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『増鏡』巻16.「久米のさら山」.源具行の処刑(一)




原文


 源中納言具行も、同じころ東(あづま)へ率(ゐ)て行く。あまたの中に、とりわきて重かるべく聞ゆるは、さま異なる罪に当たるべきにやあらん。内にさぶらひし勾当(こうたう)の内侍は、つねすけの三位女なりき。早う御門むつまじくおはしまして、姫宮などもとうで奉りしを、そののちこの中納言いまだ下臈(げらふ)なりし時より、ゆるし給はせて、この年ごろ二つなきものと思ひかはして過ぐしつるに、かくさまざまにつけて、あさましき世を、なべてにやは。

 日にそへて嘆き沈みながらも、同じ都にありと聞く程は、吹きかふ風のたよりにも、さすがこととふ慰めもありつるを、つひにさるべきこととは、人の上を見聞くにつけても、思ひまうけながら、なほ今はと聞く心地、たとへんかたなし。この春、君の都別れ給ひしに、そこら尽きぬと思ひし涙も、げに残りありけり、と今ひとしほ身も流れ出でぬべく覚(おぼ)ゆ。

 中納言は、「ものにもがなや」とくやしき事のみぞ、そこには千々にくだくめれど、めめしう人に見えじと思ひかへしつつ、つれなしづくりて、思ひ入れぬさまなり。去年(こぞ)の冬ごろ、あまた聞えし歌の中に、

  ながらへて身はいたづらにはつ霜の置くかた知らぬ世にもふるかな
  今ははやいかになりぬるうき身ぞと同じ世にだにとふ人もなし



井上宗雄氏の現代語訳 私の立場からの補足


 源中納言具行(ともゆき)も同じごろ東国へ護送して行く。多くの人々の中に、とりわけ罪が重いであろうとうわさされているのは、(他の人々とは違った)重刑に処せられるのであろうか。宮中に仕えていた勾当内侍(こうとうのないし)は、つねすけの三位の娘であった。かつて天皇が御寵愛なさって姫宮なども産み申しあげたのを、その後、この具行中納言がまだ官の低かった時にお与えになって、この年ごろおたがいにまたとない者に思い合って(仲よく)過ごして来たのに、このようにいろいろなことにつけて情けない世を、ふだんの平静な気持でいられようか(いられはしない)。



1331年、後醍醐天皇の討幕計画が洩れて天皇は笠置へ逃れたが、結局幕府側に捕えられた。翌1332年、まず後醍醐天皇・尊良親王・尊澄法親王がそれぞれ隠岐・土佐・讃岐に流され、ついで後醍醐側近のうち、平成輔(1291〜1332.42歳)・日野俊基(?〜1332)・北畠具行(1290〜1332.43歳)の3人と、既に正中の変(1324)の責めを負って佐渡に流されていた日野資朝(1290〜1332.43歳)の計4人が処刑された。
 北畠具行は村上源氏で、北畠親房とは下図の関係にある。なお、北畠家の祖である北畠雅家(1215〜1274.60歳)は、二条の父雅忠の従兄弟にあたる。

雅家−師親−師重−親房
  │
  └師行−具行





元弘の変後の後醍醐側近処分に関し、『増鏡』は、岩波日本古典文学大系新装版で合計68行を費やしている。その内訳を見ると、洞院公敏(下野へ流罪)4行、花山院師賢(下総へ流罪)8行、万里小路藤房(常陸へ流罪)・万里小路季房(下野へ流罪)・平成輔(処刑)の3人まとめて4行、日野資朝・日野俊基(ともに処刑)の2人で6行、以上7人で計22行なのに対し、残りの46行は北畠具行に費やされている。つまり8人に関する話のうち、実に3分の2が北畠具行の話で占められているのであり、随分ひどい依怙贔屓のようにも思われる。
 日がたつにつれて嘆き沈みながらも(具行が)同じ都にいると聞くうちは、吹き通う風の便り(のようなうわさ)によってでも、それでも(夫の)様子をうかがい知る慰めもあったのだが、結局は、そのようなこと(流罪)になるであろうとは、他人の身の上を見たり聞いたりするにつけても、覚悟はしていながら、やはり今はいよいよ(都を離れるのだ)と聞く気持は、たとえようもなく悲しい。この春、後醍醐天皇が都をお離れになった折、たくさん流して、もう尽きてしまったと思っていた涙も、ほんとうにまだ残りがあった、と今いっそう涙がこぼれて、わが身もそのため流れ出てしまいそうに思われる。

 中納言は、「もとの昔を取り返せればよいなあ」と後悔することばかり、心の底ではいろいろ思い悩むようだが、(人から)女々しくは見られまい、と思いかえし、平気なふうを装って、思いつめない様子である。去年の冬ごろ、多く世に知られている歌の中に、

このように生き長らえて、やがて身はむなしく果ててしまうのだろうが、たとえば初霜のように、身の置き所もなく(わぴしく)世に過ごしていることよ。

今ではもう、どうなってしまったのか、とつらいわが身のことを、同じこの世でさえ、尋ねてくれる人もいない。



補説(というほどでもないが)


 私は、去年(平成9年)8月、北畠具行が斬られた柏原を訪ねてみたのであるが、柏原宿から程近い、小高い山の山頂付近にある北畠具行の墓(宝篋印塔)の傍らには、滋賀県教育委員会によって掲示板が立てられ、そこには次のような説明がなされていた。

 史跡北畠具行墓

 権中納言北畠具行卿(正応三年.1290〜元弘二年.1332)は、後醍醐天皇の側近として同天皇が鎌倉幕府討伐を計画した正中の変(1324)の中心人物であった。
 しかし、この計画は失敗に終わり、具行は幕府に捕えられ、鎌倉に護送される途中、護送人であった佐々木京極道誉(京極氏第五世高氏)の助命嘆願も及ばず、幕府の厳命により、元弘二年六月十九日、当地にてその生涯を閉じた。
 この宝篋印塔は砂岩製で、総高2.04メートルあり、斬首の年から十六年後に建立したという陰刻名(貞和三丁亥十一月二十六日)がある。(以下略)
平成3年3月 滋賀県教育委員会

 しかし、これはちょっと変であって、北畠具行は「正中の変(1324)の中心人物」ではない。正中の変の中心人物は日野資朝と日野俊基であり、両者は六波羅探題によって捕えられ鎌倉に送られた後、資朝は佐渡に配流され、俊基は赦されて京に戻った。
 一方、北畠具行は正中の変では幕府のとがめを受けることはなく、正中の変後も順調に出世している。北畠具行は、あくまで「元弘の変(1331)の中心人物」に過ぎないのである。
 滋賀県教育委員会には、誰かがきちんと歴史教育をしてあげなければならないようである。
 



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