更新10.9/10 up10.9/9
| 原文 その年六月二日入内あり。その夜まづ御裳着(もぎ)し給ふ。先きの御代(みよ)にもあらましは聞えしかど、いかなるにか、さもおはせざりしに、いつしかかうもありけるは、なほ思(おぼ)す心ありけるなめり、とぞうちつけにひがひがしういひなす人も待りける。 此の姫君の母北の方(かた)は、三条坊門通成の内(うち)の大臣(おどど)の女なり。さぶらふ人々もおしなべたらぬ限りえりととのへ、いみじうきよらにと思(おぼ)し急ぐ。よろづの人の心も、昨日に今日はまさりのみ行くめれば、いや珍(めづ)らに、このましうめでたし。 大方(おほかた)、大宮院の御参りの例を思(おぼ)しなずらふべし。院の御子にこれもまたなり給ふとて、東二条院御腰結はせ給ひて、時なりぬれば、唐廂(からびさし)の御車に奉りて、上達部(かんだちめ)十人、殿上人(てんじやうびと)十余人、本所の前駆(ぜんく)廿人、つい松ともして御車の左右にさぶらふ。 出車(いだしぐるま)十両、一の左に母北の方の御妹一条殿、右に二条殿、実顕(さねあき)の宰相中将の女(むすめ)、大納言の子にし給ふとぞ聞えし。二の車、左、久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからいことに嘆き給へど、みな人先立ちてつき給へれば、あきたるままとぞ慰められ給ひける。右に近衛殿、源大納言雅家(まさいへ)の女。三の左に大納言の君、室町の宰相中将公重(きんしげ)の女、右に新大納言、同じ三位兼行とかやの女、四の左、宰相の君、坊門三位基輔の女、右、治部卿兼倫(かねとも)の三位の女なり。 それより下(しも)は例のむつかしくてなん。多くは本所の家司(けいし)、なにくれがむすめどもなるべし。童(わらは)・下仕へ・御雑仕・はしたものに至るまで、髪かたちめやすく、親うち具(ぐ)し、少しもかたほなるなくととのへられたり。 その暮つ方(かた)、頭中将為兼(ためかぬ)朝臣、御消息(せうそこ)もて参れり。内(うち)の上(うへ)みづからあそばしけり。
紅(くれなゐ)の薄様(うすやう)、同じ薄様にぞ包まれたんめる。関白殿、「包むやう知らず」とかやのたまひけるとて、花山に心えたると聞かせ給ひければ、遣(つかは)して包ませられけるとぞ承りしと語る。またこの具したる女、「いつぞやは御使ひに実教中将とこそは語り給ひしか」といふ。 女御の御よそひは蘇芳(すはう)のはり一重(ひとへ)がさね、濃きうらのひへぎ、濃き蘇芳の御表着(うはぎ)、赤色の御唐衣(からぎぬ)、濃き御袴(はかま)、地摺(ぢずり)の御裳(も)奉る。女房のよそひ、おしなべてみな蘇芳のはり一重がさね、紅のひへぎ、濃き袴、蘇芳の表着、青朽葉(あをくちば)の唐衣、薄色の裳、三重(みへ)だすき、上下同じさまなり。 参り給ひぬれば、蔵人左衛門権佐(くらうどさゑもんごんのすけ)俊光(としみつ)承りて、手ぐるまの宣旨あり。殿上人参りて御車ひき入れ、御せうと中納言公衡(きんひら)、別当兼ね給へり。上(うへ)の御甥(をひ)の左衛門督通重(みちしげ)、御せうとになずらふよし聞ゆれば、御屏風、御几帳(みきちやう)たてらる。日の御座(おまし)へ御車寄る。御衾(ふすま)、二位殿参らせ給ふ。御台(みだい)参りてやがて夜のおとどへ御のぼり。この御衾は、京極院のめでたかりし例とかや聞えて、公守(きんもり)の大納言沙汰し申されけるとかや承りしは、まことにや侍りけん。 三夜の餅(もちひ)もやがてかの大納言沙汰申さる。内の上の、夜のおとどへ召して入らせ給ひたる御草鞋(さうかい)をば、二位殿とりて出で給ひて、大納言殿と二人の御中に抱(いだ)きて寝給ふと聞えし。さきざきもさる事にてこそは待りけめな。 |
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| 井上宗雄氏の現代語訳 | 私の立場からの補足 | |
その年六月二日(西園寺※子の)女御入内(じゅだい)があった。その夜まず裳着(もぎ)の儀がおありになる。前の後宇多天皇のときにもこの方の入内の予定があるとかうわさがあったが、どうしたことか、そういうふうには実現されなかったのに、今度ははやくもこのように入内のはこびになったのは、やはり(実兼に)お考えがあったからだろうと、露骨に、悪(あ)しざまに、あえていう人もいた。 |
※金へんに章。 | |
| この姫君の母北の方は、三条坊門通成内大臣の娘である。(母君は、その)侍女たちをも、すべて並々ならぬ、すぐれた者ばかりを選び揃えて、たいそう美しい様子で(入内させよう)と用意された。方事につけて、人心も昨日より今日はと(はでさが)増すようなので、いよいよりっぱに好もしく結構なさまである。 だいたいは大宮院入内の例を考えて、それに準ぜられるのであろう。この姫君も(東二条院の時のように)後深草院の猶子(ゆうし)になられるというので、東二条院が姫君の御裳の腰を結ばれ、入内の時刻になると、唐庇(からびさし)の御車に乗られ、公卿十人、殿上人十余人、実家(西園寺家)からの前駆が二十人、たいまつをともして御車の左右に侍している。 | ||
| 女房の出(いだ)し衣(ぎぬ)をした車が十両、その第一の車の左に母北の方の御妹一条殿、右に二条殿、この方は実顕の宰相中将の女で実兼大納言が子になされている方ということだ。二の車、左は久我大納言雅忠女で三条と女房名がつけられたのをたいへんつらいことと嘆かれたが、ほかの方が先に一条・二条とつけられたので、あいているまま(三条と)つけた(のにすぎない)のだ、と慰められた。 |
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| 右に近衛殿、すなわち源大納言雅家(まさいへ)女。三の車の左に大納言の君、すなわち室町の宰相中将公重女、左に新大納言、すなわち同じく三位中将兼行とかいう人の女である。四の車の左は宰相の君、坊門三位基輔(もとすけ)女、右は治部卿、兼倫の三位の女である。それより下は、例によって煩わしいから省略しましょう。多くは里方西園寺家の家司のだれそれの娘などであろう。姫君のおつきの女の童・下仕え・御雑仕・はしたものに至るまで、髪かたちも見よく、両親もそろって、すこしも不充分な点がないようにととのえられていた。 |
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その暮、頭中将為兼朝臣が天皇のお手紙を持参した。天皇御自身で書かれている。
紅の薄様の紙に書かれ、同じ薄様に包まれていたようだ。関白師忠公は「包み方を知らぬ」とかおっしゃって、花山院家教に、その心得があるとお聞きになったので、それを遣わして包ませられたとうかがった、と老尼は語る。すると連れていた女房が、「いつぞやは、天皇のお使いは実教中将であったとお話しになったのに」という。 |
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| さて女御の御装束は、張って光沢を出した蘇芳(すおう)の一重がさね、(紅の)濃いひへぎ(ひとえの衵)、濃い蘇芳色の表着(うわぎ)、赤色の御唐衣(からぎぬ)、濃い(紅の)御袴(はかま)、地摺りの御裳を召される。女房の装束は、全体にみな、張って光沢を出した蘇芳の一重がさね、紅のひへぎ、濃い(紅の)袴、蘇芳の表着、青朽葉の唐衣、薄紅色の三重だすき模様の裳で、身分の高い女房も、低い女房も、同じ様子である。 |
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| 女御が参内(さんだい)されると、蔵人左衛門権佐(くろうどさえもんごんのすけ)俊光(としみつ)が勅命を承って、手車に乗ることを許す宣旨が下る。殿上人が参って女御の車を引き入れる。御兄の中納言公衡(きんひら)が別当を兼ねられる。実兼室の甥の左衛門督通重が、御兄に準ぜられるということで、御屏風・御几帳(きちょう)をたてられる。 |
| 日の御座(おまし)へ御車が寄る。御夜具は女御の御母の二位殿がお掛けする。御食膳が上ってすぐ夜の御殿に昇られる。この御夜具は、京極院の(亀山帝への入内の)佳例とかで、公守の大納言がそれを調進申されたとかうかがったのはほんとうであったろうか。 |
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| 三夜の御餅も続いて同じ大納言が用意申しあげる。天皇の夜の御殿(おどど)に履いて来られた御草鞋(そうがい.はき物)を、二位殿が取って退出され、夫の大納言殿(実兼)と二人の御中に抱いて寝られるということであった。先例もそうであったのだろう。 |
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| 補論(小倉実教について) 『鎌倉・室町人名事典』(新人物往来社)には、小倉実教(1265〜1349.85歳)について、次のような記述が見られる。
もちろん間違いはないのであるが、これだけでは1299年以降、1348年の出家までの半世紀間が全く空白になっていて、実教がどんな人生を送ったのか、さっぱり見えてこない。 その空白は歴史学者よりもむしろ国文学者が埋めてくれる。小倉実教は、父の小倉公雄とともに二条派の著名な歌人であり、その創作活動の活発さは、かなり詳しく研究されているのである。例えば井上宗雄氏は、『中世歌壇史の研究.南北朝期』(改訂新版)p.284において、次のように述べられている。
ここで、小倉実教が兼好と親しかったことは、『兼好歌集』29番に次のようなやりとりがあることから分かる。
堀川家と後二条天皇に仕え、二条為世門下の歌人であった兼好の立場からすれば、『増鏡』には不愉快な記事が多いはずなのであるが、仮に、<関白師忠公は「包み方を知らぬ」とかおっしゃって、花山院家教に、その心得があるとお聞きになったので、それを遣わして包ませられたとうかがった、と老尼は語る。すると連れていた女房が、「いつぞやは、天皇のお使いは実教中将であったとお話しになったのに」という。>という老尼と女房のやりとりが、私の考えるように、後深草院二条が「三条」という名前をつけられたのを嘆いた、という記述と関連するのであれば、この部分も、実教をからかっているように読めて、兼好を不快にさせただろうと思われる。 なお、小倉公雄(生没年未詳)は、西園寺家の支流で、閨閥の点では本家を完全に凌駕していた洞院実雄(1219〜1273.55歳)の子であるが、実雄の娘(京極院.1245〜1272.28歳)が亀山天皇の皇后となって世仁親王(後宇多院)を生んでいるので、実教と後宇多院は従兄弟の関係にある。 また、小倉公雄が後嵯峨院崩御により出家したことは、後嵯峨院から破格の恩寵を受けていた中御門経任が出家しなかったことを強調する形で、『増鏡』巻8「あすか川」に詳しく書かれている。 |