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| 原文(『増鏡』(中)全訳注.p243) その頃、大宮院いと久しく悩ませ給へば、本院も新院も常に渡り給ひて、夜などもおはしませば、異(こと)御腹の法親王、姫宮たちなども、絶えず御とぶらひにまうでさせ給ふ中に、故院の位の御時、勾当内侍(こうたうのないし)といひしが腹に出(い)で物し給へりし姫宮、のちには五条の院と聞えし、いまだ宮の御程なりしにや、いと盛りにうつくしげにて、切に隠れ奉り給ふを、新院あながちに御心にかけてうかがひ聞え給ふ程に、この御悩みの頃、いかがありけん、いみじう思ひの外にあさましと思(おぼ)し嘆く。 かの草枕(くさまくら)よりはまことしう、にがにがしき御事にて、姫宮まで出(い)できさせ給ひにき。限りなく人目をつつむ事なれば、あやしう誰(た)が御腹といふこともなくて、院の御乳母(めのと)の按察(あぜち)の二位(にゐ)の里に渡し奉り給へり。幼き御心にもいかが心え給ひけん、「宮の御母君をば誰(たれ)とか申す」と人の問ひ聞ゆれば、「いはぬ事」とのみぞいらへさせ給ひける。 御心のあくがるるままに、御覧じ過ぐす人なく、みだりがはしきまでたはれさせ給ふ程に、腹々の宮たち数知らず出(い)でき給ふ。大方(おほかた)、十三の御年より宮は出できそめさせ給ひしが、年々に多くのみなり給へば、いとらうがはしきまでぞあるべき。 故皇后宮の御雑仕(ざふし)にて、貫川(ぬきがは)といひし、御霊(ごりやう)とかや聞ゆる社(やしろ)のみこにてぞありける。さきにも聞えしやうに、位の御程に度々(たびたび)召されて、姫宮生まれ給へりしを、それも御乳母(めのと)の按察(あぜち)の二位殿の里に、かの五条の院の御腹のと二所(ふたところ)、同じ御かしづきぐさにておはせし程に、近衛殿(このゑどの)へいらせ給ひぬれば、殿はもとおはせし北の政所(まんどころ)をもすさめ給ひて、この宮をたぐひなく思ひ聞えさせ給ふ程に、かひがひしく若君(左大臣経平)出でき給へるをも、いみじうかしづきいたはり給ひて、前(さき)の北政所(きたのまんどころ)の御腹の太郎君(ぎみ)、中将ばかりにてものし給ふをも、よくせずは、おしのけぬべうもてなし奉り給ひけるを、新院聞かせ給ひて、「いといとほしき事なり。これはいまだ稚児(ちご)なり。ちとおとなしうなり給へるをば、いかでかひき違(たが)へるやうはあらん」とのたまはせて、その大臣(おとど)はつひに御家も保たせ給へりしなり。 また北白川殿の女院に、大納言の君とてさぶらひし人の曹司(ざうし)に、下野(しもつけ)といひし者は、田楽(でんがく)とかやいふことするあやしの法師の、名をばそのこまといふが女(むすめ)なりき。 かの女院は新院の御母代(ははしろ)にて、常に御幸もなりしかば、おのづから御覧じそめけるにや、ことのほかにときめき出(い)でて、この院に召し渡されて、花山院(くわさんのゐん)の太政大臣(おほきおとど)の御子になされ、廊(らう)の御方(かた)とぞつけさせ給ふ。その御腹にも宮生(む)まれ給ひぬ。 大宮女院に讃岐(さぬき)とてさぶらひし、西園寺(さいをんじ)の御家の者、景房(かげふさ)といひしが女なり。いみじう思(おぼ)いて、これも召しとりて西園寺の大臣の御子になして二品(にほん)の加階たまはる。若宮生(む)まれ給ひにき。帥(そちの)中納言為経(ためつね)の女(むすめ)の帥典侍(そちのすけ)殿といひしが御腹にも、あまた生(む)まれ給ふ。九条殿の北政所(きたのまんどころ)、また梨本(なしもと)・青蓮院(しやうれんゐん)法親王など大納言の典侍(すけ)の御腹、昭慶門院(せうけいもんゐん)中納言の典侍(すけ)、十楽院法親王は帥典侍(そちのすけ)殿の腹、かやうにすべて多くものし給ふ。昔の嵯峨の大王こそ、八十余人まで御子もたまへりけると承(うけたまは)り伝へたるにも、ほとほと劣り給ふまじかめり。 |
| 井上宗雄氏による現代語訳 |
私の立場からの補足 |
| そのころ、大宮院がたいへん長く御病気になったので、後深草院も亀山院もいつもお越しになって、夜などもいらっしゃるので、大宮院腹ではない法親王や姫宮たちもたえずお見舞にうかがいなさった中に、故後嵯峨院が御在位のとき、勾当内侍(こうとうのないし)といった女官の腹におできになった姫宮(懌子内親王)−後には五条院と申しあげた方(かた)−がまだただの宮様でおられたころであったか、たいそうお年盛りで美しくて、ひたすら(亀山院のお目にとまらぬよう)隠れていらっしゃったのを、亀山院はひたむきに御心にかけ、機会をねらっておられるうちに、この御病気のころ、どういう折があったのか、(ついに契りを結ばれたので)姫宮はまことに心外で、情けないことと思い嘆かれた。
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| あの(前巻の)「草枕」(の仮寝)よりは本式の、(しかも)感心せぬ御関係で、姫宮までおできになってしまった。限りなく人目を包むことなので、妙なことに、だれの腹ということもはっきりさせず、院の御乳母(めのと)の、按察(あぜち)の二位(にい)の実家にあずけなさった。幼いお心にもどうお考えになったものか、だれかが「宮の御母様はなんと申す方(かた)ですか」と尋ね申しあげると「それはいわないこと」とだけお答えになった。 亀山院は恋心のおもむくまま、気に入った女性を見のがされることなく、度を過ごすぐらい手をつけられるうちに、腹違いの宮たちが大ぜいおできになった。だいたい、十三の御年から、お子様がお出来はじめになったので、たいそう乱りがわしいと思われるほどだ。 |
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| 故皇后宮(京極院)の御雑仕(ぞうし)で、貫川(ぬきがわ)といったのは、御霊(ごりょう)神社とかいう社の巫女(みこ)であった。前にも申しましたように、御在位のときに度々召されて、姫宮が生まれなさったが、その姫宮も御乳母の按察の二位殿の実家に、あの五条院の御腹の姫宮とお二方、同じように大事にお育て申しなさっているうちに、(成長された貫川腹の姫宮は)近衛家基(いえもと)公のもとに行かれたので、家基公はもとからおられた北政所(きたのまんどころ)をも捨てられて、この姫宮をこのうえなく寵愛申されているうちに、その甲斐があって若君(経平公)がおできになったのをも、たいへん大事に育てなさって、前の北政所の御腹の太郎君(ぎみ)(家平公)が、ちょうど中将ぐらいでおられたのをも、悪くするとおしのけてしまいそうに(この若君を)大事になさったのを、亀山院がお聞きになって、「それはたいそう気の毒なことだ。若宮はまだ稚児(ちご)である。すこし大人になっておられる太郎の方をどうして順序を違えるようなことがあってよかろうか」とおっしゃって、家平公はとうとうお家をお継ぎになられた(関白にもなられた)のである。 |
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| また北白川殿の女院(安嘉門院)に大納言の君といってお仕えしていた人の曹司(ぞうし)〈部屋〉に下野(しもつけ)といった者は、田楽(でんがく)とかいうことを演ずる身分低い法師で、名をそのこまという者の娘であった。安嘉門院は亀山院の御母代りでいつも御所に御幸もあったので(下野を)自然とお見そめになったのだろうか、ことのほかに御寵愛を受けて、院の御所に召し移されて、花山院太政大臣通雅の御養女になさって廊(ろう)の御方(かた)と名づけられた。その御腹にも宮がお生まれになった。 |
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| 大宮院に讃岐(さぬき)といってお仕えしていたのは、西園寺家の侍(さぶらい)で景房(かげふさ)といった者の娘である。たいそう御寵愛になって、これも御所に召し移されて西園寺公相公の御養女にして二位を賜わった。ここにも若宮がお生まれになった。また帥(そちの)中納言為経(ためつね)の娘、帥(そち)の典侍(すけ)殿といった方の御腹にも大ぜいお生まれになる。 九条殿の北政所、梨本門跡(なしもともんぜき)(覚雲法親王)・青蓮院良助法親王などは大納言の典侍(すけ)の御腹、昭慶門院は中納言の典侍(すけ)のお腹、十楽院慈道法親王は帥(そち)の典侍(すけ)の腹、といったように、すべてたくさんいらっしゃる。 昔の嵯峨天皇は八十余人まで御子をお持ちになったと承り伝えているが、それにもほとんど劣りなさらないような御様子である。 |