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 『増鏡』第十 老の波 北山准后九十の賀(一)



原文(『増鏡』(中)全訳注.p295)


 かくて御賀は二月卅日頃なり。本院・新院・東二条院・遊義門院 いまだ姫宮と申す、みなかねてより北山にわたらせ給ふ。新陽明門院も新院の一つ御車にておはします。

 廿九日の夜まづ行幸あり。雅楽寮(うたづかさ)、楽(がく)を奏す。院司左衛門督(さゑもんのかみ)公衡(きんひら)、ことのよし申してのち中門に寄せらる。其の後、春宮行啓、門よりおりさせ給ふ。傅(ふ)の大臣(おとど)二条 御車に参り給へり。

 その日になりぬれば、寝殿の東おもての母屋(もや)・廂(ひさし)までとりはらひて、釈迦如来の絵像かけ奉る。道場の飾り、まことの浄土の荘厳(しやうごん)もかくこそ、とめでたくきよらを尽くさ れたり。御経の箱二合(がふ)、金泥(こんでい)の寿命経九十巻、法華経入れらる。名香(みやうがう)、柳の織物に藤を縫ひたるにて包みて御経の机によせかく。御簾(ぎよれん)の中に、西の一間に繧繝(うげん)二帖、唐錦のしとね敷きて、内の上の御座とす。

 同じ御座の北に、大文(だいもん)の高麗(かうらい)一帖(でふ)敷きて、春宮渡らせ給ふ。西の廂に、これも屏風をそへて、繧繝二帖、錦のしとねに准后ゐ給へり。同じ廂に、東二条院渡らせ給ふ。はるばると、纐纈(かうけち)の几帳(きちやう)のかたびらを出(いだ)して、色々の袖口ども、御方々けぢめ分れて押し出でたる程、竜田姫もかかる錦の色はいかでかと、いみじう好ましげなり。

 事なりぬるにや、両院・御門・春宮・大宮院・東二条院・今出川の院・春宮の大夫などうち続く。誦経(じゆきやう)の鐘の響きも耳驚くばかり所狭(せ)う聞ゆ。衆僧集会(しふゑ)の鐘うちて後(のち)、上達部(かんだちめ)御前の座につく。

 階(はし)より東(ひんがし)に、関白・左大臣・内大臣・花山院大納言長雅・源大納言通頼・大炊御門大納言信嗣・右大将通基・春宮大夫実兼・左大将公守・三条中納言実重・花山院中納言家教・左衛門督公衡などさぶらひ給ふ。

 階(はし)より西に、四条の大納言隆親・春宮権大夫具守・権中納言実冬・四条宰相隆康・右衛門督為世など伺候せられたり。

 内の上(うへ)御引直衣(ひきなほし)・すずしの御袴、本院、御烏帽子直衣・青鈍(あをにび)の御指貫(さしぬき)、新院、御直衣・綾の御指貫、春宮、桜の御直衣・霰(あられ)に※の紫の御指貫、いひしらずなまめかしう見え給ふ。今日はみな御簾の内におはします。

 大女院、白き綾の三御衣(みつおんぞ)、東二条院、唐織物の柳桜の八つ・紅梅のひねりあはせの御ひとへ・樺桜の御小袿(こうちき)奉れり。

 姫宮、紅(くれなひ)の匂ひ十・紅梅の御小袿・もえ黄の御ひとへ・赤色の御唐衣(からぎぬ)・すずしの御袴奉れる、常よりもことにうつくしうぞ見え給ふ。おはしますらんとおもほす間のとほりに、内の上、常に御目(ま)じりただならず、御心づかひして御目とどめ給ふ。



井上宗雄氏の現代語訳

私の立場からの補足

 こうして(大宮院主催の貞子九十の)御賀は、(弘安八年)二月三十日ごろ行なわれる。後深草院・亀山院・東二条院・遊義門院(まだ姫宮と申していた)は、みな前もって北山にお越しになっていた。新陽明門院も亀山院と御同車でおいでになる。

 二十九日の夜、まず後宇多天皇の行幸がある。雅楽(うた)寮の楽人(がくにん)が楽を奏する。大宮院の院司左衛門督(さゑもんのかみ)公衡(きんひら)が、行幸のよしを女院に申しあげて後、天皇の御車を中門(ちゅうもん)に寄せられる。その後、春宮煕仁(ひろひと)親王が行啓され、中門からおりられる。東宮傅(ふ)二条師忠公がその車に陪乗されている。

北山准后(1196〜1302.107歳)と四条家についてはこちら。(角田文衛氏『平家後抄』)

西園寺家の北山第で行われたこの行事については『とはずがたり』に膨大な分量の記述があるが、『増鏡』でもほぼ同量の記述がなされており、それは他の行事とのバランスを考えると極めて奇妙な印象を与えるほどである。そして『増鏡』の記事は『とはずがたり』を大量に「引用」していることが明らかな上に、後深草院二条が最後の連歌の場面で、「たれにかあらん、女房の中より」という形で、名前を明らかにしないまま登場している。

この行事が行われた1285年の時点での主たる登場人物の年齢を整理しておくと、北山准后90歳、大宮院61歳、鷹司兼平58歳、東二条院54歳、後深草院43歳、亀山院・西園寺実兼・堀川具守37歳、新陽明門院34歳、今出川院33歳、二条師忠32歳、西園寺公衡22歳、煕仁親王(伏見天皇)21歳、後宇多天皇19歳、姫宮(遊義門院)16歳である。後深草院二条は28歳。
 当日になると、寝殿の東面の母屋(もや)から廂(ひさし)の間まで、簾(などの調度)を取払って、釈迦如来の絵画をお掛け申しあげる。法会の場所の飾りつけは、ほんとうの極楽浄土のいかめしくも美々しいさまはこうであろうかと思われるほどりっぱに華麗をきわめられた。お経の箱が二つ、そこに金泥で書いた『寿命経』九十巻、『法華経』を入れられる。名香を、柳の模様の織り出した上に藤の模様を刺繍した織物に包んでお経の机に寄せ掛けてある。御簾(みす)の内に、西の一間に繧繝(うんげん)べりの畳二帖を敷き、唐錦(からにしき)のしとねを敷き、天皇の御座としてある。

 同じ御座の北に、紋柄の大きな高麗べりの畳一帖を敷いて東宮が御着座になる。西の廂の間に、これも屏風を立てて、繧繝べりの畳二帖に錦のしとねを敷き、准后がいらっしゃる。同じ廂の間に東二条院がおいでになる。ずっと長く、しぼり染めの帷子(かたびら)をかけた几帳(きちょう)を出して、女房たちがさまざまな色の袖口を、それぞれお仕えしている女院の方々の違いがわかるように押し出している様子は、(秋の女神の)竜田姫もこのような美しい錦の色はどうして染め出せようか、とほんとうに好ましい趣である。

 いよいよ刻限になったのか、両上皇・天皇・東宮・大宮院・東二条院・今出川院・東宮大夫実兼など、続いて出座され、読経の鐘の響きも耳を驚かすほどで、あたり一面に響いて聞える。衆僧が法会に集まるようにという鐘を打った後、公卿が御前の座につく。

鷹司兼平(1228〜94.67歳)は『とはずがたり』の「近衛大殿」に比定されている人。二条師忠(1254〜1341.88歳)は前斎宮をめぐる奇妙な三角関係話で、西園寺実兼の引き立て役として巻9「草枕」に登場。久我通基(1240〜1308.69歳)は後深草院二条の従兄弟で『とはずがたり』の最終場面『徒然草』第195段に登場する。
 正面の階より東のほうに、関白兼平公・左大臣師忠公・内大臣家基公・花山院大納言長雅・源大納言通頼・大炊御門大納言信嗣・右大将通基・東宮大夫実兼・左大将公守・三条中納言実重・花山院中納言家教・左衛門督公衡らがひかえられる。

 階から西には、四条大納言隆親・東宮権大夫具守・権中納言実冬・四条宰相隆康・右兵衛督為世などが伺候された。

ここで極めて奇妙なことに北山准后の弟で、後深草院二条の母方の祖父、四条隆親(1203〜79.77歳)が登場している。しかし四条隆親がこの行事に参加することはありえない。なぜなら隆親は6年前に亡くなっているからである。この点については「隆親は隆行の誤りだろう。」(『日本古典文学大系.神皇正統記・増鏡』岩波書店)とするのが一般的であるが、別途検討したい。

「四条大納言隆親」の隣りに出てくる「東宮権大夫具守」は西華門院(1269〜1355.87歳)の父、邦治親王(後二条天皇)の外祖父の堀川具守(1249〜1316.68歳)。出家前の兼好が家司として仕えていた人物である。

1985年の時点で、後宇多天皇19歳が姫宮(遊義門院)16歳に重大な関心を寄せていることを『増鏡』の作者は強調しているのである。
 天皇は御引直衣・すずしの御袴、後深草院は御烏帽子直衣・青鈍(あおにび)の御指貫(さしぬき)、亀山院は御直衣・綾の御指貫、東宮は桜の御直衣・霰(あられ)に※(あなかんむりに「果」)の紋を散らした御指貫という服装で、いいようなく優雅なお姿に見えられる。今日はみな御簾の中におられる。

 大宮院は白い綾の三枚がさねの御衣、東二条院は唐織物の五つ衣(ぎぬ)八枚がさね、紅梅のひねりがさねの御ひとえ、樺桜の御小袿を着ておられる。

 姫宮(遊義門院)は紅の匂いの五つ衣(ぎぬ)十がさね、紅梅の御小徒・萌黄の御ひとえ・赤色の御唐友・すずしの御衿を召されているが、いつもよりことに美しくお見えになる。この姫宮がおられるだろうと思われる間の方向に、天皇はふだんと違った御目つきで注意して見まもっておられる。




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