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 『増鏡』巻十一「さしぐし」 新将軍久明親王の下向






原文(『増鏡』(中)全訳注.p403)


 さて、このかはりには、一院(いちのゐん)の御子、三条内大臣公親(きんちか)の御女(むすめ)、御匣笥殿(みくしげどの)とてさぶらひ給ひし御腹なり。当代の御はらからにて、いま少しよせ重く、やんごとなき御有様なれば、受禅の心地ぞする。もとの将軍おはせし宮をば造り改めて、いみじうみがきなす。

 つはもののすぐれたる七人、御迎へに上る中に、飯沼(いひぬま)の判官(はうぐわん)といふ者、さきの将軍のぼり給ひし道もまがまがしければ、あとをも越えじとて、足柄山(あしがらやま)をよぎてのぼるなどぞ、あまりなる事にや。

 みこは十月三日御元服し給ふ。久明(ひさあきら)親王と聞ゆ。同じ十日院よりやがて六波羅の北、さきざきも宮のわたり給ひし所へおはして、それより東に赴かせ給ふ。

 同じ廿五日鎌倉へ着かせ給ふにも、御関迎へとて、ゆゆしき武士どもうちつれて参る。宮は菊のとれんじの御輿に御簾(みす)あけて、御覧じならはぬえびすどもの、うち囲み奉れる、頼もしく見給ふ。しのぶを乱れ織りたる萌黄(もよぎ)の御狩衣(かりぎぬ)・紅(くれなゐ)の御衣(ぞ)、濃き紫の指貫(さしぬき)奉り、いと細やかになまめかし。

 飯沼の判官、とくさの狩衣、青毛の馬に金(き)かなものの鞍(くら)置きて、随兵(ずいひやう)いかめしく召し具(ぐ)して、御輿のきはにうちたるも、都にたとへば、行幸にしかるべき大臣などのつかまつり給へるによそへぬべし。

 三日が程は※飯(わうばん)といふ事、又馬御覧、何くれといかめしき事ども、鎌倉うちの経営(けいめい)なり。宮の中(うち)の飾り、御調度(てうど)などは更にもいはず、帝釈(たいしやく)の宮殿もかくやと七宝(しつぽう)を集めて磨きたる様、目もかかやく心地(ここち)す。いとあらまほしき御有様なるべし。関の東を都の外とておとしむべくもあらざりけり。都におはしますなま宮たちの、より所なくただよはしげなるには、こよなくまさりて、めでたくにぎははしく見えたり。

 時宗朝臣(あそん)といひしも、また頭(かしら)おろして、法光寺の入道とて、いとたふとく行ひて、貞時といふ太郎、相模守(さがみのかみ)にぞ、よろづいひつけける。上(のぼ)り給ひにし前(さきの)大将殿は嵯峨のほとりに御髪(みぐし)おろし、いとかすかにさびしくておはす。

※木へんに「宛」



井上宗雄氏による現代語訳


私の立場からの補足


 さて、この惟康親王の代りは、後深草院の皇子(久明親王)で、(この方は)三条内大臣公親の御娘で、御匣殿(みくしげどの)といって院にお仕えしておられた方の御腹である。今上(伏見)の御兄弟で、(惟康よりは)いまいちだんと御うしろだてが重く、尊い御様子であるから、まるで(将軍の就任は)皇位継承のような(厳重な)気持がする。 もとの将軍のいらっしゃった御殿を改造して美々しく磨き上げる。

 武士のすぐれた者七人がお迎えに上る中に、飯沼の判官という者が、前将軍のお上りになった道も不吉だからその跡は越えまい、というので、足柄山を避けて上洛したなどというのは、あまりなことではあるまいか。皇子は、十月三日御元服される。久明親王と申し上げた。同じ十月十日後深草院の御所から、そのまま六波羅の北の館、前にも将軍の宮のおいでになった所へいらっしゃって、そこから関東に赴かれたのであった。

惟康親王(第7代将軍.1264〜1326.63歳)についてはこちら(瀬野精一郎氏「第七代惟康親王」)。
三条公親(1222〜92.71歳)は1255年、土御門顕定(1215〜83.69歳)と右大将を争い、敗れた顕定は突如出家して高野山に籠もった。『増鏡』巻6「おりゐる雲」に描かれたこの話には奇妙なところがある。(→こちら。)
久明親王(1276〜1328.53歳)と当時の政治情勢について、詳しくはこちら。(福田豊彦氏「第八代久明親王」)
この久明親王東下の場面は『とはずがたり』を「引用」していることが明らかであるが、奇妙なことに、『とはずがたり』の当該場面によれば飯沼助宗が通った道は足柄山であるのに、『増鏡』によれば足柄山を避けて箱根路を利用したことになる。その他にも『とはずがたり』と『増鏡』の記述には細かな違いがあるが、これらの点は後述する。
久明親王が鎌倉に下ったのは1289年10月で、まだ14歳。
飯沼判官の描き方は、一般的に武士に極めて冷たい『増鏡』の中では奇妙に好意的である。これが、例えば足利氏のように『増鏡』の書かれた時代に権力を持っていた人の祖先の話だったら、まだ何とか理解できるかもしれないが、飯沼判官は一時的に権勢を誇っただけで、すぐに歴史の舞台から消え去ってしまった人であるので、どうも変である。私は、『増鏡』が飯沼判官をここまで好意的に描いているのは、『増鏡』の作者と飯沼判官との間に個人的な親交があったからだと考える。
 同二十五日鎌倉へ着かれるについても、(足柄の関まで)お関迎えといって、りっぱな武士たちが連れだって参った。親王は菊の外櫺子(とれんじ)の御輿に(乗られ)、御簾を上げて、御見慣れにならぬ関東武士たちが御輿を囲み申しあげているのを、頼もしく御覧になる。忍草(しのぶぐさ)の模様を乱れ模様に織った萌黄(もえぎ)色の御狩衣(かりぎぬ)に紅の御衣(おんぞ)、濃い紫の指貫(さしぬき)を着用されて、たいへんほっそりとして優雅である。

 飯沼の判官はとくさ色の狩衣で青毛の馬に金覆輪(きんぷくりん)の鞍を置いて、随兵を堂々たるふうで連れて、御輿のそばに騎馬でお供しているのも、都でたとえてみれば、行幸の場合に、ふさわしい大臣などが供奉されているのによそえられよう。

  三日間は盛大な祝宴ということ、また馬御覧、そのほかなにやかやとおごそかなことなど、鎌倉じゅう、総がかりのおもてなしである。御所の中の装飾や御手まわりの道具などはいうまでもなく、帝釈天の宮殿もこうであろうかと、(珍貴な)七宝を集めて磨き立てた様子は目もまばゆい心地がする。ほんとうに理想的な御有様であろう。関東のことを都の外だといって馬鹿にすべきではないのである。都にいらっしゃる勢力もない宮様たちで、(外戚などの)頼み所もなく世に標っておられるようなのに比べると、格段にまさって、結構に、裕福にみえたのであった。

 時宗朝臣といった方も、やはり入道して法光寺の入道といって、たいへん仏道を尊く行ないすまして世俗のことにも関与せず、貞時という長男の相模守に万事をいいつけて行なわせていた。上京された前大将殿(惟康親王)は嵯峨の辺で剃髪され、たいそうひっそりと寂しく暮していられる。
鎌倉幕府において、おう飯がいかに重要な意義を持っていたかについてはこちら。(村井章介氏「執権政治の変質」)




この「時宗朝臣といひしも、また頭おろして、法光寺の入道とて、いとたふとく行ひて、貞時といふ太郎、相模守にぞ、よろづいひつけける。」という記述は極めて奇妙である。北条時宗(1251〜84.34歳)は久明親王東下の5年半も前の1284年4月4日に亡くなっており、あまりにひどい誤りなのである。この点も後述する。



『とはずがたり』と『増鏡』の記述の異同について


 この久明親王東下の場面に関しては『とはずがたり』と『増鏡』の間でいくつかの異同が見られる。その主たるものを下の表に書き出してみたが、『増鏡』が資料として用いたはずの『とはずがたり』より『増鏡』の記述の方が詳細な部分があるので、井上宗雄氏のように、「(『とはずがたり』以外の)もう一、二の資料を併せ用いて、作者なりに適当と思ったものを利用して描きあげたものであろう。」と考えるのが普通の学者の立場なのだと思う。

 私は『とはずがたり』と『増鏡』の作者を同一人物だと考えているが、私の立場からは、こうした記述の異同はカムフラージュであり、同時に作者の遊び心の現れということになる。つまり、前栽合の場面で、橋を盗んだ人を『とはずがたり』では四条隆顕、『増鏡』では平経親として、二つの本の関係を読者に考えさせようとしたのと同様に、ここでも意図的に、飯沼判官が利用した道を『とはずがたり』と『増鏡』で別々にして、二つの本の関係について考えてみてね、と言っているのではないかと思われる。

 ただ、この場面の最後に、久明親王東下の時点、即ち1289年10月に、まだ北条時宗が生きているという、とんでもない「誤り」があるので、どうもこの「誤り」との関連が気になる。

 そこで、改めてこの久明親王東下の場面の位置づけを考えてみると、ここは『増鏡』の中でも、時間の関係が極めておかしい部分の一部であることに気付く。即ち、巻11「さしぐし」は正応元年(1288)の伏見天皇即位式から始まって、「年返て、正応も二年になりぬ。」と1289年のことを少し書いてから、「同じ(正応)三年三月」の浅原事件になって、ここまでは順当なのであるが、この次に「九月の初めつかた、中の院(亀山院)は御髪おろさせ給ふ。」と亀山院の落飾の話になってしまうのである。

 亀山院の落飾は、史実としては正応2年(1289)9月の出来事なのであるが、『増鏡』では正応3年(1290)のこととしか読めない配列になっている。そしてこの次に宗尊親王の娘、☆子女王(☆手へんに侖)と六条有房の長大な不倫話と新陽明門院の不行跡の話が連続した後、鎌倉の話になって、惟康親王に代わって久明親王が将軍になる話が出てくるから、正応2年(1289)のことを言っているのだろうなと思って読み進めると、「かくて年かはりぬれば、またの年二月(きさらぎ)のころ、一院(後深草)御髪おろす。年月の御本意なれど、たゆたい過ぐし給ひけるに、禅林寺殿、去年の秋、思し立ちにしに、いとど驚され給ぬるにやありけん。二月十一日、亀山殿にて、いむ事うけさせ給。四十八にぞならせ給。御法名素実と申也。」と続くのである。

 1243年生まれの後深草院が48歳(もちろん数え年)ということは正応3年(1290年)であるから、これはこれで正しいのであるが、そうすると禅林寺殿(亀山院)の落飾が「去年」即ち正応2年(1289年)となってしまって、少し前の記述と矛盾してきてしまうのである。

 話がややこしくなったので整理すると、史実としては1289年9月亀山院落飾→同年10月久明親王東下→翌1290年2月後深草院落飾→同年3月浅原事件と続くのであるが、『増鏡』の記述では

@1290年3月浅原事件→同年9月亀山院落飾
A1289年9月亀山院落飾→1290年2月後深草院落飾

という2本のルートが出来てしまって、整合性がとれていないのである。

 もちろん、この混乱は、『増鏡』の作者がもともと無関係な浅原事件と亀山院の出家を強引に結び付けて、「いわば大覚寺統の失意を強く出すための創作的手法」(井上宗雄氏)を採ったことに原因があるのであって、すべては『増鏡』の作者が最初から意図してやっていることなのである。

 とすると、『増鏡』の作者としては、別に自分はアタマが悪い訳じゃなくて、知ってて楽しんでやっているのよ、というサインを残したくなるのではないかという気もするのである。

 そこで、そういう目で「前の将軍のぼり給し道もまがまがしければ、あとをも越えじとて、足柄山をよぎて上るなどぞ、あまりなる事にや。」を見ると、どうも怪しい感じがしてくる。つまり時間的に@のルートは正しくなくて、別のAのルートをとればオッケーだよ、ということを空間的に示したら、この足柄山云々の話になるような感じがするのである。

 もともと新将軍を迎えに行く武士たちがどういう道をとるかなどということはどうでもいい話である。そういうつまらない話に比べたら、亀山院・後深草院の出家や浅原事件、さらには将軍更迭といった重要な歴史的事件を素材に、六条有房の不倫話や新陽明門院の不行跡話をからめて面白い物語を作る方がよっぽど「あまりなる事」なのであって、要するに足柄山の話は、『増鏡』の作者が自分の傲慢ぶりを自分自身で「あまりなる事にや。」とにんまり笑っていることを示しているのではないか。

 それでは久明親王東下の時点、即ち1289年10月に、まだ北条時宗が生きているという、とんでもない「誤り」をどう考えるべきかと言うと、これは足柄山の話が少し難しいので、それを考えさせるための甘いヒントのような感じがする。ここのところは時間の関係が変なんだから、しっかり考えてみなさいよ、と『増鏡』の作者が読者に注意を喚起しているような感じがするのである。


『とはずがたり』と『増鏡』の記述の異同
『とはずがたり』 『増鏡』
資宗らの通った道 足柄山(足柄峠) 箱根路(湯坂道)
久明親王の乗物 「御輿」 「菊のとれんじ(外櫺子)の御輿」
久明親王の衣裳 「女郎花の浮織物の御下衣」 「しのぶを乱れ織りたる萌黄の
御狩衣・紅の御衣、濃き紫の指貫」
資宗の様子 「木賊の狩衣」 「とくさの狩衣、青毛の馬に
金かなものの鞍置きて」




     


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