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 『増鏡』第十「老の波」 持明院殿蹴鞠




原文(『増鏡』(中)全訳注.p254)

 弥生(やよひ)の末(すゑ)つ方(かた)、持明院殿の花盛りに、新院わたり給ふ。鞠のかかり御覧ぜんとなりければ、御前の花は梢(こずゑ)も庭も盛りなるに、ほかの桜をさへ召して、散らし添へられたり。いと深う積りたる花の白雪、跡つけがたう見ゆ。上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)いと多く参り集まる。御随身(みずいじん)・北面(ほくめん)の下臈(げらふ)など、いみじうきらめきてさぶらひあへり。わざとならぬ袖口(そでぐち)ども押し出(い)だされて、心ことにひきつくろはる。

 寝殿の母屋(もや)に御座(おまし)対座にまうけられたるを、新院いらせ給ひて、「故院の御時、定めおかれし上(うへ)は、今更にやは」とて、長押(なげし)の下(しも)へひきさげさせ給ふ程に、本院出で給ひて、「朱雀院の行幸には、あるじの座をこそなほされ侍りけるに、今日のみゆきには、御座をおろさるる、いと異様(ことやう)に侍り」など、聞え給ふ程、いとおもしろし。むべむベしき御物語は少しにて、花の興(きよう)にうつりぬ。

 御かはらけなどよき程の後(のち)、春宮(とうぐう)おはしまして、かかりの下にみな立ち出で給ふ。両院・春宮立たせ給ふ。半ば過ぐる程に、まらうどの院のぼり給ひて、御したうづなど直さるる程に、女房別当(べつたう)の君、又上臈(じやうらふ)だつ久我の太政大臣(おほきおとど)の孫(むまご)とかや、樺桜(かばざくら)の七つ、紅(くれなゐ)のうち衣(ぎぬ)、山吹のうはぎ、赤色の唐衣(からぎぬ)、すずしの袴(はかま)にて、銀(しろがね)の御杯(つき)、柳箱(やないばこ)にすゑて、同じひさげにて、柿ひたし参らすれば、はかなき御たはぶれなどのたまふ。

 暮れかかる程、風少しうち吹きて、花もみだりがはしく散りまがふに、御鞠(まり)数多くあがる。人々の心ち、いと艶(えん)あり。ゆゑある木(こ)かげに立ち休らひ給へる院の御かたち、いと清らにめでたし。春宮も若ううつくしげにて、濃き紫の浮織物の御指貫(さしぬき)、なよびかに、けしきばかり引きあげ給へれば、花のいと白く散りかかり、紋のやうに見えたるもをかし。御覧じあげて、一枝押し折り給へる程、絵にかかまほしき夕ばえどもなり。その後も、酒などらうがはしきまで聞(きこ)し召しさうどきつつ、夜ふけてかへらせ給ふ。



井上宗雄氏の現代語訳
私の立場からの補足

 三月末ごろ、持明院殿の花盛りに、亀山院の御幸があった。蹴鞠(しゅうきく)の庭を御覧なさる御志であったので、御前の花はこずえのも庭のも真っ盛りであるのに、よその桜までお取寄せになって散らし加えられた。たいそう深く積った花の白雪は、足跡をつけにくいほど美しく見えた。公卿・殿上人がたいへん多く参集する。御随身や下北面の武士などもたいそう美々しく着飾って伺候した。わざとらしくなく(女房たちも)美しい袖口が御簾の下から押し出されて、格別念入りに装っておられる。


この場面は『とはずがたり』を「引用」したものであるが(『とはずがたり』の原文はこちら。)、『とはずがたり』では建治元年(1275)三月の出来事のように読めるのに対し、『増鏡』では弘安元年(1278)のことになっている。後嵯峨院崩御後、ぎくしゃくしていた後深草院と亀山院との関係修復のために行った行事であるので、本当に存在した出来事だとすれば、時期としては1278年の方が妥当となる。そもそも煕仁親王(後の伏見天皇)が春宮となったのは1275年11月であって、同年3月にはまだ春宮ではないのである。このあたりの『とはずがたり』の年立ての混乱は大変なもので、国文学者はずいぶん苦労しているのであるが、私は、そもそも『とはずがたり』の年立てを真剣になって考えても仕方がない、という立場である。なお、仮に1278年の出来事だとすれば、その時点では、後深草院36歳、亀山院30歳、二条21歳、春宮(後の伏見天皇)14歳である。
 寝殿の母屋に、両上皇の御座を相対して設けられたのを、亀山院がおはいりになって、「故後嵯峨院御在世の折、(対面の儀は朝覲のそれに準ずるようにと)お決めになった以上は、今さらそれを改められようか」といって、御自分の席を長押(なげし)の下(の廂の間)にお下げになったところに、後深草院がお出ましになって、「(『源氏物語』の故事にある)朱雀院の行幸には、(下座にあった)主人の座を(同列に)直されましたのに、今日の御幸には(お客の)座をお下げになるというのは、まことに異様ですね」など、申しなされる御様子はほんとうにおもしろい。儀式ばったお話はすこしで、すぐお花見の興に移った。

 お杯が相当に巡った後、東宮がおいでになって、蹴鞠の庭のかかりの木の下にみな立ちいでなさる。両院・東宮もお立ちになる。蹴鞠の半ばを過ぎたころ、お客様の亀山院が(御殿に)お上りになって襪(しとうず.足袋の類)などを直されるうちに、女房別当の君、またいかにも上臈ふうに見える久我太政大臣通光(みちみつ)公の孫とかいう人(二条)が、樺桜の七つがさね、山吹の表着(うわぎ)、赤色の唐衣、生絹(すずし)の袴という装束で、銀のお杯を柳箱にのせて、同じ銀のひさげで、柿ひたしを差上げると、ちょっとした御冗談などおっしゃる。

「上臈(じやうらふ)だつ久我の太政大臣(おほきおとど)の孫(むまご)とかや」(いかにも上臈ふうに見える久我太政大臣通光公の孫とかいう人)が登場する場面についての私の解釈はこちら
 日が暮れかかるころ、風がすこし吹いて花もひどく散り乱れるところで、御鞠が何度も空に蹴上げられる。人々はほんとうにうっとりした気持になっている。趣ある木陰にお休みになる亀山院の御容姿はたいそうお美しくりっぱである。東宮も若く美しげで、濃い紫の浮織物の御指貫(さしぬき)をしなやかに召し、それをすこし引きあげておられると、そこへ花がたいそう白く散りかかり、紋のように見えたのは趣があった。東宮が桜を仰がれて、一枝お折りになったご様子は絵にも描きたいような夕映えの景である。その後も、お酒などむちゃくちゃなほどお召しになり、騒々しいほど浮立って、夜がふけてお帰りになった。


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