更新11.12/11 up9.6/25


ドナルド・キーン『百代の過客−日記に見る日本人』
(朝日選書.1984年.p231以下)






ドナルド・キーン氏の略歴(『朝日人物辞典』より)
Donald Keene (1922〜)アメリカの日本文学研究家。ニューヨーク生まれ。コロンビア大在学中に太平洋戦争が勃発,海軍の日本語学校に入り,情報関係の軍務についた。戦後,ハーバード,コロンビアの大学院で日本文学研究と本格的に取り組み,さらに1948年から5年間イギリスのケンブリッジ大で学び,かつ教えた。その間,『日本人の西洋発見』(52年),『日本の文学』(52年),また2巻本の『日本文学選集』(55年)など,優れた業績を次々と刊行,京大にも留学して,近松研究を中心に一層の研鑽をつんだ。その後,母校コロンビア大の教授として半年間教えて,残りは日本で暮らすという方式を守っていて,日本語の練達ぶりは舌をまくばかり,日本語で書きおろした著書もあり,日本語講演も見事。徒然草,謡曲,近松から,太宰,三島,安部など現代作家に至るまで,翻訳と研究は数え切れず,《Landscapes and Portraits》(71年),『百代の過客−日記にみる日本人』(84年),さらに大著『日本文学史』7巻を刊行している。国際交流基金賞,読売文学賞,日本文学大賞など受賞。(佐伯彰一)



ドナルド・キーン氏の見解

私の考え方

 『中務内侍日記』を読むものは、彼女が生きた時代の京都の宮廷こそ、比類なき美的洗練の場であった、という印象を得るにちがいない。ところがその同じ宮廷の生活を描いたもう一つの日記『とはずがたり』を読むと、(中務内侍といささかも矛盾することなく)その宮廷が、実は手のつけられぬほどの性的放縦と、道徳的腐敗の巣窟であったという印象を、読者は受ける。宮廷の女房によって書かれた数ある日記のうち、この『とはずがたり』ほど、読者の度胆を抜き、衝撃を与える作品は他にないのである。

『中務内侍日記』は伏見天皇(後深草院の子)がまだ東宮だった時期から仕えていた女房が、1280〜1292年の宮廷生活を回顧して描いた日記。
藤原定家のライバルだった例の源通親」という表現は不正確である。ドナルド・キーン氏は、『日本文学の歴史.古代・中世篇4』p.140でも「通親は定家と仲が悪かったことで有名」と書いており、まるで二人が対等な立場であったかのように表現しているが、政治家通親のライバルは摂関家の九条兼実であって、定家など兼実の腰巾着、歯牙にもかけぬ相手である。定家は御所でつかみ合いの喧嘩をして謹慎処分を食らうなど、性格が狷介で、政治家としての資質は乏しかった。年齢的にも通親(1149〜1202.54歳)が定家(1162〜1241.80歳)より十三歳上で、家柄・社会的地位・政治的実力いずれにおいても定家が勝っている点は全くない。皆無である。もともと不平不満の多い定家が、表だっては言えない通親への悪口を日記にぶちまけているだけであって、現実に両者がライバルとして競い合うようなことは、ただの一度もなかったのである。
冒頭の場面の原文はこちら。別に雅忠(1228〜72.45歳)は「感泣」してはいない。





これは人から物をもらうときにはいったん遠慮しておいて、是非にと言われてからはじめて受け取るという貴族としての常識的態度であって、「他にどうしてよいか分からぬままに」行ったような行為ではないと思う。現代の日本人ですら同じことを当然の礼儀として行っているのである。
この場面の原文はこちら。二条は他人の感情を動きを極めて鋭敏に感じ取り、とても機転が利いて、しかもウソをつくのがうまい訳である。
北山准后(1196〜1302.107歳)
 この日記は、文永八年(一二七一)の元日の記述から始まっている。まず、藤原定家のライバルだった例の源通親の孫、そしてこの日記の作者の父でもあった大納言で歌人、久我雅忠が、後深草院に新年の屠蘇を差し上げる。院を始め列席したものすべてがすっかり酩酊した頃合に、院が雅忠に向かって言う。「この春よりはたのむ雁(「田の面の雁」。育てている娘)もわが方によ」と。この言葉の意味するところは、『伊勢物語』の言葉に掛けて、この春は、なんじの娘二条(作者)を所望するぞ、というのであった。雅忠はこの申し出に気を悪くするどころか、「ことさらかしこまりて」、院の殊のほかの知遇に感泣するのである(み吉野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる『伊勢物語』)。

 二条はその年十四歳(現代の算定では十三)。後深草院は、二条の幼少の頃から、彼女にさまざまな芸術上の指導を与えていた。そして彼女が「女」になり、性愛の対象となる年頃が来るのを、いまかいまかと待ちかまえていたのだ。そして今やその時節が到来したというわけである。拝賀式のあと、二条が局(つぼね)へ下がると、豪華な衣裳の贈り物が届いている。歌がつけてあり、それには、今後はもっと深く慣れ親しみたいという願いがほのめかしてある。思いがけないことに困惑した二条は、その贈り物を一度返すが、別の歌と共に、また送り返されてくる。他にどうしてよいか分からぬままに、彼女も今度はそれを受け取る。しかし贈り物の裏にある意味は、彼女にはまだよく理解出来ない。そのあと、娘がその衣裳を着ているのを見た父の大納言は、「御所より(院から)賜はりたるか」と彼女にきく。そこで二条は、父の言葉の裏になにか隠された意味があるのを感じ、とっさに「いいえ、これは大伯母の准后から頂いたもの」と嘘をつく。

 それから十日経ち、二条は、父の命によって御所から実家へ呼び戻される。帰ってみて驚いたことに、家中が見ちがえるほど晴れがましく飾り立てられているではないか。翌日彼女は、これは方違えのために院がここへ立ち寄られるからだ、と告げられる。しかし自分の部屋まで特別立派に飾りつけてあるのはなぜであろう?二条がそれを糺そうとすると、みなは彼女の無邪気を笑うばかりである。そして父は父で、その夜は、院が御幸になるまで眠ってはならぬ、「女房は、何事もこはごはしからず(強情を張ることなく)、人のままになるがよき事なり」と彼女をさとすのである。

 しかし結局彼女は眠り込んでしまうが、目を覚ますと、院が自分のそばに添い臥せっているのに気がつく。院は、「いはけなかりし昔より思し召しそめて、十とて四つの月日(二条が十四歳になる今日まで)を待ちくらしつる」と言う。だが、彼女はただ涙で答えるばかりである。その夜院はそれ以上の無理強いをすることはなかった。しかし次の夜も彼女の部屋に現れ、とうとう彼女の「薄き衣」も「いたく綻(ほころ)んでしまう」ほどに手荒く取り扱うのである。彼女は書いている。「残る方なくなりゆくにも、世にありあけの名さへうらめし(すべてが失われてしまった今、私の存在自体が恨めしい)」。そして自分がすでにゴシップの種になっていることを思い、次の歌を詠む。

心よりほかに解けぬる下紐(したひぼ)のいかなる節(ふし)に憂き名流さん       

 要するに彼女は、自分が信頼していた男性に犯されたのである。しかもそれを取り持ったのが、他ならぬ自分の父であったとは! しかしそれからしばらく経って、常のようにせめて見送りせよ、と院が命じた時、院に対する彼女の憤りは、明らかに他の感情に変わっている。なぜなら彼女は書いているからだ。

(院の御姿に)いつよりも目とまる心地せしも、誰(た)がならはしにかとおぼつかなくこそ(この気持ちはいったい誰に教えられたのか、まことに不思議である)。

 二条は、自分が無理矢理大人の世界に引きずり込まれたこと、それへの反発、そしてその直後に起こった微妙な感情の変化などについて、きわめて率直に書いている。そしてその率直さは、確かに賞讃されてよい。だがやはり現代の読者は、どうしてもそれに衝撃を受けるのである。凌辱という行為そのものは、二条の時代の人々には、おそらく今日の人間にとってほどショッキングではなかったかもしれない。第一、あの比類なき光源氏さえ、彼が後見していた若い紫の上に対して、まさに同じことを行ったではないか。紫の上は、初めは幻滅を味わう。『源氏物語』には次のようにある。「かかる御心おはすらむとはかけても思し寄らざりしかば、などてかう心うかりける御心をうらなく頼もしきものに思ひきこえけむ、とあさましう思さる」。だがその背信に対して紫が抱いた恨みは、源氏への愛にやがて変わってくる。そして何世紀もの間、『源氏物語』の大抵の読者は、源氏のこの行為を、赦せる行為であるばかりか、やむを得ぬ行為でもあったろうと感じてきた。

この場面の原文はこちら。ここでは、「大納言(父)うち笑ひて」「みな人笑ふ」「(後深草院は)うち笑はせ給ふ」という具合に笑いが満ちているのである。四歳から御所に上がり、大人の世界を身近に見て、他人の感情の動きに鋭敏で、機転が利いてウソをつくのがうまい少女が「無邪気」であるはずはない。ここはマセた少女が最初から男女の機微に通じたマセた対応をするのは話として面白くないので、わざと自分をウブな少女と設定しておいて、ブリッコが巻き起こす騒動をコメディタッチで描いた場面と考えるべきである。いったん遠慮しておいて、是非にと言われたら受け入れるというのは、「雪の曙」から贈り物をもらうときと全く同じパターンである。また、ここは院が異母妹の前斎宮と契った場面と比較されるべきところである。そこでは、最初から簡単に院になびいてしまった前斎宮について、「院が大してお言葉も尽くされないうちに、斎宮が苦もなくおなびきになってしまわれたらしいのは、あまりに残念なことだった。斎宮がお気強くお許しにならないで、夜を明かされたとしたら、どんなに面白かろうと思ったのに、明けきらない前に、院はお部屋におもどりになって、『桜は色つやは美しいが、枝がもろくて折りやすい花であったよ』などとおっしゃったのは、やはり思ったとおりだったと思った(次田香澄氏訳)」と書いてあるのである。すぐなびくのは面白くないというのが作者二条の感覚である。

「心より‥‥」はちょっと品のない歌であって、読者の苦笑をさそうための戯れ歌のように思われる。

ドナルド・キーン氏の言われることはどうも良くわからない。これはすべての登場人物が最高レベルの貴族である特殊な世界の話なのであって、そこでは政略結婚は当たり前である。むしろ政略結婚ではない結婚など存在しない世界の話であり、父親が院との結婚をとりもとうとすることのどこが変なのか、さっぱり理解できない。

いったい原文のどこをどう読んだら「凌辱」などという異常な言葉が出てくるのだろうか。ドナルド・キーン氏の言語感覚は極めて奇妙である。
 
『とはずがたり』の作者が、『源氏物語』に倣って、自分自身がヒロインを演じる物語を作ったのだと考えることも可能である。
 日本女性が、地位の高い男性に純潔を奪われて泣き寝入りするというのは、西洋でも実際にあったことと、おそらくあまり変わりはなかったはずである。だがヨーロッパにおいては、自分の娘を自ら進んで取り持つような父親は、事実はともあれ、少なくとも小説では、常に悪者と相場が決まっていた。リチャードソンの小説『パメラ』(一七四〇)の父親は労働者だが、自分の美しい娘パメラに、彼女が奉公している館の主人の親切には気をつけろ、感謝のしるしに純潔を捧げるようなことになっては事だから、とさとすのである。そして彼は言う。「娘よ、最悪に備えて身を固めるがよい。純潔を失うくらいなら、命を失うほうがましと心得よ」。『パメラ』は長大な小説だが、そのテーマはひとつ−主人の猛攻に直面して、いかに女主人公パメラが、自分の純潔を守り抜いたか、という一事である。

ドナルド・キーン氏のこの記述は、本当にあきれてものが言えない。労働者の娘が主人に純潔を奪われそうになるのは大変お気の毒な話であるが、しかし『とはずがたり』では『パメラ』と異なり、二条も最高レベルの貴族であって、後深草院と貴族文化を共有しているのである。『とはずがたり』に描かれているのは決して「地位の高い男性」が「地位の低い女性」の「純潔」を奪う、「凌辱」するといった非人道的な話ではないのである。
 凌辱されたことで初めはショックを受けたとしても、おそらく二条なら、このパメラの抵抗は、いささか度が過ぎる、いや、滑稽とさえ考えたにちがいない。そしてその点については、過去の日本人もえらぶところがなかった。北村透谷は、「処女の純潔を論ず」というエッセーの中で、日本人が、処女の純潔への尊重心を欠いている、といって慨歎している。しかしこれは、透谷における西洋の影響が言わせたことかもしれないのである。『とはずがたり』の巻頭に起こる少女二条の凌辱事件は、野蛮と優雅、そしてあたりにたちこめる道徳的退廃の香りをないまぜにして、この作品全体の調子をすでに決めている。

 二条をわがものにしたあと、院は、御所まで供をしてくれ、と彼女にせがむ。彼女は書いている。

道すがらも、今しも盗み出で(女を盗み出して)などして行かん人のやうに契り給ふも、をかしとも言ひぬべきを、つらさを添へて行く道は、涙のほかは言問ふ方もなくて、(御所に)おはしまし着きぬ。

しかし、院が二条に示す愛情は、次第に彼女の氷のようなあらがいを溶かしてゆく。そして彼女は、院からの文を、やがて待ち焦がれるようになるのである。

 その翌年(一二七二)の八月、父雅忠が病没、二条は大いに悲しむ。死の床で、父は彼女に訓戒を垂れるが、その中には、主君、すなわち後深草院に対しては、一生決して二心なきよう、というのがある。また、もし主君の御意に背くようなことがあったならば、直ちに出家遁世し、自分の後を祈り、二親の菩提もとむらって、みなが極楽で一緒になれるよう祈るべし。そして「世に捨てられ頼りなしとて、また異君(ことぎみ)にも仕へ、もしは、いかなる人の家にも立ち寄りて(どんな人にもせよ人の家の厄介になって)、世に住むわざをせば、(私の)亡き後なりとも不孝の身(勘当の身)と思ふべし」、というのもあった。結局二条は、これらの訓戒を、本気で心に留めることはなかったようである。彼女のような情熱的な性格では、慣習的な道徳律の中に閉じこもれというほうが、土台無理であった。それに当時の貴族社会の爛熟した退廃も、二条の気まぐれな性格を、より一層助長したのである。

父雅忠は臨終だというのにべらべらべらべらしゃべりまくり、「訓戒を垂れる」のであるが、その「訓戒」の中で一番奇妙なのは、ドナルド・キーン氏の引用部分の直後に、「髪をつけたまま色好みという噂を残しなどすることは、かえすがえすもよくないことだろう。ただ、世間を捨てた後は、どんなことをしてもさしつかえない」(久保田淳訳)と言っていることである。出家したら、いくら男と遊んで噂を立てられてもかまわない、と明言しているのであって、随分奇妙な「訓戒」なのである。
 

 父の死後、毎日のように手紙で二条の安否を尋ねていた男が、ある月明かりの夜、彼女の家を訪ねて来る。そして二人は一夜を語り明かす。二人とも喪服を着ており、その夜彼らが寝所を共にしなかったのは、おそらくそのためであったにちがいない。帰り際に、男は言う。「あらぬさまなる朝帰り(床にも入らずに帰ってゆく)とや、世に聞えん」。それからしばらくして男はまたやってくる。二条は、初めは家の中には入れぬつもりであった。ところが男は、「つゆ御うしろめたき振舞あるまじきを」と誓うのである。だが作者は書いている。

長き夜すがら、(男の)とにかく言ひつづけ給ふさまは、げに唐国の虎も涙落ちぬべき程なれば、岩木ならぬ(木石ならぬ)心には、身を換へんとまでは思はざりしかども、心のほかの新枕(思いがけぬ新しい情交)は、(院の)御夢にや見ゆらんと、いと恐ろし。

 二条はその新しい愛人のことを、彼との親密な交情を述べた章句の中では「雪の曙」と呼び、他の個所では、西園寺実兼という実名を用いている。この人物は、数年に亙って二条と愛人関係を続け、彼女が生んだ四人の子の一人の父親であった。この新しい愛人を得たことが、彼女の後深草院との関係を悪化させたかというと、決してそうではなかったのである。それどころか、互いに相手の不実を知りつつ、二人の関係は、さらに親密さを深めていっている。二条と実兼の関係を知った折、院は、とくに思いやりある言葉を連ねた手紙に、次の歌を添えて作者に送っている。

うば玉の夢にぞ見つる小夜衣(さよごろも)あらぬ袂(たもと)を重ねけりとは
(夢に見たぞ、お前が他の男と枕を交わしたのを)


西園寺実兼(1249〜1322.74歳)
 これに対して、彼女は意味をわざとぼかした歌を返して、「われながらつれなくおぼえしかども(厚顔だと思ったけれど)、申しまぎらかし(言い紛らわし)侍りぬ」と書いている。

自分で自分の厚顔さをしっかり自覚しているところが面白い。
 またある場合には、院が二条を他の男に与えるべくわざわざ計られたことさえある。おそらくこれは日記の中で、最もショッキングな挿話だと思われるが、ある夜、暗がりの中で、男(おそらく関白)が突然二条の袂を捉えて、「年月思ひそめし」などと言ってしきりにかき口説く。この時は、なんとか振りきって難を逃れたけれど、次の日の夜、二条が院の腰を打ち叩いていた時、前夜の男がまたやってきて、院がおやすみの間にぜひ会いたいと言う。彼女は書いている。

「はや立て。苦しかるまじ」と(院が)忍びやかに仰せらるるぞ、なかなか(かえって)死ぬばかり悲しき。御後(おあと)にあるを(院の足許にいる私を)、手をさへ取りて引き立てさせ給へば、心のほかに立たれぬるに(心ならずも立ち上がったが)…

 そこで二条とその男とは、院の御部屋と襖一つ隔てた次の間で情交する。

(院は)寝入り給ひたるやうにて(寝たふりをして)聞き給ひけるこそ、あさましけれ。とかく泣きさまだれゐたれども(私は正体なく泣きくずれていたけれど)、酔心地やただならざりけん‥‥



「年月思ひそめし」と言われた後で、二条がどう思ったかというと、「ずっと前からあなたを思っていたのです、などというのは、しょっちゅう聞いている言葉なので、ああめんどうと思う」(次田香澄氏訳)のである。二条は極めてずうずうしい性格であって、一方的に被害者になるような女ではないのである。

 その次の夜も、同じ男が舞い戻ってくる。そして院は、男のところへ行け、と再び二条に命じる。後深草院の行為からうかがえるのは、院の心の寛さ、というよりは、女としての二条への軽蔑の情である。それにもかかわらず二条は、持ち前の率直さを発揮、巻二の終わりで、前夜自分を襲った男が帰ってゆく時の自分の気持ちを描写して、次のように書いている。

何となく名残惜しきやうに車の影の見られ侍りしこそ、こはいつよりのならはしぞと(いつからわが身についた習性かと)、わが心ながらおぼつかなく(不思議に)侍りしか。





「持ち前の率直さ」というのも、ずいぶん変な表現である。
 二条のように、同時に一人以上の男を愛する能力に恵まれているような読者ならともかく、普通の読者なら誰しもこれと同じ疑問を、ここで持つはずである。

 二条の心は、彼女が「有明の月」と呼ぶ僧によって、最も深く動かされたように思われる。この僧は、後深草院の異母弟に当たり、性助法親王として知られ、仁和寺に住んでいた。二条が記すところによると、建治元年(一二七五)のある日のこと、後白河院の命日に行われる法華経講義に院が出席していたあいだに、ある人物(彼女は名をあげていない)が御所を訪れる。そこで彼女は、「そぞろき逃ぐべき(あわてて逃げださねばならぬような)御人柄ならねば、候ふに(そのままいると)、(彼は)何となき御昔語リ」をされたという。ところがだしぬけにその男が言い出すのである。「仏も心ぎたなき勤めとやおぼしめすらんと思ふ(どんな汚れた心で私がお勤めをしているかと、仏も思っておられることでしょう)」。そう言って、やにわに彼は二条の袖を掴み、言いつのってくる。「いかなる暇とだに(機会にでも)、せめては頼めよ(頼みに思わせよ。つまり会うと約束してくれ)」。彼女は書いている。「まことに偽りならず見ゆる(本物と見える)御袖の涙もむつかしきに(厄介なところへ)、(院の)『還御』とてひしめけば、(私は袖を)引き放ち参らせぬ」。






性助法親王(1247〜1282.36歳)
 有明は、これに続く数か月、あらゆる機会を捉えて、彼女に自分の恋心を伝えようとする。そしてある晩、御所で後深草院の病気治癒の祈祷をしたあと、彼は小部屋へ下がる二条のあとについてくる。そして次のように言うのである。「仏の御しるべ(お導き)は、暗き道(恋の闇路)に入りても(変わりますまい)」。有明は彼女を抱擁して、最後の祈祷のあとで、きっと自分のところへ来てくれと頼む。二条はそのあとのことを思い出して書いている。「(有明を)思ひ焦がるる心はなくて、後夜過ぐる程に、人間(ひとま)をうかがひて(人目を忍んで)参りたれば‥‥。」以後二人は、毎夜のように忍び逢う身となったのである。「このたびの御修法は、心清からぬ御祈誓、仏の御心中もはづかしき(仏の御心中を思い、私も大変恥ずかしかった)」と、さすがの二条も書いている。

 ある時期に、二条は、有明との縁を切ろうと決心する。そして口実をもうけて逢い引きを断る。だが叔父の大納言隆顕(たかあき)から手紙がきて、有明にもっとやさしくしてやってくれと頼まれる。「しかるべき御契りにてこそ(前世からの縁あってこそ)、(有明は)かくまでもおぼしめし染み候ひけめに、(あなたが)情なく申され(応対され)」私までが辛く思っています、という主旨である。その上、有明からの文も同封してあり、それには、

夜はよもすがら(あなたの)面影を恋ひて涙に袖を濡らし、本尊に向ひ持経(ぢきやう)を披く折々も、まづ(あなたの)言の葉を偲び、護摩の壇の上には(あなたの)文を置きて持経とし、御灯明(あかし)の光にはまづこれ(あなたの文)を披きて心を養ふ。








「有明の月」ものは確かに面白いが、ずいぶん仏教をバカにした話である。仮にこれが事実であっても、普通の神経をもっていたら、それを文章にはしないと思う。「尼」を名乗る人がこういうことをやっているのだからなおさらであり、作者二条の仏教に対する根本的態度に疑問を抱かせる話である。



これは読みようによってはものすごい自慢話である。真言密教に彩られた壮大・華麗な自慢話である。
とある。有明も、禁慾の誓いを破った罪に対する報いとして、来世自分が、地獄、餓鬼、畜生の三悪道(さんまくどう)に堕(お)とされることを予見している。だがこの恋を捨てるには、彼はあまりにも力弱かったのである。

 ある日、後深草院が有明を御所に呼び出したことがあった。その時有明は、院がまだ還御にならぬ機会を捉えて、ここぞとばかりに二条への愛を彼女にかき口説く。二条は書いている。

何と申すべき言の葉もなければ、ただうち聞きゐたるに、程なく(院が)還御なりけるも知らず、同じさまなる口説きごと、御障子のあなたにも(向うにおられる院にも)聞えけるにや、(院が)しばし立ち止り給ひけるも、いかでか知らん。

有明の愛の告白を立ち聞きした院は、不快どころか、二条に向かって、もっと有明にやさしくして、その妄執を晴らしてやるがよい、と言うのである。そこで「(それにつけても)いかでかわびしからざらん」と、二条は歎いている。現代の読者なら、二条のこの気持ちは、まことによく分かるのである。いずれにしても二条は、院の願いに従ったのである。結局彼女は、有明の子を二人生んでいる。

 二条の性的放縦は、必ずしも彼女の責任とはいえないようである。例えば、ある夜酒宴が終わったあと、彼女は無理矢理、後深草院と、その弟君亀山新院との間に寝かされている。そして間もなく彼女は、亀山新院によって屏風のかげに引きずり込まれ、不本意ながら院の愛人にならされる。そして次の夜も全く同じことが起こったという。
 二条は書いている。「今更憂き世のならひも思ひ知られ侍る」と。

ここは実に凄みのある変態話である。後深草院は非常に不可解な人物として造型されているのである。後深草院の「グロテスクさ」は八嶌正治氏(宮内庁書陵部図書調査官)が強調するところなので、同氏の見解(「頽廃の魅力」)を素材として別途検討する。


学者たちはもちろんこの部分も事実の記録だと考えている。つまり持明院統(北朝)の祖である後深草院と大覚寺統(南朝)の祖である亀山院を、兄弟そろって変質者だと認識しているのである。
 『とはずがたり』巻四の冒頭で読者は、尼になった二条が、初めての巡礼の旅に出るため、都を離れようとしていることを、突然知らされる。どのような事情でこうした行動を取るに至ったのか、彼女は何ら説明を与えていない。過去何度も出家については考えたことがあったのだが、憂き世との絆が、それを許さなかったのだ。出家するに当たって彼女が真剣であったこと、これを疑う余地はなさそうである。だが尼僧の衣を身に着けたあとも、彼女の人柄は、それほど変わったとはいえない。心はまだ過ぎ去ったこと、とくに御所での生活、折々の後深草院の情けなどを、絶えず思い出し、恋しがっている。そこで、そうした思い出を、己の心中にだけしまっておくことがどうしても出来ず、彼女が「いたづら事」と名付けたものを、こうして書き続けておいたのである。明らかに二条は、わが身に起こった事どもを書きつけておくならば、己の人生が無為に過ごされたという感情から、なんとか解放されるのではないか、と期待したのだ。自分の書き物が、長く後世に残るとは考えていない、と彼女は言っている。そしてこの予想は、ほとんど的中していた。ただの一部しかなかった原本は、長い間埋もれ、一九四○年になって、ようやく発見されたからである。

どういう人柄かというと、時の幕府の最高権力者平頼綱に対する対応に見られるように、極めて高慢で、人に教養をひけらかすのが大好きで、ずうずうしくて厚かましい人柄である。これは出家後も全然変わっていない。そもそも性格は幼い時に形成されるもので、出家くらいで変わるものではないと私は思う。
(平頼綱と対面する場面の原文はこちら。)
 『とはずがたり』を書く二条の直接の動機は、尼僧となって各地を巡礼、その記録を綴りたい、というのであったかもしれない。だが、実際にそうした巡礼の記録が書かれているのは、日記五巻のうち、最後の二巻の中のみである。初めの三巻は、いわば公の告白記を綴るつもりで書かれたのかとも推測される。とはいえ、自分が犯したいかなる罪も、彼女は悔いているようには見えない。あるとき亡き父が二条の夢枕に立ち、家門に流れる歌の伝燈の火を灯(とも)し続けるように、という歌を詠んで彼女をはげましたという。彼女はあるいはその夢に動かされたのかもしれない。二条の意図は明らかに文学的である。そして昔物語を読んだことが、彼女に影響していることには、疑いの余地がない。遠い記憶、近い記憶を辿りつつ、単に起こった事実のみを記録するだけでは、到底満足出来なかったことであろう。この日記には、勝手に頭の中で作り上げた解釈、あるいは完全な虚構さえたっぷり入っているが、それでもなお日記の大部分は、見まごうことのない真実味を湛えている。




「私の作品は優れた作品だから、長く後世に残ると考えています」などと書く日本人はいないのであって、素直に考えればこれは謙遜である。

「発見」されたのは昭和十三年、すなわち1938年のことである。
 
確かに「自分が犯したいかなる罪も、彼女は悔いているようには見えない」のであるが、そうすると何故彼女が出家したのか、その動機を探ることが相当困難になる。
 巻末近く、意味深長な逸話が述べられている。後深草院が重い病に患ったことを聞き、二条は北野と平野の両神社に詣でて祈願する。「(院の御命を)わが命に転じ代へ給ヘ」と。しかしこの時、もしその願いが成就して、自分が白露のごとく消えてしまったなら、そのことは院にも知られず、自分が院の代わりに死ぬことになるのだ、ということにも彼女は気がついている。これもまた悲しい。

君故にわれ先立たばおのづから夢には見えよ跡の白露

ドナルド・キーン氏をはじめ、多くの学者がしきりに『とはずがたり』の真実味、リアルさを強調するのであるが、「見まごうことのない真実味を湛えている」のは、それぞれの場面における描写方法であって、それは内容のリアルさとは別問題だと私は考える。映画やテレビドラマでは大変リアルにそれぞれの場面が映し出される訳であるが、それは内容のリアルさとは全然違う話である。この点については久富木原玲氏の見解(「日記紀行文学の諸相」)を素材として別途検討する。
彼女に対して必ずしも常に親切とはいえなかった一人の男の代わりに、自分が死んでもよいというのである。しかしこの二条の折角の心の寛さも、いかにも自分が心寛き人間だったことを世に認めさせたいという、彼女の欲望が見え透いていて、いささか点が下がるのである。なるほどこれは、どこの国ても通じる普遍的な感情であろう。だが大抵の作家なら−告白的作家ですら−自分の名誉に益することまことに少ないこのような観念を筆にすることは、必ず控えたにちがいない。

後深草院がやったとされることは「必ずしも常に親切とはいえなかった」などという生やさしいものではない。それにも関わらず、作者は後深草院をひたすら賛美しているのであり、極めて奇妙なのである。
 二条はこの日記を書くに当たって、何等の隠し立てをしていないように思われる。従って読者は、宮廷生活に関する彼女の記述、とくに上皇を始め、関白、高位にある殿上人、僧侶など、すべてが手を貸した淫蕩な恋のたくらみの記述を、真実として文句なしに受け入れがちである。しかしこのいわば道徳的な放縦を、その時代の風潮に帰してしまっては、事をあまりに単純化してしまうおそれがある。同じようなことは、現代に至るまでのヨーロッパ諸国の宮廷に関しても、確かに書くことが出来たはずである。二条の時代にも厳存した日本の宮廷の最も顕著な特徴は、『とはずがたリ』の中の、読者が一読したあと忘れてしまうような個所に、はっきり述べられている。それはすなわち宮廷人士を『源氏物語』の中の人物にそれぞれ見立てて遊ぶ優雅な催し、和歌のやり取り、管絃の遊び、そして日常生活の最も些細な面にまでおよぶ美の崇拝である。これこそまさに中務内侍が自ら選んで書いた世界であった。いずれの女性も、己が生きた時代の歴史家としては、いささか一面的で、全面的に信を置くことが出来ないかもしれない。だがそのどちらも、その名に値するあらゆる日記作者同様、なによりも作者自身の忘れがたい肖像を、私たちに描いてくれているのである。





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