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| 原文(『増鏡』(中)全訳注.p288) 今年、北山の准后(じゆごう)九十にみち給へば、御賀の事、大宮院思(おぼ)し急ぐ。世の大事にて、天下かしがましく響きあひたり。かくののしる人は、安元の御賀に青海波(せいがいは)舞ひたりし隆房(たかふさ)の大納言の孫(むまご)なめり。鷲尾(わしのを)の大納言隆衡(たかひら)の女(むすめ)ぞかし。 大宮院・東二条院の御母なれば、両院の御祖母、太政大臣(おほきおとど)の北の方にて、天(あめ)の下(した)みなこのにほひならぬ人はなし。いとやんごとなかりける御宿世(すくせ)なり。昔、御堂殿(みだうどの)の北の方鷹司殿(たかつかさどの)と聞えしにも劣り給はず。 大方(おほかた)、この大宮院の御宿世(すくせ)、いとありがたくおはします。すべていにしへより今まで、后・国母(こくも)多く過ぎ給ひぬれど、かくばかりとり集め、いみじきためしはいまだ聞 き及び侍らず。御位のはじめより選ばれ参り給ひて、争ひきしろふ人もなく、三千の寵愛ひとりにをさめ給ふ。両院うち続き出で物し給へりし、いづれも平らかに、思ひの如く、二代の国母にて、今はすでに御孫(むまご)の位をさへ見給ふまで、いささかも御心にあはず思(おぼ)しむすぼほるる一(ひと)ふしもなく、めでたくおはしますさま、来し方もたぐひなく、行末にも稀にやあらん。 古(いにしヘ)の基経(もとつね)の大臣(おとど)の御女(むすめ)、延喜の御代(みよ)の大后宮(おほきさいのみや)、朱雀・村上の二代の国母にておはせしも、初め出でき給ひて、ことにかなしうし給ひし前坊(ぜんばう)におくれ聞え給ひて、御命のうちはたえぬ御嘆き尽きせざりき。九条の大臣師輔(もろすけ)の御女、天暦の后にておはせし、冷泉・円融両代の御母なりしかど、めでたき御代をも見奉り給はず、御門(みかど)にも先立ち給ひて失せ給ひにき。 御堂(みだう)の御女(むすめ)上東門院、一条・後朱雀の御母にて、御孫(むまご)後冷泉・後三条まで見奉り給ひしかども、みな先立たせ給ひしかば、さかさまの御嘆きたゆる世なく、御命あまり長くて、なかなか人目を恥づる思ひ深くおはしましき。 これもみな一(いち)の人にて、世の親となり給へりしだに、やうをかへて、さまざまの御身のうれへはありき。ただ人には大納言公実(きんざね)の御むすめこそ、待賢門院とて、崇徳・後白河の御母にておはせしかど、それも後白河の御世をば御覧ぜず、讃岐の院の御末もおはしまさず。 されば今のやうに、ただ人の御身にて三代の国のおもしといつかれ、両院とこしなえへに仰ぎささげ奉らせ給ふは、前(さき)の世もいかばかりの功徳(くどく)おはしまし、この世にも春日大明神をはじめ、よろづの神明(しんめい)仏陀の擁護(おうご)あつく物し給ふにこそ、有難くぞ推しはかられ給ふ。 |
| 井上宗雄氏の現代語訳 |
私の立場からの補足 |
| 今年(弘安八年)は北山准后(貞子)が九十歳になられるので、御賀のことを大宮院がお思いになって準備をする。天下の大事で、世間がやかましく騒ぎ立てる。こう世の人が声(こわ)高くいいたてる准后とは(後白河院の五十を祝った)安元の御賀に青海波を舞った四条隆房大納言の孫に当たる方であろう。鷲尾(わしのお)大納言隆衡(たかひら)の女(むすめ)である。 |
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| 大宮院・東二条院の御母なので、後深草・亀山両院の御祖母、太政大臣実氏公の北の方で、天下(の有力者)はすべてこの系統の方でない人はない。じつに尊い(前世から受けた)御果報である。昔、御堂関白道長公の御北の方鷹司殿(倫子)と申した方にも劣りなさらない。 |
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| だいたい、この大宮院の御果報は、たいそう得難い(結構な)ものである。すべて昔から今まで皇后や国母はつぎつぎと多くおられたが、この大宮院ほどたくさんの幸いを一身に集めためでたい例は、まだ聞いたことがないのである。後嵯峨院の御在位のはじめから選ばれ入内されて、対抗して御寵愛を争う人もなく、君寵を一身にお集めになる。後深草・亀山両院が続いてお生まれになって、どちらの方も平らかに、何の支障もなく皇位に即(つ)かれ、二代の天皇の母で、今はすでに御孫の御在位をも御覧になるまで、すこしも御心に合わず、御不満になられる事もなく、結構な状態でいられる様子は、過去にも類がなく、将来もまれなことであろう。
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| 昔、基経(もとつね)公の御女(むすめ)(穏子)は、醜醐天皇の御代の皇后で、朱雀・村上二代の国母でいらっしゃったが、初めにお生まれになって、ことにかわいがられた前坊保明(やすあきら)親王に先立たれ申しなさり、御生涯、限りないお嘆きがたえなかった。九条師輔(もろすけ)公の御女(安子)は、村上天皇の后でいらっしゃって、冷泉・円融両天皇の御母であったが、御即位後の結構な御代をも御覧にならず、天皇にも先立ってなくなられた。 |
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| 道長公の御女上東門院は、後一条・後朱雀両帝の御母で、御孫後冷泉・後三条まで御覧になったが、この方々はみな先立ってなくなられたので、死ぬ順序が逆になったお嘆きはたえる時がなく、お命があまりに長くて、かえって人目を恥かしく感ぜられる思いが深くおありだった。 |
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| この方々はみな摂関の娘で国母(こくも)になられたのだが、それぞれ事情を違えていろいろに御身の上の嘆きはあった。
(摂関以外の)公卿の娘では、大納言公実(きんざね)の御女(璋子)が待賢門院といって、崇徳・後白河の御母でいらっしゃったが、この女院も後白河天皇の御代は御覧にならず、崇徳院の御子孫もおありにならない。 |
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| だから今の大宮院のように、(摂関以外の)公卿の御娘で、後深草・亀山・後宇多三代の御代の重鎮としてたいせつにされ、後深草・亀山両院が永久に仰ぎ尊び申しあげなさるのは、(いったい女院は)前世にどれほどの善根がおありで、また、現世でも(どのくらい)春日大明神をはじめ、よろずの神仏の守護が厚くいらっしゃるのか、と思われてまことに尊いことに推測されてしまうのである。
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