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| 原文(『増鏡』(中)全訳注.p288) この御門(みかど)はねび給ふままに、いとかしこく、御才(ざえ)などすぐれさせ給へれば、なべて世の人もめでたきことに思ひ聞ゆ。はかばかしき女御・后などもさぶらひ給はで、いとつれづれなるに、新陽明門院の御方(かた)に堀川大納言の御女(むすめ)、東の御方とてさぶらひ給ふを、忍び忍び御覧じける程に、弘安八年二月ばかり、若宮いで物し給へり。いとやむごとなき御宿世(しゆくせ)なるべし。 |
| 井上宗雄氏の現代語訳 |
私の立場からの補足 |
| この後宇多天皇は、成人されるにつれて、たいへん賢明で、御学才などもすぐれていらっしゃったので、すべて世の人も結構なことだと思い申しあげた。 これという女御や后などもおられず、まことに寂しくしておられたところ、新陽明門院の御方に堀川大納言具守(とももり)の御女(むすめ)で東の御方といって仕えておられる方を、内々寵愛されるうちに、弘安八年(1285)二月ごろ、若宮(邦治親王)がお生まれになった。たいへん尊い、前世からの因縁であろう。 |
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