更新11.12/22 up11.11/18
| 原文(『増鏡』(中)全訳注.p406) 又の年睦月(むつき)の頃、内侍所(ないしどころ)の御しめのおり給へるは、いかなるべき事にか、など忍びてささめく程こそあれ、東(あづま)より御使のぼるとて、世の中騒ぎて、禅林寺殿見奉り給ふ世にとや、正月廿日春宮位につかせ給ひぬ。 おりゐの御門(みかど)十四にて太上天皇の尊号あり。いときびはにいたはしき御事なるべし。わづかに三年(みとせ)にておりさせ給へれば、何事のはえもなし。此の春は春日社に御幸などあるべし、とて、世の中まだきより面白き事にいひあへりつるも、かいしめりていとさうざうし。 さてこの君を新院と申せば、父の院をば中の院と聞ゆ。御門の御父は一の院と申す。法皇もこの頃は一つにおはしますなめり。一の院、世の政事(まつりごと)聞(きこ)し召せば、天下の人、またおしかへし、一方になびきたる程も、さも目の前にうつろひかはる世の中かな、とあぢきなし。 土御門(つちみかど)の前(さき)の内の大臣(おとど)定実、六月に太政大臣になり給ふ。いとめでたし。故大納言入道顕定(あきさだ)の、本意なかりし御面(おもて)おこし給へる、いとゆゆし。院の御おぼえの人なる上、才(ざえ)もかしこくおはすれば、世に用ひられ給へり。御子の雅房・中納言親定とて、いづれも才ある人にておはしき。 持明院殿には、世の中すさまじく思(おぼ)されて、伏見殿に籠(こも)りおはしますべくのたまへれど、二の御子、坊に定まり給へば、又めでたくて、なだらかにておはしますべし。さきに聞えつる御母女院の御はらからの姫君、顕親門院と聞えし御腹なり。八月十五日まづ親王になし奉らせ給ひて、同廿四日に春宮に立ち給ひぬ。 |
| 井上宗雄氏による現代語訳 |
私の立場からの補足 |
| 翌正安三年(1301)正月ごろ、内侍所(ないしどころ)の御注連縄(しめなわ)が下に落ちたのは、どういう前兆であろうかなどと、内々うわさをしているとまもなく、関東からお使いが上洛するというので、世間が騒然とし、亀山院が天下の政治をおとりになる世に、というのであろうか、正月二十一日に東宮邦治親王が皇位につかれた。
退位された後伏見天皇は十四歳で、太上天皇(上皇)の尊号がある。たいへんお若くていたわしい御事であろう。わずか三年で譲位されたので、何という花々しいこともない。この春は春日社に行幸がある予定だということで、世間では早くから楽しいこととして話しあっていたのも、ひっそりと(人心も)しめっぽくなって、まことに寂しい。 さてこの後伏見院を新院と申すので、父の伏見院を中の院と申しあげる。天皇の御父君後宇多院は一の院と申す。亀山法皇もこのごろは後宇多院と同じ御所におられるようだ。 |
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| 後宇多院は天下の政治をおとりになるので、世の人々は今までと反対に、亀山院がたにすっかりなびき従う有様も、こんなにも目前に移り変る世の中であることよ、と情けないことに思われる。 土御門(つちみかど)前内大臣定実公は六月に太政大臣になられる。たいへんめでたい。故父大納言顕定が、望みかなわなかった面目をたてられたのは、ほんとうにたいしたことだ。亀山院の御信任の厚い人であるうえ、学才もすぐれておられるので、世間では重んぜられていた。御子は雅房・中納言親定といって、みな学才のある人でいらっしゃった。 |
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| 持明院殿では、世をおもしろくなく思われて、伏見殿に閉じこもってしまわれるようにおっしゃったが、伏見院の第二皇子(富仁親王)が皇太子にお決まりになったので、まためでたいことというので、心平らかにいられることだろう。この宮は前に申しあげた伏見院の御母玄輝門院の御妹で、顕親門院と申した方の御腹である。八月十五日まず親王になし申されて、同二十四日に東宮に立たれた。
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