up10.9/21
| 原文(『増鏡』(中)全訳注.p381) 新陽明門院も、禅林寺殿の下(しも)の放(はな)ち出(いで)に、つれづれとしておはします程に、松殿宰相中将兼嗣(かねつぎ)、いかがしたりけん、常に参り給ひし程に、はてには、その宰相中将の御子に世を逃(のが)れ給へる人ありき、その御坊(頓悟坊)におぼしうつりて、限りなく思(おぼ)したりし程に、御子さへ生み給ひき。 その姫君ははじめは富小路中納言季雄の北の方にておはせしが、後には歓喜園(くわんぎをん)の摂政と聞え給ひし末の御子に、基教(もとのり)三位中将と聞えし上になりて、失(う)せ給ふまでおはしき。故女院いとほしくし給ひしかば、御処分(そうぶん)などいとど猛(まう)にありき。 「さのみかかる御事どもをさへ聞ゆるこそ、物いひさがなき罪さり所なけれど、よしや昔もさる事ありけりとこの頃の人の御有様も、おのづから軽(かろ)き事あらば、思ひ許さるるためしにもなりてん物ぞ、と思へば、遠き人の御事は今は何(なに)の苦しからんぞとて、少しづつ申すなり」とうち笑ふもはしたなし。「いづらこの頃は誰かあしくおはする」と問へば、「いないな、それはそら恐ろし」とて頭(かしら)をふるもさすがをかし。 |
| 井上宗雄氏の現代語訳 |
私の立場からの補足 |
新陽明門院(亀山院女御)も、禅林寺殿の下のほうの、母屋(もや)から離れた部屋に、所在なくおいでになったころ、松殿宰相中将兼嗣が、どのようにしたのであろうか、始終参上しておられたが、宰相中将の御子に僧侶となっていた人がいた、その御房(頓悟房)に女院の御心がついに傾いて、このうえなく思い慕われていたうちに、御子までもお生みになった。 |
|
| その生まれた姫君は、初めは富小路中将季雄の北の方でいらっしゃったが、後には、摂政兼忠公と申された方の末の御子に基教と申す方がおられて、その北の方になって、なくなるまでいらっしゃった。新陽明門院はこの姫君をかわいがられたので、遺産の御分配などたいそうたくさんあった。 | |
| 「そのように深く立入って、こんな御事などまでお話し申すのは、物の言い方が悪いという罪を逃れられないのでずが、それでもまあ、昔もそういうことがあったというのは、近ごろの人の御様子(御身持)にもたまたま軽々しいことのあった場合、(世間から)大目に見てもらえる先例にもなるでしよう、と思います、そこで遠い昔の人の御事は、今お話ししてどうして悪いことがあろうか、と思って、すこしずつ申しあげるのです」といって(老尼)が笑うのもつつましそうではない。 | |
| 「どこに、最近ではだれが悪くいらっしやるのですか」と聞くと、「いやいや、今の方を申すのはなんとなく恐ろしいですね」といって頭を振る様子も、やはりおもしろい。 |
