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 『増鏡』第十「老の波」 後深草院長講堂移徙および供花 






原文(『増鏡』(中)全訳注.p258以下)


 六条殿の長講堂(ちやうこうだう)も、焼けにしを造られて、その頃御移徙(わたまし)し給ふ。卯月(うづき)の初めつ方なり。院の上(うへ)、廂(ひさし)の御車にて、上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)・御随身(みずいじん)えもいはずきよらなり。女院の御車に、姫宮も奉(たてまつ)る。出車(いだしぐるま)あまたみな白きあはせの五つ衣(ぎぬ)、濃き袴(はかま)、同じひとへにて、三日過ぎてぞ、色々の衣(きぬ)ども、藤・つつじ・なでしこなど着かへられける。

 しばしこの院に渡らせ給へば、人々たえず参り集(つど)ふ。西園寺(さいをんじ)の殿原(とのばら)なども日ごとに参り給ふ。御壺(つぼ)分たせ給ひて、前栽合(せんざいあはせ)ありしにも、をかしう珍しき事ども多かりき。なにがしの朝臣(あそん)の槇(まき)の島のけしきを造りて侍(はべ)りけるを、平大納言経親(へいだいなごんつねちか)、いまだ下臈(げらふ)にて兵衛佐(ひやうゑのすけ)などいひける程にや、その宇治川の橋を盗みて、わがつくろひたる方(かた)に渡して侍りける、いと恐ろしく心かしこくぞ侍りける。

 例の五月(さつき)の供花(くげ)、やがてうち続きければ、女院達、宮々など、夜の御時(おんじ)に閼伽(あか)奉らせ給へば、御堂(みだう)のかをり、名香(みやうがう)の香も、外(ほか)には多くまさりて、いとしみ深う、なまめかしうおもしろし。大方(おほかた)いづれも年(とし)に二度(ふたたび)は昔よりの事にて、いみじう経営(けいめい)し給へば、世の人のなびき仕(つか)うまつるさま限りなし。

 日に二度(ふたたび)、院の出(い)で居(ゐ)させ給ふに、関白・大臣ばかり、やんごとなき人々たえずさぶらひ給ふ。大中納言、二位三位(さんみ)、非参議(ひさんぎ)、四位五位(しゐごゐ)などはまして数しらず。すべて前(さき)の司(つかさ)の人、入道なども参る事なれば、時ならぬ院の御前ともなく、いみじう花やかにおもしろうたふとし。昔の後二条関白師通(もろみち)と聞えしは、「おりゐの御門(みかど)の門に車の立つべき事」など、そしり給ひけるに、今の世を見給はばと思ひいでらる。九月の供花(くげ)には、新院さへ渡り物し給へば、いよいよ女房の袖口(そでぐち)、心ことに用意加へ給ふ。




井上宗雄氏による現代語訳
 六条殿の長講堂も、先年焼夫したのを造営されて、このころお移りになられた。四月の初めごろである。後深草院は庇(ひさし)の御車で赴かれ、公卿・殿上人や御随身は、なんともいいようなく美々しいことであった。女院(東二条院)の御車には姫宮(れい子内親王)もお乗りになる。女房の出車(いだしぐるま)も多く、みな白い袷(あわせ)の五つ衣(きぬ)、濃い(紅の)袴、同じ白の単(ひとえ)で、(移転の慎みの)三日間が過ぎて、いろいろの衣や、藤・つつじ・なでしこがさねの衣に着かえられた。

 後深草院はしばらくこの御所におられるので、人々がたえずここに参集する。西園寺家の公達(きんだち)も毎日伺候される。(ある日)中庭を区分されて前栽合(せんざいあわせ)があったのにも、風流で珍しいことなどが多かった。某朝臣が宇治槇島(まきしま)の風景を造ったのを、平大納言経親(つねちか)がまだ身分が低く、兵衛佐(ひょうえのすけ)などといったころであったか、その宇治川の橋を盗んで、自分の造った前栽のほうに掛け渡したのは、じつに恐るべく、利口なことであった。

例の五月の供花(の法会〈ほうえ〉)が、(この前栽合に)すぐ続いたので、女院がたや宮様たちが、夕刻の御時(じ)の念仏に(仏様に)お水を捧げなさると、(新しい)御堂の木の香や名香(みょうごう)の香も、外の所よりずっと勝れていて、お堂にたいそう深く染(し)み込んで、優雅で趣がある。だいたい、どこのお寺でも供花は年に(五月と九月)二度あるのは昔からのしきたりで、(とくにこのたびは院が)たいそう力を入れられるので、世人が院の御意志になびいてお仕え申しあげるさまは、このうえなくたいしたものである。

 一日に二度、院が法会に出御(しゅつぎょ)されるにつけても、関白や大臣以下、身分の高い方々がたえず伺候される。まして大納言・中納言、二位・三位・非参議・四位・五位などは数知らず参入する。(そのうえ)すべて前官の人々、出家した人々なども参ることなので、院政をなさらぬ院の御所ともみえず、たいそう花やかでおもしろく尊い。昔の後二条関白師通(もろみち)と申した人は「退位された天皇のご門前に車をおいて参向すること(などがあろうか)」などとそしりなさったが、この現在の世を御覧になったらどんなに驚かれることだろう、と(その昔の言葉が)思い出される。九月の供花には亀山院までおいでになったので、御所では、女房たちの(御簾〈みす〉から美しく)出す袖口(そでぐち)にも、いっそう気を配られたのであった。



※この場面も『とはずがたり』を「引用」したものであるが(原文はこちら)、平経親(1262〜?)の役は、『とはずがたり』では後深草院二条の叔父善勝寺大納言隆顕(1243〜?)が演じている。この点についての私の考え方はこちら




「私の立場からの補足」は後日掲載します。


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