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 『増鏡』第十 老の波 邦治親王(後二条天皇)誕生



原文(『増鏡』(中)全訳注.p288)


 この御門(みかど)はねび給ふままに、いとかしこく、御才(ざえ)などすぐれさせ給へれば、なべて世の人もめでたきことに思ひ聞ゆ。はかばかしき女御・后などもさぶらひ給はで、いとつれづれなるに、新陽明門院の御方(かた)に堀川大納言の御女(むすめ)、東の御方とてさぶらひ給ふを、忍び忍び御覧じける程に、弘安八年二月ばかり、若宮いで物し給へり。いとやむごとなき御宿世(しゆくせ)なるべし。



井上宗雄氏の現代語訳

私の立場からの補足

 この後宇多天皇は、成人されるにつれて、たいへん賢明で、御学才などもすぐれていらっしゃったので、すべて世の人も結構なことだと思い申しあげた。

 これという女御や后などもおられず、まことに寂しくしておられたところ、新陽明門院の御方に堀川大納言具守(とももり)の御女(むすめ)で東の御方といって仕えておられる方を、内々寵愛されるうちに、弘安八年(1285)二月ごろ、若宮(邦治親王)がお生まれになった。たいへん尊い、前世からの因縁であろう。
少し前の場面でも後宇多天皇(1267〜1324.58歳)には「なかなか女御・更衣もさぶらひ給はず。いとさうざうしき雲の上なり。」との指摘があり、後宇多天皇への入内のないことが、かなりしつこく書かれている。後宇多天皇は邦治親王(後二条天皇)が誕生した1285年の時点では19歳。
新陽明門院(1262〜1296.35歳)については、『増鏡』において、その「不行跡」がかなりの悪意をもって描かれている。この点についての私の考え方はこちら
堀川具守(1249〜1316.は出家前の兼好が家司として仕えていた人物。亀山院・西園寺実兼と同年の生まれ。基子(西華門院.1269〜1355.87歳)はこのとき17歳。なお、具守は辛辣な女性論で有名な『徒然草』第107段に登場するが、この段においては「とはずがたり」という言葉が極めて否定的な意味合いで使われている点が興味深い。





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