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毛利季光・毛利氏・毛利荘





毛利季光(もうりすえみつ.1202〜47)

 鎌倉時代中期の武将。建仁二年(1202)生まれ。大江広元1148〜1225.78歳〕の四男。妻は三浦義村の娘。長兄親広?〜1241〕が公家身分の源姓を称し広元嫡流の次兄長井時広?〜1241〕も公家気分が抜けないとき、かれは父から譲られた相模国毛利荘(神奈川県厚木市)を基盤に関東御家人武士として毛利姓を名乗り毛利氏初代となる。将軍源実朝1192〜1219.28歳〕に近侍し任大将拝賀の鶴岡八幡社参行列の前駆にも加わり、官職は従五位下の左近衛将監。承久元年(1219)実朝死没直後に出家し入道西阿と称す。承久の乱には幕府軍の主力東海道軍に属し、木曽川渡河では最右翼の鵜沼の渡(岐阜県各務原市)ヘ向かう隊長となってこれを突破したのをはじめ多く軍功をあげる。京都占領直後の戦後処理の評議にも北条泰時・同時房・三浦義村とともに参加した。安芸国吉田荘地頭職はこの乱の勲功の賞として与えられたものとみられる。

 執権となった泰時1183〜1242.60歳〕に重用され、天福元年(1233)関東評定衆に抜擢されてからはいっそう政治力を発揮して幕府の主脳陣営に加わる。藤原頼経1218〜56.39歳〕が将軍職を子息頼嗣1239〜56.18歳〕に譲った後の寛元四年(1246)にはこの父子を鎌倉の自邸に迎え、邸内の寝殿(正殿)で頼嗣の甲冑着初式を行うまでになっている。すでに延応元年(1239)にかれの娘が泰時の次男で父から将来を嘱望されている時頼〔1227〜63.37歳〕に嫁していることは、かれが時頼の後見人として見込まれていたことを示している。

 ところが時頼が執権となった翌年の宝治元年(1247)に三浦氏の乱がおこる。かれは娘婿の時頼に味方し幕府に馳せ参じようとしたが、妻から縁家の三浦氏を棄て権勢のある北条氏に荷担するのは武士の義に背くと引きとめられ、翻って三浦氏方となって敗北し、六月五日鎌倉法華堂で三浦一族とともに自刃する。このとき専修念仏者であるかれは諸衆に勧め善導作の浄土法事讃を唱えあげた。四十六歳。墓は神奈川県鎌倉市法華堂後山の大江広元墓に隣接する。四男経光だけが季光所領の一つ越後国佐橋荘(新潟県柏崎市)に在住して死を免れ、毛利荘は没収されるが毛利の名字だけは保つことができた。

【参考文献】『大日本史料』五ノ二二、宝治元年六月五日条、『寛政重修諸家譜』六一六、河合正治『安芸毛利一族』

(『国史大辞典』河合正治氏)
※河合正治氏の略歴はこちら






毛利氏

 鎌倉幕府御家人、のち近世外様大名。大江広元1148〜1225.78歳〕の四男季光1202〜47.46歳〕が、本拠、相模国毛利荘(神奈川県厚木市)の在地名により毛利氏を称す。季光は承久の乱で武名をあげ、鎌倉幕府の評定衆となり、また執権北条時頼の岳父でもあったが、三浦氏の乱に巻き込まれ、越後国佐橋荘(新潟県柏崎市)にいた四男経光を残し族滅する。毛利荘を没収された経光は長男基親に佐橋荘北条(きたじょう)を(基親は越後毛利氏の祖)、四男時親に佐橋荘南条と安芸国吉田荘を譲る。時親は六波羅評定衆に抜擢されるが、鎌倉幕府滅亡後も足利尊氏党となって生き延びる。建武政権に没収された吉田荘地頭職を曾孫元春と協力して奪回し、建武三年(1336)七月吉田荘に下向、宮方となった子や孫も迎え入れ本拠を越後国から移し、安芸毛利氏の基礎を置く。南北朝時代、親衡・元春父子が対立しながらも、一族の勢力を吉田盆地一円に拡大する。元春は九州出征の功績により室町幕府から一族占領地の支配を認められ、永徳元年(1381)父に味方した弟の匡時(坂・桂氏の祖)・直元(有富氏の祖)の所領も安堵し、子の広房(惣領)・広内(ひろただ、麻原氏の祖)・忠広(中馬氏の祖)・広世(福原氏の祖)らに所領を分割、こうして在村名を名のる庶家を分出し、惣領家を中心に団結させる。室町時代の光房・煕元は安芸の国人領主に成長し、隣接の領主と一揆契約し守護に反抗もしたが、一方、上洛し将軍の権威をかりて一族内の統制を図る。応仁・文明の乱では、東軍方から西軍方に転じた豊元が安芸国西条盆地と備後国世羅台地でも所領を獲得する。細川・大内両勢力に挟まれ苦悩した弘元は、壮年で家督を幼い興元に譲って隠退する。興元は大内義興の東上軍に従軍し、四年間在京。帰国後は山陰の尼子氏勢力の南下に対し、芸備の国衆と一揆して安定に努めたが早世し、幼主幸松丸時代には尼子氏麾下に入る。甥の跡をうけ宗家を継いだ元就1497〜1571.75歳〕は大内義隆と結び、郡山合戦で尼子包囲軍を撃退するなど実力を高め芸備両国を制する。厳島の戦で陶晴賢を倒し、弘治三年(1557)大内義長を討滅し、防長石三国を加えて五ヵ国の大名となる。同年元就は隆元1523〜63.41歳〕・元春(吉川)1530〜86.57歳〕・隆景(小早川)1533〜97.65歳〕の三子に一致協力を求める教訓状を与えるが、これで領国経営をも分担協力する「毛利両川体制」が整うことになる。元就死後も、元春・降景は隆元の嗣子輝元1553〜1625.73歳〕を盛り立て、天正四年(1576)織田氏と対決を始めたころ、毛利氏の領分は中国地方一帯から四国の一部を含む一大勢力となる。豊臣政権下でも中国地方八ヵ国百十二万石の領有を許された。関ヶ原の戦でのつまずきによって防長二国に減転封され、城地を萩に構え、三十六万九千四百十一石余の外様大名となる。一族に封地を分給し、近世初頭には長府藩(五万余石)・徳山藩(四万余石)・清末藩(一万石)、および岩国領(吉川氏、明治元年(1868)藩となり六万石)の四支藩を設定し、宗家の羽翼とした。関ヶ原の戦後、輝元の隠退によって秀就を萩藩祖となし、子孫相ついで幕末に至り、敬親1819〜71.53歳〕のとき維新の業をなして版籍を奉還した。明治十七年元徳が公爵を授けられ、また長府藩の元敏、徳山藩の元功、清末藩の元忠も、同年それぞれ子爵を授けられた。

【参考文献】 『寛政重修諸家譜』六一六−六一八、時山弥八編『(稿本)もりのしげり」

(『国史大辞典』河合正治氏)






毛利家文書

 安芸国国人領主として成長し、毛利元就1497〜1571.75歳〕時代には中国地方の覇者となり、関ヶ原の戦後には防長両国を領する萩藩主となった毛利氏宗家に伝来した武家文書。総数は安元三年(治承元、1177)から享保九年(1724)に至る千五百七十五通に及ぶ(山口県防府毛利報公会所蔵、重要文化財)。『大日本古文書』家わけ第八として刊行されており(四冊)、これは毛利家において享保年間(1716−36)に整理された成巻の順序によって配列されている。内容は鎌倉時代のものも若干あるが、おもなものは南北朝時代に入って毛利一族が越後国から安芸国に移ってより、宮方・武家方に分かれて相剋しながらも、吉田盆地一帯に地盤を固める動向を示すものから始まる。また同時代には吉田荘西隣の内部荘に拠る三戸(源)一族の活動を示す文書類もある。室町時代には安芸の国人領主となった毛利氏内部の惣領家と庶家たちの結合状態や、庶家を抑えるため惣領家が将軍家に奉仕する状態や、一方、守護に対抗して他の国人領主と提携して国人一揆を組織する事情などが具体的に知られる。応仁の乱前後からは毛利氏が、対抗する大内・尼子氏ついで大内・尼子氏の外部大勢力の狭間にあって苦しみながらも自力を伸長させ、元就の出現によって西国最大の戦国大名に発展していく過程や、戦国大名としての組織構成状況を知ることができる根本史料となっている。さらに元就・降元1523〜63.41歳〕をはじめ一族の自筆書状が多く収められており、武将の心情の内側まで知ることのできる点は他の武家文書に類をみない。元就は計策に富んでおり尼子・大友氏らの他大名に対する外交交渉の内幕も知られるが、一方、元就の三子に対する教訓状をはじめ一族融和をはかるためのきめこまかい心遣いが、毛利氏発展の原動力であったことも理解させられる。毛利氏ははじめ織田氏と対抗し、ついで豊臣政権の中枢に入ったため安土桃山時代の文書も多く、織豊政権の国内統一や文禄・慶長両役についても欠くことができない内容をもっている。また毛利氏が関ヶ原の戦に敗北するに至る事情から、江戸時代初期においても徳川政権下で家の存続のために非常な配慮をし、一族家臣の統制・融和にも苦慮している事情が知られる。毛利家枝族の文書としては『吉川家文書』や『小早川家文書』がすでに『大日本古文書』家わけ第九・十一に収められ刊行されている。『長府毛利家文書』(長府毛利家所蔵、下関市立長府博物館寄託)は未刊ではあるが南北朝時代から江戸時代初期に至る百九十一通が巻子・手鑑として保存されている。内容は元就を中心とするものとともに長府藩祖である元清・秀元関係のものも多く、毛利氏動向を側面から眺められる内容をもっている。このほか『福原家文書』(渡辺翁記念文化協会所蔵、宇部市立図書館寄託)をはじめ家臣家関係の文書や、萩藩府によって編集された『萩藩閥閲録』(山口県文書館によって刊行)や『萩藩譜録』(未刊)などにも毛利氏関係文書が多く含まれている。

(『国史大辞典』河合正冶氏)






毛利荘もりのしょう

 相模国愛甲郡にあった荘園。森荘とも書く。「もうりのしょう」ともいう。現在の神奈川県愛甲郡愛川町東南部から厚木市中心部に及ぶ広大な荘園。成立の事情は不明であるが、「吾妻鏡」治承五年(1181)正月十八日条に「相模国毛利庄住人」とみえ、また建久五年(1194)には大江広元1148〜1225.78歳〕が「下毛利庄」で源頼朝1147〜99.53歳〕を饗応している。当荘の支配が広元から子季光1202〜47.46歳〕に譲られたらしく、季光は毛利氏を名乗り、その後裔が戦国大名毛利氏となった。荘内には厚木・妻田・散田・荻野・飯山郷、一色村等が含まれていた。これらの多くは南北朝期鎌倉公方から鎌倉の寺院領として分配され、厚木郷は二分されて円覚寺正続院領と崇寿寺領となり、妻田・散田・荻野郷は覚園寺領となった。飯山郷には鋳物師が居住していたことが知られる。1449年(宝徳元)覚園寺は後花園天皇から当荘内地の知行を安堵されている。戦国期にも棟札、仏像・鰐口銘等に荘名がみえる。なお上毛利荘は戦国期にみえるのみで詳細は不明。

【参】『神奈川県史』資料編3・通史編1、1975−81年。

(『日本史大事典』田辺久子氏)






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