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| 原文 源中納言具行も、同じころ東(あづま)へ率(ゐ)て行く。あまたの中に、とりわきて重かるべく聞ゆるは、さま異なる罪に当たるべきにやあらん。内にさぶらひし勾当(こうたう)の内侍は、つねすけの三位女なりき。早う御門むつまじくおはしまして、姫宮などもとうで奉りしを、そののちこの中納言いまだ下臈(げらふ)なりし時より、ゆるし給はせて、この年ごろ二つなきものと思ひかはして過ぐしつるに、かくさまざまにつけて、あさましき世を、なべてにやは。 日にそへて嘆き沈みながらも、同じ都にありと聞く程は、吹きかふ風のたよりにも、さすがこととふ慰めもありつるを、つひにさるべきこととは、人の上を見聞くにつけても、思ひまうけながら、なほ今はと聞く心地、たとへんかたなし。この春、君の都別れ給ひしに、そこら尽きぬと思ひし涙も、げに残りありけり、と今ひとしほ身も流れ出でぬべく覚(おぼ)ゆ。 中納言は、「ものにもがなや」とくやしき事のみぞ、そこには千々にくだくめれど、めめしう人に見えじと思ひかへしつつ、つれなしづくりて、思ひ入れぬさまなり。去年(こぞ)の冬ごろ、あまた聞えし歌の中に、 ながらへて身はいたづらにはつ霜の置くかた知らぬ世にもふるかな 今ははやいかになりぬるうき身ぞと同じ世にだにとふ人もなし |
| 井上宗雄氏の現代語訳 | 私の立場からの補足 | |
源中納言具行(ともゆき)も同じごろ東国へ護送して行く。多くの人々の中に、とりわけ罪が重いであろうとうわさされているのは、(他の人々とは違った)重刑に処せられるのであろうか。宮中に仕えていた勾当内侍(こうとうのないし)は、つねすけの三位の娘であった。かつて天皇が御寵愛なさって姫宮なども産み申しあげたのを、その後、この具行中納言がまだ官の低かった時にお与えになって、この年ごろおたがいにまたとない者に思い合って(仲よく)過ごして来たのに、このようにいろいろなことにつけて情けない世を、ふだんの平静な気持でいられようか(いられはしない)。 |
北畠具行は村上源氏で、北畠親房とは下図の関係にある。なお、北畠家の祖である北畠雅家(1215〜1274.60歳)は、二条の父雅忠の従兄弟にあたる。
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| 日がたつにつれて嘆き沈みながらも(具行が)同じ都にいると聞くうちは、吹き通う風の便り(のようなうわさ)によってでも、それでも(夫の)様子をうかがい知る慰めもあったのだが、結局は、そのようなこと(流罪)になるであろうとは、他人の身の上を見たり聞いたりするにつけても、覚悟はしていながら、やはり今はいよいよ(都を離れるのだ)と聞く気持は、たとえようもなく悲しい。この春、後醍醐天皇が都をお離れになった折、たくさん流して、もう尽きてしまったと思っていた涙も、ほんとうにまだ残りがあった、と今いっそう涙がこぼれて、わが身もそのため流れ出てしまいそうに思われる。 | ||
中納言は、「もとの昔を取り返せればよいなあ」と後悔することばかり、心の底ではいろいろ思い悩むようだが、(人から)女々しくは見られまい、と思いかえし、平気なふうを装って、思いつめない様子である。去年の冬ごろ、多く世に知られている歌の中に、
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| 補説(というほどでもないが) 私は、去年(平成9年)8月、北畠具行が斬られた柏原を訪ねてみたのであるが、柏原宿から程近い、小高い山の山頂付近にある北畠具行の墓(宝篋印塔)の傍らには、滋賀県教育委員会によって掲示板が立てられ、そこには次のような説明がなされていた。
しかし、これはちょっと変であって、北畠具行は「正中の変(1324)の中心人物」ではない。正中の変の中心人物は日野資朝と日野俊基であり、両者は六波羅探題によって捕えられ鎌倉に送られた後、資朝は佐渡に配流され、俊基は赦されて京に戻った。 一方、北畠具行は正中の変では幕府のとがめを受けることはなく、正中の変後も順調に出世している。北畠具行は、あくまで「元弘の変(1331)の中心人物」に過ぎないのである。 滋賀県教育委員会には、誰かがきちんと歴史教育をしてあげなければならないようである。 |
