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 『増鏡』第十一 さしぐし 「浅原事件」




原文(『増鏡』(中)全訳注.p359)


 同じ三年三月四日五日の頃、紫宸殿の獅子・狛犬、中より割れたり。驚き思(おぼ)して御占(うら)あるに、「血流るべし」とかや申しければ、いかなる事のあるべきにか、と誰も誰も思し騒ぐに、その九日の夜、衛門の陣より恐しげなる武士(もののふ)三四人、馬に乗りながら九重(ここのへ)の中へはせ入りて、上(うへ)に昇り、女嬬(にょじゅ)が局(つぼね)の口に立ちて、「やや」といふ者を見上げたれば、丈(たけ)高く恐ろしげなる男の、赤地の錦の鎧直垂(よろひひたたれ)に、緋縅(ひをどし)の鐙着て、ただ赤鬼などのやうなる面(つら)つきにて「御門(みかど)はいづくに御寝(およ)るぞ」と問ふ。「夜の御殿(おとど)に」といらふれば、「いづくぞ」と又問ふ。「南殿より東(ひんがし)北のすみ」と教ふれば、南ざまへ歩みゆくままに、女嬬うちより参りて、権大納言典待殿 (ごんだいなごんのすけどの)・新内侍殿(しんないしどの)などに語る。

 上(うへ)は中宮の御方(かた)に渡らせ給ひければ、対(たい)の屋(や)へ忍びて逃げさせ給ひて、春日殿へ、女房のやうにて、いとあやしきさまをつくりて入らせ給ふ。内侍(ないし)、剣璽(けんじ)取りて出づ。女嬬は玄象(げんじやう)・鈴鹿(すずか)取りて逃げにけり。春宮をば中宮の御方(かた)の按察殿(あぜちどの)抱き参らせて、常盤井殿(ときはゐどの)へ徒歩(かち)にて逃ぐ。その程の心の中どもいはん方なし。

 この男をば浅原のなにがしとかいひけり。からくして夜の御殿(おとど)へたづね参りたれども、大方(おほかた)人もなし。中宮の御方の侍(さぶらひ)の長(をさ)、景政(かげまさ)といふ者、名のり参りていみじくたたかひ防ぎければ、きずかうぶりなどしてひしめく。かかる程に二条京極の篝屋(かがりや)、備後の守(かみ)とかや、五十余騎にて馳せ参りてときをつくるに、合はする声わづかに聞えければ、心やすくて内に参る。

 御殿(との)どもの格子(かうし)ひきかなぐりて乱れ入(い)るに、かなはじと思ひて、夜の御殿(おとど)の御しとねの上にて浅原自害しぬ。太郎なりける男(をのこ)は南殿の御帳(みちやう)の中にて自害しぬ。弟(おとと)の八郎といひて十九になりけるは大床子(だいしやうじ)のあしの下にふして、寄る者の足を斬り斬りしけれども、さすが、あまたしてからめんとすれば、かなはで、自害すとても、腸(はらわた)をばみなくり出(いだ)して、手にぞ持たりける。そのままながら、いづれをも六波羅へ舁(か)き続けて出しけり。

 ほのぼのと明くるほどに、内(うち)・春宮(とうぐう)、御車にて忍びて帰らせ給ひて、昼つ方(かた)ぞ又さらに春日殿へなる。大方(おほかた)、雲の上けがれぬれば、いかがにて、中宮の昼(ひ)の御座(おまし)へ腰輿(えうよ)寄せて兵衛(ひやうゑ)の陣(ぢん)より出でさせ給ふ。春宮は糸毛(いとげ)の御車にて、また常磐井殿へ渡らせ給ふ。中宮も春日殿へ行啓なる。世の中ゆすりさわぐさま、言の葉もなし。

 この事、次第に六波羅にて尋ね沙汰する程に、三条宰相中将実盛(さねもり)も召しとられぬ。三条の家に伝はりて鯰尾(なまづを)とかやいふ刀のありけるを、この中将、日頃持たれたりけるにて、かの浅原自害したるなどいふ事どもいで来て、中の院(亀山)もしろしめしたるなどいふ聞えありて、心うくいみじきやうにいひあつかふ、いとあさまし。

 中宮の御せうと権大夫公衡、一の院の御まへにて、「この事はなほ禅林寺殿(ぜんりんじどの)の御心あはせたるなるべし。後嵯峨院の御処分(そうぶん)を引きたがへ、東(あづま)かく当代(たうだい)をも据ゑ奉り、世をしろしめさする事を、心よからず思(おぼ)すによりて、世をかたぶけ給はんの御本意なり。さてなだらかにもおはしまさば、まさる事や出(い)でまうでこん。院をまづ六波羅にうつし奉らるべきにこそ」など、かの承久の例(ためし)も引き出でつべく申し給へば、いといとほしうあさましと思して、「いかでか、さまではあらん。実ならぬ事をも人はよくいひなす物なり。故院のなき御影(かげ)にも、思さん事こそいみじけれ」と涙ぐみてのたまふを、心弱くおはしますかなと見奉り給ひて、なほ内(うち)よりの仰せなど、きびしき事ども聞ゆれば、中院も新院も思(おぼ)し驚く。いとあわたたしきやうになりぬれば、いかがはせんにて、しろしめさぬよし誓ひたる 御消息(せうそこ)など東(あづま)へ遣されて後(のち)ぞ、ことしづまりにけり。



井上宗雄氏による現代語訳

私の立場からの補足

 同正応三年(1290)三月四日か五日のころ紫宸殿(ししんでん)の獅子・狛犬が中から割れた。驚き心配されて御占(みうら)をされたところ、「血の流れる事件がきっとあろう」とか言上したので、どんなことがあるのだろうとだれもが心配されていると、その月の九日の夜、右衛門(うえもん)の陣(宜秋門)から恐ろしそうな武士三、四人が馬に乗ったまま宮中に馳せ入って、御殿に昇って、女嬬(にょじゅ)の部屋の前に立って、「おい」というので見上げると、背の高い恐ろしそうな男が、赤地の錦の鎧直垂(よろいひたたれ)に緋縅(ひおどし)の鎧を着て、ただ赤鬼などのような顔つきで、「天皇はどこに寝ておられるか」と問う。「夜の御殿で」と答えると「それはどこだ」とまた聞く。「紫宸殿から東北のすみに当ります」と(だまして)教えると、南のほうに歩いて行く間に、女儒は内のほうから参って、権大納言典侍殿や新内侍殿などにこのことを話す。
 
浅原事件において、伏見天皇の危機を救ったのは女嬬のとっさの機転であり、また女房たちの的確な判断と冷静な行動力である。この場面の描き方は一貫して女性の視点を感じさせる。『増鏡』の作者の情報源が宮廷女性のネットワークにあることを伺せる部分は多いが、ここもそのひとつである。ただ、「弟の八郎といひて十九になりけるは大床子のあしの下にふして、寄る者の足を斬り斬りしけれども、さすが、あまたしてからめんとすれば、かなはで、自害すとても、腸をばみなくり出して、手にぞ持たりける。」などというすさまじい描写が、『増鏡』作者を女性と想像することすら妨げる一因になっていることも確かである。
 天皇は中宮の御方(かた)においでだったので、対の屋へ忍んでお逃げになって、(母の御所)春日殿ヘ、女房の様子でまことにそまつなお姿をこしらえて、いらっしゃる。内侍が剣璽(三種の神器)を捧持して出る。女嬬は玄象・鈴鹿(管絃の名器)を持って逃げた。東宮を、中宮付きの女房按察殿(あぜちどの)が抱き申して、常磐井殿へ徒歩で逃げる。その折の人々の心中は、なんともいいようがないほど恐ろしい思いである。

伏見天皇(1265〜1317.53歳)は、1287年10月に23歳で践祚、このとき26歳。中宮は西園寺実兼の娘※子(永福門院.1271〜1342.72歳)で、1288年6月入内、同年8月立后宣下。このとき20歳。なお『増鏡』に描かれた入内のときの様子はこちら。(後深草院二条が「三条」の名で登場する場面。)
※金へんに「章」
 この武士は浅原某とかいった。ようやく夜の御殿(おとど)へ尋ねあてて推参したが、まったく人もいない。中宮付きの武士の長、景政(かげまさ)という者が、名乗りをあげて参って激しく防戦したので、手傷などを受けてざわめいて戦った。こうしているうちに、二条京極の篝屋(かがりや)に詰めていた備後守(びんごのかみ)とかいう者が、五十余騎で馳せつけ参上して鬨(とき)の声をあげると、これに応ずる敵の鬨の声がわずかに聞えたので、(相手は小人数だと)安心して内裏に参入した。

「この男をば浅原のなにがしとかいひけり」という表現は『増鏡』の作者が浅原為頼の名前を知らないのではなくて、愚か者の名前を出すのも汚らわしい、という徹底した軽蔑の気持ちの現れであろう。浅原為頼は五年前の霜月騒動で安達泰盛派として多数が戦死した甲斐源氏小笠原氏の一族で、為頼もおそらくこの時に所領を没収され、以後諸国を流浪していたものと考えられている。
  御殿などの格子戸を投げ払って乱入すると、とてもかなうまいと思って、夜の御殿(おとど)の天皇の御敷き物の上で浅原は自害した。長男は紫宸殿の御帳台(みちょうだい)の中で自害した。弟の八郎といって十九歳になった男は、大床子(という机)の脚の下に伏して、寄る者の足をつぎつぎに斬っていたが、たくさんの者でからめ捕ろうとしたので、さすがに対抗できかねて、自害するといって、腸をみなつかみ出して手に持ったのであった。自害のままの姿で三人とも六波羅の役所に、担ぎ続けて突き出した。

 ほのぼのと夜のあけるころに、天皇・東宮は御車でそっとお帰りになって、昼ごろ、またあらためて春日殿へお越しになった。だいたい、皇居が(血で)汚れたので、このままではどうか(よくないだろう)ということで、中宮の昼(ひ)の御座(おまし)へ腰輿(ようよ)を寄せて右兵衛(うひょうえ)の陣(陰明門)から出御された。東宮は糸毛(いとげ)の御車で、また常磐井殿(ときわいどの)へ行啓される。中宮も春日殿へ行啓される。世の中が動揺して騒ぐ様子は言葉で表わせそうにない。

東宮は胤仁親王(後伏見天皇.1288〜1336.49歳)で、わずか2歳で皇太子となり、このときは3歳。生母は五辻経子だが、出自が劣るので中宮が准母となり、そのもとで養育されていた。(より詳しくはこちら
 この事件について、だんだんと六波羅で探索するうちに、三条宰相中将実盛も召しとられた。三条家に伝わっている鯰尾(なまずお)とかいう刀があったが、この中将が日ごろ持たれて、それで浅原が自害したなどという事実が出てきて、亀山院も御関与だなどといううわさもあり、憂慮すべき大事件のように取沙決する、ほんとうに驚いたことだ。

三条実盛(?〜1304)は1253年叙爵、1285年蔵人頭、翌1286年従三位に進み参議に任ぜられるも、翌年正月に辞職。浅原事件ではいったんは逮捕されたが、結局追及を逃れ、以後も散位ではあったが1304年に死ぬまでその地位を維持している。
 中宮の御兄、権大夫(ごんのだいぶ)公衡は、後深草院の御前で、「この事件は、やはり亀山院が御同心なのでありましょう。後嵯峨院の御遺詔を違えて、関東から、このように今上(伏見)天皇を皇位に即(つ)け申しあげ、天下をお治めなさることを、(亀山院が)不快に思われることで、今上の御代を覆しなさろうという御本心であります。そこでこの事件を穏便になさったら、これ以上の事件が起こってまいりましょう。亀山院をまず六波羅に移し申すのがよろしいでしょう」など、あの承久の(上皇遠島の)例も引き出しそうに申されるので後深草院は、まことに(亀山院を)お気の毒な、あまりのことと思われて、「どうしてそれほどまでのことはあろうか。事実でないことをも世人はよく作り出していうものだ。故後嵯峨院の御霊にも、(亀山院を処置しては)どんなふうに思われるか、恐れ多いことだ」と涙ぐんでおっしゃるのを、まあお気の弱いことだとお見あげ申されて、やはり天皇からの仰せなど、厳重なことなども世間に聞えるので、亀山院も後宇多院も驚き憂慮される。ほんとうに危急が迫ってくるような情勢になったので、どうにもしようがない、というので、この事件には関知しないという旨を誓った御親書などを幕府へ遣わされて後、ようやく落着したのであった。

西園寺公衡(1264〜1315.52歳)はこのとき権大納言・中宮大夫で、年齢は27歳。亀山院への断固たる処分を強硬に主張した公衡が、後に亀山院との関係を修復したばかりか、亀山院から恒明親王の将来を託され、後宇多院と厳しく対立するまでに至った動機と経緯は、この時機の政治的変動の秘密を解くひとつの鍵となるのではないかと思われる。従来は持明院統・大覚寺統の対立ということが単純化され、過度に強調されているきらいがあるが、もっと世代間対立、即ち亀山院と後宇多院、後深草院と伏見院、そして西園寺実兼と公衡との間の対立の側面を詳細に追っていかなければならないと私は考える。

伏見天皇は事件の黒幕を亀山院と確信していた。それは伏見天皇が事件の2年後に見た夢に明らかであるが、この夢についてはこちら(今谷明氏「正応の『大逆』事件 変後の処分と後深草法皇」)。
 現実に殺される一歩手前まで行った伏見天皇と、亀山院への情愛を捨てられない後深草院との間のわだかまりは、後々まで相当に響いたのではないかと思われる。





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