更新12.2/20 up11.11/18
| 原文(『増鏡』(中)全訳注.p403) 程なく明け暮れて永仁も六年になりぬ。七月廿二日春宮に位ゆづりており給ひぬ。霜月になりて、五節の頃、去年(こぞ)を思(おぼ)し出でて、その折に関白にておはせし兼忠の大臣(おとど)に櫛つかはすとて、新院、
今の御門(みかど)は十一になり給ふ。御諱胤仁(たねひと)と聞ゆ。あてになまめかしうおはします。中宮の御腹には、大方(おほかた)、宮物し給はねば、この御門をぞ御子にし奉らせ給ひける。譲位の後は宮もおりさせ給ひて、永福門院と聞ゆめり。 皇后宮もこの頃は遊義門院と申す。法皇の御傍らにおはしましつるを、中院、いかなるたよりにか、ほのかに見奉らせ給ひて、いと忍びがたく思(おぼ)されければ、とかくたばかりて、ぬすみ奉らせ給ひて、冷泉万里小路殿におはします。またなく思ひ聞えさせ給へる事かぎりなし。 正安二年正月三日御門(みかど)御元服し給ふ。今年十三にならせ給へば、御行末はるかなる程なり。 |
| 井上宗雄氏による現代語訳 |
私の立場からの補足 |
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いつのまに年が明け暮れして、永仁も六年(1298)になった。七月二十二日天皇は東宮に位を譲って退位された。十一月になって、五節(ごせち)のころ、去年を思い出されて、その時に関白でいられた鷹司兼忠公に櫛を遣わしになるついでに、伏見院、
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| 堀河具守公の娘の御腹に、前の新院後宇多の若宮が降誕されたが、その若宮が六月二十七日御元服して八月十日東宮に立たれた。御諱(いみな)は邦治(くにはる)と申しあげた。この東宮も(かつて伏見院が東宮であった折、後宇多天皇より年が上であったのと同じく)天皇よりお年が三つ上でいらっしゃる。 今上(きんじょう)後伏見は十一になられる。御諱は胤仁(たねひと)と申し上げる。上品で優雅でいられる。中宮(※子)の御腹にはだいたい、皇子がおありにならなかったので、この後伏見天皇を御子になし申しあげなさった。伏見天皇譲位の後は、中宮も后位をお下りになって、永福門院と申すようだ。 |
※金へんに「章」 |
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| 皇后宮(☆子)もこのころは遊義門院と申しあげる。後深草法皇のおそばに(姫君として)おられたのを、後宇多院が、どういう機会にか、ほのかに見申されて、(恋しさに)たいそうこらえ難くおぼし召されたので、かれこれ謀り、盗み申しなさって、冷泉万里小路殿にいらっしゃる。たぐいなく御寵愛なさること、このうえない。
正安二年(1300)正月三日後伏見天皇は元服なさる。今年十三におなりなので、前途はるかなお年ごろである。 |
『増鏡』には、後宇多院(1267〜1324.58歳)が在位中の1285年の時点で、既に遊義門院を「いかなるたよりにか、ほのかに見奉らせ給ひて」いたことが意味深長な表現で記述されている。(その場面はこちら。)そして後宇多院が後深草院の御所にいた遊義門院を「とかくたばかりて、ぬすみ奉らせ給ひ」たのは1294年6月であり、後伏見天皇践祚、邦治親王立坊と並行して、後深草院・亀山院の間で4年前のこの事件の円満解決が図られている。(その具体的経緯についてはこちら。(宮内三二郎氏『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』) |