更新11.11/24 up11.11/22

| 原文(『増鏡』(下)全訳注.p19) 院の上(うへ)は位におはせし程は、中々さるべき女御・更衣もさぶらひ給はざりしかど、降りさせ給ひて後、心のままにいとよくまぎれさせ給ふ程に、この程はいどみ顔(がほ)なる御かたがた数そひ給ひぬれど、なほ遊義門院(いうぎもんゐん)の御心ざしにたちならび給ふ人は、をさをさなし。 中務(なかつかさ)の宮の御女(おんむすめ)もおしなべたらぬさまにもてなし聞え給ふ。すぐれたる御おぼえにはあらねど、御姉宮の、故院に渡らせ給ひしよりは、いと重々(おもおも)しう思(おぼ)しかしづきて、後には院号ありき。永嘉門院と申し侍りし御事なり。 また一条摂政殿の姫君も、当代、堀河の大臣(おとど)の家に渡らせ給ひし頃、上臈(じゃうらふ)に十六にて参り給ひて、初めつ方は基俊(もととし)の大納言うとからぬ御中にておはせしかば、彼の大納言東下(あづまくだ)りの後、院に参り給ひし程に、殊(こと)の外(ほか)にめでたくて、内侍(ないし)のかみになり給へる、昔おぼえておもしろし。加階し給へりし朝、院より、
御返し、内侍のかんの君 ☆子(きよくし)とぞ聞ゆめりし、
露霜かさなりて程なく徳治二年にもなりぬ。遊義門院そこはかとなく御悩みと聞え しかば、院の思(おぼ)し騒ぐこと限りなく、よろづに御祈り・祭(まつり)・祓(はら)へとののしりしかど、かひなき御事にて、いとあさましくあへなし。院もそれ故御髪(みぐし)おろしてひたぶるに聖(ひじり)にぞならせ給ひぬる。その程、さまざまのあはれ思ひやるべし。悲しき事ども多かりしかど、みなもらしつ。 ☆王へんに「頁」 |
| 井上宗雄氏による現代語訳 |
私の立場からの補足 |
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| 後宇多院は、御在位の間はかえって適当な女御や更衣もいらっしゃらなかったが、御退位後は御心の赴くままにたいそうよく忍び歩かれたので、このころは院の御寵愛を得ようと競争する方々がだんだん多くなられたが、やはり遊義門院(ゆうぎもんいん)への御寵愛の深さに比べられる方はいっこうにいない。 |
※てへんに「侖」 ▲てへんに「侖」 ☆王へんに「頁」 |
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| また、中務卿宗尊(むねたか)親王の御女(瑞子)も、普通の方とは違った御様子で待遇なさる。(この方は)格別の御寵愛というわけではないが、御姉宮(※子女王)が故亀山院の後宮におられたのよりは、たいへん大事に待遇されて後には女院号宣下があった。永嘉門院と申し上げた方の御事である。 |
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また一条摂政実経(さねつね)公の姫君も、今上天皇(後二条)が堀河具守公の家にいらっしゃったころ、高位の女房として十六歳で宮中に参られて、初めのころは基俊(もととし)の大納言と浅からぬ御仲であったので(天皇とは格別のこともなかったが)基俊大納言が関東に下った後、後宇多院の御所に参られたところ、ことの外に御寵愛がめでたく、尚侍(ないしのかみ)におなりになった。昔のこと(源氏物語の朧月夜内侍のこと)が思われて趣がある。(同じ折)従三位に叙せられなさった朝、後宇多院から、
お返し、尚侍、☆子と申すようであった。
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| 年月が変ってまもなく徳治二年(1307)になった。遊義門院がどこということなく御病気と申すことだったので、後宇多院が御心配されることは限りなく、いろいろとお祈り・祭り・祓えなど騒ぎたてたが、そのかいもないことで、ほんとうに情けなく、はかないことである。後宇多院もそのため剃髪されて、ひたすらに仏道に精進される僧におなりになった。
そのころの種々の哀れなことは想像できるであろう。悲しいことが多かったが、みなはぶきます。
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万秋門院をめぐる学説の混乱について
| 井上宗雄氏の見解 |
私の考え方 |
| この「浦千鳥」の冒頭では後宇多院の後宮に筆を起こしている。したがって尚侍☆子についても、院の後宮の一人のように読めるし、贈答歌も恋の歌めいている。そういうふうに解した注も多い。 ☆子は『女院小伝』によると、建武五年(暦応元。1338)三月七十一歳で没している から、文永五年生。乾元二年(三十六歳)三月後二条の尚侍、従三位。『増鏡』にあるように、十六歳で出仕したとすると、弘安六年である。 〈大系〉補注は、この年は後二条(当代)誕生の二年前だから、(永仁元年、後二条九歳)二十六歳の誤りとしなければつじつまがあわぬ、と指摘する。そして後二条の母が堀河具守女だから帝は幼少時に具守邸にいたのであろう、と推測している。しかもそこで東下り前の基俊と関係があったのだから、正応二年以前に☆子は堀河邸に上がったということにもなるのである。 |
☆王へんに「頁」.きょくし ☆子が『増鏡』にあるように16歳で出仕したとすれば、それは1283年のことであり、1285年生まれの「当代」後二条天皇は存在していないから、確かに変な話となる。また、邦治親王が育ったのは京極准后(平棟子.後嵯峨天皇妃.宗尊親王母)の居宅であるので、「当代」が二条堀川の「堀河の大臣の家に渡らせ給ひし」というのも変な話である。つまりこの話は時代だけでなくて場所も変なのである。 ただ、国母でも皇親でもない☆子への院号宣下は、他の女院の例と比較すると無理が多いような印象を受ける。晩年の後宇多院の人事は、六条有房の例ひとつとっても、やり方が強引すぎて周囲の軋轢を呼ぶことが多いが、☆子への院号宣下についても、余りに異例なものとして不満を覚えた人が多かったのではないかと私は思う。 |
| 諸事明確でないのだが、☆子は、たとえば『大日本史』が、後二条院の後宮として扱っているのだが、後二条より十七歳の長である。典侍が後宮である場合は多いが、このころ、尚侍は珍しい。摂家の娘だからであろうが、後二条の尚侍なるが故に、形式的に後二条の後宮として扱われ、かつ目されてはいたが、事実上は、『増鏡』にあるように、後宇多院に寵幸されていたのではあるまいか。
おそらく基俊と交渉あったのは確かだろう(☆子は基俊より七歳少、後宇多より一歳少)。後二条誕生(弘安八年)以後の某年出仕、堀河基俊と親しくなったが、正応二年(☆子二十二歳)以後、後宇多院に出仕、寵せられているうち、なにかの事情で中絶えていたが、やがて後二条即位後、院の思し召しで尚侍従三位となった、とは考えられないだろうか。贈答歌が恋歌めいているのもその故で、事実上、昔、関係のあったことを踏まえているのであろう。 『増鏡』の情事についての記述が、おおむね正確であることも思い起こされる。 |
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| この贈答歌は、『新後撰集』では、昔、叙位のことを約束したからそれを違えず与えたのだ、と恋歌ではなく扱われているが、『増鏡』だと恋の趣を踏まえることになろう。すなわち、昔、約束したことをいま実現したのだから、愛も昔の世に帰って復活しよう、という気持が込められているのであろう(岡一男訳がよいようだ)。
ちなみに、☆子は徳治三年(1308)八月仕えていた後二条の死にあって尼となり、元応二年(1320)三月准三宮、院号宣下(万秋門院)。なお二条派の歌人で、『新後撰集』以下の作者、嘉元百首にも加わっている。なお、訓では「たまこ」とよむ説もある。 |
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| 参考・岩波日本古典文学大系『増鏡』補注 (校注者.時枝誠記・木藤才蔵氏) 335 十六にてまいり給て ☆子は暦応元年(1338)に七十一歳で没しているので、その十六の時は、弘安六年で、後二条帝の誕生二年前にあたる。二十六歳の時は、永仁元年で、後二条帝は九歳であった。したがって、二十六歳の誤りとしなければ、話のつじつまがあわないことになる。なお、後二条帝の母は、堀川具守の女であるから、その関係で帝は幼少の頃、具守邸におられたのであろう。補注336参照。 |
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| 336 かの大納言東下りののち 一代要記、正応二年の条に「十月十日、征夷大将軍久明〈本院皇子、母前内府公親女〉、下向関東、御共公卿、中納言源基俊、殿上人ロロロ」とあり、正応二年(1289)に関東に下向していることは、あきらかである。しかし、正応二年は、永仁元年より四年前のことであるから、基俊の関東下向を、この時のことをさすものとすると、☆子が堀川具守の邸に上ったのは、二十二歳以前のことになる。 337 むかしおぼえておもしろし 詳解は「次の後宇多上皇の御歌によりて考ふるに、☆子の、いまだ基俊卿の思人たりしほどより、はやく寵幸し給へる事ありしにて、そのほどのことを、昔とはいへるならん」と述べ、通釈は「基俊に愛せられた以前に既に御寵幸があつたのである」と説く。ところが、日本古典全書の頭注には「院、基俊、☆子の三角関係が、源氏物語の朱雀院、源氏、朧月夜尚侍との関係に似てゐること」と注す。☆子が、内侍のかみになって、しかも、源氏の末流である基俊と後宇多院の二人と関係のあった点から、岡一男氏のいうように、源氏物語の朧月夜の内侍のことを連想して書いたものと見てよいであろう。 338 加階し給ヘリし朝 女院小伝の、万秋門院の項に「乾元二・三・五、為後二条尚侍〈卅六〉、同日叙従三位」とある。 |
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| 遊義門院・西華門院・万秋門院について |
井上宗雄氏を含め多くの国文学者は、後宇多院と☆子との間に恋愛関係が実際に存在していたと考えているが、私は賛成できない。 まず、寵愛する女に昔約束したポストをあげる、というのは相当に傲慢な話で、あまりおおっぴらにできる性質のものではない。しかし、☆子は内大臣一条内実らを引き連れて公式かつ盛大に御礼に行っているのだから、☆子が摂関家出身という強い誇りをもっていたであろうことも考慮すると、この贈答歌の背後には別に人聞きが悪いわけでもない事情があったと考えるべきである。これは二人の贈答歌が勅撰和歌集に直ちに掲載されたことからも明らかのように思われる。 勅撰和歌集の撰集というものは、当時の貴族社会においては決して単なる文芸活動ではなく、それを命ずる治天の君にとって、自らの支配の正統性を示す国家的行事であり、その威信をかけた重要な政治的行為である。そういう重要な意味をもった勅撰集に、かって寵愛した女に昔約束したポストをあげました、などという私的な関係をおおっぴらにした贈答歌を入れるというのは、よほどの専制君主でもないかぎり不自然であるが、1303年当時の後宇多院は、まだ亀山院が存命中の時期でもあり、決して専制的な存在ではない。 また、後宇多院にとっては、その死の2日後に出家してしまうほど愛していた遊義門院への配慮も必要だったはずである。☆子が尚侍となり、従三位に叙された1303年の前年、1302年1月には、室町院領伝領問題にからんで、永嘉門院への准三宮・院号宣下がなされているが、その直後の遊義門院の行動(その経緯についてはこちら。[宮内三二郎氏『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』])を見れば、遊義門院が極めて誇り高く、相当に強い性格の女性であることは明らかである。 とすれば、後宇多院が当時の宮廷社会の常識の範囲内で女遊びをするならともかく、かって寵愛した女に昔約束した尚侍の地位と従三位をあげましたとか、その御礼に女が一族郎党を引き連れて内裏に参上するのを車を立てて見ていましただとか、二人の関係をこれ見よがしに仕立てた贈答歌を勅撰和歌集に入れました、などということになれば、遊義門院の機嫌を損ねることになりかねないはずである。 以上のような事情を考えれば、☆子が1303年に尚侍となり従三位に叙されたこと、および後宇多院・☆子の間で贈答歌が交わされたことは、直接には両者の恋愛関係を反映したものではないと考えるべきである。また、後二条天皇と☆子の年齢差が実に17歳もあることを考えれば、「尚侍」というのはあくまで名誉職と捉えるべきであり、☆子は後二条天皇とも特別な関係はないと考えるべきである。 ただ、そうは言っても、『新後撰集』の贈答歌が「恋歌めいている」のも確かであり、これがいかなる事情を反映しているのか、という問題は残る。恋歌のようであって恋歌ではないとは一体どういうことなのか。私は、それは☆子が恋の仲介をした、ということではないかと考える。 考察の出発点は何と言っても『増鏡』の原文である。『増鏡』の作者は永嘉門院の入内をめぐる事情を明らかに知悉していながら、「中務の宮の御女もおしなべたらぬさまにもてなし聞え給ふ。すぐれたる御おぼえにはあらねど、御姉宮の、故院に渡らせ給ひしよりは、いと重々しう思しかしづきて、後には院号ありき。永嘉門院と申し侍りし御事なり」とだけ書くような人なのであって、こういう作者の性格を考えれば、☆子に関しても、作者はすべての事情を知りながら、わざと読者を混乱させるような書き方をして楽しんでいるように思われる。 『増鏡』の作者は、現実の何らかの事件をヒントに、『源氏物語』を思い起こさせるような場面を創作・演出して楽しんでいるのではないか、この場面は作者が読者に対して仕掛けた知的ゲームなのではないか、という目で見てみると、ヒントは充分すぎるほど提示されているようである。 そこで、まず最初に、「昔おぼえておもしろし」というような出来事がいったい何時生じたのかを考えてみたい。 『増鏡』巻11「さしぐし」に、「皇后宮もこの頃は遊義門院と申す。法皇の御傍らにおはしましつるを、中院、いかなるたよりにか、ほのかに見奉らせ給ひて、いと忍びがたく思されければ、とかくたばかりて、ぬすみ奉らせ給ひて」と描かれているように、1294年6月28日、遊義門院は後深草院の御所から後宇多院のもとに移っているが、これは決して後宇多院が一方的に「ぬす」んだのではなく、明らかに遊義門院と示し合わせての行動である。 こんな行動は、それ以前に相当親密な関係が出来上がっていなければ取れるはずがないが、そもそも二人の間の関係が始まったのは何時かを考えると、『増鏡』巻10「老の波」の「北山准后九十賀」の記事に、姫宮(遊義門院)が「おはしますらんとおもほす間のとほりに、内の上、常に御目じりただならず、御心づかひして御目とどめ給ふ」とあるから、少なくとも1285年には溯るはずである。そして、この後宇多院の後宮の場面での「一条摂政殿の姫君も、当代、堀河の大臣の家に渡らせ給ひし頃、上臈に十六にて参り給ひて」という表現を見ると、☆子が16歳のころ、つまり1283年に注目しなさいよ、というサインが示されているように思われる。 ちょうどそのころ後宇多院と遊義門院の関係が始まり、もしかすると密会の場所が「堀河の大臣の家」だったのではないか。当時、両者の仲介役となったのが☆子と堀川基俊なのではないか。そして、堀川基俊が1289年に鎌倉に移ったあとは☆子のみが仲介役となり、後宇多院と☆子が「とかくたばかりて」(あれこれ謀って)、遊義門院の脱出を成功させたのではないか。 こう考えれば、二人の贈答歌が恋歌のようであって恋歌でないことが整合的に説明できる。また、遊義門院も、☆子を尚侍とし従三位に叙すること、また後宇多院と☆子の恋歌めいた贈答歌が勅撰和歌集に掲載されることに反発するはずがないことにもなる。 当時の政局の流れも含めて私の考え方を整理すると、私の仮説は次のようなものである。即ち、1283年ころ、☆子と堀川基俊を仲介者として後宇多天皇と姫宮(遊義門院)の関係が始まり、翌年には姫宮の妊娠が明らかになった。しかし、当時は後宇多天皇の在位が10年間も続いて、後深草院側としては早期の譲位を望み、亀山院側はこれに強く反発している微妙な時期であり、いずれの側にとっても後宇多天皇と姫宮との間に子供が生まれるであろうことは予想外の困った事件であり、その解決をめぐって一悶着があった。 そして、仲介役という形で堀川基俊が関与していたこともあって、基俊の父で、当時の政界の実力者である堀川基具が中心となって調整した結果、いったんは生まれた子の生母は基具の孫である基子とすることにしたが、その後も話し合いが続き、結局、生まれた子の出自が極めて高貴なことを示すため、1285年8月19日、姫宮が後宇多天皇の皇后宮に冊立された。関係者としては、これは「尊称皇后」の一変型のつもりだった。 後宇多天皇は、そうした形式的な取り扱いではなく、姫宮の現実の入内を望んでいたが、その後、1285年11月の霜月騒動を経て政治情勢は急速に流動化し、1287年10月に後宇多天皇は譲位を余儀なくされ、更に1290年3月に浅原事件が起こって亀山院・後宇多院側と後深草院・伏見天皇側の関係が決定的に冷え切り、普通の手段では後宇多院の望みがかなう可能性はなくなった。そこで追い詰められた後宇多院はやむを得ず強行突破を図ることとし、☆子を仲介役にして遊義門院と密接な連絡をとり、1294年6月28日、遊義門院を後深草院の御所から自らの冷泉万里小路殿に連れ出すことに成功した。 これにはさすがに温厚な後深草院も怒ったが、周囲の人々にとっては、この事件は日々の仕事や政争などを忘れさせてくれる「明るい話題」であり、浅原事件以来の政界のギスギスした空気にひとつの風穴を開けることになった。浅原事件に懲りておとなしくしていた亀山院は、こうした空気の変化を敏感にとらえて、後深草院側との関係を少しずつ修復して行った。 他方、伏見天皇は極めて意欲的な政治家であり、京極為兼を重用して政治の刷新を図っていたが、敵を作りやすい為兼の特異な性格もあって、幕府に少なからぬ懸念を抱かせるような状況となり、穏健な後深草院と伏見天皇との間に疎隔が目立つようになった。 そして1296年5月京極為兼失脚、ついで1298年1月、為兼が六波羅に逮捕され3月に佐渡に流されるに至って、伏見天皇も実質的に責任を問われることとなり、1298年7月22日、後伏見天皇への譲位を余儀なくされた。さらに翌8月9日には邦治親王(後二条天皇)が皇太子となったが、この一連の流れは伏見天皇には極めて不本意なものだった。 しかし伏見天皇に懸念を抱いていた後深草院にとっての受け止め方は異なった。この時期、後伏見天皇践祚、邦治親王立太子と並行して、4年前の遊義門院「拐取」問題の決着が図られており、『続史愚抄』7月1日条には、後深草院が東二条院をともなって後宇多院の御所を訪問し、夜が更けて還御するのを亀山院が車を立てて見送ってから後宇多院の御所に入った、との記事がある。また、後伏見天皇への譲位の3日後、7月25日には、後深草院・亀山院・後宇多院・遊義門院の四者が伏見殿で会合し、酒饌が供され、後宇多院から後深草院・亀山院に牛が献ぜられた、との記事も見られる。 こうした記事は、後深草院にとって後伏見天皇践祚、邦治親王立太子が必ずしも不本意なものではなかったことを感じさせる。そして邦治親王の実母が遊義門院だと仮定するならば、 邦治親王の立太子こそ、皇統の分裂を再統合するものとして、むしろ望ましいもののように思えたはずである。 従来、1298年の邦治親王(後二条天皇)立太子と、それに続く1301年の後二条天皇即位は大覚寺統の持明院統に対する勝利として捉えられてきたが、これは1304年の後深草院崩御と翌1305年の亀山院崩御の後に起こる持明院統・大覚寺統の極めて深刻な対立を過去に投影させている感があり、その当時の関係者の意識とは相当にずれがあるように思われる。 もちろん後二条天皇が、いったん生じた後深草院・亀山院間の対立を終息させ、新たな統合をもたらすものと期待されたのはごく短い期間に過ぎず、室町院領問題で早々に不信感が広がり、1303年の恒明親王誕生以降は亀山院と後宇多院の父子対立が加わって、状況は一層複雑になる。 ただ、亀山院が恒明親王を偏愛した理由も、後二条天皇の実母が遊義門院だと仮定すると、従来とは違った見方が可能になるように思われる。即ち、亀山院が、1303年に生まれたばかりで、皇位を受け継ぐに足る器量・資質があるかどうかも全くわからない恒明親王に尋常ならざる執着を見せたのは、最晩年の亀山院にとって、後二条天皇は自分の直系ではない中途半端な妥協的存在であり、純粋に自分の直系たる恒明親王に劣るように見えたからではないか、と思われるのである。 これは遊義門院を深く愛して、二人の間の子を、苦労に苦労を重ねて即位にまで持っていった後宇多院には本当に耐えがたい屈辱であり、それが恒明親王誕生までは極めて円滑だった亀山院への強い憎しみに変わって、後宇多院による亀山院の遺言の断固たる排撃につながったのではないか。亀山院の遺言を託されて、それを実現しようとした西園寺公衡は、後宇多院の心の中の最も繊細な部分に土足で踏み込んだのであり、それが1305年12月の後宇多院による勅勘、伊予・伊豆の知行国没収を含む極めて異例の厳しい処分の引き金になったのではないか。 いずれにせよ、1303年の時点では、まだ亀裂は表面化していなかった。☆子にとっては、かつて自分がとった冒険的行動は皇統の統合をもたらす結果になったのであり、後宇多院・遊義門院と共有している若き日の思い出は、彼女にとって大変な誇りであった。そして自分が果たした役割にふさわしい名誉ある地位を後宇多院に求め、後宇多院もそれに答えて、☆子に特別な縁のある後二条天皇の「尚侍」という名誉職を与え、従三位に叙したのではないか。 また、こうした後宇多院の配慮は、遊義門院を含む周囲の人々に微笑をもって迎えられ、後宇多院と☆子との間の恋歌のようで恋歌ではない贈答歌は、いかにも上流貴族社会にふさわしい洗練されたユーモアに満ちた優美な歌として『新後撰集』に入れられたのではないか。 以上の仮説が正しいとすると、堀川基子の処遇についても合理的な説明が可能となる。つまり基子は1285年当時の政治的事情によりいったんは後二条天皇実母とされたが、その後の事情の変化、とくに1294年に遊義門院が後宇多院のもとに移ったことにより、本当に形式的な存在であることが誰の目にも明らかになってしまった。しかも遊義門院が極めて誇り高い女性であるので、後宇多院は遊義門院に気兼ねして、基子に対する叙位などはできなかったのではないか。 1308年に後二条天皇が亡くなると、後宇多院の意向により、基子にはごく短期間に従三位授与、准三宮・院号宣下がなされて天皇の「生母」にふさわしい地位と名誉を与えられることになったが、私には、この基子に対する突然の待遇の変化は、その前年に遊義門院が亡くなっていたからこそ可能になったのであり、基子に対する後宇多院の謝罪の気持ちの現れなのではないかと思われる。 遊義門院が華やかで誇り高い日向の女性だとすれば、基子(西華門院)は、太政大臣の孫という恵まれた出自にもかかわらず、奇妙な政治の渦に巻き込まれ、遊義門院に遠慮しながらひっそりと生きねばならなかった、気の毒な日蔭の女性だったのではないかと私は考える。 |
