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| 原文(『増鏡』(上)全訳注.p19) (一) 二月(きさらぎ)の中の五日は、鶴の林に薪(たきぎ)尽きにし日なれば、かの如来二伝(によらいにでん)の御かたみのむつましさに、嵯峨の清涼寺(しやうりやうじ)にまうでて、「常在霊鷲山(じやうざいりやうじゆせん)」など、心の中(うち)にとなへて拝み奉る。かたはらに、八十(やそぢ)にもや余りぬらんと見ゆる尼ひとり、鳩の杖(つゑ)にかかりて参れり。とばかりありて、「たけく思ひ立ちつれど、いと腰いたくて堪へ難し。こよひはこの局(つぼね)にうちやすみなん。坊(ばう)へ行きてみあかしの事などいへ」とて、具したる若き女房の、つきづきしき程なるをば返しぬめり。 「釈迦牟尼仏(むにぶつ)」とたびたび申して、夕日の花やかにさし入りたるをうち見やりて、「あはれにも山の端(は)近くかたぶきぬめる日影かな。我が身の上の心地(ここち)こそすれ」とて寄りゐたる気色(けしき)、何(なに)となくなまめかしく、心あらんかしと見ゆれば、近く寄りて、 「いづくより詣(まう)で給へるぞ。ありつる人の帰り来(こ)ん程、御伽(おとぎ)せんはいかが」などいへば、「このあたり近く侍(はべ)れど、年のつもりにや、いと遙けき心地し侍る。あはれになん」といふ。「さてもいくつにか成り給ふらん」と問へば、「いさ、よくも我ながら思ひ給へわかれぬ程になん。百年(ももとせ)にもこよなく余り侍りぬらん。来(こ)し方行く先、ためしもありがたかりし世のさわぎにも、この御(み)寺ばかりつつがなくおはします。猶(なほ)やんごととなき如来の御(み)光なりかし」などいふも、古代にみやびかなり。 (二) 年の程など聞くも、めづらしき心地(ここち)して、かかる人こそ昔物語もすなれ、と思ひ出(い)でられて、まめやかに語らひつつ、「昔の事の聞かまほしきままに、年のつもりたらん人もがな、と思ひ給ふるに、嬉しきわざかな。少しのたまはせよ。おのづから古き歌など書き置きたる物の片はし見るだに、その世にあへる心地すかし」といへば、すげみたる口うちほほゑみて、 「いかでか聞えん。若かりし世に見聞き侍(はべ)りし事は、ここらの年ごろに、むば玉の夢ばかりだになくおぼはれて、何(なに)のわきまへか侍らん」とはいひながら、けしうはあらず、あへなんと思へるけしきなれば、いよいよいひはやして、「かの雲林院(うりんゐん)の菩提講(ぼだいかう)に参りあへりし翁の詞(ことば)をこそ、仮名(かんな)の日本紀(にほんぎ)にはすめれ。またかの世継(よつぎ)が孫(むまご)とかいひし、つくも髪(がみ)の物語も、人のもてあつかひぐさになれるは、御有様(みありさま)のやうなる人にこそありけめ。猶(なほ)のたまヘ」などすかせば、さは心得(う)べかめれど、いよいよ口すげみがちにて、 「そのかみは人の齢(よはひ)も高く、機も強かりければ、それにしたがひて魂(たましひ)も明らかにてや、しか聞えつくしけん。あさましき身は、いたづらなる年のみつもれるばかりにて、昨日今日といふばかりの事だに、目も耳もおぼろになりにて侍れば、ましていとあやしきひがごとどもにこそは侍らめ。そもさやうに御覧じ集めけるふるごとどもはいかにぞ」といふ。 (三) 「ただおろおろ見及びしものどもは水鏡といふにや。神武天皇の御代より、いとあららかにしるせり。その次には大鏡。文徳のいにしへより、後一条の御門(みかど)まで侍(はべ)りしにや。また世継(よつぎ)とか四十帖の草子(さうし)にて、延喜より堀河の先帝まで少しこまやかなる。またなにがしの大臣(おとど)の書き給へると聞き侍りし今鏡に、後一条より高倉の院までありなめり。まことや、いや世継は、隆信朝臣(あそん)の、後鳥羽の院の御位の程までをしるしたるとぞ見え侍りし。その後の事なん、おぼつかなくなりにける。覚え給ふらん所々までものたまへ。こよひは誰(たれ)も御伽(おとぎ)せん。かかる人にあひ奉(たてまつ)れるも、しかるべき御契りあらんものぞ」と語らへば、 「そのかみの事はいみじうたどたどしけれど、まことに事の続きを聞えざらんもおぼつかなかるべければ、たえだえに少しなん。僻事(ひがごと)ぞ多からんかし。そはさし直し給へ。いとかたはらいたきわざにも侍るべきかな。かの古ごとどもには、なぞらへ給ふまじうなん」とて、
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| 井上宗雄氏による現代語訳 |
私の立場からの補足 |
陰暦二月十五日は、沙羅双樹(さらそうじゅ)の林でお釈迦様のなくなられた日なので、あの、インドから中国へ、中国から日本へと伝わって来た釈迦如来のかたみの御像が慕わしいので、嵯峨の清涼寺(しょうりょうじ)に参詣して、「常在霊鷲山(じょうざいりょうじゅせん)」などと心のうちで唱えて拝み申しあげる。 |
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| そばに、きっと八十歳も越えていようと見える尼がひとり、鳩の杖にすがって参詣に来た。しばらくして、「われながら気強く参詣を思い立って来たけれど、ひどく腰が痛くてがまんできない。今夜はこのお寺の部屋に休もう。お前は坊へ行って、お燈明を上げることなどを頼んで来なさい」といって、連れて来た若い女房で、主人の尼のお供には似合わしいほどの者を僧坊の方へ帰したようである。 |
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| 「釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)」と度々お唱え申して、夕日が花やかにお堂にさし込んで来たのをながめて、「ああ、山の端近くに傾いたお日さまだこと。余命いくらもないわが身の上のような気がする」といって、物に寄りかかっている様子は、なんとなく優雅で、物がわかりそうな人と見えるので、近くに寄って、「どこからいらっしゃいましたか。さっきの方が帰って来るまでの間、お相手をしようと思いますが、いかがでしょうか」などというと、 | |
| 「ほんの目の前というような近くに住んでおりますが、年をとったからでしょうか、ここまでがたいへん遠い気持がします。情けないですね」という。「さてさて、いったいお幾つにおなりですか」と聞くと、「さあ、自分でもよく分からない程なのですよ。百歳もずっと越しているのでしょう。過去にも将来にも類がないような世の動乱にも、このお寺だけは無事でいらっしゃいます。やはり如来さまの御威光ですね」などというのも、古風で上品である。 | |
| 年齢など聞くにつけても、珍しい心持がして、こういう人こそ昔の物語もするという話だ、と思い出されて、まじめに話しあいながら、「昔のことが聞きたくて、年とった方(かた)がいたらよいのに、と思っておりましたところ、うれしいことですね。少しお話しください。たまたま古い歌などを書いたものの切れ端しを見るのでさえ、その昔の世に会った気持がするものですよ」というと、歯が抜けてすぼまった口で微笑して、 |
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| 「どうしてお話し申すことができましょう。若かった時代に見聞きしましたことは、長い年月たつ内に、夢ほどの記憶さえもなくぼんやりしてしまって、何も覚えておりません」とはいいながら、まんざらでもない、話してもかまわない、と思っている様子なので、いちだんとおだてて、 |
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| 「あの雲林院(うりんいん)の菩提講(ぼだいこう)に参り合いました老人の言葉、つまり『大鏡』を、仮名で書いた『日本書紀』だとしてもてはやしているようです。また、あの大宅世継(おおやけのよつぎ)の孫とかいった白髪(しらが)のおばあさんの物語、つまり『今鏡』も、世の人の愛読するものとなっていますが、そのお方も、あなたのような御様子の方でしたのでしょう。ですから、やっぱりお話しください」とおだてると、おだてられるとは承知しているようだが、いよいよ口をすぼめがちにして、 |
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| 「昔は、ほんとうに人も長生きで、気力も強かったので、それに従って精神もはっきりとしていたから、『大鏡』や『今鏡』のようにきちんと話しもできたのではないでしょうか。私のようにつまらない身は、むだな年齢だけが重なったばっかりで、昨日今日ぐらい近いことでさえ、見たことも聞いたこともはっきりしませんので、まして昔のことなど、ほんとうにいい加滅な、間違いだらけのことになりますでしょう。それにしても、そんなにいろいろと御覧になった古い本というのはどんなものですか」という。 |
| 「ただ、ざっと目を通しましたものは、『水鏡』というのでしょうか。神武天皇の御代からごく大ざっぱに書いてあります。その次には『大鏡』ですが、文徳(もんとく)天皇の昔から、後一条天皇までありましたでしょうか。また、世継(よつぎ.『栄花物語』)とかいうのは、四十帖の綴じ本で、醍醐天皇から堀河先帝まで、これは少し細かに書いてあるようです。また某大臣のお書きになったと聞き及びました『今鏡』には、後一条天皇から高倉院まであったと思います。 |
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| そうそう、『いや世継』は隆信朝臣(あそん)が後鳥羽院の御在位のころまでを記述したと思われました。その後のことがたいへんはっきりしなくなっています。覚えていらっしゃる所々までもお話しください。今晩はここにいるだれもがお相手を申しましょう。このようなお方にお会い申しましたのも、こうなる何かの因縁でありましょう」など話しますと、 |
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「その昔のことはたいへんはっきりしませんが、ほんとうに事の続き具合を申し上げませんのも、はっきりしないでしょうから、きれぎれにほんの少しをお話しします。まちがいが多いでしょうよ。それはお直しください。きっとお聞き苦しいことでしょう。あの、『大鏡』などのような古い書物と同列にはお考えくださいますな」といって、
と、声をふるわせて詠み上げたのもおくゆかしく、まことに古風である。「それでは、つまり古物語を引合いになさったところをみると、これからお話しになることをもまた書き記して、あの昔の『大鏡』などと同じさまになさろうとお思いのようですね」と答えて、
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