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 『増鏡』第十一 さしぐし 新陽明門院のこと






原文(『増鏡』(中)全訳注.p381)


 新陽明門院も、禅林寺殿の下(しも)の放(はな)ち出(いで)に、つれづれとしておはします程に、松殿宰相中将兼嗣(かねつぎ)、いかがしたりけん、常に参り給ひし程に、はてには、その宰相中将の御子に世を逃(のが)れ給へる人ありき、その御坊(頓悟坊)におぼしうつりて、限りなく思(おぼ)したりし程に、御子さへ生み給ひき。

 その姫君ははじめは富小路中納言季雄の北の方にておはせしが、後には歓喜園(くわんぎをん)の摂政と聞え給ひし末の御子に、基教(もとのり)三位中将と聞えし上になりて、失(う)せ給ふまでおはしき。故女院いとほしくし給ひしかば、御処分(そうぶん)などいとど猛(まう)にありき。

 「さのみかかる御事どもをさへ聞ゆるこそ、物いひさがなき罪さり所なけれど、よしや昔もさる事ありけりとこの頃の人の御有様も、おのづから軽(かろ)き事あらば、思ひ許さるるためしにもなりてん物ぞ、と思へば、遠き人の御事は今は何(なに)の苦しからんぞとて、少しづつ申すなり」とうち笑ふもはしたなし。「いづらこの頃は誰かあしくおはする」と問へば、「いないな、それはそら恐ろし」とて頭(かしら)をふるもさすがをかし。



井上宗雄氏の現代語訳
私の立場からの補足

 新陽明門院(亀山院女御)も、禅林寺殿の下のほうの、母屋(もや)から離れた部屋に、所在なくおいでになったころ、松殿宰相中将兼嗣が、どのようにしたのであろうか、始終参上しておられたが、宰相中将の御子に僧侶となっていた人がいた、その御房(頓悟房)に女院の御心がついに傾いて、このうえなく思い慕われていたうちに、御子までもお生みになった。


ここは亀山院出家後、宗尊親王女りん子女王と六条有房の情事の秘話が延々と語られた後の場面。

新陽明門院(1262〜96.35歳)
亀山院(1249〜1305.57歳)
松殿兼嗣(1239〜?)は新陽明門院よりも23歳年上。新陽明門院は最初は兼嗣と関係したが、その後、更に兼嗣の子の僧侶と関係して子供まで出来た、ということなのだろうと思う。

「富小路中将季雄」は小倉季雄(1289〜1336.48歳)で、小倉実教(1265〜1349.85歳)の子、小倉公雄(生没年未詳)の孫。実教と公雄、そして実教と兼好法師が親しかったことについてはこちら

鷹司基教(1299〜?)は鷹司兼忠(1262〜1301.40歳)の子で、鷹司家の祖兼平(1228〜1294.67歳)の孫。兼平は『とはずがたり』の「近衛大殿」に擬されている人物である。
 その生まれた姫君は、初めは富小路中将季雄の北の方でいらっしゃったが、後には、摂政兼忠公と申された方の末の御子に基教と申す方がおられて、その北の方になって、なくなるまでいらっしゃった。新陽明門院はこの姫君をかわいがられたので、遺産の御分配などたいそうたくさんあった。

 「そのように深く立入って、こんな御事などまでお話し申すのは、物の言い方が悪いという罪を逃れられないのでずが、それでもまあ、昔もそういうことがあったというのは、近ごろの人の御様子(御身持)にもたまたま軽々しいことのあった場合、(世間から)大目に見てもらえる先例にもなるでしよう、と思います、そこで遠い昔の人の御事は、今お話ししてどうして悪いことがあろうか、と思って、すこしずつ申しあげるのです」といって(老尼)が笑うのもつつましそうではない。

 「どこに、最近ではだれが悪くいらっしやるのですか」と聞くと、「いやいや、今の方を申すのはなんとなく恐ろしいですね」といって頭を振る様子も、やはりおもしろい。

新陽明門院と後深草院二条との関係、また老尼が登場してつつましそうでなく笑うことについての私の解釈はこちら






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