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| 原文(『増鏡』(中)全訳注.p469) その頃、西園寺の太政大臣公相なやましくし給ふとて、山々寺々修法、読経(どきやう)、祭り、祓(はら)へなど、かしがましく響きののしりつれど、それもかひなくて、十月十二日失(う)せ給ひぬ。入道殿(にふだうどの)をはじめ、思(おぼ)し嘆く人々数しらず。中宮も御服にて出(い)で給ひぬ。 北の方(かた)は徳大寺の太政大臣(おほきおとど)実基の御むすめなれば、この御腹にはさらに御子もなし。中宮をも、少納言とて、召し使ふ女房の生み聞えたれど、北の方の御子になして、男公達(をとこきんだち)も腹々にあまたおはすれど、いづれをも北の方の御子になされけり。 この大臣、入道殿よりは少し情けおくれ、いちはやくなどおはしければ、心のそこには、さのみ嘆く人もなかりけるとかや。御わざの夜、御棺(ごくわん)に入れ給へる御かしらを、人の盗み取りけるぞ珍らかなる。御顔の下(しも)短かにて、中半(なかば)ほどに御目のおはしましければ、外法(げほふ)とかやまつるに、かかる生首(なまかうべ)のいることにて、なにがしの聖(ひじり)とかや、東山のほとりなりける人、取りてけるとて、後(のち)に沙汰(さた)がましく聞えき。 中宮の御事などを深く思(おぼ)さるめりしかば、いとほしくあたらしきわざにぞ、世の人も思ひ申しける。ありし一ことを思しいでつつ、誰(たれ)もあはれにかなしく、女院の御方々もそれをのみのたまはせけり。 |
| 井上宗雄氏による現代語訳 |
私の立場からの補足 |
| その頃(「果して」とする本文もある)、西園寺太政大臣公相公が御病気であるというので、諸方のお寺で、修法や読経や祈願や祓えなど、やかましく騒ぎたてたが、それも効果がなくて、十月十二日亡くなられた。実氏公をはじめ嘆かれる人々は数しれないほどであった。中宮も御服喪で宮中を退出された。 |
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| 公相公の北の方は徳大寺太政大臣実基公の御娘であったが、この御腹にはまったく御子がいない。中宮(嬉子)をも、少納言といって召し使う侍女が生み申したのだが、北の方の御子にして、また男公達(きんだち)も違ったお腹に多くおられたが、どの方をも北の方の御子になされたのであった。 |
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| この公相公は、父の実氏公よりもすこし情愛が薄くて(つまり人に対して冷たく)、性格的に激しくいらっしゃったので、心の底ではそんなに(深く)嘆き悲しむ人もなかったとかいうことである。 御葬儀の夜、御棺にお入れになった御頭を、人が盗み出していった、というのはじつに珍しいことであった。公相公の御顔が下短かで(額が広く、顎〈あご〉が短く)、顔の中ほどに御目がおありだったので、外法(げほう)の神とかを祭るのに、このような形の生首(なまくび)が必要だといって、なんとかいう僧で、東山の辺に住んでいた者が、それを取ったというので、後に表沙汰になってうるさい問題が起こったのであった。 |
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| 公相は、中宮の御事などを深く御心配になっていたようなので、(はやくなくなったこと
を)お気の毒で惜しいことに世人も思い申したのであった。あの一事(院や女院の前における述懐)を思い出されては、だれもあわれに悲しくて、女院の御方々(かたがた)も、そればかりお話しになったのであった。
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私は通説と同じく『増鏡』の原態は十七巻本だと考えるが、西園寺家を称揚する場面が極めて多い『増鏡』において、増補系本にのみ、公相の頭が盗まれたといった極めて不気味で、西園寺家にとって不名誉な話が載っていることは、増補本系が西園寺家に特に親近感をいだかない人によって編纂し直されたものであることを示す証拠のひとつではないかと考える。 |