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九条道家




九条道家(1193〜1252.60歳)

 鎌倉前期の公卿。光明峯寺殿・峯殿と称された。九条良経〔1169〜1206.38歳〕の長男、母は一条能保〔1147〜97.51歳〕の女で源頼朝〔1147〜99.53歳〕の姪にあたる。室は西園寺公経〔1171〜1244.74歳〕の女綸子〔1192〜1252.61歳〕、綸子の母は、道家の母の妹全子で、道家の従妹にあたる。建久四年(1193)七月生る。翌五年四月には祖父兼実〔1149〜1207.59歳〕にひきとられて育てられた。建仁三年(1203)二月十三日、元服(十三歳)、同日禁色を許され、正五位下に叙された。その後侍従・左中将を経て元久二年(1205)正月、従三位、同年三月、権中納言に任ぜられた。翌建永元年(1206)三月、父の摂政良経が三十八歳で急逝したため道家が家を継いだ。その後も官途は順調で、同年六月に左大将を兼任、承元二年(1208)七月、権大納言(十六歳)、建暦二年(1212)六月、内大臣、建保二年(1214)十二月、右大臣に任ぜられ、同六年二月、左大将を辞す。これより先承元三年〔1209〕三月、同母妹立子(後の東一条院)〔1192〜1247.56歳〕を皇太弟守成親王(のちの順徳天皇〔1197〜1242.46歳〕)の妃とし(天皇即位後の同四年正月、中宮となる)、建保六年〔1218〕十一月、その所生の皇子懐成親王(のちの仲恭天皇)〔1218〜34.17歳〕が皇太子となると東宮傅を兼任、叔父の左大臣九条良輔〔1185〜1218.34歳〕が没すると、同年十二月、左大臣に転任した。この背景には関東申次をつとめた岳父西園寺公経の存在が大きかったものと考えられる。承久元年(1219)正月、将軍源実朝〔1192〜1219.28歳〕が暗殺されると、源氏の遠縁にあたるとの理由で、幕府の請により、同年六月、第三子頼経〔1218〜56.39歳〕を鎌倉に下向させた。この決定に際しても岳父公経が奔走している。同三年〔1221〕四月、順徳天皇が譲位し、仲恭天皇が践祚すると摂政に任ぜられたが、まもなく承久の乱が起こり、同年七月、仲恭天皇が廃され、道家も摂政を罷免された。しかし、嘉禄元年(1225)十一月、北条政子〔1156〜1225.70歳〕が没すると、翌二年〔1226〕正月、頼経は正式に征夷大将軍に任ぜられ、頼経の外祖父公経が関東申次として朝廷の実権を握り、安貞二年(1228)十二月、道家は近衛家実〔1179〜1242.64歳〕にかわり関白に任ぜられた。翌寛喜元年(1229)十一月、長女※子(のちの藻壁門院)〔1209〜33.25歳〕を入内させ、後堀河天皇〔1212〜34.23歳〕の女御とし、同二年二月、※子は立后して中宮となった。同三年〔1231〕五月、道家は関白を長子教実〔1210〜35.26歳〕に譲ったが、同日従一位に進み、その後も「大殿」と称して政務の実権を握った。同年二月、※子に皇子(秀仁親王、のちの四条天皇〔1231〜42.12歳〕)が生まれると同年十月これを皇太子とした。翌貞永元年(1232)十月、四条天皇が即位し、道家はその外祖父となり、教実は摂政に任ぜられた。文暦二年(1235)三月、教実が二十六歳の若さで夭折すると、道家は再び摂政に還任し、九条家で摂関の地位を独占した。しかし嘉禎三年(1237)正月、女仁子を左大臣近衛兼経〔1210〜59.50歳〕の室とし、同年三月、摂政を兼経に譲り、近衛家との融和を図っている。翌暦仁元年(1238)四月、法性寺の別業において出家し、法名を行慧と称したが、禅定太閤としてその権勢は盛んであった。仁治二年(1241)十二月、故教実の女彦子(のちの宣仁門院)〔1227〜62.36歳〕を入内させて四条天皇の女御としたが、翌三年〔1242〕正月、天皇が十二歳で夭折したため、天皇の外祖父としての地位を失った。道家は皇嗣として順徳院の皇子で外甥にあたる忠成王〔1221〜79.59歳〕を推したが、幕府に反対され、土御門院〔1195〜1231.37歳〕の皇子邦仁王(後嵯峨天皇)〔1220〜72.53歳〕が擁立されたため、その権威には翳が見えはじめた。同年三月、不仲であった次子二条良実1216〜70.55歳〕が岳父西園寺公経の後押しで関白に就任したが、寛元二年(1244)八月、公経没後は関東申次を継承し、さらに同四年1246〕正月、周囲の反対を押し切って、良実にかえて寵愛する三子一条実経〔1223〜84.62歳〕を関白とし、翌日後深草天皇〔1243〜1304.62歳〕が即位するとこれを摂政とするなど権勢を振い、朝幕間の重事に関わり、後嵯峨院政にも重きをなした。 しかし、鎌倉では前々年の寛元二年四月、将軍頼経〔1218〜56.39歳〕は北条氏に迫られて将軍職を子の頼嗣〔1239〜56.18歳〕に譲って隠退しており、この寛元四年1246〕五月、執権北条時頼〔1227〜63.37歳〕を除かんとする名越光時の隠謀が発覚し、これに関係した頼経は同年七月、京都に送還された。このため道家もその背後で画策したとして幕府に嫌疑をかけられ、関東申次を罷免され、ついで翌宝冶元年(1247)正月には摂政実経も解任されている。道家はその嫌疑を晴らすために多くの起請文を寺社に納めたが、政治的失脚は決定的となった。こうした失意の中で、建長二年(1250)十一月道家は九条家一門の建て直しのため惣処分状を作成した。所領譲渡の対象となったのは寺院では道家の建立した東福寺(開山円爾〔1202〜80.79歳〕)、曽祖父忠通〔1097〜1164.68歳〕の創建した最勝金剛院、東福寺別院である普門院、祖父兼実の草創終老地である報恩院、道家が終老地として東山に建立した光明峯寺などがあり、一門のものでは宣仁門院(彦子)、近衛北政所(仁子)、九条禅尼(教実室)、尚侍殿(末女☆子)、前摂政一条実経、右大臣九条忠家(教実子)〔1229〜75.47歳〕、姫君(粟生姫君)などで、不孝の人として道家に義絶された二条良実には所領は譲与されなかった。この処分状が九条家、一条家、そして西園寺家に保護された二条家の三家分立の契機となった。同三年〔1251〕暮には鎌倉の将軍頼嗣の周囲に幕府転覆の陰謀が起こり、その嫌疑をかけられた道家は、翌四年〔1252〕二月二十一日、不遇のうちに東山の峯殿で没した。歳六十。その日記を『玉蘂』という。
※へんが「立」、つくりが「尊」
☆にんべんに全

(『鎌倉・室町人名事典』菊池紳一氏)



☆九条家の没落についてはこちら。(三浦周行氏『鎌倉時代史』)





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