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| 近衛基通(もとみち.1160〜1233.74歳) 平安末・鎌倉初期の公卿。父は摂政近衛基実。母は大蔵卿藤原忠隆の娘。嘉応二年(1170)四月、叙爵。侍従・近衛を経て、右中将から、承安四年(1174)八月、従三位(非参議)に叙す。納言を経ず治承三年(1179)十一月、内大臣に進み、同時に内覧・関白となる。この異例の昇進には、かねてからの後白河法皇の鍾愛とともに、継母平盛子を通じて影響力を行使しようとする平氏の意向もあった。同四年二月、安徳天皇即位にともない摂政となり、四月、従一位に昇叙せられる。寿永二年(1183)六月、平氏西走の際にはこれと行をともにせず、法皇の叡山逃脱をはかり、また西走の安徳天皇にかえて後鳥羽天皇を擁立して力を尽した。同年十一月、木曾義仲の法皇御所襲撃といわゆるクーデタに際してその職をとどめられたが、翌年正月、義仲誅滅とともに摂政に復した。 内乱から鎌倉初期、基通は一貫して法皇派として行動したが、その殊寵には九条兼実を筆頭とし反感、批判が多く、文治二年(1186)三月には前年の頼朝追討宣旨の責めを負って辞任、籠居に追い込まれた。これによって兼実が摂政となったが、法皇の強い庇護があって摂政家領はもとのごとく基通の手にとどめられた。のちの九条・近衛両家の摂録の対立はここに胚胎する。兼実と幕府の提携が破れると、建久七年(1296)十一月、反兼実派土御門通親の動きにおされ、三たび浮上し関白となった。同九年正月土御門天皇の即位にともなって摂政に転じ、建仁二年(1202)十二月これを辞した。承元二年(1208)十月(七月とも伝う)出家、法名行理。天福元年(1233)五月二十九日没。七十四歳。普賢寺摂政、また近衛殿と号す。 (『鎌倉・室町人名事典』棚橋光男氏) |
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| 近衛家実(いえざね.1179〜1242.64歳) 鎌倉初・中期の公卿。父は摂政近衛基通。母は治部卿源顕信の娘。猪熊(また猪隈)関白と号す。建久元年(1190)12月、叙爵。近衛・納言を経て正治元年(1199)6月、右大臣、建仁3年(1203)3月、一上(いちのかみ)、元久元年(1204)12月、左大臣、建永元年(1206)、九条良経の死去にともない氏長者・摂政となり、以後、土御門・順徳・後堀河天皇の摂政・関白として、安貞2年(1218)12月まで通計二十二年に及んだ。この間、承元元年(1207)正月、従一位に叙し、承久3年(1221)12月から翌年4月までは太政大臣に任じている。 嘉禎4年(1238)3月、准三后をゆるされる。仁治2年(1241)11月、出家、法名円信(また円心)。翌年12月27日没。六十四歳。家実の事績にはとくにみるべきものはなく、承久乱前後の公武政局にあって鎌倉幕府の信を得たの一は、その性温順なるによったものと思われる。日記に『猪隈関白記』(また『続御暦』)がある。 (『鎌倉・室町人名事典』棚橋光男氏) |
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| 近衛兼経(かねつね.1210〜1259.50歳) 鎌倉初・中期の公卿。父は摂政近衛家実。母は兵部権大輔藤原季定の娘。貞応元年(1222)12月、叙爵。侍従・近衛を経て、右中将から、元仁元年(1224)12月、従三位(非参議)に叙す。同月、権中納言に任じ、累進して安貞元年(1227)4月、内大臣、寛喜3年(1231)4月、右大臣、嘉禎元年(1235)10月、左大臣に進み、同2年2月、従一位に昇叙せられる。 九条・近衛両家は長く対立していたが、嘉禎3年正月、西園寺公経の仲介によって摂政九条道家の娘任子(仁子)と兼経の婚儀がなり、同年3月、道家の譲りを受け兼経が摂政・氏長者となった。仁治元年(1140)12月、太政大臣に任じ、同3年正月、関白となったがわずか二ヵ月でその職を道家の次子二条良実に奪われた。 のち宝治元年(1247)正月九条家と幕府の対立によって幕府の計らいとして再び摂政となる。建長4年(1252)10月、摂政を舎弟鷹司兼平に譲る。正嘉元年(1257)3月8日、病のため出家、法名真理。正元元年(1259)5月4日没す。五十歳。岡屋摂政と号す。 その生涯は九条家と近衛家の対立、これに乗じた西園寺家の周旋と台頭のうちにあったといえる。日記に『岡屋関白記』(また『岡屋兼経卿記』『岡屋殿御記』とも)があり、貞応元年から建長3年までの記事を伝えている。 (『鎌倉・室町人名事典』棚橋光男氏) |
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| 鷹司兼平(かねひら.1228〜1294.67歳) 鎌倉中・末期の公卿。五摂家の一、鷹司家の祖。父は関白近衛家実。母は兵部卿藤原忠行の女。嘉禎3年(1237)2月、叙爵。右中将から、暦仁元年(1238)正月、従三位(非参議)に叙す。同年閏2月、権中納言に任じ、累進して仁治2年(1241)4月内大臣、寛元2年(1244)6月、右大臣同年12月、左大臣に進み、宝治2年(1248)10月、従一位に昇叙。 建長4年(1252)10月、摂政・氏長者となる。同年11月、太政大臣を兼ね、翌年11月これを辞す。同6年12月、摂政を改め関白となる。弘長元年(1261)4四月、これをとどめられ、建治元年(1275)10月、復して摂政となった。弘安元年(1278)12月、関白に転じ、同10年8月、これを辞す。正応3年(1290)3月30日、出家、法名覚理。永仁2年(1294)8月8日没す。六十七歳。称念院(また照念院とも伝う)入道前関白と号す。能書であった。その邸宅が鷹司室町にあり、家名のもととなった。 (『鎌倉・室町人名事典』棚橋光男氏) |
☆鷹司兼平は『とはずがたり』の「近衛大殿」に比定されている。
| 鷹司基忠(もとただ.1247〜1313.67歳) 鎌倉中・末期の公卿。父は摂政鷹司兼平。母は権大納言藤原実有の女。康元元年(1256)正月、叙爵。右中将から、同二年正月、 従三位(非参議)に叙す。同年十一月、権中納言に任じ、累進して、弘長二年(1262)正月、内大臣。文永二年(1265)十月、右大臣に進み、同五年正月、従一位に昇叙。同年八月、東宮傅となり、同十二月、左大臣。同月、関白・氏長者となる。同十年五月、これを辞し、弘安八年(1285)四月、太政大臣に任ず。同十年八月辞す。正和元年 (1312)三月二十九日、出家、法名理勝。 翌年七月七日没す。六十七歳。円光院入道前関白と号す。 (『鎌倉・室町人名事典』棚橋光男氏) |
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| 鷹司兼忠(かねただ.1262〜1301.40歳) 鎌倉中・末期の公卿。父は摂政鷹司兼平。母は家女房(弁局)。文永八年(1271)二月、叙爵。左中将から、翌年正月、従三位 (非参議)に叙す。同十年五月、権中納言に任じ、累進して、正応元年(1288)十月、内大臣に進み、同年十二月、従一位に昇叙。 同二年十月、右大臣に転じ、東宮傅を兼ねる 同四年十二月、左大臣に任じ、永仁四年(1296)七月、氏長者となる。同六年七月、 摂政となり、同年十二月、これを辞す。正安三年(1301)八月二十三日、出家、同月二十五日没す。歓喜園院入道前摂政と号す。 (『鎌倉・室町人名事典』棚橋光男氏) |
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