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 『増鏡』第十一 さしぐし ※子女王と源有房

※てへんに侖



原文(『増鏡』(中)全訳注.p370)


 中務の宮の御むすめは、もとよりいとあざやかならぬ御覚えなりしかば、世を捨てさせ給ふきはとても、とりわきたる御名残もなかるべし。禅林寺の上(うへ)の院の、人はなれたる方(かた)にすゑ聞えさせ給へれば、ことにふれて、いとさびしく心細き御有様なるを、おのづから言(こと)とひ聞ゆる人もなし。

 源氏の末の君に、中将ばかりなる人、院に親しく仕うまつりなれて、家もやがてそのわたりにあれば、程近きままに、折々この宮の御宿直(とのゐ)など心にかけてつかまつるを、さぶらふ人々もいとありがたくもと思ふ。宮の御方は、此の比(ごろ)いみじき御さかりの程にて、まほにうつくしうおはしますを、あたらしう見奉りはやす人のなき事と思ひあへり。

 七月ばかり風あららかに吹き、稲妻けしからずひらめきて、神なりさわぐ、常よりも恐ろしき夜、はかばかしき人もなければ、上下いとあわたたしく、心細う思(おぼ)しまどふ。

 法皇は亀山殿に、過ぎにし比(ころ)よりおはしませば、近きあたりにだに、人のけはひも聞えず。哀れなるほどの御有様にて、墨をすりたらんやうなる空のけしきのうとましげなるを、ながめさせ給ふほどに、例の中将そぼち参りて、侍(さぶらひ)めくもの一、二人、弓など持たせて、「御宿直(とのゐ)つかまつらせ待るべし。なにがしも侍(さぶらひ)のかたに侍らん」と申すにぞ、いささか頼もしくて、人々慰め給ふ。

 おはします母屋(もや)とあたれる廂(ひさし)の高欄(かうらん)におしかかりて、香染(かうぞ)めのなよよかなる狩衣(かりぎぬ)に、薄色の指貫(さしぬき)うちふくためるけしきにて、しめじめと物語しつつ、いたう更け行くまで、つくづくとさぶらひ給へば、御簾(みす)の中にも心づかひして、はかなきいらへなど聞ゆ。

 暁がたになりぬれば、御几帳(みきちやう)ひき寄せて御とのごもりぬるかたはらに、いとなれ顔にそひふす男あり。夢かやと思(おぼ)して御覧じあげたれば、「年月(としつき)思ひ聞えつるさま、おほけなくあるまじき事と思ひかへさひ、ここら忍ぶるに余りぬる程、ただ少し、かくて胸をだにやすめ侍らんばかり」など、いみじげに聞ゆるは、はやうありつる中将なりけり。

 いとうたて心憂(う)のわざや、と思(おぼ)すに、御涙もこぼれぬ。近き手あたり御もてなしのなよびかさなど、まして思ひしづむべうなければ、いといとほしうゆくりなき事とは思ひながら、残りなうなりぬ。身のうさの限りなうもあるかな、と前(さき)の世も恨めしう、いふかひなき事を思(おぼ)し続けて、よよと泣き給ふさま、いよいよらうたし。

 見るとしもなき夢のただちをうちおどろかす鐘の声、鳥の音(ね)も人やりならぬ心づくしに、えいでやらず。

  
起きわかれ行く空もなき道芝の露よりさきに我や消なまし

 出(い)でがてにやすらひたる面影も、なにの御目とまるふしもなし。さばかりいみじかりし院の御目うつりに、こよなの契りの程や、と思し知らるるもつらければ、いらへもし給はず。あさましうも心うくも、さまざまに思(おぼ)し乱るるに、御心地(ここち)もまめやかにそこなはれぬべし。按察(あぜち)の君といふ人、語らひとられけるなめり。

 忍びて御消息(せうそこ)しげう聞ゆるをも、いとうたて心づきなう思されながら、さてしも果てぬ習ひにや、いと又あはれなる事さへものし給ひけり。かかるにつけても、この世ひとつにはあらざりける御契りの程、浅からずおしはからる。中将もよとともにあくがれまさりて、夢の通ひ路(ぢ)、足も休めずなり行く。

 この御気色(けしき)もやうやうしるき程になり給へば、そら恐ろしとて、忍びて御乳母(めのと)だつ人の家などいひなして、白川わたり、かごやかにをかしき所用意して、率(ゐ)て渡し奉りつつ、なほみづからは、さすがに世のつつましければ、忍びつつぞ御宿直(とのゐ)しける。そこにてこそ御子も生み給ひけれ。

 この中将、才(ざえ)かしこくて、末の世には、ことの外にもてなされて、まづ一品(ぽん)して、しばしおはせし比(ころ)、御百首の歌に、

位山(くらいやま)のぼりはてても峰に生(お)ふる松に心をなほ残すかな

 さてつひに内大臣まで昇られき。さて元応の比(ころ)かとよ、百首の歌奉りし中に、

集めこし窓の螢(ほたる)の光もて思ひしよりも身を照らすかな

と詠まれ侍りき。有房(ありふさ)と聞えしが、若くての世のことなるべし。



井上宗雄氏の現代語訳
私の立場からの補足

 中務卿宗尊(なかつかさきょうむねたか)親王の御娘☆子(りんし)女王は、もともとからあまりめでたくもない(亀山院の)御寵愛であったので、院が御出家なさる時といっても、格別御名残惜しいということもないのであろう。禅林寺の中の、上のほうにある院で、人気(ひとけ)の乏しい方にお住ませ申されたので、(女王は)何かにつけてたいそう寂しく心細い御様子であるのに、たまさかにも訪問申す人もいない。


※てへんに侖
宗尊親王(1242〜74.33歳)は鎌倉幕府第6代将軍。歌人としても著名。1252年、第5代将軍頼嗣(九条道家の孫)は幕府転覆の陰謀への関与を疑われて鎌倉を追われ、代わって後嵯峨院第一皇子で後深草院・亀山院の異母兄たる宗尊親王が皇族として初めての将軍となった。しかし、14年後の1266年7月、謀反の嫌疑をかけられ帰洛。摂家将軍や皇族将軍には権力はなかったが、北条家反主流派や北条家に反感を持つ御家人たちの結集の核となるおそれがあるため、成年に達すると、まるで定期行事のように鎌倉を追われることが繰り返された。

※(りん)子女王(1265〜?)
亀山院(1249〜1305.57歳)
 村上源氏の末流で、中将ほどの官にあった人(有房)が、院に親しくお仕え申しあげ慣れて、家もすぐその辺にあるので、距離も近いということで、折々この宮の御宿直(とのい)など心にかけてお仕えしているのを、女王のおつきの人々もたいへん奇特でありがたいことと思っている。宮の御方はこのころたいそうお盛りの御年配で、ととのって美しくいらっしゃるのを、(おひとりでおられるのには)惜しい御方だともてはやし申しあげる人もいないこと、と侍女たちは思いあっていた。

 七月ごろ、風が荒々しく吹き、稲妻が激しくひらめいて、雷が鳴り騒ぐ、そんなふうにいつもより恐ろしい夜、頼もしくしっかりした人もいないので、上下の人々がだれも落着かず、心細く途方にくれられた。

☆子女王と源(六条)有房の情事の話は、浅原事件(1290年、甲斐源氏小笠原一族の浅原為頼一党が伏見天皇暗殺を図って内裏に乱入し、自害した事件)への関与を疑われた亀山院が幕府への恭順の意を表するために出家した後の出来事として描かれている。史実としては亀山院の出家は1289年で、浅原事件とは無関係なのであるが、『増鏡』の作者は物語を盛り上げるために勝手に史実を改変しているのである。浅原事件についての『増鏡』の原文はこちら
六条有房(1251〜1319.69歳)は久我通光の孫で、二条の7歳年上の従兄弟(後述)。
 法皇は、先ごろから亀山殿にいらっしゃるので、近辺にさえ人のいる様子もなく物音も聞えない。あわれな感じのする御有様で、墨をすったような真っ黒な空の様子のなんとも気味の悪い感じがするのをながめられているとき、例の有房中将が雨に濡れて参上し、侍ふうの者一、二人に弓などを持たせて、「御宿直を勤めさせましょう。私も侍の詰所におりましょう」など申すので、すこし力づけられて侍女たちも心を慰められた。

 宮のおられる母屋(もや)と接続している廂(ひさし)の間の高欄に寄りかかって、香染めのしなやかな狩衣に、薄紫色の指貫を、ふっくらとさせた様子で、しんみりと話をして、たいそう夜が更けて行くまで御前にじっと伺候しておられるので、御簾の中でも、宮は心づかいされてすこしは返事などされる。

 暁がたになったので、御几帳を引寄せておやすみになると、その傍らに、たいそう慣れ慣れしいふうに添い寝する男がいる。夢かと思われて顔を上げて御覧になると、「長い年月の間、お慕い申しあげてきましたわが気持、身分不相応なこと、あってはならぬことと思い返し、長らく堪えてきましたが、忍びきれぬ心をほんのすこし、せめてこうして胸の中だけでも休めたいと思うばかりです」など熱意をこめて申しあげるのは、先ほどから宿直(とのい)していた中将有房であった。

 ほんとうに情けなく、憂鬱なことだ、と思われるにつけ、御涙もこぼれてしまう。中将は、宮の近くで触れる肌ざわりや、宮の御ふるまいのなよなよしていることなど、いよいよせつない思いを抑えられるすべもなかったので、(宮に対しては)たいそうお気の毒で、突然のこととは感じながら、思いをとげてしまった。(宮は)わが身のつらさが限りないことよ、と前世の因縁も恨めしく、今さらいっても甲斐のないことを思い続けられて、よよと泣かれる様子はいちだんとかわいらしい。

 見るというまもないほどの短い夢路を目覚まさせる鐘の昔や鳥の音も、(中将は)わが身から起こした悩みなので、思いきって出て行くこともできない。

起きてお別れして行く気持にもなれない私は、(このままお別れしたら)道に生えている芝の露よりも先に、死んでしまうでしよう。

 立ち出でかねてためらっている中将の姿も、宮の御目にとまるような何の風情もない。あれほどりっぱであった亀山院を見ていた御目移りとしては、情けない(中将との)契りのほどよ、と思い知られるのもつらいので、返歌もなさらない。情けなくもつらくもさまざまに思い乱れなさるにつけて、お気持もほんとうに悪くなってしまいそうである。(こんなことになったのは)按察の君という人が(有房に)口説き落されたからであろう。

「(こんなことになったのは)按察の君という人が(有房に)口説き落されたからであろう。」という箇所は、この話が事実であったかどうかは別として、『増鏡』の作者の重要な情報源のひとつが女房関係であることを示しており、興味深い。
 こっそりとお手紙をしきりにさし上げるのをも、たいそうゆううつな、不快なことに思われながら、そのままでもすまないのが男女の仲の習慣であろうか、たいへんまた驚くようなこと、つまり妊娠までなさったのであった。こうなるにつけても、この世だけのことではない、前世からの御宿緑の深さが推量されるのである。中将も時がたつにつれて宮をいよいよ恋いこがれて、夢のような恋路に足も休めず頻繁に通ったのであった。

 御懐妊の御様子も、しだいに目立つほどになられたので、なんとなく恐ろしいというわけで、こっそり御乳母のような人の家などといいつくろって、白川辺の、目立たず、風情のある家を用意して、おつれ申しあげながら、やはり中将自身はなんといっても世間がはばかられるので、人目を忍んで御宿直をしたことであった。宮はそこで御子をも生みなされた。

 この中将は学才がすぐれて、晩年には格別に重用されて、まず従一位となってしばらくおられたころ、百首を詠まれた中に、

位山を昇って、位階の頂上をきわめても、さらに峰にはえている松のような、高い官職につきたい気持を残すことだ。

そして最後には内大臣にまで昇られた。さて元応のころであったか、百首歌を奉られた中に、

窓に螢を集め、多年学才をたくわえてきて、その功によって予期以上の高官に昇り、身の光栄に浴したことだ。

と詠まれた。(宮との事件はこの)有房と申した方が、若いときのことなのであろう。
最初は「源氏の末の君に、中将ばかりなる人」とぼかしておいて、話をどんどん盛り上げた最後にやっと名前を明かしており、巧みな構成である。







補説(1)


 山岸徳平・鈴木一雄氏は、この場面に関し、次のように書かれている。(『鑑賞日本古典文学.大鏡・増鏡』.角川書店.昭51.p251)

 亀山院の寵も得ず、院の出家後ほとんど忘れ捨てられた寂しい妃、※子女王。女として盛りの身を世から断たれたような佗び住まい。女王に同情し奉仕献身する若き中将。奉仕者であり、妃の信頼する従者である、中将の女王を思う心のうちはいかに。稲妻が走り、雷鳴とどろき、風の烈しいある夜、悪天候をついて中将ははせ参じ、つねのように宿直をつとめるのであったが……。
 これは一編の物語である。歴史物語としての『増鏡』にとって必要な素材といえるかどうか。『大鏡』も説話を積みあげて人間を描いた。しかしその説話はかならずその人の政治的命運にかかわる対決の一瞬を核にしていた。政治的人間の、政治的力量を印象づける説話をたたみかけて人間を描き、それによって歴史を顕現した。
 『増鏡』の、朝廷・仙洞中心の、しかも儀式・行幸・宴遊をつらねる、王朝的文化顕彰の歴史には、これまた、歴史的にはほとんど意味のない、雲居の、世からは隠された男女の恋が織りこまれる。『大鏡』は女性を ─すくなくとも愛情に生きる女を描かなかった。歴史の波にゆらぎあえぎながらも、その瞬間、時間を忘却させる男女の恋の物語は、もとより『大鏡』の世界にはない。むしろ『源氏物語』の世界の思慕である。政治的人間の血みどろな対決の説話ではなく、これは情趣に生き愛憎におののく恋愛の物語である。『増鏡』には、歴史物語には異質と思われる男女の恋の物語が、時に、それこそ歴史物語の限界を越えてまで物語の文体をとって織り込まれているのである。
 『増鏡』としては、後深草院や亀山院関係の後宮の多彩多岐な実情に触発され、さらにそこに生きる女性たちの後日譚を大きく取りあげたことになるが、その意味では、後深草院と異母妹▲子内親王との情事から▲子の後日譚におよぶ物語と、亀山院の出家後の妃たちの生活から派生した、掲出の※子女王の悲しい恋の物語はまさに双璧といえる。(以下、略)
▲りっしんべんに「豈」
(注)全文はこちら。

 何考えてんだか、と私は思う。ちょっと調べれば、これは極めて奇妙な話であることに気づくはずなのに、両氏は完全に物語の世界に取り込まれてしまっているのである。

 どこが奇妙かというと、まず第一に登場人物の年齢である。「女王に同情し奉仕献身する若き中将」とあるが、この出来事が仮に浅原事件のあった1290年のことだとしても、1251年生まれの六条有房は既に40歳である。この時代の人たちは生理的に子供が作れるような年になったら即結婚であって、現代人のような「青春」の時代は存在しないし、病気などで早く死ぬ人も多いのだから、その精神年齢は、現代人と較べれば実年齢に少なくとも10歳プラスしたくらいの感じである。40歳なんて、「若き」どころか、「四十の賀」といって初老になったことを祝うような年齢なのである。

 奇妙なところの2番目は、※子女王と六条有房に関する他の史料と整合性がとれない点である。例えば、『鎌倉・室町人名事典』(新人物往来社)のような簡便な辞典を見ただけでも、※子女王については、次のような情報が得られる。
 
倫子女王 (1265〜?) 「倫」はママ
 後嵯峨天皇の皇子一品中務卿宗尊親王の王女。母は太政大臣近衛兼経女の宰子。文永2年(1265)9月21日、鎌倉で生まれるが、父宗尊親王の将軍廃立にともない京都へ赴く。はじめ亀山天皇の後宮に侍したが、のち後宇多天皇の後宮に入り、☆子内親王(崇明門院)の生母となる。(濱野)

 ついでに崇明門院も調べてみると、こう書いてある。

崇明門院そうめいもんいん.生没年不詳)
 鎌倉時代末の皇太子邦良親王妃。父は後宇多天皇。母は後嵯峨天皇皇子宗尊親王の女※子女王。元応元(1319)10月28日、内親王宣下。名は☆子。元亨3年(1323)12月、☆子内親王平産祈祷のことがあり、それまでに邦良親王妃となる。嘉暦元年(1326)3月20日、邦良親王が薨去し、出家。元徳3・元弘元年(1331)10月21日、光厳天皇より准三后の称を受け、同日崇明門院の女院号宣下。同時に所生の皇子康仁に親王宣下が行われ、ついで皇太子に立てられた。しかし正慶2・元弘3年(1333)、後醍醐天皇還京ののち、光厳天皇時代の位階官職をすべて削るに際し、女院号を廃して内親王に降され、康仁親王の皇太子もまた廃された。悲運の女院であった。(熱田)
☆示へんに「某」

 崇明門院が女院なのに生没年未詳というのは変であるが、これは記録が失われていて本当に分からないのである。ただ、邦良親王が1300年生まれなので、それがひとつの目安にはなる。

 他方、六条有房については、『日本古典文学大系.神皇正統記・増鏡』(岩波書店.1965)「補注」に次のように書かれている。

(前略)有房は、太政大臣通光の孫であるが、その父の通有は正四位右大将で没し、有房も正安二年(1300)五十歳の折には、正三位非参議に過ぎなかった。したがって、嘉元元年(1303)五十三歳で権中納言に任ぜられ、従二位に叙せられた時には、みずからも、この栄進を意外としたことであろう。ところが、有房は、その後も栄進を続け、延慶元年(1308)に権大納言になり、元応元年(1319)死の床に臨んで内大臣に任ぜられ、太政法皇(後宇多)は、その病床を見舞った。

 つまり六条有房は、出世の見込みが全然なくて五十歳で正三位非参議程度の人だったのに、後宇多院政下で異例のスピード昇進を続け、死の直前に内大臣に列したばかりか、上皇に見舞いに来てもらうという破格の待遇を受けた、後宇多院の寵臣中の寵臣なのである。

 この六条有房の経歴と、先の※子女王・崇明門院の経歴を較べてみると、六条有房が※子女王に密通して妊娠させ、女王を白川辺に隠して子供を産ませたという話と、女王が亀山院から後宇多院の後宮に移って1300年前後(?)に崇明門院を生んだ事実はどのようにつながるのか、誰でも不思議に思うのではなかろうか。

 全然出世の見込みがない四十男の六条有房が、16歳下の※子女王を勝手に白川辺に移して子供を産ませたところ、その※子が今度はいつの間にか後宇多院の後宮に入って崇明門院を生んだのだろうか。また後宇多院は、自分の父の後宮にいた女性を奪って子供まで作らせた17歳年上の臣下を、信じられないほどのスピードで昇進させ、最後はわざわざ病床を見舞うようなことをしたのだろうか。

 どう考えても不自然なことだらけなのであるが、山岸徳平・鈴木一雄氏の『鑑賞日本古典文学.大鏡・増鏡』、時枝誠記・木藤才蔵氏校注の『日本古典文学大系.神皇正統記・増鏡』、そして井上宗雄氏の『増鏡(中)全訳注』には、※子女王が亀山院の後宮から後宇多院の後宮に移った旨の記述がそもそもないので、狐につままれたような気分になってしまうのである。

 これらの碩学は本当に※子女王や崇明門院の経歴を調べていないのであろうか。あるいは知ってはいるが、自分たちが創り上げた『増鏡』のイメージを壊したくないので、そんな不都合な話には眼をふさいでいるのであろうか。後者だとしたら、それは学者としてあまりに不誠実な態度なのではなかろうか。

 私は、結論として、※子女王と六条有房の話は完全な捏造か、あるいは有房が女王に対してほのかな好意を寄せていた程度の事実をタネに、原型をとどめないほど面白くふくらませた作り話だと考えている。亀山院という最高の身分を有する人の、しかも出家という重要な宗教的行為についてすら、物語を面白くするためには改変をためらわないような人間が、※子女王や有房程度の人物を題材とした面白い話を捏造することに遠慮するはずはないからである。

 六条有房はいろいろな意味で重要な人物なので、兼好との関係など更に検討したいことが多いのであるが、それは有房が登場する『徒然草』第136段を素材として別途行いたい。

 なお、村上源氏に好意的な『増鏡』において、後深草院二条の従兄弟有房のみが辛辣な批判、凄まじい嘲笑の対象となっている理由については、後宇多院の庇護を背景にして、1304年、故久我通光の影供を主宰したような有房の態度が、久我家の本流を自負する人々にとっては、傍流の分際で生意気だという憤激を呼んだからではないか、と私は想像している。



補説(2)


 『和歌文学大事典』には、六条有房について、次のような記述がなされている。

有房(ありふさ)
 鎌倉期歌人。六条・千種(源)。通称は六条内大臣。建長三1251〜元応元1319七月二日、六九歳。後久我太政大臣通光孫、通有男。大覚寺統廷臣。持明院統優勢の永仁・正応の頃は官途不遇であり、正安元1299年四九歳で従三位非参議であった。後宇多院の院政期になると官位は累進し、乾元元1302年侍従、同二年正月権中納言、徳治三1308年正月権大納言・内弁と栄誉を受け、院崩御により散位となる。
 再び一〇年間の持明院統の代を経て、元応元1319年六月二八日従一位内大臣に至る。死の前日に出家、法名は有真。頓阿に後鳥羽院時代の有心・無心の歌話を語る(井蛙抄)など、和漢の才に優れ、伏見院に酷似する能筆であった(尊卑分脈・増鏡・正徹物語)。
 永仁三1295年九月成立の野守鏡の作者は、奥書から六条有房とする説に対して天台宗蓮海房の跡を受けた反為兼派の歌道に強い執着を持つ僧を想定する福田秀一説があり、未詳。嘉元百首・文保百首の作者。新後撰集以下に二四首入集。【参考文献】『中世和歌史の研究』福田秀一(昭47角川書店) (齋藤彰)

 「徳治三1308年正月権大納言・内弁と栄誉を受け、院崩御により散位となる。」とあるが、1308年に亡くなったのは後宇多院ではなく、後二条天皇である。後宇多院は1319年、六条有房の臨終に際して、わざわざ病床を見舞っており、有房より長生きしている。後宇多院崩御は1324年のことである。




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