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『増鏡』巻16.「久米のさら山」.日野資名の昇進、光厳天皇の後宮




原文


 さても日野の大納言俊光といひしは、文保のころ初めて大納言になりにしを、いみじきことに時の人いひ騒ぐめりしに、その子このころ院の執権にて資名といふ、また大納言になりぬ。めでたく度(たび)をさへ重ねぬる、いといみじかめり。前(さき)の御代にも、定房一品(いつぽん)し、宣房大納言になされなどせしをば、かうざまにぞ人思ひいふめりし。

 内には女御もいまださぶらひ給はぬに、西園寺の故内大臣殿の姫君、広義門院の御傍らに今御方とかや聞えてかしづかれ給ふを、参らせ奉り給へれば、これや后がね、と世人もまだきにめでたく思へれど、いかなるにか、御覚えいとあざやかならぬぞ口惜しき。三条前大納言公秀の女、三条とてさぶらはるる御腹にぞ、宮々あまたいでものし給ひぬる、つひのまうけの君にてこそおはしますめれ。



井上宗雄の現代語訳

私の立場からの補足

 さてさて、日野大納言俊光といった人は、文保のころ(この家としては)初めて大納言になったのを、たいへんなこと(破格の栄進)と時の人々はいい騒いだようだが、その子で、このごろ院の執権をしている資名という者が、また大納言になった。めでたく(父子二代)度重ねての昇進は、たいへんすばらしいことであるようだ。

 前代、後醍醐天皇の御代にも、定房が一位となり、宣房が大納言になされなどしたのを、このように破格だと人々は思いもし、言いもしたようである。

 光厳天皇には女御もまだいらっしゃらないので、西園寺の故大納言実衡公の姫君で、広義門院のおそばに、今御方とか申して、だいじに育てられている方を、(後宮として)さし上げられたので、この方が(ゆくゆく)お后になられる方かと、世人も早いうちから結構なことだと思っていたが、どういうわけか、御寵愛のあまりぱっとしないのが残念である。三条大納言公秀の娘三条といって仕えていられる方の御腹に、宮々がたくさんお生まれになったのだがその方が結局は皇太子になられるようである。
日野俊光(1260〜1326.67歳)は伏見上皇(1265〜1317.53歳)の側近。文保元年(1317)権大納言となった。

日野資名(1286〜1338.53歳)は「正慶二(1333年)、六波羅が陥落して光厳天皇が京都を脱出すると、坊城俊実とともにあくまでこれに供奉し、近江番場宿で出家した。やがて足利尊氏が後醍醐天皇に叛旗をひるがえすと、弟三宝院賢俊と画策して尊氏と光厳天皇の仲をとりもっている。持明院統に尽くした資名の功績は群を抜いており、このことが室町時代の日野氏の隆盛をもたらした。なお、資名の弟の資朝は後醍醐天皇の腹心であり、同じく弟の浄俊は護良親王の側近である。動乱の中で誰が権力の座についても日野家は生き残るのであり、同家のしたたかさを見る思いである。」(本郷和人氏『中世朝廷訴訟の研究』p259)

吉田定房(1274〜1338.65歳)
万里小路宣房(1258〜?)は「正中の変(1324)に際しては後醍醐天皇の嫌疑を晴らすため勅使として鎌倉に下向。交渉成功の功により帰京直後、いっきょに権大納言に昇進した。また元徳三・元弘元年(1331)八月二十五日には元弘の乱に縁座した疑いで六波羅探題により囚われの身となるが、翌年四月宥免されている」(並木優記氏.『鎌倉・室町人名事典』)
光厳天皇(1313〜1364.52歳)は後伏見天皇(1288〜1336.49歳)の子、母は広義門院。
西園寺実衡(1290〜1326.37歳)は公衡の子、実兼の孫。『徒然草』第152段に、日野資朝に嘲弄される極めて情けない人物として描かれており、兼好法師の西園寺家に対する態度を考える上で興味深い。
広義門院(1292〜1357.66歳)は西園寺公衡の娘、実衡の異母妹。



「三条前大納言公秀の女、三条」について


 この「三条前大納言公秀の女、三条」に関する記述は、『増鏡』の成立年代を考える上で極めて重要な部分である。井上宗雄氏の「解説」によれば、

末尾の「三条前大納言」以下の一文は、公秀女に複数の皇子が生まれてこと、少なくともその内の一人が立太子したことなどを、『増鏡』の作者が知っていることを示したものである。すなわち『増鏡』は弥仁親王出生の暦応元年三月、興仁親王立坊の同年八月以後の成立である、ということになるのであろう(和田英松・宮内三二郎)。

ということになる。

 「三条前大納言公秀の女、三条」は1311年生れで、没年の1352年、42歳のときに陽禄門院の院号を受けた女性であり、北朝第3代の崇光天皇(興仁親王.1334〜1398.65歳)、北朝第4代の後光厳天皇(弥仁親王.1338〜1374.37歳)の母である。

 『増鏡』自体は1333年6月、護良親王が四条隆資らとともに京に入ったことを最終記事としているが、この「三条前大納言公秀の女、三条」に関する記述によって、後光厳天皇(弥仁親王)が生まれ、崇光天皇(興仁親王)が皇太子となった1338年以降に成立した、というのは一応もっともな推定である。

 ただ、改めて考えてみると、次のような素朴な疑問が浮かんでくる。

(1)1338年の出来事を知っているならば、なぜ1333年6月を区切りとしてしまって、その時以降の様々な出来事を書かないのか、なぜ1338年の後光厳天皇(弥仁親王)誕生と崇光天皇(興仁親王)の立坊のみを、何かほのめかすような奇妙な形で記すのみで、それ以外の重大事件を記述しないのか。

(2)1338年8月に皇太子となった崇光天皇(興仁親王)は10年後の1348年10月27日に践祚しているから、この記述は『増鏡』の作者が崇光天皇の践祚を知らないことの証拠になるのではないか。

(3)「三条前大納言公秀の女、三条」は1352年10月に陽禄門院の院号を受け、同年11月28日に没しているから、この記述は作者が陽禄門院の院号宣下とその死を知らないことの証拠になるのではないか。陽禄門院の院号宣下を知っているのであれば、同じ段落に出てくる広義門院(1309年に院号宣下を受けている)と同じように陽禄門院の女院号で呼ぶか、あるいはその旨の何らかの注記をするはずではないか。

 以上のうち、特に重要なのは(1)である。1333年6月から1338年8月までの間には、後醍醐天皇による急激な政治改革とその失敗、護良親王と足利尊氏の対立激化、1334年10月の護良親王逮捕、1335年6月の西園寺公宗らによる後醍醐帝暗殺計画の発覚、同年7月の中先代の乱とそれに伴う足利直義の護良親王殺害、同年11月以降の足利尊氏と新田義貞の全面的対立、1336年1月の足利尊氏入京と西海への敗走、同年3月多々良浜での勝利による尊氏の再起、同年5月湊川の戦いでの楠木正成の戦死、同年6月の光明天皇の践祚、同年12月の後醍醐天皇の吉野への脱出、1337年3月の越前金ヶ崎城陥落と尊良親王の自決、同年8月以降の北畠顕家の再西上と翌1338年5月の和泉堺浦での敗死、同年閏7月の越前藤島での新田義貞の戦死など、重要な事件が次々に生じているのに、『増鏡』の作者はこれら一切を無視して、なぜ1338年の後光厳天皇(弥仁親王)誕生と崇光天皇(興仁親王)の立坊のみを、妙に不自然な、何かほのめかすよう形で記すのか。

 仮に『増鏡』の作者が、建武の新政以降の混乱を描くのが嫌で、後醍醐天皇による討幕と新政府の誕生という栄光の側面だけを描きたかったのであれば、なぜ1333年6月で『増鏡』を完全に終わらせなかったのか。1338年の北朝の光厳天皇(弥仁親王)誕生と崇光天皇(興仁親王)の立坊という、いわば不純物を何故追加したのか。

 従来の学説は、そもそも私のような問題意識を全然抱いていないので、当然のことながら何ら検討はなされていないのであるが、少なくとも二条良基(1320〜1388.69歳)や洞院公賢(1291〜1360.70歳)を『増鏡』の作者とする立場からは、これらの問題について、きちんとした根拠にもとづく合理的な説明をすることは極めて困難であるように思われる。

 以上の問題についての私の考え方は次の通りである。

@『増鏡』は1258年に生まれ、1333年の時点では76歳になっていた女性が、後醍醐天皇による新しい政治に多大の期待を寄せて執筆した作品であり、1333年6月の時点では殆ど完成していた。

Aしかし、その後の政治情勢の急展開は、およそ後醍醐天皇に期待をしていた多くの人々を裏切る惨憺たるものであり、『増鏡』の作者たる女性自身にとってすら、後醍醐を高く評価した部分は、極めて腹立たしいものになっていた。

Bただ、事態は依然として流動的であって、統一的な視点から『増鏡』を書き直すことは実際上不可能であり、また作者にとって『増鏡』の完成度があまりに高いものだったので、作者の心情としても『増鏡』の書き直しは極めて困難だった。

Cそのために、作者は1336年6月以降の出来事についての追加を断念し、作品の完璧性を維持しつつ、後醍醐天皇に対する軽蔑を表現するために、巻15「むら時雨」の北山御幸の記事において、後醍醐帝の歌の上の句を削除して「この上、忘れはべる。後に見出してぞ」という奇妙な一文を付け加えた。(この点についてはこちら。)

Dそしてそのごくわずかな変更を行った時点は、おそらく1338年8月の興仁親王(崇光天皇)立坊の直後であり、作者はそれを巻16「久米のさら山」の末尾に記録した。「三条前大納言公秀の女、三条とてさぶらはるる御腹にぞ、宮々あまたいでものし給ひぬる、つひのまうけの君にてこそおはしますめれ」がその記録であり、「三条前大納言公秀の女、三条」と「三条」を繰り返すことは、自らを「三条」という名前で『増鏡』に登場させた作者にとって、分かる人にだけ分かってもらえればいい特別なサインだった。

E1338年の時点で、『増鏡』の著者たる女性は81歳であり、それ以降いつまで生存したかは『増鏡』のみからは判断できない。ただ、年齢からみて1348年の崇光天皇(興仁親王)の践祚、1352年の陽禄門院の院号宣下は知らなかった可能性が高い。

Fなお、1258年生まれということは後醍醐天皇の側近として活躍した万里小路宣房と同年の生まれであり、宣房の活躍ぶりと比較しただけでも、後深草院二条を『増鏡』の執筆者とすることに何の支障もない。





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