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『増鏡』 第十三「秋のみ山」 近衛家平の他界






原文

 その後、幾程なく右大臣殿の御父君、前関白殿家平御悩み重くなり給ひて、御髪(ぐし)おろす。にはかなれば、殿の内の人々いみじう思ひ騒ぐ。大方(おほかた)、若くてぞ少し女にも睦(むつ)ましくおはしまして、この右大臣殿などもいでき給ひける。中ごろよりは男をのみ御傍らに臥せ給ひて、法師の児(ちご)のやうに語らひ給ひつつ、ひとわたりづつ、いと花やかに時めかし給ふ事、けしからざりき。

 左兵衛督(さひやうゑのかみ)忠朝(ただとも)といふ人も限りなく御おぼえにて、七、八年が程、いとめでたかりし。時過ぎてその後は成定といふ諸大夫(しよだいふ)いみじかりき。このころはまた隠岐守頼基(よりもと)といふもの、童(わらは)なりし程より、いたくまとはし給ひて、昨日今日までの御召人(めしうど)なれば御髪おろすにも、やがて御供つかうまつりけり。

 病ひ重らせ給ふ程も、よるひる御傍(かたは)らはなたずつかはせ給ふ。すでに限りになり給へる時、この入道も御後ろにさぶらふに、よりかかりながら、きと御覧じ返して、「あはれ、もろともにいで行く道ならば嬉しかりなん」とのたまひも果てぬに、御息とまりぬ。右大臣殿も御前にさぶらはせ給ふ。かくいみじき御気色(けしき)にて果て給ひぬるを、心うしと思されけり。

 さてその後、かの頼基入道も病ひつきて、あと枕も知らずまどひながら、常は人にかしこまる気色にて、衣ひきかけなどしつつ「やがて参り侍る、参り侍る」とひとりごちつつ、程なく失(う)せぬ。粟田(あはた)の関白の隠れ給ひにし後、「夢見ず」と嘆きし者の心ちぞする。故殿のさばかり思(おぼ)されたりしかば、めしとりたるなめり、とぞいみじがりあへりし。




井上宗雄氏の現代語訳
私の立場からの補足


 その後いくらもたたぬうちに、右大臣経忠公の御父君前関白家平公が、御病気が重くなられて剃髪(ていはつ)された。急のことなので、殿の内の人々はたいへん心配し騒いだ。だいたい家平公は若いころはすこしは女性にも親しくなさって、この右大臣経忠公などもおできになった。が、中年からは男性をばかりおそばにお寝かしになって、法師が稚児を愛するようにねんごろに(契り)なさって、一度ずつはたいそう花やかにひきたてなさること、常軌を外れていたことであった。



近衛経忠(1302〜1352.51歳)は「(中略)元徳2年(1330)正月、左大臣を超え関白となる。同年閏6月、従一位に昇叙せられる。同年8月、関白を止められる。正慶2・元弘3年(1333)5月17日、光厳天皇廃位にともなって右大臣に任ぜられようとしたが、これを受けず、翌年2月、改めて右大臣に任ぜられ同時に氏長者となった。同年10月、官および氏長者を辞す。建武2年(1335)11月、左大臣・氏長者となり、翌年8月光明天皇即位とともに関白となる。しかし、翌建武4・延元2年4月吉野に出奔し南朝に属し、左大臣に任ぜられた。文和元・正平7年(1352)8月12日、賀名生(あのう)で出家し、翌日没した」(『鎌倉・室町人名事典』棚橋光男氏)という、波瀾に満ちた人生を送った人物である。この家平他界の場面は、1324年、経忠がまだ24歳で、右大臣に昇進したばかりの時期の話である。

近衛家平(1282〜1324.43歳)。父は関白近衛家基、母は鷹司兼平の娘。1313年7月、関白・氏の長者となり、1315年9月に辞す。『徒然草』第66段にも登場するが、『徒然草』では、有職故実を知る家人と、それを尊重する近衛家平との細やかな交流が描かれており、『徒然草』の近衛家平に対する態度は『増鏡』と対照的に極めて好意的である。なお、五味文彦氏は、『「徒然草」の歴史学』p.111において、近衛家平と随身との間には「男色関係という伏線があったに違いない」と述べておられるが、全く賛成できない。この点は『徒然草』第66段のところで少し検討した。
「粟田関白」とは、995年、念願の関白・氏長者となったものの、その直後に亡くなって、世人から「七日関白」と言われた藤原道兼(961〜995.35歳)のこと。
 左兵衛督(さひょうえのかみ)忠朝(ただとも)などいう人も、限りない御寵愛で、七、八年間は全盛であった。忠朝の盛りが過ぎてその後は、成定という諸大夫の寵愛が大変なものであった。このごろではまた隠岐守(おきのかみ)頼基という者が、童形(どうぎょう.少年)であった時から、いつもそばを離れさせずかわいがられて現在に至るまでの愛人なので、御出家のおりにもすぐ(頼基は)お供申し上げ(て剃髪し)た。

 病気が重くなられたころ、夜も昼もおそばから離さずお使いになる。もはや臨終になられたとき、この入道頼基も御後ろに侍していると、家平公はそれによりかかりながら、きっとそちら(後ろ)を御覧になって、「ああ、おまえといっしよに行かれる(あの世への)道であったらうれしかろうのに」と仰せられて、その言葉がまだ終らぬうちに御息が絶えた。右大臣経忠公も御前に侍しておられて、このように情けない御様子でなくなったのを、憂鬱にお思いになつた。

 さて、そののち、あの頼基入道も病気になって、前後不覚に苦しみながら、いつも人にかしこまっている様子で、衣をかけたりなどしては、「すぐ参ります、参ります」とひとりごとを言い言い、まもなく死んでしまった。昔、粟田関白道兼公がなくなられた後、「夢にもお会いできない」と嘆いた者の気持がする。故家平公がそれほど愛しておられたので、あの世から迎えとつたのだろう、と(人々は〉恐ろしがったのであった。









補論

 『増鏡』の中には、四鏡の掉尾を飾る歴史物語にはふさわしくない、随分変な愛欲話が大量に出てくるが、その中でも、この近衛家平の男色話は、不気味な後日談を含め、とびきり変なものである。

 平泉澄博士の門下生で、皇国史観の旗手の一人、平田俊春氏などは、『増鏡』の著者が、「国体を自覚し、歴史の正しき批判をなし得る立場に立ち得た」ことを高く評価し、「承久の変、又保元・平治の乱について、武家の全盛時代に、又名分の乱れた時代にかくも見事な批判を下し得たもの、当時に於いて幾何あつたであらうか。著者は当時に於いてかくの如き識見を有ち、かくの如き秀れた立場に立つてゐたのである。こゝに我々は鏡としての歴史の反省が、大鏡、水鏡、今鏡と数多くこれ以前にあらはれてをりながら、実は増鏡に至つて初めて真の鏡の出現を見るに至つたとしなければならないのである」(「増鏡の成立に関する一考察」)とまで絶賛されるのであるが、果たして平田俊春氏は、『増鏡』に大量に含まれる愛欲話をどのように理解していたのであろうか。

 多分、全く理解不能、見るのも汚らわしいという感覚で、思考を放棄していたのだろうと思われるが、皇国史観にすら利用可能な透徹した歴史観と、奇怪な愛欲話を好む習癖とが、一人の人物において、まったく違和感なく同居していたことを率直に認めなければ『増鏡』を総合的に理解することはできないのであって、こういう変な話も、それなりにきちんと分析しなければならないはずである。

 まあ、私は『増鏡』の作者を後深草院二条と考えるので、この種の話はいかにも二条好みであり、『とはずがたり』における「近衛大殿」関係の濃厚な話二条が嵯峨殿で後深草院・亀山院の傍らに宿直した話などに較べれば、こんなのはまだまだ序の口で、二条ならいくらでも書けるだろうなあ、という簡単な感想しか浮かんでこないのであるが、それ以外に気づいた点がひとつある。それは、この場面と『とはずがたり』の雅忠臨終の場面との類似性である。『とはずがたり』巻一には次のような記述がある。

 そのうちに父は、「もはや最期と思うから起こしてくれ」といって、仲光−というのは仲綱の嫡子であるが、幼いときから父が養育して、いつも側近くはなさず使われていた−を呼んで、起させて、そのまま父のうしろに居させ、寄り掛かりの前に女房一人よりほかはだれもいない。私は父の側にいたところ、父は「手首をとらえてくれ」といわれる。つかんでいると、「聖のくださった袈裟は」と持ってこさせ、長絹の直垂の上だけを着、その上に袈裟をかけて、「念仏も仲光も申せ」といって、二人して、一時間ばかり念仏を唱えられた。
 朝日が少しさし出るころに、父はちょっと眠って、左の方へ傾くようにみえたのを、なおよく目をさまさせて、念仏を唱えさせてあげようと思って膝を動かしたところ、父はふと目をさまして目を見上げると、ぴったりと私と視線があった。そのとき、「何となることだろうな」と言いも終らず、文永九年八月三日、午前八時ごろ、年五十でお亡くなりになった。(次田香澄氏訳)

 私は、この場面をはじめて読んだとき、「いつも側近くはなさず使われていた」仲光を、雅忠が「呼んで、起させて、そのまま父のうしろに居させ」、仲光と「二人して、一時間ばかり念仏を唱えられた」という様子が、何だか非常に気色悪い感じがしたのだが、改めて『増鏡』と比較してみると、子供を前にして、臨終を迎えた主人とその若い家司がぴったりと寄り添っているという構図は、近衛経忠・家平・頼基入道のそれと全く同じである。また、「きとおどろきて目を見あぐるに」(『とはずがたり』)と「「きと御覧じ返して」(『増鏡』)という表現も大変良く似ている。

 どうも私には、この雅忠臨終の場面は雅忠と仲光との男色関係を暗示しているように思われる。そして、二条自身に、父が「情けない御様子でなくなったのを、憂鬱に」思った経験があったのではないか、という感じがするのである。

 殆どの国文学者は、二条の父に対する深い愛情に感動しているようであるが、私は二条にそのような素朴な感情があったのか、疑問に思っている。その根拠のひとつは、父が発病した際の記述に、「さしも一夜もあだには寝じとするに、さやうのこともかけてもなく、酒などの遊びもかたえなきゆゑにや」(あんなに一夜も女なしでは寝まいというくらいだったのに、そのようなこともすっかりなくなり、酒宴などの遊びも絶えてなくなった)とあることである。

 二条は極めて自己中心的な人間である。自分が宮廷に留まって、きちんとした地位を得ることができなかったのは、東二条院の嫉妬、後深草院の優柔不断、そして祖父四条隆親の横暴のせいであり、自分は常に正しいのだ、というのが二条の基本的な考え方である。

 そういう自己中心的な二条が、「さしも一夜もあだには寝じとするに、さやうのこともかけてもなく、酒などの遊びもかたえなき」という父親に、素朴な愛情を抱いていたとは思えない。むしろ、あんたがしっかりしていないから私は女御にすらなれないのよ、と不満を感じていたのではなかろうか。政治的実力が乏しくて、遊興に走り、自分をきちんと応援してくれない父に、軽蔑すら感じていたと見る方が自然のように思われる。

 仮に雅忠と仲光が男色関係にあったとしても、それを娘が描くのは普通ではないが、非常に微妙な書き方である上に、二条の父に対する感情にはかなり屈折した部分があるので、二条ならやってもおかしくはないように私は思う。そもそも、たとえ「さしも一夜もあだには寝じとするに、さやうのこともかけてもなく、酒などの遊びもかたえなき」という事実が父親あったとしても、それを娘が書くこと自体、かなり変なのであり、二条は基本的に変な女なのである。

 



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