更新11.12/18 up10.9/20
※てへんに侖

| 原文(『増鏡』(中)全訳注.p370) 中務の宮の御むすめは、もとよりいとあざやかならぬ御覚えなりしかば、世を捨てさせ給ふきはとても、とりわきたる御名残もなかるべし。禅林寺の上(うへ)の院の、人はなれたる方(かた)にすゑ聞えさせ給へれば、ことにふれて、いとさびしく心細き御有様なるを、おのづから言(こと)とひ聞ゆる人もなし。 源氏の末の君に、中将ばかりなる人、院に親しく仕うまつりなれて、家もやがてそのわたりにあれば、程近きままに、折々この宮の御宿直(とのゐ)など心にかけてつかまつるを、さぶらふ人々もいとありがたくもと思ふ。宮の御方は、此の比(ごろ)いみじき御さかりの程にて、まほにうつくしうおはしますを、あたらしう見奉りはやす人のなき事と思ひあへり。 七月ばかり風あららかに吹き、稲妻けしからずひらめきて、神なりさわぐ、常よりも恐ろしき夜、はかばかしき人もなければ、上下いとあわたたしく、心細う思(おぼ)しまどふ。 法皇は亀山殿に、過ぎにし比(ころ)よりおはしませば、近きあたりにだに、人のけはひも聞えず。哀れなるほどの御有様にて、墨をすりたらんやうなる空のけしきのうとましげなるを、ながめさせ給ふほどに、例の中将そぼち参りて、侍(さぶらひ)めくもの一、二人、弓など持たせて、「御宿直(とのゐ)つかまつらせ待るべし。なにがしも侍(さぶらひ)のかたに侍らん」と申すにぞ、いささか頼もしくて、人々慰め給ふ。 おはします母屋(もや)とあたれる廂(ひさし)の高欄(かうらん)におしかかりて、香染(かうぞ)めのなよよかなる狩衣(かりぎぬ)に、薄色の指貫(さしぬき)うちふくためるけしきにて、しめじめと物語しつつ、いたう更け行くまで、つくづくとさぶらひ給へば、御簾(みす)の中にも心づかひして、はかなきいらへなど聞ゆ。 暁がたになりぬれば、御几帳(みきちやう)ひき寄せて御とのごもりぬるかたはらに、いとなれ顔にそひふす男あり。夢かやと思(おぼ)して御覧じあげたれば、「年月(としつき)思ひ聞えつるさま、おほけなくあるまじき事と思ひかへさひ、ここら忍ぶるに余りぬる程、ただ少し、かくて胸をだにやすめ侍らんばかり」など、いみじげに聞ゆるは、はやうありつる中将なりけり。 いとうたて心憂(う)のわざや、と思(おぼ)すに、御涙もこぼれぬ。近き手あたり御もてなしのなよびかさなど、まして思ひしづむべうなければ、いといとほしうゆくりなき事とは思ひながら、残りなうなりぬ。身のうさの限りなうもあるかな、と前(さき)の世も恨めしう、いふかひなき事を思(おぼ)し続けて、よよと泣き給ふさま、いよいよらうたし。 見るとしもなき夢のただちをうちおどろかす鐘の声、鳥の音(ね)も人やりならぬ心づくしに、えいでやらず。
出(い)でがてにやすらひたる面影も、なにの御目とまるふしもなし。さばかりいみじかりし院の御目うつりに、こよなの契りの程や、と思し知らるるもつらければ、いらへもし給はず。あさましうも心うくも、さまざまに思(おぼ)し乱るるに、御心地(ここち)もまめやかにそこなはれぬべし。按察(あぜち)の君といふ人、語らひとられけるなめり。 忍びて御消息(せうそこ)しげう聞ゆるをも、いとうたて心づきなう思されながら、さてしも果てぬ習ひにや、いと又あはれなる事さへものし給ひけり。かかるにつけても、この世ひとつにはあらざりける御契りの程、浅からずおしはからる。中将もよとともにあくがれまさりて、夢の通ひ路(ぢ)、足も休めずなり行く。 この御気色(けしき)もやうやうしるき程になり給へば、そら恐ろしとて、忍びて御乳母(めのと)だつ人の家などいひなして、白川わたり、かごやかにをかしき所用意して、率(ゐ)て渡し奉りつつ、なほみづからは、さすがに世のつつましければ、忍びつつぞ御宿直(とのゐ)しける。そこにてこそ御子も生み給ひけれ。 この中将、才(ざえ)かしこくて、末の世には、ことの外にもてなされて、まづ一品(ぽん)して、しばしおはせし比(ころ)、御百首の歌に、
さてつひに内大臣まで昇られき。さて元応の比(ころ)かとよ、百首の歌奉りし中に、
と詠まれ侍りき。有房(ありふさ)と聞えしが、若くての世のことなるべし。 |
| 井上宗雄氏の現代語訳 |
私の立場からの補足 | ||
中務卿宗尊(なかつかさきょうむねたか)親王の御娘☆子(りんし)女王は、もともとからあまりめでたくもない(亀山院の)御寵愛であったので、院が御出家なさる時といっても、格別御名残惜しいということもないのであろう。禅林寺の中の、上のほうにある院で、人気(ひとけ)の乏しい方にお住ませ申されたので、(女王は)何かにつけてたいそう寂しく心細い御様子であるのに、たまさかにも訪問申す人もいない。 |
※てへんに侖 | ||
| 村上源氏の末流で、中将ほどの官にあった人(有房)が、院に親しくお仕え申しあげ慣れて、家もすぐその辺にあるので、距離も近いということで、折々この宮の御宿直(とのい)など心にかけてお仕えしているのを、女王のおつきの人々もたいへん奇特でありがたいことと思っている。宮の御方はこのころたいそうお盛りの御年配で、ととのって美しくいらっしゃるのを、(おひとりでおられるのには)惜しい御方だともてはやし申しあげる人もいないこと、と侍女たちは思いあっていた。 | |||
| 七月ごろ、風が荒々しく吹き、稲妻が激しくひらめいて、雷が鳴り騒ぐ、そんなふうにいつもより恐ろしい夜、頼もしくしっかりした人もいないので、上下の人々がだれも落着かず、心細く途方にくれられた。 |
|||
| 法皇は、先ごろから亀山殿にいらっしゃるので、近辺にさえ人のいる様子もなく物音も聞えない。あわれな感じのする御有様で、墨をすったような真っ黒な空の様子のなんとも気味の悪い感じがするのをながめられているとき、例の有房中将が雨に濡れて参上し、侍ふうの者一、二人に弓などを持たせて、「御宿直を勤めさせましょう。私も侍の詰所におりましょう」など申すので、すこし力づけられて侍女たちも心を慰められた。 | |||
| 宮のおられる母屋(もや)と接続している廂(ひさし)の間の高欄に寄りかかって、香染めのしなやかな狩衣に、薄紫色の指貫を、ふっくらとさせた様子で、しんみりと話をして、たいそう夜が更けて行くまで御前にじっと伺候しておられるので、御簾の中でも、宮は心づかいされてすこしは返事などされる。 暁がたになったので、御几帳を引寄せておやすみになると、その傍らに、たいそう慣れ慣れしいふうに添い寝する男がいる。夢かと思われて顔を上げて御覧になると、「長い年月の間、お慕い申しあげてきましたわが気持、身分不相応なこと、あってはならぬことと思い返し、長らく堪えてきましたが、忍びきれぬ心をほんのすこし、せめてこうして胸の中だけでも休めたいと思うばかりです」など熱意をこめて申しあげるのは、先ほどから宿直(とのい)していた中将有房であった。 |
![]() | ||
| ほんとうに情けなく、憂鬱なことだ、と思われるにつけ、御涙もこぼれてしまう。中将は、宮の近くで触れる肌ざわりや、宮の御ふるまいのなよなよしていることなど、いよいよせつない思いを抑えられるすべもなかったので、(宮に対しては)たいそうお気の毒で、突然のこととは感じながら、思いをとげてしまった。(宮は)わが身のつらさが限りないことよ、と前世の因縁も恨めしく、今さらいっても甲斐のないことを思い続けられて、よよと泣かれる様子はいちだんとかわいらしい。 見るというまもないほどの短い夢路を目覚まさせる鐘の昔や鳥の音も、(中将は)わが身から起こした悩みなので、思いきって出て行くこともできない。
|
![]() | ||
| 立ち出でかねてためらっている中将の姿も、宮の御目にとまるような何の風情もない。あれほどりっぱであった亀山院を見ていた御目移りとしては、情けない(中将との)契りのほどよ、と思い知られるのもつらいので、返歌もなさらない。情けなくもつらくもさまざまに思い乱れなさるにつけて、お気持もほんとうに悪くなってしまいそうである。(こんなことになったのは)按察の君という人が(有房に)口説き落されたからであろう。 |
|||
| こっそりとお手紙をしきりにさし上げるのをも、たいそうゆううつな、不快なことに思われながら、そのままでもすまないのが男女の仲の習慣であろうか、たいへんまた驚くようなこと、つまり妊娠までなさったのであった。こうなるにつけても、この世だけのことではない、前世からの御宿緑の深さが推量されるのである。中将も時がたつにつれて宮をいよいよ恋いこがれて、夢のような恋路に足も休めず頻繁に通ったのであった。 |
|||
| 御懐妊の御様子も、しだいに目立つほどになられたので、なんとなく恐ろしいというわけで、こっそり御乳母のような人の家などといいつくろって、白川辺の、目立たず、風情のある家を用意して、おつれ申しあげながら、やはり中将自身はなんといっても世間がはばかられるので、人目を忍んで御宿直をしたことであった。宮はそこで御子をも生みなされた。 |
|||
この中将は学才がすぐれて、晩年には格別に重用されて、まず従一位となってしばらくおられたころ、百首を詠まれた中に、
そして最後には内大臣にまで昇られた。さて元応のころであったか、百首歌を奉られた中に、
と詠まれた。(宮との事件はこの)有房と申した方が、若いときのことなのであろう。 |
![]()
| 補説(1) 山岸徳平・鈴木一雄氏は、この場面に関し、次のように書かれている。(『鑑賞日本古典文学.大鏡・増鏡』.角川書店.昭51.p251)
何考えてんだか、と私は思う。ちょっと調べれば、これは極めて奇妙な話であることに気づくはずなのに、両氏は完全に物語の世界に取り込まれてしまっているのである。 どこが奇妙かというと、まず第一に登場人物の年齢である。「女王に同情し奉仕献身する若き中将」とあるが、この出来事が仮に浅原事件のあった1290年のことだとしても、1251年生まれの六条有房は既に40歳である。この時代の人たちは生理的に子供が作れるような年になったら即結婚であって、現代人のような「青春」の時代は存在しないし、病気などで早く死ぬ人も多いのだから、その精神年齢は、現代人と較べれば実年齢に少なくとも10歳プラスしたくらいの感じである。40歳なんて、「若き」どころか、「四十の賀」といって初老になったことを祝うような年齢なのである。 奇妙なところの2番目は、※子女王と六条有房に関する他の史料と整合性がとれない点である。例えば、『鎌倉・室町人名事典』(新人物往来社)のような簡便な辞典を見ただけでも、※子女王については、次のような情報が得られる。
ついでに崇明門院も調べてみると、こう書いてある。
崇明門院が女院なのに生没年未詳というのは変であるが、これは記録が失われていて本当に分からないのである。ただ、邦良親王が1300年生まれなので、それがひとつの目安にはなる。 他方、六条有房については、『日本古典文学大系.神皇正統記・増鏡』(岩波書店.1965)「補注」に次のように書かれている。
つまり六条有房は、出世の見込みが全然なくて五十歳で正三位非参議程度の人だったのに、後宇多院政下で異例のスピード昇進を続け、死の直前に内大臣に列したばかりか、上皇に見舞いに来てもらうという破格の待遇を受けた、後宇多院の寵臣中の寵臣なのである。 この六条有房の経歴と、先の※子女王・崇明門院の経歴を較べてみると、六条有房が※子女王に密通して妊娠させ、女王を白川辺に隠して子供を産ませたという話と、女王が亀山院から後宇多院の後宮に移って1300年前後(?)に崇明門院を生んだ事実はどのようにつながるのか、誰でも不思議に思うのではなかろうか。 全然出世の見込みがない四十男の六条有房が、16歳下の※子女王を勝手に白川辺に移して子供を産ませたところ、その※子が今度はいつの間にか後宇多院の後宮に入って崇明門院を生んだのだろうか。また後宇多院は、自分の父の後宮にいた女性を奪って子供まで作らせた17歳年上の臣下を、信じられないほどのスピードで昇進させ、最後はわざわざ病床を見舞うようなことをしたのだろうか。 どう考えても不自然なことだらけなのであるが、山岸徳平・鈴木一雄氏の『鑑賞日本古典文学.大鏡・増鏡』、時枝誠記・木藤才蔵氏校注の『日本古典文学大系.神皇正統記・増鏡』、そして井上宗雄氏の『増鏡(中)全訳注』には、※子女王が亀山院の後宮から後宇多院の後宮に移った旨の記述がそもそもないので、狐につままれたような気分になってしまうのである。 これらの碩学は本当に※子女王や崇明門院の経歴を調べていないのであろうか。あるいは知ってはいるが、自分たちが創り上げた『増鏡』のイメージを壊したくないので、そんな不都合な話には眼をふさいでいるのであろうか。後者だとしたら、それは学者としてあまりに不誠実な態度なのではなかろうか。 私は、結論として、※子女王と六条有房の話は完全な捏造か、あるいは有房が女王に対してほのかな好意を寄せていた程度の事実をタネに、原型をとどめないほど面白くふくらませた作り話だと考えている。亀山院という最高の身分を有する人の、しかも出家という重要な宗教的行為についてすら、物語を面白くするためには改変をためらわないような人間が、※子女王や有房程度の人物を題材とした面白い話を捏造することに遠慮するはずはないからである。 六条有房はいろいろな意味で重要な人物なので、兼好との関係など更に検討したいことが多いのであるが、それは有房が登場する『徒然草』第136段を素材として別途行いたい。 なお、村上源氏に好意的な『増鏡』において、後深草院二条の従兄弟有房のみが辛辣な批判、凄まじい嘲笑の対象となっている理由については、後宇多院の庇護を背景にして、1304年、故久我通光の影供を主宰したような有房の態度が、久我家の本流を自負する人々にとっては、傍流の分際で生意気だという憤激を呼んだからではないか、と私は想像している。 |
| 補説(2) 『和歌文学大事典』には、六条有房について、次のような記述がなされている。
「徳治三1308年正月権大納言・内弁と栄誉を受け、院崩御により散位となる。」とあるが、1308年に亡くなったのは後宇多院ではなく、後二条天皇である。後宇多院は1319年、六条有房の臨終に際して、わざわざ病床を見舞っており、有房より長生きしている。後宇多院崩御は1324年のことである。 |