩藩閥閲録・島津家文書・前田家所蔵文書)、二十九日には、大友貞宗〔?〜1333〕・阿蘇惟時〔?〜1353〕・島津貞久〔1269〜1363.95歳〕ら九州の豪族にも密書を送って協力を要請した(大友文書・阿蘇家文書・島津家文書)。尊氏の挙兵は、従来、四月二十九日とされ、この日尊氏は、篠村八幡宮の社前で旗を揚げ、同社に願文を奉納して所願の成就を祈ったといわれている。この説の根拠は篠村八幡宮に伝わる尊氏の元弘三年四月二十九日付願文の存在であるが、近年、今枝愛真がこの願文を調査・研究し、後世の偽作であることを明らかにした(「丹波篠村における足利尊氏の挙兵とその願文」『史学雑誌』七〇−一)。 尊氏は、挙兵後しばらく近国の武士の参集を待ち、五月七日、大挙して京都に攻め入ったので、これまで赤松軍の攻撃をよく防いできた六波羅軍もついに敗れ、六波羅は陥落した。尊氏は直ちに奉行所を設けて京都の治安の維持にあたり、また、諸国の武士で、彼の下に投ずる者も多かったから、早くも六波羅探題に代わる新しい勢力となった。 一方関東では、五月八日、上野の新田義貞〔1301〜38.38歳〕が挙兵し、二十一日には鎌倉に攻め入り、翌二十二日、激戦の末、ついに鎌倉は陥り、北条高時以下は自害して果て、幕府は滅んだ。さきに鎌倉を脱出していた尊氏の嫡子千寿王は、五月九日武蔵国で義貞と会し、鎌倉攻めに加わっている。『太平記』は、千寿王の参加により倒幕軍に馳せ参ずる者がふえたことを述べ、『梅松論』は、鎌倉陥落後、義貞に属するものより、千寿王の下に参候するものの方が多かったと述べている。事実、常陸の武士大塚員成の申状によると、員成は鎌倉合戦の時、「若御料(千寿王)御座の由を承り及び、御方に馳せ参じ」て、新田一族大館幸氏に属して戦い、その後六月一日からは、千寿王の居所二階堂の後山の陣屋に勤仕したといっており(大塚文書)、これらから足利氏の動向が武士たちの去就に大きく作用したことがわかる。 高柳光寿は、正木文書応永三十三年(1426)七月日付の岩松満長代官申状に、北条氏追討のことは、尊氏より御教書(みぎょうじょ)を賜わり、満長の曾祖父岩松経家と新田義貞が両大将として退治したと記すことなどから、義貞の挙兵について、義貞の主体的行動を認めながらも、尊氏の慫慂(しょうよう)があったらしいこと、および、義貞の下に大軍を集結し得たのは、尊氏が広範囲の武士に倒幕への参加を呼びかけたからであろう、と推測している(『足利尊氏』)。事実と思われる。 尊氏は京都を占領すると、周到にも直ちに細川和氏兄弟を東下させて北条氏滅亡後の混乱の収拾にあたらせ、同時に鎌倉をおさえさせている(『梅松論』)。 なお、尊氏は挙兵の犠牲として庶長子竹若を失わねばならなかった。伊豆山にいた竹若は、父の挙兵を知って、伯父密厳院別当覚遍(加子基氏の子)らとひそかに上洛する途中、駿河国で幕使と行き合い殺された。同国の宝樹院(廃寺)はその菩提所である(宝樹院文書)。 建武新政と足利氏 幕府滅亡とともに光厳天皇は廃され、六月五日、後醍醐天皇は京都に帰還し、いわゆる建武新政が始まる。 尊氏は、同日、内昇殿(うちのしょうでん)を許されて鎮守府将軍に任ぜられ、十二日には従四位下左兵衛督(さひょうえのかみ)、弟直義も左馬頭(さまのかみ)となった。さらに八月五日には、尊氏は従三位に昇叙されて武蔵守を兼ね、天皇の偏諱を賜わって「高氏」を「尊氏」に改めた。このころ、倒幕に功のあった将士に恩賞が与えられ、尊氏は三十か所、直義も十五か所の所領・所職を得た。比志島文書に次のような所領目録が残っている。
これらはほとんど北条氏よりの没収地であり、大部分が地頭職であったと思われる。足利氏に対するこのような厚賞は、その行動が幕府打倒に決定的な役割を果したことから当然であった。 天皇は新政にあたり、記録所を復活して重要政務を審議させ、恩賞方・雑訴決断所を設けて、それぞれ恩賞問題や所領訴訟の処埋にあたらせた。これらの機関の職員は、雑訴決断所でその半数近くを武士が占めたほかは、大部分が公家で、記録所と恩賞方では武士は楠木正成・名和長年など数名をかぞえるのみである。尊氏は高い官位こそ与えられたが、政治の中枢には置かれなかった。武士の統轄と皇居の警備にあたる武者所の頭人の地位も新田義貞の一族に与えられ、足利氏からは、わずかに雑訴決断所の職員に被官の高師直(こうのもろなお)〔?〜1351〕・上杉憲房〔?〜1336〕らが加わっているにすぎない。 新政府は、地方には国司と守護を併置し、幕府打倒に功績のあった公家や武士をこれらに任じた。尊氏は武蔵の国司・守護と上総の守護を兼ねた。北畠顕家〔1318〜1338.21歳〕が尊氏の武蔵守任命と同じ日に陸奥守となり、十月に義良(のりよし)親王〔後村上天皇.1328〜68.41歳〕を奉じて陸奥に下向し、奥羽両国の行政にあたったのは、足利氏の関東における勢力を牽制するためであったが、これに対抗して尊氏側も、十一月、直義が相模守の任命をうけ、十二月には成義(なりよし)親王〔1326〜44.19歳〕を奉じて鎌倉に下り、関東十か国を管轄下に置くことに成功した。これによって、足利氏は関東における地位を一層強固にすることとなったのである。 新政府はその初政より政策の上で不手際が多かった。恩賞では、誤って一つの土地を数人に与えたり、現に知行する者のいる土地を他人に与えるなどの混乱や、不公平も多く、そのうえ、内裏造営の費用を諸国の地頭に課すなどして、武士たちの期待を裏切ったばかりでなく、所領問題の処理でも、武士社会の慣習を無視した取り扱いをするなど、適切さを欠いたため、武士の間に、新政に失望し、武家政治の再興を願うものが多くなった。 このような情勢は公武の間に不和を生み、武士たちの衆望をになった尊氏〔1305〜58.54歳〕と、尊氏に対してはやくから警戒心をいだいていた護良親王〔1308〜35.28歳〕との対立が表面化した。親王は尊氏襲撃を企て、その機を窺ったが、尊氏が強大な兵力で身辺を固めたので、成功せず、建武元年(1334)十月、かえって尊氏の強い要求に屈した天皇の命によって捕えられ、翌月、鎌倉へ護送され東光寺に幽閉された。 建武二年〔1335〕七月、北条高時の遺子時行〔?〜1346〕が関東で挙兵すると、新政に不満をいだく近国の武士たちが集まり、たちまち大勢力となった。時行は大軍を率いて鎌倉に迫り、これを迎え撃った直義〔1306〜52.47歳〕は敗れ、幽閉中の護良親王を殺し、成良親王を奉じて西走した。尊氏はこの報に接すると、朝廷に自身東下して時行を討つべきことを請い、征夷大将軍と諸国惣追捕使に任ぜられるよう願った。しかし勅許は得られず、征夷大将軍には成良親王が任ぜられた。そこで尊氏は、八月二日、朝廷の許しのないまま出京し、三河国で直義勢と合流し、各地で反乱軍を撃破しつつ進み、十九日には鎌倉を回復した。これを中先代(なかせんだい)の乱という。尊氏は諸将に恩賞を施し、そのまま鎌倉にとどまる気配を示した。 朝廷は尊氏を従二位に叙するとともに、勅使を派遣して尊氏の帰京を強く促した。しかし尊氏は動かなかった。『梅松論』によれば、直義が帰洛に強く反対したためという。十一月に入ると、尊氏は新田義貞誅伐の奏状を朝廷にたてまつり、直義の名で義貞討伐の催促状を諸国の武士に発して兵を集めた。新政府に対する公然たる反抗である。これに対して、朝廷では新田義貞〔1301〜38.38歳〕を大将として追討軍を下すことにした。十二月、足利軍は箱根および竹の下に義貞軍と戦ってこれをやぶり、敗走する義貞軍を追って西上し、翌建武三年(延元元年)〔1336〕正月入京した。 京都に入ったのも束の間、北畠顕家軍が足利軍を追って奥州より長駆西上し、義貞軍とともに攻撃したので、足利軍は随所にやぶれ、尊氏は丹波を経て兵庫に出、二月二日ついに船で九州へ逃れた。 尊氏は、三月二日、筑前多々良浜(たたらがはま)で菊池軍に大勝したのをきっかけに、勢力をもりかえし、再起の態勢を整えていった。 四月三日、尊氏は一色範氏〔?〜1369〕らを九州に残し、小弐・大友らの九州勢を従えて博多をたった。途中、中国・四国勢をあわせ、備後の鞆(とも)で二手に分かれて、尊氏は引き続き海路を、直義は陸路をとって東上し、同月二十五日、兵庫和田岬で新田義貞軍と戦って敗走させ、湊川で楠木正成の軍を全滅させた。後醍醐天皇は二十七日叡山に逃れ、二十九日には直義軍が京都に入った。尊氏も六月十四日光厳上皇〔1313〜64.52歳〕・皇弟豊仁親王〔1321〜80.60歳〕を奉じて入京し、八月十五日には親王が神器のないまま即位して光明天皇となる。 この後も両軍の戦闘が続いたが、後醍醐天皇側は名和長年〔?〜1336〕らが戦死し、次第に敗色が濃くなった。天皇は義貞に命じて恒良(つねよし)〔1324〜38.15歳〕・尊良(たかよし)〔?〜1337〕両親王を奉じて北陸へ赴かせ、自身は、十月十日、かねてよりの尊氏の要請に応じて帰京し、十一月二日、神器を光明天皇に授けた。こうして建武の新政はわずか二年半で終わりを告げたのである。 幕府の開設と内乱 十一月七日、尊氏は二項十七条よりなる建武式目を公布して、幕府の再興を天下に宣言するとともに今後の施政の基本方針を示した。幕府の組織はこの基本方針にのっとり、ほぼ建武三年〔1336〕から四年〔1337〕にかけて整えられた(佐藤進一「室町幕府開創期の官制体系」『中世の法と国家』)。尊氏はこの間、北朝より権大納言に任ぜられ、さらに暦応元年(延元三年)〔1338〕八月十一日には征夷大将軍(同日位階も正二位にすすむ)となって、ここに名実ともに室町幕府が成立することになる。 後醍醐天皇は建武三年〔1336〕十二月二十一日、ひそかに京都を脱出して大和の吉野に走り、朝廷=南朝を開いて尊氏の擁立する京都の朝廷=北朝に対抗した。ここに二つの朝廷と二つの年号が併立する南北朝六○年の内乱が始まることとなった。 天皇は足利氏討滅を全国に呼びかけ、各地に皇子・諸将を派遣して京都奪還のための勢力の扶植に努めた。これに対して尊氏は、一族を守護に任じて諸国に配置し、関東・九州など、前代以来の有力豪族が守護職を保持する地方には関東管領・九州探題を置いて南朝勢力に対抗させ、あわせて全国支配のための布石とした。 両軍の戦闘は各地で展開された。北陸に下った新田義貞は越前金ガ崎城に入り、その本拠地上野・越後と連絡をつけて活動を開始した。事態を重視した尊氏は越前守護斯波高経〔1305〜67.63歳〕・若狭守護斯波家兼兄弟をこれに当たらせ、さらに執事高師直の弟師泰〔?〜1351〕を救援にさし向けた。師泰らは建武四年(1337)三月、金ガ崎城を陥れて尊良親王を自殺させ、恒良親王を捕えた。斯波軍はその後も反撃する新田軍と激戦を交え、翌暦応元年〔1338〕閏七月、藤島の戦いで義貞を討取った。 奥州でも、北畠顕家〔1318〜38.21歳〕は、足利軍の猛攻を受けて多賀(たが)国府を放棄し、建武四年(1337)正月、伊達郡の霊山(りょうぜん)に移っていたが、後醍醐天皇の命により再度西上の途につく。同年八月、一○万の精鋭を率いて出発し、十二月には鎌倉を衝いて義詮の補佐にあたっていた斯波家長を敗死させ、翌暦応元年(1338)一月には美濃に到着した。そこで尊氏は、高師冬〔?〜1351〕を派遣してこれを防がせたが、師冬の軍勢は同国青野原で大敗を喫してしまった。顕家軍はこれより南進して伊勢に入り、伊賀をへて奈良に出、京都進撃の気配を示した。これに対して足利方は、高師直が大軍を率て南下し、二月、般若坂で顕家軍を撃破し、連戦の末、五月にいたり、和泉の石津で顕家を敗死させた。 北畠顕家・新田義貞のあいつぐ戦死は南朝側にとって大きな打撃となった。後醍醐天皇は頽勢を挽回するため、再び皇子を各地に派遣する策をとり、同年九月、懐良(かねなが)親王〔?〜1383〕を征西大将軍として西国に下し、東国方面には、義良・宗良両親王に北畠親房〔1293〜1354.62歳〕とその次子顕信〔?〜1380?〕らをつけて下向させることにした。伊勢を出航した義良親王らの一行は、途中暴風雨にあい、義良親王〔後村上天皇.1328〜68.41歳〕は伊勢に吹きもどされ、宗良親王〔1311〜85?.75歳?〕は遠江に、親房は常陸に標着した。常陸に入った親房は南朝の拠点づくりに奪闘したが、やがて関東執事高師冬の東下によってしだいに圧迫され、康永二年(1343)十一月、ついに吉野に帰った これよりさき、後醍醐天皇は、暦応二年(1339)、病におかされて、八月十六日ついに吉野でその生涯を終え、義良親王が即位した。後村上天皇である。 尊氏は天皇崩御の報に接して悲嘆し、直ちに幕府の雑務沙汰を七日間停止して哀悼の意を表した。そして同年冬、天皇の菩提をとむらうため、洛西の地に天竜寺創建の工を起した。暦応四年(1341)七月の同寺地曳の際には、尊氏は直義とともにこれに臨み、自ら土を担っている(天竜寺造営記録)。尊氏は天皇に背きはしたが、天皇に対して深い敬愛の念をいだき続けたことを示すものといえよう。 これより南朝方はしだいに勢力を失い、貞和四年(1348)正月、楠木正行が河内の四条畷(しじょうなわて)で敗死し、後村上天皇も奥地の賀名生(あのう)に逃れ、南朝はここにまったく名ばかりの存在になってしまった。しかし、足利方も尊氏と直義兄弟の不和から内紛(観応の擾乱)がおこり、この間尊氏も一時南朝に降伏することなどがあった。延文三年(1358)四月三十日、尊氏は背中にできた腫(はれ)物が原因で、五十四歳の波乱に満ちた生涯を京都二条万里小路邸で終えた。遺骸は洛北衣笠山の等持院に葬られた。法号は等持院殿仁山妙義。関東では長寿寺殿と称するが、これは尊氏の開基になる鎌倉の長寿寺が菩提所とされたためであろう。百筒日にあたる同年八月十一日には、足利荘の鑁阿寺大御堂で追善のため曼荼羅供(まんだらく)が修せられている(一一〇)。 統一への動き 尊氏の死によって幕府の主となった子の義詮は、元徳二年(1330)六月十八日の誕生で、母は北条久時の娘登子、妻は一門渋川義季〔1314〜35.22歳〕の娘幸子である。 延文三年(1358)十二月十八日、義詮は征夷大将軍に任ぜられた。時に二十九歳。幕府権力を強化し、南朝を圧服させることが大きな課題として義詮一人の肩にかかってきたのである。幕府内部の二頭政治による権力の分裂は、直義〔1306〜52.47歳〕の死によって解決され、将軍専制への道が開かれたが、そうなると、今度は将軍の補佐役として幕政全般を統轄する執事の地位をめぐる有力武将の対立抗争が起こるようになってくる。 義詮は将軍の権威を高めるために、一族の斯波義将(よしまさ)〔1350〜1410.61歳〕を執事に任命するなどして、幕府の安定を計った。その間に諸国の武士もしだいに幕府に従うようになって、内乱収拾の方向に向かってはいたが有力武将の反抗がしばしば起きていた。実際の統一は三代の義満時代をまたなければならなかったのである。 義詮は貞治六年(1367)十二月七日、三十八歳で世を去り、洛北衣笠山の麓に葬られた。法号は宝篋院殿道権瑞山。 義詮のあとをついだ義満〔1358〜1408.51歳〕は、延文三年(1358)八月二十二日生まれで、時に十歳。母は石清水八幡宮の検校法印良清の娘で、義詮の妾であった紀長子。応安元年(1368)四月元服、同年十二月三十日に征夷大将軍に任ぜられた。 義詮の死にのぞんで任用された新管領細川頼之〔1329〜92.64歳〕は、将軍義満が幼少であっただけに、何よりもまず将軍の地位を絶対化し、幕府の安定をはかることに努めた。その手始めとして、就任早々、まず五か条の禁制を発布して、幕府内の綱紀を正し、また、義満の元服の儀・判始(はんはじめ)・諸社参詣など、事あるごとに将軍の権威を高め、威厳を飾るための盛大な行事を催した(小川信『細川頼之』)。 南朝への戦略としては、頼之は、和平論者として南朝で孤立していた楠木正儀(くすのきまさのり)の誘引につとめ、応安二年(1369)二月には幕府に帰順させることに成功した。 一方、九州では南朝方が懐良親王を奉じて、依然として優勢をほこっていた。頼之は今川了俊(貞世)〔1325〜1420.96歳〕を九州探題に起用してこれにあたらせることにした。了俊は応安四年〔1371〕九州に下向すると、少弐・大友・島津などの伝統的豪族や在地武士たちの誘引と組織化につとめ、巧みな軍略と用兵で、しだいに南朝方を圧迫していった。応安五年〔1372〕八月には大宰府を占領して懐良親王を筑後に走らせ、さらに応安七年〔1374〕八月には筑後に進攻して、親王らを肥後の菊池に追いこめ、九州のほぼ全土を回復した。 義満が成人するにつれて、管領頼之の幕政専断に対する諸将の不満は高まり、ついに康暦元年(1379)閏四月、斯波・土岐・山名・佐々木らの諸将が結束して、義満に頼之罷免をせまった。義満はやむなく頼之を免じ、これに代えて足利一族の名門斯波義将を管領に任命した。 頼之の罷免によって、その後見から解放された義満は二十二歳。幕政を親裁して、いよいよ専制君主への道を歩みはじめる。 そして宿将として勢力を振っていた土岐・山名両氏を討って守護勢力をおさえることに成功したのち、最後の課題である南朝との和平の交渉を推し進め、ついに目的を達した。明徳三年(1392)閏十月、南朝の後亀山天皇〔?〜1424〕は京都に還幸し、北朝の後小松天皇〔1377〜1433.57歳〕に譲国の形式で神器を授けて、両朝の合一が実現した。こうして室町幕府は全国を支配する統一政権となったのである。 |
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