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源通親の子(猶子を含む)





源通宗(みなもとの・みちむね

平安・鎌倉時代の人、参議。仁安3(1168)年生〜建久9(1198)年5月6日没。31才。
内大臣源通親〔1149〜1202.54歳〕の長男。母は太政大臣藤原忠雅の娘。弟に土御門定通・久我通光・堀川通具・中院通方がいる。安元2(1176)年叙爵。治承3(1179)年侍従に任ぜられる。養和元(1181)年従五位上、寿永2(1183)年正五位下に進み、同4年左少将に任ぜられ従四位下に進み、同5年播磨介に任ぜられる。建久元(1190)年従四位上に進み、同2年左中将に任ぜられ正四位下に進み、同5年播磨権介、同8年蔵人頭・新院別当に任ぜられ更に参議に任ぜられる。典:公卿補任

(野島寿三郎編『公卿人名大事典』)


☆通宗の娘、通子(?〜1221)は後嵯峨院の母。後嵯峨院と源通親の関係についてはこちら。(『増鏡』巻四)





土御門通具(つちみかどみちとも

1171〜1227(承安元〜安貞元)
鎌倉初期の公卿・歌人。堀川大納言とも号す。父は内大臣土御門通親。母は修理大夫平通盛の女。元暦元年(1184)十一月、叙爵。文治元年(1185)十二月、父通親の知行国である因幡守に任ぜられ、建久六年(1195)二月まで在任した。ついで建久八年六月から正治二年(1200)三月まで伊予守に在任するがこれも父の知行国であった。そのほか近衛次将、蔵人頭などを経て、建仁元年(1201)八月に参議。同三年十一月には右衛門督・検非違使別当を兼任。元久二年(1205)四月には正三位で権中納言。建暦二年(1212)六月、権大納言を経て、貞応元年(1222)八月、正二位大納言に至った。通具は和歌に秀で、建久九年正月には和歌所の寄人に補され、建仁元年七月には『新古今和歌集』を奏進している。通具の歌は『新古今和歌集』から『新続古今和歌集』に至るまでの勅撰和歌集に収められている。安貞元年(1227)九月二日、五十七歳で没す。通具に対して『明月記』の記者藤原定家〔1162〜1241.80歳〕、『民経記』の記者藤原経光〔1213〜74.62歳〕らが和歌に秀でた故人を偲んで哀悼の意を表したことがおのおのの日記からうかがえる。

(『鎌倉・室町人名事典』菊池紳一氏)


☆堀河通具は交野宮と呼ばれる人物を養育していたが、交野宮をめぐる奇妙な話はこちら。(龍粛氏「後嵯峨院の素意と関東申次」)
☆通具の孫で太政大臣にまで昇進した基具(1232〜97.66歳)についてはこちら。(『徒然草』第99段)






承明円院じょうめいもんいん

1171〜1257(承安元−正嘉元)
 後鳥羽天皇の妃。名は在子。父は内大臣土御門通親。母は刑部卿藤原範兼の女、範子。実父は法印能円〔1140〜99.60歳〕で、母範子は能円と離婚して通親と再婚し、在子もその養女となった。後鳥羽天皇〔1180〜1239.60歳〕の後宮に入り、宰相君と称された。建久六年(1195)十月、後鳥羽天皇の第一皇子為仁親王を生む。同じころ九条兼実の娘任子宜秋門院.1173〜1238.65歳〕が女子を生んでおり、このことは翌七年十一月の政変の一つの要因となった。同九年正月、為仁親王が即位した。これが土御門天皇〔1195〜1231.37歳〕である。父通親は天皇の外祖父として権勢をふるった。正治元年(1199)十二月、従三位に叙され、同日准三宮となる。建仁二 年(1202)正月十五日、院号宣下、承明門院と号す。建暦元年(1211)十二月、落飾、法名は如観。正嘉元年(1257)七月五日、八十七歳で没す。

(『鎌倉・室町人名事典』菊池紳一氏)


☆『増鏡』の承明門院他界の場面はこちら





証空しょうくう

1177〜1247(治承元〜宝冶元)
鎌倉時代の僧。浄土宗西山派の祖。西山上人。はじめ解脱房と号したが、のちに善慧房と改めた。治承元年(1177)十一月九日、京都に生れる。父は加賀権守源親季。幼少から聡明で内大臣久我通親の猶子となるが、建久元年(1190)四月、通親の反対を押し切って法然房源空〔1133〜1212.80歳〕の門下となり得度を受けた。源空門下にあってはつねに重要な地位を占め、建久九年〔1198〕、源空が九条兼実の請いによって『撰択本願念仏集』を撰述すると勘文の役を受け、また正治元年(1199)六月、源空の代理として九条兼実の邸で講座をもった。翌二年には九条道家〔1193〜1252.60歳〕のために『観経疏私記』を著している。さらにその地位を示すものとして、元久元年(1204)の七箇条制誡では門弟中、第四番目に署名を行った。源空のもとで二十三年を過し浄土教の研究に励んだが、建暦二年(1212)、源空の示寂後は、磯長の願蓮から天台止観を、法曼院政春から真言を学び、天台座主慈円〔1155〜1225.71歳〕に従い、のちに公円から灌頂法を受けるなど諸方に遊学した。しかし、建保五年(1217)、仁和寺経蔵で中国の善導の『般舟三昧行道往生讃』の序文に出会い、いよいよ深く浄土教に帰したといわれる。証空は、はじめ洛東小坂に住していたが、建保年間(1213〜1219)に慈円の嘱を受けて西山善峰寺に移り、念仏の弘法に努めた。このことから証空の宗義は小坂流(義)とか西山流(義)といわれるようになった。その後、北尾往生院に居を移した。寛元元年(1243)、宮中で後嵯峨天皇〔1220〜72.53歳〕に円頓戒を授け、さきに創建した白川歓喜寺は官寺となって、近江の小野荘が施入された。このほか、摂津武庫川に浄橋寺を創建するなど大いに活躍した。また貴族の帰依も厚く、九条道家は法性寺内に遣迎院を構築して、証空の教化の便をはかった。宝治元年(1247)、遣迎院にあった証空は、十一月、病に冒され死期の近いことを悟ると、二十五日に門人を集め法を説き、翌二十六日『阿弥陀経』をともに誦し午時に入寂した。遺体は西山三鈷寺に葬られ、門人は塔を建て華台と号した。弟子に証入・証意・隆信らがいる。諡号は鑑知国師。著作に『観経秘訣集』二十巻、『曼陀羅註記』十巻、『撰択密要訣』『四十八願鈔』などがある。

(『鎌倉・室町人名事典』荒川正憲氏)


☆源通親と九条兼実の関係についてはこちら。(上横手雅敬氏「源平の盛衰」)





久我通光(こがみちみつ

1187〜1248(文冶三〜宝治二)
鎌倉前期の公卿。父は内大臣土御門通親。母は刑部卿藤原範兼の女、従三位範子。通光は三男であったが嫡子に立てられ、村上源氏の嫡流を継いだ。文治四年(1188)、叙爵、建仁元年(1201)、従三位に叙せられ、累進して内大臣に至ったが、承久の乱後に官を辞した。後嵯峨天皇の即位により政界の表舞台に復帰。寛元四年(1246)、従一位太政大臣に任ぜられた。宝治二年(1248)正月十七日、病のため上表、翌十八日、六十二歳で薨ず。後久我太政大臣と号し、『新古今集』以下の勅撰集への入首も多い。また藤原孝道から琵琶の伝授を受けている。

(『鎌倉・室町人名事典』宮崎康充氏)


☆通光・定通・通方の三人の母である藤原範子は卿二位(藤原兼子.1155〜1229.75歳)の姉。卿二位についてはこちら。(三浦周行氏「丹後局と卿局」
☆通光の遺言を原因とする久我家の凄絶な相続争いについてはこちら。(『特別展観.中世の貴族』)






久我定通(こがさだみち

1188〜1247(文治四−宝治元)
鎌倉前期の公卿。内大臣土御門通親の四男。母は刑部卿藤原範兼の女、従三位範子。異母兄通宗の子となった。文治五年(1189)叙爵、建仁二年(1202)、従三位に叙せられ、累進して嘉禎二年(1236)、内大臣に任ぜられたが、翌年辞した。仁治三年(1242)、四条天皇〔1231〜42.12歳〕が崩じて皇嗣が問題となると、定通はみずからの扶持していた土御門上皇の皇子の擁立をはかり、定通の妻が北条義時〔1163〜1224.62歳〕の女であった関係から幕府に働きかけ、後嵯峨天皇の践祚を実現させた。宝治元年(1247)九月二十八日、六十歳で薨ず。実は二十六日に没していたのを秘して臨時除目を行い、二十八日に喪が発せられたのである。末世の才卿、高才博覧の人と評され、後土御門内大臣と号した。(『鎌倉・室町人名事典』宮崎康充氏)



土御門通方(つちみかどみちかた

1189〜1238(文治五〜暦仁元) 鎌倉前期の廷臣。中院氏の祖。土御門大納言とも称す。父は内大臣源(土御門)通親。母は従三位藤原範兼女の範子。建久五年(1194)正月、従五位下。同六年二月、父通親の知行国因幡の国守に任ぜられる。建久〔建仁の誤り〕元年十二月、左少将に遷任。承元元年(1207)十月、右中将。建暦元年(1211)九月、蔵人頭を経て同二年十二月、従三位。建保三年(1215)十二月、参議となる。同七年四月、右衛門督・検非違使別当を兼任、承久二年(1220)正月、権中納言に任じ、同三年七月、幕府の奏請で恐懼に処せられる。嘉禄二年(1226)四月、宣陽門院別当となる。安貞元年(1227)四月、中納言に転じ、寛喜二年(1230)二月、中宮権大夫を兼任。同三年三月、権大納言を経て、暦仁元年(1238)、大納言となる。建仁元年十月、後鳥羽上皇の熊野詣でに従い和歌を詠ずるなど和歌にすぐれ、『続古今和歌集』などに歌が載せられている。暦仁元年十二月二十七日出家、翌二十八日、五十歳で没す。著作に『飾抄』がある。

(『鎌倉・室町人名事典』菊池紳一氏)




道元どうげん

1200〜1253(正治二〜建長五)
鎌倉時代の禅僧。曹洞宗。宇治木幡の人。父は内大臣久我通親。母は松殿基房〔1145〜1230.86歳〕女の伊子。三歳のとき父通親が死し、八歳で母を失う。建暦二年(1212)、十三歳の春、母方の叔父良観法印について出家を求め、比叡山横川の首楞厳院に入り、般若谷千光房に住む。建保元年(1213)四月、公円について得度出家し、受戒して仏法房道元と名乗る。なお後年、宝治二年(1248)ごろ諱を希玄と改めたが、禅僧としての字(道号)は用いなかったらしい。道元は天台僧としての法名である。建保二年(1214)ころ叡山を下りて、三井寺に公胤僧正を訪う。ついで建仁寺を訪ねる。一説に、このとき栄西と相見したという。このとき栄西は七十一歳で、翌三年七月に示寂する。五年秋から建仁寺の明全(栄西門下)に師事して、天台教学、黄竜派の禅および律を学ぶ。承久の乱の余燼が収まった貞応二年(1223)二月、明全とともに宋に渡るために出京。四月、明州に着く。やがて天童山景徳禅寺に赴き、無際了派に参ず。以後、しばらく臨済宗大慧派の禅を学ぶ。この間諸派の嗣書を閲覧す。嘉定十七年(元仁元・1224)、無際の示寂を機に天童山から遍参の旅に出て、宝慶元年(嘉禄元・1225)の春、杭州径山に浙翁如※に参ず。〔※王へんに「炎」〕ついで天台山万年寺、大梅山護聖寺、温州の能仁寺を訪い、再び天童山に帰り長翁如浄に謁す。同九月、仏祖正伝菩薩戒脈を授けられる。のち如浄のもとで修道を遂げて嗣書などを授けられ、安貞元年(1227)秋に帰朝、建仁寺に入る。寛喜元年(1229)から三年の間に叡山の迫害によって建仁寺を去り深草に隠棲。同三年八月、『弁道話』一巻を著す。帰国直後の著書『普勧坐禅儀』とともに道元の立宗宣言と目される。天福元年(1233)ころ、この地に九条教家らの外護を得て興聖宝林禅寺を開く。同年八月『現成公案』を著す。嘉禎二年(1236)十月、興聖寺僧堂を造営、坐禅道場を整備する。同三年『典座教訓』『出家受戒作法』を著述。延応元年(1239)、『乗雲堂式』を著し規律を示す。このあと寛元元年(1243)七月までに『正法眼蔵』の約半分四十二巻を著す。この間、孤雲懐奘・覚禅懐鑑・徹通義介ら大日坊能忍派下の人々が集団入門し教団は拡充した。仁治三年(1242)から寛元元年七月までの間に著した『護国正法義』に反発して叡山が再び圧迫を加え、また同元年二月に円爾〔1202〜80.79歳〕が東福寺を開創したのを機に、秋興聖寺を詮恵に譲り越前に赴く。同閏七月一日、越前禅師峰で『三界唯心』を著す。その後吉峰寺に移り著述活動を続け、志比庄に大仏寺を開創。同四年六月に永平寺と改称、『知事清規』を撰す。宝治元年(1247)八月、北条時頼〔1227〜63.37歳〕の招きで鎌倉に赴くが、翌二年二月、永平寺に帰山、十二月、『庫院規式』、翌建長元年(1249)正月、『衆寮清規』を定める。同五年正月、『正法眼蔵』最後の巻『八大人覚』を著す。七月、永平寺を懐奘に譲り療養のために上洛。八月二十八日示寂。五十四歳。後年、仏性伝来国師(孝明)・承陽大師(明治)の号を勅諡せられる。

(『鎌倉・室町人名事典』今泉淑夫氏)


☆より詳しくはこちら。(竹貫元勝氏「鎌倉時代の禅宗」)



土御門通行(つちみかど・みちゆき

鎌倉時代の人、権大納言。建仁2(1202)年生〜文永7(1270)年6月30日没。69才。初名=通継。
第62代村上天皇の皇子具平親王の末裔。内大臣源通親の六男。母は承明門院女房の尾張局。初め通継と名乗る。建仁4(1204)年叙爵。建保4(1216)年従五位上に進み、同5年侍従、安貞元(1227)年左近少将に任ぜられる。同年通行と改名。同2年上総権介に任ぜられる。同3年正五位下、寛喜2(1230)年従四位下に進み、貞永2(1233)年能登介に任ぜられる。文暦2(1234)年従四位上、嘉禎3(1237)年正四位下に進み、同4年左中将、仁治2(1241)年参河介、同3年蔵人頭に任ぜられ更に参議に任ぜられる。寛元元(1243)年従三位に進み遠江権守に任ぜられる。宝治2(1247)年正三位に進み讃岐権守に任ぜられる。建長2(1250)年権中納言に任ぜられる。同3年従二位に進み右衛門督・検非違使別当に任ぜられ、同4年督・別当を辞す。同6年正二位に進み権大納言に任ぜられる。正元元(1259)年権大納言を辞す。文永7年腫物の為に没。子に通持がいる。典:公補

(野島寿三郎編『公卿人名大事典』)



定親じょうしん

?〜1265(?〜文永二)または1203〜1266(建仁三〜文永三)
鎌倉中期の真言宗の僧。内大臣土御門通親の子。鶴岡八幡宮別当定豪、仁和寺行遍僧正に灌頂を受ける。寛喜元年(1229)六月二十五日、鶴岡別当に補せられ、仁治二年(1241)十月から文応元年(1260)まで東大寺別当を勤める。妹が三浦泰村に嫁していたため、宝治元年(1247)六月十八日、三浦氏に連座し籠居を命ぜられ、七月に上洛した。弘長元年(1261)十一月、東寺長者となり翌年十二月辞す。正嘉元年(1257)の旱魃、文永元年(1264)七月の彗星出現の際の祈祷に験があった。同二年七月二十五日寂す(『鶴岡八幡宮寺社務職次第』)。なお『東大寺別当次第』には同三年九月九日、六十四歳で寂とある。

(『鎌倉・室町人名事典』中込律子氏)




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