up14.3/13


九条兼実・良経





九条兼実(かねざね.1149〜1207.59歳)


 平安末、鎌倉初期の公卿。月輪殿、後法性寺殿とよばれた。久安五年(一一四九)生まれ。父は摂政藤原忠通、母は太皇太后宮大進藤原仲光の娘加賀。忠通の子の中では、早く僧籍に入った者を除くと、異母兄の基実(近衛)、基房(松殿)に続く第三の男子である。異母姉に皇嘉門院(崇徳中宮)、同母弟に慈円がいる。父から九条の地を与えられて邸を構え、九条家の祖となった。保元三年(一一五八)元服して正五位となり、永暦元年(一一六○)二月に非参議、従三位、同年八月に権中納言、翌応保元年(一一六一)に権大納言、長寛二年(一一六四)に内大臣、仁安元年(一一六六)に右大臣となり、位階も承安四年(一一七四)には従一位に昇った。早くから摂関の地位を望んでいたが、後白河法皇と平氏とが対立する中で、松殿基房は法皇と、 近衛基通(基実の子)は平氏と結んだのに対し、兼実はいずれとも結ばなかった。治承三年(一一七九)、平清盛は関白基房を退ぞけ、女婿の基通を関白とし、法皇の院政を停止した。翌年には以仁王の挙兵があり、清盛は福原に遷都したが、兼実は同行せず、京都に留まった。同年、藤原氏の氏寺である興福寺が平氏に反抗し、平氏がこれを討とうとした際、兼実はこれに反対したが、結局は阻止できなかった。寿永二年(一一八三)、平氏が安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちすると、兼実は平氏追討のため新主を立てる必要を後白河法皇に進言し、法皇の詔で後鳥羽天皇が践祚した。平氏を追って京都に攻めいった源義仲は、法皇と対立、法皇を幽閉し、摂政基通を罷免し、前関白基房の子師家をこれに代えたが、翌元暦元年(一一八四)、義仲が討たれると、基通が還任された。この間兼実は事態を静観し続けたが、鎌倉に拠った源頼朝は兼実に接近を図り、兼実の方でもこれに応じた。文治元年(一一八五)、源義経の要求によって、法皇が頼朝追討の宣旨を下した際、兼実が強くこれに反対した結果、兼実に対する頼朝の信頼は、決定的に高まった。同年、兼実は頼朝の推薦によって内覧を命ぜられ、議奏公卿とされ、さらに翌文治二年には基通に代って、念願の摂政、藤氏氏長者となった。兼実は頼朝の後援を背にして政治の刷新に努め、文治三年には記録所を設置した。しかし兼実に対する法皇や近臣の抵抗は強く、政治は意のごとくならず、兼実は孤立した。文治五年、奥州藤原氏は義経を討ち、さらに頼朝は奥州藤原氏を滅ぼした。翌建久元年(一一九○)、頼朝は上洛して法皇や兼実と対面した。義経が討たれたことは、この問題を主たる契機とする法皇と頼朝との対立を解消させ、両者を和解させるとともに、法皇を掣肘するために兼実と結んで来た頼朝にとって、兼実の利用価値は少なくなった。兼実と対面した頼朝は、法皇の没後、後鳥羽天皇の時代に期待をかけ、それまでは法皇とのきびしい対立を耐え忍ぶよう兼実に説いているが、それも口先だけのことであった。この年、後鳥羽天皇が元服すると、兼実の女任子は入内して女御となり、さらに中宮に立てられ、翌二年、兼実は摂政を辞して関白となった。頼朝は妹婿の一条能保を支援し、能保は権中納言に昇ったが、頼朝は兼実と能保との提携を望み、同年、兼実の子の良経は、能保の娘と結婚した。建久三年、後白河法皇が没すると、兼実は政治の実権を握って全盛期を迎え、頼朝の征夷大将軍宣下を実現した。兼実は中宮任子が後鳥羽天皇の皇子を産むことを期待していたが、建久六年には皇女昇子が出産した。一方、同年には兼実の政敵である源通親の養女在子が、後鳥羽天皇の皇子為仁(土御門天皇)を生んだ。建久七年、通親は兼実を讒言し、任子は内裏を追われ、兼実は関白を罷免され、基通が復活し、慈円も天台座主を辞して籠居した。その後も、兼実は政権回復を図ったが果さず、建久九年、後鳥羽天皇は土御門天皇に譲位し、通親は天皇の外戚となった。建仁二年(一二〇二)、兼実は法性寺で出家、円証と称した。同年、通親が没し、後鳥羽上皇が政権を握ると、上皇は兼実の子良経を摂政に登用し、九条家に復活の兆が見えてきたが、建永元年(一二〇六)、その良経も急死した。さきに兼実は文治四年(一一八八)、長男良通を失っており、さらに良経に先立たれ、ただ良経の子道家の成長に期侍せざるを得なくなったが、承元元年(一二○七)四月五日、法性寺で没し、同地に葬られた。墓地は法性寺のあとに建てられた東福寺の境内にある。兼実は高弁、法然に帰依し、法性寺内に報恩院を営み、終焉の場所とした。法然の『選択本願念仏集』は兼実のために述作されたものといわれる。和歌は藤原清輔、藤原俊成に学び、その詠歌は『千載集』『新古今集』などに収められており、また歌壇の保護者としての役割をも果たした。儒学は清原頼業に学び、その他、書道、音楽にも長じていた。その日記『玉葉』は長寛二年から建仁三年に至るまで、四十年に及ぶ貴重な記録であり、他に有職故実に関する著書として『魚秘抄』『春除目略抄』『摂政神斎法』がる。

(『鎌倉・室町人名事典』上横手雅敬氏)



九条良経(よしつね.1169〜1206.38歳)


 鎌倉時代初期の公卿。書道家でもある。父は摂政関白九条兼実。母は従三位藤原季行の女。治承三年(一一七九)、元服、文治元年(一一八五)、従三位に叙せられる。同四年、長兄良通が早世したため嫡子となる。権中納言を経て、正二位に叙せられ、文治五年権大納言に転じ、建久六年(一一九五)、内大臣となるが、翌七年十一月、土御門通親・丹後局らの策謀により父兼実とともに政界を追われ籠居する。正治元年(一一九九)、左大臣として復帰する。通親の没後、建仁二年(一二〇二)十月、氏長者となり、内覧の宣旨を受け、同十二月土御門天皇の摂政となる。元久元年(一二〇四)正月、従一位に叙せられ、同十一月左大臣を辞し、十二月太政大臣となる。翌二年四月、太政大臣を辞す。建永元年(一二〇六)三月七日夜、寝所で何者かに暗殺される。菅原為長の所為ともいわれるが定かでない。三十八歳であった。後京極殿という。墓所は洛東小松谷の要法寺にある。ひろく衆芸に通じ、とくに書・和歌・詩にすぐれていた。書においては法性寺流に屈曲が激しく線に強みを加えた後京極流を始める。和歌は『千載和歌集』『新古今和歌集』をはじめ十四の勅撰集に約二百五十首もの歌が見られる。また家集『秋篠月清集』がある。漢詩では『後京極摂政詩集』、日記では『殿記』がある。『三十六歌仙絵巻』の詞も良経による。

(『鎌倉・室町人名事典』武田彩子氏)



トップページ