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福田景道 「『増鏡』と両統問題」
(『島根大学教育学部紀要.人文・社会科学編』第25巻.平成3年.p49以下)



福田景道氏の略歴
島根大学助教授
※後日補充します。



※なるべく早く「私の立場からの補足」を付します。



 

 『増鏡』の主題や著作意図に関する研究状況が概括される際、政争史的側面から作品を照射する立場と文化史的観点に注目する立場とに二分される場合が多い1。承久と元弘の公武間の抗争を大覚寺統主体の倒幕運動として重視する見解と、宮中を中心に展開する華麗な王朝絵巻に主眼があるという見方の二つである。これを三部構成説2に関係付けると、承久・元弘の二大戦乱を中心とする第一部・第三部の世界と、宮廷社会の優麗な儀式・遊宴などの精叙を特色とする第二部の世界のどちらを『増鏡』の中心と見なすかという対立に置き換えられる3。したがって、いずれの立場にしても『増鏡』全巻を大きく二分して、その一方を看過し去ることによってはじめて成り立つという難点が生じるのを回避できない。「政治事件に重きをおくのは事件そのものの重大性に囚われている」「宮廷生活に重きをおくのは記述量が多いということに囚われている」という鈴木孝枝氏の推断4に従うべきであろう。

 そうすると、『増鏡』全編を一括して把捉できる方途が改めて探索されなければならなくなる。そこで鈴木氏は主に「作者の精神態度」によって両者を統一的に考えるべきことを提唱した上で、『増鏡』の記事内容が「宮廷社会の波瀾万丈」を意味するという理解から「人生の流転の実相」を捉えようとする作者の意図を見いだす5。これは伊藤敬氏の生滅流転の仏教的歴史観を一貫して基底に据える読解6に発展して、注目すべき視点になる。また、木藤才蔵氏は第一部と第三部の根底に王朝文化復興の願望を見いだして、王朝の文化伝統の存続を証明する第二部との統合を試みる7。第二部を公武協調の理想が達成された時代と捉える加納重文氏は同じ理想を『増鏡』全体に見いだすことで統一的把握を図る8。一方、必ずしも統一を要求しないで『増鏡』全編の主題を考察する立場もある。たとえば、先行歴史物語の時間的継承・西園寺家の家門史・宮廷生活史などの三側面からの多面的把捉が宮内三二郎氏によってなされ9、西沢正二氏には宮内氏の指摘のうち西園寺家門史に代えて後鳥羽院以来の王朝回復運動史を軸にする後醍醐帝物語を加える見解がある10

 いま個々の論点の是非を検証する余裕はないが、いずれも相応の妥当性をもちながら、『増鏡』の歴史世界の究明において概括的かつ表層的にすぎる面があるように思われる。まず流転の実相に『増鏡』世界の本質を見る立場に関して言えば、そこに中世的特徴が確認できるにとどまって掘り下げた追究はなされない。『六代勝事記』『五代帝王物語』『保暦間記』『平家物語』『徒然草』などにも同様の色調があることを伊藤氏自らが認めるように11、それだけでは『増鏡』固有の性格を闡明するには至らないのである。『増鏡』の歴史叙述の対象に選ばれた時代が、類書のいずれとも一致しない独自の期間であるからには、そこに独自の時代認識や無常観や流転思想が見いだされなければならない。王朝文化や公家政権の維持、復権に主題を認める場合も、具体的にどのような文化や政体が希求されたのかが不明確である。公武関係といっても「公」の中にさまざまな立場が混在するのが『増鏡』の時代であり、その点で主題や本質の把握に不充足な面が残るであろう。

 これらの不充足を解消するための一助となるべく、現実の政界と作品世界との関係の一端を解明するのが本稿の趣旨である。その際、特に二皇統の並立現象に注目してみたい。大覚寺統と持明院統の間を政権が目まぐるしく往還し、やがて二帝分立の異状をもたらした天皇家の内訌は当時の公家社会最大の関心事といってよいだろう。この変動の渦中にあって『増鏡』は著作されたのである。なお、主題・著作意図による高次元の統一性に拘泥せず、歴史的現実の作品への広汎な反映にも注目していくことになる。

 歴史物語には必ず政治的意識が存在すると言われる12。公武関係や王朝回復は言うまでもなく、宮廷生活に視点を定める場合も政治情勢と無関係ではいられない。優艶な諸行事に参集する皇族や貴族が同時に政局を動かしていたという関係があるだけでなく、彼らが形成する王朝的美的世界にその政治的勢力分布がそのまま投影するのである。その意味でも両統をめぐる政治問題は無視できない。


 

 さて、『増鏡』における両統の対立関係への対応や作者の立場は、大覚寺統支持、持明院統支持、中立的立場など多岐多様に認識されてきたようである。以下にそれらの諸説を瞥見しておく。

 まず、『増鏡』の叙述に太覚寺統を正統視する意識を読み取る見解が戦前を中心に多出するが、それらには内容・筆致から自明であると即断してあえて根拠を明示しないものが少なくない13。また、公平な態度の中に大覚寺統寄りの心情が消極的に読み取られる場合がある14。これらは論者の主観に左右される面が否定できないため検討の対象には適さないが、それらの原点とも集大成とも見なされる尾上八郎氏の比較的詳細な見解を引用してみる15

作者は、持明院流に同情の少ない人であるらしい。それは持明院流の御上をも、疎略にしてはゐない、極めて公平の態度を持してゐる如く見えるのであるが、後醍醐天皇の御挙兵、御失敗御恢復を説くこと甚だ詳かで、承久の御失敗を十分にとりかへしたその御成功に及んでは、自分自身が凱旋将軍であるが如くに、一層の勢を以て、描写の筆を運んでゐる。もし、持明院流に党した人であるならば、今少しく進んで、北朝の天皇が尊氏に擁立せられるところまでを書いて、そこを獲麟とするであらう。もし後は知らず、たゞこの年に書き終つたものならば、最後に、何等か持明院流の御蟄伏に、同情する語がなくてはならないと思ふ。(中略)前記の理由で、大覚寺流に心を寄せた何人かの著作であらうとは云ひ得ると思ふ。

 ここでは、持明院統に比して大覚寺統に関する記事が詳細である点と、後醍醐帝の大願成就をもって擱筆される点が主に取り上げられている。

 この二点は幅広く受け入れられているようであるが16、論拠として薄弱な面があるのは否めない。すなわち、記述の精疎を重視する姿勢は、前述の第二部の軽視にほかならず、後嵯峨院物語や宮廷生活史の一面を無視する弊害を招いてしまう。擱筆時点に着目する場合は、『増鏡』が跋文を欠く事実から導かれる未完結説17がまず障害になる。完結しているとしても、単純に大覚寺統の勝利を謳歌して終わるとは断言できない。それは最末尾の四条隆資の還俗を詠む歌「すみぞめの色をもかへつ月草の移ればかはる花のころもに」18(487頁)をめぐる解釈の多様性に象徴されていると言えよう。つまり後醍醐政権復活の歓喜・予祝のほかに、「移ればかはる」の句意から建武新政権の早期瓦解、南朝の天子の吉野からの還京、北朝政権の崩壊などが読み取られる可能性があると言われる19。 建武政権樹立の瞬間に視座を定めて、未来をどの時点まで見通すかに上って寓意か激変し、相反する解釈か容易に成立し得るのが実状である。移ろいやすい人心20、人の世の流転21のような含意が強調される場合もある。要するに擱筆部分の解釈は作品全体の構造の中に置いて初めて可能になるのであって、この部分を根拠にして主題を描出しても大方の賛同を得るのは現時点では不可能に近いかもしれない。一回の盛儀の叙述から平田俊春氏が西園寺家への反感を読み取り22、同一箇所に宮内三二郎氏は好意を看取する23典型的な実例とともに、単一の記事から『増鏡』の全体像を掌握することの困難さがうかがわれる。後醍醐帝の帰還で幕を閉じることもさまざまに位置付けられるであろう。(ところが、後述するように、この解釈の流動性に『増鏡』の一特色が存する。)

 以上のように、筆致、叙述の精疎、最終部分からは『増鏡』全体に大覚寺統を支持する意図や傾向があるとは明言できそうにない。この見方が宮廷生活史の要素を重視する立場から否定される趨勢24にあるのは、戦前の時代思潮に依拠するとして排除されるだけでなく、このような立論の不十分さが関与するのかもしれない。ただし、後醍醐帝に同情的であったり、大覚寺統関係のことを熱意を込めて描写する箇所はたしかにある。主題や著作意図には結び付かなくても、部分的に大覚寺統が厚遇されていることは否定できない。

 ところで、大覚寺統方に立つことは幕府倒滅を重視することで、公家と武家の関係を重視することに直結する。こう考えると、冒頭に挙げた第一の主題理解−大覚寺統公家の立場から公武間の抗争を描くとみる立場−に通じてくる。中心的話題にはなり得なくても、『増鏡』に公武関係を注視する傾向が認められるかもしれない。実は、主に否定されたのは大覚寺統方に立つという点で、公武抗争の点に限定すると、依然として容認される場合も少なくない25。しかし、これも『増鏡』全体の把捉としてはふさわしくないと思われる。かつて論及したので繰り返さないが、公家社会内に視野を限定するのが『増鏡』の特色であって、公家と武家の関係そのものを主題にかかわらせることはないこと、武家社会は公家社会内の一辺境を構成するにすぎないことを本稿の前提として再確認しておきたい26

 さて、最終部分は多義的に解釈され得るために作品の主題や基底の究明には貢献できなかったが、冒頭部をも視野に入れてこれを再検討すると事情は異なってくる。『増鏡』は疑いもなく後鳥羽院に始まり後醍醐帝に終わるのである。未完結の立場に従ってもこの点は動かないようである27。しかも両帝王の性格や境遇に共通性が顕著なのも事実である。ともに和歌活動に秀でる偉大な治世者として造型され28、同様に倒幕の企図に失敗して隠岐で流謫の生活を送るという境遇も符号する。明らかに承久の後鳥羽院と元弘の後醍醐帝を対応させ同一化する構想が見いだせるであろう。この照応を大覚寺統擁護の意図に直結させてあえて重視しない立場もある29。たしかに一党派の実利に寄与するような功利的目的を『増鏡』に認めるべきでない。しかし、そこに著作の原動力を見ないまでも、『増鏡』の首尾が呼応するのは紛れもない事実である。この点に限ってはひろく承認されていると言って差支えないであろう30

 さらに進んで、後醍醐帝を核とする物語的世界が後鳥羽院物語を包括して構想されているという見方もある31。『増鏡』は、編年的歴史叙述の起点である後鳥羽院が同時に観念的な「始原」の機能を果たし、それに対応して作品全体の「核心」として後醍醐帝が最後尾から作品世界を統制するという構造を有し、形式的な首尾と実質的な首尾とが合致する希有な通史的歴史文学なのである32。その中で皇位継承史の構想が機軸になって『増鏡』の世界は展開すると思われる33。このように「核心」として機能し、後鳥羽院から連綿と続く皇位継承史の構想の終着点に位置する後醍醐帝の立場は、そのまま大覚寺統の浮沈を意味し、両統問題に深くかかわるのである。この点には、大覚寺統勢力が部分的には支持される点とともに着目しておきたい。

 次に、両統対立の時勢を持明院統方に立って眺める立場に触れておく。これについては近藤瓶城氏の簡単な言及が代表とされてきた34。また「明治以前においては大体北朝方の人と考えられていた」35と言われるが、論拠を確認するに至らなかった。大覚寺統の場合と同様に主観的な読解の可能性が高いが、ここでは論断を保留せざるを得ない。

 ただし、石田吉貞氏は、南朝方の貴族の酷烈な環境と資料の不足が優麗典雅な『増鏡』の執筆に適さないこと、足利氏に対する筆誅が行われていないことから北朝方の貴族を作者の条件に挙げる36。間接的ながら持明院統側からの叙述態度が指摘されているようである。このような考え方は他にも見られる37。しかし、これは『増鏡』本文の叙述内容から帰納されているわけでないので、ここでの考察の対象から除外しておく。

 『増鏡』持明院統立脚説の真の可能性は伊藤敬氏によって提示されたようにも思われる38。すなわち後深草院には好意的・同情的な言質があるのに亀山院は否定的に描かれるという論調は持明院統方に立っての叙述態度の指摘と見なすことがてきる。大覚寺統には暗部や凶兆が描かれるのに持明院統にはそれがないという青木祐治氏の指摘も同様の発想であろう39。しかしながら、これらは部分的に認められる範囲にとどまる。大覚寺統の場合と同様に、持明院統方に立っての記述部分がたしかに存在するということにすぎないであろう。

 また、二条良基などの具体的な人物を作者に推定する説に連動して、作者の現実の立場を大覚寺統側から持明院統側へ移行したものと予想されることがある40。その転向の様相が本文に明確に投影しているとは思われないので特に問題としないが、双方の立場の共存を前提とする見解であることは注目される。

 結局、『増鏡』には大覚寺統側からの叙述も持明院統側に立っての叙述もともに部分的には認められ、一作品内に相反する立場が併存していると考えられる。明確に作品全体をもって特定の政治勢力に同調することはなく、隠微に両統を肯定しているとも言える。それが中立的立場、公平な叙述態度が指摘される根拠になる。


  

 『増鏡』に両統問題が公平無私に扱われているという主張は早く明治末には発表されていた。

承久乱の伏起、両統迭立の次第、元弘の乱因の如き、頗る巧妙なる筆を以て記されたる、本書の編纂の主眼は、此皇憲失墜と、建武回復の二事にあるやを想はしむるなり、然れども本書は神皇正統記の如く、神器の有る所を明にし、皇統の万世一系を述べたるが如き類とは異にして、持明院派に偏せず、大覚寺派に党せず、極めて公平無私の所謂写実的筆法を用ひたる点に於ては、特に成功せるものと云ふ可し、41

 同様の見方は多い42。これは冒頭に挙げた主題把捉の第二の立場−宮廷生活史の面を重視する立場−に通じる。「大体に於て宮中のやはらかな生活を写すのを主とし、中には特に情話をうつし、平安時代の軟かな気分をうつす」43という印象の具体性を帯びた姿がここにある。『神皇正統記』との懸隔が強調されることで『増鏡』の特徴か明らかにされるのも共通した傾向である44

 その根底には次に引用する手島靖生氏のような見地が伏流するように思われる45

思うに、著述の目的や作者についてこれほど議論があり、中には全く正反対の見方さえあるというところに、実は増鏡の本質が暗示されているのであり、また作者の人物も想察されるのである。(中略)また記事の拾い方しだいで大覚寺統方とも持明院統贔屓ともみなされよう。しかし、それらはいずれも一斑のみによって全体を推したとか、先入観をもって物をみたとかいうそしりは免れがたいであろう。(中略)大覚寺・持明院両統が終始仇敵の間柄であったと決めた上で立論するのは、その論の前提に疑義があり、また、当時の貴族はすべて両皇統のいずれかに荷担従属していたはずのもので、そうでないものはすべて二股的存在であったと決めてかかるのも、史観が浅すぎはしないであろうか。(中略)作者は両統共皇室であるという点において全く同等に深い敬愛と同情をささげているのであって、その間に区別はない。(下略)

 ほぼこのようにして『増鏡』に両統問題に対する公平さが認められ、定説化するのであろう。しかし作者が当時の政界においてどのような党派に属し、どのような政治思想や世界観をもっていたかは『増鏡』には直接反映していないのではないだろうか。『神皇正統記』との差異がしばしば指摘されるように、『増鏡』には作者の現実的功利的な意図は表出されていないのである。これは一面では架空の語り手が設定されていることにも関与すると思われる。語り手の老尼と作者とは基本的に別の人格なのであって、老尼の意識は作者のそれと峻別されるべきてあろう。 たとえ作者が確固とした信念をもつ主導的な政治家であっても、それは『増鏡』世界には直接投影しないのである。両界の対等併存の世界観を認めながらも後醍醐帝寄りの立場を強調したり46、大覚寺統方から持明院統方への転身を想定して、作者の現実と作品とを密着させる47のは、この意味で首肯できない。

 しかし、これをもって主義主張・理想・情熱などが欠如すると見なしたり48、「無節操49」「無気力50」と短絡するのは適切でないように思う。前述のように局部的に各皇統の側からの叙述がなされているし、錯綜する皇位継承の過程に伴って宮廷貴族層の境遇が劇的に変転するさまが活写されるのである51。最大の政治問題とも言える皇統分裂の事態が等閑視されているわけでは決してない。公平無私の面が確認される中に、両統に好意的な視点が顕著に見いだされ52、反武家感情が指摘される53のも、無関心ではないことを裏付けるであろう。

 それでは、皇統分裂の窮状に相応の関心が抱かれながら、双方の立場の間に視座を循環させる『増鏡』において、当面する両統問題−著作にあたって眼前に展開していた宮廷社会の大問題−はどのように定位されているのであろうか。如上の研究動向を踏まえて、以下に私見を提示してみたい。


 

 洞院右大臣実雄女佶子が立后を遂げて安定した地位を築きつつあった亀山帝の後宮に、新たに権力者西園寺実氏の孫女嬉子が入内し、情勢は不穏なものに転じた。

いづれも離れぬ御中に、いどみきしろひ給ふほど、いと聞きにくき事もあるべし、宮仕ひのならひ、かゝるこそ昔人はおもしろくはえある事にし給けれど、今の世の人の御心どもも、あまりすくよかにて、みやびをかはす事のおはせぬなるべし。これ(嬉子)も后に立ち給へば、もとの中宮(佶子)はあがりて、妍皇后宮とぞきこえ給。(322頁)

 実雄は実氏の実弟である。同族間で後宮の覇権を争う様が注目されている。一帝の妻后に中宮(嬉子)と皇后(佶子)が並び立つ先例は、一条朝の皇后定子と中宮彰子に始まり、三条朝の皇后※子と中宮妍子、後朱雀朝の皇后禎子内親王と中宮△子などが続いて、平安朝の宮廷を彩っていた。同じく二后並立状況にあって、「今の世」(『増鏡』時代)の「すくよか」て「聞きにくき」有様は、「昔人」の「おもしろくはえある」「みやびをかはす」有様と好対照をなす。「みやび」は平安時代のさまざまな美的表現を包括する「貴族的美の完成」であると言われる54。つまり、この場合の西園寺・洞院の無骨な競合と対置することによって王朝的「みやび」な競合を間接的に称揚していると考えられる。『増鏡』の理想が垣間見えるようである。
※女へんに「成」 △女へんに「原」

 この理想は林屋辰三郎氏の言われる「競合の文化」におそらく一致する。律令時代には左右相称の均整美が理想とされ、王朝時代にはそれがさらに相対するもの同士の競合の形が希求されるようになる風潮を摘出される林屋氏は、藤原道長を頂点とする摂関時代を「世をあげて競合のうごきを示した」時代と見なし、皇后定子と中宮彰子の妻后並立や王朝女流文学の盛況も競合の所産であると道破する55。『増鏡』で称揚された「みやび」な競合はまさに王朝的「競合の文化」にほかならなかった。 『増鏡』では競合による発展が鮮明に希求されていると言って大過ないであろう。特に『枕草子』『源氏物語』などが林立した定子・彰子らの後宮の競合が「みやび」の規範とされているとも思われる。この時の佶子・嬉子の並立は従姉妹にあたる定子・彰子の場合に近い。

 同様の徴証は皇位緩承に関して少なからず見いだされる。

これぞあるべきことと、あいなう世人も思ひいふべし。御門(後宇多)よりは、いま二ばかりの御兄なり。まうけの君、御年まされるためし、遠き昔はさてをきぬ、近比は三条院・小一条院・高倉院などやおはしましけん。高倉の御末こそ、今もかく栄へさせをはしませば、かしこきためしなめり。いにしへの天智天皇と天武天皇とは、おなじ御腹の御はらからなり。その御末、しばしは、うちかはり/\世をしろしめしゝためしなどをも、思ひや出けむ。御二流れにて、位にもおはしまさなむと思ひ申けり。(349・350頁)

 「これぞあるべきこと」とは煕仁親王(伏見院)が立坊して将来の後深草院による政権掌握が約束されたことを肯定する世評を示している。この立坊決定は亀山院の系統(大覚寺統)に固定しかけていた皇統が再び後深草院の系統(持明院統)に奪回されて、以後の両統交立の端緒となった事件である。これ以後の皇位は両統の間をめまぐるしく移動する。「あるべきこと」とはこの事態を容認する言辞とも理解される。

 ところが、ここには持明院統を正統視する意図が見いだされる可能性もある。たとえば、伊藤敬氏は「後深草院の子孫も皇位継承者たりうるのだという新たな権利・秩序が、武士の力を借りたとはいえ、正当に樹立したこと」を読み取り、その上で東宮(伏見院)が帝(後宇多院)より年長な点から高倉院の末流が「今」も栄えるのを「かしこきためし」とするのを「伏見院(持明院統)の遠い将来を見据えての言」と解釈する。さらに天智帝・天武帝二流交立の例示を「結局は今に伝わるのは、兄である天智帝の血脈であることへの無言の言及ではないか」と推定される56。持明院統にも皇位継承の可能性が開かれたことの言明と見る把握に異論はないが、先例を根拠に持明院統支持の意図をみるのは賛同できない。不吉な年長東宮の前例である三条院・小一条院の悲運を遮蔽して、高倉院の吉例のみを強調することもあり57、持明院統に荷担する一面はたしかにある。しかし、それがただちに大覚寺統を否定するには至らないであろう。また、天智・天武兄弟の例は「うちかはり/\世をしろしめしゝためし」「御二流れにて、位にもおはしまさなむ」と明確に定位されるのにあえて「無言の言及」を読み取る必然性があるだろうか。むしろ、弟の系統から兄の系統に皇位が移動した事実を、両系が交互に即位したかのように操作しているとも思われる58。わざわざ父時頼の善政に筆を及ぼしてまで時宗が賛美されるのは二流交立を「思ひ申」した判断をまず肯定するためである。また、言うまでもなく、大覚寺統のみを支持しての叙述でもない。やはりこの部分は両統交立を婉曲に支持するとしか考えられないであろう。この後、皇位継承者の人選のたびに起こる両統の熾烈な抗争を知った上で、その根源となる伏見院立坊を肯定しているのである。この一見異常な評言は、競合による公家社会(文化)の活性化が志向される故のことと見なして初めて納得できるように思われる。

 後鳥羽院は鍾愛する順徳院に皇位を継承させるため、十六歳の若さで「いまだ遥かなるべき」長子土御門院に譲位を強いた(257頁)。ここで鳥羽法皇が強引に近衛帝を立てて崇徳院に代えた過去の類例が対比されている。崇徳院が父院の決定に激しく抵抗し、その憤懣心の果てに保元の乱が引き起こされたのに対して、土御門院の場合は、

この御門(土門院)は、いとあてにおほどかなる御本性にて、思しむすぼほれぬにはあらねども、気色にも漏し給はず。(258頁)

と穏便にすべてを終息させてしまう。この温順さと孝心が伏線になって後に孫の後嵯峨院の践祚に結実するという構想が瞥見できる59。しかし、『増鏡』はこれについて「世にもいとあえなき事に思ひ申けり」(258頁)という世評を伝える。賞賛されてしかるべきなのに「あへなし」と否定的に総括されるのである。政情不安や戦乱を未然に防いだことは評価できても、土御門院の消極的な性情が競合による発展を妨げるもの として論難されたとも解釈できる。ここでは「みやび」な競合が潜在的に奨励されているのではないだろうか。

 後嵯峨院の死去にあたって、比類ない栄光の生涯が賛美される。

卅年が程、世をしたゝめさせ給へるに、少しの誤りなく、思すまゝにて、新院(後深草)・御門(亀山)・春宮(後宇多)、動きなく、又外ざまに分かるべき事もなければ、思しをくべき一ふしもなし。なき御跡まで、人のなびき仕うまつれるさま、来しかたもためしなきほどなり。(340頁)

 賛嘆される大きな要因に、皇位は後嵯峨院の子孫に固定された安定性が挙げられている。ところが、まもなく子孫同士による苛烈な皇位の争奪をめぐる葛藤が日常化し、政局は混迷する。二皇子が相次いで即位すればその家流からの皇位継承の選択肢が倍増し、他流を皇位から遠ざけることになり、たしかに子孫の皇位独占が有望になる。しかし、同時に正統をめぐる骨肉の争いが起る可能性が増大するであろう。皇統の統一は安定を意味せず、近い血縁者の競合を生起させてしまう。後嵯峨院の安定政権は「離れぬ御中」での競合の舞台を醸成する場であったのである。

 その競合のさまは『増鏡』の宮廷生活史を特徴付ける。たとえば、後深草院に諸卿が参集する勢威が先例を超越する形で賛美されている60(363頁)。政権とは無縁なこの時の後深草院に政治的影響力が保有されていること、つまり、両皇統が等しく権勢を維持していることを強調するための記事と見なせる。それを受けるように後深草・亀山両院が諸行事に対等に同席する両統協調の平和が描かれるが、同時に対抗意識が維持されていたことも決して看過されない。

かやうに御中いとよくて、はかなき御遊びわざなども、いどましき様にきこえかはし給を、めやすき事に、なべて世の人も思申けり。(364頁)

と、明らかに競合が是認されている。これも世評による批判であり、作者や作品の思想をそのまま表しているわけではないが、『増鏡』の世評は後堀河帝や四条帝の急死を的確に予言するなど構想の中枢にかかわる傾向がある61。したがって、競合に価値を見いだすのは『増鏡』の思想に基づくと判断てきるであろう。

 また、康仁王の立坊は、「亀山院の御流れの絶ゆべきにはあらず」という理由から、持明院統のみに「わく方なく」皇位が定着するのを阻止する意味があったように記載される(455頁)。康仁は故邦良東宮の遺児、後醍醐帝の兄後二条帝の孫王である。後醍醐帝とその皇子がすべて流刑の身であったので、大覚寺統を皇統として維持する唯一の道として後二条系に皇位が託されるしかなかった。ここでも両統迭立を望んだのは「世の人」であった。両統共通の始祖後嵯峨院については、皇統の合一(子孫による皇位独占)が賛美されるのに対して、両統分立が確定している段階の康仁立坊に関しては分立が世評に支持されるのである。

 後嵯峨院の子裔に皇統が定着することは後深草院流(持明院統)と亀山院流(大覚寺統)の二皇統を生み出すことと同義だった。そのためには伏見院の立坊によって持明院統にも皇位がもたらされる事実が強調される必要があった。また、元弘の乱という特殊な状況にあっても両統の併存が優先されて康仁王が東宮の座に就いた事実も同様に捉えられる。『増鏡』ではこのような両統併存を堅持する方向性が「世の中」の意志として正当化されているのである。また、両統がそれぞれに克服と超越によって並立が保証されていることも例証できる62

 両統併存とはニつの家系を対等に共存させることでもある。別稿で指摘した『増鏡』の基調、すなわち対照的な二家系を併存させ、その明暗を循環的に交替させる基調に支えられていると言える63。個々の人物の対照ではなく家系と家系が対照される基調は、一回の皇位継承だけでは意味をなさない両統間の長期的な相剋問題に適合する。伏在する基調が最も典型的に具現するのが両統問題であるとも言える。『増鏡』における両統問題は、競合の中に二家系が共存共栄する方向に向かうべきものと位置付けられているのである。この意味で『増鏡』の立場は公平だった。




1 石井順子「増鏡の性格」(『国文』第7号、昭和32年7月)、金子大麓「増鏡を研究する人のために」(『国文学』第2巻第12号、昭和32年12月)、木藤才蔵「歴史物語」(東京大学中世文学研究会編『中世文学研究入門』昭和40年、至文堂刊)、田尻幹子「典拠から見た増鏡の性格」(『名古屋大学国語国文学』第20号、昭和42年6月)などにほぼ共通する把握がなされる。松村博司著『歴史物語』(昭和36年、塙書房刊)、西沢正二「著作意図をめぐって」(同著『『増鏡』研究序説』昭和57年、桜楓社刊)のまとめも基本的に類同する。
2 木藤才蔵「解説」(『神皇正統記・増鏡』日本古典文学大系87、昭和40年、岩波書店刊)、田尻幹子前掲論文1、宮内三二郎「兼好法師と増鏡−増鏡の作者は兼好ではあるまいか−」(私家版、昭和46年9月。同著『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』〈昭和52年、明治書院刊〉に再録)、金子大麓「増鏡における王朝的なるもの−その昂揚と頽廃−」(『岡一男博士頌寿記念論集平安朝文学研究−作家と作品−』昭和46年、有精堂刊)、加納重文「『増鏡』の思想」(『古代文化』第28巻第6・7号、昭和51年6・7月)、西沢正二「構成と内容(同著前掲書1)などに三部構成説が展開されている。
3 木藤才蔵前掲解説2など参照。
4 鈴木孝枝「増鏡の文芸性」(『東京女子大学日本文学』第31号、昭和43年10月)。
5 4に同じ。
6 伊藤敬「増鏡の思想」(『中世文学』第29号、昭和59年5月)、同「増鏡の思想(続)(『藤女子大学国文学雑誌」第33号、昭和59年6月)、同「増鏡の思想(完)(同誌第34号、昭和59年12月)など。なお、この見地は青木祐治「『増鏡』の構造について」(『伝承文学研究』第34号、昭和62年7月)にも踏襲されている。
7 木藤才蔵「増鏡の構想と叙述」(『国語と国文学』第38巻第6号、昭和36年6月。後に同著『中世文学試論』〈昭和59年、明治書院刊〉に再録)、同前掲解説2など。
8 加納重文前掲論文2
9 宮内三二郎「増鏡と西園寺家−増鏡は西園寺家々門史でもある−」(『国語国文薩摩路』第16号、昭和47年1月。同著前掲書2に再録)。
10 西沢正二前掲論文1など。
11 伊藤敬「増鏡の思想」(前掲6)。
12 加納重文前掲論文2
13 芳賀矢一「歴史物語」(『芳賀矢一遺著』昭和3年、冨山房刊)、伊豆公夫「荘園所有者=貴族の歴史−『増鏡』『水鏡』『大鏡』」(同著『新版日本史学史』昭和47年、校倉書房刊。旧版は昭和11年、白揚社刊〈未見〉)、坂本太郎「世継とかがみ(下)(同著『日本の修史と史学』日本歴史新書、昭和33年、至文堂刊。後に同著『修史と史学』〈坂本太郎著作集第五巻、平成元年、吉川弘文館刊〉に再録)など。
14 中村直勝「増鏡」(『岩波講座日本文学』第13回配本、昭和7年6月)、和田英松「増鏡の研究」(『日本文学講座』第三巻、昭和9年2月、改造社刊。同著『重修増鏡詳解附録』〈昭和10年、明治書院刊〉・同著『国史説苑』〈昭和14年、明治書院刊〉に再録)、沼沢龍雄「増鏡」(『日本文学大辞典』第2巻、昭和9年、新潮社刊)、亀田純一郎「増鏡概説」(『国文学解釈と鑑賞』第1巻第6号、昭和11年11月)など。
15 尾上八郎「解題」(『校註日本文学大系』第12巻、大正15年5月、国民図書刊)57頁。
16 たとえば、記述の精疎は和田英松前掲論文14、中村直勝「増鏡の史実性について」(『国文学』第2巻第12号、昭和32年12月)などに、擱筆時点は亀田純一郎前掲論文14、伊藤敬「二条良基の和歌と増鏡」(『私学研修』第85号、昭和55年2月)などに根拠とされている。
17 吉岡幹子「増鏡の最終部分に関する疑問」(『名古屋大学国語国文学』第25号、昭和44年12月)、西沢正二「『増鏡』未完結説の試み」(『国語と国文学』第51巻第12号、昭和49年12月)参照。
18 『増鏡』本文の引用は、時枝誠記・木藤才蔵校注「増鏡」(『神皇正統記・増鏡』日本古典文学大系87、昭和40年、岩波書店刊)により、( )内に適宜補足説明を加えた。以下同じ。なお、十七巻本系(底本)が古本とされるのに対して、十九巻本(流布本)に原態が残るとみる説があるが、本稿の論述に関しては両者に相違はなかった。
19 岡一男「解説」(『増鏡』日本古典全書、昭和23年、朝日新聞社刊)など。
20 上横手雅敬「増鏡の立場」(『新訂増補国史大系月報」第22、昭和40年5月)。
21 井上宗雄著『増鏡(下)』(講談社学術文庫、昭和58年刊)383頁、伊藤敬「続『増鏡』流布本考」(『藤女子大学国文学雑誌』第31号、昭和58年6月)など。
22 平田俊春「増鏡の成立に関する一考察−舞御覧記との関係について−」(『国語と国文学」第16巻第7号、昭和14年7月・同著『吉野時代の研究』〈昭和18年、山一書房刊〉に再録)。
23 宮内三二郎「増鏡の成立」(『国語と国文学』第51巻第9号、昭和49年9月。同著前掲書2に再録)。
24 手島靖生「増鏡の本質」(『国文学解釈と鑑賞』第1巻第6号、昭和2年2月)、同「一知識人としての『増鏡』の作者のありかた」(『文学』第24巻第4号、昭和31年4月)、岡一男前掲解説19、石田吉貞「増鏡の成立と時代」(『国文学』第2巻第12号、昭和32年12月)、岩橋小弥太「世継考」(同著『上代史籍の研究第二集』昭和33年、吉川弘文館刊)、上横手雅敬前掲論文20など参照。
25 竹野長次「増鏡の構成と思想」(『国文学』第2巻第12号、昭和32年12月)、木藤才蔵前掲論文7、武井啓子「増鏡作者の創作意識に関する考察−和歌と文章との関連−」(『文芸論叢』第6号、昭和45年2月)、加納重文前掲論文2など。
26 拙稿「『増鏡』の世界−「皇位継承」の意義をめぐって−」(『日本文芸論叢』第2号、昭和58年3月)参照。
27 17に同じ。
28 深津睦夫「『増鏡』の勅撰和歌集記事をめぐって」(『皇学館論叢』第15巻第4号、昭和57年8月)、菅野覚明「貴族の歴史観」(松村雄二他編『日本文芸史−表現の流れ』第3巻・中世、昭和62年、河出書房新社刊)など参照。
29 手島靖生「増鏡の本質」(前掲24)、石井順子前掲論文1、益田宗「「増鏡」と歴史」(岡一男訳『大鏡・増鏡』古典日本文学全集13、昭和37年、筑摩書房刊)など。
30 亀田純一郎「増鏡の研究法」(『国語と国文学』第13巻第4号、昭和11年4月)、石田吉貞前掲論文24、竹野長次前掲論文25 谷山茂「増鏡の文芸性について」(『国文学」第2巻第12号、昭和32年12月)、中村直勝前掲論文16、南波敦子「増鏡の史観について−とくに鎌倉の武家に対する記述から−」(『史海』第13号、昭和41年3月)、佐藤謙三「増鏡論議」(『国学院雑誌』第73巻第2号、昭和47年2月)、田尻幹子前掲論文1、山岸徳平・鈴木一雄編『大鏡・増鏡』(鑑賞日本古典文学第14巻、昭和51年、角川書店刊)209〜210・281頁、小峯和明「増鏡」(大曾根章介他編『歴史・歴史物語・軍記』研究資料日本古典文学第2巻、昭和58年、明治書院刊)、河北騰「「増鏡」の文学性について」(『国語と国文学』第68巻第1号、平成元年1月)など参照。
31 西沢正二「『増鏡』に関する一試論−後醍醐帝の物語をめぐって−」(『日本文芸論稿』第3号、昭和45年6月)、同前前掲論文(1)、山下宏明「『増鏡』の世界」(『名古屋大学文学部研究論集』(文学)』第23号、昭和51年3月)など。
32 拙稿「歴史物語の系譜と『増鏡』−継承性と自律性の観点から−」(『島大国文』第20号、平成3年11月)参照。
33 26に同じ。
34 手島靖生前掲論文24などによると史籍集覧本の奥書にあるらしいが未見。
35 石田吉貞前掲論文24
36 石田吉貞「増鏡作者論」(『国語と国文学』第30巻第9号、昭和28年9月)。
37 井上宗雄「解説」(同著前掲書21)など。
38 伊藤敬「増鏡の思想(完)」(『藤女子大学国文学雑誌』第34号、昭和59年12月)など参照。
39 青木祐治前掲論文6
40 坂井衡平著『新撰国文学通史』中巻(大正15年、三星社刊)、関東四郎「増鏡の作者について−増鏡の作者は歌人にして御子左家のものである−」(『国学』第5輯、昭和12年1月)、西沢正二「作者をめぐって」(前掲書1)など。
41 右京「増鏡」(『史学界』第15編第6号、明治37年6月)。
42 手島靖生前掲論文24、鶴見誠「増鏡を書いた著者の心」(『国文学解釈と鑑賞』第1巻第6号、昭和11年11月)、岡一男前掲解説19、石川徹「歴史物語の発展とその史的地位」(『国文学解釈と鑑賞』第15巻第5号、昭和25年5月)、岩橋小弥太「中世の史籍」(『日本歴史』第194号、昭和39年7月)、上横手雅敬前掲論文20、塚本康彦「『増鏡』覚書」(『古典と現代」第27号、昭和42年10月)、宮内三二郎「増鏡の成立年代」(『鹿児島大学教育学部紀要』第25巻、昭和49年3月。同著前掲書2に再録)など。
43 芳賀矢一「歴史物語」(前掲書13)139頁。
44 手島靖生前掲論文24、上横手雅敬前掲論文20、宮内三二郎前掲論文42など。
45 手島靖生「歴史物語」(久松潜一編『日本文学史中世』昭和30年、至文堂刊。昭和39年改訂新版、昭和46年新版、昭和50年増補新版)。昭和52年発行の増補新版から引用した(479・480頁)。
46 中村直勝「鎌倉時代の公武関係について−増鏡研究の方法と其実例−」(『歴史公論』第7巻第2号、昭和23年10月)。
47 40に同じ。
48 沼沢龍雄「歴史物語の本質」(『国語と国文学』第4巻第4号、昭和2年4月)。
49 塚本康彦前掲論文42
50 玉懸博之「軍記物と『増鏡』・『梅松論』」(「日本思想史講座』第3巻・中世の思想、昭和51年、雄山閣刊)。
51 拙稿「『増鏡』にみられる宮廷貴族諸流の盛衰−外戚から近臣ヘ−」(『国語教育論叢』第1号、平成3年9月)参照。
52 手島靖生前掲論文24など。
53 鶴見誠前掲論文42、石川徹前掲論文42など。
54 青木生子「みやび」(栗山理一編『日本文学における美の構造』昭和51年、雄山閣刊)。
55 林屋辰三郎「中世における都市と農村の文化」(『岩波講座日本文学史』第5巻、昭和33年刊。後に同著『古典文化の創造』〈昭和39年、東京大学出版会刊〉・同著『変革の道程』〈日本史論聚三、昭和63年、岩波書店刊〉に再録)、同著『日本歴史と文化』上巻(昭和41年、平凡社刊)229・236頁など参照。引用は後者によった。
56 伊藤敬「増鏡の思想(完)」(前掲6)。
57 拙稿「『増鏡』における過去と現在−「先例」の機能について−」(『島根大学教育学部紀要』第24巻第2号、人文・社会科学編、平成2年12月)参照。
58 57におなじ。
59 井上宗雄著『増鏡(上)』(講談社学術文庫、昭和54年刊)65頁、伊藤敬「増鏡の思想(続)(前掲6)など参照。
60 57に同じ。
61詳しくは別稿に譲る。
62 57に同じ。
63 拙稿「『増鏡」の基調−二家系対照と明暗循環の構図−」(『文芸研究』第128集、平成3年9月)参照。



☆福田景道氏の学説史上の位置づけについてはこちら。(伊藤敬氏「増鏡研究の動向」)




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