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福田豊彦 「第八代 久明親王」
(『鎌倉・室町将軍家総覧』.秋田書店.平成元年.p95以下)



福田豊彦氏の略歴(※)
国立歴史民俗博物館教授

※上掲書による。後日、補充します。




第八代 久明親王

生没




墓所
建治二年(一二七六)九月十一日生
嘉暦三年(一三二八)十月十四日没
後深草天皇
藤原(三条)房子
惟康親王女、のち冷泉為相女
不明


久明親王の出生

 久明親王の将軍時代(一二八九〜一三〇八)は、全国的な政治問題として、大覚寺・持明院両統の皇統をめぐる対立が激化した時期であり、親王もまたこの渦中の人物であった。

 この時代はまた、文永・弘安の合戦以後なおやまぬ対外危機という難問をかかえ、幕府政治においては、永仁の徳政令に象徴されるような御家人制の動揺が表面化した時期でもあった。

 しかし親王は、幕政に対して何の実権も持っていなかった。この時代の執権は、はじめ貞時(一二七一〜一三一一)、のち師時(一二七五〜一三一一)であるが、幕府政治の実権は最後まで得宗(北条氏の家督)の地位にある貞時が握っていた。

 久明親王は、『将軍執権次第』によると、建治二年(一二七六)九月十一日に後深草天皇1243〜1304.62歳〕の皇子として生まれた。母は前内大臣・正二位の三条公親1222〜88.67歳〕の娘房子というから、伏見天皇(諱煕仁、母は玄輝門院、洞院実雄女※子)の異母弟であるが、『尊卑分脈』によると、母の房子は久明親王の異母姉遊義門院☆子(一二七〇〜一三〇七)の御匣(みくしげ)とされ、身分的には低い出である。
※りっしんべんに「音」(原文ではりっしんべんに「童」の字が当てられているが、誤り)
☆女へんに「令」


 『皇胤紹運録』には、久明親王の兄弟として、早世した幸仁親王(一二六二〜六五、母は西園寺公経女成子)と伏見天皇(一二六五〜一三一七)のほかに、性仁法親王(一二六七〜一三〇四、母は伏見天皇と同じ)・行覚法親王(一二七三〜九三、母は久明親王と同じ)・深性法親王(一二七一〜九九、母は三善康衡女従一位忠子)・恒助法親王(一二八八〜一三一〇、母は三木茂通女別当典侍)および五人の女王を載せている。 この記載を信用すれば、久明親王は後深草天皇の第六皇子であり、同母兄としても行覚法親王があったのである。

 後深草天皇の諸皇子はいずれも天皇退位後、亀山天皇1249〜1305.57歳〕治世の出生であり、その多くが法親王となっていることは、後深草の皇統(持明院統)の不振を如実に示すものといえよう。そうした点では、久明親王の誕生の時期が、持明院統再興の契機となった煕仁親王(伏見天皇)立太子の翌年であったことは重要であろう。その意味でもここで持明院統と大覚寺統の皇統対立について触れねばならない。

持明院統の優位

 久明親王誕生の二年前、文永十一年(一二七四)の正月、亀山天皇が位を子の世仁親王後宇多天皇.1267〜1324.58歳〕に譲って院政を始めると、兄の後深草上皇は失望のあまり太上天皇の尊号を辞して落飾しようとし、その事情を幕府に伝えた。

 このころ関東申次であった西園寺実兼1249〜1322.74歳〕は、はじめ妹の嬉子(?〜一三一八、今出河門院)を亀山天皇の中宮に入れて大覚寺統に近い立場にあったが、その御覚えがめでたくないことなどがあって後深草上皇に接近するようになり、幕府に働きかけた。皇統問題には極力不介入の方針をとっていた幕府も、ここにおいて調停にのり出さざるを得なくなり、後深草上皇の皇子煕仁親王を東宮に立て、将来この皇子の即位とともに後深草上皇の院政を実現するという案を示した。

 この幕府の案は両統に承認され、翌年1275〕十一月に煕仁親王の立太子が実現したのである。かくて後深草上皇は出家を思いとどまり、蒙古襲来という対外危機もあって、両皇統の関係は、表面的にはしばらく円滑に推移する。久明親王が生まれたのは、このように持明院統の将来に光明が見出された時期であった。

 しかし弘安の役が終ると、「治天の君」であった亀山上皇は、皇室最大の所領であった八条院領を相続し、また弘安九年(一二八六)には生後一年半の邦治(後二条天皇)1285〜1308.24歳〕に親王宣下を行ない、着々と将来の布石を固めた。

 一方、持明院統側も、春宮大夫となった西園寺実兼を通じて幕府への工作を進めた。弘安八年(一二八五)の霜月騒動によって安達氏を始めとする有力外様御家人が滅びてのち、幕府の実権は内管領平頼綱?〜1293〕が握っていたが、亀山上皇が幕府に対して意図をもつという風評が立つと、幕府はにわかに使者宗綱(平頼綱の子飯沼宗綱であろう正しくは佐々木宗綱〕)を実兼邸に派遣し、春宮の践祚を要請した。

 かくて弘安十年(一二八七)十月に煕仁親王(伏見天皇)の即位と後深草上皇の院政を実現した持明院統は、幕府との緊密な連携のもとに一気に優位に立ち、正応二年(一二八九)四月には、伏見天皇の第一皇子胤仁親王(後伏見天皇)1288〜1336.49歳〕を皇太子に立てることにも成功した。これに反して失意の亀山上皇は、九月に禅林寺において出家した。上皇の出家によって、これまで時めいていた後宮の女性たちも散り散りになったが、この中には前将軍宗尊親王1242〜74.33歳〕の女△子1265〜?〕も含まれていたのである。
△てへんに「侖」

惟康親王の更迭と久明親王の将軍宣下

 この亀山上皇が落飾した九月の末に、将軍在職二○余年の惟康親王1264〜1326.63歳〕が、意図ありとしてにわかに京都に送還された。『増鏡』によると、惟康親王は粗末な網代(あじろ)の輿にさかさまにのせられており、巷間では「将軍が都に流され給う」とうわさしたという。

 しかし惟康親王の幕政に対する反逆事件の真相については全く知ることができない。亀山天皇の後宮に入っていた△子は惟康親王と同腹の兄妹といわれ(『増鏡』)、その異母妹瑞子(永嘉門院、一二七二〜一三二九)は後に後宇多院の妃となって女院号をうけるので、大覚寺統との間に深い連携があったという想像はできる。また将軍として霜月騒動の犠牲者となった安達氏などの外様御家人に親近感をいだき、幕政を左右していた内管領平頼綱に批判的であったという想定も不可能ではない。新将軍の迎えに上洛する頼綱の子の飯沼助宗1267〜93.27歳〕が、惟康親王の通った跡は不祥であるからといって、わざわざ足柄山を避けたという『増鏡』の所伝などは、この想定を裏づけそうでもある。

 しかしながら、後に、惟康親王の娘が久明親王の御息所となり、所生の守邦親王1301〜33.33歳〕は次の将軍となっており、また久明親王も二○年たらずで京都に送還されることを考え合わせると、長期の将軍職在職は御家人との間に緊密な関係のできるおそれがあり、これを忌避した幕政担当者が、幕府に対して意図を有するとの口実をつけて京都に送還した、というのが真相ではなかろうか。いずれにせよ「将軍が都に流される」という噂の中に、将軍が幕政に対する実権を喪失していた事態が明瞭に表現されている。

 それはともあれ、惟康親王にかえて幕府が将軍として選んだ者が後深草天皇の皇子久明親王であり、この新将軍を迎えに上洛した者は平頼綱の子の飯沼助宗であった。これをみれば、この将軍交代劇にも、関東申次西園寺実兼と幕政の実力者内管領平頼綱の連携がうかがえるのである。

 ここに当時一四歳(年齢は数え年)であった久明親王は、にわかに十月一日に親王宣下をうけ、六日には父上皇も臨席して盛大な元服式が行なわれ、九日には征夷大将軍の宣下をうけた。『増鏡』はこの時の久明親王の心中を記して、「ただ受禅の心地ぞする」と践祚の儀式に比している。これは出生以来の久明親王の境遇からみれば、もっともといえよう。

 久明親王はこの翌朝未明に六波羅に入り、そこから飯沼助宗以下多くの武士に守られて関東に進発し、二十五日には鎌倉について吉書始、評定始を行なっている。これから徳治三年(一三〇八)七月までの一九年間、親王は形式的には鎌倉幕府を代表し、御家人を統率する地位にあった。しかしこれまでの経過をみればわかるように、将軍は何の実権も持っていない。

天皇暗殺未遂事件

 久明親王が関東に下り、鎌倉・京都両政権ともに持明院統の支配が確立して間もなく、武士が皇居に乱入して伏見天皇の暗殺をはかるという奇怪な事件が勃発した。正応三年(一二九〇)三月九日夜半のことである。『増鏡』によると、内裏の衛門の陣(宜秋門)から荒武者数人が馬に乗ったまま皇居に馳せ入り、
「みかど(伏見天皇)はどこでお寝(やす)みか」
と問い、女官が、
「夜の御殿(おとど)に」
と答えると、
「それはどこだ」
ときいた。とっさに女官が違う方角をおしえ、その間に天皇は女装して内裏を脱出、中宮・皇太子も無事に避難した。

 この男たちは浅原八郎為頼と子息で、霜月騒動の際に没落した小笠原氏の一族であった。為頼は結局目的を果せず、天皇の寝具の上で自害したが、その自害に使った刀が三条宰相中将実盛(久明親王の母房子のいとこに当る)?〜1304〕の刀であったために実盛が捕えられ、更にその背後に亀山上皇があるという噂も流れた。西園寺実兼の子の公衡1264〜1315.52歳〕などは、後深草院の前で、
「幕府が伏見天皇を立てたことを不満に思って謀叛を計画されたのであろう。承久の例にならって六波羅へ遷すべきだ」
などと主張した。ことのなりゆきに驚いた亀山上皇は、事件に関係ないという誓紙を幕府におくり、ようやく事は鎮まったという(『増鏡』)。この事件によって幕府側は、一層大覚寺統に対する警戒心を強め、それだけ持明院統に接近するようになった。

平頼網の誅殺

 こうして持明院統が幕府を背景に公家政権における地位を固めていたとき、鎌倉幕府では平頼綱による専制政治が強化されていた。

  頼綱は前述のように将軍久明親王擁立の立役者であったと考えられるが、彼は得宗貞時1271〜1311.41歳〕を背景として霜月騒動以後の幕政を左右していた。その政策は、北条兼時1264〜95.32歳〕・時家の鎮西派遣(一二九三年、鎮西探題の前身)にしても、北条実政金沢.1249〜1302.54歳〕の長門・周防守護職任命(一二八九年、長門探題の前身)にしても、対外危機を口実とする得宗の権力強化という性格を露骨に示している。

 浅原為頼の事件ののち、正応三年(一二九〇)十一月に、先に殺された北条時宗の兄時輔1248〜72.25歳〕の次男(名前不詳)が、三浦介頼盛とともに謀叛をくわだてたとして六波羅に捕えられ、首をはねられる事件が起こっているが、彼らは明らかに得宗専制の犠牲者の残党である。

 この露骨に得宗専制の強化をめざす内管領(得宗の家政機関の総轄者であり、御内人の頭首)平頼綱の政治は、次第に恐怖政治の色彩を強め、「今ハ更ニ貞時ハ代ニ無キガ如クニ成」(『保暦間記』)といわれたように、その主人の地位さえ危ぶまれる様相を呈してきた。為政者間の疑心暗鬼は専制政治につきものであるが、この頃の幕府当局者の間にみなぎる相互不信の感情が想像できよう。

 こうした雰囲気の中で、正応六年(一二九三)四月十三日、鎌倉に大地震が起こった。鶴岡若宮や将軍邸宅も壊れ、建長寺以下の諸大寺は顛倒炎上し、山も崩れて倒壊した人家は数を知らず、死者は二万三○○○余人に及んだ。

 この大地震直後の二十二日未明、執権貞時は武士を派して頼綱宅を急襲し、頼綱(入道杲円)とその次男飯沼助宗を討ち、長男宗綱を佐渡に流した。『保暦間記』によると、頼綱が次男の助宗を将軍に立てようとはかっているということを、長子の宗綱が貞時に訴えたためにこの誅殺が行なわれたという。専制政治にともなう父子・兄弟・主従間にまで及ぶ相互の不信・相剋がよくあらわれている。

 この頼綱によって将軍に立てられようとしたという飯沼助宗1267〜93.27歳〕は、久明親王を将軍に擁立する際に上洛した者であり、これを真実とすれば、久明親王にとっては誠に皮肉な出来事である。しかしおそらく久明親王は、こうした幕府の内紛からさえ全く遮断されていたであろう。頼綱誅殺ののちに貞時によって多少の政策の手直しが行なわれたが、それも結局は得宗専制を強化するものにすぎず、幕政の基調に変化は認められない。また久明親王の将軍の地位にも変動はなく、この翌々年の十二月には、前将軍惟康親王の娘との嫁娶(かしゅ)の儀が行なわれている。

大覚寺統優位に

 ところで京都政界では、浅原為頼の内裏乱入事件の前月に後深草院も出家し、伏見天皇の治世となった。天皇は政道の興行に専念し、朝廷の諸制度を整えたが、その第一の寵臣となったのは京極為兼1254〜1332.79歳〕であった。京極家は俊成・定家の流れをくむ和歌の名門であるが、摂関家をはじめとして当時の貴族の家々が多くそうであったように、この和歌の名門も二条(御子左)・京極・冷泉の三家にわかれて正統性を争い、これが皇統の分裂とからんでいた。為兼は大覚寺統に仕える二条為世1250〜1338.89歳〕と激しく対立している。そのことは、後に為兼が伏見院の勅撰によって『玉葉和歌集』を撰進したのに対し、為世が後宇多院の院宣によって『新後撰和歌集』を撰定していることからも推察できよう。

 『増鏡』には、為世が『三代集』を宗とした淡白・平板で保守的な歌風であったのに対し、伏見院は為兼とともに、万葉を範として制詞に拘らぬ自由で力強い新風を好んだ、という話が載せられている。為兼は宮廷生活においても、不羈奔放(ふきほんぽう)で政敵の多い人物であった。

 為兼はもともと西園寺実兼を主家として仕えていたが、伏見天皇の殊遇をうけて栄達すると、実兼と対立するようになった。このため実兼は、次第に持明院統から離れ、再び大覚寺統に接近していった。実兼が関東申次であったために幕府もこの抗争にまきこまれ、永仁六年(一二九八)三月、陰謀ありとして為兼を捕えて佐渡に流し、七月に譲位を奏請して胤仁親王(後伏見天皇)1288〜1336.49歳〕を立て、八月には後宇多上皇の皇子邦治親王(後二条天皇)1285〜1308.24歳〕を皇太子に立てた。皇太子は天皇より、三歳の年長、であった。

 この後しばらく伏見上皇の院政が行なわれたが、正安三年(一三〇一)正月には、幕府の奏請によって後二条天皇の即位と後宇多上皇の治世が実現した。ここに再び、関東申次を軸として政局の転換が行なわれたわけである。この持明院統から大覚寺統への治世交替の際にも、貴族たちは露骨に権勢の側に走った。『増鏡』はこれを、
「一院後宇多世の政事きこしめせば、天下の人、またおしかへし一(ひと)かたになびきたるほども、さも目の前にうつろひかはる世の中かなとあぢきなし」
と評している。後深草・伏見両上皇は、こうした世の中をすさまじく思って、伏見殿に籠ろうとしたが、八月に幕府の使者が上洛し、後伏見天皇の弟富仁親王(花園天皇)1297〜1348.52歳〕を皇太子と定めたので、これを思いとどまった、とも伝えられている。こうした持明院統の凋落を、久明親王は関東においてどのような思いでみていたのであろうか。全く史料がなくて知り得ないが、この政権交代劇も幕府の働きかけで行なわれただけに、父兄の出家さわぎを知らない筈はなく、どうしようもない無力さをあじわっていたのではなかろうか。

 なおこの年の五月には、子息守邦1301〜33.33歳〕が生まれている。母は京都に送還された前将軍惟康親王の娘である。

貞時出家と連署時村誅殺事件

 ところでこの正安三年(一三〇一)八月に、執権貞時は出家し、いとこで女婿の師時(一二七五〜一三一一)を執権に、前執権政村の長男で六波羅探題や評定衆を歴任して政治に明るい時村(一二四二〜一三〇五)を連署に立てた。このとき貞時は三一歳の働き盛りであり、別に病身であったという証拠もなく、また前述のようなすさまじい世の中をはかなんだ出家とも思えない。事件の因果関係を比較的よく記している『保暦間記』も、貞時の出家の事実を記してのち、
「入道(貞時、最勝園寺覚賢)嫡男高時未生ノ間、将軍家執権ヲ従弟相模守師時(于時右馬権守)申付夕リ」
と記すのみである。

 たしかに後に得宗の地位をつぐ高時(幼名成寿丸)の誕生は嘉元元年(一三〇三)であり、この時にはまだ生れていない。しかし貞時には別に菊寿丸という子があった。この菊寿丸は乾元元年(一三〇二)九月に幼没し、その報が京都伝えられたとき、朝廷では七日間音奏を停めており、その重要な地位がわかる。菊寿丸の誕生の時期は正確にはわからないが、貞時出家の時期には生存している。

 貞時は祖父時頼1227〜63.37歳〕の前例をまね、出家して執権という職務に拘束されない自由な立場から政務をみることをねらったのではなかろうか。現実に貞時は、出衆後も時頼と同様に幕政の支配権を握っている。こうみると、ここに執権と離れた北条氏の家督=得宗の専制的支配は一歩を進めたわけで、貞時が時頼と同じく、出家後に僧衣をつけ諸国を廻ったという廻国説話をもっていることも興味深い(『太平記』)。しかし北条氏の権力強化をねらったこの貞時の出家は、北条一門の内部にさえ大きな混乱をひき起こす原因となった。

 嘉元三年(一三〇五)四月はじめ、鎌倉に大地震があり、二十二日未明に貞時の館が焼けた。そしてその翌日の夜中に、突然連署の時村が襲撃されるという事件が起こったのである。以前の平頼綱誅殺の場面と誠によく似ているが、奇怪なことには、五月二日にこの指令は誤りであったとして、時村誅殺の討手の先登をきった武士一二人が首をはねられた。そしてその翌々日には、貞時の命によって、北条宗方1278〜1305.28歳〕とその被官たちが誅殺された。

 宗方は貞時のいとこに当り、六波羅探題・評定衆・引付頭人・越訴(おっそ)奉行などを歴任し、この時は侍所の要職にあり、貞時の内管領を兼ねる得宗専制の中核にある人物であった。

 『保暦間記』によれば、この怪事件の真相は次のようなものである。宗方は貞時の内の執権(内管領)であり、侍所の代官(長官は執権の兼任)を兼ねて、大方天下の事を行なっていたが、同じ貞時の従父弟の師時がその女婿であるために自分を超えて執権となったことを無念に思い、師時を亡きものにしようとはかっていた。ところが執権の師時は若年であるが、連署の時村は老練で人望もあり、しかもその孫の煕時1279〜1315.37歳〕は師時と同じく貞時の女婿であった。そこで宗方は煕時、時村をも討つ計画を立て、その手始めに、四月二十三日、久明将軍の仰せと号して時村を夜討ちしたのであった。

 この『保暦間記』の解釈をみれば、この怪事件が得宗専制の産物であったことがよくわかろう。北条氏の家督である得宗の地位が執権という公的地位から遊離するのは得宗専制の必然であるが、こうして私的・専制的支配が強化されればされるほど、権力内部の分裂は激化せざるを得なかったのである。それにしても、将軍の命によって先陣の大功を立てた武士たちが首をはねられたところに、幕府体制のくずれが端的にあらわれている。

肉親の死

 『保暦間記』の伝えるように、連署時村誅殺事件に久明将軍の仰せが使われていたとしても、自身は全く関知しないところであったろう。別に累が及んだという形跡もみえない。将軍の地位がこのようなものでしかなかったとすれば、時村のあと、宗宣(一二五九〜一三一二)が連署となったことも、親王にとってはどれほどの意味があったろうか。

 親王にとって、より重要な問題は、この前年嘉元二年(一三〇四)七月十六日に父後深草法皇が瘧病で崩じ、この翌年九月十五日には叔父に当る亀山法皇がその後を追い、更にその翌年徳治元年(一三〇六)七月には妻が鎌倉で卒し、その翌年七月に姉の遊義門院1270〜1307.38歳〕が亡くなった、というように、肉親の不幸が連続したことであったろう。父法皇の崩御には、その日のうちに六波羅の貞顕1278〜1333.56歳〕・時範常葉.1259〜1307.49歳〕両探題がとぶらいに参じ、諸皇子が葬儀に参列しているが、将軍である久明親王はこれに参加することもできなかった。

 徳治元年に死んだ妻は、前将軍惟康親王の娘で、次の将軍となる守邦王の母である。この死去の日に、親王は穢を避けて山ノ内の最園寺(貞時)邸に移っているので、生前には将軍邸で夫婦同居の生活をしていたことがわかる。またその翌年に没した遊義門院は、後深草法皇の皇女(母は西園寺実氏女)で久明親王にとっては腹ちがいの姉であるが、後宇多上皇の准后、〔「後」脱二条天皇の准母となっており、この卒去の翌々日に後宇多上皇が出家するほどの深い信頼を寄せられていた。女院は持明院統と大覚寺統を結ぶ役割を果していたわけで、亀山法皇の崩御とこの女院の卒去を契機に大覚寺統の内部も分裂し、このころから皇統をめぐる対立は新たな段階に入る。

 なお、連署時村が殺され、多くの犠牲者が出た嘉元三年(一三〇五)には、貞時の子の金寿丸が夭逝しているが、翌年、久明親王の妻の逝去後間もなく貞時の母潮音院禅尼1252〜1306.55歳〕も死去した。京都も鎌倉もこの頃はしめっぽい事ばかり多く、応長元年(一三一一)の執権師時・得宗貞時の死去までの数年間を大雑把にみると、世代の交代期の感がある。久明親王の帰洛もその一つといえよう。

京都送還、死

 徳治三年(一三〇八)八月四日、久明親王は京都に帰還し、子の守邦王1301〜33.33歳〕が征夷大将軍に任ぜられた。久明親王が京都に帰された理由は、長期の将軍職在職によって御家人との間に深い関係ができることを恐れたためであろう。特別に失策があったとも思えず、この将軍帰還が世間の大事件としてさわがれた様子もない。惟康親王のように叛逆者扱いをされた証拠もなく、京都でも鎌倉でも壮年に達した将軍の送還を当然のこととしてうけとめたのではなかろうか。 もっともこの月の二十五日に後二条天皇が崩じ、皇太子富仁親王(花園天皇)が践祚して伏見上皇の治世となり、その皇太子をめぐる激しい運動が起こっているので、久明親王の帰洛はこれにまぎれて貴族たちの関心をひかなかったのかも知れない。

 この時の立太子の抗争の中心は、持明院統と大覚寺統の間ではなく、むしろ大覚寺統内部の亀山皇子恒明1303〜51.49歳〕、後宇多皇子尊治後醍醐.1228〜1339.52歳〕、後二条皇子邦良1300〜26.27歳〕の三親王の擁立争いであり、結局尊治親王(後醍醐天皇)に決着するが、これは皇統対立の新たな段階を意味する。

 久明親王が帰洛してのち、嘉暦三年(一三二八)十月に没するまでの京での生活は、公私ともにわからない。このとき三四歳、まだこれからという年齢である。久明親王には将軍となった守邦のほかに久良という子がある。久良の母は、歌道の名門冷泉為相1263〜1328.66歳〕の娘であり、久明親王卒去の年の六月、関白道平亭で元服し、従三位、右中将に任ぜられる(翌年左中将、その翌年親王宣下)。この元服の時期から推定すると、久良は久明親王帰洛後の誕生であろう。とすれば久明親王は、帰洛後にかえってのびのびとした生活を送れたのではなかろうか。 『常楽記』『将軍執権次第』そのほか、現在伝えられるところでは、久明親王の没した日を嘉暦三年(一三二八)十月十四日としている。鎌倉幕府滅亡まではあと数年である。







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