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  原文を見る−『舞御覧記』  



 元徳三年(1331)三月、後醍醐天皇を迎えた西園寺家の北山殿において、舞を見、花を愛でる華麗な行事が催されましたが、この行事は翌4月29日に後醍醐天皇の腹心だったはずの吉田定房が討幕計画を幕府に密告し、5月5日に日野俊基や文観らが逮捕されて南北朝の動乱の幕が切って落とされたことを考えると、平和な時代の最後を飾る絢爛たる王朝絵巻だったと言えます。
 そして、この行事を記録した『舞御覧記』は、明らかに『増鏡』の記述の基礎となっているばかりか、「はとのつえ」をついた「としも八十あまりにやなりぬらん」老尼が語る形式をとっている点で、『増鏡』全体の構想と重大な関連があることが明らかな史料です。
 『増鏡』と『舞御覧記』の関係については、平田俊春氏「増鏡の成立に関する一考察」等に基づいて、別途詳細に検討する予定ですが、短いものですので、原文の雰囲気を味わっていただくために、ここに全文を引用します。
 なお、『群書類従・第三輯 帝王部』(続群書類従完成会)から引用しました。

※『舞御覧記』に対応する部分の『増鏡』の原文はこちら







原文

私の立場からの補足

 弘安のすゑのとしのころにや。故入道おとゞ(実兼)のいまだ春宮大夫などきこえ給ひし比。しもづかへのかずにてまいりかよひしも。いまはひとむかしになりて。としも八十あまりにやなりぬらん。われとだに思わかれぬ程なれど。北山どの(西園寺)の花のさかりに行幸なりて。舞御覧あるべしと世中のゝしり侍しを。

いまこの御家あるじにておはします春宮大夫殿(公宗)とやらん申は。むかしのかたじけなき入道おほきおとゞ(実兼)の御ひことかや申めるを。あまりにおんなつかしくもゆかしくもおぼえ給ふまゝに。


弘安元年が1278年、弘安11年(1288)4月に改元して正応となった。西園寺実兼(1249〜1322.74歳)は煕仁親王(伏見天皇.1265〜1317.53歳)の春宮大夫であり、伏見天皇は1287年10月に践祚したので、「弘安のすゑのとしのころにや。故入道おとゞ(実兼)のいまだ春宮大夫などきこえ給ひし比」を仮に1287年とすれば、実兼39歳、後深草院二条30歳のときのことである。
西園寺公宗(1310〜1335.26歳)は、この北山御幸が行われた1331年には22歳。
「はとのつえにかゝりてよろぼひまいりたれど。みゝもきこえずめもみえねば。」云々と、自己を戯画化した表現をしているが、こんな明晰な文章が書けるのであるから作者はもちろん元気一杯なのである。私は『増鏡』との関係から『舞御覧記』の作者は後深草院二条だと考えているが、北山御幸のあったのは1331年には1258年生まれの二条は74歳となるから、「としも八十あまりにやなりぬらん。」は(戯画化している点を割り引けば)年齢的にもぴったりである。なお、「鳩の杖」についてはこちら。(矢野憲一氏『杖』)
はとのつえにかゝりてよろぼひまいりたれど。みゝもきこえずめもみえねば。たゞ心あてにそれかとばかりおがみたてまつるに。をのづからまた声をたかくしてかたりきかするかたも侍しはしばしを。おいの心にもわすれがたくおぼえ侍て。いやしきふせやに帰て。よもすがらともし火をかゝげつくして。ふでにまかせかきつけ侍なり。

 行幸は(元徳三年)三月三日ときこえしが。先中宮(禧子)行啓にて。夜あけて四日の朝ぞ(後醍醐)行幸はなり侍し。その日は前の右のおほひまうちぎみ(兼季)などまいらせ給て。左少弁宗兼朝臣におほせて。楽屋の料理などせらる。

 舞は五日ときこえき。康保二年の花のえんに同日に侍れば。かの例をうつされけるにや。されどその日は雨くだりて舞はとゞまりぬ。

 北殿の小五月の御所へなりて御習礼あり。少納言少将家房朝臣。束帯につぼやなぐひおひてまふ。御所は御比巴あそばさる。宗兼朝臣もちて参。前右おとゞこれをとりて御まへにまいらせらる。比巴。大納言二位殿前右のおとゞ。。景光景朝景茂。。宗兼兼秋。篳篥。茂政つかふまつる。。治部卿播磨内侍たかさごと聞ゆ。

 地下の舞人北のおちひさしのうへにこうす。御楽。萬歳楽。地久。太平楽。狛桙。嘉殿。長保楽。甘州。林哥。陵王。落蹲。このうち萬歳楽。嘉殿。甘州をぞ家房朝臣まひける。

西園寺禧子(1303〜1333.31歳)は実兼の娘。「(1332年)光厳天皇の勅によって院号宣下があり礼正門院と号したが、翌年、後醍醐天皇の勅により中宮に復した。同年10月12日、三十一歳で薨ず。同日、後京極院の号を贈られた。(小斎桂子氏『鎌倉・室町人名事典』)
「前右大臣」今出川兼季(1281〜1339.59歳)は実兼息。

家房について、井上宗雄氏は「『分脈』から推す限りでは北畠雅行男?あるいは、同じ村上源氏の定成男で、「左少将 早世」とある者か。おそらく後者か。」とされている。(『増鏡(下)全訳注』p191)
 二條前殿。侍徒中納言。御子左中納言着座なり。明日の儀式かねて思やられておもしろく侍しに。夜の間の雨に南庭の花もひらけそひて。ゑみをふくめる木ずゑども思ふことなきさまなり。後嵯峨院。花もわが世と読せたまひける文永のむかしの春も。今さかりなる御代には。げにとめでたくぞ思ひあはせられ侍る。

 六日辰時に集会の乱声。巳時にことはじまる。しん殿のはしの間を御所の間とす。東の第二の間。中宮の御方の御所とす。その東のすみの間永福門院の御座。それより東の二むね公卿の座かけて。女院御方の女房の侯所とす。はしより西の間は簾中なり。

「二条前殿」は二条道平(1287〜1335.49歳)のこと。『増鏡』の作者として従来有力視されていた二条良基(1320〜1388.69歳)の父。
「侍従中納言」は元弘の変で六波羅に逮捕された後醍醐側近のひとり三条公明(1281〜1336.56歳)のこと。三条公明は『徒然草』第103段に登場し、『徒然草』の成立年代論において注目されている人物である。
「御子左中納言」は二条為定(1293〜1360.68歳)のこと。1336年、兼好法師は為定から古今集を受講した。
 そのつぎの間より無量光院の公卿座のつくりあひかけて。内(後醍醐)の御方中宮の御方の女房たち侯はる。はしの間の東西を上達部殿上人の座とす。東には二条前殿(道平)。堀川大納言(具親)。春宮大夫(公宗)。侍従中納言(公明)。御子左中納言(為定)。中宮権大夫(公清)。今出川宰相中将。みな直衣にて着座也。徳大寺ばかり束帯なり。

後嵯峨院(1220〜1272.53歳)

永福門院(1271〜1342.72歳)は実兼の娘、伏見天皇中宮。京極派の中心的歌人。
堀川具親(1294〜?)
徳大寺公清(1312〜1360.49歳)

「今出川宰相中将」は兼季の子実尹(1316〜1342.27歳)。
「治部卿」は中御門冬定(1280〜1337.58歳)。
室町公春(1292〜1340.49歳)
「西園寺宰相中将」は実顕(?〜1333)

 今出川宰相中将はなをしにつぼやなぐひをおひて。紅の衣をいだす。西には前右のおほひまうちぎみをはじめて。所作の公卿殿上人の座とす。右のおとゞ。比巴。治部卿。。春宮権大夫。。源中納言(具行)。。園前宰相。基成卿。比巴。室町宰相。公春卿。。西園寺宰相中将。これもつぼやなぐひに紅のつまをいだす。

 源宰相中将(顕家)以下。殿上人四五人なみつけり。孝重。比巴。教宗。笛。能行。篳篥。宗兼。笛。兼親。篳篥。簾中。大納言二位殿。比巴。播磨内侍。女蔵人たかさご。箏。地下の楽人は。御はしの西の高欄のきは猫垣に候す。景光。脩秋。兼秋。宗秋。龍秋。景朝。景茂。則秋。茂政。末景。茂光とぞきこえし。

 楽屋には舞人ばかり伺候す。左には季真。行政。光栄。康真。真仲。葛栄。行重。近栄。諸葛。右には忠有。久春。忠脩。久経。忠良。久俊。忠右。久脩。久藤。忠春なり。

 萬歳楽のほどに中務宮御まいりあり。兵仗の後御なをしはじめなり。うす色の御さしぬき。さくらたちわきをかきてをらる。これも紅の御つまをいださる。御帯剣有。御供には春宮権大夫。有光朝臣。実継朝臣まいる。御随身四人。上臈冠。久利。久冬。重次。久武也。東の中門よりのぼらせおはしまして。西の座につかせ給ふ。少将宗房かたほなるほどにて。けなりげなるふるまひつきづきしく。いたいげしてぞみえ侍る。


「中務宮」尊良親王(?〜1337)は後醍醐天皇の皇子、母は二条為世の娘で歌人として著名な為子。「(1336年)九州から上洛した尊氏軍と闘った後醍醐天皇方が戦利あらず、天皇が叡山から帰京する前日の十月九日に、皇太子恒良親王、新田義貞らと北陸に逃れ、ついで越前金崎城に拠った。しかし翌年、金崎城は陥り、恒良親王は捕えられ、義貞は脱出したものの、尊良親王は自刃した。」(熱田公氏.『鎌倉・室町人名事典』)
 まひは萬歳楽よりはじまりて。納蘇利まで十五帖に侍しやらむ。そのうちいづれの曲も常の事に侍れば。めにもたゞず。青海波は物語のおもかげも思いでられて。ことにめとまり侍りき。

 垣代に瀧口八人。親王の御随身。色々の染装束興をつくして。花をおり錦をたちてたちくははれるさま。いとめづらかなり。御随身ども心々にふるまひかへせるけしきおもしろく侍る。久武はことに御前の外までことごとしくをどりとをして。びゝしく見え侍しも。さだめておもふ心あらんかし。この舞は仁平安元の御賀にもいみじき君達どもまひ給けるに。このたび地下ばかりにて侍ことを人々ねむなきことにぞ申侍し。
 ながき春日もやうやうくれかゝるほどなれば。舞の次第をみだりて。まず陵王をさきだてらる。荒序のゆへなるべし。源宰相中将(顕家)たちて。御念誦堂にて装束をあらためて。楽屋にわたる。そのあひだ。左少弁宗兼参て。しん殿の御座の間の御簾をあぐ。頭兵衛監長光御笙はこをもちてまいる。前殿とりて御前にまいらせ給ふ。御ひきなをしにて。御椅子につかせおはします。

 夕づく日のかげ花の木の間にうつろひて。えならぬ夕ばへ心にくきに。陵王のかゞやき出たるけしきいとおもしろく。かたりつたふるばかりにて。いづれとみわきたるかたは侍らねど。ひけとる手などいふ事にやとおぼゆる。いどめづらかなり。


北畠顕家(1318〜1338.21歳)は親房(1293〜1354.62歳)の嫡男。このとき14歳。7年後に高師直軍と和泉堺・摂津浜で戦い、敗れて吉野へ逃れようとしたところを阿倍野で討たれる。
 まして荒序とかやのゝしり侍し八方の手づかひ。まことにたぐひなき秘曲とみえたり。うへの御所作はありがたきためしなるに。けふしもことに御笙のねも雲井をひゞかし。山のとりもおどろく計也。

 宰相入道いりあやの程。はしの間をすぎて退きかへる時。季貞を御使にてめしかへさる。よて更にすゝみ舞。前関白殿。西の御簾のもとにて禄をかづけらる。中宮御服三色の九紅の御ひとへ。紅梅の御うはぎ。御紋さくらのちり花に車あり。花上苑に明なりといふこゝろ歟。いさゝか一曲を舞て。勅禄を葛栄につたふ。

 前右のおほひまうち君。陵王のときは大鼓をうたせ給。孝重朝臣砌下にくだりて鉦鼓を打。源中納言まいりすゝみて笙をふく。この陵王の宰相中将君は。この比世におしみきてえ給ふ入道大納言(親房)の御子ぞかし。形もいたいけしてけなりげに見え給に。此道にさへ達し給へる。ありがたき事也。次に源中納言採桑老を舞。おなじく禄をかづけらる。御ふくのくれないのうち御ぞなり。前右のおほひまうち君これをとりてかけらる。

 舞はてゝ。夜に入て。あを障子の御つぼに景光をめされて禄をたまはるうヘ。いろいろすぢの山ぶきのにほひの五ぎぬを東むきの御つまどより女房いださる。前の右のおほひまうち君これをとりて給。かさねて又雅楽つかさのかみを宣下せらる。ありがたき面目也。今度荒序の御所作の勧賞と聞ゆ。


「源中納言」北畠具行(1290〜1332.43歳)についてはこちら

北畠親房(1293〜1354.62歳)は後深草院二条の父雅忠の従兄弟で北畠家の祖雅家(1215〜1274.60歳)の曾孫。『増鏡』での評価は極めて高い。
 このたびの宴に天皇出御の儀。中務親王兵仗を具せさせ給て御出仕の儀式おそれあれば。ことの葉にいださず侍れども。つくづくとまもりたてまつれば。老のいのちものぶる心地して。たゞ人わろき涙にのみむせかへりて侍に。前関白殿。前右おほいまうち君。左右につきならび給へる御けしき。さたすき給へるしも。ゆゝしくひとしくも見えさせ給ふ。

本朝の大臣とてこま人にみえたまはんもくちおしからず。(貞観十四四十七)鴻臚館にて業平朝臣をみせられけるは。たゞうはべばかりのかたちにて。まことすくなくや侍らん。おほかたゆゝしくおもしろき事。ちかき世にはありがたくやとぞおぼえ侍し。

 七日のあか月は御ふねにめさる。池山のあり様。たきのをとまでもおりしりがほなるに。漸ほのぼのと明行程。はなのにほひもひとつにかすみわたれる世のけしきなど。かゝる御世の春にあはざらましかばと。よろづをろかなる筆にはをよびがたくなむ。

貞観14年は872年。
 かくてひるつかた。あを障子の御所へなりて。女院の御方の御たいめんとぞ聞えし。とばかりありて東むきの御椽に腰輿をまうけてめさる。中務宮前殿をはじめ奉りて。かむたちべ殿上人あまた御ともにて。御だうだう御巡礼あり。宮の御随身。昨日にはみなそうぞきかへて。色々にはなやかなりし。

 御さきのこゑごゑなどあがりたる世のことはみたてまつらねばしらず。いのちながくて。いまかゝる御事をまのあたり見てたてまつるこそ身のほどもいみじくおもひしられ侍ぬれ。

 妙音堂にてしばし御念誦などぞうけ給し。還御の後暮かゝる程になりて。無量光院の八重桜のしたにて花の宴あり。広庇に御簾をかけて御座とす。親王前関白殿(道平)は簀子にさぶらはせ給。花の下にかうらい端のたたみをしきて上達部の座とす。そのすゑに円座をしきて殿上人さぶらふ。

 まづ御遊あり。拍子御所作。治部卿。付歌。春宮権大夫。。源中納言。。孝重朝臣。比巴。その外簾中の箏比巴あり。さくら人うちいださせ給御こゑ。思なしをそへて。いみじくめでたく聞えさせおはしますに。治部卿付歌又おもしろくきこゆ。七日の月西にかたぶきて。花の木のまのかげさやかなるに。池のかはづさへこゑうちそへたる程えんなるに。糸竹のねもおりからことに身にしむばかりぞきこえ侍し。

 次に和歌を講ぜらる。蔵人清藤めされて。のきのはなをおらせらる。ゆみのはずにて一枝ひきおりてまいれるけしきもいとつきづきし。それを文台にて和歌を講ぜらる。保安の花見の御幸の例にや。

 題は庭花。御子左中納言これをいだす。春宮大夫藤原朝臣当座に勅をうけ給はリて。和歌の序をたてまつらる。とりあへぬほどにゆゆしくかきいでられたるも。弘安の住吉の御幸。布引の瀧の佳例にあひかなひて。めでたかりき。

西園寺公宗の作った和歌の序は、『増鏡』に「海内艾安之世、城北花開之春、我君促震臨於此処、調楽懸於厥中、重課六義之言葉、屡賞数柯之濃花、奉梢疑出雲之昔雲再懸、満庭省廻雪之昨雪猶残、雖小風情、憖瀝露詠、其詞曰」とあり、これを受けて、老尼も「出雲のむかしの雲。廻雪の昨日のゆき。めづらしくおもしろく侍き。」と感想を述べている。
 老尼のいやしきむねのうちには。難波津のよしあしをだにしり侍らねば。ましてもろこしのからのことの葉。いかなるものとも思わき侍らねど。むかしはかせの家に。たよりにつけてゆきかよひ侍しに。をのづから耳にふるゝふしぶしも侍き。出雲のむかしの雲。廻雪の昨日のゆき。めづらしくおもしろく侍き。

 御製などの御ことは申出もおそれおほくおぼえ侍れども。代々の御幸のあとゝ思ば。御歌のたけたかく。御こと葉たくみに。ためしなく人々沙汰し申侍き。御あるじの御面目も色そひて聞ゆ。中務の御子のはなにみゆきのあとをかさねてとよませ給ける。おもしろく。又前関白殿のみゆきたえにしをたえせぬにとりかへさせ給て。はなのちとせのかざし也けると侍るも。やすやすとおもしろくきこえ侍るに。御子左中納言のめぐみにあへるやどなればと侍けるに。花も盛のひさしかるべきためしに侍れば。めでたくおもしろくぞ聞え侍し。

私は『舞御覧記』の作者を後深草院二条だと考えているので、この「老尼のいやしきむねのうちには。難波津のよしあしをだにしり侍らねば。ましてもろこしのからのことの葉。いかなるものとも思わき侍らねど。むかしはかせの家に。たよりにつけてゆきかよひ侍しに。をのづから耳にふるゝふしぶしも侍き。」は、自分が漢籍に関する膨大な書籍を読んだ若い頃の思い出を戯画的に表現したものだと考える。

後醍醐天皇の歌は、『藤葉和歌集』巻一に、「次の年の春、西園寺に行幸侍りて庭花といふことを講ぜられける次(ついで)に 後醍醐院御製 宿からは花も心にとまるかな代々のみゆきのあとと思へば」というものであるが、『増鏡』では「この上(かみ)、忘れ侍る。のちにも見出してぞ。(上の句を忘れてしまいました。後にでも見つけて申します。)」などととぼけた書き方をしている。『舞御覧記』でも「代々の御幸のあとゝ思ば。」として上の句を引用していないが、その理由は「御製などの御ことは申出もおそれおほくおぼえ侍れども。」とのことで、『増鏡』と異なり穏当なものとなっている。『増鏡』の奇妙な表現についての私の考え方はこちら
 八日法水院のまへの御つぼにて又にはかに舞御覧あり。景繁うけ給て。そりはしより東に楽屋をまうけて幔をひく。蘇合一具。けふは四帖のたゞ拍子あり。地久。賀殿。長保楽。太平楽。新靺鞨などあり。舞人。土御門宰相。中将家房朝臣。季真。右に久経。久利。久脩。久藤など也。けふは源中納言胡飲酒をまふ。中将教宗。蔵人清藤。康統おほせをうけたまはりて三度のめしあり。

 舞おはりて禄をたまはる。うへむらさきすちの柳のきぬ紅のひとへ。小五月の東むきの北のはし。女房の候間よりいださる。春宮大夫とりてかづけらる。二たび拝して家房にたぶ。うけとりて舞人にたぶ。舞の程山のはにやうやうかたぶく日かげに。かゞやきたるすがたいとめづらし。
 まひはてぬれば南殿の御所へみな還御なる。夜に入て。円満院の新宮御かくれのよし聞ゆるによりて。なを御遊びどもあるべしなどきこえしもとゞまりぬ。本意なくこそ侍しか。

 九日けふも宮の御ことになにごとの御あそびもなし。うちうち、御つぎ歌などばかりありしかど。ひかうにもをよばず。ゆふつかた。うちの御かた。中宮の御かた。女房たち。前殿。あるじの大夫どの。宰相中将たちまじはりて。野かみのかた。蕨取などの御あそび侍しを。二階の御所にて。女院中宮二御かた御らんとぞうけ給はりし。内の御かたは。とにいでさせおはしまして御覧ぜらるなどぞうけ給はりし。今宵はまづ行啓還御なりぬ。行幸の還御はあすのよしきこゆ。




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