更新12.5/24 up12.1/7
| 原文(『増鏡』(中)全訳注.p275) 弘安も四年になりぬ。夏頃、後嵯峨院の姫宮隠れさせ給ひぬ。後堀河院の御むすめにて、神仙門院と聞えし女院の御腹なれば、故院もいとおろかならずかしづき奉らせ給ひけり。御かたちもたぐひなくうつくしうおはしまして、「人の国より女の本(ほん)をたづねんには、この宮の似絵(にせゑ)をやらん」などぞ、父みかども仰せられける。 御乳母(めのと)隆行(たかゆき)の家におはしましける程に、御乳母子(めのとご)隆康(たかやす)、忍びて参りける故に、あさましき御事さへいできて、これも御生みながし、にはかに失(う)せさせ給ひにけるとぞ聞えし。 |
| 井上宗雄氏による現代語訳 |
私の立場からの補足 |
弘安も四年(1281)になった。夏ごろ、後嵯峨院の姫宮が急に亡くなられた。後堀河院皇女で、神仙門院と申した女院の御腹であったので、故後嵯峨院もほんとうにひととおりでなく大事に養育申されたのである。御容姿も比類なく美しくいらっしゃって、「外国から美しい女性の典型を求めてきたら、この宮の肖像画をやろう」などと父院も仰せられていた。 |
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| 御乳母(めのと)隆行の家におられた間に、御乳母子(めのとご)の隆康がこっそり参りなどしたため、(御懐妊というような)あきれた御事まで起こってきて、この結果、御流産で急に亡くなられたということであった。
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| 後嵯峨院姫宮への『増鏡』と『徒然草』の視線の違い 井上宗雄氏の解説によれば「神仙門院と後嵯峨院の私通は諸書にみえず、その間の一皇女のことも同様である。『本朝皇胤紹運録』にもこの皇女は見えない。」とのことであり、この後嵯峨院姫宮の話は、貴族社会の常識から言えば、外部に漏らすべきではない宮中秘話のはずであるが、『増鏡』は極めて冷酷に公開している訳である。 『増鏡』においては、月花門院(1247〜1269.23歳)薨去をめぐる話、亀山院が異母妹五条院(1262〜1294.33歳)に通じて妊娠させた話に加えて、この名前すら明らかではない姫宮のスキャンダルが詳細に描かれており、『増鏡』作者の後嵯峨院皇女に対する視線は、どこか異常な感じがするほど悪意に満ちている。 これに対し、『徒然草』第62段には、まだ幼いころの延政門院(1259〜1332.74歳)が父の後嵯峨院を慕う心温まる話が載っており、後嵯峨院皇女に対する兼好法師の視線は『増鏡』作者とは対照的である。 なお、井上宗雄氏は上記引用部分に続けて「後深草院や亀山院が異母妹と通じたことなどから推測しても、院と女院の私通はありそうなことである。(院と女院は再従姉妹)。ここに書かれている話も、いかにもリアリティがある。その結果、生まれた皇女が今度は乳母子(めのとご)と通じてお産で没したというようなことも、ありうるのであろう。この辺は、鎌倉期貴族社会の退廃相をよく示しているが、『増鏡』に記されている事例も、(『とはずがたり』を思い浮かべればなおさらだが)まったく氷山の一角にすぎないのだろう」と述べられているが、賛成できない。 当時の貴族社会において退廃的な現象も生じていたのは事実であるが、それはある程度経済的に豊かな社会層ではいつの時代でも生じる程度のものである。『増鏡』と『とはずがたり』という特異なフィルターを通すと、当時の貴族社会が異様に退廃的なものに見えるだけにすぎないと私は考える。 また、『増鏡』の作者を、例えば1320年生まれの二条良基と考えると、四条家がらみのこのような秘話を、『増鏡』の作者がどのようにして知り得たのかが問題となるが、後深草院二条を『増鏡』の作者と仮定すれば、この問題も、親戚だからというごくあっさりした理由で解決できることになる。 |
