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| 原文(『増鏡』(中)全訳注.p410) かくて新帝は十七になり給へば、いとさかりにうつくしう、御心ばへもあてにけだかう、すみたるさまして、しめやかにおはします。三月廿四日御即位、この行幸の時、花山院三位中将家定(いへさだ)、御剣の役をつとめ給ふとて、さかさまに内侍(ないし)に渡されけるを、今出川(いまでがは)の大臣(おとど)、御覧じとがめて出仕とどめらるべきよし申されしかど、鷹司の大殿、「なかなか沙汰がましくてあしかりなん。ただ音なくてこそ」と申しとどめ給へりしこそ、なさけ深く侍りしか。後に思へば、げにあさましきことのしるしにや侍りけん。 十月廿八日御禊(ごけい)、このたびの女御代(にようごだい)にも堀河の大臣の姫君いで給へり。今の上(うへ)も源氏の御腹にて物し給ふ。いとめづらしくやむごとなし。されど、うけばりたるさまにはおはせぬぞ、心もとなかめる。 又の年は乾元(けんげん)元年、六月十二日亀山殿へ行幸あり。法皇いとめづらしくうつくしと見奉らせ給ふ。あかつき帰らせ給ひぬる後、法皇より内に聞えさせ給ふ。 したはるる名残(なごり)にたへず月を見れば雲の上にぞ影はなりぬる 御返し、内(うち)の上(うへ)、 君はよし千年(ちとせ)のよはひたもてればあひみん事のかずもしられず 一院は忠継(ただつぐ)の宰相の女(むすめ)の中納言典侍殿(すけどの)といふ腹にも、男女みこたちあまた物し給ふ中に、すぐれ給へる内親王を、いとかなしきものにかしづき聞えさせ給ふ。 この御代(みよ)にもまた為世の大納言承りて撰集あり。新後撰集(しんごせんしふ)と聞ゆ。嘉元元年披露(ひろう)せらる。 |
| 井上宗雄氏による現代語訳 |
私の立場からの補足 |
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| こうして新帝(後二条)は十七歳になられたので、たいへんお年盛りで美しく、御心がらも高貴上品で、物静かな様子で、しっとりと落着いておられる。三月二十四日御即位、このため(太政官庁への)行幸のとき、花山院三位中将家定が御剣を持つ役をつとめなさるに当たって、御剣を逆にして内侍(ないし)に渡されたのを、今出川の公衡(きんひら)大臣が見とがめられて、宮中への出仕を差しとめられるべきだという旨を申されたが、鷹司の大殿基忠(もとただ)公が、「それではかえって事が表だってよくないであろう。ただそのままにしておいたほうがよい」と申しとどめられたのは、情味の深いことであった。後に思うとまことに(帝の在位期が短いというような)情けないことの前兆であったのだろうか。
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| 十月二十八日御禊(ごけい)、このたびの女御代にも堀河の具守大臣の姫君がお出になった。今上(後二条)天皇も源氏の御方の御腹でいられる。(具守公女が今上の母で、その妹が女御代になるのは)たいへん珍しく尊いことである。しかし(摂家や西園寺家のように)盛んな勢いではおありにならぬのは、なんとも頼りないようだ。
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翌年は乾元元年(1302)六月十六日(後二条天皇)は亀山殿へ行幸された。亀山法皇はまことにりっぱで美しいと見申しあげなさる。明け方、天皇が帰られた後、法皇から天皇へ申しなさる。
お返し、天皇、
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| 後宇多院は、忠継の参議の娘の中納言典侍(すけ)という方の腹にも皇子や皇女がたくさんおられる中に、すぐれていらっしゃる(弉子)内親王を、たいそうかわいい方として養育申しなさる。
この後二条天皇の御代(みよ)にも、また為世の大納言が院宣を受けて勅撰集の撰進があった。『新後撰集』ということである。嘉元元年(1303)公表された。 |
『増鏡』巻13「秋のみ山」には、第二次後宇多院政下での為世の権勢盛んな様子を描いたあとで、「為藤の中納言、父よりは少し思ふ所加へたるぬしにて」(子息の為藤中納言は、父よりはいささか考えの深い人で)という、為世をバカにしきった寸評が加えられているが、その部分は二条派の関係者が読んだとしたら極めて不愉快な箇所である。 |