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安達盛長(あだちもりなが.1135〜1200.66歳) 平安末・鎌倉前期の武将。通称藤九郎。「尊卑分脈」には藤原北家魚名流より出て、小野田三郎兼盛の子としているが、信憑性は少ない。盛長は、鎌倉時代に隆盛をきわめた安達氏一門の祖。源頼朝の配流時代からその側近に仕えた御家人で、頼朝の信頼を受けた。鎌倉に政庁が開かれると、旧臣として重用され、元暦元年(1184)のころから上野国の奉行人となる。その後、文冶五年(1189)には奥州征伐に従軍し、頼朝の二度の上洛にも供奉した。正治元年(1199)正月、頼朝の死により出家。法名蓮西。ついで同年四月、将軍頼家の下で十三名の合議制の一員となり幕政の中枢に位置した。またそのころ三河の守護となっていた。梶原景時弾劾にあたっては、子景盛とともに弾劾状に名を連ねた。同二年四月二十六日、六十六歳で死去。現在の神奈川県鎌倉市長谷の甘縄神明社前が安達氏の館跡といわれる。 (『鎌倉・室町人名事典』濱野公志氏) |
| 安達景盛(かげもり.?〜1248) 鎌倉前期の武将。通称弥九郎。父は安達藤九郎盛長。母は丹後内侍。幕府草創より父盛長とともに源頼朝に仕え、頼朝の死後間もない正治元年(1199)、景盛が三河国に行き鎌倉を留守にした間に、二代将軍頼家により愛妾を奪われた。この時、頼家は後見役である梶原景時の讒言により、景盛誅殺の挙に出たが、政子の諫止により果せなかった。この事件とも関連して梶原景時弾劾にあたっては、景盛は強硬な態度をとり、父盛長とともに弾劾状に名を連ねた。ついで将軍実朝の時代には右衛門尉に任じられ、建保六年(1218)三月には出羽介となり、秋田城を管し、秋田城介と称した。これ以後秋田城介は安達氏世襲の職となる。翌四月、従五位下に叙せらる。承久元年(1219)正月、将軍実朝の死により出家。法名大蓮房覚智(地)と号した。やがて高野山に入り、高野入道とも称され、実朝菩提のために金剛三昧院を建立した。信仰深く、明恵上人と親交を結び、両人の間での和歌の贈答が今日にも伝えられている。景盛は出家後も政治の中枢に参画し、承久の乱では北条時房のもとで戦っており、乱後功を以て河内国讃良庄の地頭職に補せられている。その女は、兼好法師の『徒然草』の中で、質素倹約の範をみずから示した話によって名高い松下禅尼であり、執権北条泰時の嫡子時氏の室となって、のちの執権経時、時頼を生んだために、景盛は外祖父として権勢を高めた。寛元四年(1246)三月、時頼が執権になると、この若き執権時頼と、当時幕府内にあって北条氏と肩を並べうる豪族三浦氏との対立が表面化することとなり、翌宝治元年(1247)四月、景盛は三浦氏の権力伸長を危惧して高野山より鎌倉に至り、執権時頼と密議をはかった。また嫡子の義景は評定衆に列なっており、しかも三浦泰村ともともと仲が悪く、景盛・義景父子は時頼の背後で三浦氏排除の策動を行った。かくて同年六月、安達一族が中心となって執権時頼を動かし、雄族三浦氏討滅に成功した(宝治合戦)。こうして鎌倉幕府草創以来景盛は、源家三代将軍に近仕し、また執権北条氏と親密な関係を結び、常に幕政の枢機に参画し、安達氏隆盛の基礎を固めた。翌宝冶二年五月十八日、高野山で没した。 (『鎌倉・室町人名事典』濱野公志氏) |
安達義景(よしかげ.1210〜53.44歳) 鎌倉時代中期の武将。評定衆。秋田城介景盛の嫡子で城太郎と称した。政治家として父に劣らぬ手腕をもち、父の出家の後、嘉禎三年(1237)従五位下秋田城介となり、延応元年(1239)には評定衆に列して幕政に参加した。仁治二年(1241)に従五位上、翌三年正月、四条天皇の後嗣問題で、邦仁親王(後嵯峨天皇)を推す幕府の使者として、二階堂行義とともに上洛、幕府の意志の実現に成功した。執権北条経時・時頼の時代には、執権の外戚として、常に幕政の枢機に参与し、北条実時・政村と並んで、時頼の政治を扶けた。寛元四年(1246)名越光時以下が前将軍藤原頼経を擁し密謀をすすめた時(宮騒動)、その鎮圧に功あり、ついで三浦泰村と権勢を争って対立が激化し、種々の謀略をめぐらして執権時頼に讒言し、ついにこれを動かして三浦氏の討滅に成功した。これが宝治元年(1247)六月の三浦氏の乱(宝治合戦)であり、この時、安達氏は義景を中心に一族を挙げて三浦の軍勢を攻撃している。乱後、御家人の中で、安達氏に対抗し得る勢力をもつものはなくなり、義景は時頼の片腕として枢機の中心にすわるが、この乱の直後、時頼とはかって北条重時を連署に迎えることとし、みずから使者として京六波羅に赴き、重時に将軍の命令を伝えている。この後もしばらく評定衆として重要政務に参与したが、建長五年(1253)五月、病のために出家して高野山に入った。法名願智。同年六月三日、四十四歳で死去。 〔参考文献〕『鎌倉市史』総説編、三浦周行『鎌倉時代史』(『日本時代史』五)、安田元久『鎌倉幕府−その政権を担った人々−』、竜粛「鎌倉時代概観」(『鎌倉時代』下所収) (『国史大辞典』安田元久氏) |
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安達泰盛(やすもり.1231〜85.55歳) 鎌倉時代後期の武将。初名、城九郎。秋田城介。義景の子。母は小笠原時長の女。安達氏は祖父景盛以来幕政の枢機に与り、泰盛も早く将軍藤原頼嗣の近習となり、つづいて引付・引付頭・評定衆に列し、さらに越訴奉行となった。また文永九年(1272)以後十一年までに肥後守護となり、おそらく滅亡までその職にあった。建長五年(1253)父の死後は幕政の重要局面には必ず名を列ねた。その後二十年間、執権北条政村・時宗・貞時の政局に参与し、その権威は年とともに盛んで「威勢先祖ニ越エテ人多ク随キ」といわれ、一族も蔓延した。弘安のころには、従来北条一門に限られた陸奥守に任じ人の目をそばだてた。この権威は景盛以来、執権一門と血縁関係を累ねてきているということにも基づいている。弘安の蒙古襲来の時、泰盛は子盛宗を守護代として九州に下し、みずからは御恩奉行として鎌倉に在った。弘安五年(1282)十月秋田城介を子宗景に譲り、同七年出家した。安達氏の権勢は執権の畏憚と豪族の嫉視を買い、泰盛は源氏を称して将軍職を僭する野心ありとさえ流言された。このころ執権家の内管領平頼綱は泰盛と権威を争い、泰盛を執権貞時に讒した。ついに同八年十一月十七日、泰盛は執権当局の追伐を受けて、一族与党とともに滅びた。時に五十五歳。これが霜月騒動である。法名は覚真。泰盛の政治以外の活動も注目されるが、特に高野山および京都との接触において著しい。前者としては、景盛が将軍源実朝の菩提のために高野に入って大蓮房覚智と称したのに端を発する。文永二年(1265)高野山の覚※が参道の町石(ちょういし)建立を企て弘安八年までの二十一年間に完成したが、泰盛はこれを援助し五基の町石を寄せている。また同山金剛三昧院の寺務職の法爾から、弘安三年鎌倉で灌頂を受けた。また資を投じて真言宗聖典印行にも力をつくした。次に公家との接触も活発である。将軍実朝夫人は夫の菩提のために、京都に遍照心院を建てた時、その維持について泰盛に委嘱した。また文永十年後嵯峨天皇一周忌に高野山奥院に建碑して天皇から『文選』等を賜わった旨を刻んだ。関白鷹司兼平に剣・馬・砂金などを贈ったこと、朝廷の書道家たる世尊寺経朝から書論を贈られたことなども注目され、また幕府の御鞠奉行をつとめ、他方馬術の名手としての名をも残していて、彼がひろく諸芸諸道に通じていたことを思わせる。 ※「敲」の「高」を「學」に換えた字。 〔参考文献〕藤原猶雪『日本仏教史研究』、水原堯栄『高野山金石図説』、多賀宗隼「秋田城介安達泰盛」(『鎌倉時代の思想と文化』所収)、同「北条執権政治の意義」(同所収) (『国史大辞典』多賀宗隼氏) |
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安達時盛(ときもり.1241〜85.45歳) 鎌倉中期の武将。通称城四郎。父は秋田城介義景。兄泰盛とともに早くから幕政に参与し、弘長三年(1263)十一月、北条時頼の死によって出家。法名炉忍。のち改名して道供と号す。その後も政冶の中枢に参画し、文永四年(1267)評定衆となる。建冶二年(1276)九月遁世し、ひそかに寿福寺に入ったため、所領をことことく収公された。弘安八年(1285)六月十日、高野山で没。四十五歳。 (『鎌倉・室町人名事典』濱野公志氏) |
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安達顕盛(あきもり.1245〜1280.36歳) 鎌倉中期の武将。通称城六郎。父は秋田城介義景。兄泰盛・時盛とともに早くから幕政に参与した。文永十一年(1274)三月二十二日、加賀守に任ぜられ、同日従五位下に叙せられる。弘安元年(1278)、評定衆に任ぜられ、兄泰盛を筆頭に安達氏一門の勢力を拡大した。弘安三年(1280)二月八日三十六歳で死去。 (『鎌倉・室町人名事典』濱野公志氏) |
☆より詳しくはこちら。(安田元久氏「安達一族」)
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