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『増鏡』巻11.「さしぐし」.女御入内(一)







原文


 その年六月二日入内あり。その夜まづ御裳着(もぎ)し給ふ。先きの御代(みよ)にもあらましは聞えしかど、いかなるにか、さもおはせざりしに、いつしかかうもありけるは、なほ思(おぼ)す心ありけるなめり、とぞうちつけにひがひがしういひなす人も待りける。

 此の姫君の母北の方(かた)は、三条坊門通成の内(うち)の大臣(おどど)の女なり。さぶらふ人々もおしなべたらぬ限りえりととのへ、いみじうきよらにと思(おぼ)し急ぐ。よろづの人の心も、昨日に今日はまさりのみ行くめれば、いや珍(めづ)らに、このましうめでたし。

 大方(おほかた)、大宮院の御参りの例を思(おぼ)しなずらふべし。院の御子にこれもまたなり給ふとて、東二条院御腰結はせ給ひて、時なりぬれば、唐廂(からびさし)の御車に奉りて、上達部(かんだちめ)十人、殿上人(てんじやうびと)十余人、本所の前駆(ぜんく)廿人、つい松ともして御車の左右にさぶらふ。

 出車(いだしぐるま)十両、一の左に母北の方の御妹一条殿、右に二条殿、実顕(さねあき)の宰相中将の女(むすめ)、大納言の子にし給ふとぞ聞えし。二の車、左、久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからいことに嘆き給へど、みな人先立ちてつき給へれば、あきたるままとぞ慰められ給ひける。右に近衛殿、源大納言雅家(まさいへ)の女。三の左に大納言の君、室町の宰相中将公重(きんしげ)の女、右に新大納言、同じ三位兼行とかやの女、四の左、宰相の君、坊門三位基輔の女、右、治部卿兼倫(かねとも)の三位の女なり。

 それより下(しも)は例のむつかしくてなん。多くは本所の家司(けいし)、なにくれがむすめどもなるべし。童(わらは)・下仕へ・御雑仕・はしたものに至るまで、髪かたちめやすく、親うち具(ぐ)し、少しもかたほなるなくととのへられたり。

 その暮つ方(かた)、頭中将為兼(ためかぬ)朝臣、御消息(せうそこ)もて参れり。内(うち)の上(うへ)みづからあそばしけり。

雲の上に千世(ちよ)をめぐらんはじめとて今日の日かげもかくや久しき

 紅(くれなゐ)の薄様(うすやう)、同じ薄様にぞ包まれたんめる。関白殿、「包むやう知らず」とかやのたまひけるとて、花山に心えたると聞かせ給ひければ、遣(つかは)して包ませられけるとぞ承りしと語る。またこの具したる女、「いつぞやは御使ひに実教中将とこそは語り給ひしか」といふ。

 女御の御よそひは蘇芳(すはう)のはり一重(ひとへ)がさね、濃きうらのひへぎ、濃き蘇芳の御表着(うはぎ)、赤色の御唐衣(からぎぬ)、濃き御袴(はかま)、地摺(ぢずり)の御裳(も)奉る。女房のよそひ、おしなべてみな蘇芳のはり一重がさね、紅のひへぎ、濃き袴、蘇芳の表着、青朽葉(あをくちば)の唐衣、薄色の裳、三重(みへ)だすき、上下同じさまなり。

 参り給ひぬれば、蔵人左衛門権佐(くらうどさゑもんごんのすけ)俊光(としみつ)承りて、手ぐるまの宣旨あり。殿上人参りて御車ひき入れ、御せうと中納言公衡(きんひら)、別当兼ね給へり。上(うへ)の御甥(をひ)の左衛門督通重(みちしげ)、御せうとになずらふよし聞ゆれば、御屏風、御几帳(みきちやう)たてらる。日の御座(おまし)へ御車寄る。御衾(ふすま)、二位殿参らせ給ふ。御台(みだい)参りてやがて夜のおとどへ御のぼり。この御衾は、京極院のめでたかりし例とかや聞えて、公守(きんもり)の大納言沙汰し申されけるとかや承りしは、まことにや侍りけん。

 三夜の餅(もちひ)もやがてかの大納言沙汰申さる。内の上の、夜のおとどへ召して入らせ給ひたる御草鞋(さうかい)をば、二位殿とりて出で給ひて、大納言殿と二人の御中に抱(いだ)きて寝給ふと聞えし。さきざきもさる事にてこそは待りけめな。








井上宗雄氏の現代語訳 私の立場からの補足


 その年六月二日(西園寺※子の)女御入内(じゅだい)があった。その夜まず裳着(もぎ)の儀がおありになる。前の後宇多天皇のときにもこの方の入内の予定があるとかうわさがあったが、どうしたことか、そういうふうには実現されなかったのに、今度ははやくもこのように入内のはこびになったのは、やはり(実兼に)お考えがあったからだろうと、露骨に、悪(あ)しざまに、あえていう人もいた。



※金へんに章。
1287年10月、幕府の使者が入洛し、後宇多天皇から煕仁親王(伏見天皇)への譲位を告げた。後深草院にとっては、1275年の煕仁親王立坊以来、12年の長きにわたって待たされ続けていた院政が開始することになった。翌1288年6月、西園寺実兼の娘(後の永福門院)が伏見天皇に女御として入内した。この入内の儀式に、後深草院二条が「三条」という名前で登場する。

「この姫君の母北の方」、つまり西園寺実兼の正妻顕子は中院通成(1222〜1286.65歳)の娘で、通成と二条の父久我雅忠は従兄弟、二条と顕子は再従姉妹の関係にある。

東二条院(1232〜1304.73歳)
後深草院(1243〜1304.62歳)
 この姫君の母北の方は、三条坊門通成内大臣の娘である。(母君は、その)侍女たちをも、すべて並々ならぬ、すぐれた者ばかりを選び揃えて、たいそう美しい様子で(入内させよう)と用意された。方事につけて、人心も昨日より今日はと(はでさが)増すようなので、いよいよりっぱに好もしく結構なさまである。

 だいたいは大宮院入内の例を考えて、それに準ぜられるのであろう。この姫君も(東二条院の時のように)後深草院の猶子(ゆうし)になられるというので、東二条院が姫君の御裳の腰を結ばれ、入内の時刻になると、唐庇(からびさし)の御車に乗られ、公卿十人、殿上人十余人、実家(西園寺家)からの前駆が二十人、たいまつをともして御車の左右に侍している。

 女房の出(いだ)し衣(ぎぬ)をした車が十両、その第一の車の左に母北の方の御妹一条殿、右に二条殿、この方は実顕の宰相中将の女で実兼大納言が子になされている方ということだ。二の車、左は久我大納言雅忠女で三条と女房名がつけられたのをたいへんつらいことと嘆かれたが、ほかの方が先に一条・二条とつけられたので、あいているまま(三条と)つけた(のにすぎない)のだ、と慰められた。





二条が「三条」として登場することについての私の解釈はこちら
 右に近衛殿、すなわち源大納言雅家(まさいへ)女。三の車の左に大納言の君、すなわち室町の宰相中将公重女、左に新大納言、すなわち同じく三位中将兼行とかいう人の女である。四の車の左は宰相の君、坊門三位基輔(もとすけ)女、右は治部卿、兼倫の三位の女である。それより下は、例によって煩わしいから省略しましょう。多くは里方西園寺家の家司のだれそれの娘などであろう。姫君のおつきの女の童・下仕え・御雑仕・はしたものに至るまで、髪かたちも見よく、両親もそろって、すこしも不充分な点がないようにととのえられていた。

源大納言雅家とは北畠家の祖北畠雅家(1215〜1275.61歳)のこと。北畠親房は雅家の曾孫である。なお、井上宗雄氏の<語釈>(『増鏡(中)全訳注』p344)には、雅家が「通成弟」とあるが、通成は1222年生まれであって、雅家の方が兄である。
 その暮、頭中将為兼朝臣が天皇のお手紙を持参した。天皇御自身で書かれている。

宮中でこれから幾千代(いくちよ)かけて過ごされるその初めの日というので、今日の日影もこのように久しく(なかなか暮れぬように)感ぜられるのだろうか(夜が待遠しいことよ)。

 紅の薄様の紙に書かれ、同じ薄様に包まれていたようだ。関白師忠公は「包み方を知らぬ」とかおっしゃって、花山院家教に、その心得があるとお聞きになったので、それを遣わして包ませられたとうかがった、と老尼は語る。すると連れていた女房が、「いつぞやは、天皇のお使いは実教中将であったとお話しになったのに」という。

「頭中将為兼朝臣」は、定家の曾孫で京極派の指導者であった京極為兼(1254〜1332.79歳)のこと。為兼は当初西園寺家に仕えていたが、伏見天皇の寵臣として権勢をふるうようになり、周囲から反感を買って1298年には佐渡に流された。5年後、帰洛し、再び伏見上皇の謀臣として活躍したが、西園寺実兼と対立して、1315年、今度は土佐に流された。

二条師忠(1254〜1341.88歳)は1287年関白に任ぜられたが、1289年、幕府の意向により近衛家基に譲り、1294年、41歳で出家した。なお、前斎宮をめぐる二条師忠と西園寺実兼の奇妙な話が巻9「草枕」に出てくる。
 さて女御の御装束は、張って光沢を出した蘇芳(すおう)の一重がさね、(紅の)濃いひへぎ(ひとえの衵)、濃い蘇芳色の表着(うわぎ)、赤色の御唐衣(からぎぬ)、濃い(紅の)御袴(はかま)、地摺りの御裳を召される。女房の装束は、全体にみな、張って光沢を出した蘇芳の一重がさね、紅のひへぎ、濃い(紅の)袴、蘇芳の表着、青朽葉の唐衣、薄紅色の三重だすき模様の裳で、身分の高い女房も、低い女房も、同じ様子である。

花山院家教(1261〜1297.37歳)
小倉実教(1265〜1349.85歳)
 女御が参内(さんだい)されると、蔵人左衛門権佐(くろうどさえもんごんのすけ)俊光(としみつ)が勅命を承って、手車に乗ることを許す宣旨が下る。殿上人が参って女御の車を引き入れる。御兄の中納言公衡(きんひら)が別当を兼ねられる。実兼室の甥の左衛門督通重が、御兄に準ぜられるということで、御屏風・御几帳(きちょう)をたてられる。


日野俊光(1260〜1326.67歳)

西園寺公衡(1264〜1315.52歳)
中院通重(1270〜1321.52歳)
 日の御座(おまし)へ御車が寄る。御夜具は女御の御母の二位殿がお掛けする。御食膳が上ってすぐ夜の御殿に昇られる。この御夜具は、京極院の(亀山帝への入内の)佳例とかで、公守の大納言がそれを調進申されたとかうかがったのはほんとうであったろうか。



京極院(1245〜1272.28歳).洞院実雄の娘。亀山天皇皇后。後宇多天皇の父。
洞院公守(1249〜1317.69歳).京極院の弟。
 三夜の御餅も続いて同じ大納言が用意申しあげる。天皇の夜の御殿(おどど)に履いて来られた御草鞋(そうがい.はき物)を、二位殿が取って退出され、夫の大納言殿(実兼)と二人の御中に抱いて寝られるということであった。先例もそうであったのだろう。



この場面の主要登場人物の1288年時点での年齢を列挙すると、東二条院57歳、後深草院46歳、西園寺実兼・洞院公守40歳、京極為兼・二条師忠35歳、後深草院二条31歳、日野俊光29歳、花山院家教28歳、西園寺公衡25歳、伏見天皇・小倉実教24歳、実兼女(永福門院)18歳である。






補論(小倉実教について)


 『鎌倉・室町人名事典』(新人物往来社)には、小倉実教(1265〜1349.85歳)について、次のような記述が見られる。

鎌倉末期・南北朝期の公卿。父は権中納言小倉公雄。母は権中納言姉小路実世の女。文永3年(1266)正月、叙爵。正応元年81288)、従三位に叙せられる。のち、正二位権大納言に進み、正安元年(1299)6月、辞す。貞和4・正平3年(1348)2月、出家。法名を空覚と号し、また阿覚と改めた。翌年9月7日、85歳で薨ず。(宮崎康充)

 もちろん間違いはないのであるが、これだけでは1299年以降、1348年の出家までの半世紀間が全く空白になっていて、実教がどんな人生を送ったのか、さっぱり見えてこない。
 その空白は歴史学者よりもむしろ国文学者が埋めてくれる。小倉実教は、父の小倉公雄とともに二条派の著名な歌人であり、その創作活動の活発さは、かなり詳しく研究されているのである。例えば井上宗雄氏は、『中世歌壇史の研究.南北朝期』(改訂新版)p.284において、次のように述べられている。

 実教は富小路大納言と称せられ、乾元二年歌合・嘉元百首作者、新御撰に五首入集したが、玉葉には一首しか入らなかった。二条派の歌人と目されていた。続千載に十一首、後宇多・後醍醐主催の詩歌合・歌合・歌会には必ず出席、準歌道家の人と目されていたらしい。兼好と親しかった事は有名である。後に藤葉集を撰ぶ。(中略)小倉父子が二条家の門弟分であったという事は別に確実な資料のある訳ではないが、勅撰集への入り具合や、常に二条家の会などに同座し、行を共にしている点からも当然推測されることで、まず二条門弟廷臣歌人の筆頭に加えて然るべきであろう。

 ここで、小倉実教が兼好と親しかったことは、『兼好歌集』29番に次のようなやりとりがあることから分かる。

八月十五日夜、報恩寺にて、人々あまた歌詠むよしきゝ侍りしを、わづらふことありて、えまからで申しつかはし侍りし
月に憂き身を秋霧のへだてにもさはらでかよふ心とを知れ

返し、小倉の(前)大納言 実教卿
もろともにながめぞせまし秋霧のへだつる夜半(よは)の月はうらめし

 堀川家と後二条天皇に仕え、二条為世門下の歌人であった兼好の立場からすれば、『増鏡』には不愉快な記事が多いはずなのであるが、仮に、<関白師忠公は「包み方を知らぬ」とかおっしゃって、花山院家教に、その心得があるとお聞きになったので、それを遣わして包ませられたとうかがった、と老尼は語る。すると連れていた女房が、「いつぞやは、天皇のお使いは実教中将であったとお話しになったのに」という。>という老尼と女房のやりとりが、私の考えるように、後深草院二条が「三条」という名前をつけられたのを嘆いた、という記述と関連するのであれば、この部分も、実教をからかっているように読めて、兼好を不快にさせただろうと思われる。
 なお、小倉公雄(生没年未詳)は、西園寺家の支流で、閨閥の点では本家を完全に凌駕していた洞院実雄(1219〜1273.55歳)の子であるが、実雄の娘(京極院.1245〜1272.28歳)が亀山天皇の皇后となって世仁親王(後宇多院)を生んでいるので、実教と後宇多院は従兄弟の関係にある。
 また、小倉公雄が後嵯峨院崩御により出家したことは、後嵯峨院から破格の恩寵を受けていた中御門経任が出家しなかったことを強調する形で、『増鏡』巻8「あすか川」に詳しく書かれている。






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