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ドナルド・キーン 『日本文学の歴史.古代・中世篇5』
(中央公論社.1995年.p194以下)



※ドナルド・キーン氏の略歴はこちら



ドナルド・キーン氏の見解 私の考え方


最も詩的な趣がある現存する四番目の鏡物


 『増鏡(ますかがみ)』は、現存する鏡物としては四番目で(103)、他のどれよりも詩的な趣のある作品になっている。さまざまな和歌の一部をとって巻名にしているほか、『増鏡』という一見曖昧な名前の意味も、歌を通じて明らかにされる。一人の老尼が「序」の中でつぎの歌を詠む。『増鏡』は、この老尼が記憶をたどりながら語った話だとされている。

『増鏡』は『大鏡』(9世紀半ばから道長に至る藤原氏全盛の時代を記述)、『今鏡』(1025年から1170年までを記述)、『水鏡』(神武天皇から仁明天皇までを記述)に続く四番目の鏡物。『増鏡』の序文はこちら

  をろかなる心や見えん増鏡ふるき姿にたちはおよばで(104)
All that will appear
In the mirror's clarity
Is my foolish heart;
It adds to the old writings,
But cannot touch their grandeur.

 『増鏡』の「増」は、「増す」のほかに「真澄」の意味も兼ねている。つまり、自分の話にはいろいろと足りないところもあろうが、過去に書かれた鏡物に付け加えられるべき話で、内容は嘘を含まず澄みわたっている、と老尼はいっている。






「内容は嘘を含まず澄みわたっている、と老尼はいっている」は誤りである。この歌の直前、語り手の老尼は、「そのかみの事はいみじうたどたどしけれど、まことに事の続きを聞えざらんもおぼつかなかるべければ、たえだえに少しなん。僻事ぞ多からんかし。そはさし直し給へ(その昔のことはたいへんはっきりしませんが、ほんとうに事の続き具合を申し上げませんのも、はっきりしないでしょうから、きれぎれにほんの少しをお話しします。まちがいが多いでしょうよ。それはお直しください)(井上宗雄氏訳)」と言っているのである。

清涼寺についてはこちら
出会った時には既に寺にいるのであって、「一休みしなければ寺まで行けそうにない」というのはおかしい。老尼が一休みしていたのは、連れてきた若い女房を僧坊にやって、その帰りを待っていたからである。

この老尼は、「何も覚えてはおりません」とはいいながら、まんざらでもない、話してもかまわないと思っている様子なので、聞き手が一段とおだてると、「おだてられるとは承知しているようだが、いよいよ口をすぼめがちにして」なんだかんだと言った後で、結局は話し始めるのである。本当はとても話好きなのだが、自分は慎み深くて、何度も頼まれたから仕方なくやるのですよ、みたいなポーズをとっていて、聞き手とのやりとりが狐と狸の化かし合いのようで面白いのである。ドナルド・キーン氏の説明は生真面目すぎて、このあたりのニュアンスが全く消えてしまっている。
昔物語をせがまれた老尼が後鳥羽天皇生誕の年から約百五十年間を回想

 序章の舞台は、釈迦如来像で有名な嵯峨の清涼寺(せいりょうじ)である。ある男が参詣にやってきて、一人の老尼を見かける。尼は杖によりかかり、一休みしなければ寺まで行けそうにない。男は近づいて話しかけ、尼が優に百歳を超えていることを知る。たまたま古い歌なども読み、つねづね誰かに昔のことを聞きたいと思っていた男は、よい機会だとばかり昔物語をせがむ。老尼は歯のない口でほほえみ、人に話す価値のあることなど何もおぼえていないと答える。しかし、男はあきらめず、かつて雲林院の菩提講(ぼだいこう)に来ていた翁らの昔語りが、いまでは「仮名(かんな)の日本紀」(105)として広く読まれていると指摘する。ここで男がいっているのは『大鏡』のことだが、やがて他の鏡物の名前も出てくる。いずれも、漢文で書かれた読みにくい正史と異なり、仮名で書かれた歴史物語である。

 老尼も最後には折れ、過去の回想を始める。それは、後鳥羽天皇が生まれた一一八〇年から、後醍醐天皇が隠岐から帰洛する一三三三年にまでわたる。もちろん、いくら百歳を超えていても、これほど長期間にわたる記憶があるはずはないし、雲の上の人々の生活をなぜここまで詳細に知っているのかも不思議である。しかし、読者の側には、そうした不自然さを鏡物の約東事の一つとして受け入れる用意があったのだろう。

 老尼が語りはじめると、男はもう口をはさまない。尼自身も、自分が語り手であることを読者に思い出させるようなことは、ほんのたまにしかいわない。老人が過去を回想するという形式は、いろいろな意味で便利だった。話し言棄が使えるし(106)、歴史的重要牲を度外視して詩的なエピソードを語れる。さらに、本質的に文学的かつ劇的な構成をとることで、『太平記』のような事実に即した軍記より題材を際立たせることができる。


語り手の老尼が本文中には殆ど登場しないのは『増鏡』の顕著な特徴である。そして老尼が登場する数少ない場面は妙に思わせぶりなところばかりなのであるが、この点についてはこちら(平田俊春氏「増鏡の成立に関する一考察−舞御覧記との関係について−」)。
作者は二条良基、成立時期は一三六八〜七六年か

 二条良基(にじょうよしもと)(一三二〇〜一三八八)が『増鏡』の作者であるというのが──当時のどのような資料にも記されていないが──学者のあいだでほぼ定説となっている(107)。良基は連歌作者として知られ、連歌集としては最も重要な作品である『菟玖波集(つくばしゅう)』を編んでいる。良基が作者なら、作品に詩的な趣が顕著であるのもうなずける。作品の成立時期を示す内的証拠は乏しいが、作中の最後の──発生年の明らかな──出来事が一三三八年のことなので、これ以後に書かれたことは明らかである。また、一三七六年に写本が作られたこともわかっているので、これ以前に書かれていたことも間違いない。一四二七年説などもあるが、一三六八〜七六年の成立とするのが学界の大勢である(108)。





『増鏡』の作者についての私の考え方はこちら。。


「増鏡の成立に関する一考察−舞御覧記との関係について−」
配流された二人の天皇が中心、印象的描写は『源氏物語』にならう

 『太平記』と異なり、『増鏡』の作者は最初から中立的立場をとってはいない。天皇・公家と武家の対立が起これば、迷わず前者を支持しているし、ほかの文献に見られるような後鳥羽批判や後醍醐批判も一切していない。また、後醍醐天皇が隠岐から帰洛するところで筆を擱(お)いているので、建武新政での天皇の過ちの数々には触れずにすんでいる。



「後醍醐批判も一切していない」のだが、後醍醐天皇に敬語を用いていない奇妙な箇所があり、学者は説明に窮している。
 『増鏡』は、後鳥羽天皇から後醍醐天皇までに即位した諸天皇──たとえば、兄弟そろって品行がよくなかった後深草・亀山両天皇──の治世にも触れていはいるが、作品の中心は、やはり配流(はいる)された二人の天皇の物語である。後鳥羽院は生涯最後の十九年間を隠岐島で過ごした。荒涼たるこの島に到着したときの様子は、こう書かれている。

 このおはします所は、人離れ里遠き島の中なり。海づらよりは少しひき入て、山かげにかたそへて、大きやかなる巌(いわお)のそばだてるをたよりにて、松の柱に葦(あし)ふける廊(ろう)など、気色(けしき)ばかり事そぎたり。まことに、「しばの庵(いおり)のたヾしばし」(109)と、かりそめに見えたる御やどりなれど、さるかたになまめかしくゆへづきてしなさせ給へり。水無瀬(みなせ)殿おぼし出(い)づるも夢のやうになん。はる/゛\と見やらるゝ海の眺望、二千里の外(ほか)(110)も残りなき心ちする、いまさらめきたり。潮風のいとこちたく吹来るをきこしめして、

我こそは新島(にいじま)もりよ隠岐(おき)の海の荒き浪かぜ心して吹け(111)
I am none other
Than the new island guardian !
You savage sea winds
Over the waves at Oki,
Have a heart and blow gently !
後深草院が「品行がよくなかった」と思われるようになったのは、『とはずがたり』の「発見」以降であり、それまでは、例えば、すぐ後に出てくる後深草院が異母妹と契る話も、亀山院の逸話だと考えられていたのである。

歴代天皇の中でも稀に見る強烈な個性の持ち主である後鳥羽上皇(1180〜1239.60歳)と後醍醐天皇(1288〜1339.52歳)
の2人の没年は、ちょうど100年の隔たりがある。
 
 この一節が『源氏物語』によっていることは、多くの研究者が指摘しているとおりである。「須磨」の巻に、光源氏の流謫(るたく)の地がこう記されている。

うち返り見給へるに、来しかたの山は霞(かす)み、はるかにて、まことに、「二千里の外(ほか)」の心ちする……。(源氏の)おはすべき所は……海面(うみづら)はやゝ入りて、あはれに、すごげなる山なかなり。……葺屋(かやや)ども、葦(あし)ふける廊めく屋など、をかしう、しつらひなしたり。所につけたる御住ひ、やう変りて……昔の、御心のすさび、思しいづ。(112)
「二千里の外」は、『白氏文集』の「三五夜中新月色 二千里外故人心」を引用したもの。白居易を源氏物語が引用し、それをさらに『増鏡』で孫引きしていることになる。

 『増鏡』の作者が『源氏物語』に頼ったのは、一つにはそれに精通していて、何をするにつけても物語の一節が心に浮かんでくるほどだったからだろう。結果的には、『源氏物語』にならうことで、配流された貴人の印象的な描写が得られた。作者が『増鏡』のこの部分を書きはじめたとき、隠岐の後鳥羽院について確実な資料といえるものは、おそらく歌しかなかったため、残りは、作者の創作か『源氏物語』から借りたものと思われる。


『紫式部日記』『栄花物語』『とはずがたり」からも借りた作者

 『増鏡』の作者は『源氏物語』だけから借りたわけではない。一二四三年にのちの後深草天皇が生まれたときの様子は、おそらく『紫式部日記』や『栄花物語』に多くを負っているだろう(113)。ほかにも平安・鎌倉時代の文学作品の模倣や言い換えが多くあって、そのすべてが、後世の学者によって丹念に追跡されている。なかで借用の事実が最もはっきりしているのは、後深草天皇の愛人であった二条が一二七一年から一三〇六年まで書いた日記、『とはずがたり』である。この日記は、何世紀ものあいだ単一の写本でしか存在しなかったが、二条良基ほどの有力者であれば、目を通す機会があったと思われる(114)。もっとも、『とはずがたり』の一部分が無批判に丸写しになっているというのではない。たとえば、二条自身の手引きで、後深草院が異母妹のもとに忍んでいく場面などは、『とはずがたり』に比ベ、ずっと穏やかでやさしくなっている(115)。『とはずがたり』によると、契りのあったあと、後深草院は「桜は、匂ひは美しけれども、枝もろく、折りやすき花にてある」(116)といったとされる。美しいが、あまりあっけなく意のままになって、張り合いがなかった。この聞くにたえない言葉は、『増鏡』では省かれている。


『とはずがたり』から『借用』されている部分は、松本寧二氏によれば、「岩波『日本古典文学大系』本でいうと、およそ四百十九行(×三七字)にものぽる。」というもので、他の資料と較べると奇異な印象を受けるほど多量である。


和田英松・佐藤球『修訂増鏡詳解』(明治43年、明治書院)では、この部分の「院」には、全て亀山院との注が付されている。『とはずがたり』が発見されるまでは、この不道徳な話は、亀山院の好色さを示す挿話とされており、学者は誰一人それを疑っていなかったのである。

『増鏡』の中で文学的に最も優れた「久米のさら山」の巻

 主として文学的な作品を典拠としたということは、『増鏡』が借用に求めたものが、たとえば『太平記』などの求めたものとは違うことを意味しているだろう。『増鏡』の中で最も文学的に優れているとされる「久米のさら山」(117)の巻は、こう始まる。

 元弘二年(118)の春にもなりぬ。あたらしき御代(みよ)(119)の年のはじめは、思ひなしさへ、花やかなり。上(うえ)(光厳)も若(わこ)うきよらにおはしませば、よろづめでたく、百敷(ももしき)のうち、なに事もかはらず。さるべき公事(くじ)のをり/\、さらでも、院(120)・内(うち)おなじ陣のうちなれば、一つにたち込みたる馬(うま)車、ひまなくにぎはゝしけれど、見し世の人は一人もまじろはず、まいりまかづる顔のみぞかはれる。
 先帝(せんてい)(121)は、いまだ六波羅(はら)におはします。二月(きさらぎ)のころ、空の気色(けしき)のどやかに霞(かす)みわたりて、ゆるらかに吹春風に、軒の梅なつかしく香りきて、鶯(うぐいす)の声うらゝかなるも、うれはしき御心ちには、物憂(う)かる音(ね)にのみ聞こしめしなさる。ことやうなれど、かの上陽(よう)人(122)の宮の中(うち)思よそへらる。長き日影もいとゞ幕らしがたき御慰(なぐさ)めにとや聞こえ給けん、中宮(禧子)より御琵琶(びわ)たてまつらせ給ふついでに、いさゝかなるもののはしに、

思(おもい)やれ塵(ちり)のみつもる四の緒に払(はら)ひもあへずかゝるなみだを(123)
Turn your thoughts to me,
And behold these, my tears,
Too thick to brush away;
They fell on the strings of the lute
When I saw how thick the dust lay.


天皇を見送る群衆のざわめきが聞こえそうな見事な描写

 後醍醐天皇の辛さと悲しさは、百年ほどまえに後鳥羽院を襲った運命を思うとき、いっそう募る。やがて、三月七日に隠岐に向け出立することが決まり、天皇に伝えられる。

今はときこしめす御心まどひども、いへばさら也。所/゛\のなげき、近(ちこ)う仕(つこ)うまつりし人/゛\の心ちども、をき所なく悲し。御門(かど)もかぎりなく御心悩むべし。いとかうしも人に見えじと、かつは思(おぼ)ししづむれど、あやにくにすゝみ出(い)づる御涙(なみだ)を、もてかくしつゝおはします。ふりにし事を思し出づるにも、たち返(かえり)また世をやすく思さん事のいとかたければ、よろづ今をとぢめにこそと、思しめぐらすに、人やりならず、口惜(くちお)しき契(ちぎ)り加はりける前の世のみぞ、つきせずうらめしき。(124)

 京都の通りの名はいまも昔と変わっておらず、現代の読者にも、天皇が市中を通ってゆく様子を容易に思い描くことができる。この見事な描写からは、配流されていく天皇を見送ろうと集まった群衆の、悲しみのざわめきさえ聞こえてくるようである。

 六波羅(はら)より、七条を西へ、大宮を南へ折れて、東寺の門の前に御車おさへらる。とばかり御念誦(ねんじゅ)あるべし。物見車所せき程なり。よろしき女房も壺装束(つぼそうぞく)(125)などして、かちの物どももうちまじれり。さらでも、老たるも、尼(あま)法師、あやしき山賤(がつ)までたち込みたるさま、竹の林に異(こと)ならず。をの/\目をしのごひ、鼻すゝりあへる気色(けしき)ども、げに、うき世のきはめは、今につくしつる心ちぞする。崇徳院の讃岐(さぬき)におはしましけん程のありさま、後鳥羽院の隠岐(おき)に移らせ給けむ時なども、さこそはありけめなれど、つてに(のみ)聞きて、見ねば知らず。これをはじめたる心地ぞする。
 日ごろは、なにの御にほひにも触れず、数ならぬ人、及ばぬ身までも、今日(きょう)の御別のあはれには、をき所なげにぞ惑(まど)ひあへるかし。君も御簾(すだれ)すこしかきやりて、このもかのも御覧(らん)じわたしつゝ、御目とまらぬ草木もあるまじかめり。岩木ならねば、武士(もののふ)の鎧(よろい)の袖どもも、しほどけふぞ見ゆる。宮この木末(ずえ)をかくるゝまで御覧じ送るも、なを夢かとおぼゆ。(126)
 
 描写の鮮やかさは、語り手が実際にこの様子を目撃していたかと思わせる。語り手自身、崇徳院・後鳥羽院の遷幸(せんこう)のことは人伝(ひとづて)に聞いただけでよく知らないといい、今回は自分の目で見たことを暗に強調しているが、じつはこの情景の大部分は想像によっている。後醍醐天皇の遷幸は事実でも、作者がその感慨を知りえたのは、目撃者の話からではなく文学作品からである。おそらく『源氏物語』の助けを借りているだろう(127)。


原文を素直に読めば、作者が自分の目で見たと言っているのに、学者たちがよってたかって想像で描いたと言い張っているのかも知れないのである。成立年代に関して通説が根拠としている事実が、実際にはそれほど大したものではないことは別途検討する。
時間的経過が幾層にも重なり合い劇的な深みを与える歴史物語の傑作

 隠岐に到着した後醍醐天皇の悲嘆は、悲劇的な状況もさることながら、細部の描写で読者を感動させる。

昔の御跡(あと)は、それとばかりのしるしだになく、人のすみかも稀(まれ)に、をのづから海士(あま)の塩やく里ばかり遙(はる)かにて、いとあはれなるを御覧(らん)ずるにも、御身の上(うえ)はさしをかれて、まづかのいにしへの事(こと)思(おぼ)し出(い)づ。かゝる所に世をつくし給けん御心のうち、いかばかりなりけんと、あはれにかたじけなく思さるゝにも、今はた、さらにかくさすらへぬるも、何により思ひ立ちし事ぞ、かの御心の末や果たし遂(と)ぐると思ひしゆへ也。苔(こけ)の下にもあはれと思さるらんかしと、かき集めつきせずなん。(128)

 悲哀と単調さが支配する隠岐での日々から、一転、場面は新帝即位にともなう都の賑わいに移る。そして、さらに転じて後醍醐天皇の悲哀のもう一つの側面を描く。このあたりの切り替えは劇的で見事である。

 宮こには、三月廿二日御即位(そくい)の行幸なれば、世の中めでたくのゝしる。本院・新院(129)ひとつに奉(たてまつ)りて、待賢(たいけん)門のほとりに御車立てて見たてまつらせ給。よろづあるべきさまに、とゝのほりてめでたし。
 まことや、中宮(禧子)はそのまゝに御ぐしもたぐる時もなく、沈み給へる御有様(ありさま)、いとことはりに、遠き御別の悲しさにうちそへて、御胸のひまなく思(おぼ)しこがる。后の位(くらい)もとヾめられ給て、院号のさだめなど、人の上(うえ)のやうにほのかに聞こしめすも嬉(うれ)しからぬ世也。(130)

 悲嘆一色の描写に、再び賀茂の祭りが割り込む。

今年は祭(まつり)の御幸あるべければ、めづらしさに、人/゛\常(つね)よりも物見車心づかひして、かねてより桟敷(さじき)などもいみじうつくせり。使どもも、いかで人にまさらむと、かたみにいどみかはすべし。……殿上人も、よき家の君だちども、色ゆりたる限り、いときよらに好ましう出(い)でたち仕(つか)まつれり。御随身(ずいじん)なども、花を折れるさま也。出(い)だし車に、色/\の藤・躑躅(つつじ)・卯(う)の花・なでしこ・かきつばたなど、さま/゛\の袖口こぼれ出(い)でたる、いと艶(えん)になまめかし。
 祭(まつり)など過ぎて、世の中のどやかになりぬる程に、先帝(せんてい)の御供(とも)なりし上達部(かんだちめ)ども、罪重(つみおも)きかぎり、遠国へつかはしけり。(131)

 後醍醐天皇は、歌人として後鳥羽院にはるかに及ばない。しかし、その歌は状況を反映して読者の心を強く動かし、『増鏡』のぺ−ジから立ち現われる天皇像は、読者には忘れがたいものとなる。後醍醐天皇をとくに敬わない人でも、隠岐で孤独に暮らす天皇には同情を禁じえないだろう。『増鏡』最終巻では、この天皇が都に帰還するさまが語られる。それと併せ読むと、隠岐は神話の世界の様相を帯びる。天皇の苦難は、最後の勝利にふさわしいことを証明するため、英雄に課せられた試練だったかに見える。読者は後醍醐天皇の勝利をまえもって知っていた。そして、新帝即位の賑わいの描写に皮肉な響きを感じとっていたかもしれない。このように、『増鏡』は後醍醐天皇の帰洛で終わるものの、その後、建武新政は短命に終わり、天皇は野の山中で生涯を終える運命にある。それも、読者には周知のことだった。こうして時間的経過がいくつもの層となって重なり合い、『増鏡』に劇的な深みを与えている。『増鏡』は決して客観的な歴史ではないが、「歴史物語」の傑作である。そして、『将門記』以来、歴史物語はいつも日本人の想像の世界に重要な地位を占めつづけている。


実際に原文を読んでみると、その終わり方は、かなり奇妙である。やっと武家の時代が終わって、公家中心の政治が復活するのだ、嬉しいなあ、という明るさに満ちているのである。それは建武の新政の失敗、その後の下克上の風潮、そして貴族階級の急速な没落を知っている我々には異常とすら思えるほどの明るさである。

(103)先行する『大鏡』『今鏡』『水鏡』については、キーン『日本文学の歴史』古代・中世篇3「歴史を映す鏡」を参照。もう一つ、『弥世継(いやよつぎ)』という作品が『増鏡』の前にあったことが知られている。これは、第八十代高倉天皇と第八十一代安徳天皇の治世を扱っていたが、現在では(おそらく室町時代に)散逸している。江戸時代になって、その空白部分を埋めようと、荒木田麗女(あらきだれいじょ、一七三二〜一八○六年)が『月の行衛』(一七七一年)を著わした。これも鏡物の伝統にのっとり、百歳を超える老人に遠い過去を同想させるという趣向になっている。
(104)岩佐正・時枝誠記・木藤才蔵校注『神皇正統記 増鏡』二四九ページ
(105)同右二四八ぺ−ジ
(106)本文はすべて老尼の言葉で語られる。しかし、それは十四世紀の口語ではなく、『源氏物語』を思わせる平安言葉である。
(107)作者であるための条件については、山岸徳平・鈴木一雄編『大鏡・増鏡』一八六〜一八八ページを参照。活動していた時期、もっていた偏見(武家より公家の肩をもっていたか)、文化的背景などがあげられるが、『増鏡』の場合にはもう一つ、南朝より北朝を支持していた人物という特別の条件がつく。つまり、作者が吉野山に籠ももっていたのでは、この作品を書くのに必要な資料が手に入らなかったろうと思われる。二条良基は、当時の他の誰にもましてこれらの条件によくあてはまる。
(108)成立時期の諸説については、山岸他『大鏡・増鏡』一八五〜一八六ページを参照。また、『日本古典文学大辞典』第五巻五一九〜五二○ページの「増鏡」の項(木藤才蔵筆)も参照。『日本古典文学大辞典』当該巻の前年に非上宗雄が『増鏡』を出版し、その下巻三八九〜三九四ぺ−ジで、成立を一三三八〜五八年としている。
(109)西行の「いづくにも住まれずばたゞ住まであらん柴の庵のしばしあるよに」(新古今集、一七七八)からの引用。西行はもはや隠者の庵に住めないと知り、それ以後、住居をもたないが、この世にあるのも、結局、そう長いことではないではないかという。宮廷に住み慣れた身に、隠岐の住まいがなんと脆く弱々しく見えたかをいうための引用。
(110)白居易の「三五夜中新月色二干里外故人心」を踏まえている。後鳥羽院は、かつてないほどこの詩に心を動かされた。
(111)岩佐他『神皇正統記 増鏡』二七九ぺ−ジ
(112)山岸徳平校注『源氏物語』〈二〉三○ページ
(113)岩佐他『神皇正統記 増鏡』二九九〜三○一ページを参照。また、山岸他『大鏡・増鏡』二三一〜二三六ページも参照。
(114)おそらく、戦乱で失われた写本もあったろう。
(115)『とはずがたり』からの借用については、松本寧至「『増鏡』と『とはずがたり』」(山岸他『大鏡・増鏡』三五五〜三六四ぺ−ジ)に詳しい。三五八〜三五九ぺ−ジには、両作品の該当部分の対比もある。後深草院の異母妹とは、後嵯峨院皇女、前斎宮の※子(がいし)内親王である。内親王の祖母は、一時、二条の祖父と結婚していたことがあり、のちに別人(俊盛)と再婚して、その二人のあいだに生まれたのが二条の母だから、内親王と二条は遠縁にあたる。後深草院と※子内親王のかりそめの契りについては、福田秀一校注『とはずがたり』七八〜八二ページを参照。松村博司『歴史物語』二七四〜二八二ぺ−ジに、『増鏡』の典拠の紹介がある。そこには、五代の治世(一二二一〜七二年)を記した十四世紀の歴史物語『五代帝王物語』や、十三世紀の王朝女流日記『弁内侍日記』も含まれるが、結局、典拠として疑いないの は『とはずがたり』だけだ、というのが松村の結論である。『とはずがたり』については、本書一○○〜一〇六ページを参照。
(116)福田『とはずがたり』八一ぺ−ジ
(117)全十七巻のうちの巻第十六。巻名は、後醍醐天皇の和歌「聞きをきし久米のさら山越えゆかん道とはかねて思ひやはせし」による。久米のさら山のことは聞いたことがあったが、自分がいつかその山を越える道をたどることになろうとは、かつて考えたことがあったろうか、の意。「久米のさら山」は、美作国(みまさかのくに、現在の岡山県)の歌枕。この巻名が、「歌で聞き知っていた地を見るのが、流刑地へ赴く途中であるとは……」という、後醍醐の慨嘆をいっていることは明らかだろう。
(118)「元弘」は、このとき南朝方が用いていた元号である。この年の四月、光厳天皇の即位とともに、北朝は元号を「正慶(しょうけい)」と改めた。ここに「元弘」が使われているところをみると、作者は南朝に同情的かとも思われるが、元号が変わったのは四月だから、年の初めは誰にとっても「元弘二年」だったとも考えられる。また、時枝と木藤がいうように、作者は──あくまでも二条良基として──北朝方の人間でありながら、個人的には後醍醐天皇を敬愛していたということかもしれない(岩佐他『神皇正続記 増鏡』二二七ページ)。たしかに、この巻の後醍醐天皇は読者の同情をそそるように描かれている。
(119)光厳天皇の治世(一三三一〜三三年)を指す。光厳天皇は持明院統(後深草院の血統)である。鎌倉幕府は、持明院統と大覚寺統(後深草院の弟、亀山院の血統で、後醍醐天皇はこちら)に交互に皇位を継がせる方針をとっていた。後醍醐天皇の討幕計画が挫折したとき、光厳天皇は皇太子で、北条高時に擁立されて践祚した。しかし、後醍醐天皇は退位を拒み、天皇であることを自認しつづけた。やがて後醍醐天皇が隠岐からもどり、光厳天皇は退位した。
(120)当時、都には後伏見院(一二八八〜一三三六年)と花園院(一二九七〜一三四八年)の二院がいた。
(121)作者は明らかに後醍醐天皇に同情を寄せており、その後醍醐天皇は退位を拒んでいたが、光厳天皇が正式に即位したいま、後醍醐天皇を「先帝」と呼ばざるをえなかった。
(122)「上陽人」とは、おそらく、唐の玄宗皇帝に召されながら、楊貴妃が寵愛を独占していたため上陽宮に放っておかれた麗人を措す。白居易の『上陽白髪人』は、皇帝から声がかかるのを待ちながら年をとり、白髪になってしまった女性たちをうたった詩。岩佐他『神皇正統記増鏡』四五七ページを参照。
(123)岩佐他『神皇正統記増鏡』四五七ページ
(124)同右四五八ぺ−ジ
(125)「壺装束」とは、平安・鎌倉時代以後、中流以上の女性が徒歩で外出する時の服装。被り物をつけ、長い着物の裾が地面に触れないように紐で中結にする。
(126)岩佐他『神皇正統記増鏡』四五九〜四六○ぺ−ジ
(127)山岸他『大鏡・増鏡』二七五ページを参照。『源氏物語』「須磨」「明石」の二巻に多くを負っている。
(128)岩佐他『神皇正統記増鏡』四六五ページ
(129)「本院」は後伏見院、「新院」は花園院。
(130)岩佐他『神皇正統記増鏡』四六六ページ
(131)同右四六九ページ






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