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 『増鏡』巻十一「さしぐし」 惟康親王の帰洛





原文(『増鏡』(中)全訳注.p384以下)


 其の後いく程なく鎌倉中(うち)、騒がしき事出(い)できて、みな人きもをつぶし、ささめくといふ程こそあれ、将軍都(みやこ)へ流され給ふとぞ聞ゆる。めづらしき言の葉なりかし。近く仕(つか)まつる男・女いと心細く思ひ嘆く。たとへば御位などのかはる気色(けしき)に異ならず。

 さて上らせ給ふ有様、いとあやしげなる網代(あじろ)の御輿(みこし)をさかさまに寄せて乗せ奉るもげにいとまがまがしきことのさまなる。うちまかせては都へ御上(のぼ)りこそ、いとおもしろくもめでたかるべきわざなれど、かくあやしきはめづらかなり。

 母御息所(みやすどころ)も、近衛大殿(このゑのおほとの)と聞えし御女(むすめ)なり。父皇子(みこ)の将軍にておはしましし時の御息所なり。さきに聞えつる禅林寺殿(ぜんりんじどの)の宮の御方(かた)も、同じ御腹なるべし。

 文永三年より今年まで廿四年、将軍にて天下のかためといつかれ給へれば、日(ひ)の本(もと)の兵(つはもの)をしたがへてぞおはしましつるに、今日は彼らにくつがへされて、かくいとあさましき御有様にて上り給ふ。いといとほしうあはれなり。道すがらも思(おぼ)し乱るるにや、御たたう紙の音しげうもれ聞ゆるに、たけき武士(もののふ)も涙落しけり。



井上宗雄氏による現代語訳


私の立場からの補足


 その後いくらもたたぬうちに鎌倉の中で騒動が起こって、みな仰天してうわさをしあっている、とすぐに、将軍が都に流されなさるというはなしである。(都へ流されるとは)たいへん珍しい言葉である。近侍している男も女もたいそう心細く感じて嘆く。たとえば、天皇が御位を去られる様子と違わない。

この場面も『とはずがたり』を「引用」しているのが明らかである。『とはずがたり』の該当部分はこちら

惟康親王(1264〜1326.63歳)についての詳細はこちら(瀬野精一郎氏「第七代惟康親王」)。
 さて、上洛なさる様子は、まことにそまつな網代の御輿を、さかさまに向けて寄せ、乗せ申し上げるのだが、じつになんとも不吉なやり方である。ふつうには、御上洛はたいそう楽しく、まためでたいことなのだが、このように異様なのは珍しいことである。

 母御息所(みやすどころ)も、近衛大殿兼経(かねつね)公と申し上げた方(かた)の御娘である。父宗尊親王が将軍でいらっしゃったときの御息所である。前に申し述べた禅林寺殿※子女王も(惟康親王と)御同腹であろう。

惟康親王の母は関白近衛兼経(1210〜1259.50歳)の娘、宰子。近衛兼経は『とはずがたり』「近衛大殿」に比定されている鷹司兼平(1228〜1294.67歳)の兄である。兼経・兼平についてはこちら。(『鎌倉・室町人名事典』)

※てへんに侖
※子女王が登場する場面(後深草院二条の従兄弟、六条有房との情事を執拗に描いたもの)はこちら
 惟康親王は文永三年(1266)から今年正応二年(1289)まで二十四年、将軍として、天下の重鎮として尊崇されたので、日本の武士を従えていらっしゃったのに、今日はその武士たちに将軍の地位をくつがえされて、このようにたいへん情けない御様子で御上洛なさることになった。まことにおいたわしくあわれなことである。御道中も思い乱れなさるからだろうか、(涙をぬぐい鼻をかむ)鼻紙の音がしきりに洩れ聞えてくるので、勇猛な武士たちも涙を落したことであった。

井上宗雄氏は「解説」において、『とはずがたり』を引用したうえで、「『増鏡』はこのあわれな状況の下、印象的な点は巧みに取り入れ、あまりにも無惨な点は敬遠している、というところであろうか。」と述べられているが、確かに両者にはそうした違いがある。
 また、用語についても、例えばこの部分は『とはずがたり』では「御洟かみ給ふ」となっているのに対し、『増鏡』では「御たたう紙の音しげうもれ聞ゆる」としていて、若干柔らかい表現に変えている。



    


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