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| 島津忠夫氏の略歴(※) |
| (しまづただを) 大正15年、大阪市に生まれる。 昭和25年、京都大学文学部卒。大阪府立市岡高校、同住吉高校教論、佐賀大学助教授、愛知県立大学教授を経て、現在大阪大学教授。文学博士。 著書に『連歌史の研究』(昭和44年、角川書店)『連歌の研究』(昭和48年、角川書店)『中世文学史論』(昭和54年、和泉書院)等。 ※『能と連歌』(和泉書院.1990年)著者紹介より |
| ※福田秀一氏の略歴はこちら。 ※宮内三二郎氏の略歴はこちら。 ※原文の傍点部分を太字に換えました。 ※なるべく早く「私の立場からの補足」を付します。 |
徒然草の成立に関する通説の批判からスタートして、それと作者(兼好とされる)や成立事情(姉妹作とされる)が密接に関連するとの認定で増鏡を論じ、更に増鏡からの発展かどうかは別としても最晩年にはとはずがたりの成立や作中人物とその相互関係等を追求された宮内三二郎氏は、国文学界にデビューして僅か三年余りの間に、主としてこの三作品について長短十六篇の論攷を発表され、更に生前投稿あるいはほぼ脱稿して没後世に出た論攷各一篇を加えると、それらは十八篇に上る。 今回、「あとがき」にも述べられた意図・事情でこれらを一本にまとめて公刊するに当っては、それらを内容の主題によって大きくとはずがたり・徒然草・増鏡の三篇に分けた上、その三篇をこの順に配列した。各篇の中の各章の配列順序については後に触れるが、三篇を右の順序としたのは、文学史的な年代順にも叶うと見られる上に、後(770・779頁)にも繰り返すように、論旨の説得性といった学説の内容的意義も、ほぼこの順に認めてよいと思われるからである。以下、篇ごとに宮内氏の所説の特質や問題点とその今日的意義、更には氏の論を理解し吟味する上での留意点などを、私どもなりに述べておく。 第一篇 とはずがたり 徒然草の成立過程や増鏡の原形態と作者(兼好との推定)を精力的に追究してこられた宮内氏が、とはずがたりについて四篇の注目すべき論攷を遺されたのは、最晩年の一年間位であったと思われる。その中の二篇(第一・二章)は他界の年の前半に発表されているが、他の二篇(第三・四章)は文字通り遺稿となり、その翌年に活字となったのであった。従ってその二論文については、氏は校正にも与れなかったし、第四章の末尾が、恐らく数行乃至一頁足らずの「結び」を予定して未完結のままに残されていたこと、更にその際、今回同章に第三節として加えた一篇が、なお加筆するにせよ、他日の発表を予定して清書されていたことなどは、補注にも記した通りである。 氏の論文目録(790〜1頁)を見れば明らかなように、昭和四十年代の後半に徒然草と増鏡とを多分に平行して取上げてこられた(それには、同一作者の手になる補完作と見る、氏なりの必然性があった)宮内氏が、その後この両作品から矛先を転じてとはずがたりに向かわれた動機は、今では多分に推測による他はないが、一方では徒然草と増鏡の成立や作者について、例えば今回第二篇第五章や第三篇第七章とした各論攷で一応の最終結論に達したと考えられたのと同時に、増鏡ととはずがたりの資料的関係、すなわち増鏡がとはずがたりのようなかなり特殊な作品を資料として利用できたのは、増鏡の作者(前述の通り、兼好と推定された)や内容(西園寺家家門史と認定された)が、西園寺家(特に実兼)を介してとはずがたりのそれと密接に関連しているという認定が、与っていたに相違ない。と同時に、とはずがたりが、内容の年立とか作中人物のモデルとか、種々の点で従来諸説が分れ、未解決な点が少なくなかったことも、語弊を恐れずに言えば多分に仕掛人的素質のあった宮内氏の食指をそそるに十分なものであったろう。私は先般、とはずがたりの研究が「一応の整理と反省が望まれる時期に来たかと思われる」(『中世文学論考』あとがき)と書いたが、まさにその反省の第一弾が、氏によってなされたのであった。 こうして取り組まれたとはずがたりに関する論攷は、例によって通説への痛烈な批判と先入見にまどわされない斬新な視角とを身上とするが、徒然草・増鏡その他いくつかの作品(『竹むきが記』や『思ひのまゝの日記』など)を扱って文学作品を読み慣れてこられたためか、率直に言って最も出来がよいようである。通説批判の方法やそうして出された新見に、説得力を有するものが、第二・三篇よりも平均して多いように感じられるのである。 例えば、第一章で前半三巻の年立を再検討するに当って、とはずがたりのような日記文学では、あるいはこの作品では特に、素材史実と内容虚構との問題に考慮を払う必要があるとして、従来の年立がややもすればこの両基準を混用していたことを批判し、一応素材史実のみを基準として、内容記述は「補助データとして採用」された。 この方法は確かに正しく、少なくともすっきりしたものであるが、その結果は、従来の理解と相違するところが少なくない。「補助データ」とされた作品の記述にどの程度の虚構を想定するかがその分れ目であるが、例えば作品の冒頭部で作者が自らを文永八年に十四歳であったように見せているのも、(イ)そのまま信ずる必要はない、むしろ(ロ)「作者が、なんらかの動機で、虚構をこころみるとするならば、その具体的な方法として、一番最初に思い付くのは、作中の自分自身の年齢を、実際のそれからずらして設定する、という方法ではなかろうか」(13頁)として、作者の実際の年齢を従来の通説よりも三歳年長(文永九年に十八歳)と推定された。一方、(ハ)作品第一年の正月三日に法皇(後嵯峨)の後深草院の御所への御幸があったという記述は、「前後の文章からみて、正確に事実通りに書きつけたものと思われる」とし、それを(ニ)『続史愚抄』に当って、消去法的に文永五年正月と推定されたのである。 この例は、作品の冒頭を取上げ論じている上に、氏にはこうした推論が随所に見られるので、今回ここに取上げたのであるが、そこには、意地悪く言えば、いくつかの問題が指摘できると思う。(イ)が前述のように基本的な姿勢として正しいとしても、そこから直ちに(ロ)の推定へ飛躍してよいか、自伝的と見られあるいは作者自身であると否とを問わずモデルを有すると見られる作品で、人物の年齢を具体的に何度も記している例を突差に思いつかないが、『蜻蛉日記』から芦花の『思出の記』や藤村(捨吉物)・花袋(いわゆる三部作その他)から近代の私小説に至るまで、宮内氏が(ロ)で言われたような方法がどの程度一般的かは、私には多少疑問で、むしろ(イ)を主張された氏が格別の論拠もなく(ハ)の認定を出されると、読者は若干まごつかざるを得ない。特に(ニ)に関して言えば、宮内氏の示されたデータからも明らかなように、「(正月)三日」を「二日」の虚構(故意にせよ錯覚にせよ)とするならば、通説の文永八年を疑う根拠は消えるのである。 どちらが作品の理解として蓋然性に富むかは、折角の氏の提案を受けて、今後論議されねばなるまい。少なくとも、従来も東二条院の御産の記事については作品の記述をそのままに信ぜず、そこに年代上の虚構を想定していたのであるが、そうした従来の方法がともすれば恣意的で不徹底であったと宮内氏の目に映ったに違いなく、完全主義者の氏がそこを追求して真理に迫ろうとされた姿勢と熱意は、高く評価すべきであろう。 特に、巻二・三に「主・副二つの主題」を認め、両巻の記事を「後深草院と自分との関係を中心とする院御所における生活経験」の第一主題と「有明の月と自分との関係の経緯」の第二主題との二つと把握して(19頁)整理されたのは、元来美学者であった氏にしてなるほどと思わせる感もあり、一つの卓見であろう。 第二・三・四章の主内容は、共通して(1)作中人物(有明の月)のモデルと(2)作中の事件(秘密の出産)やその経緯の考証・推論である。これらは第一章の考察中に芽生え(46参照)、またそれを続けて行く過程で成長したものであって、特に第三・四章は第二章を補足・修正しつつ詳細な再論を試みたものと言える。 その中で、(1)に関しては、第一・二章以来明らかなように、従来性助法親王としてきた通説を否定して、御室門跡として性助の前任者の法助法親王(安貞元〜弘安七・十一・二十一)であろうと唱えたものである。手堅く諸記録等を駆使して性助とする説の不利乃至は法助とすることの可能性を説かれたのは、それなりの説得力があり、特に入滅月日から見て法助がまさるとの指摘(115頁)などは、一見あざやかなように見える。また、有明の科白(「これまでこそ、つれなきいのちも……」「おなじ心にだにもあらば、こきすみぞめの袂になりつゝ、……」)や行状(例の起請文など)を引いて「二条をつけねらい、つきまとっての勝手気ままな諸行状は、どうみても閑暇にめぐまれた隠居者のそれであって、当代御室性助のとうてい能くするところではなかったであろう」(117頁)などと言われたりすると、読者もかなり説得されかかってしまう。 けれどもそうなると、法助の没年は北山准后九十賀の前年であるから、その賀の前年に有明の三周忌が来ていたり祇園社への千日籠りをしていたりする作品の記述をどう解すべきかが問題になる。その点の言及は第二章以下には見えないが、宮内氏はそれを忘れていたわけではなく、第一章(50頁)に一応の説明はある。けれども、そこでの説明、すなわち三周忌(原文では「有明の三年」とあるのが事実としては一周忌であったとの想定も、賀宴の前にはその一周忌すらすんでおらず、有明はその「三か月前に世を去ったばかり」(117頁)であったということになると、私などは改めて考え直したくなる。 次に(2)に関しては、結論の最大の要点は、(a)巻一で作者が「秘密の出産」をしたのが後の遊義門院であろうということで、第四章では(第二章でも)そう見ることの可能性・蓋然性が詳述されている。と同時に(b)その女子の実父を「雪の曙」であるかのごとく見せながら、なお精読すると実は「有明の月」であると判定されること、また(c)出産の場面にもこの両人が居合せたことが敬語の使用法から知られることが説かれ(97頁)、更に(d)敬語・服装その他から見て、従来情事の相手を曙と見ていた巻一のある筒所を曙の手引で有明が訪れたものと解すべきだとの提言(61〜2頁)もある。 この中、(a)(b)に関しては、宮内氏の論旨があまりに錯綜していて私には直ちに賛否を表明する用意がないが、(c)(d)の点は、初発表時から一考に値すると私は思っていた。特に「秘密の出産」の部分は、曙しか念頭に置かないと敬語の用法が甚だしく不統一で、実は私は不審に思っていたのである。それだけに、氏の着眼の鋭さ、少なくともこの部分に関する限り読みの深さに、私は感服しているが、今回他の点と共に改めて大方の批判を乞うことができれば、氏の霊も喜ばれるに違いないと思う。 なお、宮内氏が既発表論攷の行文のみならず論旨にも必ずしも満足せず、多くの論攷にその後多少とも加筆しておられることは、本書各章の補注に示した通りであるが、特に本篇の第一章に関しては、相当の改訂を加える意図を有しておられたと認められる。遺品の中に、(一)「『とはずがたり』の記事内容と年時の配列について」と題するB4判三九枚の草稿がある他、(二)その初稿(大学ノート使用、「『とはずがたり』の年立について」と題する)や(三)その部分的な下書と見られるもの(B4判罫紙六枚の一続きとその他)があり、それらは今回第一章とした論攷の抜刷への加筆(書入れ)を取入れつつ、稿を改めつつあった課程のものと見られるからである。 ただ、(一)(二)とも末尾が未完である上に、(二)は多少メモ的であり、(一)でさえも走り書きで推敲不十分と見られるため、遺憾ながら今回その論旨を吸取・紹介するに至らなかった。氏が第一章の冒頭で「別の機会に発表する予定の、同論文の補正論文」と言われたのは、これらの完成形態を念頭に置かれたものと思われる。その意味で、宮内氏が自身満足される決定稿を完成せずに他界されたのは返す返すも残念であり、また心残りであられたと推察する一方、そうした、多少とも不本意な点があったらしい論攷を今回公刊して、その上批判めいた語を右につらねたのは、私としても心苦しい思いなしとしないが、その点についての弁明は、右にも多少述べたり「あとがき」にも記されたりしている本書刊行の意義に尽きていると信ずるし、少なくとも第三章までは氏が生前に発表しもしくは投稿しておかれたものである以上、それぞれの論攷がその発表時点以後批判の対象とされるのは、当然のこととも言えよう。 更に遺品の中には、(四)「『とはずがたり』異説一束その一−『とはずがたり』の作者と『近衛大殿』−」と題するB4判罫紙一枚(裏にも三行)の草稿と(五)「『とはずがたり』作者の伝記の試み−『とはずがたり』異説その二−」(右肩に「昭五○・五・三一起」とあり、続いて一旦「『とはずがたり』異説一束/T二条の院御所追放」と書いてこの二行を抹消している)と題し、「序」「一、文永のころ」の節題を有する罫紙五枚の草稿とがある。この中(四)は問題提起さえも尽していないたあ、何をどう論じられるつもりであったが、表題以上のことは推測できない。(五)は、第一・二章を発表し第三章をも脱稿した直後に、「これらの論考の諸成果をふまえて(多少の修正を加え)「『とはずがたり』の作者の伝記の素描をこころみたい」として起筆されたものであるが、恐らく途中で第一章に多くの不満を感じ始め、そちらを先に修正すべく前述の(一)(二)等にとりかかって、こちらはほんの書き始めだけで打ちやられたものであろう。いずれにしても、その熱意には頭の下る思いである。
第二篇 徒然草 それまで哲学・美学界で活躍しておられた宮内氏がわれわれ国文学徒の前にその存在を示されたのは、「あとがき」にも記されたように、昭和四十六年の後半、本篇に第二章として収めた「徒然草(序〜第三○段)の成立」を私家版で刊行された時であった。尤も当時氏と面識のなかった私などは、その論攷も暫く知らずにいて、翌春何かの目録で知り、氏に直接乞うたところ、発送を忘れていたらしいとの鄭重な返信と共に、今回第三篇の第一・二章とした二篇を添えて送って頂き、初めて内容を知ったのであった。以後二、三年の間に、宮内氏は矢継早に徒然草と増鏡とに関する鋭く新見に溢れた論攷を発表され、学界を刺激されたのである。 今回はそれらの論攷を、必ずしも発表年代順によらず、内容の展開を勘案して配列した。また、徒然草乃至は兼好と増鏡との両方に亘る論点のものは、どちらの篇に入れるべきかを、論旨のウェイトによって判定した。その結果、今回のような目次・配列となり、第三篇(増鏡)はたまたま発表年代と順序を一致させることができたが、第二篇はそうも行かなかった。 本篇の中核をなすのは徒然草成立の過程や執筆の年時を考証した第二〜五章で、特に第二〜四の三章は内容的に連続する一連のもの、第五章は一応それらの要約といった関係になっている。それ故、この四篇はこの順序とした。一方第一章は、内容的にも行文の上でも第四章の初稿と見られる面を有し、それだけならば今回捨うべきではなかったとも言えるが、その首尾を読むと第二〜五章に詳述されたところの要点乃至は要約と見られる所説もあり、その上所載誌が国文学者の目に触れにくいものでもあるので、本篇の序説的な意味を持たせて、最初に据えた。また第六章は、いわゆる「常縁本」の章段配列に関する論攷であるが、同本の配列が「編集開始時の(中略)形態をよく伝えているのではないか」との第四章末尾(405頁)の推測から発展したもの、最後の第七章は徒然草と『竹むきが記』との内容の対比から兼好と西園寺との関係にも及び、第三篇への橋渡しとすることもできるので、それぞれこの位置に置いた。 宮内氏の論の特色は、他の所でも触れるように、既成の権威や通説といった先入見を一切排して、問題を根本から考え直そうとする態度にあるが、そうした面は本篇の諸論にもよく現れている。 右にも述べたように、本篇の中核と見るべきは第二〜五章であるが、そこで氏の出された問題点は、大きくは本作の成立過程の検討、もう少し具体的には橘氏から安良岡氏に至るまでの「短期間・逐段執筆という前提」とそれから来ている従来の説の当否(特に第一・四章の各冒頭)、やや細かくは、かなり多くの段の執筆時点の追求(第二〜四章)やいわゆる第一部と第二部の分け方の再検討(第二章)などであった。その方法・意図を氏の語によって要約すれば、「橋氏説のような前提を一切立てないで、(中略)徒然草本文中に見出される執筆時期推定のための徴証の全部を検討し直してみた」ということになる。この姿勢・方法が原理的に正しいことは、言うまでもない。 従って宮内氏説の価値は、具体的な論証がどの程度客観性・説得性を有しているかということに、もっぱらかかっている。その点に関しては、私はかつて主として第三〜五章について多少の紹介と批判を試みたことがあり(後掲)、氏の一応の結論を第四章(404頁)に見出した上、それを次のように要約して示した。
その上で、氏の考証・推論の妥当性・信憑性について、それらが必ずしも一様ではなく、従って全体としての趨勢には留意すべきであるとしても、第四章に挙げられた事例の中には再考を要するもの(例、第二三七段)があることを指摘した。また、第三・四章の精力的な考証とその論旨を認めると必然的に最終的な整理編集が貞和五年(1349)ごろまで下ることになるが、そうすると新たに次のような二つの問題が生じ、これらの疑問を解決しない限り、氏の最終結論に賛同することは躊躇されると述べた。 その二つの問題というのは、(1)「宮内氏に従って本作を貞和五年(乃至その頃)の編集とすると、年代的に合致しない称呼や記述が多数ある」(例、第三三段「今の内裏」、第二三八段「当代」など)こと、(2)「宮内氏の言われる「草稿」の執筆にたずさわった期間が、たとえ断続的にせよ、「三十年の長期に亘」ることと、それを突如「一篇の随筆集の編著」に思い至った動機と」の説明が十分明らかでないことである。 こうした疑問を私は、(A)「徒然草の成立をめぐって」(重友毅博士頌寿記念論文集『日本文学の研究』)と(B)「徒然草の成立」(『徒然草講座』第二巻)とに前後して述べたのであるが、これらに対して氏は直ちに私信で、長文の反論や弁明を寄せられた。それらは、(A)に対しては便箋に小さい字でぎっしり一二枚(日付・後付は一三枚目)、(B)に対しては二○○字詰原稿用紙の各行に三○字以上を詰めて書いて二三枚に及ぶという、詳細なもので、私一人で承っておくには惜しいものであった。それ故、右(A)(B)を若干補訂して拙著『中世文学論考』に収めるに当っては、同書(359頁)にも断ったように、その中のいくつかは引用・言及しておいたのであるが、特に右の(1)(2)に関する氏の反論は次の通りであった。すなわち、(1)に関しては、「一応完成させた段階では、官位や称呼はその時点現在に修正統一するのが通例」で、そうしなければ文意も明確を欠く、とした拙論に対して宮内氏は、
考証の結果を尊重することについては(2)についても同様に私に反論しておられ、その要点は、
繰り返す通り、こうした宮内氏の方法論はそれなりの正当性を有していると見るべきなので、問題は結局個々の考証の妥当性にかかっていると言えよう。その意味で、今後われわれは、氏の真摯な態度に敬服してそれを範としつつも、氏の強い語気に幻惑されずに、やはり氏の求めたところを求めて、氏の考証を冷静に再吟味すべきである。本書の刊行の意義も、一つにはそうした作業の能率に資するところにあることも、繰り返す通りである。 ところで、私が今まで特に大きく取上げないでいた第二章にこそ、読者の注意を喚起したい。前述のようにこれは氏の国文学界への最初の発言であって、その論旨は詳しくかつ明快で、同章末尾近くに「結語」として要約されているが、要するに、(一)安良岡氏以来執筆時点を二段階に分けて考えている第一部と第二部との境は、安良岡氏以来言われている第三二段と三三段との間に置くのでなく、第三○段までを第一部とし、第三一段からを第二部とすべきである、(二)その第一部も一度に一続きに書かれたものではなく、第二四段までは兼好の在俗中(徳治三〈1308〉〜正和元〈1312〉以前)に成っていたであろう(第二五〜三○段については、安良岡氏の認定と大差ない)、というのである。これらの推論は確かに説得性に富むようで(但し、序段については在俗中かどうか、私は一応保留したい)、最近木藤才蔵氏(新潮日本古典集成本の解説)が全面的に支持されたのは、私達としても嬉しいことである。この機会に、多くの読者が一層の検討を加えられるよう望む次第である。 第六章の問題意識については、右に引いた宮内氏の私信にも仄めかされているが、現存諸本の中で常縁本系統と烏丸本系統とに見られるやや大規模な「章段配列の異同」の原因を追究して、「現存の両本の形態はいずれも編集本のそれであって、決して「逐段執筆」された「原(形)本」の形態を伝えているものではない」こと、そして「光広本の形態は、この編集の過程の最終段階(またはそれに近い段階)における形態を、また常縁本は、それに先立つ段階における形態を伝えているものではなかろうか」(437頁)ということを推論したもので、部分的には問題があり、例えば「移動した章段群の段数が(中略)切れのいい数である」(428頁)と言われるのは(『諸抄大成』以来の段分けが完全に兼好の意に叶っているという保証のない以上)危険であること、また本作が最終的に「進上本」(437頁)となったことの論証も他の章を併せ見ても十分でないことなど、不備はある(前者の点に関しては、Aへの反論で撤回された)が、この両系統本の関係や位置は、成立と絡めるにせよ絡めないにせよ、今後一層検討すべきであろう。 最後に第七章は、大変な労作であり、兼好−西園寺家・名子−増鏡といった氏の路線の素描を示すものであるが、徒然草に西園寺家の人々の名が比較的多く見えることの理由づけとか、徒然草と『竹むきが記』との題材・内容の類似の認定とか、更には徒然草・竹むきが記・増鏡という三作品の性格の把握とかについて、私など必ずしも承服しがたい点が多い。しかしながら、第三篇の諸論と共に、大方の批判が与えられれば幸である。
第三篇 増鏡 今回、本篇第四章として収めた「徒然草と増鏡」という論文が『文学』に掲載されたのは、昭和四十八年十一月号であった。すでに、昭和四十六年の九月と十月に「兼好法師と増鏡」(本篇第一章)と「増鏡の原形態」(同第二章)を続いて私家版で刊行し、関係者には送られていたし、翌四十七年五月の中世文学会で、本書第二篇第五章の基となった「徒然草の最終執筆年代について」の研究発表をされ、以後春秋の大会には欠かさず出席されていたから、氏の増鏡兼好作者説はかなり話題にはなっていたが、やはり、この『文学』誌上の掲載によって、広くその説が知られるようになり、矢つぎばやに徒然草・増鏡・とはずがたりといずれも異色の論攷を発表されることに学界の注目を集めた中でも、増鏡の作者を兼好と主張する大胆な仮説に、宮内氏の名は強く人々の記億にとどめられていたと言えよう。 しかし、氏の残されたものをこのようにして集めてみると、増鏡についての論攷は、新しい説として、学界に大きな刺激を与えた功績・意義の大きさは特筆すべきではあるが、氏の新説が定説として認められるかどうかという見地から言えば、徒然草・とはずがたりに比して、反論の余地は多いであろう。氏の関心が、徒然草より増鏡ヘ、さらにとはずがたりへと進んでいったにもかかわらず、私たちがその執筆年代の順にはよらず、とはずがたり・徒然草・増鏡の順序に配置したのも、一つにはそのためである。 私が宮内氏から初めてその説を聞いたのは、昭和四十五年の十月、鹿児島大学で開催された俳文学会の途次、まったく思いがけなく二十数年ぶりに旧友竹岡幸一氏に再会し、その宅での濱田啓介氏を囲む会に招かれるままに出席した折であった。美学者だという氏が、とくとくと語られる徒然草のよみの深さに感心して聞いていると、「私は増鏡も兼好の作だと考えているのですよ」と、なかばはにかんだような口調で洩らされた氏の笑顔が忘れられない。 その後、「徒然草(序〜第三○段)の成立」(本書第二篇第二章)の私家版を送られて来た私信の中に、「なにせ門外漢の仕事でございますから見当はずれも多かろうと存じます。多年愛読した作品体験だけをたのみに、盲蛇に怖じず、中世文学の畑の一角をほじくりちらした恰好でございます。なお、引き続ぎ増鏡の作者は、兼好その人ならんとの珍説を起草中でございまして、これもできあがりましたらご高覧に供したき所存でございます」とあったが、果して送られて来た「兼好法師と増鏡」は、六一頁から成る長篇の論文で、従来、増鏡の作者は二条良基が有力であるとする岡一男・石田吉貞氏の説にひかれ、『筑波問答』の序文などと比較して、もう少しほりさげてみたいと思い、『国文学』(学燈社)の昭和三十二年十二月号の中村直勝氏の「増鏡の史実性について」の論攷に依然として四条隆資説をとられていたり、多くの解説の類に作者不明とあることに不審をもち、更に、その後、木藤才蔵氏が「増鏡の作者」(『国語と国文学』昭和三十七年十一月・十二月号)に詳細に二条良基説を展開せられていることで、先ずはほぼこの問題は決着を見たと思っていた私は、ただちにこの新説に従うことはできなかったものの、十分検討に価する所論であると思った。 氏の論をよんで、作者の条件の第二とされている「記録・資料を博捜し、豊富な知識を有すること」の点が、兼好では少し無理ではないか、たとえば、とはずがたりのような秘書をどうして手に入れることができたのかといったことを書き送ったところ、早速返書が来て、さらに「増鏡の原形態」なる論文が送られて来たのである。この手紙は、当時の氏の研究のおもかげをよく示していると思われるので、採録しておくことを許されたい。
氏の増鏡論は、作者と成立年代と原形態の考察が三つの柱となっている。そのうち原形態については、これも通説とはまったく逆に、十七巻本よりも二十巻本の方をより原態に近いものと見られるのであるが、その方向を認めるとしても、尊経閣本その他の本文批判の問題が残っている。氏の力説にもかかわらず、なお、従来の十七巻本古本説、二十巻本増補本説の方に、妥当性は大きいと思われるが、今後の増鏡の本文研究が、もっぱら十七巻本により進められ、二十巻本がかえりみられないことへの警告、特に、これからの増鏡の翻刻がすべて十七巻本により二十巻本が客易に見られなくなることへの危惧は十分心すべきことであり、尊経閣蔵の二十巻本の忠実な翻刻の出現が望まれる。 ところで、氏が兼好作者説の立場をとりながら、いったんそのことは棚上げして、成立年代の問題を独自に扱うべきだとする方法を主張しておられることは重要であろう。氏が言われるように、岡・石田・木藤氏の論が、作者を良基であるとすることを前提として、増鏡成立年代の可能性を、上限を建武元年(1334)、下限を永和二年(1376)とする約四十年の時点のうち、下限に近づけて考えようとする点を指摘し、その点を除外して考えるならば、その論拠は必ずしも十分ではないといわれていることは、反省してみる必要があろうと思われる。 氏の論旨は、はじめ「増鏡の成立年代」(『鹿児島大学教育学部研究紀要』昭和四十九年三月=本篇第六章)に見られ、それを補訂した形で、「増鏡の成立」(『国語と国文学』昭和四十九年九月号=本篇第七章)に収められているのであるが、執筆時期の下限、執筆時点、起筆時点の三点について示された結論ならびにそれを導く過程については、その説の採否にかかわらず、論述に当っては必ず検討を要する考察であるといえよう。 その視点に、鏡物の成立が、内部徴証のもつ意味を、ただちに執筆の時点としてではなく、ある設定の一時期に成立したと見せかけることのあることを欠いているなどの問題はあるが、傾聴すべき点も多い。私は、最近の増鏡についての論攷の中で、西沢正二氏の「増鏡未完成説の試み」(『国語と国文学』昭和四十九年十二月)を興味深く読んだが、まったく宮内氏の説とは異なった方向を取りながら、擱筆時期について、
徒然草の場合もそうであるが、増鏡については、第四章と第七章として採録した、それぞれ『文学』および『国語と国文学』に掲載された論は、それ以前に私家版や紀要の類に書かれたものと重複する点も多いが、制限された紙数の中では書き尽くせなかったことの補える点や、氏の思考をたどる上では、どちらも重要であるので、あえて全篇を採録した。補注として記したように、氏の手もとの抜刷の類には、細かく訂正を施されており、氏が健在であるならば、それらを取捨して、書きまとめられたことと思われるが、今となっては、このような形で多くの読者に読んでもらうことが最善の方策と考えたのである。 宮内氏のこれらの論攷のすべてにわたって言えることは、一つは、じっくり腰を据えて考えぬかれているということであろう。何にもまどわされず、興味の向くままに、一つのことにたっぷり時間をかけ、集中してその仕事にかかられた結果であり、決して単なる思いつきに終ることなく、あくなき考証を重ねられている点は大いに学ばねばならないと思う。更に一つは、氏が美学者であって、国文学の埒外から出発されただけに、その発想が奇抜さと大胆さに富んでいることであろう。いったん定説に近いものが立てられていると、なかなかその説から抜けきれないのが常であるが、その点は奇抜ともいえる斬新な新説を投げかけ、問題を提起せられた功は大きい。増鏡兼好作者説が、必ずしもそのまま認められないとしても、その説の提出せられた意義は大きく、二条良基作以外のいずれの説よりも説得力をもっていることは事実であるといわねばならないであろう。 なお、第五章はその骨子ないし原形を中世文学会昭和四十九年度大会(於早稲田大学)で発表されたものであるが、その発表の草稿と見られるもの(B5判罫紙一○枚一一面に話し言葉の文体で走り書き、所々に「以上3分」「2分」などとある)が遺品の中にあることを付け加えておく。
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| ☆宮内三二郎氏が後深草院二条の「実際の年齢を従来の通説よりも三歳年長(文永九年に十八歳)と推定された」ことについて、私は全く賛成できない。その理由はこちら。(『増鏡』巻6「おりゐる雲」後嵯峨上皇高野御幸の場面) |